東天アパート

第三章 これからの眺め( 3 / 3 )


小山なずさの脳神経が、思いもしない回路で発火した。大体人間の意識は、回路に左右されているのだから無理も無かった。神経たちにしろ、何らかの目的があって伝達物質を光速でやり取りしているのでもあるまい。ある環境で肉体が同じような効率で生き延びていけば自ずと回路は太くなる。通行量の多い幹線道路だ。
現在の幹線道路では、個人で何が出来るものか、政府や役人や行政が悪い、という通念が普通横行している。個人では何もできないと。しかし小山なずさは、ずたずたの道路を、しかも脇道を高速で走っていたので、つっと路地に入り込んだ、という感じだ。
小山に高次の存在を信じるかけらでもあれば、天からの啓示とでも思っただろうか。
「そうっか。あれは言い訳だったんだワ。一人でもいいやん、たった一人ずつでも手を取り合って歩いて行けたら」

よし、もっと体力をつけよう、と小山が決意したその日に、母親の大野みずさが訪れた。
いつもの眉間の皺がなく動作が軽々していた。ふと、母の愛が感じられた。私のためにこの人喜んでいる。
「なっちゃん、元気そうじゃない。今日ね、ほら見て、食料と衣類と化粧品と、サプリメント、薬、と、」
と、次々に取り出した。かってないほどの量を運んできたらしい。並べて得意そうに笑顔で小山を見た。最後に写真を二枚出した。
小山は瞬時にあらゆる想像をしたが、見当もつかなかった。
手に取って見ると、顔がぼかしてある写真だった。家族写真らしい。子供が二人いる。普通の居間で楽しげに体を寄せ合っている。もう一枚には小さいほうの子供がひとり写っていた。これも顔に加工が施してある。しかし顔中で幸せを信じて笑っているその口元が少しばかり見えた。きれいな大人の歯が二枚揃いはじめた、可愛らしい女の子だ。


小山なずさは涙をほろほろとこぼした。わが子だった。こんなにも愛らしい子を失ったのだ。小山に人間の欲が本能のままにふつふつと沸いた。
「なっちゃん!」
と、大野みずさは自分も泣きながら、わが娘の手に自分の手を重ねた。
「ママもなっちゃんを失って悲しかった。でも今は会うことできて嬉しい」
「あの子は幸せ?」
「そうよ、実の子として幸せに」
「私は幸せとは言えなかったんよ」
「わかってる。でもいつもそばにいたのよ、ママは。学校にも大学にも寮にも、下宿にもどこにだって」
「わかってた。手紙もくれたよね」
小山なずさの父親が、心を閉ざすタイプだったのが理由だったのかどうか知らないが、そこから飛び出して再婚した母のみずさは、それ以来、なずさと接触するのに異常にこそこそした態度をとるようになった。そんな態度にかえって苦しめられた。母親の気持ちを思いやったことは一度もなかった。
それでも小山なずさは、母親と暮らしたかった。だから憎んだ。しかしかりなは違う。さびしい。しかしそれがかりなの幸福なのだ。大人になれば、また会えるようになるかもしれないから、と母と娘は慰めあった。かりなの写真を長いこと眺めた。どう見ても心から幸せそうだった。

とりあえず食べよう。
カイコさんもいれて三人で町のレストランにくり出した。どこかのチェーン店ではなく、地元の素材で素朴においしく作ってある。三人とももりもり食べた。母親が食べているのを何十年ぶりに見たのだろう。こんな食べ方をする人だったんだ、と小山は観察せざるを得なかった。大野みずさも娘を見つめつつ食べた。カイコさんも楽しげにウンウンと頷きながら堪能しているのが、小山にはもうひとつ嬉しいことだった。

第四章 夢のように( 1 / 7 )


「すみません、お邪魔します」
カイコさんに向かって話しかける男の声が頭上から降ってきた。
その声には小山なずさの性ホルモンに少々訴えるような感じがあった。恋愛のメカニズムにおいて外見や声、生き残る能力の優秀さなどを如何に瞬時に人は認識するのか、きっとそれについての研究はまだ道半ばだろう。第一、天下のアイドルのような存在には、おおまかに定義しての話だが、皆が認める美質があり、かつ皆にとって高嶺の花だ。それが得られない万人のそれぞれの男女が如何にして次善の、あるいはそのまた次善の人間に惚れることが出来るのか、考えてみると可笑しいことだ。
そんなことを瞬時に小山の脳が思った時、カイコさんが彼を指差し、小山を見た。すぐに察して首にぶら下げている名札を見せつつ、
「地元で生きようNPOの赤松陽司です。始めまして、小山さん、もうお名前を」
と、真っ白い歯を見せた。いい色に肌が光っている。まだ二十二、三歳に見えた。
「どうして」
小山は久しぶりに世の中の人と話すので、気持ちのままにぼんやり尋ねた。
「おととい花村さんところの豌豆の収穫をお手伝いされたでしょう。犬塚さんと一緒に」
そうそう、カイコさんは犬塚という名前だったのだ。犬塚典子って堂々とした名前。
小山が頷くとカイコさんもそうそう、と頷いた。赤松陽司はさっさと、失礼します、と言って大野みずさの横に座った。
「お母さん、ご苦労様です」
と、勝手にお母さん呼ばわりするのを、大野みずさが苦笑いしつつ許している。
「あそこの東天アパートで暮らしている人でですね、まあ、社会復帰の馴らしといいますか、人手が欲しいところに入って貰ってるんですよね。シルバー人材センターなんて市の組織がありましょう、シルバーじゃなくてリハビリ人材センターといいますか」
ここ数年の経済危機のために、年齢を問わず職を失い痛手を負って、地元に戻った非正規労働者は増加の一途である。と、小園佑子から小山は聞いていた。都会に居ても田舎に戻っても資本主義の恩恵を受けられる人は少なかった。

生産しても生産物が過剰となり、地球環境が悪化するのみ、という悪循環の現状となっていた。機械による生産システムでは優秀な人手しか要らない、自然からの生産システムは世界を分断している。過剰と、不足が同時にあった。今までの生産と消費の関係では、もうひとにぎりの成功者と、あとはスラムしか残らない。その後は両者の間で収奪と強奪の戦いになるほか無い。国は内戦状態となり、荒廃した国はまた環境を悪化させる。戦後の日本やドイツのように立ち直ることが出来たのは、根本的にはやはり資本主義勃興のいいタイミングの波に乗ることが出来たからであろう。

小山なずさが猛烈社員であったころ、考えないようにしていた可能性が、静かに潜行し顕現してきた。何とかなる、とも思っていたし、
誰かがいい案を思いつくだろう、とひとまかせにしていた。第一自分ひとりでどうするってのさ、個人で。政治の問題でしょ、と思っている間に金融世界が政治を置き去りにして暴走した。
非政治的非営利的団体があることは勿論承知していたが、その活動に少し懐疑をもったり、おおいに感心したりしつつ、流されて生きてきた。赤松陽司は、内戦の一応終了したスーダンのことを語り始めていた。

弱冠三二歳の日本人女性が、内戦後に兵士たちが所有し続ける銃器を回収する仕事をしているという。兵士としてしか生きてこなかった若者に危険な武器を捨てさせ、教育の機会を作って社会に戻す、それをDDR活動というのだ。勿論、これには国連や資金や政治が手を貸している。彼女がその国に滞在する期間も長くは無い。
荒廃そのもののスーダン国内の視察を続けるうちに、彼女は一人の若者に目をつける。兵士を辞めて学校に行きたい、という兵士だ。勿論孤児であり、テント張りのキャンプに暮らしている。生まれて以来、環境の悪化によって希望を打ち砕かれ続けてきた。それでも麻薬などに手を出さなかったが、もう人間の言葉を信じることが出来なかった。
彼女は、彼が学校に行けるように出来ること全てをする、と約束する。彼にとっては荒唐無稽なので、さっさと去っていく。翌日また会いに行く。兵士達は今や警察に属しているのだが、退職が許されないのだという。

彼女はまず軍の准将に会う。それができるのは無論彼女の背後に国際的な組織があるからなのだが。
准将は、勿論兵士は自由に辞職を決定していいと言う。
念のため地域の軍の連隊長にも問いただす。何の問題も無いという。若者が信じていたのは根も葉もない噂だったのか。
もうひとつ念のためその村の警察署長と話す。
「とんでもない、みんなが勝手に辞めたら組織がめちゃくちゃになるでしょう。今の身分から抜け出ることは許されないのです」
頑として譲らないではないか。彼女は最後まで食い下がった。
「彼はただ学びたいのです。学校はできていますよ」
「アア、学校に行くのはいいのです。警察の仕事が終わったら学べばいいのです。彼の自由な時間ですから」
彼女はこの言質をとると、即若者のもとに行った。
経緯を語り、顔色を見る。まだ疑っている。どこまで信じればいいのか、本当に実行できるのかわからないでいる。
「あのね、私のできることはここまで。これは私の問題じゃないから。君の問題、君の人生だよ。ここからは君が実行していくのよ。君にかかっている、ひとえに」
しばらく彼は考えていた。聡明そうな眼に次第に光が輝く。
「そうだ、これは僕の人生だ。僕がやるんだ」
銃を用いずに生きる道を彼が自ら切り開いていけるよう、彼女は少し勢いをつけてやることが出来たのだ。
「勉強して何になりたいの」
「パイロットかな、先生かな」
「それじゃあ、よっぽど頑張らなくちゃね」
彼の仲間が彼を見習うことを彼女は知っている。ひとりが歩き出すと次第に道が広くなる。

「ね」
と、赤松は小山の目を見た。
「運が良ければ、人間ってそんな風に前進していけるのかな。というか、運も作っていくわけよね」
小山なずさはひとりごちた。

第四章 夢のように( 2 / 7 )

まずは東天アパートの現在の住人と知り合いになる、という課題を小山はもらった。お願いですけど、と赤松は両手を小さく合わせたのだ。
夜窓に明かりのついている部屋を確認する。自分の部屋、カイコさんの部屋の両隣にも誰か棲息している気配がある。赤松陽司がくれた名簿には名前と年齢、性別の欄はあるのだが、空白がいくつかある。
名前にしても本名ではないのかもしれない。
小山の左隣の仮名「大山」さん、女性三十歳前後、彼女とはもう話をした。どうした、と小山は直裁に尋ねる。世の中にどうもしない人は稀なので、失礼な質問でもない。うつ、失恋、と言う。驚きもしない。そか、と小山は言う。くっついて背中をさすってあげる。
大山さあん、小山だよ、とノックすると顔を出して嬉しそうにしている。どう調子は、尋ねるまでもなく大分落ち着いて、こざっぱりした格好だ。
「ちょっと散歩がてらやけど、川向こうの一人暮らしのお婆さんを大丈夫か見に行かへん?」
「え、私が?」
と、世話されるのに慣れた大山さんは目を白黒させた。
「弱いもん同士、お互い様やん」
とりあえず外の空気は気持ちいい。
「なんか食べた?」
と、小山がクリームパンをポケットから出す。
途中のコンビニで文明の利器自動販売機でお茶を買う。
学校でのいじめ体験のことや以前の仕事の収奪や、ボツボツ喋りつつ小さな橋を渡っていくと少し棚田があり、次第に雑木林が増えていく。空に雲雀がうるさいほど囀っていた。風に楠の新芽の香りが混ざっている。
お婆さんは大変なことになっていた。庭で転んだまま動けなくなっていた。もっと早く来てあげていたら、と小山は悔やんだ。骨折らしくひどく痛がって話すこともままならないでいるのを、二人で抱え起こしたが無理に動かしてもいけないと判断して、大山に頼む。
「あのな、そこら辺の人を見つけて電話を頼んで、多分救急車や」
このうちにも電話はあるのだろうが、無断で入ることがためらわれたのだ。
大山は意外とすばしこく動いた。さっきのコンビにまで走った。従業員に説明する間に、客の一人がもう携帯をかけてくれた。
人間ってけっこう人助けも好きやな、面白いからやろけど、と小山は思う。

翌日から二人は、首からぶらさげるIDカードを赤松からもらった。地域ボランティア云々と書かれている。カイコさんもエヘヘと言いながら、自分のカードを一緒にぶら下げた。
さて、小山の右隣の部屋の、仮名右野さん、彼は神戸で派遣社員として製薬会社で営業をしていて、無慈悲に切られた。カイコさんの左の通称猫ちゃん、彼女は知的障害を持ち市道を歩いているところを保護された。右隣の実名牛山さん、彼はなんと絵を上手に描く人だった。しかし売れないままに路上で暮らしていた。
赤松陽司が、ソーシャルワーカーらと協議して、これらの人々をこの東天アパートに住むよう取計らったのだが、普通そんなことは簡単にはいかない。それもこれも、このアパートの所有者が、自分の会社の倒産の憂き目に会い、ここを手放すことで借金を減らすことが可能となった、そんな経済的な事情が有利に働いたのだ。ひとつの幸運である。

小山なずさは自分自身は信心とは縁遠いと思っている。しかし、仏教でも何でもいいが、社会の中に大いなるものの慈悲の手に困難の中にいる生物を救い上げてくれる、そんな組織が存在してくれたらいいな、と思うのだ。特に、その組織が魂の救済のみならず、場合によっては眠る場所と食べる物や、あるいは当座働く機会も与えることが出来れば、いまや四万人に近いこの国の自殺者を半分は減らすことが出来るはずだ。
確かに死ぬのは個人の自由決定でもある。しかし、喜んで自死するわけではないはずだ。

第四章 夢のように( 3 / 7 )

ともあれ、と小山は意欲に溢れて腕組みをした。そのためには施設と資金と人材が必要だ広報も必要だ。
半ば芸術家の村とでもいうもの。
小山の脳裏にそのアイデアがひらめいた。作業場でもあるもの。生産の場であり、ヘルプサービスを与える側でもある場。

余り行政からの援助を必要とせず、ある程度自立した組織であって、お互いに貧しくても補助しあうこととが許しあえるような、麗しい共同体。そこでは心の潤いと美への喜びを芸術が感じさせてくれるだろう。人間の尽きないアイデアも束縛を受けないことで泉のように湧き出てくるだろう。
それは武者小路実篤のいわゆる美しい村現代版か、とうろ覚えの本を思い出した。
小山なずさは急に嬉しくなってくるりと自転した。この東天アパートはそんな小さな多様性を花咲かすのにぴったりではないか。


二〇〇九年以来の経済破綻。自由資本主義の行き過ぎ、ないしは誤りの影響下で、人類は生き残りを賭けて必死に改革、改善を模索し、試行していた。
架空のお金が蒸発してしまって以来、本物のお金の分配のために、結局競争原理が激しさを増していた。ふるい落とされる多数の不運な人々。彼らが有能でない、わけでは無い。運が悪かったのだ。
いや、と小山は抗うように頭を振った。巻き込まれてなるものか、運良くも、我々は不毛な果てない競争から軌道修正したのだ。

たとえば画家の牛山さんは、応募しては落選していた有名な画展の条件に何かが、少し足りなかったのだろう。だからといって彼の画家としての価値の絶対性に変わりはない。自然を切り取り永遠のものとする。日々その腕前は向上していたのだ。その作品は彼自身でありえた。
「牛山さぁん、時々、気候がよいときにやけど、絵を売りに行ってみる気ないか」

元営業マンの右野さんが、当時は苦痛で仕方なかったというのに気軽に牛山さんに話しかけている。ドアから首だけ突っ込んで。牛山さんの声ははっきりとは聞こえないが、部屋の中から生活臭とは異なる匂いが出てきた。紙や絵の具、油。
小山とカイコさんと大山も覗き込む。他の住人同様鶏がらのように痩せて髪の毛がむちゃくちゃなまま伸びているのが見えた。

まずは身だしなみ、と頭を洗う手伝いをする。この季節、暑いといっていいくらいの日だった。その髪を緑の輪ゴムできっちりまとめる。顔の周りにたらしても、まるでキリストのようで感じがいいのだが、とりあえず印象をさっぱりとさせよう。牛山さんは嫌がるわけでもなく、ハイとか言って清潔にさせられている。
「みんなで渡れば怖くない」
と、何とカイコさんが発した。小山はその背中に自分を軽くぶつけた。

牛山さんの絵の中にはここの窓からの景色、空と山と木々という、やたら色のしっかりした存在感あるものもあり、かと思うと夢のように美しい女や男の顔もあった。
「これもいいねえ!ほしいなあ」
小山も大山も口をそろえて言う。牛山さんはすぐに二人にそれらの絵を提供しようとした。
「いいよいいよ、とりあえずは社会に見せに行こう。誰だって美しいものは欲しいよね。値段の問題やね」
小山は自分が政治経済の専門家だったのを少し思い出した。

東天
作家:東天
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