東天アパート

第2章 これまでの道( 2 / 7 )

直線の断髪の、プロ意識にいよいよ侵食されていた三十歳のころだったっけ。
小山なずさは、他にもいろいろな意識に翻弄されていたが、その最たるものは逆説的ではあるが、子を産む機械である女体の義務感であった。

一に、エストロゲンを分泌せよという、脳の視床下部の命令は絶対だった。
従って、二には、オスメスどちらの主導であれ、社会の要請が大きな蓋のように、特にメスを洗脳し刺激して恋愛へと鼓舞していた。

生物である限り生殖の要請はすさまじく、狡猾だ。それに押し流された。オスは美しい青年の姿をして、小山なずさを幻惑し圧倒した。一人の唯一の特別なオスとして。

彼の射精欲は彼自身を圧倒したし、メスはそれを受容したいという欲に押し流された。
あれほど小説や映画で宣伝されているいわゆる快楽に程遠かったにもかかわらず、そもそもそんなことは自然のちょっとしたアメにすぎないわけで、ともかくどうするという意図もないうちに受胎してしまった。


ひどい仕打ちだった。
小山なずさはひっかけられたのだ。
自然のたくらみばかりではない。

誰一人として本当の真理を知らないくせに、したり顔で結婚や性愛や家庭や子育てや学業と職業や経済や政治や名声や効率や芸術や技術や戦争や進化や宇宙やらを論じた。

二十世紀の後半は、当時の社会のシステムが女性を外の労働へと外へと駆り出した時代だ。
その渦の中で、強烈な働き蜂として育成された、それなりに男に伍して充分な知力に恵まれた女であった小山なずさは、当然なこととして仕事人間だった。
まず自分がプロとして自活できること、それしか考えていなかったはずなのに、ふと三十歳に惑わされた。無意識に焦っていた。


小山なずさの身ごもった子の父親は、それを知らずにアメリカに栄転していった。
ここで、泣き喚いたりするようには二十一世紀のキャリアウーマンは作られていない。
あってしかるべき現象である。
小山なずさ自身も栄転した。

どうせ別居結婚の形態しかなかったのだから。
いわゆるシングルマザーというのも流行を通り越して普通の現象となっているのだし。
そんな気持ちで時代の流れに流されていった。


がんばった。
父も母も助けとはならなかった。
一歳になるまでは、赤ん坊はまだ喋らず動かなかったので元気でありさえすれば問題は少なかった。

一歳から二歳半まで、かりなは母親を全身で、その存在意義をかけて必要とした。そのために自分が愛されているか、どこまで許されるか試しにかかった。

可哀想なかりな、小山なずさはわざとぼんやり呟いた。良かれと思ってなずさがしてやることをかりなは嫌がった。泣き喚く顔を憎らしいと感じた。眠ってしまうと後悔して自分が泣いた。自立した強い賢い女性となって欲しいとのみ思っていたことが、今は間違いだとわかる。社会の要請に幻惑されていた。

かりなにはしっかり甘えさせてくれる抱擁が大事だったのに、一度も眼を見てわかるようにはっきりと、愛してるよ、可愛い娘よ、と感じさせたことが無かった。
その事の意味を、ある時理解した。もう救いはなかった。
崖下に落ちていく時間の尻尾をつかみ損ねてしまった。もう取り返せない。落ちてしまった。



第2章 これまでの道( 3 / 7 )


かりなは里親に渡された。小山なずさが養育できなくなったからだ。
そなアホな、苦労して自分が生んだ子を、と思う反面、自分ひとりを支えきれない自分がいた。そんな日々はごちゃ混ぜの感情のカクテルだった。今は里親の下できっと可愛がられて自分の仕打ちを忘れてくれているだろう。その方が勿論かりなにはずっといいのだ、と思う。それにすがった。

かりなのことは、今はどうしようもなかった。
「とりあえずはカイコさんと話をしよう。イヤァ、実は話したことが無かったかも」
カイコさんの話す声を知らないことに思い至る。
「そういえば二人して失語症だったような。
カイコさんも私のようなアダルトチルドレンだったかな。それとも虐待されていたのかな」
下り坂になる頃に、理解と救いをもとめて読み漁った本の知識が徐々に立ち上がってきた。

小山なずさ自身の脳は、この数年の安静のうちに修復されつつあった。子供時代に母親に置き去りにされたトラウマから回復したのかどうか、それはわからない。自分の環境への過剰な適応反応を思い返すと、それこそがトラウマの作用だったかもしれない。
社会的に成功を収めることで母親の関心を買おうとしたのだろうか、小山なずさの眼の前に自分に似た、苦しげで卑怯そうな母の顔が刻印されている。

それにしても、カイコさんこそ自分の千手観音ではなかったか。
小山なずさはすっと立ち上がった。
習慣となった横たわり姿勢が耐え難くなった。
考える前に、すでに電流が脳神経細胞間に流れていた。それから考えが意識され、同時に体が反応している。
小山なずさはドアをがぱっと開けた。
階段を駆け上った。後ろにかしましい音が残されていく。
二階の廊下にあがると、眼の中に薄赤い小さな花びらのようなものが浮かんでいた。木の枝の先についている。木はもちろん地面から伸びてきていた。そんなものがあったのか。裸木だったのが、新芽を吹いていたのだ。
ハナミズキ。
そうかそうか、と小山なずさは合点した。

第2章 これまでの道( 4 / 7 )

カイコさんちのドアには意外にも小さな木彫りのお地蔵さんが貼り付けてあった。その下の台座にはウェルカムという形が、カタカナで浮き出ている。ちょっとちょっと、なかなかきれいやん、と小山の口から軽口が出た。
ドアをノックするや否や、もう開けてしまった。がらんどうの部屋に、ひとつの窓がある。そこから入る光を受けている背中がひとつ黒っぽく座ってあった。

「ご在宅でしたか、あの、私、いつもおごちそうになっていました、し、下の者ですっ」
と、小山は吃った。
影はゆっくり、できるだけ急いで振り向いた。カイコさんは勿論驚愕したらしい。
声を出した。勿論意味不明の音声だが。
「私、この前から昼間外に出ていたのです。夜もその前はもう外に出ていたのです。知らせないでごめんなさい、あ、一度会いましたよね」
カイコさんは頷いた。背中は後ろ向きのままなので、よくぞ回るという位、梟のように首を回してくれている。
小山はごそごそと這いずって近づく。
「有難うございます。命の恩人です。ほんとに」
と言って、斜め後ろで両手をついて思わず頭を下げた。言葉にふわさしく。
カイコさんは今度は体を百八十度回して、こっくり頷いた。眼の中はまだ良く見えないが、顔全体が笑うともなく笑っている。
「あ、れ」
と、小山はついた両手の下に何かを感じた。木の匂いがした。カイコさんの周りは木屑で敷き詰められていた。
かまぼこ板、枯れ木、川原で拾ったような摩滅した枝、椅子の脚、看板だったような板切れ、様々な木の破片に戸口にかけてある地蔵のような形が掘り出されようとしてもがいていた。全然上手とは言えないが。
しかし、この執念だ。これこそが大事なのだ、結果は問わない、これでもいい。
小山は一瞬にして、
「悟った」
と感じた。照準が合った。
枯れ木として、目にも止まらなかったハナミズキから執拗に花が咲き出す。小山から生じる花は小さなゴマ粒のような花だとしても。
小山はカイコさんの手を取った。
ふっくら柔らかい。
廊下に導き出して、ハナミズキを指差した。
「ネ、見た?花が咲こうとしてるやん?」
「・・・」
カイコさんは確かに反応している。ただこの世の言葉ではないのだ。

このアパートに住んでいるのは、運良く路頭に迷うことから救われた人々である。
家族が庇護することが不可能だった人々が、この村落社会のセイフティネットに受け止められた。小山はこれまで精神の暗黒世界で暮らしていたので、庇護者のカイコさん以外の住人を見たことも無かった。
いずれにしろ、生活保護を受けている集団だ。
「そう言えば、あれは、あの人は」
と、ようやく動き出した海馬から記憶を引き出そうと声に出して呟き始めた。
並んで散歩しているカイコさんがこちらに耳を傾けた。初めて二人で昼間の世界を歩いていた。
「ソーシャルワーカーなんよね、確か。私が道でへたばっていたら、大阪でね、子供は泣き喚いて、私は精も根も尽き果てて道端にしゃがみ込んで、多分、号泣してた」
カイコさんの手がひじをそっと掴んだ。
「朝のオフィス街で。みんな通り過ぎていく気配が複雑だった。助けて欲しいようなほって置いて欲しいような」
小山は、息をついで、カイコさんを見た。その眼の中をすがりつくようにしっかりとのぞくことが出来た。深い肉の奥で、瞳が黒々と濡れて光って小山の目を見返していた。

第2章 これまでの道( 5 / 7 )

声が、静かなしかし確信に満ちた声が当時の小山をパニックから呼び覚ましたのだった。
その女声が何と言ったのか、それが思い出せない。大丈夫ですか、ではない。大丈夫でないのは明らかだった。お手伝いしましょうか、と言ったのだろうか。大丈夫ですよ、と言ったのだろうか。背中を撫でて落ち着かせようとしたのは確かだ。小山は子供とともに、その誰かも知らない人の腕の中でなおひとしきり涙を流した。その人は辛抱強く発作のおさまるのを待っていた。

小園佑子、とその名刺には書いてあった。
所属の社会福祉事務所に出勤するところだったという。
かりなを抱き上げてくれた。かりなはまだしゃくりあげていたが、興奮が収まるまでの反射運動にすぎなかった。涙のたまった瞳を拭いもせず,小園佑子の胸に掴まって黙って周囲を見回し始めた。
その視線の中に、小山が入ってきたとき、かりなは手を伸ばしそうにして、
「ママ」
と呟いた。しかし動きを止めて、そして自分をしっかり抱いてくれている小園佑子を品定めするかのようにシビアに見つめた。
-
小園佑子に電話したのは、昼間の外出で二十分以上離れたコンビニに寄るようになったときである。
毎日少しずつ時間と距離を増していった。小さな目標を達成する。それが出来たときは自分をほめてやるのだ。過呼吸が起こると、勿論自分に言い聞かせて落ち着かせようとするのだが、いつもうまくいくとは限らない。そこを焦らないことが大事である。そう物の本にも書いてある。山ほど読んだが出来そうになったのは初めてだ。
いよいよ残り少なくなった現金で歯ブラシやタオル、おにぎりなどを買った。

大阪から小園佑子が、兵庫県滝野町まで来てくれたのは小山の電話の翌々日であった。
この町にたどり着くまでの時間は、小園佑子に頼りきって過ごしたのだ、と思い出す。小山の母親に連絡してくれ、心療内科の医師を紹介してくれ、かりなに里親をまもなく見つけてくれた。
それらの全てに対して、小山は必要ない、と言って断りたかった。事実断り続けたのだった。自恃の気持ちはメビウスの輪のように、自分を自滅へと励ましていった。自身の心身とも潰れていることを認めるのが怖かった。
そうして絶望感から逃れようと、魂は役立たずの小山から逃げ出した。機械のように、ロボットのように小山はこの世から消える準備をしていった。
もう余り感情が無かった。砂浜から波の中にズンズン歩んでいきながら、このままでは沈むぞ、と思いもなお僅かにありながら、その他の脳内の仕組みがもう働かない。
小園佑子がマンションを訪ねてきたとき、小山は蒼白な顔に微笑すら浮かべていた、妙に透明な感覚がして。
かりなの里親の決定書に承諾の印鑑が必要だった。期限付きだが、事後正式の養子となる可能性にも触れてあった。面接権について返事をしなければならないことになっていた。
何も無い部屋を小園佑子は何気なく見回して確認した。
「どうしましょう。調子が良くなりはったらかりなちゃんに会いに行けばよろしいやん。そう取り決めてもらうことが出来るんです。とても物分りのええ方ですしね」
と言いながら、小山を見守った。
小山は何も言う気が起こらなかった。声帯を振るわせるほどの空気が肺から排出されない。
神経のどこが失われたのか。息を吸っていることが不思議でさえあった。
小園佑子の言うままに印鑑を押した後、小山はくず折れた。積極的に死ぬことももう出来なくなっていた。

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