信ずるものは、救われぬ

第6章 復帰と決別( 5 / 5 )

 私が教会をやめる直前、有名大学を卒業してエンジニアになっていた丸畑が、信者ではない、私たち共通の幼馴染と結婚をした。丸畑は私よりもはるかに頭脳明晰だったが、決断力もあった。
 私は教会に来なくなった丸畑が、信仰についてどのように考えていたかを尋ねるのが怖かった。だから、友だちづきあいは辞めることはなかったが、信仰話は抜きだった。丸畑も私に、何かを強要することも、文句を言うこともなかった。
 丸畑は私が教会に引きずり込んだのだ。私はその負い目を感じている。
 丸畑の父も母も私は知っている。長年の友だちづきあいということで、私は披露宴の司会をさせてもらうことになった。
 西蔵の美容院で、相変わらず長髪ぎみだった髪を、もう一度短くしたのはこの時だった。鏡の中に写る自分は、別人だった。そう信じたかった。

 丸畑は流通企業が作った人工都市の中にある、コミュニティー・センターの役割を果たしている教会堂をレンタルし、彼が師と仰いでいた、今市均という、高知に住んでいる牧師を司式として呼んだ。
 今市は一時吉川に心酔し、公立楽団のホルン奏者という職を投げ打って、献身の道に入った。
 今市が教会で伝道師をしていたころ、彼はやはり音楽をしていた私との接点が多かったが、彼も浮田ほどではないにしろ、私をなぜか目の敵にしていた。後で聞くと丸畑は、「今市先生は青木君のことを誤解していますよ」と、ずっと言ってくれていたらしい。
 私は今市が苦手だったので、正直言ってどう接してよいかちょっと迷ったが、実際に再会してみると、関西ペンテコステ福音教会を脱出したあと、ホスピスの牧師になった今市は、ある意味で普通の人になっていた。
 広い額はそのままだったが、憑き物が落ちたような顔になっていた。披露宴ではビールも口にしていた。本当に普通の人だった。
 郷里の英雄である坂本竜馬が好きな今市は、「私はあの教会を『脱藩』して本当によかった。それですべてが始まったんだよ」と、暗に私が教会を出ることを勧めた。
 今市は自らが教会を後にする直前、バンドの練習のあとで私と2人きりになった時、吉川の下半身スキャンダルのせいで、去っていった人の名前をひとりひとり挙げて、「こんな立派な人たちを、これ以上教会が手放してはいけないんだよ」と、私に向かって嘆いて見せたのだが、間もなく彼自身も消えた。
 今市は外からこの教会を見ることで、彼自身も、吉川やその取り巻きの愚か者どもがいる限り、あの教会を内から建て直すことは困難だと思い知ったのだろう。
 私は、丸畑の結婚式の後、自らの「脱藩」の直後まで、今市に対して、自分の真情を吐露するメールを何通か送った。
 今市は私の脱藩の決意を喜び、私が「今、教会に捧げた青春を取り戻す作業をしている」と書いたことに対して、「その点について、私にも責任の一端があると思っています」と書き送ってくれた。私は素直にその言葉をで踏ん切りがついたような気がする。

 私はついに教会を去ることにした。

 教員採用試験に合格した後、苅田とうまくいかなくなっていたことが、その決断を加速させた。もう、失って後悔するものはない。小学校三年生の最後の日曜日から、一七年以上も通い続け、楽器奏者や日曜学校の先生をするという、言わば中心的な信者のひとりと思われていた私は、牧師に連絡をすることもなく、妹夫婦にも打ち明けることなく、関西ペンテコステ福音教会を去った。昭和最後の年の初秋のことだった。
 日曜学校の校長であった、星川みどりという伝道師にだけは、少し後で手紙を書いた。年度の途中で日曜学校を放置したことが心残りで、彼女にそれを詫びたかったからだ。
 それ以外の人には、何も話したくなかった。私は、もう吉川の顔は二度と見たくなかったし、だからといって他の誰かに、いちいち話をするのも面倒くさかった。
 星川は私に一度だけ電話をしてきた。「何でやめるのん」という彼女の質問に対し、私は吉川にはついていけないと言ったのだが、「徳子ちゃんと別れたからでしょ、ね、そうでしょ」と、私に詰め寄った。他のことも皆、吉川がらみの話をすると、星川はむきになった。
 私が教会を止めることを、吉川のせいにはしたくないというのが見え見えだった。

 私は「それでいいですよ」と言った。

 自分もそうだったからよく分かるのだが、フランシス・ベーコンが言うように、洞窟の中で呪縛され、そこで影だけを見ている人間は、その外側にも実在の世界があることに気づかない。
 そういう人々との議論は無駄だ。
 それから数ヶ月、私は、吉川でなくても、私の監督責任者であるはずの浮田が、私を引き止めるために家庭訪問をするものだと思って、ある意味で戦々恐々としていた。妹夫婦は信者だったし、幼なかった甥への「悪影響」を考えれば、きっとそうするだろうと思っていた。
 しかし、浮田はおろか、誰ひとり私を訪ねて来ることはなかった。本当に誰ひとりも、である。私はもう、吉川の秘密を知っている邪魔者のひとりにすぎなかった。ややこしい人間がいなくなって、かえって彼らはよかったのだろう。
 そういえば私は信者であった一七年間、伝道師や先輩信者の訪問を受けたことはあっても、牧師に訪問されたという経験は一度もなかった。

 所詮教会なんて、そんなもんだったんじゃないか。

 私はほっとはしてはいたが、自分の「青春」が、全くの虚像であったことに漸く気がつき、寂寥感に震えたのだった。

エピローグ( 1 / 4 )

「そのとき、
だれかがあなたがたに
『見よ、ここにキリストがいる』、
また、『あそこにいる』と言っても、
それを信じるな。
にせキリストたちや、
にせ預言者たちが起って、
大いなるしるしと奇跡とを行い、
できれば、選民をも惑わそうとするであろう」。
『マタイによる福音書』第二四章二三、二四節。


 私は、関西ペンテコステ福音教会に、青春時代のすべてを費やしてしまった。
 その間、私の心は完全に教会の教えに洗脳されていた。この教えとは、イエスの教えのことではない。吉川清の教えであり、浮田賢一の教えであり、それを鵜呑みにした辻本や横山の教えだった。それをイエスの教えだと、私は信じ込まされていたのだった。
 長い長い悪夢から目が覚めたら、私は結局ひとりだった。兄弟・姉妹と呼び合った仲間も、誰も私の周りにはいなかった。誰も私に声をかけようとはしてくれなかった。本当に誰ひとりもだ。
 吉川の説教のネタに、ある共産主義者の人生を語ったものがあった。
 この人は熱心な活動家で、一生を共産主義に捧げたが、年老いて病に倒れ、何もできなくなったとき、彼は自分と主義主張を共にしてきた人が、自分の周りからいなくなり、自分が見捨てられたことに気づいた。でも、教会の仲間はそうではない。というような内容だ。
 しかし、私は教会にいたのに、この老共産主義者と同じ気持ちを抱いていた。結局のところ、吉川もその取り巻きも、信者たちも、みんな口だけだった。

 それでも私は、教会に行かなくなった後、「死んでも休んではいけない」と教え込まれた教会に通っていないことに対する自責の念に苛まされ続けた。
 そして1年ほどの空白期間を経て、私は結局、その間に結婚した前妻の寛子が信者だったことも手伝って、カトリック教会に通い始めた。
 寛子と同じ墓に入ろうということではなかった。そうでもしないと、私の心の隙間が埋まらなかったからだ。
 実際、形式的な信者だった寛子は、私が促しても教会に行きたがらず、私だけが行くと、自分が恥ずかしいという理由で、私だけがミサに出ることも許さなかった。しかし私は、たまにでもミサに行くことで、自分が安心することができた。
 私は、一緒に教会に行くことで、最初からギクシャクしていた寛子との関係も、少しはうまくいくようになるだろうと、教会に期待もしていたのだった。私はイエス、否、教会なしでは、夫婦生活もコントロールできない人間に落ちぶれていた。
 夫婦生活を取り持つという、私の教会に対する期待は裏切られたが、私にとってカトリック教会は、自己満足のために信仰を続けるという意味では楽だった。
 神父は(表面的には)堅物が多かったが、彼らは死んでも日曜日に来いとは言わなかった。ミサでの説教は短かかった。もちろん、吉川も浮田も、鬱陶しい連中は誰もいない。平日の夜の集まりもキャンプもない。基本的には、日曜の一時間足らずのミサだけだ。

 そして何よりも、私はカトリックの教義にある意味で感服していた。

 その内容を信じるかどうかは別にして、聖書にある矛盾を見事に自家製の挿話で補強し、一応の合理化を試みていたからだ。私はそこにある種の潔さを感じた。

 たとえば、聖母マリアの処女懐胎についてがそうだった。
 マリアも人間である。だからマリアが他の人間と同じように原罪を背負っておれば、そのマリアの子であるイエスは無原罪たりえない。
 だからそれを合理化するために、マリアは特別に無原罪とされ、それ故に「被昇天」だったとカトリックは宣言する。

 この副作用が「マリア信仰」だ。

 『出エジプト記』第二〇章三節には、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」とある。だからマリア信仰は、戒律と矛盾するのは明らかだ。因みにこれは、有名な「モーセの十戒」の第一番目の掟なのだ。
 父・子・聖霊は三位一体、即ち神はひとりとされ、神以外の何ものにも手を合わせてはいけないというのが、ユダヤ、キリスト、イスラム教では非常に重要な戒律だ。

 しかし、明らかにカトリックでは、マリアに祈る。

 私は今でも「めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身とともにまします」で始まる『天使祝詞』をそらんじることができる。それくらいこの祈りの言葉は、カトリックでは重要だ。
 これはどんな言い訳をしても、マリア信仰だ。

 プロテスタントは、マリアが処女のまま懐胎したと、『ルカによる福音書』第一章三〇~三八節などにあるように、額面どおりに信じるが、なぜマリアが老夫婦、 ザカリアとエリサベツの子であると明記されているのに、原罪があるマリアから生まれたイエスが無原罪なのかを説明しない。
 その宿題を残したまま、カトリックのマリア崇拝だけを非難するのはお門違いだと私は思う。
 多分、吉川や浮田に聞けば、例によって「神には何でもできる」で片付けてしまうだろう。それならば、神はその力で、全ての人間の原罪をなくせるはずではないか。それができないのなら、YHWHの神は、阿弥陀如来よりも無力ではないか。

 私がカトリック教会に、自分の居場所を何とか見出そうとしていたころ、オウム真理教による一連のテロ事件が起こった。地下鉄サリン事件が起こったのは、平成七年三月のことだった。

 当時私は、教諭として定時制高校に勤めていた。その日私は、一〇時ころに家を出て昼前に学校に着いたのだが、早く出勤していた恵比寿顔の教務主任が、普段は見せない険しい顔で職員室のテレビに釘付けになっていた。
 まだ誰も、いったい何が起こったのか、全く理解できないでいた。
 そしてその後、テロ事件がこの邪教集団の教祖・麻原彰晃こと、松本智津夫の教えに洗脳された、オウム真理教の信者の仕業であったことが明るみに出た。
 このカルトは、自らチベット仏教との関係があるかのように見せかけ、実際には、教祖のための、教祖による、教祖の教えを流布させようとしていた。その行き着く先が、このテロ事件だった。

 私は、この事件に激しい憤りを感じながら、その一方で自責の念に駆られていた。
 私もこのテロリストの信者と基本的には同じだった。自分は物理的なテロに与することはなかったが、後輩たちや日曜学校の生徒を洗脳することに加担していたのは確かだし、吉川や浮田に、神の国の実現のためにサリンを撒けと言われれば、私だってそうしていたかも知れない。
 
 私は自分の青春を悔いた。

エピローグ( 2 / 4 )

 私は匿名で、ある全国紙に、この事件と吉川の教会を対比させて、今も活動する関西ペンテコステ福音教会をはじめとする、羊の皮をかぶったセクト、カルト集団を痛烈に批判する投書をし、採用された。私は今もその記事を、スクラップにして残している。

 それはようやく行えた、私と関西ペンテコステ福音教会との決別宣言であった。

 私はカトリックに改宗した一年後に、再度洗礼を受け、「パウロ」という洗礼名をもらった。

 罪に穢れたエロ坊主・吉川から受けた洗礼を清めたつもりでもいた。だからその時点でも、大きな意味では、私の呪縛はまだ解けてはいなかったということだ。
 しかし私は離婚の協議中に、カトリック教会へも通わなくなった。教会に前妻との間を修復する力がなかったということもあったが、私は、世界史や倫理を教えなが ら、イスラム教の神アッラーが、ユダヤ・キリスト教の神であるYHWHと実は同じなのだということを再認識することで、世界中の神は、本当はひとつなのだと意識するようになっていたからだ。
 
 教会はいらなくなった。私はいつでも、教会でも、寺院でも、神社でも、どこででも神に会うことができる。私はそう信じ始め、自ら呪縛を解こうとしたのだった。
 ただ、カトリック教会を通じて親しくなった、あのゴンザレス神父とは、離婚直後の一年の空白期間はあったが、その後も交流を続けている。彼は学者であり、教育者でもあるが、非常に気さくな人で、かつての教え子と一緒に神社・仏閣を巡るなど、他の宗教や日本の文化を尊重し、日本と日本人を愛し、そしてもちろ ん、神を愛し、神と共に生きている人だ。
 
 寛子と離婚した私を責めることなどもちろんだが、教会に行かないことを咎めだてしたことすら一度もない。先年私は、今の家族とともに、ゴンザレス神父の帰国休暇中に、スペインにある彼の実家に招かれた。

 その時、久しぶりにミサに出た。マドリードに程近い田舎町の小さな聖堂で行われたミサには、地元の英雄である彼と久しぶりに会うために、多くの村人が集まった。ミサの中で、里帰りした若者の子供の洗礼式もあった。カトリックでは、長らく教会に行っていなかったり、告悔(神父が小部屋に入り、顔が見えない状態で信者が罪を告白する)をしていなかったりした場合には、聖体拝領を自粛するのが常だ。だから私はそのつもりだった。

 列に並んでいた私に順番が来た時、聖体を受け取らない信者には、通常なら、神父は軽く頭や肩に手を置いて祈るはずなのだが、ゴンザレス神父は、「いいですよ」と私に日本語で囁いて、聖体を与えたのだった。
 
 ミサの後、近所のカフェで神父と私は、昼からオルッホ(グラッパ)の小さな杯をあげ、濃いコーヒーを飲んだ。気だるい午後の太陽が、ほろ酔いの私にはとてもまぶしく感じた。
 ゴ ンザレス神父は、私に一度も説教めいたことは言ったことがない。カトリックの洗礼を受けていない今の家内や子供たちにもそれを強要することはない。 彼は宗教家としてではなく、友人として私に接してくれていることがわかるのだ。
 私がいまだに、カトリックの洗礼前であるパウロを英語読みにして、ポール・青木と名乗っているのは、ゴンザレス神父が名付け親だから、という意識があるからなのだ。

エピローグ( 3 / 4 )

 それでも今私は、自分の宗教を聞かれたら、カトリックではなく、フリー・シンカー(Free thinker)か、或いは神道と答える。神はひとつだという聖書の教えは、私は本当だと思っている。それは、ユダヤ・キリスト教の神だけだという意味で はなく、すべての神は同じで、ひとつなのだ。そして、宗教の違いは礼拝や儀式の違いに過ぎず、そこには本当は、大きな意味がないのだとも。

 私の影響ではないと思うが、成人して教会に行かなくなった甥の話によれば、関西ペンテコステ福音教会での信者の負担はずいぶん軽くなったらしい。

 学生集会も、新年の聖会もなくなった。

 現在の牧師は、吉川の直弟子でただひとり関西ペンテコステ福音教会に残った女性牧師の石上と、アメリカの聖書学校に留学した経験がある福田義美、そしてあとの二人も私が知っている信者だった。
 福田のことは、ずいぶん後輩だったので、余りおぼえていないのだが、親しみやすいキャラクターのようで、とっつきにくかった吉川や浮田と違って、それは信者のためには喜ばしいことだ。
 数年前、母が亡くなった時、私はアメリカにいて葬儀には間に合わなかった。
 妹から連絡があった時、私は、母は病床洗礼を受けたそうだし、そちらで好きなようにしてくれと頼んだ。妹夫婦は、母が一度も信者として通うことのなかった教 会で、昇天式を挙げてもらった。司式はその福田だった。石上は来たらしいが、吉川も浮田も来なかった。四〇年以上教会の信者である私の妹が、最愛の母を 喪ったにも関わらず、そして、母が信者になって昇天したにも関わらずでである。

 何という冷たい連中だ。

 後日私は、母の納骨のために日本へ帰国した。その際に、二〇数年ぶりに教会を訪ねた。
 私はわざと礼拝に間に合わないようにホテルを出た。田舎電車はモーターの音さえ感じない、新しい電車になっていた。そして、教会の十字架は、私には電車の窓から見つけられなかった。
 礼拝を終えた義弟が車で迎えに来てくれていた。
 狭い駅前、狭いバス道、そして、あの、真理を求めて来る人を拒むかのような急な坂道は、変わっていなかった。もはや新会堂と称していたことが嘘のように古くなった教会では、私が来ることを待っていた人もいた。
 幸いにして、私が会いたくない連中は、そこにはいなかった。
 車座になって昼食をとる妹夫婦や旧友の輪に加わった私は、思い出話をするわけでもなく、信仰話をするわけでもなく、子供と家内の写真を見せ、今の生活について淡々と話し、徳井牧師に謝辞を述べ、土産をわたし、早々に帰った。
 もう二度と来ることはないだろう。そう思いながら、吉川や浮田やがいなかったことに感謝した。母の葬儀への礼を述べに来て、悪態をついて帰るというのは避けたかったからだ。

 ある意味で、吉川よりたちが悪かった浮田は、隣の県で独立している。
 やっとお山の大将になれて、さぞかし喜んでいるに違いない。浮田も還暦を過ぎている。この男に、自省の気持ちがあればの話だが、そろそろ自分の人生を振り返る 時だろう。私は、浮田が相変わらず頓珍漢なことを言っているような気がする。私にしたように、無知性丸出しで、信者の気持ちを、無神経にも踏みにじっているのではないかと心配だ。
 とはいえ、私は吉川の手下だった他の牧師については、ほとんど興味はない。無責任な吉川復帰劇を演出したことに、自責の念を感じているのならば話は別だが、そうでないから、いまだに吉川がトップに立つ教団に籍を置いているのだろう。私が教会で過ごした青春時代に流行った歌ではないが、「勝手にしやがれ」といったところだ。

 驚くべきことに吉川清は、第一線を退いたとはいえ、まだ関西ペンテコステ福音教会の名誉牧師を名乗り、結構活躍をしているようなのだ。
 信者の多くは吉川の不名誉な過去を知らず、古参信者はそれに目を瞑り、今も「名誉牧師」として、吉川を崇めているらしい。
 関西ペンテコステ福音教会のウエブサイトには、吉川の顔写真はあるが、教会の歴史に何があったのかは書かれてはいない。

 しかし、ウェブの世界は、吉川の悪事を少しずつあぶりだす手がかりを提供している。
 
 グーグルで、吉川清の名を検索していた時、面白いブログにたどり着いた。そこには、博打狂いの韓国人牧師・朴トマスとやらが主宰するという、「大阪救国キリスト教会」にまつわる事件が紹介されており、教会にやってきた日本人牧師のリストがあった。
 私はそこに、吉川の名前を発見した。
 吉川はゲストスピーカーとして登壇していたようだ。ちなみに関西ペンテコステ福音教会については、同じブログの書き込み欄に、具体的にではないが「問題教会」であると指摘されていた。
 実はこの大阪救国キリスト教会は、パウロ永田、あるいは永田保こと金保が、七人の少女信者をレイプしていたとして、世間を震撼させたあの聖神中央教会の流れを引くところだった。
 この恐ろしい事件を思い出すために、金が逮捕された直後、二〇〇五年四月八日付の、『京都新聞』の記事を見てみよう。

被害児「事実話して」 聖神中央教会性的暴行
  京都府八幡市の新興宗教法人 『聖神中央教会』の主管牧師永田保容疑者(六一)による女児暴行事件で、被害に遭った児童が永田容疑者の逮捕後『(容疑者 は)事実を話してほしい』『逮捕されたのになぜ笑っているのか』と話していることが八日、分かった。また京都府警捜査一課と八幡署は、永田容疑者がたびた び少女らを連れて海外へ旅行していた際、同様の暴行を加えていた可能性があるとみて調べている。
 被害者の会によると、児童は報道を通して逮捕時の永田容疑者の表情を見た際、感情を出すよりも、永田容疑者の様子に対して疑問が浮かんでいる状態だった。
 教会に寝泊まりしている少女に性的暴行を加えたほか、多数の信者がいる昼間でも、集会の合間に「休憩」と称して児童を呼び出していたという。
 被害者の会はまた、永田容疑者は一〇数年前から成人女性に対する暴行を始めて以降、次第に被害者が増えたといい、被害者が実態などを明らかにした共同声明を来週中に公開することを明らかにした。

信者に献金強要
 被害者の会は八日、教会が信者に要求していた寄付について、将来的に損害賠償を求めて民事訴訟を起こすことを検討していることを明らかにした。会によると、数千万円を寄付した家族もあるという。
 元信者によると、聖神中央教会は「新教会堂を建設する」などという目的で、寄付を要求。『もっと出せ、まだ神は喜んでいない、といってどんどん要求す る。娘は四〇〇万円の借金をつくって自己破産寸前までいった。退職金を全部献金したうえ、自宅を売り払った人もいる』と話す。
 聖神中央教会はま た、永田容疑者の少女への暴行が教会内で明らかになり、約一七〇人の大量脱会があって以降、信者にカードを作らせ、借金をさせて、ひとりあたり三〇万円を 寄付させるなどしていたという。宗教法人を所管する京都府文教課にも『献金を強要されている』との苦情が寄せられていた。
 被害者の会の代表は『(脱会信者が)経済的被害を被害と理解するのには時間がかかるの(ママ)。現時点ではないが、損害賠償請求が必要だと考えている』と述べた。 」

つまり、金保の犯罪は、吉川がやったことの拡大コピーなのである。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
0
  • 0円
  • ダウンロード