信ずるものは、救われぬ

第5章 追放と黙殺( 4 / 4 )

 私がアメリカから帰国した直後、学生会の先輩から、「君には教会を変える責任がある」と励まされた。
 私もそうしたかった。しかし、私は何から取り組めばよいのか、全くわからなかった。吉川はもういない。浮田は威張っているが、吉川がいなければ、何かが変わっていくのではないか。そんな気がしていた。いや、今となっては、そういう期待を抱いていただけだったのかも知れない。

 教会の権威を恐れていた私が行った勇気ある行動がひとつあった。

 年に一回行われていた信徒総会。これは毎年、北朝鮮の国会のようなシャンシャン集会だったが、開催の少し前に、「目安箱」が置かれることに私は目をつけた。これは無記名で質問ができるものなのだが、私はそこに投稿した。
 もちろん匿名で、「なぜ会計監査を行わないのか」とだけ書いた。
 総会の当日、その箱の中から質問が読み上げられた。その中に私の質問もあった。
 教会が吉川に私物化されていたというのなら、それを払拭しなければならないハズだ。
 私はその直前に図書館で『六法全書』を紐解き、宗教法人法を調べた。会計報告などは都道府県に対して宗教法人が行うことのようだった。つまり、実際には末端の教会の ひとつに過ぎない、関西ペンテコステ福音教会ではなく、宗教法人たるJPC教団が行うべきことだった。これは意外なことだった。つまり、教団がその教会の 報告をすれば、末端の教会には公開の義務はないのだ。
 タダでさえ宗教法人は税制上の優遇措置があるのに、このずさんなルールは何だ。
 私は、総会を開いて会計報告をするなら、たとえシャンシャンでも会計監査なしでお茶を濁してはいけないはずだと考えて、この質問を提出した。
 司会をしていた古参会員の多羅尾悟志は、私の質問を読み上げてから困った表情になった。まさか教会の運営に疑義を呈するような質問があるとは思わなかったのだろう。
 少し時間があってから、田舎の商業高校を卒業したからというだけの理由で会計責任者になっていた、特訓生の三木博が慌てて立ち上がり、「会計監査は必要なので、今人選をしているところです」と逃げた。
 これで、前身である泉南キリスト福音教会ができてから二〇年もたつのに、これまで一度も会計監査が行われたことがなかったということが露見してしまった訳だ。
 会計監査を行ってこなかったという杜撰な会計は、吉川に限らず、経営陣の私物化を疑われても仕方がないだろうし、吉川が教会を私物化していたということであれば、三木だって共犯だ。
 私は毎年会計報告を見ながら、教会収入に比べて牧師の給与が安すぎるのではないかとも感じていた。女性牧師の石上を除けば、三人の牧師はいずれも結婚し、子供もいた。しかしその割には、報告されている給与は、社会的水準を下回るものだったからだ。その報告が本当なら、彼らにはそれなりの収入は保証されるべきだ。吉川がいなくなったのだから、財政的にも余裕はできたはずだ。適正な会計ができるならば、牧師たちにはもっと給与を渡してもよいのではないかと、私は思ってもいたのだが、会計監査ができないような会計なら、私の心配は的外れだったことになる。何か、表に出したくない金の動きがあった。そう考えざるを得ないではないか。

 「人選をしている」という、苦し紛れの言い訳を、というか、明らかな嘘を、私は苦々しく聞いていた。

第6章 復帰と決別( 1 / 5 )

「千年の期間が終ると、
サタンは
その獄から解放される」。
『ヨハネの黙示録』第二〇章七節。


 「何で総統が帰ってくるんや」。
 私は心で密かにそう呟いた。吉川清が追放された後、私は陰で、なんでも自分でやろうとしたその小独裁者を、ヴァイマール共和国の大統領と首相を兼ねて、第三帝国を築いたアドルフ・ヒトラーに倣って、そう呼んでいた。

 私は吉川が関西ペンテコステ福音教会に帰ってくるという話を、公式発表がある前に事情通の端田か誰からその噂を聞いていたのだが、誰から聞いたのかははっきりとしない。ただ、打ちのめされたような衝撃を受けたことは確かだ。
 アメリカ帰りの私が、教会にアメリカの何かを移植するという大それた、そして雲を摑むような考えを、どのように実行に移すかを思いつく前に、教会は逆コースをたどることになった訳だ。

 吉川の関西ペンテコステ福音教会への執着はとても強かったらしい。

 残された牧師集団や吉川を監督すべき立場にあるはずの教団の力の弱さも手伝って、結局うやむやのうちに、無力な弟子たちは、背徳の師を受け入れることにしたようだった。
 噂によれば、彼らとの会合の席上、吉川は、「ここは私の教会だ」と自分の弟子に声を荒げて迫ったという。

 今度は突然という訳にはいかなかった。

 信者は吉川の尻癖を知っている。少なくとも同意を取り付けたという口実は必要だ。牧師たちは、形式的に臨時信徒総会を開いて、吉川が帰ってくることを、例によってシャンシャンで同意させようと企んだ。
 だが、一部の信者は、吉川に押し切られた牧師よりも、はるかに常識的だった。私が日曜学校の先生になったとき、同じクラスの先任教師で、熱心な信者のひとりだった佐藤明は、その総会中にこう詰め寄った。

 「吉川さんは追放されたんじゃないんですか」。

 破戒僧をなぜ受け入れるのか。まっとうな意見だ。これに対して小松が答えた。「吉川先生は追放されたのではありません。転籍されていました」。
 苦しい言い訳だった。出て行った時には、そんなことは言っていなかった。しかも、どうして他教団の教会だったのか。席上牧師たちは、吉川が転出した先の教会でも慕われており、そこに残るように懇願されていると言った。それならば、帰ってこなければよい。矛盾だらけだ。何も明らかにならなかった。
 結局吉川の弟子たちは、信者を納得させられるような説得をするつもりもなかったのだ。意見だけを出させて、「本日はありがとうございました。では、某月某日に吉川先生は帰って来られます」というアナウンスメントで、すべてを封じ込めてしまった。
 こんなものは総会でもなんでもない。ただの上意下達だ。これでガス抜きができたと思っていたのなら、人を馬鹿にした話だ。
 そもそも、吉川の追放劇そのものが、ほとぼりが冷めるまでの数年間という、密約でもあったのではないかとさえ思えた。

 ところで吉川を監督すべき、JPC教団は何をしていたのか。

 それは一般信者の知るところではなかったが、たぶん、内輪では反対もあっただろう。そうでないと示しがつかないではないか。吉川の復帰を巡ってかどうかは知らないが、その後教団は分裂してしまった。
 図書館でたまたま見つけた数年前のキリスト教年鑑を見ると、JPC教団の総帥であり、吉川の先輩牧師であった中村博は、自分の教団を作り、吉川と袂を分かっ たようだった。JPCは新組織になって改称し、その代表として吉川が、なぜか色つきメガネをかけたままの写真で紹介されていた。それは、田舎ヤクザの組長か総会屋の社長にしか見えないものだった。
 破戒僧を追放できなかった教団と他の教会の牧師たちにも、一定の責任は問われてしかるべきだろう。吉川の事件で、教団が関西ペンテコステ福音教会の信者に、謝罪めいたことや、責任の所在を明言することは全くなかった。

 教団も結局のところ、無責任な人間の寄り集まりだったのだ。

 一言で言えば、教団も教会幹部も、皆、偽善者だった。そして、その末席に座って何もできなかった私も、間違いなく偽善者のひとりだった。
 もちろん、この復帰報告の総会の後、一部の信者は愛想をつかし、大量に脱会した。
 私の親友だった丸畑も黙って去ってしまった。臨時総会で牧師に詰め寄った佐藤も教会をやめた。同じく熱心な信者だった佐藤の妻のところに、戻ってくるように友人が電話をかけてきた。佐藤は「行かへんて言うとけ」と一言叫び、妻もそれに従った。
 しかし私は、哀れなことに、この時点でもまだ完全に洗脳から解けていなかった。しばらく付き合っている苅田が教会にいたことや、教会学校の先生をしていたことも、私の決断を鈍らせた。
 そして、自分が青春を捧げてきた教会を否定してしまうことは、自分自身のすべてを否定することと同じだったから、私には容易に教会を捨てることはできなかったのだ。

第6章 復帰と決別( 2 / 5 )

 無為に数週間が過ぎた。私は結局、暫く悩んだ末に、愛想笑いで吉川を向かえることにした。
 
 吉川が帰ってくる最初の日曜日。私が吉川のスキャンダルを知っていることを、吉川自身が知っていたかどうかは知らない。教会がそれを公表した時、集会に出席を許された最年少のグループに、私は属していたから、私がそれを知らなくてもおかしくはない。
 実際私の妹もそうだが、教会に来て間もなかった彼女の夫は、私と同学年だが、公表そのものを聞いていないのだ。
 吉川は、出て行くときとは正反対の大きな笑顔で私と握手を交わした。
 「いやぁ、あなたでしたか。変わりましたね」。
 私は何とも言えない複雑な気持ちになった。

 礼拝の説教。私は、事件の本質に触れるかどうかは別にして、吉川が信者に頭を下げるところから始まることを期待した。「頼むからそうしてくれ」。私はそう祈った。吉川が頭を下げてくれたら、私は何も言わずに、この教会で頑張れる。

 しかし、私の心秘かな思いは打ち砕かれた。拍手で迎えられた吉川は、謝罪をするどころか、ふんぞり返って説教をした。五年前のように、そしてその間、何もなかったかのように。 
 吉川は『ヨハネによる福音書』第十五章一二節、「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」 と、『エペソ人への手紙』第四章三二節、「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互に ゆるし合いなさい」をひいて、「イエス様を信じる私たちは、たとえ何があっても互いを許さねばりません。なぜなら、イエス様がそうしてくださったからです。ですから、私たちもお互いに許し、愛し合いましょう」と、平然と言ってのけた。
 それは、「私はイエスに許されているのだ。だからイエスに倣って、お前たちも私を許せ。何も言うな」。そういうことだった。

 説教が終わると、私の戸惑いに気づくはずもなく、牧師たちはにこやかに講壇に集まり、私たちには威張り散らしていた浮田が腰ぎんちゃくに舞い戻って、改めて吉川を歓迎することを宣言した。礼拝堂に拍手が響いた。しばらく続いた拍手の中。私はひとり、取り残されていた。
 意外だったのは、つんけんしていることで有名で、信者の女性たちから評判が悪かった吉川の妻・民子が促されて挨拶をしたことだ。その中で彼女は、「主人の不祥事」で皆さんに迷惑をかけたと、頭こそ下げなかったが、謝罪の言葉を述べたのだった。
 私は吉川の顔を見たが、「追放」されたときと同じような、他人事の顔で、妻の謝罪を聞き流していた。

 「妻だって私を許しているのだ。お前たちも許せ」。そう言わんばかりに。

 吉川は結局、今でも、未信者の時の、引っ込み思案だったころのように、ややこしいことは民子にさせるということなのか。それで自分の禊は終わったと思っていたのか。
 吉川は、信者にスリッパを並べる気持ちなど、やはりなかった。私は、ベースギターをケースにしまい、帰り支度をしながら、怒りと失望で涙が出そうになった。

 この教会はもうだめだ。

 イエス様は私たちを許してくれたのだから、私たちが許しあうべきなのはわかる。私も吉川を許す。しかし、破戒僧が信者に許しを強要し、再び上に立って、偉そうに説教を垂れることなど許してはならないのだ。
 浮田は、私の「恋愛事件」の時、「おまえが今度女にちょっかいを出したらお前を用いない」と私に言ったが、吉川は不倫をしても、自分の権威を利用して信者の女に手を出しても、また用いられている。それに対して、信者に厳しい浮田は、吉川にはへらへらしているだけだ。
 こんなダブルスタンダードが、関西ペンテコステ福音教会ではまかり通っていたのだ。浮田に、「お前の嫁はんも、今、お前の目の前にいるこの男に抱かれたという噂やねんぞ」、と言ってやりたかった。

 偽善だ。全くの偽善だ。イエスが批判したパリサイ人よりもひどい偽善だ。

 イエスに許されたらみなチャラになる。これが偽善でなくて何だというのか。イエスはそんなつもりで、罪人を許すと教えたというのか。それならば、真面目に信仰生活を送るのは、烏滸の沙汰だ。

 後に私はカトリック教会で、アンドレアスという若い神父と知り合った。彼は、信者の女性と恋に落ちた。神父は結婚することができない。彼は罪を犯す前にその職を捨て、一般信者となって彼女と結婚する道を選んだ。彼が結婚した後、日曜日のミサの聖体拝領の時、今までは彼が信者にご聖体をわたしていたのに、信者の列に並んで、別の神父から聖体を受ける。彼はそれを屈辱とは思わず、誇りに思っているようだったし、他の神父たちも、ミサが終われば、彼に勇気ある友人として接していた。

 同じような例をもうひとつ知っている。名前は忘れたが、そのドイツ人の神父は、私の母校の教授でもあった。彼は、同僚から「転びキリシタン」だと揶揄されながらも、一回り以上年下の細君と結婚するために、神職を捨てたのだった。
 彼らは吉川のような不倫をした訳ではない。しかし、彼らが恋愛し、結婚することは、神父に叙階された者に対する戒めを破ることになるので、自らその職を辞したのだ。

 吉川が即席で牧師になったのとは違い、カトリックの神父は、幼少期から長い年月をかけて、その地位に到達する。それまでの間に、何度も自分を試されることがあって、それでも養成課程を全うした者だけが、神父としての尊敬を受ける。にもかかわらずアンドレアスも、その教授も、罪を犯すことがないように、それを捨てたのだった。

 このカトリック神父の潔さと比べて、吉川の醜い執着心はどうだろう。

 吉川は、結婚もできるし、妻とセックスもできるプロテスタントの牧師という立場で、権威をかさに来て、抵抗できない、無力な女信者に手を出したのだ。それが露見しても、自ら職を辞すこともなく、転籍でお茶を濁して、今度はごり押しの復帰だ。

 私はようやく、白昼夢から目を覚まそうとし始めた。

第6章 復帰と決別( 3 / 5 )

 私は丸畑と一緒に出奔しなかったことを心から悔やんだ。そしてこの日から、いよいよというか、ようやく脱会するタイミングを見計らうようになっていった。

 吉川が帰ってくる直前から、私は明らかに礼拝を、というよりも、礼拝における説教を軽視するようになっていた。同じ話の繰り返しで、つまらないから、ということもあった。一三歳の時から取り続けてきた説教のメモも一切取らなくなった。誰が説教をし、誰が司会をし、誰が賛美歌のリードをしたかということまで、集会ごとに細かくつけていたノートをすべて捨てた。今となっては、どれだけくだらない話をしていたのかを思い出すために、もう一度読み返したい気分だ。

 アメリカから帰国して以来、私ははっきりと教員志望になったので、日曜学校で教材を工夫して子供たちを教えることに熱心になってはいた。その頃私は、小学校中級クラス(三、四年生)を担当していた。カリキュラムは、キリスト教出版社が発行している教育雑誌をもとに一応あって、それに従って授業案を考え、教案や教具を作った。
 モーゼの十戒の内容を絵で説明したフラッシュカード、アダムとエヴァが蛇に騙されるという、いわゆる失楽園の物語(『創世記』第三章)のために作った、東京コミックショーのような蛇のパペットなどを思い出す。
 全部自腹だったが、子供に判りやすく教えるためだったら、全く苦にはならなかった。自分が作りたかったから、保護者向けの月報も作り、私は、自分がいつか、本当の教壇に立つときのための準備をしていた。しかし、日曜学校以外は極力手を抜いていった。

 バンマスが、吉川の女だった辻本から、古参信者で、やっぱり吉川を妄信していた狩谷崎ひとみに代わったら、礼拝でベースギターを弾くことからおろされた。これは、私より腕がたつベーシストがいたということもあるかも知れないし、日曜学校の行事の関係で、日曜礼拝に出られないこともあったから、便宜上ということから始まったのかも知れない。私はその理由の説明を受ける前に、いつの間にか、完全にバンドメンバーから外されていたのだが、これでまた少し気が楽になった。私は、泥沼から足が片方抜けたような感覚を覚えていた。

 用いられなくなっても平気な自分がそこにいた。

 私は次に、教会で洗礼を受けた信者に半ば強制されていた、「什一返金」を拒否した。この奇妙な名前のお布施は、『マラキ書』第三章一〇節にある「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる」を都合よく解釈したもので、全収入の十分の一は神の取り分であるから教会に持って来いというものだ。献金は匿名だが、「什一返金」は記名で、金額も書かねばならない。
 吉川は、神を試してはいけない(『申命記』六章一六節)という大原則に反して、この箇所だけ、唯一「私(神)を試せ」と書かれていると教え、このお布施を奨励した。
 私は、神を試すつもりなどなかったので、実際のアルバイト収入の十分の一など袋に入れたためしはなかったのだが、結局それも完全に止めてしまった。
 二~三ヶ月して、会計責任者の三木が私を呼び出し、「最近什一返金をしていないようだがどうなっているんだ」と詰問した。えらそうな口調だった。
 まさか、金のことで教会が私を監視しているとは、その時までは思わなかったが、私は開き直っていた。憤然として、「神を試せと言われているが、私にはその信仰がないからしないのです。それに献金で私はその分も捧げています」と嘘をついた。
 実はそのころ私は、献金もほとんどしなくなっていた。「献金と返金は違うんだが、信仰がないと言われればそれまでだ」と、三木は引き下がらざるを得なかった。

 私は勝ったと思った。そしてそれを牧師たちに咎められることもなかった。

 献金といえば、こういう話がある。吉川が復帰してからのことだ。
 地元の建設会社社長の田淵幸雄一家は家族そろって熱心な信者だった。私は、学生キャンプで中学生になったばかりだった長女の面倒を見たことがきっかけで、一時期彼女の家庭教師をしていた。それで家族ぐるみで懇意にしていた。お金持ちで優しい両親、可愛い子供たち。いつも笑顔が絶えない、素敵な一家だった。
 ある日、吉川が礼拝中にこう言った。
 「私は献金のことについてとやかく言うつもりはないのですが、先日田淵さんが教会に百万円を献金しました。みなさんもできる限りのことをしようじゃありませんか」
 私は耳を疑った。吉川は百万円という金額を暴露した上で、田淵の名前を公表したのだ。
 もちろん、田淵はそんなつもりで献金したのではなかったろう。これはプライバシーの問題でもある。私は吉川が下半身だけでなく、こういった面でも牧師を名乗る資格はないと思った。

 吉川は追放の前に一度、浄水器の宣伝を礼拝の説教の中でしたことがあった。そして「買いたい人は私に言ってください」と付け加えた。浄水器がマルチまがいの商法で売られていることがよくあるが、吉川はそれでサイドビジネスもしていたのかも知れない。もちろん、純粋に自分の感想を述べただけかもしれないが、そ れを疑われても仕方がないだろう。

 少なくとも浄水器の斡旋は、説教中に話す話題ではない。

 それでも私はまだ、最終的に教会を離れる決心がつかないでいた。私は何を恐れていたのだろう。マインド・コントロールと言えばそれまでだが、私はやはり、この教会がマトモになるなら、続けて通っていたいと思っていた。
 
 そうだ、日曜は礼拝を休んではいけないのだ。私はまだ地獄が怖かったようだ。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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