信ずるものは、救われぬ

第6章 復帰と決別( 3 / 5 )

 私は丸畑と一緒に出奔しなかったことを心から悔やんだ。そしてこの日から、いよいよというか、ようやく脱会するタイミングを見計らうようになっていった。

 吉川が帰ってくる直前から、私は明らかに礼拝を、というよりも、礼拝における説教を軽視するようになっていた。同じ話の繰り返しで、つまらないから、ということもあった。一三歳の時から取り続けてきた説教のメモも一切取らなくなった。誰が説教をし、誰が司会をし、誰が賛美歌のリードをしたかということまで、集会ごとに細かくつけていたノートをすべて捨てた。今となっては、どれだけくだらない話をしていたのかを思い出すために、もう一度読み返したい気分だ。

 アメリカから帰国して以来、私ははっきりと教員志望になったので、日曜学校で教材を工夫して子供たちを教えることに熱心になってはいた。その頃私は、小学校中級クラス(三、四年生)を担当していた。カリキュラムは、キリスト教出版社が発行している教育雑誌をもとに一応あって、それに従って授業案を考え、教案や教具を作った。
 モーゼの十戒の内容を絵で説明したフラッシュカード、アダムとエヴァが蛇に騙されるという、いわゆる失楽園の物語(『創世記』第三章)のために作った、東京コミックショーのような蛇のパペットなどを思い出す。
 全部自腹だったが、子供に判りやすく教えるためだったら、全く苦にはならなかった。自分が作りたかったから、保護者向けの月報も作り、私は、自分がいつか、本当の教壇に立つときのための準備をしていた。しかし、日曜学校以外は極力手を抜いていった。

 バンマスが、吉川の女だった辻本から、古参信者で、やっぱり吉川を妄信していた狩谷崎ひとみに代わったら、礼拝でベースギターを弾くことからおろされた。これは、私より腕がたつベーシストがいたということもあるかも知れないし、日曜学校の行事の関係で、日曜礼拝に出られないこともあったから、便宜上ということから始まったのかも知れない。私はその理由の説明を受ける前に、いつの間にか、完全にバンドメンバーから外されていたのだが、これでまた少し気が楽になった。私は、泥沼から足が片方抜けたような感覚を覚えていた。

 用いられなくなっても平気な自分がそこにいた。

 私は次に、教会で洗礼を受けた信者に半ば強制されていた、「什一返金」を拒否した。この奇妙な名前のお布施は、『マラキ書』第三章一〇節にある「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる」を都合よく解釈したもので、全収入の十分の一は神の取り分であるから教会に持って来いというものだ。献金は匿名だが、「什一返金」は記名で、金額も書かねばならない。
 吉川は、神を試してはいけない(『申命記』六章一六節)という大原則に反して、この箇所だけ、唯一「私(神)を試せ」と書かれていると教え、このお布施を奨励した。
 私は、神を試すつもりなどなかったので、実際のアルバイト収入の十分の一など袋に入れたためしはなかったのだが、結局それも完全に止めてしまった。
 二~三ヶ月して、会計責任者の三木が私を呼び出し、「最近什一返金をしていないようだがどうなっているんだ」と詰問した。えらそうな口調だった。
 まさか、金のことで教会が私を監視しているとは、その時までは思わなかったが、私は開き直っていた。憤然として、「神を試せと言われているが、私にはその信仰がないからしないのです。それに献金で私はその分も捧げています」と嘘をついた。
 実はそのころ私は、献金もほとんどしなくなっていた。「献金と返金は違うんだが、信仰がないと言われればそれまでだ」と、三木は引き下がらざるを得なかった。

 私は勝ったと思った。そしてそれを牧師たちに咎められることもなかった。

 献金といえば、こういう話がある。吉川が復帰してからのことだ。
 地元の建設会社社長の田淵幸雄一家は家族そろって熱心な信者だった。私は、学生キャンプで中学生になったばかりだった長女の面倒を見たことがきっかけで、一時期彼女の家庭教師をしていた。それで家族ぐるみで懇意にしていた。お金持ちで優しい両親、可愛い子供たち。いつも笑顔が絶えない、素敵な一家だった。
 ある日、吉川が礼拝中にこう言った。
 「私は献金のことについてとやかく言うつもりはないのですが、先日田淵さんが教会に百万円を献金しました。みなさんもできる限りのことをしようじゃありませんか」
 私は耳を疑った。吉川は百万円という金額を暴露した上で、田淵の名前を公表したのだ。
 もちろん、田淵はそんなつもりで献金したのではなかったろう。これはプライバシーの問題でもある。私は吉川が下半身だけでなく、こういった面でも牧師を名乗る資格はないと思った。

 吉川は追放の前に一度、浄水器の宣伝を礼拝の説教の中でしたことがあった。そして「買いたい人は私に言ってください」と付け加えた。浄水器がマルチまがいの商法で売られていることがよくあるが、吉川はそれでサイドビジネスもしていたのかも知れない。もちろん、純粋に自分の感想を述べただけかもしれないが、そ れを疑われても仕方がないだろう。

 少なくとも浄水器の斡旋は、説教中に話す話題ではない。

 それでも私はまだ、最終的に教会を離れる決心がつかないでいた。私は何を恐れていたのだろう。マインド・コントロールと言えばそれまでだが、私はやはり、この教会がマトモになるなら、続けて通っていたいと思っていた。
 
 そうだ、日曜は礼拝を休んではいけないのだ。私はまだ地獄が怖かったようだ。

第6章 復帰と決別( 4 / 5 )

 吉川が戻って来て最初の信徒総会の一ヶ月ほど前のことだった。今回から「目安箱」がなくなり、質問はすべて当日受け付けるというアナウンスがあった。
 会計監査がまだ行われていないことは明らかだったし、これは明らかに質問封じだった。会計監査くらいなら誤魔化せるが、吉川のスキャンダルでも書いた紙爆弾があったら困るからだろう。

 私はひとつの決心をした。目安箱がなくても、事前に質問をして反応を見ようと。

 私は吉川宛にではなく、信徒総会担当者宛に、匿名の質問状を送りつけた。吉川のスキャンダルについてはあえて書かなかった。それはせめてもの武士の情けだと考えた。
 新しく信者になった若者の親が、興信所を使って関西ペンテコステ福音教会を調査させたところ、カルト集団として報告されていた。友人であった信者のひとりが、彼に話をよくよく聞いてみると、どうやら、統一協会と間違えられたらしかった。
 その話題を中心に、会計監査のことはもとより、教会運営の不満について、連綿と便箋一枚にワープロで書き、あたかも複数の人間がそれに関与しているかのように装った。私は、今のままでは、友人を教会に誘うことは、恥ずかしくてできないと締めくくった。

 果たしてその信徒総会の前の週、吉川は礼拝中に大爆発したらしい。

 らしい、というのは、私は日曜学校の行事の関係で礼拝には出席せず、午前中いっぱい子供たちと一緒にすごしていたからだった。
 偶々その日私は、帰り間際に、百万円の田淵夫妻と立ち話をした。
 吉川は、「質問があるなら直接しろと言ったはずです。ワープロを使うとはやり方が汚い」と、ものすごい剣幕だったらしい。まぁ、人格者でない吉川なら、さも ありなんといったところだ。同じことでも冷静に言えばよいものを、長崎の時もそうだったが、礼拝中に激怒するとは、スキャンダルがなくても、牧師としての 資格を疑うのに十分な話だ。

 しかし、質問封じに『目安箱』を撤去するほうがよほど汚いではないか。

 私は運よく礼拝に出席していなくてよかったと思った。吉川に睨みつけられでもしたら、私はその時点でも、自分がやったと自白してしまいそうだったからだ。
 その時、田淵は私に、意外なことを言った。
 「それを書いたのは私だって言おうかと思ったんだよ」。
 私がきょとんとしていると、「いろいろ聞きたいことがたくさんあるもの」と続けた。そして田淵の妻が、いつものように、ふくよかな顔に、満面の笑みをたたえ ながら、夫と同じ鹿児島訛りで、「私たちが『幸福の科学』の勉強をしていると言ったら、先生、何て言うかしらね」と付け加えた。
 私は一瞬耳を疑い、何も言うことができないでいた。その様子を気遣うこともなく、夫のほうが続けてこう言った。「青木兄弟、私は、大川先生は、よみがえりのイエス、本当のエルカンターレだと思うよ」と言い切った。

 私は、誰かが聞いていないかと、ひとりひやひやしていた。

 大川隆法の作ったこの新興宗教は、当時芸能人を巻き込んで、ものすごい勢いを見せていた。田淵夫妻は、信者の疑問に答える気のないイエスよりも、エルカンターレ・大川を選ぼうとしていた。
 吉川流に言えば、教会に百万円寄付するほどの大きな信仰がある田淵一家が、キリスト教ではない新興宗教に興味を持ち始めている。私はある意味で驚いたが、よく考えてみれば、この教会だって、客観的に見れば新興宗教だった。セクトかカルトだと言われても仕方が無い組織だった。

 その頃私は、教会を去る準備をしながら、教会に通い始めたころのことをよく思い出していた。

 大野との出会い、優しかった大野の母、あまりきれいでなかった古い教会堂と日曜学校の狭い部屋、洗礼タンク、キャンプ、私の最初の先生である若山と福井…。
 若山は吉川に手をつけられたことが原因で、同じ教団の別の教会に、ずいぶん前に移っていた。今は老女となった彼女が、どんな気持ちでいるのか、私は哀れで仕方がない。福井は、吉川が追放される前に、牧師になって教会を去っていた。ネットで探したが無駄だった。
 噂によれば福井を牧師に任命する時、吉川は女の問題を暴露されることを恐れて、渋々任命したという。任命式に私は出席していたが、吉川は福井を会衆の面前で土下座させ、按手の祈り(手を頭の上に置いて祈ること)をした。せめてもの吉川の意地だったのだろう。
 福井には悪いが、私はもしもそれが事実なら、福井は悪魔に魂を売ったも同然だと思う。自分の牧師任命を犠牲にしてでも、福井は事実を暴露する道を選ぶべき だったのだ。それが聖職者ではないか。それをした福井を攻める者がいたとしても、マトモな信者は福井についていくだろう。吉川の穢れた手による按手よりも、信者の推戴を選ぶ勇気を、この教会の牧師や伝道師たちは持っていなかった。

 見て見ぬふりをしたのなら、みんな同罪だ。

 その福井の姉が、私にこう言ったことがある。「創価学会は仏教の異端、あなたたちはキリスト教の異端だと友人に言われるのよ」。
 確かにそうだろう。異端=カルトといってもピンキリだ。統一教会、モルモン教、エホバの証人、クリスチャン・サイエンスなどは、ほとんどのキリスト教会がそれをキリスト教だとは認めていない。しかし、キリスト教のカテゴリーに入ってはいても、実は関西ペンテコステ福音教会のように、かなり際どいものも多くあ る。
 ネット上にはそのような情報が飛び交っている。信者は、イエスの教えにではなく、実はその教会の教え、有体に言えば、牧師の脅しに呪縛されてしまうのだ。

第6章 復帰と決別( 5 / 5 )

 私が教会をやめる直前、有名大学を卒業してエンジニアになっていた丸畑が、信者ではない、私たち共通の幼馴染と結婚をした。丸畑は私よりもはるかに頭脳明晰だったが、決断力もあった。
 私は教会に来なくなった丸畑が、信仰についてどのように考えていたかを尋ねるのが怖かった。だから、友だちづきあいは辞めることはなかったが、信仰話は抜きだった。丸畑も私に、何かを強要することも、文句を言うこともなかった。
 丸畑は私が教会に引きずり込んだのだ。私はその負い目を感じている。
 丸畑の父も母も私は知っている。長年の友だちづきあいということで、私は披露宴の司会をさせてもらうことになった。
 西蔵の美容院で、相変わらず長髪ぎみだった髪を、もう一度短くしたのはこの時だった。鏡の中に写る自分は、別人だった。そう信じたかった。

 丸畑は流通企業が作った人工都市の中にある、コミュニティー・センターの役割を果たしている教会堂をレンタルし、彼が師と仰いでいた、今市均という、高知に住んでいる牧師を司式として呼んだ。
 今市は一時吉川に心酔し、公立楽団のホルン奏者という職を投げ打って、献身の道に入った。
 今市が教会で伝道師をしていたころ、彼はやはり音楽をしていた私との接点が多かったが、彼も浮田ほどではないにしろ、私をなぜか目の敵にしていた。後で聞くと丸畑は、「今市先生は青木君のことを誤解していますよ」と、ずっと言ってくれていたらしい。
 私は今市が苦手だったので、正直言ってどう接してよいかちょっと迷ったが、実際に再会してみると、関西ペンテコステ福音教会を脱出したあと、ホスピスの牧師になった今市は、ある意味で普通の人になっていた。
 広い額はそのままだったが、憑き物が落ちたような顔になっていた。披露宴ではビールも口にしていた。本当に普通の人だった。
 郷里の英雄である坂本竜馬が好きな今市は、「私はあの教会を『脱藩』して本当によかった。それですべてが始まったんだよ」と、暗に私が教会を出ることを勧めた。
 今市は自らが教会を後にする直前、バンドの練習のあとで私と2人きりになった時、吉川の下半身スキャンダルのせいで、去っていった人の名前をひとりひとり挙げて、「こんな立派な人たちを、これ以上教会が手放してはいけないんだよ」と、私に向かって嘆いて見せたのだが、間もなく彼自身も消えた。
 今市は外からこの教会を見ることで、彼自身も、吉川やその取り巻きの愚か者どもがいる限り、あの教会を内から建て直すことは困難だと思い知ったのだろう。
 私は、丸畑の結婚式の後、自らの「脱藩」の直後まで、今市に対して、自分の真情を吐露するメールを何通か送った。
 今市は私の脱藩の決意を喜び、私が「今、教会に捧げた青春を取り戻す作業をしている」と書いたことに対して、「その点について、私にも責任の一端があると思っています」と書き送ってくれた。私は素直にその言葉をで踏ん切りがついたような気がする。

 私はついに教会を去ることにした。

 教員採用試験に合格した後、苅田とうまくいかなくなっていたことが、その決断を加速させた。もう、失って後悔するものはない。小学校三年生の最後の日曜日から、一七年以上も通い続け、楽器奏者や日曜学校の先生をするという、言わば中心的な信者のひとりと思われていた私は、牧師に連絡をすることもなく、妹夫婦にも打ち明けることなく、関西ペンテコステ福音教会を去った。昭和最後の年の初秋のことだった。
 日曜学校の校長であった、星川みどりという伝道師にだけは、少し後で手紙を書いた。年度の途中で日曜学校を放置したことが心残りで、彼女にそれを詫びたかったからだ。
 それ以外の人には、何も話したくなかった。私は、もう吉川の顔は二度と見たくなかったし、だからといって他の誰かに、いちいち話をするのも面倒くさかった。
 星川は私に一度だけ電話をしてきた。「何でやめるのん」という彼女の質問に対し、私は吉川にはついていけないと言ったのだが、「徳子ちゃんと別れたからでしょ、ね、そうでしょ」と、私に詰め寄った。他のことも皆、吉川がらみの話をすると、星川はむきになった。
 私が教会を止めることを、吉川のせいにはしたくないというのが見え見えだった。

 私は「それでいいですよ」と言った。

 自分もそうだったからよく分かるのだが、フランシス・ベーコンが言うように、洞窟の中で呪縛され、そこで影だけを見ている人間は、その外側にも実在の世界があることに気づかない。
 そういう人々との議論は無駄だ。
 それから数ヶ月、私は、吉川でなくても、私の監督責任者であるはずの浮田が、私を引き止めるために家庭訪問をするものだと思って、ある意味で戦々恐々としていた。妹夫婦は信者だったし、幼なかった甥への「悪影響」を考えれば、きっとそうするだろうと思っていた。
 しかし、浮田はおろか、誰ひとり私を訪ねて来ることはなかった。本当に誰ひとりも、である。私はもう、吉川の秘密を知っている邪魔者のひとりにすぎなかった。ややこしい人間がいなくなって、かえって彼らはよかったのだろう。
 そういえば私は信者であった一七年間、伝道師や先輩信者の訪問を受けたことはあっても、牧師に訪問されたという経験は一度もなかった。

 所詮教会なんて、そんなもんだったんじゃないか。

 私はほっとはしてはいたが、自分の「青春」が、全くの虚像であったことに漸く気がつき、寂寥感に震えたのだった。

エピローグ( 1 / 4 )

「そのとき、
だれかがあなたがたに
『見よ、ここにキリストがいる』、
また、『あそこにいる』と言っても、
それを信じるな。
にせキリストたちや、
にせ預言者たちが起って、
大いなるしるしと奇跡とを行い、
できれば、選民をも惑わそうとするであろう」。
『マタイによる福音書』第二四章二三、二四節。


 私は、関西ペンテコステ福音教会に、青春時代のすべてを費やしてしまった。
 その間、私の心は完全に教会の教えに洗脳されていた。この教えとは、イエスの教えのことではない。吉川清の教えであり、浮田賢一の教えであり、それを鵜呑みにした辻本や横山の教えだった。それをイエスの教えだと、私は信じ込まされていたのだった。
 長い長い悪夢から目が覚めたら、私は結局ひとりだった。兄弟・姉妹と呼び合った仲間も、誰も私の周りにはいなかった。誰も私に声をかけようとはしてくれなかった。本当に誰ひとりもだ。
 吉川の説教のネタに、ある共産主義者の人生を語ったものがあった。
 この人は熱心な活動家で、一生を共産主義に捧げたが、年老いて病に倒れ、何もできなくなったとき、彼は自分と主義主張を共にしてきた人が、自分の周りからいなくなり、自分が見捨てられたことに気づいた。でも、教会の仲間はそうではない。というような内容だ。
 しかし、私は教会にいたのに、この老共産主義者と同じ気持ちを抱いていた。結局のところ、吉川もその取り巻きも、信者たちも、みんな口だけだった。

 それでも私は、教会に行かなくなった後、「死んでも休んではいけない」と教え込まれた教会に通っていないことに対する自責の念に苛まされ続けた。
 そして1年ほどの空白期間を経て、私は結局、その間に結婚した前妻の寛子が信者だったことも手伝って、カトリック教会に通い始めた。
 寛子と同じ墓に入ろうということではなかった。そうでもしないと、私の心の隙間が埋まらなかったからだ。
 実際、形式的な信者だった寛子は、私が促しても教会に行きたがらず、私だけが行くと、自分が恥ずかしいという理由で、私だけがミサに出ることも許さなかった。しかし私は、たまにでもミサに行くことで、自分が安心することができた。
 私は、一緒に教会に行くことで、最初からギクシャクしていた寛子との関係も、少しはうまくいくようになるだろうと、教会に期待もしていたのだった。私はイエス、否、教会なしでは、夫婦生活もコントロールできない人間に落ちぶれていた。
 夫婦生活を取り持つという、私の教会に対する期待は裏切られたが、私にとってカトリック教会は、自己満足のために信仰を続けるという意味では楽だった。
 神父は(表面的には)堅物が多かったが、彼らは死んでも日曜日に来いとは言わなかった。ミサでの説教は短かかった。もちろん、吉川も浮田も、鬱陶しい連中は誰もいない。平日の夜の集まりもキャンプもない。基本的には、日曜の一時間足らずのミサだけだ。

 そして何よりも、私はカトリックの教義にある意味で感服していた。

 その内容を信じるかどうかは別にして、聖書にある矛盾を見事に自家製の挿話で補強し、一応の合理化を試みていたからだ。私はそこにある種の潔さを感じた。

 たとえば、聖母マリアの処女懐胎についてがそうだった。
 マリアも人間である。だからマリアが他の人間と同じように原罪を背負っておれば、そのマリアの子であるイエスは無原罪たりえない。
 だからそれを合理化するために、マリアは特別に無原罪とされ、それ故に「被昇天」だったとカトリックは宣言する。

 この副作用が「マリア信仰」だ。

 『出エジプト記』第二〇章三節には、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」とある。だからマリア信仰は、戒律と矛盾するのは明らかだ。因みにこれは、有名な「モーセの十戒」の第一番目の掟なのだ。
 父・子・聖霊は三位一体、即ち神はひとりとされ、神以外の何ものにも手を合わせてはいけないというのが、ユダヤ、キリスト、イスラム教では非常に重要な戒律だ。

 しかし、明らかにカトリックでは、マリアに祈る。

 私は今でも「めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身とともにまします」で始まる『天使祝詞』をそらんじることができる。それくらいこの祈りの言葉は、カトリックでは重要だ。
 これはどんな言い訳をしても、マリア信仰だ。

 プロテスタントは、マリアが処女のまま懐胎したと、『ルカによる福音書』第一章三〇~三八節などにあるように、額面どおりに信じるが、なぜマリアが老夫婦、 ザカリアとエリサベツの子であると明記されているのに、原罪があるマリアから生まれたイエスが無原罪なのかを説明しない。
 その宿題を残したまま、カトリックのマリア崇拝だけを非難するのはお門違いだと私は思う。
 多分、吉川や浮田に聞けば、例によって「神には何でもできる」で片付けてしまうだろう。それならば、神はその力で、全ての人間の原罪をなくせるはずではないか。それができないのなら、YHWHの神は、阿弥陀如来よりも無力ではないか。

 私がカトリック教会に、自分の居場所を何とか見出そうとしていたころ、オウム真理教による一連のテロ事件が起こった。地下鉄サリン事件が起こったのは、平成七年三月のことだった。

 当時私は、教諭として定時制高校に勤めていた。その日私は、一〇時ころに家を出て昼前に学校に着いたのだが、早く出勤していた恵比寿顔の教務主任が、普段は見せない険しい顔で職員室のテレビに釘付けになっていた。
 まだ誰も、いったい何が起こったのか、全く理解できないでいた。
 そしてその後、テロ事件がこの邪教集団の教祖・麻原彰晃こと、松本智津夫の教えに洗脳された、オウム真理教の信者の仕業であったことが明るみに出た。
 このカルトは、自らチベット仏教との関係があるかのように見せかけ、実際には、教祖のための、教祖による、教祖の教えを流布させようとしていた。その行き着く先が、このテロ事件だった。

 私は、この事件に激しい憤りを感じながら、その一方で自責の念に駆られていた。
 私もこのテロリストの信者と基本的には同じだった。自分は物理的なテロに与することはなかったが、後輩たちや日曜学校の生徒を洗脳することに加担していたのは確かだし、吉川や浮田に、神の国の実現のためにサリンを撒けと言われれば、私だってそうしていたかも知れない。
 
 私は自分の青春を悔いた。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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