私が高校生になった頃、学生集会の責任者だったのは、辻本麗子という三〇歳前後の伝道師だった。
彼女は礼拝時のピアニストで、プロのピアニストを志したが挫折したという経歴の持ち主だった。父は元海軍将校で、やはりピアノをたしなむだけではく、調律までやってのけた。彼女の弟も教会に来ていた。子供だった私の目から見てもおしゃれな人で、彼もまた音楽家だった。私は一時、辻本の実家で、エレクトーンをこの人から習っていた。
その頃、礼拝でベーシストになっていた私にとって、辻本はバンマスでもあった。長い髪にもちろん化粧はなし。地味な印象だが、色白でふっくらした顔立ちは、雛人形を思い起こさせた。美人に属するほうだった。
優しそうな外見とは裏腹に、とにかく辻本は学生に厳しく接した。実際、私が「恋愛事件」を起こした時も、最も激しく私たちを叱責したのは、実は吉川でも、浮田でもなく、この辻本だった。
さて、昭和五二年八月、泉南キリスト福音教会は、新会堂オープンに伴い、関西ペンテコステ福音教会と改称され、献堂式を行うこととなった。
それまで信者は、通常の献金とは別に、「新会堂献金」と印刷された袋を渡され、毎月のノルマを自分で決めて、献金を行ってきた。それが結実したのだった。
コンクリート四階建ての白い会堂は、住宅街と畑が密集した急坂の土地に作られていた。一階は小さなホールと、日曜学校に使われる小部屋が三つ、そして台所が
あった。三百人程は有に収容できる広さの礼拝堂は二階にあった。二階にも入口があり、事務所はそこにあった。蛍光灯を裏に仕込んだ大きな十字架が中央に置かれ、韓国から取り寄せたという立派な説教台は、細かい装飾が美しいものだった。
講壇の右側にはスタジオ調整室があり、礼拝のビデオの録画や録音が行われた。三階にはまたいくつかの小部屋と倉庫、そして礼拝堂を見下ろすガラス張りの部屋があった。そこは、小さい子供をつれたお母さんたちが、集会に参加するための部屋になった。アイデアは良かったのだが、換気ができないのが難点だった。赤ちゃんのオムツをお母さんたちがここで交換したことが原因で、すぐに部屋が臭くなってしまった。その部屋は、新設された高校生のための日曜学校の教室でもあった。日曜学校に参加していた私たちは、部屋に染み付いた汚物の臭いに閉口していた。
そして、最上階は吉川の住居だった。新会堂に、なぜ吉川の住居があるのか、そして新会堂献金がどのように使われたのか。疑問を持つ者は誰もいなかった。
献堂式の際に、記念聖会が平日の夜も含め、一週間行われることになった。私はちょうどその日程で、高校の地理歴史部の合宿があり、丹後半島へ巡検に行くこと
になっていた。私は平日の集会は休もうと軽く考え、それを辻本に告げた。そのまま休めばよかったのに、なぜ告げたのかはわからない。
辻本は静かに、しかし厳しく、合宿を休んで聖会に来るように私に命じた。
私が休んだら、もう二度とバンドのベーシストをさせないと宣告した。もしも賛美歌の歌詞の字幕をオーバーヘッド・プロジェクターで投影する係だった丸畑と中町が休んだら、彼らもその役目から下ろすと、辻本はきっぱりと言った。それ程、献堂記念聖会は重要なのだと、彼女は私を説得した。
先に書いたように、「用いられない」ということは、私には破門を意味した。私は地理歴史部の副部長という自分の立場もあり、逡巡したが、結局、辻本に従うことにした。伝道師の命令は、牧師の命令であり、それは神の命令だからだ。
私は部活のメンバーには申し訳ないと思いながらも、献堂記念集会に出席できたこと、そこで、関西ペンテコステ福音教会の教会歌の披露演奏をしたことを、私は光栄に思った。
「シオンの山にそびえ立つ 栄光あふれる神の家」
こういう歌いだしの教会歌は、吉川の作詞だということだった。悔しいことだが、私は今もこの歌を、そらで歌うことができる。教会名が変わった今、この歌は誰も歌わないだろう。しかし、私の脳裏には、焼き付いては慣れないのだ。
わたしはこの聖会の期間中のある日、中町がいないことに気づいた。丸畑がひとりでプロジェクターを使っていた。中町はもう用いられないのか。可哀想に。私は心密かにそう思った。
ところが聖会のすぐ後の日曜の礼拝も、その次の礼拝も、中町はその仕事を許されていた。
辻本は、中町には私に言ったような脅しはしなかったのだ。
と言うよりも、中町は何も言わずに集会を休み、辻本はそんなことに関心はなかったのだ。私は、脅しに屈した自分に後悔したが、バンドの一員ということで、辻本は私にだけ厳しくしたのだと、自分を納得させようとしたが、「騙された」という思いの方が強かった。
ただ、浮田の意地悪さと違って、辻本の「指導」には、奥に秘めた優しさを感じることもあった。そして、彼女は、なぜか笑顔がとても寂しい人だった。
献堂から数年して、この辻本は、家族と一緒に、何の前触れもなく教会を去った。
私たちは彼女が突然いなくなったことに、ショックを受けたが、理由を考えることすらしなかった。理由など公表されるはずもない。事実すら公表しないのだから。去るものは追わず。それはこの教会の教義のようなものだった。
数年後、私たち学生集会のメンバーが、教会外で行われたキリスト教のイベント会場で、たまたま辻本を発見した時、私たちは思わず「辻本先生」と叫んで、困惑する彼女を取り囲んでしまった。
厳しくても私たちは、彼女が好きだった。それだけに、彼女が理由も告げず教会を去ったことは残念でならなかった。
辻本は、やはり前後して教会を去った、礼拝のバンドでドラマーだった、特訓生の直田純という年下の男性と結婚していた。そして、辻本の父や弟が牧師になって、教会を設立したという。
江戸川の教区から、多くの熱心な信者がそちらへ流れた。私はその情報を聞いて頭の中が混乱したが、そこで思考をストップさせた。
決して真実を探ろうとはしなかった。してはいけないと思っていた。
教会外のイベントと書いたが、プロテスタント教会は、そもそもが一匹狼の集団なので、あまり頻繁に何かが行われていたわけではない。だが、たとえば、日生球場で行われたビリー・グラハムの宣教大会や、堺市民会館で行われた、歌手として日本でも有名だったパット・ブーンの集会などは、信者を増やすチャンスとい
うことで、この教会からも参加した。
一九八〇年代の前半、玄人受けするミュージシャンだった尾花正が、長女の死をきっかけに入信し、ゴスペル・シンガーになった。尾花は、同じくミュージシャンだった川中たかしを入信させて、彼とデュオを組んでゴスペル・コンサートを時折行っていた。
私たち音楽好きの若い信者は、そのコンサートを結構楽しみにしていた。私はまだ、彼らのCDをたぶん持っていると思う。
現在、尾花はある教会の牧師になっているが、ネット上では、女性信者との不品行の噂が広がっている。それで川中には愛想をつかされ、デュオを解消したという記事もあった。