空乃彼方詩集

あ行( 32 / 33 )

演じて、やがて幕は下りる

誰しもが演じているんだ
生きている限り、演じると決まっている
それは心臓が動いているのと同じこと
呼吸するのと同じこと

生まれた時に泣いて始まり
死をもって完結する
役柄はひとつだけ
自分ひとりだけ
「こんな役、つまらないから変えてくれ」とどれだけ切実に訴えても
「代役はいない」と運命に険しく突き返される

嬉しければ、嬉しさを演じ
悲しければ、悲しみを演じ
楽しければ、楽しさを演じ
苦しければ、苦しみを演じ
情熱、僥倖、滑稽、悲哀、苦悩、虚無
それらを幾度となく、繰り返し演じ切り
やがて訪れる死のみが、役から開放してくれる


舞台の幕が下りた時、温かな拍手は聴こえるのだろうか?
「よく難しい役をこなしたね」と褒めてくれる人はいるのだろうか?
涙を流してくれる人はいるのだろうか?

あ行( 33 / 33 )

赤い傘

春の終わりの太陽は西の空まで持たない
夏を思わせる強い光は、やがて分厚い雲に覆われる
梅雨が近づくと思い浮かぶ景色

雨に濡れて白い街
路面を優しく叩く均一の音
僕の視線のぼやけた白の中に赤が入る
少しずつそれは大きくなり傘だとわかる
赤い傘に守られた長い黒髪は少し濡れていた
「おはよう」と声をかける彼女の笑顔は眩しく
太陽とはまた違う痛烈な光を称えていた
直視するのは難しく、僕は少し目を細めた

あの頃の夢は見なくなった
赤い傘はもう視線に帰らない



か行( 1 / 38 )

会話の達人

決して口数は多くない
少しばかりの付き合いで
あなたは幸だ不幸だなどと言わず
自慢話もせず
優しい言葉も滅多にかけない

相手が問いかけてきたら、大概はそれを肯定し
少しだけ膨らまして返してやる
穏やかな顔を向けながら
さすれば少なくとも人の心は炎上しない

「今日はいい天気ですね」
「そうですね。雲一つない青空で」
幾千の会話の達人たちが、一日の始まりに祈りを込める
今日も円滑に物事が進みますようにと
穏やかに深まっていく秋の力を借りて

か行( 2 / 38 )

コロナの春

今年は春が来ないかもしれない
日に日に暖かくなるに違いない
桜も咲くに違いない
しかし、そこに喜びがなければ春じゃない

コロナは帝国を築こうとしている
類い稀なる感染力と正体不明を武器にして
人々の顔はこわばり、蟻のように物資を抱え込む

そしてコロナに覆いつくされた春でも
僕は目を覚ますなり
怠く不快なベッドで生きるのが嫌になり
そして数時間後、玄関のドアを閉め
ギリギリの社会人になるのだ
kumabe
作家:空乃彼方
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