老毒母と暮らすアダルトチャイルドの話

タガが外れた( 1 / 2 )

遊び呆けた大学生時代

 

 その頃の多くの大学生がそうであったように大学生になってからは遊び呆けた。

それでも単位は落とさない程度で4年で卒業できた範囲ではあった。

元々大学に行くつもりはなかったし、将来何になりたいとかいう目標もなかった。

 

今考えれば明白な事なのだが、成績が上位ではないからでダメだ,ピアノが上手じゃないからだめだ、何をやっても中途半端でダメだ等、

ことあるごとに否定的な言葉をシャワーのように日常的に浴びせられていると、前向きな自分の目標なぞ持てないし、考えることもできない。

そしてその言葉通りに成績もピアノも生活態度も何もかもダメになる。

 

人としての尊厳を日常的に踏みにじられ、打ち砕かれているのだから、未来への前向きな希望なぞ持てない。

否定ばかりして苛める親をいつか打ち負かしてやるという攻撃的な目標を持つ場合もあるかもしれないが、私は自分を責めて病気になったり、無気力になったりするタイプだった。

 

大学に行く気はなかったのにいくことになったのは、教会の牧師に「大学に行く経済力が家にあるのに行かないのはもったいない」と言われたからだ。

つい最近、母に牧師に言わせたのかと問い詰めたら、忘れたと言っていた。

認知症で忘れたのか、ただ忘れたのか、嘘なのかはわからない。

私は福祉関連の専門学校に行くつもりだった。

今考えれば、その思いつきすらも偽善者的な母の生き方を模倣したようなものだった。

人のために役に立てればという純粋な気持ちもあるにはもあったと思うが、本音は人の役に立てば(親に)認めてもらえるだろう的だったと思う。

進路を決める時、私の考えが浅はかで自己中で短絡的だった。

それは母の性格そのままだった。

 その私が大学に行くことになった。

 

勉強なんてもう飽き飽きしていたのに、いやいや受験勉強して都内にある某3流大学の文学部、教育学科に受かり入学した。

そして最初の頃こそ真面目に授業は出ていたもののよくサボるようになった。

が、遊びの誘いは積極的に受けた。

コンパ・飲み会・ディスコ・ドライブ

遊ぶ金が足らずにバイトも始めた。

男の子とも積極的に付き合った。

 

生きてきた中で初めて自分の時間をどう使うかを自分で決められた。

そんなことができるようになったのも、大人に監視される時間は大学の授業以外なくなったからだ。

その授業でさえ、サボっても誰に責められるわけでもなかった。

 

 生まれて物心ついてからずっと行動と感情を規制され、

勉強、教会、家で優等生であるように要求され続け、

その目標はいつも到達できないような所に、まるで馬の顔の前に人参を垂らすようにぶら下げられた。

やってもやっても認められず、疲れて心がささくれだっているのに、更にアラ探しをされつづけ、

私の心は履き古したパンツやパジャマのズボンのゴムのように伸びきって摩耗していた。

 

そんな私が、はじめて自分の自由になる時間を手にした。

今までできなかったことをやるに決まっている。

 家を出たが最後、糸の切れたタコのように帰宅は遅く、外泊も度々した。

しかし、悲しいことに親の家を飛び出していくほどの勇気はなかった。

あがいてはいるものの、良い子でいなければならないという呪縛に縛られていた。

幼いころにインプリントされてしまったものに逆らいきれないでいたのかもしれない。

 

両親は帰宅がおそいと怒鳴り立てて説教をしたが、大学まで片道ほぼ1時間半かかるのにそう早くは帰れるわけはない。

確かに年頃の娘の帰りが遅くなるのは心配というのは理解できる。今、私の娘が同じ年頃だ。

私の両親は18歳になった子どもを信頼するという事を全くしようとはしなかった。

信頼しようとはしないので下宿や一人暮らしなどもっての他だった。 

理由や状況を聞こうとはせず、とにかく早く帰ってこいの一点張りだった。

聞いてもそこに共感や理解を示すことはなく否定するだけだった。

そして、怒鳴って怒ってネチネチ文句を言ってそれでおしまいだった。

 

親に理解も承認も得られないなら外にに求めるしかない。

そしてますます外で時間を過ごすようになり、帰りはますます遅くなった。

家に早く戻ってきて欲しいのなら、家の中が安心と理解に満ちた居心地の良い場所にするべきだったのだ。

 それでもいろいろな理由で遅くなる時もあるだろう。

それならそれで、そういう時はどうするか話し合い、ルールを設ければいいのだ。

ほぼ大人になろうとしている年齢の子どもに自覚と責任を持たせればいいのだ。

  両親は私が歩き始めた頃と同様、あっち行ってはダメ、こっちに行ったら危ない、それに触ったら汚いとでもいうように、独り立ちをしようとする年齢にさしかかる娘の行動を束縛しようとし、否定し続けた。

 

 

 

タガが外れた( 2 / 2 )

破壊された成人式

 

大学に入り中学や高校に友人とは疎遠になっていたが、中学1年の時に仲良くなり中学時代は共に過ごした4人グループで一緒に成人式に行こうと声がかかった。

その時はとてもうれしかった。

家では勉強しろ、教会にいけ、命令、小言、否定、叱責、陰険な皮肉を浴びせられていた私にとって、冗談やちょっとしたことで笑い合える中学時代の友人は大切な存在だった。

当時はそこまで大切だとは意識していなかったが、母親譲りの嫌なところがある私を寛容に受け止めてくれた友人たちは本当にありがたい存在だった。

私はうれしくてすぐに母親に言ったと思う。詳細は覚えていない。

その後で母親は父親に言いつけたと思われる。

父親からこう言い渡された。

私は2月生まれの早生まれだから、今年の成人式の段階で20歳になっていないから行ってはだめだと。

そして来年の成人式に出席しろと。

私の誕生日は2月の初旬だから、成人式からは3週間くらい遅い。

その時私は抗議した。今から思えば小学生並みの抗議の仕方だったが。

同級生のほとんどが参加するのになぜ行ってはいけないのか。

来年の成人式には友人たちはいない。

来年に行けというなら成人式には行かなくていいと。

抗議は認められなかった。

ちなみに現在(2015)調べてみると当時の私の居住地していた地方自治体では学年ごとの成人式となっている。

当時の私には地方自治体に問い合わせて調べるというような考えは持ち合わせなかった。

しかし、たとえ調べたことを親に伝えても、それでおいそれと両親が考えを変えたとも思えない。

 

しかして結果は私の言ったことへの全否定となった。

―翌年の成人式に参加する。―

不満が顔色にでている私の着物姿を父が撮った写真がある。

その着物も両親が用意してくれたものではなく、伯母がつくってくれたものである。

遠隔地ゆえに私は着物の柄を選ぶということもなく、送られてきて用意されたものを着た。

そしてなぜか、その着物は身幅がかなりあり、かなり体格のよい人向けだった。

着物の事など何もわからない私は美容師さんにそういわれたことを覚えている。

着物を着ても一緒に行く友人がいない私はどこに行けばいいのか。

どういういきさつだったのかよく覚えてもいないが、男友達のつてで隣市の成人式に出席したように思う。

この頃の私はかなり荒んでいた。

はっきりとした覚えはないが、大学に通い、親の手の届かないところで自由に行動する私に、母があの手この手の意地悪を仕掛けていたのではないかと思う。

 

当時から30年以上経て、年老いた母の性格を大人になった私の目で観察した結果、何故このような顛末になったのかの真相を理解した。

それはひとえに母の嫉妬である。

母はお洒落や美しいものが嫌いである。その気持ちの奥底には先ほども言った嫉妬がある。

私が友人たちと着物で美しく着飾って楽しく成人式に出席する、それが母には許せなかったのだ。

故に父に私のあることないことを言いつけて、私が友人たちと一緒に成人式に行かせないようにした。

自分で言わずに父に言わせるところが巧妙で薄汚いやり方である。

けれど成人式そのものを否定したのでは、自分に非があると咎められる恐れがある。

それで翌年に行かせることにした。

また着物を作ってやることも口惜しいので、お金に困っているわけでもないのに伯母(父の姉)に作らせた。

さらに私が太目であると伝え、表向きは長く着させるために今後太るからと身幅を多くとった。

私の体重は産前産後の増減はあるが、20歳当時とほぼ変わっていない。

何気ない言葉の端々に出るからわかるのだが、母は私が醜く太ることを心の底で望んでいる。

着物を伯母に頼んで作ってもらうことで、とりあえず母親としての対面は保った。

そして翌年、もう成人式なぞに楽しさや希望も何も持てなくなっている娘に美容室に行かせ着物を着せた。

 

なぜ自分の娘にそんなに嫉妬し、巧妙なやり方で娘を陥れ、苛め、否定しなければならないのか、私自身も今年二十歳を迎えた娘を持つ母親だが全く理解できない。

けれど母親の精神年齢が小学校低学年か幼稚園年長ぐらいだと考えれば納得する。

戦時中に育った母は自分が受け取れなかったものを受け取る娘が許せないと僻んで嫉妬している5~7歳児なのだ。

自分よりも若くて美しくなっていく娘が許せないと僻んでいる幼児的精神の持ち主なのだ。

その割に手口が巧妙なのが非常に厄介だ。

その辺を考えると単純に幼児と同じとは言えない。

このような母の屈折し歪んだ幼児的精神と狡賢い手口によって、私の大人への門出は完全にぶち壊された。

 

私の両親は子どもにもっともっとと際限なく要求した。

学業での成績、教会に通うこと、品行方正であること。

子どもにはそうやって際限なく要求するが、親は子どもに共感、肯定、承認、等は与えなかった。

それどろこか子どもを惨めな境遇におき、自尊心をずたずたに傷つけて自己肯定感を徹底的に剥奪した。

それを親は愛情表現だと思っていた。

そして子どもである私は、傷つけられ、徹底的に否定され、自分の意志とはまるで違うことをしなければならなかったのに、親には感謝しなければならないと教育、社会通念や常識から思い込まされており、それに、逆らうことができなかった。

苛められているのに感謝しなければならない。

こんな倒錯した精神状態の日常生活を続けていれば、自分自身がわからなくなってしまうのも無理ない。

私は幼いころから寝込んだり、入院するほどではなかったが、湿疹などの皮膚疾患を持ち、胃痛・便秘などの腸の不調等に悩まされていた。

それらの原因は、苛められているのに感謝しなければならないという倒錯した状況からくるストレスによるものだだろう。。

 

 

 

雪うさぎ
老毒母と暮らすアダルトチャイルドの話
0
  • 0円
  • ダウンロード

10 / 11