老毒母と暮らすアダルトチャイルドの話

弟が生まれて( 1 / 1 )

家庭内カーストの最底辺に

 

 私が3歳になる頃、弟が生まれた。

その時から「お姉ちゃんだから我慢しなさい。」という言葉は、水戸黄門の印籠のようだった。

それを言われたら最期、もう何の望みも断たれるのだ。

連発・乱発されるのだからたまったものではない。

弟が生まれたからと言って、3歳の子どもが突然大人になったりはしない。

私はおそらく聞き分けの良いおとなしい子どもだった。

そうするしか選択肢がなかったからなのだが。

だから、私が何か自分の事で親に要求するのはそんなに頻繁でもないし、我慢しなさいと一喝されるほどの我がままな内容はそんなには多くなかったはずだと思う。

ただ、身体は一応大人だが心は成熟していない新米の親が、2人の子どもの扱いに窮し、或いは親のその時々の都合で その場を収めるための万能の言葉として「お姉ちゃんだから我慢しなさい」を乱発したのかもしれない。

また弟の誕生以降、弟は溺愛の対象になり私は軽んじてもいい存在となっていった。

それは戦後の民主主義の時代になったとはいえ、

大正12年生まれの父と昭和4年生まれの母が育つ過程で慣れ親しんできた明治時代に誕生した家長を中心とする封建的家族制度の残像ともいえる。

父には姉がいたが、小学校の教員を長年務めていた。

その伯母さんも、父が「姉さん」とは呼ぶものの、父に何か命令されていそいそと立ち働いていた。

そうあの時代は、男(家長)は家の中でどっかり座り何もしない、これがノーマルだったのだ。

母は3人兄弟の長女だが、やはり叔父さんが一番大切にされている印象だった。

故に長男として生まれた私の弟、つまり将来家長となる男の子を大切にするのは当然というのが、親の身にについた習慣、習性だったのだろう。

しかし、昭和35年生まれの私と昭和38年生まれの弟にそれを適用されるのははなはだ時代遅れである。

幼稚園や学校では男女平等に扱われ、家に戻るとあからさまに差別されるのでは、子どもの精神がねじまがって育っても仕方ないことではないか。

 

また、弟が生まれてからしばらくしたころ、なぜか犬を飼っていた。

私が飼いたいと言った覚えは全くないので、おそらく父親が飼いたかったのだろう。

私は犬をかわいいなんて思うどころか、吠えられて怖かった。

弟になついていた様子もない。

その頃の我が家の家庭内カーストは、父→母→犬→弟→私 という感じになっていたのかもしれない。

母と犬の位置も微妙だ。

父は戻ってくると尻尾を振って喜ぶ犬を一番かわいいと感じていたのかもしれない。

なぜなら、犬には1時間もがみがみ怒鳴りつけたりしないだろうから、そりゃ~尻尾もふる。

 家を恐怖で支配していた父に、子どもたちが「おかえりなさ~い」、とか「おとうさ~ん」うれしそうにと走り寄っていくわけはない。

父の犬に対する思い入れは40年後にも表れた。

私が離婚する時期の前後、子どもたちと離れて暮らして精神的にも経済的にも大変苦しい時期があった。

この時期に経済的に助けてくれたのは非常に感謝するべきことなのだが、父は私の精神的な苦悩・落ち込みについてはほとんど理解できていなかった。

子ども(孫)の事についてああしろ、こうしろ、飼っていた犬の事も心配してどうするんだと父は私を問い詰め、責め、ちゃんとしろとか命令をした。

孫の心配は理解できるし、私も親として子どもの事は一番、気にかかった。

しかし、私自身についての心配、応援・理解するような言葉は一言もなく、問い詰めて責めるのに、飼い犬の心配はするという態度にはまいった。

あとから考えても私は犬以下で心配する対象でもないし、言われたことを忠実にこなして当たり前、

できないなら情けないどうしようもない人間ということなのだろうか。

まるで部下に非情な扱いをする上官のようでもある。

 

弟を乳母車にのせて、父と弟と私で散歩に行ったことを覚えている。

犬も一緒だったかどうかよく覚えていない。

ブランコがある公園のようなところに行った。

ブランコでは何人かの子供たちが遊んでいた。

父はブランコに乗っている子供に頼んで弟を少しだけブランコに乗せた。

私にも少し乗せてくれるのかな~となんとなく思っていたら、弟が乗っているのを見ただけでおしまいになった。

何事もなかったように散歩は続行された。

4歳か5歳位の子どもにとって赤ん坊の弟が少しブランコに乗ったからといって、自分も少しだけ乗りたいという願いはずいぶんと子どもっぽく、幼稚でわがままな望みなのだろうか?

 

ここで、謎のおばさん登場!

 

「ブランコのりたかったんだね。そうか、でも他の子も遊んでいたから乗れなかったんだね。

よし、わかった、おばさんがたかいたか~いしてあげるよ。赤ちゃんみたいでいやかな?」

「ううん、本当におばさんやってくれるのならやってほしい!」(昔の私)

「うん、たくさん、やってあげる、それからぶ~んぶ~んて振り回してあげる、」

 「おばさん、楽しかったありがとう。また来てくれる?また遊んでくれる?」(昔の私)

「うん、いいよ、何度でも来て遊んであげる」

 

この頃までの記憶に母は一切登場しない。

何故なのか今もよくわからない。

私の娘も小さいころ母(娘にとっての祖母)に面倒見てもらった時間は少なくない。

けれど、祖母の記憶や印象はほとんどないという。

「何を言っているのかわからない、そんな感じ」と言っていた。

 

家庭内カーストの最底辺になった私だが、それで良いこともあった。

両親は弟を溺愛し、私にしたと同じように過干渉にしたせいだろう。

私は自由に一人で遊ぶ時間が増えたらしい。

今でも一人で遊ぶのが好きなのは、この経験からかもしれない。

この時期の写真を見ると明るい顔をしているものもある。

そしてまた、弟の面倒を見るという役割も得ることになった。

 

 

 

 

 

 

 

かりそめの自由( 1 / 1 )

北国の自然に抱かれて

 

 幼稚園の年長の途中から小学校2年生の夏ごろまで、父親の転勤に伴い北海道A市で過ごした。

この頃の思い出には、楽しいものがいくつかある。

楽しい思い出を複数思い出せるだけ、私の人生の中では一番幸福だった時期と言える。

この時に住んでいた家は今の大人の目で見ればそれほど広くはないのかもしれないが、

子どもの私にとっては十分広い庭のある家だった。

前に住んでいた人が花好きだったのだろう。

庭は不規則な大小の花壇に区切られ、様々な花が咲く植物が植えられていた。

花の名前はスズランくらいしか子どもの私にはわからなかったが。

その花壇の間の小径を三輪車に弟をのせ、後ろから私もハンドルの外側をもって片足で地面をけりながら、巡るのがお気に入りの遊びだった。

花壇の切れ目のあちこちに駅を作り、名前を付けていた。

どんな名前を付けてかはすっかり忘れて覚えていない。

もちろん、それは春・夏・秋の過ごしやすい気候の良い日のことで、冬は雪遊びになる。

子ども心にも、雪が溶けて春にいっせいに花が咲いた時の華やかさに心が浮き立つようだったのを覚えている。

冬はもちろんとびきり寒くて長いのだが、夏は短いけれどもそれなりにかなり暑い。

夏は母にプールに泳ぎに連れて行ってもらった。

唯一、母にしっかりと教えてもらったことは平泳ぎの足のかきかただ。

秋はトンボがたくさん群れ飛んで、とろっこい私にもトンボが捕まえられた。

冬は父が庭にスキーで滑り降りられるような小高い山を作ってくれた。

朝、氷点下だと牛乳と一緒に配達される乳酸菌飲料(名前が思い出せない)が凍っていて、それを暖かい部屋の中でスプーンですくいながら食べるのはとても美味しかった。

雪まつりにも連れて行ってもらった。

珍しく、雪の大きな滑り台をやりたいかと聞かれて「やりたい」といったら、連れて行ってやらせてもらえた。

誕生日にデパートに行き、ぬいぐるみを買ってもらった。

そして食堂でプリンアラモードを食べさせてくれた。

こんな誕生日は後にも先にもこの時一度きりだった。

 

この時代は、「勉強しろ」と命令されることもなく、庭で弟と自由に遊んでいた。

この頃、私も弟もセーターやベストなど母の手作りのものを着ていた。

既製服があまり出回っていなかったせいなのか、母の方針なのかはわからない。

この後に首都圏に移ってからは手作りの服を着ていあ覚えがないので、

既製服があまり出回っておらず、あったとしても高価だったのかもしれない。

 

今、自分が北海道に住んで言えることは、雪がほとんど降らない地方よりも家に関わる労力が多いということだ。

管理の整ったマンションなどに住むのなら東京などとさほどかわりはないかもしれないが、戸建に住むのなら雪かきは欠かせない。

冬になる前には家の周囲を片付け、雪かき道具を準備し、雪から庭木などを守る作業をしたり、他の季節よりも生活必需品を多めに買い込み、車のガソリンは早め早めに満タンにする。

荒天になって買い物に行けなくなることがあるからだ。

インフラの整った今ですら、結構やることがある。

元から雪国に住んでいた人には当たり前の事かもしれないのだが。

雪のない関東地方、それもかなり便利な郊外のベッドタウンに長く住んできた者にとっては、

やるべきことがたくさんあるなと感じる。

 

故に、今から50年ほど昔であれば、冬に備えての漬物作り・ストーブも石炭ストーブなど家事に関わる労力は、今よりもかなり多かったのだろうと思う。

母が家事に忙しくしていたおかげで、私たち姉弟はかえって自由に遊んでいられたのかもしれない。

母も家事をはかどらせたいので、2人で外で遊んでいる、大いに結構となったのだろう。

 

 いつものように弟と庭で遊んでいた時に、母が急に家から出てきた。

干してある布団の下の方から上に向かって一筋に点々と土がかかっていた。

その土汚れは、さっきどこかの知らない男の子が布団の下を潜り抜けていったときに持っていた石炭シャベルで跳ね上げたものだ。

母は「布団が汚れているのは○○(私の名前)がやったのか?」と聞いた。

私は「ちがう」と答えた。

母「そんなことあるわけない、○○がやったに決まっている」と言ってさっさと家の中に入っていった。

私には、弁明する機会も何も与えられなかった。

せっせと家事をこなさなければならない母は、子どもの言い分にじっくり耳を傾ける余裕などなかったのかもしれない。

 

また、その頃オルガンを習っていたのだが、オルガン教室の発表会の時の事。

グループで舞台に上がったのだが、舞台の高いところに上がって見る景色のが珍しかったのか私はオルガンをひくことに集中できず周りをきょろきょろ見回してばかりいた。

それを後から両親に咎められた。

でもこの咎められ方は、今思えばまだまだ優しい部類だった。

 

私が小学校2年生、その頃もう父はまた東京方面に転勤になると決まっていたようだった。

私は学校から戻り、一人でお留守番ををしていた。

なぜかひどく寒かった、寒かったら電気ストーブをつけろと言われていたのか、

ぎりぎりまで電気ストーブに近づいていて着ていたベストに焦げができたくらいだった。

お腹もなんだか妙にすいてミカンをもってきてたくさん食べた。

その夜からお腹が痛くなり、盲腸炎と診断されて手術も含めて1週間くらい入院した。

母が最初のうちは一緒に泊まってくれたと思う。

 

50年近く経ってわかったことだが、昔話をしていた時に

弟はこの時代、母と一緒に買い物にいってお菓子を買ってもらうのが楽しみだったといった。

弟の懐かしいほんわかとした昔語りは、私には青天の霹靂ともいう驚きになった。

私は母に買い物に連れて行ってもらってただの一度もお菓子を買ってもらったことなんてない。

母が弟の方をかわいがって甘やかしてきたのは知っていたけれど、

そこまであからさまに差をつけていたと50年近く経って初めて知った。

 

母に陰険な手法で苛めれれてはいたのだろうけれど、総じてこの時代は幸せだったと思う。

勤め先が近かったせいもあったのか、父が家にいる時間も長かったのかもしれない。

その割に家にいる父の記憶がないのは、家で怒りを爆発させることが多くなかったのだろうか。

 

いよいよ北海道から関東に戻ることになり、引っ越し準備がはじまった。

私は父の邪魔にならないように少し離れたところに座って父の仕事を見ていた。

父が荷物を詰め終わり紐でしっかりと結ぶと、最後にその紐の端をはさみで切る仕事をもらった。

その仕事をするためにそれ以外の時間私は大人しく父の言われた場所に座っていた。

私は小学校2年生、自分でも手のかからない良い子だと思ってしまう。

けれど、仕事をもらって私はうれしかったと記憶している。

 

もし、あのまま北海道にいたならば私の人生は今よりだいぶマシだったのではないかと思うことがある。

この時代の記憶は良いにしろ、悪いにしろ、フルカラーである。

春夏の赤やオレンジやブルーなどの鮮やかな花の色、庭の花の周囲を舞う蝶

青空を背景に群れ飛ぶトンボ・川原にたくさん生えていたマツヨイグサの黄色

そして冬の白一色・透明なツララ

 

小学2年の夏に、東京郊外の家に戻った。

その頃からの記憶には色がない。

それでもあえて色で言うなら、グレー

自分の頭の中にどんよりしたフィルターがかかったような感じのグレーである。

 

 

 

 

 

 

 

母が教育の全権を握る( 1 / 2 )

教会にのめりこむ母

 

 小学校2年生の夏ごろ、北海道A市から神奈川県のY市に引っ越した。

このY市にある家は私が生まれた後に購入して引っ越し3歳前まで過ごした家で、そこにまた戻ってきた。

北海道時代以後の私の記憶は色がないと書いたが、すぐに色がなくなったわけではなかった。

やってきた最初の頃は好奇心で一杯でわくわくしていたのを覚えている。

新しい学校、新しい友達、どんなことがあるのかと楽しみにしていた。

その後のそこでの生活がどういうものか、どういう青春時代を過ごすことになるのか知っていたなら、そんな気持ちになることもなかったのだろう。

 

いつの頃からかはっきりしないが、父は仕事に単身赴任で行くようになった。

故に小学生から中学・高校までの私と弟に関わるほとんどの事柄は、母に委ねられるようになった。

 また同時にこの頃から母の教会通いはだんだん増えていった。

父がいないということは、夕食のおかずや母が家を空けることに文句を言う人がいないということだ。

母は遠慮なく日曜日だけでなく、平日も頻繁に教会に出かけるようになった。

私と弟にも日曜学校に通わせ、その教会を母体としていたガールスカウト・ボーイスカウトの活動にも小学校高学年になると参加させるようになった。

 母は自分と私と弟も教会の中にどっぷりと浸けこんでいった。

一度だけ、本当に一度だけ、教会の行事をさぼって母が私と弟をプールに連れて行ってくれたことがある。

小学校3年の時だと思う。

母は「教会の行事をさぼったから内緒ね」と言った。

あの日はなんだかとてもうれしくて楽しかった。

 

 その後、母は家族よりも教会の事を優先するようになっていった。

小学生だった私はそれをそのまま受け入れるしかなく、日曜日には弟と教会の日曜学校に行き、母に言われるままに教会の行事に参加し、ガールスカウトにも参加した。

小学生の頃は教会に行けば、学校とはまた違う友達がいるのでそれはそれで楽しかった。

クリスマス等の行事の日にはお菓子を食べたり、プレゼント交換をしたり、結構楽しく過ごした。

けれども母が夜の集会に参加するのに弟と2人で留守番をさせられるのはいやだった。

また母が午後遅くまで教会で過ごして、夕食が冷凍シュウマイとご飯というメニューに度々なった。

今でもシュウマイが嫌いだ。

 

そんな手抜きを日常的にするのに、私がやりたいとも言っていない誕生会を教会学校の友達を招いて自宅で開いたことがある。

確か、小学校3年か4年の時だ。

母は準備が間に合わなかったのだろう。

友達がたくさん来て遊び始めたなか、私に雑巾がけをやれと命じた。

その時は友達が大勢いて楽しく遊んでいたし、「いや」と言ってそのまま友達と遊びに行った。

母の同僚の優しいお姉さん先生が傍にいたから言えたのかもしれない。

そのお姉さん先生は私が嫌だとはっきり言ったので困った顔をしたが、私を叱ることはなかった。

 

 ピアノも同じ教会に属する老オルガニストのところに習いに行かされた。

ピアノを弾くことは楽しいと思える時もあったが、家から駅まで20分歩いて一駅乗り、そしてまたその駅から20分歩くと言う道のりの往復と、親しみやすいとは言えない老オルガにストに教えてもらうのは楽しくなかった。

その老オルガニストの家もピアノが置いてある一番手前の部屋にしか入らなかったが、冷えびえとした雰囲気だった。

友達の家に遊びに行って、友達がエレクトーンを弾いてくれた。

その華やかな音色が楽しそうで、母親にエレクトーンをやりたいと言ったことがある。

「ダメ」の一言で切り捨てられそうになり、月にピアノ2回、エレクトーン2回じゃだめか?と子供なりに知恵を絞って言ってみたが、それもダメだった。

理由はダメだからダメ。

その後、そのお友達の家に遊びに行くことはなかった。

もしかすると行くのを止められたのかもしれないが、はっきり覚えていない。

 

 今、思えばその老オルガニストにピアノを習わせるのも、母が教会でいい顔をする材料の一つだったのだろうと推測できる。

弟にもヴァイオリンを習わせていたが、教会の建物を借りていた人だった。

母の性格の特徴に、常に周囲に賞賛されていないと気が済まないというのがある。

教会行事に熱心に参加する敬虔なクリスチャン、

子どもにピアノやヴァイオリンを習わせる教育に熱心な母親

そのような外側の顔を作り上げて他人の目に触れさせることで、常に賞賛を得ようとしていたのだろう。

その目標のためには子どもの意思や意欲などは全く関係ない。

けれども、世の大抵の人は母親のそんな本音には気がつくはずもなく、良い母親であると評価する。

母親当人も自分の本音に気がついていなかっただろう。

子どもの私も50年以上はっきりとは理解することができなかった。

そして母は声高に建前を掲げて偉そうに命令する。

子どものために良かれと思っている、お金も払っているし感謝して熱心にやれ。

 

母の言動の特徴には、自分の責任をとらないというのもある。

母が教会にどっぷりと入れ込んだ一因には、教会にさえ行っておけば自分の事も子どもの教育もすべて安心と思い込んだ節があるのかもしれない。

自分は教会で奉仕活動を一生懸命やることで他人に評価されて安心し、子どもの心や精神的な成長に関わることも事も教会に全てまる投げしたのではなかろうか。

自分で考えることや自分の力で判断することを自ら手放し、親である自分の責任から逃れようとしたとも言える。

自分は敬虔で良いクリスチャンという立場をまず確立し、何か子どもに好ましくないことがあってもそれは子どもが悪いのだという自己中心的な保身の理論を作り上げたのかもしれない。

それは何か些細な事でも落ち度があれば、1時間も2時間も軍隊ばりの言葉で責め、問い詰め、怒鳴り、怒り、ブツブツ文句を言い続け、怒りの大小の爆発を繰り返し、事あるごとに家庭内に怒りを撒き散らす父の影響がなかったとは言えないだろう。

 

 

 

 

 

母が教育の全権を握る( 2 / 2 )

いやと言えない子ども

 

小学校高学年になると勉強をしろと始終言われるようになった。

80点をとれば、「もっと頑張れ」、95点をとれば「何故5点を間違えたのか」、100点をとれば、次も次も100点を取り続けろと。

この頃、母は小学校のPTAで副会長をしていたので、母の賞賛されたい病はPTAの場面でもいかんなく発揮されていたのだろう。

そのために私は成績優秀な子どもでなければならなかった。

TVの前にゆっくり座っていることは許されなかったので、友達とのTVの話には全くついていけなかった。

 

母は、私に勉強・ピアノ・教会での活動、家の手伝い・等々すべての面において完全を要求した。

母は私に何か落ち度があるとそれを責めた。

その落ち度がどの程度で責められるのか責められないかは、母のその時の気分次第だった。

母は私に何か責めはじめるとその事だけでとどまらず、私を全否定するまで言いつづけた。

「どこどこの窓がちゃんと閉まっていなかった」「なんて不注意なんだ」「あんたより弟の方がよほどしっかりしている」「この前のテストの点もあんなに間違えて惨めな点数だった」「だからあんたはダメなんだ」「もっとしっかりしろ」「またくだめなんだから、何やらせてもぬけているダメな子」という具合に

 

こんな記憶もある。

母が弟のそばに座って、「○○(弟)はいい子だね。それに比べて○○(私)は何をやってもダメなんだから、まったくなってない、。あ~ダメな子。○○はいい子ね」と言って弟にチュチュとキスもする。

これは母の言った言葉はちがうかもしれないが、ほぼ実際の記憶だ。

あるときはこんな夢も見て、それが大人になった今でも忘れられないでいる。

母と弟はソファーに座って私の方を蔑むような目で見ている。私は伝染病なような悪い病にかかっているから近寄らせてもらえない。私は目じりに涙をにじませて近づこうとするが母の意地悪で刺すような視線のためか、母と弟と私の間に目に見えない深い溝か壁があるかのように前に進めない。

 

私は学校や教会で友達と遊ぶとき、大体、明るく元気にふるまっていた。

それなりに友達もいた。

友達を家に呼んで遊ぶことも、庭でバレーボールをやるのも奨励された。

友人達と親の目の届くところで遊ぶことは大いに許されることだったらしい。

ピアノとは違って自分でやりたいといったバレエも2年間習わせてもらった。

母もバレエなら自慢の対象になるかもしれないと思ったのかもしれない。

誕生日には母がケーキを焼いてくれて飾りつけをやらせてもらった。

クッキーの型抜きもやらせて貰った。

嬉しかったし楽しかったけれど、今考えるとそれすらも母は他人に自慢して賞賛を得る材料にしたと思う。

子どもを楽しませる気持ちが全くなかったとは思いたくないが、

自分のことと自分の都合しか考えていない今の母を見ると、果たして本当の所はどうだったのかと疑う気持ちが強い。

 

他人の目に子どもの私がどのように見えていたのかはわからない。

明るく振舞っているものの私はどこか自信がない子どもだった。

実際、生活能力や逞しさには欠ける部分があったと思う。

また、オドオドしたところがある子どもだった。

 

今、年老いた母を観察して、その特徴はまるっきり母と同じものだったと気付いた。

小学生の私には、母が自信がないとかオドオドした所があるとはもちろんわからなかった。

母も自分が圧倒的に優位な子どもの前でそんな態度は取らなかったのだろう。

母は家事を効率よくこなしたり自分の創意工夫を加えて生活を豊かにする能力に乏しく、限られたお金で家庭全体を運営する力量もない。

力関係が逆転した今、 母のそんなところがよく見えるようになった。

私は子どもの頃、知らず知らず、母の性格と態度をコピーしていたのだろうか。

生物学的に致し方のないところがあるのかもしれないが、それを知った私は悔しくてたまらなかった。

 

母が過去、私に浴びせた否定的な言葉の数々

何をやってもいいかげんだ、ちゃんとできない、あさはかだ、たよりないは、今はむしろ母自身にあてはまる欠点だ。

母は自分の欠点を私にかぶせることで自分の欠点から目を背けてきたのではないか。

 

私にとって自分の家は本当に安心してリラックスできる場所ではなかった。

それは些細なことから突然に母の感情のサンドバックにされたり、時々帰ってくる父が母の告げ口をまともにうけて過去のことを持ち出され、突然頭ごなしにガミガミと叱られるせいだったのかもしれない。

小学生の私の至福の時間は、家に帰って母がいない時におやつを持って日の当たる暖かい場所で本を読みふける時間だった。

本の中で私の心は誰に否定される恐れもなく自由に飛翔した。

けれど、そんな時間は十分だったわけではなく、平日や土曜の午後は習い事、日曜日の午前中は教会学校、午後はガールスカウト活動だった。

また、読む本も教訓的な本を与えられることもあった。

 

髪を切るときにものすごい力で押さえつけた父、

1時間以上おとなしくじっと座っている事を要求され、母が生え際を怖くて揃えられないと言い、頭をものすごい力で押さえつけた父。

出来上がったやけに短いおかっぱ頭は気にいるはずもない。

お正月の書初めの習字も父が手本と称し、上からものすごい力で筆を持たれた。

屈辱を感じた、たとえ下手でも自分の思う通りに書きたかった。

そんな経過があった後に書いた書初めはのびのびとうまく書けるはずもない。

 小学校の卒業式で送辞を読むことになった時、父は私の作文にあれこれ文句をつけ、とうとう清書まで自分で書いてしまった。

顔を見れば、勉強しろと口うるさい母。

私をTVの前から追い払って、一人でTVを見てゲラゲラ笑う母

誰か優秀な子と比較して私をダメだという母、

ピアノに行きたくなさそうにしている私に早く行きなさいと命令する母、

自分は家でのんびりTVでも見ていたのだろう。

 

小学校の高学年の頃、私は酒も飲まないのに、鼻が真っ赤に腫れるようになった。

ニキビのような湿疹に見えたが、誰だが忘れたけれどどこかの大人にただの湿疹ではないねと言われた記憶がある。

皮膚科に行ってステロイド剤や飲み薬を処方されるが、一時的に良くなったりするものの治ることはなかった。

肝臓と鼻はつながっているという。

また、肝臓は怒りの臓器とも言われる。

ドクダミ茶等苦いお茶を飲まされもしたが、本当に必要だったのは感情の解毒、自分のありのままの感情を表すことだったのだと今は思う。

親に対して怒りを表せなかった私は、自分の中に怒りを溜め込ん溜めこんで、とうとう顔の真ん中の鼻が腫れ上がってしまったのだろう。

50歳を過ぎてそのように理解した。

 

ここで、また現在の私を謎のおばさんとして過去に送り込もう。

そして私の両親にこう言おう。

「あなたたちは、子どものためと随分といろいろな事、余計なことまで含めてやっていますね。

それは子どものためというよりも、自分を満足させるためにやっていることだと思いますよ。

違うと言いたいでしょうが、あなたたちは自分たちの要求や命令、罵りや嘲りまで子どもの前でたくさんたくさん言うけれど、子どもの言い分や子どもの感じていることや子どもが思うことなどはほとんど聞こうとしなかったですね。

或いは最初は聞くふりをしても、必ずあとでそれを否定して自分たちの言い分を通して勝ち誇ったような顔をしましたね。

あなた方自身がそうやって育てられてきたのかもしれませんね。

ただただ、大人の言うことに一方的に従わされて生きてきたのかもしれませんね。

そうやって育ってきたあなた達は幸せでしたか。

一方的にお国のためにとか、働かざる者食うべからずとか、欲しがりません勝つまでは、とか言われながらの子ども時代、青春時代は幸せでしたか。

幸せについて考えたこともないと言うなら、うれしかったり、楽しかったことがいくつありましたか。

そう感じることも罪悪だと思うなら、一方的に命令する大人たちに対して怒りを感じたことは一度もなかったですか。

感情的に怒りまくる大人、力で押さえつける大人、ねちねちといじめる大人にたいして、理不尽さを感じたことは一度もありませんでしたか」

 

 

 

雪うさぎ
老毒母と暮らすアダルトチャイルドの話
0
  • 0円
  • ダウンロード

4 / 11