週末の朝7時、階下から大音量のTV音が聞こえてくる。8時からは掃除機の音だ。
完全分離型の2世帯住宅だから、直に聞こえてくるわけではない。
しかし、アパートやマンションなどの集合住宅で苦情が出るくらいのレベルではあるだろう。
学生や普通の仕事をする人たちにとって、週末の朝は特別の事がない限り、布団の中でのんびりと寝坊できる平和で幸福な時間だ。
しかしその平和なひと時は毎週末、大音量のTV音と掃除機の音でぶち壊され、やれやれまたかと思いながらよっこらしょと起き上がる。
階下には齢85歳の私の母が住んでいる。
父が4年前に亡くなったために一緒に住み始めたのだ。
私には弟がいるが、姉の私も弟もバツイチの独身である。
弟には子どもはいない。私は専門学校生の娘と高校生の息子の二児の母である。
母は関東地方のはずれの山里に住むことに決めた弟ではなく、北の地方都市に住む私と住むことを選んだ。
一緒に暮らし始めた当初の3年間は2世帯住宅ではなかった。
子育ての時も手伝ってもらったし、大人の男手がない家の世帯主である私は外仕事・雪かきをしなくてはならない。
多少は家事を母が手伝ってくれるだろうという目論見があったのだが、それは完全にはずれた。
一緒に住み始めた最初はお客様扱いして上げ膳・据え膳でやってあげたが、一週間を過ぎても自分で何もしない。
たまりかねて一週間に一度は夕食を作ること、食事の後片付けをすること、お風呂掃除・玄関の掃き掃除などの仕事をまかせたが、年をとったせいかまともにできない。
ほとんど後からやり直しが必要であったし、食事は普通に食べられるものは出てこなかった。
それは私の中でまだ許せた。人間だれしも身体機能が衰えるものだ。
たまらないのは、絶え間のない愚痴とアラさがし見下し発言だった。
他人・教会の同僚からTVに出てくる芸能人、そして一緒に住んでいる家族。
こちらの精神が持たないので愚痴は一切聞かない、TVも一緒に見ない、必要最低限の事しか話さないことにした。
そうしたら、こちらの隙を狙い澄まして背後からグサッと悪意のある言葉で刺す。
お風呂上りにほわ~といい気分で顔の手入れをしている時、
吹雪の中を帰ってきて玄関に入ってほ~っと一息ついた時、
こちらの体調が悪い時。
~~がない。~~してない。
ネガティブな言葉に悪意をこめて投げつける。
大学を卒業して間もなもなくあり養護学校で非常勤講師をしていた。
手足などが不自由な生徒の介護は毎日の仕事だったので、職員はストレッチなり自身の健康を管理。維持するように研修なども多かった。
その時に、私は自分の背中がパンパンに張っていたことにきづいた。少しのマッサージが痛いほど。
40を過ぎた頃にスピリチャル系にはまっていた時期があった。
あるヒーラーに「ハートチャクラの後ろ(背中の真ん中)が傷だらけですね」と言われた。
自覚症状もあった。編み物とか縫物などの手仕事をしている時、背中の真ん中が痛くなる。
今でも、じっとしている時に痛くなることがある。
背後から、まるで闇討ちのように忍び寄り、斬りつけ、刺すように暴言を吐く母。
自分を産んだ母親とはいえ、血の通った人間とは思えない瞬間である。
母のこんな態度に、私の脳裏には「サイコパス」という言葉がちらつく。
母は私を愛していないという抗えない現実に向き合わされる。
50歳を過ぎるまで、親に愛されていたと信じてきた自分のお花畑ぶりに激しい自己嫌悪に陥る。
50年以上信じてきたものは全くの幻想だったという真実に、自分の人生はいったいなんだったのかという怒涛のような喪失感に呑み込まれそうになる。
しかし少し冷静になって考えてみると、親と離れていた時期に結構幸せに楽しくやっていたことがあったじゃないか。
自分の好きなものは好き、嫌なものは嫌、嫌なことはやめてほしいと言えるようになった自分がいるではないか。
この話は機能不全の家庭に育ち、50歳を過ぎてから自分はアダルトチルドレンだったと気づいた主婦が、もう一度自分の人生に意味を見出そうとする話である。
新米の母親だったころ、実家まで車で1時間の距離に住んでいた私は、まだよちよち歩きの娘を連れてよく里帰りした。
可愛い孫の顔が見られて父母は大満足である。
まだ子育て仲間もなく、家に引きこもって子育をしていた私にもかなり気分転換になった。
毎日、家事と子育ての全部をやらなければならない負担の軽減にもなった。
父が芝生の庭で遊ぶ娘を見てくれていた。
片時も目を離さない。
娘がちょっとした段差を乗り越えようとする、何か興味を持ったものを拾おうとする。
すかさず、制止する。
「トンするから、イタイイタイになるからやめようね。」
「バッチイからやめようね。」
何もさせない、やらせない。
これは経験する機会を奪うという立派な虐待である。
おそらく私はこうやって育てられた。
父は子どもが痛い目にあって泣き叫ばないように、ちょっとした障害や危険からも遠ざけ、ささやかな小さな小さな冒険なぞ絶対させなかった。
汚いからと興味を持つものに触れさせなかった。
子どもの一生に渡って親が自分の子どもを危険から遠ざけるなんてことは、できるはずもないのに。
また、普通の一般家庭の庭にそんな汚いものは落ちているはずないのに。
子どもは小さな障害や危険に会い経験することで、危険を察知すること、身体の使い方、身のこなし方など、経験しながら学んでいく。
車が近づいてくる、危険なものが飛んでくる、池や川の縁に近づくなど、子どもが自分の力で避けられない、あるいは予想できないような危険に近づいていくときは、有無を言わせず断固として危険から遠ざけねばならないし、守らなければならない。
しかし、小さな危険や冒険は発達年齢に応じて経験させるべきだ。
いつも大人が先回りして危険を取り除き道を整えてあげていたら、子どもは悪い意味での怖いもの知らずになり、、危険回避能力、危険察知能力、危険や障害を自分の力で乗り越える力が育たない。
また、いろいろな感触のものに触れることで、子どもの体験は広がり深まり、知的に情緒的に発達していく。
五感の中で一番最初に発達するのは触覚だ。
ある一部の大人にとっては、土や石、植物の葉っぱなどまでも汚く感じるのかもしれないが、それは自然の一部であり、我々の同じ命の一部でもある。
それを汚いから触るなと言うのは、情緒の欠如した人間と言わざるを得ない。
おそらく戦後に異常に発達した日本人の衛生観念がそう言わせるのかもしれないが。
外遊びの時に父がいつも見ていたわけではないだろう。
が、子どもが何かほんの小さな傷を作っただけでも大騒ぎして、母を小一時間以上はガミガミ怒鳴りつづける父であったから、幼い子どもであった私は大人しく親が許してくれた事だけをするしかなかったのだろう。
父に抱っこされて今にも泣き出しそうな2歳ぐらいの時の写真がある。
3歳前の記憶は全くないのだが、父は幼心に怖い存在だったのだと思う。
まさか、幼い子どもに軍隊式に怒鳴ったり怒ったりはしなかったとは思うが、母に対しては気に食わないことがあればすぐ怒鳴ったりしていたと思う。
幼い私はなす術もなく恐怖に固まって見ていたのだと思う。
父方の祖父は軍事教練の教官だったから、父が幼年学校に入り軍人になったのは祖父の影響もあっただろう。
軍隊式が身に沁みている父の怒鳴り方は幼い子どもにはとてつもなく恐ろしいものと感じたはずだ。
軍隊式でなくとも大人の怒鳴り声は幼い子どもには恐怖を抱かせるに十分だと思うが。
そんなわけで、幼い私の毎日は子どもらしく無心に無邪気に遊ぶというよりも、規律と恐怖に縛られていたと思われる。
おそらく、思いのままに泣く、怒る、ということも、生まれたての頃はともかく、成長するごとに許されなくなっていった思う。
また、周囲の大人の顔色を伺って、自分の思いのままにふるまうことも感情を表すこともためらうようになっていったと思う。
3つ子の魂百までもというが、私は男の人の怒気を含む大声が怖かった。
成人した後もずっと。
男性の怒鳴り声を聞くと背中が一枚板のようになって緊張し、何も言えなくなり固まってしまう。
何とか乗り越えられたと思ったのは、40代半ば、離婚した頃、太極拳や古流柔術を趣味で習ってからだ。
両方とも一年くらいしかやっていないが、、弱い男の人ほどよく吠えるとか男も結構嫉妬深いとか、やり方を考えれば一方的に負けるわけでもないなとかはわかった。
あとは気持ちの問題で、気持ちで負ければ勝負の前にもう負けているということだ。
いつも男性には戦闘的に相対するというわけではもちろんないが、いざと言うとき、
例えば子どものためにここは絶対譲れないとか、女一人と足元見てなめてくるとか、そういう場合は負けてたまるかという心境になれるようになった。
けれど、離婚後にもらった父から届いた複数の手紙には随分と追いつめられた。
人生の最初に刷り込まれた怖れとはやはりなかなか消えるものではない。
幸い、その時の実家と私と子供の住いの距離は800キロ以上離れていた。
ダメージ回復の時間は確保できたし、父が直接会いに来るということも回避できた。
人生の最初に自分の思うように体を動かして小冒険を楽しめなかったせいなのか、もともとあまり運動神経が良くなかったせいなのかはわからないが、
私は小学校の運動会の徒競走やそのほか競技で要領よくいい成績を修めることはなかった。
それを「とろい」とか「とろっこい」とか親に言われて嘲笑されるのはたまらく嫌だったし、深く傷ついた。
もし、今の私がタイムスリップして当時のその場所に行けるのなら、自分の親に向かってこう言う。
「親の都合 、それをあなたがたは躾だと勝手に思い込んでいるのでしょうが、
親が自分たちの都合で子供の行動を規制ばかりし、子どもが自由に体を動かす経験を十分に積ませないでおいて、
子どもが運動を上手にできないと嘲笑うとは、随分とまあ、身勝手な親ですね。
仮に、あなた方の娘の運動能力が他の子どもたちに比べて劣っているのが生まれついてのものだとしても、
慰めたり、励ましたり、あるいはじっと黙って温かく見守るのが本当の親の務めでしょう。」
現在の私が、誰にも理解してもらえず本当の気持ちや感情さえもわからなくなっていた過去の自分を助けに行こう。
謎のおばさんヒーローとして。
前述したが、3歳までの記憶は一切ない。
母が私を支配し、且つ虐めてきたととうとう気付いた一昨年ごろに、3歳以前の記憶を思いだせないかと試みたことがある。
しかし、どうしても思い出せなかった。
いつなのかはっきりとしないが、「3歳前は叩いてしつける。」「3歳前は覚えてないから叩いてもいい」「お尻は肉が厚いから叩いてもいい」というようなことを母が言ったのは覚えている。
母の行動特性に、自分のストレスや鬱屈した思いを弱い者や反撃してこないと思われる相手にぶつけるというのことがある。
父が亡くなり、家を出てから25年ぶりに一緒に暮らしてみて、初めて気づいたのであるが。
小さな頃からそのような母の言動が何度も何度も当たり前の日常として繰り返されて為に、
私はとうとう50年以上、母に行動や性格について客観的なな認識を持つことができなかったと思う。
また母は強いものや権力を持ったもの、特に男性には絶対逆らわない。
ご機嫌取りや媚び等は呼吸をするようにやる。
故に私に対してのきわどい暴言も父、元夫、弟の前では言わなかった。
父や夫に私を非難するように仕向けて多数対私と言う形でやられることはあった。
最近は、母にとっての孫の私の娘や息子の前でも私に対して暴言をはかない。
当然、他人のいる前でも言わない。
良妻賢母・敬虔で善良なクリスチャン・何もできない無力な年寄、
そのような仮面を使いわけてきた。
けれど、母は私の前ではその仮面ではなく底意地の悪い素顔を晒す。
一緒に暮らし始めた頃、図書館に2週間に一度連れて行くのが恒例だった時期がある。
車に乗って出発したら、「靴下のかかとが破れてる」といった。
私は「なんで出発する前に教えてくれなかったの?」
と言ったら母は黙った。
言うタイミングがなかった等とは言わない。
車で図書館まで連れて行ってくれる娘に恥ずかしい思い、バツが悪いような思いでもさせたかったのだろうか。
それとも、母のお得意の見下し発言のように「破れた靴下なんか履いちゃって、おっかしいの」とでも言いたかったのだろうか。
掃除する時には、汚れやカビなど見えていないのかちっとも綺麗にならないのに、
何故、そんな人のアラがよく見えるのだろう。
私は、そんなことたぶん気付かないと思う。
もし気づいたとしても、出かける前に教えるだろし、言わないこともあるだろう。
そのような母の今の言動・行動特性から推測すると、
躾と称して弱い赤ん坊である私を叩いていた可能性は高い。
本当の意味で躾だったのか、ただ自分のストレスを弱い赤ん坊にぶつけていたのかは、
後者である可能性が高いと思う。
そして、それは父のいない時に行われたに違いない。
今思い出しても、自分をこの世から抹殺してしまいたい気持ちになる思い出がある。
20代半ば、障害をもった子どものお世話をしていた時に体罰を加えたことがある。
今思うと考えることもなく、条件反射のようにやっていたと思う。
虐待は連鎖する というのことが、自分の身でよくわかる。
理性とかそういうレベルではない。、
自分の記憶も定かではない時代に身体で覚えてしまったことなのではないだろうか。
その時の私は、自分でも意識できないままに母親と同化していたのではないかと推測する。
また、その行動を止めるための理性を持った自己・自我が確立していなかったと思う。
両親に過干渉され、規制され、経験する機会をことごとく奪われ、自分の感情を思いのまま表すこともなく、
自分の意志でやりたいと思うことをすべて否定され、時に嘲笑われて、生きてきた私は、
自我というものをなかなか発達させることができなかったのではないだろうか。
また、その頃結婚したばかりで、夫の両親にも嫁として従順でいることを要求されていた。
そのストレスが弱い方向へはけ口を求めたのかもしれない。
ここでまた、現在の私を謎のおばさんとして過去に送り込んで両親にこう言わせよう。
「弱い者いじめをしてはならない。
赤ん坊や幼い子どもを一人の人格を持ち、尊厳をもった存在として扱わなければならない。
外見は何もできないように見えるし、わけが分からず、何も考えてもいないように見えるかもしれない。
けれど、それは人間としての表現方法や行動方法や思考方法がまだわからないだけだ。
あなた方は、無力な存在として生まれた子どもの体も心も精神も守り育てなければならない。
ただ、食事を与えて身の回りの世話をすることが子育てではない。
衣食住を十分であっても、心や精神がなきかのように扱うのは人の親のすることではない。
けっして子どもを自分の思いを遂げるための道具としてはならない。
ましてや、自分の鬱屈した思いをぶつける都合の良い対象にしてはならない。
そのような事は人の道から外れたことである。」
私が3歳になる頃、弟が生まれた。
その時から「お姉ちゃんだから我慢しなさい。」という言葉は、水戸黄門の印籠のようだった。
それを言われたら最期、もう何の望みも断たれるのだ。
連発・乱発されるのだからたまったものではない。
弟が生まれたからと言って、3歳の子どもが突然大人になったりはしない。
私はおそらく聞き分けの良いおとなしい子どもだった。
そうするしか選択肢がなかったからなのだが。
だから、私が何か自分の事で親に要求するのはそんなに頻繁でもないし、我慢しなさいと一喝されるほどの我がままな内容はそんなには多くなかったはずだと思う。
ただ、身体は一応大人だが心は成熟していない新米の親が、2人の子どもの扱いに窮し、或いは親のその時々の都合で その場を収めるための万能の言葉として「お姉ちゃんだから我慢しなさい」を乱発したのかもしれない。
また弟の誕生以降、弟は溺愛の対象になり私は軽んじてもいい存在となっていった。
それは戦後の民主主義の時代になったとはいえ、
大正12年生まれの父と昭和4年生まれの母が育つ過程で慣れ親しんできた明治時代に誕生した家長を中心とする封建的家族制度の残像ともいえる。
父には姉がいたが、小学校の教員を長年務めていた。
その伯母さんも、父が「姉さん」とは呼ぶものの、父に何か命令されていそいそと立ち働いていた。
そうあの時代は、男(家長)は家の中でどっかり座り何もしない、これがノーマルだったのだ。
母は3人兄弟の長女だが、やはり叔父さんが一番大切にされている印象だった。
故に長男として生まれた私の弟、つまり将来家長となる男の子を大切にするのは当然というのが、親の身にについた習慣、習性だったのだろう。
しかし、昭和35年生まれの私と昭和38年生まれの弟にそれを適用されるのははなはだ時代遅れである。
幼稚園や学校では男女平等に扱われ、家に戻るとあからさまに差別されるのでは、子どもの精神がねじまがって育っても仕方ないことではないか。
また、弟が生まれてからしばらくしたころ、なぜか犬を飼っていた。
私が飼いたいと言った覚えは全くないので、おそらく父親が飼いたかったのだろう。
私は犬をかわいいなんて思うどころか、吠えられて怖かった。
弟になついていた様子もない。
その頃の我が家の家庭内カーストは、父→母→犬→弟→私 という感じになっていたのかもしれない。
母と犬の位置も微妙だ。
父は戻ってくると尻尾を振って喜ぶ犬を一番かわいいと感じていたのかもしれない。
なぜなら、犬には1時間もがみがみ怒鳴りつけたりしないだろうから、そりゃ~尻尾もふる。
家を恐怖で支配していた父に、子どもたちが「おかえりなさ~い」、とか「おとうさ~ん」うれしそうにと走り寄っていくわけはない。
父の犬に対する思い入れは40年後にも表れた。
私が離婚する時期の前後、子どもたちと離れて暮らして精神的にも経済的にも大変苦しい時期があった。
この時期に経済的に助けてくれたのは非常に感謝するべきことなのだが、父は私の精神的な苦悩・落ち込みについてはほとんど理解できていなかった。
子ども(孫)の事についてああしろ、こうしろ、飼っていた犬の事も心配してどうするんだと父は私を問い詰め、責め、ちゃんとしろとか命令をした。
孫の心配は理解できるし、私も親として子どもの事は一番、気にかかった。
しかし、私自身についての心配、応援・理解するような言葉は一言もなく、問い詰めて責めるのに、飼い犬の心配はするという態度にはまいった。
あとから考えても私は犬以下で心配する対象でもないし、言われたことを忠実にこなして当たり前、
できないなら情けないどうしようもない人間ということなのだろうか。
まるで部下に非情な扱いをする上官のようでもある。
弟を乳母車にのせて、父と弟と私で散歩に行ったことを覚えている。
犬も一緒だったかどうかよく覚えていない。
ブランコがある公園のようなところに行った。
ブランコでは何人かの子供たちが遊んでいた。
父はブランコに乗っている子供に頼んで弟を少しだけブランコに乗せた。
私にも少し乗せてくれるのかな~となんとなく思っていたら、弟が乗っているのを見ただけでおしまいになった。
何事もなかったように散歩は続行された。
4歳か5歳位の子どもにとって赤ん坊の弟が少しブランコに乗ったからといって、自分も少しだけ乗りたいという願いはずいぶんと子どもっぽく、幼稚でわがままな望みなのだろうか?
ここで、謎のおばさん登場!
「ブランコのりたかったんだね。そうか、でも他の子も遊んでいたから乗れなかったんだね。
よし、わかった、おばさんがたかいたか~いしてあげるよ。赤ちゃんみたいでいやかな?」
「ううん、本当におばさんやってくれるのならやってほしい!」(昔の私)
「うん、たくさん、やってあげる、それからぶ~んぶ~んて振り回してあげる、」
「おばさん、楽しかったありがとう。また来てくれる?また遊んでくれる?」(昔の私)
「うん、いいよ、何度でも来て遊んであげる」
この頃までの記憶に母は一切登場しない。
何故なのか今もよくわからない。
私の娘も小さいころ母(娘にとっての祖母)に面倒見てもらった時間は少なくない。
けれど、祖母の記憶や印象はほとんどないという。
「何を言っているのかわからない、そんな感じ」と言っていた。
家庭内カーストの最底辺になった私だが、それで良いこともあった。
両親は弟を溺愛し、私にしたと同じように過干渉にしたせいだろう。
私は自由に一人で遊ぶ時間が増えたらしい。
今でも一人で遊ぶのが好きなのは、この経験からかもしれない。
この時期の写真を見ると明るい顔をしているものもある。
そしてまた、弟の面倒を見るという役割も得ることになった。