小学校2年生の夏ごろ、北海道A市から神奈川県のY市に引っ越した。
このY市にある家は私が生まれた後に購入して引っ越し3歳前まで過ごした家で、そこにまた戻ってきた。
北海道時代以後の私の記憶は色がないと書いたが、すぐに色がなくなったわけではなかった。
やってきた最初の頃は好奇心で一杯でわくわくしていたのを覚えている。
新しい学校、新しい友達、どんなことがあるのかと楽しみにしていた。
その後のそこでの生活がどういうものか、どういう青春時代を過ごすことになるのか知っていたなら、そんな気持ちになることもなかったのだろう。
いつの頃からかはっきりしないが、父は仕事に単身赴任で行くようになった。
故に小学生から中学・高校までの私と弟に関わるほとんどの事柄は、母に委ねられるようになった。
また同時にこの頃から母の教会通いはだんだん増えていった。
父がいないということは、夕食のおかずや母が家を空けることに文句を言う人がいないということだ。
母は遠慮なく日曜日だけでなく、平日も頻繁に教会に出かけるようになった。
私と弟にも日曜学校に通わせ、その教会を母体としていたガールスカウト・ボーイスカウトの活動にも小学校高学年になると参加させるようになった。
母は自分と私と弟も教会の中にどっぷりと浸けこんでいった。
一度だけ、本当に一度だけ、教会の行事をさぼって母が私と弟をプールに連れて行ってくれたことがある。
小学校3年の時だと思う。
母は「教会の行事をさぼったから内緒ね」と言った。
あの日はなんだかとてもうれしくて楽しかった。
その後、母は家族よりも教会の事を優先するようになっていった。
小学生だった私はそれをそのまま受け入れるしかなく、日曜日には弟と教会の日曜学校に行き、母に言われるままに教会の行事に参加し、ガールスカウトにも参加した。
小学生の頃は教会に行けば、学校とはまた違う友達がいるのでそれはそれで楽しかった。
クリスマス等の行事の日にはお菓子を食べたり、プレゼント交換をしたり、結構楽しく過ごした。
けれども母が夜の集会に参加するのに弟と2人で留守番をさせられるのはいやだった。
また母が午後遅くまで教会で過ごして、夕食が冷凍シュウマイとご飯というメニューに度々なった。
今でもシュウマイが嫌いだ。
そんな手抜きを日常的にするのに、私がやりたいとも言っていない誕生会を教会学校の友達を招いて自宅で開いたことがある。
確か、小学校3年か4年の時だ。
母は準備が間に合わなかったのだろう。
友達がたくさん来て遊び始めたなか、私に雑巾がけをやれと命じた。
その時は友達が大勢いて楽しく遊んでいたし、「いや」と言ってそのまま友達と遊びに行った。
母の同僚の優しいお姉さん先生が傍にいたから言えたのかもしれない。
そのお姉さん先生は私が嫌だとはっきり言ったので困った顔をしたが、私を叱ることはなかった。
ピアノも同じ教会に属する老オルガニストのところに習いに行かされた。
ピアノを弾くことは楽しいと思える時もあったが、家から駅まで20分歩いて一駅乗り、そしてまたその駅から20分歩くと言う道のりの往復と、親しみやすいとは言えない老オルガにストに教えてもらうのは楽しくなかった。
その老オルガニストの家もピアノが置いてある一番手前の部屋にしか入らなかったが、冷えびえとした雰囲気だった。友達の家に遊びに行って、友達がエレクトーンを弾いてくれた。
その華やかな音色が楽しそうで、母親にエレクトーンをやりたいと言ったことがある。
「ダメ」の一言で切り捨てられそうになり、月にピアノ2回、エレクトーン2回じゃだめか?と子供なりに知恵を絞って言ってみたが、それもダメだった。
理由はダメだからダメ。
その後、そのお友達の家に遊びに行くことはなかった。
もしかすると行くのを止められたのかもしれないが、はっきり覚えていない。
今、思えばその老オルガニストにピアノを習わせるのも、母が教会でいい顔をする材料の一つだったのだろうと推測できる。
弟にもヴァイオリンを習わせていたが、教会の建物を借りていた人だった。
母の性格の特徴に、常に周囲に賞賛されていないと気が済まないというのがある。
教会行事に熱心に参加する敬虔なクリスチャン、
子どもにピアノやヴァイオリンを習わせる教育に熱心な母親
そのような外側の顔を作り上げて他人の目に触れさせることで、常に賞賛を得ようとしていたのだろう。
その目標のためには子どもの意思や意欲などは全く関係ない。
けれども、世の大抵の人は母親のそんな本音には気がつくはずもなく、良い母親であると評価する。
母親当人も自分の本音に気がついていなかっただろう。
子どもの私も50年以上はっきりとは理解することができなかった。
そして母は声高に建前を掲げて偉そうに命令する。
子どものために良かれと思っている、お金も払っているし感謝して熱心にやれ。
母の言動の特徴には、自分の責任をとらないというのもある。
母が教会にどっぷりと入れ込んだ一因には、教会にさえ行っておけば自分の事も子どもの教育もすべて安心と思い込んだ節があるのかもしれない。
自分は教会で奉仕活動を一生懸命やることで他人に評価されて安心し、子どもの心や精神的な成長に関わることも事も教会に全てまる投げしたのではなかろうか。
自分で考えることや自分の力で判断することを自ら手放し、親である自分の責任から逃れようとしたとも言える。
自分は敬虔で良いクリスチャンという立場をまず確立し、何か子どもに好ましくないことがあってもそれは子どもが悪いのだという自己中心的な保身の理論を作り上げたのかもしれない。
それは何か些細な事でも落ち度があれば、1時間も2時間も軍隊ばりの言葉で責め、問い詰め、怒鳴り、怒り、ブツブツ文句を言い続け、怒りの大小の爆発を繰り返し、事あるごとに家庭内に怒りを撒き散らす父の影響がなかったとは言えないだろう。
小学校高学年になると勉強をしろと始終言われるようになった。
80点をとれば、「もっと頑張れ」、95点をとれば「何故5点を間違えたのか」、100点をとれば、次も次も100点を取り続けろと。
この頃、母は小学校のPTAで副会長をしていたので、母の賞賛されたい病はPTAの場面でもいかんなく発揮されていたのだろう。
そのために私は成績優秀な子どもでなければならなかった。
TVの前にゆっくり座っていることは許されなかったので、友達とのTVの話には全くついていけなかった。
母は、私に勉強・ピアノ・教会での活動、家の手伝い・等々すべての面において完全を要求した。
母は私に何か落ち度があるとそれを責めた。
その落ち度がどの程度で責められるのか責められないかは、母のその時の気分次第だった。
母は私に何か責めはじめるとその事だけでとどまらず、私を全否定するまで言いつづけた。
「どこどこの窓がちゃんと閉まっていなかった」「なんて不注意なんだ」「あんたより弟の方がよほどしっかりしている」「この前のテストの点もあんなに間違えて惨めな点数だった」「だからあんたはダメなんだ」「もっとしっかりしろ」「またくだめなんだから、何やらせてもぬけているダメな子」という具合に
こんな記憶もある。
母が弟のそばに座って、「○○(弟)はいい子だね。それに比べて○○(私)は何をやってもダメなんだから、まったくなってない、。あ~ダメな子。○○はいい子ね」と言って弟にチュチュとキスもする。
これは母の言った言葉はちがうかもしれないが、ほぼ実際の記憶だ。
あるときはこんな夢も見て、それが大人になった今でも忘れられないでいる。
母と弟はソファーに座って私の方を蔑むような目で見ている。私は伝染病なような悪い病にかかっているから近寄らせてもらえない。私は目じりに涙をにじませて近づこうとするが母の意地悪で刺すような視線のためか、母と弟と私の間に目に見えない深い溝か壁があるかのように前に進めない。
私は学校や教会で友達と遊ぶとき、大体、明るく元気にふるまっていた。
それなりに友達もいた。
友達を家に呼んで遊ぶことも、庭でバレーボールをやるのも奨励された。
友人達と親の目の届くところで遊ぶことは大いに許されることだったらしい。
ピアノとは違って自分でやりたいといったバレエも2年間習わせてもらった。
母もバレエなら自慢の対象になるかもしれないと思ったのかもしれない。
誕生日には母がケーキを焼いてくれて飾りつけをやらせてもらった。
クッキーの型抜きもやらせて貰った。
嬉しかったし楽しかったけれど、今考えるとそれすらも母は他人に自慢して賞賛を得る材料にしたと思う。
子どもを楽しませる気持ちが全くなかったとは思いたくないが、
自分のことと自分の都合しか考えていない今の母を見ると、果たして本当の所はどうだったのかと疑う気持ちが強い。
他人の目に子どもの私がどのように見えていたのかはわからない。
明るく振舞っているものの私はどこか自信がない子どもだった。
実際、生活能力や逞しさには欠ける部分があったと思う。
また、オドオドしたところがある子どもだった。
今、年老いた母を観察して、その特徴はまるっきり母と同じものだったと気付いた。
小学生の私には、母が自信がないとかオドオドした所があるとはもちろんわからなかった。
母も自分が圧倒的に優位な子どもの前でそんな態度は取らなかったのだろう。
母は家事を効率よくこなしたり自分の創意工夫を加えて生活を豊かにする能力に乏しく、限られたお金で家庭全体を運営する力量もない。
力関係が逆転した今、 母のそんなところがよく見えるようになった。
私は子どもの頃、知らず知らず、母の性格と態度をコピーしていたのだろうか。
生物学的に致し方のないところがあるのかもしれないが、それを知った私は悔しくてたまらなかった。
母が過去、私に浴びせた否定的な言葉の数々
何をやってもいいかげんだ、ちゃんとできない、あさはかだ、たよりないは、今はむしろ母自身にあてはまる欠点だ。
母は自分の欠点を私にかぶせることで自分の欠点から目を背けてきたのではないか。
私にとって自分の家は本当に安心してリラックスできる場所ではなかった。
それは些細なことから突然に母の感情のサンドバックにされたり、時々帰ってくる父が母の告げ口をまともにうけて過去のことを持ち出され、突然頭ごなしにガミガミと叱られるせいだったのかもしれない。
小学生の私の至福の時間は、家に帰って母がいない時におやつを持って日の当たる暖かい場所で本を読みふける時間だった。
本の中で私の心は誰に否定される恐れもなく自由に飛翔した。
けれど、そんな時間は十分だったわけではなく、平日や土曜の午後は習い事、日曜日の午前中は教会学校、午後はガールスカウト活動だった。
また、読む本も教訓的な本を与えられることもあった。
髪を切るときにものすごい力で押さえつけた父、
1時間以上おとなしくじっと座っている事を要求され、母が生え際を怖くて揃えられないと言い、頭をものすごい力で押さえつけた父。
出来上がったやけに短いおかっぱ頭は気にいるはずもない。
お正月の書初めの習字も父が手本と称し、上からものすごい力で筆を持たれた。
屈辱を感じた、たとえ下手でも自分の思う通りに書きたかった。
そんな経過があった後に書いた書初めはのびのびとうまく書けるはずもない。
小学校の卒業式で送辞を読むことになった時、父は私の作文にあれこれ文句をつけ、とうとう清書まで自分で書いてしまった。
顔を見れば、勉強しろと口うるさい母。
私をTVの前から追い払って、一人でTVを見てゲラゲラ笑う母
誰か優秀な子と比較して私をダメだという母、
ピアノに行きたくなさそうにしている私に早く行きなさいと命令する母、
自分は家でのんびりTVでも見ていたのだろう。
小学校の高学年の頃、私は酒も飲まないのに、鼻が真っ赤に腫れるようになった。
ニキビのような湿疹に見えたが、誰だが忘れたけれどどこかの大人にただの湿疹ではないねと言われた記憶がある。
皮膚科に行ってステロイド剤や飲み薬を処方されるが、一時的に良くなったりするものの治ることはなかった。
肝臓と鼻はつながっているという。
また、肝臓は怒りの臓器とも言われる。
ドクダミ茶等苦いお茶を飲まされもしたが、本当に必要だったのは感情の解毒、自分のありのままの感情を表すことだったのだと今は思う。
親に対して怒りを表せなかった私は、自分の中に怒りを溜め込ん溜めこんで、とうとう顔の真ん中の鼻が腫れ上がってしまったのだろう。
50歳を過ぎてそのように理解した。
ここで、また現在の私を謎のおばさんとして過去に送り込もう。
そして私の両親にこう言おう。
「あなたたちは、子どものためと随分といろいろな事、余計なことまで含めてやっていますね。
それは子どものためというよりも、自分を満足させるためにやっていることだと思いますよ。
違うと言いたいでしょうが、あなたたちは自分たちの要求や命令、罵りや嘲りまで子どもの前でたくさんたくさん言うけれど、子どもの言い分や子どもの感じていることや子どもが思うことなどはほとんど聞こうとしなかったですね。
或いは最初は聞くふりをしても、必ずあとでそれを否定して自分たちの言い分を通して勝ち誇ったような顔をしましたね。
あなた方自身がそうやって育てられてきたのかもしれませんね。
ただただ、大人の言うことに一方的に従わされて生きてきたのかもしれませんね。
そうやって育ってきたあなた達は幸せでしたか。
一方的にお国のためにとか、働かざる者食うべからずとか、欲しがりません勝つまでは、とか言われながらの子ども時代、青春時代は幸せでしたか。
幸せについて考えたこともないと言うなら、うれしかったり、楽しかったことがいくつありましたか。
そう感じることも罪悪だと思うなら、一方的に命令する大人たちに対して怒りを感じたことは一度もなかったですか。
感情的に怒りまくる大人、力で押さえつける大人、ねちねちといじめる大人にたいして、理不尽さを感じたことは一度もありませんでしたか」
中学生になる頃には、両親の言動をうっとうしく感じたり、疑問を感じるようになっていった。
さっきまで玄関でお客さんと、また電話で愛想よく話していたと思ったのに、終えると突然態度が変わる。
そして大半の場合、さっきまで上機嫌で愛想よく話していたその相手の容姿や態度をあげつらい悪口を言い、罵り始めるのである。
そうやって他人をさんざんこき下ろして満足すると機嫌が良くなるのである。
多かれ少なかれ人にはよそ行きの顔と内向きの顔があると理解するようになってはいったが、豹変とも言うべき態度の違いにびっくりした。
まるで、演劇の回り舞台か暗転のようだった。
しかしそんな驚きを覚えたのは、小学生の頃までで、だんだんとそれを醒めた目で観察するようになった。
立場が上の人間には特に愛想よくふるまい機嫌をとり、そうでない人間には愛想は良いがそこそこの対応、あきらかに自分より下と判断すると少々態度がでかくなるということもわかった。
ごくたまに親戚が来た時の両親、特に父は家の中でよそ行きの態度をとり、それがとても居心地が悪く気持ち悪かった。
この頃、内弁慶とか外弁慶という言葉が使われていた。
文字通り、内で勇ましいか、外で勇ましいかと言う意味だったと思う。
おもにに子どもの性格を表すのに使っていた言葉だと思うが、両親はまさに内弁慶だったと言える。
父は外では明朗快活で人の良い好人物のようにふるまい、母は借りてきた猫のようにおとなしくふるまい、相手がいなくなったところで家の中で二人そろって口汚く相手をこき下ろす。
人は相手の態度にに怒りを感じたり不愉快になることも当然あることだが、相手の容姿までも貧相だとかガリガリだとかそういうことを子どもの前でべらべらと言い募るのは教育的に非常によくない。
もし、相手に何か不満や要求があるのならば、全てはできなくても言い方を考えて伝えるべきだろう。
それをせずに家の中で一方的に言いたい放題とは、いい大人のすることではない。
また、他人の容姿を子どもの前でこき下ろすのは、絶対にするべきことではない。
私も弟も他人の容姿を理由にからかったり、いじめたりするような子どもではなかったが、私の心の中には他人を見下す種がまかれてしまったと思う。
当時の私はこんな両親に対する怒りや不愉快な気持ちを言葉にして言うことも、自分の気持ちの中で意識することもできず、自分の中にため込んでいた。
中学に入学したころ、お試しでバスケットボール部の活動に参加した。
前述の通りに運動神経は発達しているとは言えない私だったが、ボールを追って走ったり飛んだり、汗を流したりするのは爽快だった。
結局、レギュラーには最後までなれなかったけれど、6年間バスケットボールクラブで活動した。
中学も高校も運よく?日体大卒の顧問になり、徹底的にしごかれた。
厳しすぎて高校の頃はみんなでサボろうと逃げ出したこともある。
おかげで太ももの筋肉と体力だけはついた気がする。
それと良いことは、クラブ活動があると日曜日に教会に行かなくていいことだった。
教会の行事があってもクラブで試合があれば、そちらを優先することができた。
顧問が厳しく、クラブ活動が好きで好きでたまらないというわけではなかったのだが、教会に行かなくていいのはほっとした。
ほぼ毎日のクラブの練習の帰りに友人たちと、中学時代は買い食い、高校時代はケーキ屋さんに寄るというささやかな楽しみもあった。
家が安心できる場所でなかった私は、そうやって外で友人たちと過ごす時間が長いことで救われた部分があると思う。
しかし、疲れて帰った途端、帰りが遅いだ、やれ洗濯物が多いだの、小言を言われるのは本当にむっとする。
そしてあいも変わらず、勉強しろ、クラブの休みの時は教会に行けと繰り返す。
どこの親もそのくらいはあると思うが、肯定してくれる部分・承認してくれる部分が全くなく、否定された記憶しかない。
今思えば、私が何を感じ、何を考えているかなど、親にはどうでもよかったのだろうなと思う。
子どもは大人の命令に従って当然だと考えていたのだろう。
自分たちがそうされてきたからなのだろうが。
クラブ活動が許されたのも、大人が指導しているから、つまり大人の監視の目が行き届くだろうから許したのだろうと思う。
友人と町に遊びに行く、映画を見に行くというのはほぼ許されなかったら。
思い出せるのは中学の友人と一度街に、高校の友人たちと映画と海に一度ずつ行っただけ。
それも随分小言を言われながらを押し切ってだった。
中学生~高校生、12~18歳の時というのは、心も体もぐんと成長していく時だと思う。
しかし、私のこの時代は上から頭を押さえつけられて身動きがとれずジタバタしているというイメージだ。
身体はともかく、心や精神はほとんど成長できなかったと思う。
学校に行く、勉強する、クラブ活動でスポーツをする、教会に行く、そういう決まりきったことだけの日常が重苦しかった。
今は自分が知りたいと思えば、パソコンの前に座って色々な情報を得ることができる。
しかし、まだまだそういう時代にはなっていなかった。
携帯電話の登場もこの時からだいたい20年後ぐらいである。
しかし、もしあったとしても父母が買い与えてくれたかどうかはかなりの疑問だが。
自分や家族について知る・考える・社会のいろいろな事についてについて知る・考える、そして自分なりの意見を持つ、そういうことがまるきりできていなかった。
今になってよくわかったことだが、私の両親は外では自立した大人としてふるまって見えるようにふるまってはいたが、何かについて確固とした意見、経験や知識からくる根拠をもった知恵や独自の考え方を持ってはいなかった。
そして臆病だった。
すこしでも自分たちの想定を超えることを子どもがしようとした時には、全力で否定して止めさせた。
高校時代、教師たちは生徒である私たちを3無主義 (無気力・無関心・無責任)と形容した。
親に行動を強く制限された私は極端な事例の部類にはいると思うが、受け身的な学習ばかりで能動的な学習する機会をほとんど与えられなかった世代の特徴の一つなのかもしれない。
やりたいと思うことをやらせてもらえないなら無気力にもなる。
自分の関心を持ったことはやらせてもらえず、与えられたことに関心をもてと言われたって、そんなことできない。
やりたくないことばかりを押し付けられたら無責任にもなる。
中学・高校時代、私が友人たちや教師からどのように見られていたのかはわからない。
今振り返れば、私の心は砂漠か荒野のように荒んでいたと思う。
中学生・高校生なのに、何の希望も何の夢も、好奇心でわくわくすることも何もなかった。
ただただ、毎日のルーティンを仕方なく繰り返していた。
時々やってくるテストという波、学校や教会の行事、を漫然とやり過ごした。
自分のことなのに、自分自身の事がまるっきりわからなくなっていた。
何が好きで、何が嫌いで、これが楽しいとか、これは嫌とかわからなかった。
その場その場でとりあえず、なんとなく適応することで生きていた。
色のない世界に生きていた。
グレーの濃淡がなんとなくついているようなそんな世界に生きていた。
親の命令や小言もどこか遠いところで響いているようにも聞こえた。
母が日常的に何気なく繰り返す私にだけ聞こえるように言うアラ探し・否定
誰かと比較して~~じゃないからダメだ、とつぶやく言葉
幼い頃から繰り返された否定の言葉で心はもうボロボロの雑巾かムシロのようになって、ささくれ立っていたのだろう。
ボロはボロなりの意地で口答えすると忘れた頃に父の怒鳴りがやってくる。
それは母が自分の不利な立場を逃れるために私の事を父に告げ口するから。
母は父に怒鳴られている私をそれ見たことかという顔をして見ていた。
それなのに私は常日頃、父に怒鳴られていた母をかわいそうだと思っていた。
すべてが、何となくすすんでいた。
自分で自分の何を決められるわけでもなく、特別楽しいと思えることも、特別悲しいと思うこともなく、
何回か、ふとしたことで自分の感覚・感情が他の人と違うのかなと思うことがあった。
怒鳴り声が聞こえた時に、顔の表情が固まって動かなくなる。
TVドラマの悲しい場面、卒業式などの別れの場面で感情が動かない。
友人たちは泣いたりしているのに、自分は涙なんてでない。
ホラー映画を見たら、怖いな~とは思うが、悲鳴なんて出ない。
でもその疑問はふと心をよぎるだけで、と深く考えることもなく通り過ぎてしまった。
とにかく、毎日その場その場に適応・順応するのでいっぱいいっぱいだった。
自分の心の中は砂漠や荒野のようだったけれど、友人たちとのたわいないおしゃべりは楽しかった。
おそらくかなりの場面で自分の感情表現がうまくできないことで、ずれたり、すれ違ったり、浮いていたとは思うけれど。
そんなちょっと可愛そうで惨めな過去の自分のために、現在の自分を未来から来た謎のおばさんとして登場させよう。
「こんにちわ
急に現れてびっくりすると思うけれど、私はあなたの未来を少し知っているの。」
「えっ 私の未来はど・ど・どうなってるのですか?」
「それは残念ながら教えられないわ。
知ってしまったらまた未来が変わるってことあるでしょうしね。」
「そうなんですか、じゃ何をしに来たのですか」
「そうね、あなたとただ少しお話したかったから。」
「話しをしたら未来が変わるってことないのですか?」
「たわいのない話ならたぶん大丈夫 だと思う・・・
毎日、クラブ活動頑張っているわね 」
「ええ、でも私はレギュラーになれるほど上手くありません。」
「あなたはレギュラーになるためにバスケットボールをやっているの?」
「えっ・・・・それはたぶん違いと思います。
風を切って・・あのそんなにうまくはないのですけど・・
風を切るようにドリブルして進んでシュートを決めた時、とても気持ちいいです。
爽快な感じがします」
「うんいいね、それすごくいいと思う。」
「でも、やるからにはレギュラーになっていつも試合に・・・」
「そうね、そういう価値観の人は多いと思う。
けれど、みんながみんなそうなれるわけじゃない。
例えばね、国立美術館に飾られるような絵描きさんがいる。
子どもが殴り書きで書いた絵や一生懸命書いた絵には何の価値もないかしら。」
「・・絵描きさんも子どもも一生懸命ってことでは同じ・・」
「順位をつけたり、上下のレッテルを貼って一番とか上だけがいいと考える人もいるけれど、私はそうは思わない。
あなたはあなたなりに一生懸命に生きていると思う。」