老毒母と暮らすアダルトチャイルドの話

過保護と恐怖の幼児時代( 1 / 2 )

父の過保護・過干渉

 

新米の母親だったころ、実家まで車で1時間の距離に住んでいた私は、まだよちよち歩きの娘を連れてよく里帰りした。

可愛い孫の顔が見られて父母は大満足である。

まだ子育て仲間もなく、家に引きこもって子育をしていた私にもかなり気分転換になった。

毎日、家事と子育ての全部をやらなければならない負担の軽減にもなった。

父が芝生の庭で遊ぶ娘を見てくれていた。

片時も目を離さない。

娘がちょっとした段差を乗り越えようとする、何か興味を持ったものを拾おうとする。

すかさず、制止する。

「トンするから、イタイイタイになるからやめようね。」

「バッチイからやめようね。」

何もさせない、やらせない。

これは経験する機会を奪うという立派な虐待である。


おそらく私はこうやって育てられた。

父は子どもが痛い目にあって泣き叫ばないように、ちょっとした障害や危険からも遠ざけ、ささやかな小さな小さな冒険なぞ絶対させなかった。

汚いからと興味を持つものに触れさせなかった。

子どもの一生に渡って親が自分の子どもを危険から遠ざけるなんてことは、できるはずもないのに。

また、普通の一般家庭の庭にそんな汚いものは落ちているはずないのに。



子どもは小さな障害や危険に会い経験することで、危険を察知すること、身体の使い方、身のこなし方など、経験しながら学んでいく。

車が近づいてくる、危険なものが飛んでくる、池や川の縁に近づくなど、子どもが自分の力で避けられない、あるいは予想できないような危険に近づいていくときは、有無を言わせず断固として危険から遠ざけねばならないし、守らなければならない。

しかし、小さな危険や冒険は発達年齢に応じて経験させるべきだ。

いつも大人が先回りして危険を取り除き道を整えてあげていたら、子どもは悪い意味での怖いもの知らずになり、、危険回避能力、危険察知能力、危険や障害を自分の力で乗り越える力が育たない。

また、いろいろな感触のものに触れることで、子どもの体験は広がり深まり、知的に情緒的に発達していく。

五感の中で一番最初に発達するのは触覚だ。

ある一部の大人にとっては、土や石、植物の葉っぱなどまでも汚く感じるのかもしれないが、それは自然の一部であり、我々の同じ命の一部でもある。

それを汚いから触るなと言うのは、情緒の欠如した人間と言わざるを得ない。

おそらく戦後に異常に発達した日本人の衛生観念がそう言わせるのかもしれないが。

外遊びの時に父がいつも見ていたわけではないだろう。

が、子どもが何かほんの小さな傷を作っただけでも大騒ぎして、母を小一時間以上はガミガミ怒鳴りつづける父であったから、幼い子どもであった私は大人しく親が許してくれた事だけをするしかなかったのだろう。

父に抱っこされて今にも泣き出しそうな2歳ぐらいの時の写真がある。

3歳前の記憶は全くないのだが、父は幼心に怖い存在だったのだと思う。

まさか、幼い子どもに軍隊式に怒鳴ったり怒ったりはしなかったとは思うが、母に対しては気に食わないことがあればすぐ怒鳴ったりしていたと思う。

幼い私はなす術もなく恐怖に固まって見ていたのだと思う。

父方の祖父は軍事教練の教官だったから、父が幼年学校に入り軍人になったのは祖父の影響もあっただろう。

軍隊式が身に沁みている父の怒鳴り方は幼い子どもにはとてつもなく恐ろしいものと感じたはずだ。

軍隊式でなくとも大人の怒鳴り声は幼い子どもには恐怖を抱かせるに十分だと思うが。

 そんなわけで、幼い私の毎日は子どもらしく無心に無邪気に遊ぶというよりも、規律と恐怖に縛られていたと思われる。

おそらく、思いのままに泣く、怒る、ということも、生まれたての頃はともかく、成長するごとに許されなくなっていった思う。

また、周囲の大人の顔色を伺って、自分の思いのままにふるまうことも感情を表すこともためらうようになっていったと思う。

 

 

3つ子の魂百までもというが、私は男の人の怒気を含む大声が怖かった。

成人した後もずっと。

男性の怒鳴り声を聞くと背中が一枚板のようになって緊張し、何も言えなくなり固まってしまう。

何とか乗り越えられたと思ったのは、40代半ば、離婚した頃、太極拳や古流柔術を趣味で習ってからだ。

両方とも一年くらいしかやっていないが、、弱い男の人ほどよく吠えるとか男も結構嫉妬深いとか、やり方を考えれば一方的に負けるわけでもないなとかはわかった。

あとは気持ちの問題で、気持ちで負ければ勝負の前にもう負けているということだ。

いつも男性には戦闘的に相対するというわけではもちろんないが、いざと言うとき、

例えば子どものためにここは絶対譲れないとか、女一人と足元見てなめてくるとか、そういう場合は負けてたまるかという心境になれるようになった。

けれど、離婚後にもらった父から届いた複数の手紙には随分と追いつめられた。

人生の最初に刷り込まれた怖れとはやはりなかなか消えるものではない。

幸い、その時の実家と私と子供の住いの距離は800キロ以上離れていた。

ダメージ回復の時間は確保できたし、父が直接会いに来るということも回避できた。

 

人生の最初に自分の思うように体を動かして小冒険を楽しめなかったせいなのか、もともとあまり運動神経が良くなかったせいなのかはわからないが、

私は小学校の運動会の徒競走やそのほか競技で要領よくいい成績を修めることはなかった。

それを「とろい」とか「とろっこい」とか親に言われて嘲笑されるのはたまらく嫌だったし、深く傷ついた。

 

もし、今の私がタイムスリップして当時のその場所に行けるのなら、自分の親に向かってこう言う。

「親の都合 、それをあなたがたは躾だと勝手に思い込んでいるのでしょうが、

親が自分たちの都合で子供の行動を規制ばかりし、子どもが自由に体を動かす経験を十分に積ませないでおいて、

子どもが運動を上手にできないと嘲笑うとは、随分とまあ、身勝手な親ですね。

仮に、あなた方の娘の運動能力が他の子どもたちに比べて劣っているのが生まれついてのものだとしても、

慰めたり、励ましたり、あるいはじっと黙って温かく見守るのが本当の親の務めでしょう。」

 

現在の私が、誰にも理解してもらえず本当の気持ちや感情さえもわからなくなっていた過去の自分を助けに行こう。

謎のおばさんヒーローとして。

 

 

 

過保護と恐怖の幼児時代( 2 / 2 )

母の躾

 

 前述したが、3歳までの記憶は一切ない。

母が私を支配し、且つ虐めてきたととうとう気付いた一昨年ごろに、3歳以前の記憶を思いだせないかと試みたことがある。

しかし、どうしても思い出せなかった。

いつなのかはっきりとしないが、「3歳前は叩いてしつける。」「3歳前は覚えてないから叩いてもいい」「お尻は肉が厚いから叩いてもいい」というようなことを母が言ったのは覚えている。

母の行動特性に、自分のストレスや鬱屈した思いを弱い者や反撃してこないと思われる相手にぶつけるというのことがある。

父が亡くなり、家を出てから25年ぶりに一緒に暮らしてみて、初めて気づいたのであるが。

小さな頃からそのような母の言動が何度も何度も当たり前の日常として繰り返されて為に、

私はとうとう50年以上、母に行動や性格について客観的なな認識を持つことができなかったと思う。

また母は強いものや権力を持ったもの、特に男性には絶対逆らわない。

ご機嫌取りや媚び等は呼吸をするようにやる。

故に私に対してのきわどい暴言も父、元夫、弟の前では言わなかった。

父や夫に私を非難するように仕向けて多数対私と言う形でやられることはあった。

最近は、母にとっての孫の私の娘や息子の前でも私に対して暴言をはかない。

当然、他人のいる前でも言わない。

良妻賢母・敬虔で善良なクリスチャン・何もできない無力な年寄、

そのような仮面を使いわけてきた。

けれど、母は私の前ではその仮面ではなく底意地の悪い素顔を晒す。

 

一緒に暮らし始めた頃、図書館に2週間に一度連れて行くのが恒例だった時期がある。

車に乗って出発したら、「靴下のかかとが破れてる」といった。

私は「なんで出発する前に教えてくれなかったの?」

と言ったら母は黙った。

言うタイミングがなかった等とは言わない。

車で図書館まで連れて行ってくれる娘に恥ずかしい思い、バツが悪いような思いでもさせたかったのだろうか。

それとも、母のお得意の見下し発言のように「破れた靴下なんか履いちゃって、おっかしいの」とでも言いたかったのだろうか。

掃除する時には、汚れやカビなど見えていないのかちっとも綺麗にならないのに、

何故、そんな人のアラがよく見えるのだろう。

私は、そんなことたぶん気付かないと思う。

もし気づいたとしても、出かける前に教えるだろし、言わないこともあるだろう。

 

そのような母の今の言動・行動特性から推測すると、

躾と称して弱い赤ん坊である私を叩いていた可能性は高い。

本当の意味で躾だったのか、ただ自分のストレスを弱い赤ん坊にぶつけていたのかは、

後者である可能性が高いと思う。

そして、それは父のいない時に行われたに違いない。

 

今思い出しても、自分をこの世から抹殺してしまいたい気持ちになる思い出がある。

20代半ば、障害をもった子どものお世話をしていた時に体罰を加えたことがある。

今思うと考えることもなく、条件反射のようにやっていたと思う。

虐待は連鎖する というのことが、自分の身でよくわかる。

理性とかそういうレベルではない。、

自分の記憶も定かではない時代に身体で覚えてしまったことなのではないだろうか。

その時の私は、自分でも意識できないままに母親と同化していたのではないかと推測する。

また、その行動を止めるための理性を持った自己・自我が確立していなかったと思う。

 

両親に過干渉され、規制され、経験する機会をことごとく奪われ、自分の感情を思いのまま表すこともなく、

自分の意志でやりたいと思うことをすべて否定され、時に嘲笑われて、生きてきた私は、

自我というものをなかなか発達させることができなかったのではないだろうか。

また、その頃結婚したばかりで、夫の両親にも嫁として従順でいることを要求されていた。

そのストレスが弱い方向へはけ口を求めたのかもしれない。

 

ここでまた、現在の私を謎のおばさんとして過去に送り込んで両親にこう言わせよう。

 

「弱い者いじめをしてはならない。

赤ん坊や幼い子どもを一人の人格を持ち、尊厳をもった存在として扱わなければならない。

外見は何もできないように見えるし、わけが分からず、何も考えてもいないように見えるかもしれない。

けれど、それは人間としての表現方法や行動方法や思考方法がまだわからないだけだ。

あなた方は、無力な存在として生まれた子どもの体も心も精神も守り育てなければならない。

ただ、食事を与えて身の回りの世話をすることが子育てではない。

衣食住を十分であっても、心や精神がなきかのように扱うのは人の親のすることではない。

けっして子どもを自分の思いを遂げるための道具としてはならない。

ましてや、自分の鬱屈した思いをぶつける都合の良い対象にしてはならない。

そのような事は人の道から外れたことである。」

 

 

 

 

 

 

弟が生まれて( 1 / 1 )

家庭内カーストの最底辺に

 

 私が3歳になる頃、弟が生まれた。

その時から「お姉ちゃんだから我慢しなさい。」という言葉は、水戸黄門の印籠のようだった。

それを言われたら最期、もう何の望みも断たれるのだ。

連発・乱発されるのだからたまったものではない。

弟が生まれたからと言って、3歳の子どもが突然大人になったりはしない。

私はおそらく聞き分けの良いおとなしい子どもだった。

そうするしか選択肢がなかったからなのだが。

だから、私が何か自分の事で親に要求するのはそんなに頻繁でもないし、我慢しなさいと一喝されるほどの我がままな内容はそんなには多くなかったはずだと思う。

ただ、身体は一応大人だが心は成熟していない新米の親が、2人の子どもの扱いに窮し、或いは親のその時々の都合で その場を収めるための万能の言葉として「お姉ちゃんだから我慢しなさい」を乱発したのかもしれない。

また弟の誕生以降、弟は溺愛の対象になり私は軽んじてもいい存在となっていった。

それは戦後の民主主義の時代になったとはいえ、

大正12年生まれの父と昭和4年生まれの母が育つ過程で慣れ親しんできた明治時代に誕生した家長を中心とする封建的家族制度の残像ともいえる。

父には姉がいたが、小学校の教員を長年務めていた。

その伯母さんも、父が「姉さん」とは呼ぶものの、父に何か命令されていそいそと立ち働いていた。

そうあの時代は、男(家長)は家の中でどっかり座り何もしない、これがノーマルだったのだ。

母は3人兄弟の長女だが、やはり叔父さんが一番大切にされている印象だった。

故に長男として生まれた私の弟、つまり将来家長となる男の子を大切にするのは当然というのが、親の身にについた習慣、習性だったのだろう。

しかし、昭和35年生まれの私と昭和38年生まれの弟にそれを適用されるのははなはだ時代遅れである。

幼稚園や学校では男女平等に扱われ、家に戻るとあからさまに差別されるのでは、子どもの精神がねじまがって育っても仕方ないことではないか。

 

また、弟が生まれてからしばらくしたころ、なぜか犬を飼っていた。

私が飼いたいと言った覚えは全くないので、おそらく父親が飼いたかったのだろう。

私は犬をかわいいなんて思うどころか、吠えられて怖かった。

弟になついていた様子もない。

その頃の我が家の家庭内カーストは、父→母→犬→弟→私 という感じになっていたのかもしれない。

母と犬の位置も微妙だ。

父は戻ってくると尻尾を振って喜ぶ犬を一番かわいいと感じていたのかもしれない。

なぜなら、犬には1時間もがみがみ怒鳴りつけたりしないだろうから、そりゃ~尻尾もふる。

 家を恐怖で支配していた父に、子どもたちが「おかえりなさ~い」、とか「おとうさ~ん」うれしそうにと走り寄っていくわけはない。

父の犬に対する思い入れは40年後にも表れた。

私が離婚する時期の前後、子どもたちと離れて暮らして精神的にも経済的にも大変苦しい時期があった。

この時期に経済的に助けてくれたのは非常に感謝するべきことなのだが、父は私の精神的な苦悩・落ち込みについてはほとんど理解できていなかった。

子ども(孫)の事についてああしろ、こうしろ、飼っていた犬の事も心配してどうするんだと父は私を問い詰め、責め、ちゃんとしろとか命令をした。

孫の心配は理解できるし、私も親として子どもの事は一番、気にかかった。

しかし、私自身についての心配、応援・理解するような言葉は一言もなく、問い詰めて責めるのに、飼い犬の心配はするという態度にはまいった。

あとから考えても私は犬以下で心配する対象でもないし、言われたことを忠実にこなして当たり前、

できないなら情けないどうしようもない人間ということなのだろうか。

まるで部下に非情な扱いをする上官のようでもある。

 

弟を乳母車にのせて、父と弟と私で散歩に行ったことを覚えている。

犬も一緒だったかどうかよく覚えていない。

ブランコがある公園のようなところに行った。

ブランコでは何人かの子供たちが遊んでいた。

父はブランコに乗っている子供に頼んで弟を少しだけブランコに乗せた。

私にも少し乗せてくれるのかな~となんとなく思っていたら、弟が乗っているのを見ただけでおしまいになった。

何事もなかったように散歩は続行された。

4歳か5歳位の子どもにとって赤ん坊の弟が少しブランコに乗ったからといって、自分も少しだけ乗りたいという願いはずいぶんと子どもっぽく、幼稚でわがままな望みなのだろうか?

 

ここで、謎のおばさん登場!

 

「ブランコのりたかったんだね。そうか、でも他の子も遊んでいたから乗れなかったんだね。

よし、わかった、おばさんがたかいたか~いしてあげるよ。赤ちゃんみたいでいやかな?」

「ううん、本当におばさんやってくれるのならやってほしい!」(昔の私)

「うん、たくさん、やってあげる、それからぶ~んぶ~んて振り回してあげる、」

 「おばさん、楽しかったありがとう。また来てくれる?また遊んでくれる?」(昔の私)

「うん、いいよ、何度でも来て遊んであげる」

 

この頃までの記憶に母は一切登場しない。

何故なのか今もよくわからない。

私の娘も小さいころ母(娘にとっての祖母)に面倒見てもらった時間は少なくない。

けれど、祖母の記憶や印象はほとんどないという。

「何を言っているのかわからない、そんな感じ」と言っていた。

 

家庭内カーストの最底辺になった私だが、それで良いこともあった。

両親は弟を溺愛し、私にしたと同じように過干渉にしたせいだろう。

私は自由に一人で遊ぶ時間が増えたらしい。

今でも一人で遊ぶのが好きなのは、この経験からかもしれない。

この時期の写真を見ると明るい顔をしているものもある。

そしてまた、弟の面倒を見るという役割も得ることになった。

 

 

 

 

 

 

 

かりそめの自由( 1 / 1 )

北国の自然に抱かれて

 

 幼稚園の年長の途中から小学校2年生の夏ごろまで、父親の転勤に伴い北海道A市で過ごした。

この頃の思い出には、楽しいものがいくつかある。

楽しい思い出を複数思い出せるだけ、私の人生の中では一番幸福だった時期と言える。

この時に住んでいた家は今の大人の目で見ればそれほど広くはないのかもしれないが、

子どもの私にとっては十分広い庭のある家だった。

前に住んでいた人が花好きだったのだろう。

庭は不規則な大小の花壇に区切られ、様々な花が咲く植物が植えられていた。

花の名前はスズランくらいしか子どもの私にはわからなかったが。

その花壇の間の小径を三輪車に弟をのせ、後ろから私もハンドルの外側をもって片足で地面をけりながら、巡るのがお気に入りの遊びだった。

花壇の切れ目のあちこちに駅を作り、名前を付けていた。

どんな名前を付けてかはすっかり忘れて覚えていない。

もちろん、それは春・夏・秋の過ごしやすい気候の良い日のことで、冬は雪遊びになる。

子ども心にも、雪が溶けて春にいっせいに花が咲いた時の華やかさに心が浮き立つようだったのを覚えている。

冬はもちろんとびきり寒くて長いのだが、夏は短いけれどもそれなりにかなり暑い。

夏は母にプールに泳ぎに連れて行ってもらった。

唯一、母にしっかりと教えてもらったことは平泳ぎの足のかきかただ。

秋はトンボがたくさん群れ飛んで、とろっこい私にもトンボが捕まえられた。

冬は父が庭にスキーで滑り降りられるような小高い山を作ってくれた。

朝、氷点下だと牛乳と一緒に配達される乳酸菌飲料(名前が思い出せない)が凍っていて、それを暖かい部屋の中でスプーンですくいながら食べるのはとても美味しかった。

雪まつりにも連れて行ってもらった。

珍しく、雪の大きな滑り台をやりたいかと聞かれて「やりたい」といったら、連れて行ってやらせてもらえた。

誕生日にデパートに行き、ぬいぐるみを買ってもらった。

そして食堂でプリンアラモードを食べさせてくれた。

こんな誕生日は後にも先にもこの時一度きりだった。

 

この時代は、「勉強しろ」と命令されることもなく、庭で弟と自由に遊んでいた。

この頃、私も弟もセーターやベストなど母の手作りのものを着ていた。

既製服があまり出回っていなかったせいなのか、母の方針なのかはわからない。

この後に首都圏に移ってからは手作りの服を着ていあ覚えがないので、

既製服があまり出回っておらず、あったとしても高価だったのかもしれない。

 

今、自分が北海道に住んで言えることは、雪がほとんど降らない地方よりも家に関わる労力が多いということだ。

管理の整ったマンションなどに住むのなら東京などとさほどかわりはないかもしれないが、戸建に住むのなら雪かきは欠かせない。

冬になる前には家の周囲を片付け、雪かき道具を準備し、雪から庭木などを守る作業をしたり、他の季節よりも生活必需品を多めに買い込み、車のガソリンは早め早めに満タンにする。

荒天になって買い物に行けなくなることがあるからだ。

インフラの整った今ですら、結構やることがある。

元から雪国に住んでいた人には当たり前の事かもしれないのだが。

雪のない関東地方、それもかなり便利な郊外のベッドタウンに長く住んできた者にとっては、

やるべきことがたくさんあるなと感じる。

 

故に、今から50年ほど昔であれば、冬に備えての漬物作り・ストーブも石炭ストーブなど家事に関わる労力は、今よりもかなり多かったのだろうと思う。

母が家事に忙しくしていたおかげで、私たち姉弟はかえって自由に遊んでいられたのかもしれない。

母も家事をはかどらせたいので、2人で外で遊んでいる、大いに結構となったのだろう。

 

 いつものように弟と庭で遊んでいた時に、母が急に家から出てきた。

干してある布団の下の方から上に向かって一筋に点々と土がかかっていた。

その土汚れは、さっきどこかの知らない男の子が布団の下を潜り抜けていったときに持っていた石炭シャベルで跳ね上げたものだ。

母は「布団が汚れているのは○○(私の名前)がやったのか?」と聞いた。

私は「ちがう」と答えた。

母「そんなことあるわけない、○○がやったに決まっている」と言ってさっさと家の中に入っていった。

私には、弁明する機会も何も与えられなかった。

せっせと家事をこなさなければならない母は、子どもの言い分にじっくり耳を傾ける余裕などなかったのかもしれない。

 

また、その頃オルガンを習っていたのだが、オルガン教室の発表会の時の事。

グループで舞台に上がったのだが、舞台の高いところに上がって見る景色のが珍しかったのか私はオルガンをひくことに集中できず周りをきょろきょろ見回してばかりいた。

それを後から両親に咎められた。

でもこの咎められ方は、今思えばまだまだ優しい部類だった。

 

私が小学校2年生、その頃もう父はまた東京方面に転勤になると決まっていたようだった。

私は学校から戻り、一人でお留守番ををしていた。

なぜかひどく寒かった、寒かったら電気ストーブをつけろと言われていたのか、

ぎりぎりまで電気ストーブに近づいていて着ていたベストに焦げができたくらいだった。

お腹もなんだか妙にすいてミカンをもってきてたくさん食べた。

その夜からお腹が痛くなり、盲腸炎と診断されて手術も含めて1週間くらい入院した。

母が最初のうちは一緒に泊まってくれたと思う。

 

50年近く経ってわかったことだが、昔話をしていた時に

弟はこの時代、母と一緒に買い物にいってお菓子を買ってもらうのが楽しみだったといった。

弟の懐かしいほんわかとした昔語りは、私には青天の霹靂ともいう驚きになった。

私は母に買い物に連れて行ってもらってただの一度もお菓子を買ってもらったことなんてない。

母が弟の方をかわいがって甘やかしてきたのは知っていたけれど、

そこまであからさまに差をつけていたと50年近く経って初めて知った。

 

母に陰険な手法で苛めれれてはいたのだろうけれど、総じてこの時代は幸せだったと思う。

勤め先が近かったせいもあったのか、父が家にいる時間も長かったのかもしれない。

その割に家にいる父の記憶がないのは、家で怒りを爆発させることが多くなかったのだろうか。

 

いよいよ北海道から関東に戻ることになり、引っ越し準備がはじまった。

私は父の邪魔にならないように少し離れたところに座って父の仕事を見ていた。

父が荷物を詰め終わり紐でしっかりと結ぶと、最後にその紐の端をはさみで切る仕事をもらった。

その仕事をするためにそれ以外の時間私は大人しく父の言われた場所に座っていた。

私は小学校2年生、自分でも手のかからない良い子だと思ってしまう。

けれど、仕事をもらって私はうれしかったと記憶している。

 

もし、あのまま北海道にいたならば私の人生は今よりだいぶマシだったのではないかと思うことがある。

この時代の記憶は良いにしろ、悪いにしろ、フルカラーである。

春夏の赤やオレンジやブルーなどの鮮やかな花の色、庭の花の周囲を舞う蝶

青空を背景に群れ飛ぶトンボ・川原にたくさん生えていたマツヨイグサの黄色

そして冬の白一色・透明なツララ

 

小学2年の夏に、東京郊外の家に戻った。

その頃からの記憶には色がない。

それでもあえて色で言うなら、グレー

自分の頭の中にどんよりしたフィルターがかかったような感じのグレーである。

 

 

 

 

 

 

 

雪うさぎ
老毒母と暮らすアダルトチャイルドの話
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