老毒母と暮らすアダルトチャイルドの話

スポーツにいかりをぶつける( 1 / 2 )

バスケットボール部に入る

 

 中学生になる頃には、両親の言動をうっとうしく感じたり、疑問を感じるようになっていった。

さっきまで玄関でお客さんと、また電話で愛想よく話していたと思ったのに、終えると突然態度が変わる。

そして大半の場合、さっきまで上機嫌で愛想よく話していたその相手の容姿や態度をあげつらい悪口を言い、罵り始めるのである。

そうやって他人をさんざんこき下ろして満足すると機嫌が良くなるのである。

多かれ少なかれ人にはよそ行きの顔と内向きの顔があると理解するようになってはいったが、豹変とも言うべき態度の違いにびっくりした。

まるで、演劇の回り舞台か暗転のようだった。

しかしそんな驚きを覚えたのは、小学生の頃までで、だんだんとそれを醒めた目で観察するようになった。

立場が上の人間には特に愛想よくふるまい機嫌をとり、そうでない人間には愛想は良いがそこそこの対応、あきらかに自分より下と判断すると少々態度がでかくなるということもわかった。

ごくたまに親戚が来た時の両親、特に父は家の中でよそ行きの態度をとり、それがとても居心地が悪く気持ち悪かった。

 この頃、内弁慶とか外弁慶という言葉が使われていた。

文字通り、内で勇ましいか、外で勇ましいかと言う意味だったと思う。

おもにに子どもの性格を表すのに使っていた言葉だと思うが、両親はまさに内弁慶だったと言える。

父は外では明朗快活で人の良い好人物のようにふるまい、母は借りてきた猫のようにおとなしくふるまい、相手がいなくなったところで家の中で二人そろって口汚く相手をこき下ろす。

人は相手の態度にに怒りを感じたり不愉快になることも当然あることだが、相手の容姿までも貧相だとかガリガリだとかそういうことを子どもの前でべらべらと言い募るのは教育的に非常によくない。

もし、相手に何か不満や要求があるのならば、全てはできなくても言い方を考えて伝えるべきだろう。

それをせずに家の中で一方的に言いたい放題とは、いい大人のすることではない。

また、他人の容姿を子どもの前でこき下ろすのは、絶対にするべきことではない。

私も弟も他人の容姿を理由にからかったり、いじめたりするような子どもではなかったが、私の心の中には他人を見下す種がまかれてしまったと思う。

当時の私はこんな両親に対する怒りや不愉快な気持ちを言葉にして言うことも、自分の気持ちの中で意識することもできず、自分の中にため込んでいた。

 

中学に入学したころ、お試しでバスケットボール部の活動に参加した。

前述の通りに運動神経は発達しているとは言えない私だったが、ボールを追って走ったり飛んだり、汗を流したりするのは爽快だった。

結局、レギュラーには最後までなれなかったけれど、6年間バスケットボールクラブで活動した。

中学も高校も運よく?日体大卒の顧問になり、徹底的にしごかれた。

厳しすぎて高校の頃はみんなでサボろうと逃げ出したこともある。

おかげで太ももの筋肉と体力だけはついた気がする。

それと良いことは、クラブ活動があると日曜日に教会に行かなくていいことだった。

教会の行事があってもクラブで試合があれば、そちらを優先することができた。

顧問が厳しく、クラブ活動が好きで好きでたまらないというわけではなかったのだが、教会に行かなくていいのはほっとした。

ほぼ毎日のクラブの練習の帰りに友人たちと、中学時代は買い食い、高校時代はケーキ屋さんに寄るというささやかな楽しみもあった。

家が安心できる場所でなかった私は、そうやって外で友人たちと過ごす時間が長いことで救われた部分があると思う。

 

しかし、疲れて帰った途端、帰りが遅いだ、やれ洗濯物が多いだの、小言を言われるのは本当にむっとする。

そしてあいも変わらず、勉強しろ、クラブの休みの時は教会に行けと繰り返す。

どこの親もそのくらいはあると思うが、肯定してくれる部分・承認してくれる部分が全くなく、否定された記憶しかない。

 

 今思えば、私が何を感じ、何を考えているかなど、親にはどうでもよかったのだろうなと思う。

子どもは大人の命令に従って当然だと考えていたのだろう。

自分たちがそうされてきたからなのだろうが。

クラブ活動が許されたのも、大人が指導しているから、つまり大人の監視の目が行き届くだろうから許したのだろうと思う。

友人と町に遊びに行く、映画を見に行くというのはほぼ許されなかったら。

思い出せるのは中学の友人と一度街に、高校の友人たちと映画と海に一度ずつ行っただけ。

それも随分小言を言われながらを押し切ってだった。

 

 

 

 

スポーツにいかりをぶつける( 2 / 2 )

うすい青春

 

 中学生~高校生、12~18歳の時というのは、心も体もぐんと成長していく時だと思う。

しかし、私のこの時代は上から頭を押さえつけられて身動きがとれずジタバタしているというイメージだ。

身体はともかく、心や精神はほとんど成長できなかったと思う。

学校に行く、勉強する、クラブ活動でスポーツをする、教会に行く、そういう決まりきったことだけの日常が重苦しかった。

今は自分が知りたいと思えば、パソコンの前に座って色々な情報を得ることができる。

しかし、まだまだそういう時代にはなっていなかった。

携帯電話の登場もこの時からだいたい20年後ぐらいである。

しかし、もしあったとしても父母が買い与えてくれたかどうかはかなりの疑問だが。

自分や家族について知る・考える・社会のいろいろな事についてについて知る・考える、そして自分なりの意見を持つ、そういうことがまるきりできていなかった。

今になってよくわかったことだが、私の両親は外では自立した大人としてふるまって見えるようにふるまってはいたが、何かについて確固とした意見、経験や知識からくる根拠をもった知恵や独自の考え方を持ってはいなかった。

そして臆病だった。

すこしでも自分たちの想定を超えることを子どもがしようとした時には、全力で否定して止めさせた。

 

高校時代、教師たちは生徒である私たちを3無主義 (無気力・無関心・無責任)と形容した。

親に行動を強く制限された私は極端な事例の部類にはいると思うが、受け身的な学習ばかりで能動的な学習する機会をほとんど与えられなかった世代の特徴の一つなのかもしれない。

やりたいと思うことをやらせてもらえないなら無気力にもなる。

自分の関心を持ったことはやらせてもらえず、与えられたことに関心をもてと言われたって、そんなことできない。

やりたくないことばかりを押し付けられたら無責任にもなる。

 

中学・高校時代、私が友人たちや教師からどのように見られていたのかはわからない。

今振り返れば、私の心は砂漠か荒野のように荒んでいたと思う。

中学生・高校生なのに、何の希望も何の夢も、好奇心でわくわくすることも何もなかった。

ただただ、毎日のルーティンを仕方なく繰り返していた。

時々やってくるテストという波、学校や教会の行事、を漫然とやり過ごした。

 

自分のことなのに、自分自身の事がまるっきりわからなくなっていた。

何が好きで、何が嫌いで、これが楽しいとか、これは嫌とかわからなかった。

その場その場でとりあえず、なんとなく適応することで生きていた。

色のない世界に生きていた。

グレーの濃淡がなんとなくついているようなそんな世界に生きていた。

親の命令や小言もどこか遠いところで響いているようにも聞こえた。

母が日常的に何気なく繰り返す私にだけ聞こえるように言うアラ探し・否定

誰かと比較して~~じゃないからダメだ、とつぶやく言葉

幼い頃から繰り返された否定の言葉で心はもうボロボロの雑巾かムシロのようになって、ささくれ立っていたのだろう。

ボロはボロなりの意地で口答えすると忘れた頃に父の怒鳴りがやってくる。

それは母が自分の不利な立場を逃れるために私の事を父に告げ口するから。

母は父に怒鳴られている私をそれ見たことかという顔をして見ていた。

それなのに私は常日頃、父に怒鳴られていた母をかわいそうだと思っていた。

 

すべてが、何となくすすんでいた。

自分で自分の何を決められるわけでもなく、特別楽しいと思えることも、特別悲しいと思うこともなく、

 

何回か、ふとしたことで自分の感覚・感情が他の人と違うのかなと思うことがあった。

怒鳴り声が聞こえた時に、顔の表情が固まって動かなくなる。

TVドラマの悲しい場面、卒業式などの別れの場面で感情が動かない。

友人たちは泣いたりしているのに、自分は涙なんてでない。

ホラー映画を見たら、怖いな~とは思うが、悲鳴なんて出ない。

でもその疑問はふと心をよぎるだけで、と深く考えることもなく通り過ぎてしまった。

とにかく、毎日その場その場に適応・順応するのでいっぱいいっぱいだった。

 

自分の心の中は砂漠や荒野のようだったけれど、友人たちとのたわいないおしゃべりは楽しかった。

おそらくかなりの場面で自分の感情表現がうまくできないことで、ずれたり、すれ違ったり、浮いていたとは思うけれど。

そんなちょっと可愛そうで惨めな過去の自分のために、現在の自分を未来から来た謎のおばさんとして登場させよう。

 

「こんにちわ

急に現れてびっくりすると思うけれど、私はあなたの未来を少し知っているの。」

「えっ 私の未来はど・ど・どうなってるのですか?」

 

「それは残念ながら教えられないわ。

 知ってしまったらまた未来が変わるってことあるでしょうしね。」

「そうなんですか、じゃ何をしに来たのですか」

 

「そうね、あなたとただ少しお話したかったから。」

「話しをしたら未来が変わるってことないのですか?」

 

「たわいのない話ならたぶん大丈夫 だと思う・・・

毎日、クラブ活動頑張っているわね 」

「ええ、でも私はレギュラーになれるほど上手くありません。」

 

「あなたはレギュラーになるためにバスケットボールをやっているの?」

「えっ・・・・それはたぶん違いと思います。

 風を切って・・あのそんなにうまくはないのですけど・・

風を切るようにドリブルして進んでシュートを決めた時、とても気持ちいいです。

爽快な感じがします」

 

「うんいいね、それすごくいいと思う。」

「でも、やるからにはレギュラーになっていつも試合に・・・」

 

「そうね、そういう価値観の人は多いと思う。

けれど、みんながみんなそうなれるわけじゃない。

例えばね、国立美術館に飾られるような絵描きさんがいる。

子どもが殴り書きで書いた絵や一生懸命書いた絵には何の価値もないかしら。」

 

「・・絵描きさんも子どもも一生懸命ってことでは同じ・・」

 

「順位をつけたり、上下のレッテルを貼って一番とか上だけがいいと考える人もいるけれど、私はそうは思わない。

あなたはあなたなりに一生懸命に生きていると思う。」

 

 

 

タガが外れた( 1 / 2 )

遊び呆けた大学生時代

 

 その頃の多くの大学生がそうであったように大学生になってからは遊び呆けた。

それでも単位は落とさない程度で4年で卒業できた範囲ではあった。

元々大学に行くつもりはなかったし、将来何になりたいとかいう目標もなかった。

 

今考えれば明白な事なのだが、成績が上位ではないからでダメだ,ピアノが上手じゃないからだめだ、何をやっても中途半端でダメだ等、

ことあるごとに否定的な言葉をシャワーのように日常的に浴びせられていると、前向きな自分の目標なぞ持てないし、考えることもできない。

そしてその言葉通りに成績もピアノも生活態度も何もかもダメになる。

 

人としての尊厳を日常的に踏みにじられ、打ち砕かれているのだから、未来への前向きな希望なぞ持てない。

否定ばかりして苛める親をいつか打ち負かしてやるという攻撃的な目標を持つ場合もあるかもしれないが、私は自分を責めて病気になったり、無気力になったりするタイプだった。

 

大学に行く気はなかったのにいくことになったのは、教会の牧師に「大学に行く経済力が家にあるのに行かないのはもったいない」と言われたからだ。

つい最近、母に牧師に言わせたのかと問い詰めたら、忘れたと言っていた。

認知症で忘れたのか、ただ忘れたのか、嘘なのかはわからない。

私は福祉関連の専門学校に行くつもりだった。

今考えれば、その思いつきすらも偽善者的な母の生き方を模倣したようなものだった。

人のために役に立てればという純粋な気持ちもあるにはもあったと思うが、本音は人の役に立てば(親に)認めてもらえるだろう的だったと思う。

進路を決める時、私の考えが浅はかで自己中で短絡的だった。

それは母の性格そのままだった。

 その私が大学に行くことになった。

 

勉強なんてもう飽き飽きしていたのに、いやいや受験勉強して都内にある某3流大学の文学部、教育学科に受かり入学した。

そして最初の頃こそ真面目に授業は出ていたもののよくサボるようになった。

が、遊びの誘いは積極的に受けた。

コンパ・飲み会・ディスコ・ドライブ

遊ぶ金が足らずにバイトも始めた。

男の子とも積極的に付き合った。

 

生きてきた中で初めて自分の時間をどう使うかを自分で決められた。

そんなことができるようになったのも、大人に監視される時間は大学の授業以外なくなったからだ。

その授業でさえ、サボっても誰に責められるわけでもなかった。

 

 生まれて物心ついてからずっと行動と感情を規制され、

勉強、教会、家で優等生であるように要求され続け、

その目標はいつも到達できないような所に、まるで馬の顔の前に人参を垂らすようにぶら下げられた。

やってもやっても認められず、疲れて心がささくれだっているのに、更にアラ探しをされつづけ、

私の心は履き古したパンツやパジャマのズボンのゴムのように伸びきって摩耗していた。

 

そんな私が、はじめて自分の自由になる時間を手にした。

今までできなかったことをやるに決まっている。

 家を出たが最後、糸の切れたタコのように帰宅は遅く、外泊も度々した。

しかし、悲しいことに親の家を飛び出していくほどの勇気はなかった。

あがいてはいるものの、良い子でいなければならないという呪縛に縛られていた。

幼いころにインプリントされてしまったものに逆らいきれないでいたのかもしれない。

 

両親は帰宅がおそいと怒鳴り立てて説教をしたが、大学まで片道ほぼ1時間半かかるのにそう早くは帰れるわけはない。

確かに年頃の娘の帰りが遅くなるのは心配というのは理解できる。今、私の娘が同じ年頃だ。

私の両親は18歳になった子どもを信頼するという事を全くしようとはしなかった。

信頼しようとはしないので下宿や一人暮らしなどもっての他だった。 

理由や状況を聞こうとはせず、とにかく早く帰ってこいの一点張りだった。

聞いてもそこに共感や理解を示すことはなく否定するだけだった。

そして、怒鳴って怒ってネチネチ文句を言ってそれでおしまいだった。

 

親に理解も承認も得られないなら外にに求めるしかない。

そしてますます外で時間を過ごすようになり、帰りはますます遅くなった。

家に早く戻ってきて欲しいのなら、家の中が安心と理解に満ちた居心地の良い場所にするべきだったのだ。

 それでもいろいろな理由で遅くなる時もあるだろう。

それならそれで、そういう時はどうするか話し合い、ルールを設ければいいのだ。

ほぼ大人になろうとしている年齢の子どもに自覚と責任を持たせればいいのだ。

  両親は私が歩き始めた頃と同様、あっち行ってはダメ、こっちに行ったら危ない、それに触ったら汚いとでもいうように、独り立ちをしようとする年齢にさしかかる娘の行動を束縛しようとし、否定し続けた。

 

 

 

タガが外れた( 2 / 2 )

破壊された成人式

 

大学に入り中学や高校に友人とは疎遠になっていたが、中学1年の時に仲良くなり中学時代は共に過ごした4人グループで一緒に成人式に行こうと声がかかった。

その時はとてもうれしかった。

家では勉強しろ、教会にいけ、命令、小言、否定、叱責、陰険な皮肉を浴びせられていた私にとって、冗談やちょっとしたことで笑い合える中学時代の友人は大切な存在だった。

当時はそこまで大切だとは意識していなかったが、母親譲りの嫌なところがある私を寛容に受け止めてくれた友人たちは本当にありがたい存在だった。

私はうれしくてすぐに母親に言ったと思う。詳細は覚えていない。

その後で母親は父親に言いつけたと思われる。

父親からこう言い渡された。

私は2月生まれの早生まれだから、今年の成人式の段階で20歳になっていないから行ってはだめだと。

そして来年の成人式に出席しろと。

私の誕生日は2月の初旬だから、成人式からは3週間くらい遅い。

その時私は抗議した。今から思えば小学生並みの抗議の仕方だったが。

同級生のほとんどが参加するのになぜ行ってはいけないのか。

来年の成人式には友人たちはいない。

来年に行けというなら成人式には行かなくていいと。

抗議は認められなかった。

ちなみに現在(2015)調べてみると当時の私の居住地していた地方自治体では学年ごとの成人式となっている。

当時の私には地方自治体に問い合わせて調べるというような考えは持ち合わせなかった。

しかし、たとえ調べたことを親に伝えても、それでおいそれと両親が考えを変えたとも思えない。

 

しかして結果は私の言ったことへの全否定となった。

―翌年の成人式に参加する。―

不満が顔色にでている私の着物姿を父が撮った写真がある。

その着物も両親が用意してくれたものではなく、伯母がつくってくれたものである。

遠隔地ゆえに私は着物の柄を選ぶということもなく、送られてきて用意されたものを着た。

そしてなぜか、その着物は身幅がかなりあり、かなり体格のよい人向けだった。

着物の事など何もわからない私は美容師さんにそういわれたことを覚えている。

着物を着ても一緒に行く友人がいない私はどこに行けばいいのか。

どういういきさつだったのかよく覚えてもいないが、男友達のつてで隣市の成人式に出席したように思う。

この頃の私はかなり荒んでいた。

はっきりとした覚えはないが、大学に通い、親の手の届かないところで自由に行動する私に、母があの手この手の意地悪を仕掛けていたのではないかと思う。

 

当時から30年以上経て、年老いた母の性格を大人になった私の目で観察した結果、何故このような顛末になったのかの真相を理解した。

それはひとえに母の嫉妬である。

母はお洒落や美しいものが嫌いである。その気持ちの奥底には先ほども言った嫉妬がある。

私が友人たちと着物で美しく着飾って楽しく成人式に出席する、それが母には許せなかったのだ。

故に父に私のあることないことを言いつけて、私が友人たちと一緒に成人式に行かせないようにした。

自分で言わずに父に言わせるところが巧妙で薄汚いやり方である。

けれど成人式そのものを否定したのでは、自分に非があると咎められる恐れがある。

それで翌年に行かせることにした。

また着物を作ってやることも口惜しいので、お金に困っているわけでもないのに伯母(父の姉)に作らせた。

さらに私が太目であると伝え、表向きは長く着させるために今後太るからと身幅を多くとった。

私の体重は産前産後の増減はあるが、20歳当時とほぼ変わっていない。

何気ない言葉の端々に出るからわかるのだが、母は私が醜く太ることを心の底で望んでいる。

着物を伯母に頼んで作ってもらうことで、とりあえず母親としての対面は保った。

そして翌年、もう成人式なぞに楽しさや希望も何も持てなくなっている娘に美容室に行かせ着物を着せた。

 

なぜ自分の娘にそんなに嫉妬し、巧妙なやり方で娘を陥れ、苛め、否定しなければならないのか、私自身も今年二十歳を迎えた娘を持つ母親だが全く理解できない。

けれど母親の精神年齢が小学校低学年か幼稚園年長ぐらいだと考えれば納得する。

戦時中に育った母は自分が受け取れなかったものを受け取る娘が許せないと僻んで嫉妬している5~7歳児なのだ。

自分よりも若くて美しくなっていく娘が許せないと僻んでいる幼児的精神の持ち主なのだ。

その割に手口が巧妙なのが非常に厄介だ。

その辺を考えると単純に幼児と同じとは言えない。

このような母の屈折し歪んだ幼児的精神と狡賢い手口によって、私の大人への門出は完全にぶち壊された。

 

私の両親は子どもにもっともっとと際限なく要求した。

学業での成績、教会に通うこと、品行方正であること。

子どもにはそうやって際限なく要求するが、親は子どもに共感、肯定、承認、等は与えなかった。

それどろこか子どもを惨めな境遇におき、自尊心をずたずたに傷つけて自己肯定感を徹底的に剥奪した。

それを親は愛情表現だと思っていた。

そして子どもである私は、傷つけられ、徹底的に否定され、自分の意志とはまるで違うことをしなければならなかったのに、親には感謝しなければならないと教育、社会通念や常識から思い込まされており、それに、逆らうことができなかった。

苛められているのに感謝しなければならない。

こんな倒錯した精神状態の日常生活を続けていれば、自分自身がわからなくなってしまうのも無理ない。

私は幼いころから寝込んだり、入院するほどではなかったが、湿疹などの皮膚疾患を持ち、胃痛・便秘などの腸の不調等に悩まされていた。

それらの原因は、苛められているのに感謝しなければならないという倒錯した状況からくるストレスによるものだだろう。。

 

 

 

雪うさぎ
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