ミラノ 里帰り

第一章:ミラノ( 2 / 9 )

2.ミラノが第二の故郷のわけ

 

 

 ミラノとは長い、長い付き合いがある。

 

2.アルプス越え.jpg

 

 僕の青年期、1969年、僕は幸運にもイタリア・ミラノの駐在員となって、そこで2年間暮らした。これが僕の初の海外渡航。

 

 高校生の時から、親父(油絵描き)の影響もあって、なんとか海外に住んでやろうと思っていたから、渡りに船。

 

 最初はフランス・パリの予定だったのだが、出発の2か月前になって、駐在先が急にミラノへ変更になった。大学でフランス語はほんの少し勉強していたのだが、イタリア語は皆目、見当がつかない言語だった。仕事は英語だからとイタリア語の勉強もしないで本番となった。

 

 会社の世界では、イタリア人はもとより、ドイツ人や、フランス人、イギリス人、アメリカ人などと混じって共同プロジェクト。大変だったけれど楽しかった。

 

 私的には、「レジデンス・グランサッソ」というマンションを拠点として、ミラノの下町、コルソ・ブエノス・アイレスが僕の世界。地下鉄の「リマ」が最寄駅。ミラノの中心のドゥオモから、10分くらい。

 

 ミラノで、会社の友達、イタリア語の先生、他の日本人の友達、イタリア人の友達などができて、2年間はあっという間に通り過ぎて行った。

 

 その後、日本人の駐在員が居なくても日本との仕事はできると思っていたのだけれど、どっこい、当てになりそうでならないイタリア人、日本にいての仕事は立ちいかなくなって、6か月後に4か月の短期滞在が付け加わった。

 

 日本の仲間には、きっと僕がミラノに帰って来れるように、セットアップしていたんだなんて、冷やかされながら、内心しめしめとミラノに帰った、ほんとのところ。

 

 この間に、僕の心は完全にイタリア、ヨーロッパに酔っぱらってしまっていた。日本のウジウジした農耕民族特有の横並びのものの考え方、隣を見ながら自分の態度を決めているやり方などにほとほと嫌気がさしてしまった。自分の意見はあっても、外には出さないのが身の振り方の原点にあるのだ。

 

 印象的なシーンにあったのを述べておこう。

 

 1970年代は、まだまだイタリア社会も安定していなくて、その頃の日本と同じように、優秀な志のある官僚で、この国、イアリアは運営されていたと言っても過言ではない。政治は全く堕落していて、一方、過去の共産党の強い影響も残っていて、労働組合がめっぽう強かった。だから、ショウペロ(ストライキ)が頻発していた。

 

 ある日、大きなショウペロの流れがドゥオモ広場にやって来た。ちょうどその時、僕はその広場を見下ろせるドゥオモの屋上からその群衆の動きを見ていた。流れ解散だった。

 

 最初は、一つの集団が大きく、二つに分かれて、議論を始めたのだが、1時間も経たないうちに、その二つのグループは、分裂を繰り返し、いつの間にか数人のグループに独立した小島のようになって、ドゥオモ広場を埋め尽くしていた。

 

 つまり、とことん自分の意見、主張を持っているものだから、まとまる方向には向かわないで、個々バラバラの議論が始まっていたのだ。もちろん、身振りを含めて、聞こえないけれど、激しい議論がそのグループ内で、各々行われていたのだ。

 

ビックリしたし、うらやましくもあった。

 

 どちらかというと、僕は自己主張が強くて、日本の日常の中では、今の言葉でいえば浮いていた。僕には、自分の意見を表明して、お互いに主張して、大人になっていくと言うプロセスが羨ましかったのだ。

 

 日本に帰ってから、本当にミラノに帰りたいと日々思っていた。ミラノが、恋しかったのだ、ほんとうに。

 

 この2年4か月のあとは、3~4度、パリや、ベルギーへの出張のプラスαとして、1週間にもならない短い時間、ミラノを訪れたにすぎない。

 

 自分でちゃんとイタリアに帰れたのは、早期退職後の1996年の3週間と2002年の4週間だけだった。

 

 今回やっと、心臓の持病も落ち着いて、最後の里帰りとなったのが、この4週間なのだ。

 

 きっと、もう戻ることはできない、最後の里帰りだったのだ。これでくたばるまでに終らせなくてはならない宿題が一つ消えたわけだ。大きな宿題だったのだ。

 

<写真:オーストリア・インスブルックからアルプス(ドロミテ)を越えてミラノ・パルペンサ空港へ>

第一章:ミラノ( 3 / 9 )

3.ミラノに着いたぞ!

  イタリアの上空にさしかかると、オレンジや黄色い屋根と、日除けの付いた緑の窓の家々が緑の林や畑の中に近づいてくる。

3.1 Molano.jpg

 

 

 この風景を飛行機から見下ろすと、僕は何時も、あぁイタリアに帰って来たんだなと思う。パリ、ドイツ、イギリス、スイス、オーストリアの町並、村並みとは違う。アルプスを越えるとやはり太陽の光に輝くヨーロッパの南側の国、イタリアに降り立つという気持ちが強くするのだ。

 

 驚いたのは、一応、フラッグ・キャリアーのアリタリアが、マルペンサ空港のボーディング・ゲートに横づけされなかったことだ。

 

僕たちは、いつもの6月より異常に熱い空気の中を、駐機場に止まったアリタリア(AZ787)、ボーイング777からタラップで地上に降ろされた。僕は心臓に病気を持つから、慎重にタラップの手すりをつかみながら地上に降り立った。そして、飛行機の排気ガスのきつい匂いの中を、バスまで歩くことになる。

 

12時間のフライトの後では、結構きつい。ちなみに、落ち目のアリタリアは、東京に帰る便(AZ786)でもマルペンサではボーディング・ブリッジは使えず、バスとタラップ登りだった。成田ではちゃんとゲートに着いたけど。

 

 イタリアへの入国はパスポートコントロールだけで、いつものように税関は素通り。

 

 プライオリティのおかげで、ラゲッジはすぐ出でてきた。

 

 ミラノまで、カドルナ行の電車にするか、シャトルバスにするかちょっと迷ったけれど、本数の多い、手慣れたシャトルバスに乗ってミラノ中央駅まで行くことにした。シャトルバスの利点は、ラゲッジをバスの格納室に預けてしまえば、あとは自分で管理することがいらない手軽さもある。

 

 バスに乗ると、イタリア人が一斉に携帯電話で話し始めるから、バスの中は騒音の渦。しかも、夕方のラッシュ時にぶつかったから、いつもは40分くらいでミラノ中央駅に着くのに、1時間以上かかってしまった。その間、騒音の中に閉じ込められたわけだ。

 

 やっと、人心地がついたのはタクシーを拾って、ドゥオモの近くのホテルに向かって走り出した時。

 

 ちょうど僕が乗ったタクシーは、僕の車と同じプジョウ。気さくな運転手が話しかけてくる。

 

 

僕は少しだけどイタリア語が話せるから、僕が日本でプジョウ206に乗っていると話すと会話は弾んだ。彼曰く、彼はこのプジョウで8代続けてプジョウ派だと言う。

 

僕の乗った車は508だったと思う。これまで乗ったプジョウのモデル・ナンバーを次から次と教えてくれるのだが、残念ながら、こちらにはデータがない。それにしても、8代も乗ったのなら、ちょっとお年寄りのドライバーはきっと40年間くらいはプジョウに乗っていることになる。根っからのプジョウ・ファンだった。

 

 彼は、日本車もいいのに、何でプジョウなのだと問いかけてくる。僕は、日本車は性能が良くても、美しくないし、面白くもないと言うと、彼はフィアットも同じだと言う。イタリア人が、タクシーという営業車にフランス車を使っているのは、ちょっと不思議だった。話しているうちに、少しずつ僕のイタリア語も楽になってくる。あっという間に、デゥオモの近くの定宿に着く。

 

 夜の8時過ぎだけど、緯度の高いミラノはまだまだ明るい。サマータイムの影響もあるだろうけど、9時でもまだ明るいのだ。

 

 案内されたアンバシャトーリの部屋は、残念ながら南南東向き。ドゥオモはかすかに見えるだけ。ミラノの中心だから、リストランテはいっぱいあるしアクセスもいい。一休みしたら、とにかく飯を食いに出かけなくてはならないのだが、体が許さない。

 

 こんなに早く、日本から持ってきた非常食のカップ麺が活躍するとは思わなかったけれど、これもまさかの時用に荷物に入れてきた缶ワインでごまかすことにした。持参の湯沸かし器のプラグをイタリア用に差し替えて、ジーッと電気が入ったかどうかを聞き取る。動き始めたようだ。よかった。これでカップヌードルが食える。

 

 バルコニーから見下ろすと、フォンターナ広場とミラノ市警察の古い懐かしい建物が見える。

3.ミラノの月.jpg

 

 10時過ぎにやっと夜が来て、東に月が昇ってきた。隣のビルの間から小さな赤い玉が、だんだん輝きながら登ってきた。

 

 僕の心臓は、なんとか12時間のフライト、つまりドア・ツウ・ドアで20時間を持ちこたえた。あとは、この時差ぼけをミラノで早く治して、トスカーナに出かける予定なのだ。いつも、僕はミラノで最低3泊して、ジェットラグと疲れをいやして行動し始める。今回は4泊予定してあるから焦ることはない。

 

 飛行機の中では一睡もしないで頑張ったのだから、良く寝られるはずと、睡眠導入剤を飲んで眠りについた。いっぱい、いっぱい夢を見たようだけれど、一応は眠ることができた。

 

 まぁ、病気持ちとしては、うまく行った方だろう。

 

 

<写真は、夜10時過ぎ、隣のビルの真ん中から現れた月。三脚なしの手振れ、ご容赦>

 

第一章:ミラノ( 4 / 9 )

4.ミラノの屋上ガーデン 10年後は

 

 

 実は、ミラノに来たら最初に、とにかくやりたいことがあった。

 

 それは、ホテル・アンバシャトーリの西の部屋からよく見える、ホテルとドゥオモとの間に見える屋上ガーデンの様子を知ることだった。

 

 10年前、このホテルに泊まった時、毎日興味を持ってみていたのが、この屋上ガー

デン。

 

4.1緑のガーデン.JPG

 

 場所的に言えば、まさにミラノの街のど真ん中。Galleria di Corsoという、あの有名なヴィットリオ・エマニュエルのガレリアと同じ構造を持つガレリア(鉄骨の円形の柱が支えるガラス窓に覆われた通り)の天井を眼下に見下ろせる8階建ての建物の屋上に、そのガーデンはあった。

 

 その背景には、毎夕、夕日に照らされた乳白色のドゥオモ尖塔が見える。全く羨ましい環境の屋上ガーデンだった。その屋上には、緑のぶどうの蔓のアーチも作られていて、花々も色鮮やかに姿を見せていた。ベンチやテーブルもあって、人のゆたかな生活が印象深かった。

 

 その庭の手入れをしていたのは、一人住まいと思われるおばあちゃん。朝夕にガーデンを手入れして、水をやり、いらない葉っぱを剪定して屋上ガーデンを守っていた。

きっとそこからは、リナシェンテを超えて、アルプスが望める素晴らしい庭だったのだ。

 

 この屋上ガーデンはどうなっているのだろうと、僕はなんとかそこの様子を知りたいと、ホテルの7階のフロアーを、ウロウロ。工事中で、立ち入り禁止になっているホテルの屋上にも足を運んでみた。しかし、前回と同じ角度では、その屋上ガーデンをとらえることはできなかった。

 

 なんとか、少し角度が違うけれど、その屋上ガーデンを見ることができた。

 

 しかし、結果は無残。

 

4.2さびれたガーデン.jpg

  緑豊かに、生命を感じさせてくれていた屋上ガーデンは、すでにさびれ、昔のぶどうのトンネルのアーチも茶色く錆び息づく生活の匂いはもうなかった。

 

 確かに10年前でも、ちょっとお年寄りだった庭守りの女性だったから、もしかしたらもうこの世界に存在していないのかもしれない。

 

 子供や、孫たちが集うにふさわしい、ゆたかな庭を作り上げていた人の夢は途絶えていた。美しかった庭は赤さびた廃墟。

 

 時間がたったのを実感させる光景だ。

 

 考えてみれば、僕の方だって、この10年間に病気も含めて、いろいろなことがあり、それとともに年を取り、ミラノにいる今の僕がある。

 

 時間は、誰にも平等に流れているようだ。

 

 結局、ミラノのど真ん中、ドゥオモのすぐそばで営まれていた、庭守りの生活は、もうそこには存在していなかった。

 

 羨ましい環境の庭で、あの人は美しく旅立ったのだろうか。

 

 今回のミラノへの里帰りも、カスキット・リスト(くたばるまでにやっておきたいことのリスト)の一項目を紡いでいる僕にとって、この屋上ガーデンの光景は羨ましくも、でも立ち尽くす寂寥の光景でもあった。

 

<10年前の緑のガーデンと、さびれた今のガーデンの対比をお見せします>

 

第一章:ミラノ( 5 / 9 )

5.ミラノ、爆撃の傷跡

 

5.レリーフの傷跡.jpg

 

 

 やはりと言うか、当然と言うか、ミラノへ来たら、やはり一度はドゥオモ広場とガレリア・ヴットリオ・エマニュエルを歩いてみないと落ち着かない。それだけ、ドゥオモの存在感は大きいのだ。

 

 2011年から、ミラノの中心部には公共交通機関以外(住民の車は定期券)、車は締め出されて、一回5ユウロを払わなければ入れなくなった。その結果、中心部の空気は本当に良くなった。

 

 当初の目的はスモッグ体策だったわけだが、その効果はほかにも人々の生活にいい影響を与えてくれていると感じる。

 

 たとえば、ドゥオモ広場をとりまく道路からは、清掃車と警察の車以外は全く姿を消した。一年中が歩行者天国だ。

 

 こういうことが、大胆にできる、やれる市民社会が羨ましい。日本では、ああでもないこうでもないと言っている間に、問題は常に先送りされて決まらないのが当たり前なのだが…。

 

 もうせんはスモッグに汚れ、真っ黒だったドゥオモ自体がバラ色に、軽ろやかになった。薄汚れて汚かった正面のファサードも、サンバビラ方向から見える後姿も、長い補修工事、主としてスモッグ汚染の丁寧な洗浄作業のおかげで、明るく軽やかな姿になった。これでドゥオモは本来の姿を取り戻したわけだ。

 

 結果として、尖塔の上に輝くマドンニーナの金色の彫像も浮いた感じではなくなって、建物と調和したものになった。

 

 ドゥオモ全体からみると、まだ正面右側の大理石の洗浄作業は続いているようで、囲いの中で時間をかけて少しずつ工事が進んでいる。こうした工事は、ドゥオモ自身が観光客や信者からの資金を集めて行っているから、ゆっくりとしか進まない。びっくりするのは、ドゥオモの広い側面を企業の大きな広告に貸し出して、資金を調達するなんてことを平気でやっていることだ。前回は、化粧品の広告で美しい女性の上半身が掛かっていたが、今回は韓国、サムスン電子の企業広告が翼廊の外壁を飾っていた。

 

 ドゥオモの身廊の上の大屋根には、やはり登れない。微妙な尖塔や、その中を通る細い螺旋階段などの修復が続いているからだ。だから、ドゥオモ広場を上から見下ろすことはできない。保護の観点で言えば、これからもずっと見られないかもしれないと思う。そういえば、今回、僕の歩いたイタリアのいろんな街には修復工事のないところは無いと言えるほど修復工事に出っくわした。みたいところが、クローズされていて、えっ…て思ったことが何度もある。

 

 ミラノ、軽やかなドゥオモを取り返した広場も人があふれて賑やかだ。

 

 人々は、写真を撮り、友達と会い、若者はグループで音楽をやり、大道芸人は無言のピエロのコスチュームで観光客を驚かせている。

 

 

 

  リードをつけられたラブラドールの子犬が、広場の鳩の群れを追っかけて遊びはじめたりする。飼い主に怒られて、子犬は人ごみに消えていく。人が、自分を自然に楽しんでいる姿が見られる。

 

 僕も乗ってみたいと思っていた二輪車、セグウエイを貸し出していて、観光客がスカラ座広場の方まで、自分の立ち位置で運転しながら広場をゆっくり走らせてぬけていく。やってみたいけど、血が止まらない薬を飲んでいるから転んだりしたら怖いので、あきらめるしかない。

 

 ガレリアの中には、大きな変化はない。

 

 

 店としての品格の議論でもめていたマクドナルドも黒ずくめの店構えで、ひっそりと、しかし賑やかに営業している。これから、どうなるかは分からない。ミラノは、「EXPO2015」を控えて大改造中だから、その波の中でどうなるのか…。ちなみにテーマは、「惑星・地球をはぐくみ、生命にエネルギーを」とある。これを契機に、ミラノのいたるところに、一見すると奇妙な高層の建物が増えている。歴史的な物と最先端のデザイン建築が混在し始めて、ミラノのイメージを変えつつあるようだ。

 

 ホテルに歩いて帰る時に、ドゥオモのファサードがきれいになったのに惹かれて、正面のブロンズのレリーフを見ていたら、イタリア人の老夫婦がレリーフの一枚を指さしながら話している。興味をひかれて聞いてみると、それは第二次世界大戦の連合軍の爆撃の傷あとだと言う。

 

 言われてよく見てみると、キリストの一生を物語るレリーフの一画面、受胎告知部分に残る砲弾の破片の付けた深い傷があった。聞くと、ヴィットリオ・エマニュエルのガレリアも爆撃を受けて、大きな損傷を受けたのだと言う。戦後、再建したと言う。知らなかった。

 

 地元の人と話すと、なにか新しい発見がある。何度も写真を撮ったことのあるレリーフだったのに、今回初めて気がついた古い戦争の傷跡だった。

 

 老夫婦は「アリベデルチ」と挨拶をされて、おだやかな夕日の広場に消えて行った。

 

 このバラ色に輝くドゥオモにも、過酷な第二次世界大戦の傷跡が残っているのだと、初めて気づかされた老夫婦との出会いだった。

 

 

<赤でマークしたところが、ドゥオモ正面のレリーフに残る爆撃の傷跡です>

 

徳山てつんど
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