心臓君もなんとかもってくれているので、お医者さんを脅迫的に説き伏せて、もう、ほんとにほんとの最後の里帰りと、3週間とちょっと、第二の心の故郷、ミラノとイタリア・トスカーナ、リグーリアを楽しんできました。
ミラノ、フィレンツエ、シエナ、ピエンツア、サン・ジミニアーノ、ヴォルテッラ、ルッカ、チンクテッレ、ポルトヴェネレなど。
天気もジュン・ブライドのGiugno(6月)に違わず、晴天続きで、雨はミラノの半日のみ。
この間、ニュースで日本のことを気にしてみていましたが、全くといっていいくらい、日本は登場してきませんでした。国際政治の上からは従来以上に軽視されつつあるように見えます。この間、唯一報道されたのは、大飯原発の再稼働。
福島の原発事故以来、基本的な原因解明が行われたわけではないのに、いつのまにか大飯原発の再稼働が決まったことを皮肉を込めて報道していた新聞のみ。
帰ってみると、将来のエネルギーの基本構想もないまま、「今までどうり安全です」と言いつのって問題を避けて通っている様子。馬鹿みたい。ヨーロッパでは、人間がコントロールできないものは、人間は使わないというのが常識のよう。能天気な日本は、民主党内のちっちゃな、ちっちゃな世界で蠢いているようにも見える。
もう世界政治の場で日本が指導的な立場に立てるとは思えないし、彼らは日本を気にしてはいない。EUの今後を含めて、世界のキイプレーヤーは、アメリカ、中国、ヨーロッパ、そしてロシア、インド、イスラム圏、ブラジルの動向に目が向いている。日本は存在していない。
ヨーロッパで作られたヨーロッパを中心として描くメルカトール図法の地図で、世界の端からこぼれ落ちそうな日本なんて、相手にしてもらえないというわけだ。確かに「極東」なのだ。
エウロの揺らぎの中で、イタリアも大変なようだけれど、どっこい、一般民衆は自分の世界、生活を楽しんでいるのがよく見える。
イタリアは基本的には自給自足が十分できる食糧生産国だ。広い国土の揺らぐ黄金の麦秋、美しく水を張られたコメの田。タンパク質を生み出す家畜たち、その餌の牧草の完全自給。そして、決して放棄されてはいない農業。ここから野菜が、油が、みんな自給できる。
ぶどうを大切にしているから、ワインには心配はない。地中海の漁業で、町の市場は庶民でごったがえしている。庶民は、家を、田舎を大切にして生活を楽しんでいる。
住居に関していえば、日本のように、木造建築で50年に一回は建て替えなければならない状況は嘘のよう。400年も同じマンション(アパート)を手入れしながら、大切に使っている。建て替えという概念さえないわけ。家族は、歴代、同じマンションに同じように、金をかけずに住んでいる。だから地域社会が健全で、ずっと住民たちには当たり前の存在だ。
EUがよし崩れようが、自分たちはどっこい生きていけると自信満々。エネルギー源はちょっと不安のようだけど、どうにかなるさってな具合。
だから、「エウロカップ2012」の動向の方が、エウロの動向より彼らの関心事だった。残念ながら、ファイナルでスペインに4-0で負けたから、大騒ぎだったに違いない。
こんな視点で見ると、日本の真の貧しさが見えてくる。日々の自転車操業頼みの貿易立国(?)という、不安定さが露見して見える。しかも政治はこんな現実から遊離している。
ワインは、日本のソムリエの友達に教えてもらったピノ ビアンコ、ピノ グリッジョ、バルベーラ、ドルチェット、ネビオーロ、ランブルースコ・セッコなどを楽しんできましたし、トレンティーノの赤も、安くて楽しめました。
毎日食べていても飽きない、ゴルゴンゾーラ、ブレザオラ、ルッコラがいっぱい入ったミックスサラダ、そしておいしくなったパン。そしてヨーグルトがあれば、スーパーで買い物して、旅行者も安く過ごせます。
もう二度と行くことのないミラノ。これで、くたばるまでの宿題が一つ終わりました。
<これは2012年6~7月の旅の記録です>
ミラノとは長い、長い付き合いがある。
僕の青年期、1969年、僕は幸運にもイタリア・ミラノの駐在員となって、そこで2年間暮らした。これが僕の初の海外渡航。
高校生の時から、親父(油絵描き)の影響もあって、なんとか海外に住んでやろうと思っていたから、渡りに船。
最初はフランス・パリの予定だったのだが、出発の2か月前になって、駐在先が急にミラノへ変更になった。大学でフランス語はほんの少し勉強していたのだが、イタリア語は皆目、見当がつかない言語だった。仕事は英語だからとイタリア語の勉強もしないで本番となった。
会社の世界では、イタリア人はもとより、ドイツ人や、フランス人、イギリス人、アメリカ人などと混じって共同プロジェクト。大変だったけれど楽しかった。
私的には、「レジデンス・グランサッソ」というマンションを拠点として、ミラノの下町、コルソ・ブエノス・アイレスが僕の世界。地下鉄の「リマ」が最寄駅。ミラノの中心のドゥオモから、10分くらい。
ミラノで、会社の友達、イタリア語の先生、他の日本人の友達、イタリア人の友達などができて、2年間はあっという間に通り過ぎて行った。
その後、日本人の駐在員が居なくても日本との仕事はできると思っていたのだけれど、どっこい、当てになりそうでならないイタリア人、日本にいての仕事は立ちいかなくなって、6か月後に4か月の短期滞在が付け加わった。
日本の仲間には、きっと僕がミラノに帰って来れるように、セットアップしていたんだなんて、冷やかされながら、内心しめしめとミラノに帰った、ほんとのところ。
この間に、僕の心は完全にイタリア、ヨーロッパに酔っぱらってしまっていた。日本のウジウジした農耕民族特有の横並びのものの考え方、隣を見ながら自分の態度を決めているやり方などにほとほと嫌気がさしてしまった。自分の意見はあっても、外には出さないのが身の振り方の原点にあるのだ。
印象的なシーンにあったのを述べておこう。
1970年代は、まだまだイタリア社会も安定していなくて、その頃の日本と同じように、優秀な志のある官僚で、この国、イアリアは運営されていたと言っても過言ではない。政治は全く堕落していて、一方、過去の共産党の強い影響も残っていて、労働組合がめっぽう強かった。だから、ショウペロ(ストライキ)が頻発していた。
ある日、大きなショウペロの流れがドゥオモ広場にやって来た。ちょうどその時、僕はその広場を見下ろせるドゥオモの屋上からその群衆の動きを見ていた。流れ解散だった。
最初は、一つの集団が大きく、二つに分かれて、議論を始めたのだが、1時間も経たないうちに、その二つのグループは、分裂を繰り返し、いつの間にか数人のグループに独立した小島のようになって、ドゥオモ広場を埋め尽くしていた。
つまり、とことん自分の意見、主張を持っているものだから、まとまる方向には向かわないで、個々バラバラの議論が始まっていたのだ。もちろん、身振りを含めて、聞こえないけれど、激しい議論がそのグループ内で、各々行われていたのだ。
ビックリしたし、うらやましくもあった。
どちらかというと、僕は自己主張が強くて、日本の日常の中では、今の言葉でいえば浮いていた。僕には、自分の意見を表明して、お互いに主張して、大人になっていくと言うプロセスが羨ましかったのだ。
日本に帰ってから、本当にミラノに帰りたいと日々思っていた。ミラノが、恋しかったのだ、ほんとうに。
この2年4か月のあとは、3~4度、パリや、ベルギーへの出張のプラスαとして、1週間にもならない短い時間、ミラノを訪れたにすぎない。
自分でちゃんとイタリアに帰れたのは、早期退職後の1996年の3週間と2002年の4週間だけだった。
今回やっと、心臓の持病も落ち着いて、最後の里帰りとなったのが、この4週間なのだ。
きっと、もう戻ることはできない、最後の里帰りだったのだ。これでくたばるまでに終らせなくてはならない宿題が一つ消えたわけだ。大きな宿題だったのだ。
<写真:オーストリア・インスブルックからアルプス(ドロミテ)を越えてミラノ・パルペンサ空港へ>
イタリアの上空にさしかかると、オレンジや黄色い屋根と、日除けの付いた緑の窓の家々が緑の林や畑の中に近づいてくる。
この風景を飛行機から見下ろすと、僕は何時も、あぁイタリアに帰って来たんだなと思う。パリ、ドイツ、イギリス、スイス、オーストリアの町並、村並みとは違う。アルプスを越えるとやはり太陽の光に輝くヨーロッパの南側の国、イタリアに降り立つという気持ちが強くするのだ。
驚いたのは、一応、フラッグ・キャリアーのアリタリアが、マルペンサ空港のボーディング・ゲートに横づけされなかったことだ。
僕たちは、いつもの6月より異常に熱い空気の中を、駐機場に止まったアリタリア(AZ787)、ボーイング777からタラップで地上に降ろされた。僕は心臓に病気を持つから、慎重にタラップの手すりをつかみながら地上に降り立った。そして、飛行機の排気ガスのきつい匂いの中を、バスまで歩くことになる。
12時間のフライトの後では、結構きつい。ちなみに、落ち目のアリタリアは、東京に帰る便(AZ786)でもマルペンサではボーディング・ブリッジは使えず、バスとタラップ登りだった。成田ではちゃんとゲートに着いたけど。
イタリアへの入国はパスポートコントロールだけで、いつものように税関は素通り。
プライオリティのおかげで、ラゲッジはすぐ出でてきた。
ミラノまで、カドルナ行の電車にするか、シャトルバスにするかちょっと迷ったけれど、本数の多い、手慣れたシャトルバスに乗ってミラノ中央駅まで行くことにした。シャトルバスの利点は、ラゲッジをバスの格納室に預けてしまえば、あとは自分で管理することがいらない手軽さもある。
バスに乗ると、イタリア人が一斉に携帯電話で話し始めるから、バスの中は騒音の渦。しかも、夕方のラッシュ時にぶつかったから、いつもは40分くらいでミラノ中央駅に着くのに、1時間以上かかってしまった。その間、騒音の中に閉じ込められたわけだ。
やっと、人心地がついたのはタクシーを拾って、ドゥオモの近くのホテルに向かって走り出した時。
ちょうど僕が乗ったタクシーは、僕の車と同じプジョウ。気さくな運転手が話しかけてくる。
僕は少しだけどイタリア語が話せるから、僕が日本でプジョウ206に乗っていると話すと会話は弾んだ。彼曰く、彼はこのプジョウで8代続けてプジョウ派だと言う。
僕の乗った車は508だったと思う。これまで乗ったプジョウのモデル・ナンバーを次から次と教えてくれるのだが、残念ながら、こちらにはデータがない。それにしても、8代も乗ったのなら、ちょっとお年寄りのドライバーはきっと40年間くらいはプジョウに乗っていることになる。根っからのプジョウ・ファンだった。
彼は、日本車もいいのに、何でプジョウなのだと問いかけてくる。僕は、日本車は性能が良くても、美しくないし、面白くもないと言うと、彼はフィアットも同じだと言う。イタリア人が、タクシーという営業車にフランス車を使っているのは、ちょっと不思議だった。話しているうちに、少しずつ僕のイタリア語も楽になってくる。あっという間に、デゥオモの近くの定宿に着く。
夜の8時過ぎだけど、緯度の高いミラノはまだまだ明るい。サマータイムの影響もあるだろうけど、9時でもまだ明るいのだ。
案内されたアンバシャトーリの部屋は、残念ながら南南東向き。ドゥオモはかすかに見えるだけ。ミラノの中心だから、リストランテはいっぱいあるしアクセスもいい。一休みしたら、とにかく飯を食いに出かけなくてはならないのだが、体が許さない。
こんなに早く、日本から持ってきた非常食のカップ麺が活躍するとは思わなかったけれど、これもまさかの時用に荷物に入れてきた缶ワインでごまかすことにした。持参の湯沸かし器のプラグをイタリア用に差し替えて、ジーッと電気が入ったかどうかを聞き取る。動き始めたようだ。よかった。これでカップヌードルが食える。
バルコニーから見下ろすと、フォンターナ広場とミラノ市警察の古い懐かしい建物が見える。
10時過ぎにやっと夜が来て、東に月が昇ってきた。隣のビルの間から小さな赤い玉が、だんだん輝きながら登ってきた。
僕の心臓は、なんとか12時間のフライト、つまりドア・ツウ・ドアで20時間を持ちこたえた。あとは、この時差ぼけをミラノで早く治して、トスカーナに出かける予定なのだ。いつも、僕はミラノで最低3泊して、ジェットラグと疲れをいやして行動し始める。今回は4泊予定してあるから焦ることはない。
飛行機の中では一睡もしないで頑張ったのだから、良く寝られるはずと、睡眠導入剤を飲んで眠りについた。いっぱい、いっぱい夢を見たようだけれど、一応は眠ることができた。
まぁ、病気持ちとしては、うまく行った方だろう。
<写真は、夜10時過ぎ、隣のビルの真ん中から現れた月。三脚なしの手振れ、ご容赦>
実は、ミラノに来たら最初に、とにかくやりたいことがあった。
それは、ホテル・アンバシャトーリの西の部屋からよく見える、ホテルとドゥオモとの間に見える屋上ガーデンの様子を知ることだった。
10年前、このホテルに泊まった時、毎日興味を持ってみていたのが、この屋上ガー
デン。
場所的に言えば、まさにミラノの街のど真ん中。Galleria di Corsoという、あの有名なヴィットリオ・エマニュエルのガレリアと同じ構造を持つガレリア(鉄骨の円形の柱が支えるガラス窓に覆われた通り)の天井を眼下に見下ろせる8階建ての建物の屋上に、そのガーデンはあった。
その背景には、毎夕、夕日に照らされた乳白色のドゥオモ尖塔が見える。全く羨ましい環境の屋上ガーデンだった。その屋上には、緑のぶどうの蔓のアーチも作られていて、花々も色鮮やかに姿を見せていた。ベンチやテーブルもあって、人のゆたかな生活が印象深かった。
その庭の手入れをしていたのは、一人住まいと思われるおばあちゃん。朝夕にガーデンを手入れして、水をやり、いらない葉っぱを剪定して屋上ガーデンを守っていた。
きっとそこからは、リナシェンテを超えて、アルプスが望める素晴らしい庭だったのだ。
この屋上ガーデンはどうなっているのだろうと、僕はなんとかそこの様子を知りたいと、ホテルの7階のフロアーを、ウロウロ。工事中で、立ち入り禁止になっているホテルの屋上にも足を運んでみた。しかし、前回と同じ角度では、その屋上ガーデンをとらえることはできなかった。
なんとか、少し角度が違うけれど、その屋上ガーデンを見ることができた。
しかし、結果は無残。
確かに10年前でも、ちょっとお年寄りだった庭守りの女性だったから、もしかしたらもうこの世界に存在していないのかもしれない。
子供や、孫たちが集うにふさわしい、ゆたかな庭を作り上げていた人の夢は途絶えていた。美しかった庭は赤さびた廃墟。
時間がたったのを実感させる光景だ。
考えてみれば、僕の方だって、この10年間に病気も含めて、いろいろなことがあり、それとともに年を取り、ミラノにいる今の僕がある。
時間は、誰にも平等に流れているようだ。
結局、ミラノのど真ん中、ドゥオモのすぐそばで営まれていた、庭守りの生活は、もうそこには存在していなかった。
羨ましい環境の庭で、あの人は美しく旅立ったのだろうか。
今回のミラノへの里帰りも、カスキット・リスト(くたばるまでにやっておきたいことのリスト)の一項目を紡いでいる僕にとって、この屋上ガーデンの光景は羨ましくも、でも立ち尽くす寂寥の光景でもあった。
<10年前の緑のガーデンと、さびれた今のガーデンの対比をお見せします>