ミラノ 里帰り

第二章:トスカーナ( 1 / 12 )

10.フェニーチェホテルからの眺め

10.ホテルからの眺め.jpg

 

 フィレンツエのホテルの場所は、旧メディチ家の住居、パラッツオ・メディチの斜め前のフェニーチェ(不死鳥)。フィレンツエのドゥオモウフィッツイ美術館に近くて、しかもロレンツオ広場とその入口のスーパーマーケットにも近く、こんなに便利なホテルはない。ホテル自体は決して、不死鳥のように美しいわけではないのだが。

 

 公共の施設の修復に、珍しくも日本人が多額の寄付をして完成した「天国の門」で知られているサンジョバンニ洗礼堂も、部屋から通りの左手奥に見える。

 

このホテルにある唯一のバルコニーに出ると、通りが見渡せる。斜め前はリチェオ(工業高校)だが、幸い夏休みに入っていたから、こちらを見られる心配はない。でも、バルコニーにいるバミューダとタンクトップの僕は、通りからは目立ったようで、通りの向こう側の歩道を歩くまだ好奇心の強い若い女性には、隠された微笑みが見える。きっと、僕に気づいているけど、見ないふりをするよう彼らは教育されているから見て見ないふり。

 

もっと小さな子たちは素直だから、僕を見上げてにっこりする。こちらが手を振ると、はにかんでまっすぐ前を見ながら、自分の手を自分の横でひらひらさせる。気がついているんだけど、お母さんに注意されているらしく、振り返ることもなく僕の前を通り過ぎていく。

 

 その通りでは、面白いものを見ていた。

 

 それは、イタリアの公共工事。洗礼堂に向かって伸びるマルテッリ通りの石畳を、新しいものに取り換える作業をしている工事の人たちがいた。

 

 実は僕は、工事の作業を見ているのが好きだ。

 

 むかし日本で、会社の中にテニスコートを作る作業が始まった時、やじ馬で、昼休みには皆で、今日は、何をやってんだろうとみていた。工事はこうやってやるんだとかを見ていて楽しんでいたのを思い出す。

 

 また、東京の隅田川そばの高層ビルにいるころは、僕のいるビルのすぐそばで高層ビルの建設工事が始った。毎日、昼休みには、トビの人が、下の人とうまく連絡しながら、巨大なクレーンでパネルや、鋼材を引き上げて、所定の場所に取りつけていくのを見て楽しんでいた。だから、こんな工事にも目が向いたわけだろう。

 

マルテッリ通りの工事人は合計5名。新しい敷石を運んできたトラックから、大きな一枚ずつを、簡単なショベルカーみたいなもので舗装の土台となる砂地に降ろしていく。しかし、そこは工事をしている区画のはずれ。

 

敷石の基礎には道を掘り返し、砂をまき、圧力で平らにして、その上に隙間なく新しい敷石を敷いていく作業だ。単調だけれど、これから何十年、何百年使い続けるか分からない石畳だから、慎重に工事を進めているらしい。

 

 毎日、バルコニーや、通りかかりで現場を見ているのだが、それがなかなか進まない。

見ていると、時間がかかる工事をやっている。基礎をつくる人は基礎を作る人。他の人は、その作業が終わって、新しい敷石を並べられる状態になるまで待っている。自分の仕事は自分の仕事で、他の人の仕事を積極的に助けようとは思わないらしい。

 

 二、三枚、敷石を置ける基礎ができると、やおらショベルカーを運転する人が、端っこに降ろされた新しい敷石を取りに、ショベルカーを運転して近づいていく。敷石にロープをかける人がいて、その人の作業が終わると、二人でバランスを取って、ショベルカーはゆっくりゆっくり、新しい敷石を敷く場所まで運ぶ。そこにもう一人の助っ人が、ロープにショベルカーの鉤をかけて、釣り降ろせるようにしている。ショベルカーがその敷石を地面に降ろす。

 

 置く位置を石を敷く職人さんが調整しているようだ。それから敷石を敷く作業が注意深く行われる。確かに、敷石は、真っすぐ敷けばいいというものではなく、必ず、真ん中が少し高くなって、雨水が両端に流れるように工夫されている。一番重要な作業ではある。

 

 では、彼が敷石の微調整をやっている間、他の人は何をしているかと言えば、自分の作業の順番が来るまで待っているのだ。

 

 たとえば、その時間を使って、端っこの新しい敷石たちを基礎を作っている場所まで運んでおくとかすればいいのに、なんて思うのは日本人根性か。後の二人の助っ人は、自分の出番まで、周りの通行人とおしゃべりなんかをして、時間が過ぎていく。

 

 こうした順番で作業が進むように、監督の人がスーパーバイズしている。これで5人。

 

 正確に測ったわけではないが、だいたい一日に2m位が新しい敷石に変わっていく。結果として、僕がフェニーチェにいた5日間に10~12mの敷石が伸びてきただけだ。

 

 まあ、公共工事で、フィレンツエ市が施工主だから、のんびりやっているかも知れない。ワークシェアリング(仕事を分け合って、雇用を守る)の考え方からすれば、これも意味があるかもしれない。でもせっかちな僕には、やっていられない仕事の進め方だ。日本にはない仕事の仕方だと思った。

 

 「そんなに急いでどこに行く」と言う昔のCMの言葉が浮かんできた。つくづく、自分の貧乏症に気がついてしまう出来事だった。

第二章:トスカーナ( 2 / 12 )

11.ウッフィツィの僕の見方

 

11.ウッフィツィ.jpg

 

 僕は何度かウッフィツイを見ていているから、フィレンツエに来ても、すっとばしてもいいのだが、やはりそうはいかない。待つのは嫌だから、日本からWeekend Italyというサイトで予約をしておいた。

 

 そして、見る作品と部屋を決めていた。

 

ウッフィツイは、見ようと思えば2日でも、3日でも、一週間でも見ることができると思う。Uffiziとは、今のイタリア語でufficio、つまりオフィス。

 

その昔、コジモの時代にフィレンツエの役所をまとめた統合庁舎だったのを美術館にしたわけで、廊下に面して延々と、何十室もあるから、一つずつ音声ガイドを聞きながら見たら、とても苦痛なことだと思う。少なくとも僕にはできない。

 

 選んでおいたのは、ルネサンスの名作たち。

 ・「ウルビーノ公爵夫妻の肖像」、

 ・あまりにも有名なボッティチェリの「春」、そして、「ヴィーナス誕生」、

 ・ダヴィンチの「マギの礼拝」、

 ・ミケランジェロの「聖家族」

 ・ラファエロの「ヒワの聖母」

 ・テッチアーノの「ウルビーノのヴィーナス」

 ・カラヴァッジョの「バッカス」 「メドウーサノ首」 「イサクの犠牲」

等をつまみ食いしていけば、まあ、2時間では見ることができる。

 

 ウッフィツイでのお勧めは、何と言っても、ドゥオモが見える屋上のカフェテラス。

圧倒的な人の波たちとおさらばすれば、ここでフィレンツエの広さを感じられるから不思議だ。

 

 おこぼれをねらう雀たちをからかっているうちに、疲れが体から溶けだしていく。

 

 後は、ドゥオモや洗礼堂、元気があればジオットの鐘楼や、ドゥオモのクーポラの天辺からの眺めを楽しんでもいいだろう。

 

 逆にアルノ川に出て、ポンテヴェッキオを冷かしてもいいだろうし、お土産を買ってもいいだろう。

 

 僕はシニョリーア広場と、パラッツォ・ヴェッキオを眺めでおくことを選んだ。

 

 シニョリーア広場の片隅、ダヴィデの立像の近くのアーケードになったロッジア(天蓋のある所)で、昔びっくりしたことがある。ある時、そこを眺めていると、作業服のおじさんたちが大理石とブロンズの彫刻たちを清掃し始めた。

 

 大理石の彫像たちがきれいになっていくのは、当たり前だったのだけれど、思わぬことがおこった。それは、緑青の吹いた青銅色に汚れたブロンズ像が、瞬く間にきれいになって、緑青色ではなくなっていくのだ。軽やかに、明るい色調になる。ビックリして、おじさんに聞いたら、ブロンズ像は、もともとはこんな青緑色の黒ずんだものではなかったというのだ。

 

 清掃の下から現れたのは、まさに銅の色、もしくは赤銅色と言った方がいいかもしれない。なんだか、マジックを見ているような気がしたのを鮮明に覚えている。その色に一番近いのものでは、日本の10円硬貨の新しい物の色だと言えば良いだろうか…。

 

 ぶらりと街を歩くと、思わぬものに出くわして、旅をしている自分、非日常的な自分に出会うことができる。

 

 大切なことは、ゆっくりとその場に身をおくことだ。時間がゆっくり流れている所では、自分もゆっくり呼吸をすれば、その場所の時間に共振できるのだ。

 

 遠くで、ガランガランと教会の鐘が鳴っている。あぁ、フィレンツエにいるいんだと実感できる。

 

 

<写真は、ウッフィツィのカフェテラスから見たドゥオモです。この窓に近寄ることは禁止されていました。残念>

第二章:トスカーナ( 3 / 12 )

12.フィレンツェの街・デジャヴ

 

12.1古本屋.jpg

 

 フィレンツェの街を急ぐでもなく歩いていると、いろんな楽しい風景に出会う。目的の場所だけを考えながら、そこへの経路は全く意識しないで歩いているから、思わぬ店とか、映像とかを、思わぬところに見つけることになる。

 

 愉快だったのは僕のホテルの前の古本屋さん。本屋さんと言っても、ちゃんとした建物ではなくて、テントの店。台車の上に本棚を何段かおいて、そこに無造作に本が並べてある。屋根は古い布のテント。

 

 古本を並べて、本屋さんらしいおじさんが友達と、一日中、しゃべっている。店番といえるのかどうか知らないけれど、3~4個の椅子を持ち出して、友達と常に話している。お客は、通りかかりの人がちょいと冷かしていくだけのようだ。売れている様子は全くない。商売になるとはとても思えない。

 

 場所は、朝夕、日常的に近所の人たちがお祈りに来る、小さな教会の前。広場というか、教会の入口へのちょっとしたスペースにある。

 

 テントの屋根は、折りたたんだりして古くなって、一部が破れている。そこに、写真でもわかるとおり、黒い傘が差し込んである。テントの右上のあたりにあるのが見える。それで、雨を防いでいるわけだ。ほほえましくて、見ていて楽しくなってしまう。

 

 夕方になると、屋台に広げた陳列の平置きの本を、ヒョイヒョイと一番上の本棚の上に投げ上げる。そして、広げた陳列板を折立てて、その上にテントをたたんでかぶせて店じまい。それだけ。

 

12.2古本屋.jpg

 

 日曜日は閉店で、土曜の夕方にはちゃんと古本屋は店を閉める。ちゃんとと言ったって、テントはテント。テントをたたんで、軽くロープをかけて縛っておしまいだ。閉店したテントの穴にも、例の小さなこうもり傘が挿してある。特別に固定もしていないようで、縛られたテントの上にちょこんと乗っかっている。風でも吹いたら飛ばされそうで、見ているこちらが心配になるけれど、オジサンたちは店じまいを終えると、きっと行きつけのバールでの一杯を頭に描きながらそそくさと立ち去っていく。これで、絶対に商売になるわけはないと思うのだけれど、これが日常。

 

 

 アルノ川に向かって歩いていると、古いフィレンツェの表情が見える。

 

12.3ピノッキオ.jpg 

 

 それは木彫で作った大きなオートバイや、イタリヤの有名なピノッキオのいろんな人形を飾ったショウウインド。中に入って、写真を撮ろうと声をかけたけれど、誰も出てこない。仕方がないから、ショウウインド越しに写真を撮らせてもらった。ぶらり歩いているめっけものかもしれない。

 

 次に見つけたのは、暗い、なんの店だかわからない店。薄暗いスタンドに磨きこまれた床がきれい。見ただけではなんの店だかわからない。魅力的だけれど、なかなか踏み込めない。よく見ると、入り口に長い細い木の棒が壺に入っていた。そして、その隣には3~4種類の瓶が置いてある。ピンときた。これは香りの店ではないかと…。

 

12.5香の店.jpg

 

 昔から、フィレンツエでは香りを楽しむ生活があったということを思い出した。細長い棒を一本引きだして、ガラスの液体につけてみる。鼻に近づけるといい香り。やはり、昔からの香りを売る店だったのだ。店に誰かいたら聞いてみることも出来たのに、残念。声をかけても人の気配はない。仕方がないので写真を撮った。もちろん、香りは撮ることはできない。

 

 のんびり、ゆっくり、アルノ川の方に歩いていくと、突然、明るいアルノ川の河岸に出た。こういうのが本当に、そぞろ歩きと言うのではないかと思ったりする。デジャヴに似た世界から、現実の夏のフィレンツェに引き戻された。

 

P.S.

この香りの店は、後で調べてみたら、どうもAntica Officina Del Farmacista Dr. Vranjesの店だったようだ。

 

第二章:トスカーナ( 4 / 12 )

13.むかし取ったキツネ塚ならぬ、杵柄

13.1昔取った.jpg

 

 

 旅をしていると、なぜか思わぬ状況に置かれることはしょっちゅうだ。ウッフィツィを見たら、翌日はパラティーノを見るつもりでいた。アルノ川をポンテヴェッキオ橋で渡って、ピッティ宮の2階にあるウッフィツイよりもこじんまりした美術館がパラティーノだ。

 

 ここには、僕がフィレンツェに戻れたら、絶対に見ておきたかったラファエロとティツィアーノの作品が集められている。しかも、絵が飾ってある部屋自体が、もうルネサンスの時代のアパートメントでもある。絵を見るぞ、と意気込んでやってくるところではない感じで、友達が暮らしている部屋に名作が掛けてあるといった雰囲気の場所。人も混んでいなくて、ウッフィツイより好きかもしれない。

 

 しかし、残念。僕の準備不足で、月曜日の休館にぶつかった。フィレンツェの3泊4日(半日が2日、結果として正味3日)のスケジュールでは、パラティーノに当てる時間はない。見る絵まで決めていたのに、何のことはないジョルジョーネ、フィリッポ・リッピを含めて、ティツイアーノとラファエロの名作には今回はお目にかかれなかった。本当に残念。

 

 前回、このピッティ宮の前庭では、僕も飼っているシュナウザーの子犬に出会って、それが切掛けで、フィレンツェ大学で働いている飼い主と友達になった思い出がある。それに、ルネッサンス風の美しい洋食器を売っている店もその近くにあったので、そこも再訪したかったのだけど、結果はみじめ。落ち込んだ。

 

 仕方なく、月曜日に開いているサンタ・クローチェ教会を訪れることになった。この前庭は、サッカーの原型と言われている中世からの地域ごとのボールゲームが行われる場所で、ゲームの日には、この広場が人でいっぱいになると言われている。僕たちが行った時には、そのための観客席の組み立てがすでに始まっていて、祭りの近いことを教えてくれた。

 

 今、イタリア中でリスタウロ(改修)が行われていて、このサンタ・タクローチェの祭壇も、やはり足場で囲まれていて見ることができない。こういうことに度々ぶつかると、さらに心が落ち込んでいく。もう二度と訪れることができないかもしれないフィレンツェ…と思うと、くちから「カッツオ」とののしりの言葉が出てしまう。一日に2回も残念なことが重なると、旅人の心はなえていく。(注カッツオとは男性器のこと、鰹と似ているから要注意)

 

 まあ、ここで見られてよかったと思うのは、ミケランジェロの墓とか、ドナテッロの受胎告知ぐらいしか記憶に残っていない。これも、心が躍っていなかったせいだろう。

 

13.2昔取った.jpg

 

 サンタ・クローチェを後に、アルノ川の方にあても無く歩いていると、フッと、どこか懐かしいリストランテの前に出た。Le  Colonnineだ。アッと懐かしくなって、食事をすることにした。ビステッカ・アラ・フィオレンティーナを食べることにした。名物にも、ちゃんと美味いものはある。これは間違いなくキアーナ牛のおかげだろう。肉がとてもやわらかい。僕には、ワインとうまいものがあれば、げんきんなもので元気がよみがえってくる。

 

13.3昔取った.jpg

 

 

 アルノ川の方との方向感覚だけで歩いていると、パッと開けて、アルノ川と、対岸の明るい家たちが見えてくる。ミケランジェロの丘がある対岸に窓を飾った美しい建物が見える。背景の丘に生える糸杉とのバランスがとてもいい。

 

13.4昔取った.jpg

 

 ポクポクとヴェッキオ橋のほうに歩いて行くと、目の下のアルノ川の河岸にボートハウスが見える。そして、そこに、かなりのお年寄りの二人がボート漕ぎの姿で艇の用意をしている。ダブル・スカルだ。白い半そでのユニフォームにブルーの短パン。決まっている。

 

 それこそ、僕が最近まで間違って覚えていた、「昔、取ったキツネ塚」ならぬ、「昔、取った杵柄」のお二人さん。格好いい。見ていると、細身の艇がヴェッキオ橋の下をくぐって、みるみる下流に漕ぎ出していった。美しい。

 

 こんな美しいものを見たら、落ち込んでいた僕の心は晴れてきた。こんな時間を待てる人たちの幸せ感が僕にも共有できる。

 

 ダブル・スカルは、あっという間に、魔の一方通行だらけの街、フィレンツェから脱出するときに僕が使うヴェスプッチ橋の方まで漕ぎ出していた。暑いフィレンツェ、アルノ川の川面をあの二人の年配の人たちは本当に堪能しているようだ。

 

 僕も、僕の時間を大切にしようと歩き始めた。

 

徳山てつんど
ミラノ 里帰り
0
  • 0円
  • ダウンロード

11 / 37