ミラノ 里帰り

第三章:リグーリア( 2 / 6 )

23.ラ スペチア・NHホテルとフィアット500

 

 ラ スペチアのホテルを予約するとき、前に泊まったジョリホテルを希望して探したのだが、残念ながらブッキングのウエブには見当たらない。

 

23.0ラスペチア.jpg

 

 仕方がないから、港に面した四つ星のホテルを探すとNHというまるで、暗号のような名前のホテルに出会った。場所的には前のジョリホテルに近い感じだったから、そこを予約した。アウトスラーダからのアクセスが簡単だし、チンクェテッレからのボートの桟橋にも近いので、そこで妥協した。

 

 ラ・スペチアは、人口13万人の大都市。その理由はイタリアきっての軍港で、イタリア海軍の艦船がいつも停泊しているし、その修理ドックもあるから、人が多いのだ。しかも、若い人も多い。そうすると、子供もいっぱいいる。トスカーナの田舎の観光客ばかりの風景から、こうした日常の生活感があるところに来ると、どこかホッとする。

 

 この街は、美しいポルトヴェネレ(ビーナスの港)にバスやボートで行けるし、チンクェテッレにも電車とボートで行けるから観光客も多い。同時に、市民の日常生活の賑やかさを楽しむことができる街だ。

 

 街に着いたら、まずやることは、スーパーマーケットを探すこと。スーペル・メルカートが見つかれば、うまくて安いワイン、大すきなゴルゴンゾーラ・チーズ、旅で不足がちな野菜(サラダ)と果物、パン、そして水を買えば、夕食を自分の好みで食べられる。ホテルで聞いて、近くにBASKOというスーパーを見つけたから、レストランの高い夕食に毎晩、お世話になることも必要ない。

 

 もともとの予定では、ラ・スペチアでは、チンクェテッレの日も入れて、3泊の予定だったけれど、予想を超える6月の暑さと旅の疲れもあって、リヴィエラ海岸をずっとニースまで走って、サンレモに泊まるという当初の予定を変更。結果としては、ラ・スペチアに5泊することした。ゆっくりできるわけだ。

 

ここからは、直接ミラノに帰るわけだから。フィアット500でミラノまでの250kmを運転する必要もない。ここからはイタリア国鉄で帰ることにした。これが後で問題になるのだけれど、そうとは知らず、ハーツにここで車を返すことにした。

 

運転者として、チビのしかもマニュアル車で、ミラノの混雑した、輻輳した街中、特に速い車の流れのロトンダ(信号のないロータリー)を安全に運転できるかと自問自答したら、やめておいた方がいいというのが答だった。

 

ミラノのロトンダの難しさは、高速で回っている中に素早く入って、何本目通りでロトンダの外に出るかを瞬時に判断しなくてはならない。それに、イタリア人は運転が本当にうまい。でも、その運転をほかの車にも要求するところがある。焦る。

 

イタリアでの、時間の感覚は日本と大きく違う。時間にルーズと言えば、それまでだけれど、それが半端じゃない。フィアット500を返すことにして、ハーツに電話したら、午後は2時半にオフイスが開くから、その時間に返却してくれと言われた。

 

慣れない街で、しかもグーグルの検索ができない環境では、ホテルNHのフロントに聞くしかない。シエナのモデルナと比較すると、フロントはしっかりした地図を描いてくれた。

 

 余裕を待って着こうと、15分かからないところだったのだけれど、20分前にはついてしまった。オフイスはもちろん昼休みで閉まっている。仕方ないので近くのバールで時間待ち。しかも、せっかちな日本人だから、午後一番乗りで、さっさとかたづけたいと思っていたので、オフイスが見える歩道の椅子に腰かけて、バールでコーヒーを飲む。(店の前にオリジナルのフィアット500を発見) 

 

23.2オリジナル.jpg

 

 

 しかし、2時半になっても、3時になっても、店が開く気配がない。見ていると、他にも、店が開くのを待っているようなイタリア人の姿が見える。あぁ、彼も開くのを待っているんだなぁと少し安心して待っていた。

 

店が開いたのは、3時半少し前。実に一時間以上も待ったわけだ。しかも遅れて店を開けたのが仏頂面の若い人。ミラノに返す予定だったのを、二日も早めたわけだから、レンタカー代金額を再計算してもらわなくてはならないけれど、そのまま車を受け取ろうとする。再計算した計算書を作ってくれと頼むと、迷惑そう。

 

ねばって、作ってもらったけれど、こちらもかなり不機嫌になる。メルセデスのA160より小気味よく走ってくれた可愛いフィアット500ともここでお別れ。ちょっと淋しくはなったけれど、全くの自由になった気がした。

 

23.1 フィアット500.JPG 

 

ラ スペチアで走る車を見ていると、三輪車があったり、スマートが頑張っていたり、僕の乗っているプジョウも元気。しかも、見慣れない車がたくさん走っている。タクシーがチェコのシュコダだったり、驚いたのは、インドの車が走っていることだ。日本では見かけたことのないタタ(TATA)やマヒンドラ(Mahindra)のトラックが結構走っている。車を見ていて楽しい街だった。NHホテルの窓から見ていても、飽きない、車の流れだった。

 

 

第三章:リグーリア( 3 / 6 )

24.ラ スペチア・ホテルからの眺め

 

サンレモへ行くのをやめたから、ラ スペチアでのんびりする時間ができた。僕の旅は一か所に3~4泊だから、どちらかと言えば、ゆっくりしたものなのだが、やはり、そのサイクルで棲家(?)を変えるのは心によくないようだ。どこか焦燥感と緊張感が湧いてくるから不思議なものだ。あれもこれもと、ガツガツ、見てはいないのだけれど…。

 

ミラノ以来、ここにきて、やっと自分が周りを見回す余裕ができた。

 

ラ スペチアは、それまでのトスカーナの町たちとは違っている。まず、町の中に、緑があるということ。

 

 

 

丘の上のトスカーナの町たちは、その立地から、いくら頑張っても丘の上の城壁に緑を植えるくらいしか、町には緑は無い。それは僕の知る限り、トスカーナの町、フィレンツエ、シエナ、サンジミニアーノ、ヴォルテッラ、そして平たいところにあるルッカだって、町の城壁の中には緑は少ない。

 

それは、昔から独立国家として、防衛しやすい丘の上で暮らし、狭い土地のぐるりを城壁で守って街を営んできたのだから無理もない。イタリアの心臓と言われる、緑の多いウンブリアのペルージア、オルビエート、アッシジにしても同じことが言える。ウンブリアは周りは緑が多いのに、町になると石の塊に見えてくる。

 

まぁ、そう言えば、公園の多いミラノを例外として、トリノ、ヴェネチア、ローマ、ペルージア、ナポリ、ジェノバだって、旧市街には緑は無い。

 

 

 

そういう目で見てみると、ラ スペチアは、街中に緑が多い。小さな町にしては、海岸通りのイタリア通りは緑の塊だし、駅に向かう下町のすぐ側にも大きな緑がある。ジュゼッペ・ヴェルディ広場の歩道には、オレンジが街路樹として植えられていたりする。人は、緑を見るとホッとするわけだ。

 

 スペチアx2.png

 

まぁ、こんなところにも目が行くのも、ゆとりのせいだろう。

 

そんなふうに見ていると、ある日、窓の外の地中海の光景が、意味を持って見えてきた。それは、単なるラ スペチアの港の風景というものではなかった。 

 

 

この写真で、みなさんは、何が読み取れるだろうか?

 

いつものおだやかなリグーリアの港だ。しかし、クルーズ中の大型客船が、この港に入ってきたのが、その発見のきっかけだった。

 

大きな客船だなぁ、どこから来たのかなぁ、どんな人が乗っているのかなぁ、結構、金がかかるだろうなぁ、なんて思っていたら。目が開いた。

 

全く別の世界が見えてきたのだ。それは、大理石の取れるフェラーラの美しい山並みの発見でもなく、もっと、もっと、人間くさい眺めだった。

 

24.3金持ちと貧乏人.JPG

 

この写真のどこかに、大金持ちがいる、まぁ金持がいる、小金もちがいる、貧乏人がいる、そして普通の人がいるって見えてきたのだ。大型客船が入ってこなかったら、全く気がつかなかっただろうと思う。

 

大西洋だって渡って来られる大型クルーザーのオーナーは、この景色の中で一番の金持ちだろう。たとえば、クルーザーの船長以下、機関士、コックさんなどを含めて、乗組員は20名ぐらいいるとする。油代とか、停泊料とか、メインテナンスの費用を考えたら、この外洋大型クルーザーを維持するだけで、一年間に10億くらいの金が必要だろう。すると、持ち主は、少なくとも50億くらいの年収が必要だ。

 

次に金持ちはとみると、外洋クルーザーが見える。外洋ヨットも見える。これだって、一年間の維持費は、1億はかかるだろう。収入は10億単位かなぁ。

 

次は、よく分からないけど、小型のヨットとか、クルーザーのオーナーかもしれない。もしかすると、大型客船で、クルージングしている船客たちかもしれない。一過性の料金だけれど、二人で一航海、最低でも400万円くらいはするだろう。すると、まあ昔でいう百万長者だろう。

 

僕みたいな普通の人は、チンクエテッレ観光の乗り合いボートに乗って楽しんでいるクラスだろう。もしくは、このラ スエチアのパッセジャータの遊歩道をのんびり、ジェラートでもなめながら歩いている人たちだろう。

 

24.4昼寝.jpg

 

もう少し、貧乏な人は、このイタリア通りの赤信号で止まった車に寄ってきて、金をせびるか、無理矢理、車の窓ガラスを洗って、金をくれとせまる人たちかもしれない。

 

こんなことが、フッと、NHホテルの窓から眺めから湧いてきた。旅の発見だった。

 

第三章:リグーリア( 4 / 6 )

25.ラ スペチアの下町

 庶民の生活、それが見られるのはとてもおもしろいことだ。何しろ、観光客相手の日常ではなくて、そこに住んでる人の生活だから、リアリティがあっておもしろい。 

ホテルから、大きな道を歩いて、Via Chiodoの公園前バス停のところから右に曲がっていくと、もう下町だ。この古い道を30分も歩くと、スペチアの中央駅だ。

 

25.1丘の上は高級.jpg

 

この道の右手の丘の上は高級住宅地らしい。イタリアでも、高級住宅地は高台=Sopra らしい。でも、お年寄りは大変そう。緑と眺めと引き換えに、毎日の坂の上り下りが体に堪えているようだ。ちょっと体重が重い人は大変そうだ。

 

25.2芸人.JPG

 

広いベンチが置いてある通りの角っこから、素晴らしい声と音楽が聞こえる。何だろうと近づいてみると、美しい若い女性が、ギターを弾きながらソプラノで歌っている。身綺麗な感じで、ちょっとしたチップを稼いでいるようだ。自分の前にギターのケースが開けられていた。見ると小銭や1ユーロ紙幣などが入っている。みじめな感じはない。楽しんでいるようだ。通りかかった人たちも楽しんでいるようだ。一曲がおわると、さりげない拍手が起こる。僕も1ユーロ札を入れておいた。

 

このVia del Prione通りは、古くからの店が並んでいる。駅からの人もおりてくるし、買い物に出てくる人も通る庶民の道。時には店に入って、小さな土産物を探す。もうせん、イタリアでは東洋人とみると、チネーゼ(中国人)とかジャポネーゼ(日本人)とか声がかかったけれど、ここではコレアーノ(韓国人)と思われたようだ。こんなのも初めて。コレアーノが有名になったのは、サムソンやラッキーゴールドの製品が、いたるところにあふれているからだろう。ホテルのテレビもエアコンもすべて韓国製だった。

 

通りを行くと、おばあちゃんたちが、群がって何かを品定めしているのに出くわした。屋台のマーケットだ。やじ馬は得意だから、僕も飛び込んでみる。すると、日本で言えば、500円均一の女性用腕時計を売っている。おばちゃんたちが群がって、何個も、何個も買っていく。お孫さんたちへのプレゼントだろう。ほほえましい。

 

そのマーケットには、洋服や、日用雑貨や、果物屋とか、ありとあらゆる屋台店が並んでいる。人の数も半端じゃない。おもしろかったのは、通りの高いところに旗が翻っている。よく見ると、「ドロボーさんお断り」と書いてある。やはり万引きなんてものが出没するらしい。

 

よく晴れた日だったから、歩道に店を出ているジェラテリアは、お客でいっぱいだ。それにしても、でぶっちょの多いイタリア人だけど、ジェラートには目がないようで太ったおばさんも、太った子供も、大きなアイスクリームをデレデレ溶かしながら食べている。こちらにも笑顔が浮かんでくる。

 

食事をしようと、歩道にテーブルを並べたトラットリアに入った。客は多くはない。入口のすぐそばに、中年の赤シャツの一人の客がいた。よくしゃべる。ワインとサラダと、一皿のパスタを置いて、店のひと、顔なじみの店の客、通りがかりの知り合いに声をかけて、早口でしゃべっている。タバコを吸いながら、しかし、食事は進まない。おしゃべりで忙しいのだ。他人事だが、パスタが伸びるよって、教えてあげたい気持ちになる。本当に、しゃべりまくる。

 

店の人も、迷惑顔。でも、地元の古くからの客らしく、適当にあいづちを打っている。新しいお客が入ろうかと、テントの中をのぞいてみると、何となくワルの感じのその人に気がつく。周りから煙たがられて、客はほかの店に向かって流れてしまう。困ったものだけどしかたない。僕も、吸いさしの煙草の煙にいぶりだされて、早々に店を出てきた。ワルは、傍若無人にどこにでもいるわけだ。

 

そのトラットリアを少し先へ歩いていたら、たくさんの人が、たくさんビニール袋に入れて何かを運んでいる。ピンときた。きっとこの近くに、市場があるに違いないと…。

 

人の流れてくる方へ歩いてくと、ガラスと鉄骨で作った大きな常設市場に出くわした。これこそスペチアの台所。威勢のいい声で客を呼び込んでいる。野菜、果物、肉、サルメリア、鉢植えの草花、花屋さん。なんでもありそう。そして、値切りは当たり前。丁々発止と店の人と、お客がやりあっている。

 

全く同じものを隣同士で売っている。でも、値段が違う。それでも平気で店をやっているのは、ものに自信があるとか、昔からのお馴染みさんがいるからか。日本には、なかなか、こんな身近な日常的な市場は無いから、1時間以上も過ごした。

25.4鳥丸焼き.jpg 

いい匂いにつられていってみると、鶏の丸焼きの屋台が出ている。おばさんに、炉も含めて写真を撮っていいかと聞いたら、ポーズをつけてくれた。でも残念、肝心の鳥も、丸焼きがぐるぐると炉の中で回っているところは、おばちゃんに邪魔されて取れなかった。

 

 

 

 25.3市場.jpg

 

日本では見ない、半乾燥の鶏キノコを写真に撮った。キロ2900円って、安いのかなぁ…。下町の散策、楽しい時間でした。

 

第三章:リグーリア( 5 / 6 )

26.怒り、その矛先は

 

気が長いほうではないけれど、あまり怒り狂ったことはない。しかし、今回のイタリアの電車の出来事には怒り狂った。

 

 ラスペチアからミラノまで電車で帰ることにしたので、情報を得るため、ホテルから歩いて丘の中腹のラスペチア中央駅まで出かけた。

 

 心臓に病気を持っているので、階段を使って、ホームまで大きな荷物を運ぶのは避けたかった。ホームへのアクセスにエレベーターか平坦な通路はないのかを知りたかった。それに料金はいくらかかるのかを聞いたりしたかった。

 

 幸い、改札から地下通路まではエレベーターはあった。もちろん地下通路からホームへのエレベーターもあった。使い方は分かりにくいものだったけど、これで、でかいスーツケースを持って列車に乗れると確認できて安心。もしダメだったら、タクシードライバーに頼み込んで、ホームまで運んで貰おうとを覚悟していたから、本当によかった。

 

値段も聞いてみた。ミラノ中央駅まで、インターシティ特急のファーストクラスで35ユーロ。まぁ車でミラノの中央駅の近くのハーツまで運転することを考えれば、安心を買ったと思って納得。

 

出発の朝、NHホテルをチックアウトするとき、初めて気がついた。そこは僕が最初に希望していたジョリ・ホテルを居ぬきで買ったホテルだった。レシートにジョリ・ホテルと書いてある。なんだ…、そうだったら、前の時に食ったアクアパッツアを食べるんだったのに…と思ったけれど、もう出発の日。

 

10時40分のインターシティに乗るために、タクシーを飛ばして中央駅へ。そこで、まず変なことが起きた。確認に行った時、ミラノまで35ユーロといっていたのが、25ユーロ。曜日によって、イタリア国鉄は値段が違うらしい。ちょっと不信感。安いのだからいいかって、切符を買ってホームに向かう。

 

しかし、その日、肝心のエレベーターは壊れていた。“Guasta”と書かれた紙切れが悲しい。仕方なく、でかいスーツケースを手で持ち上げて地下への階段を下りる。心臓君との我慢比べだ。幸い地下通路からホームに上るエレベーターは動いていた。助かった。

 

次の試練は、列車に乗り込むことの大変さだった。

 

26.0 段差.jpg

 

フィレンツエで特急・フレッチャ ロッサを下りる時、ちょっとホームが低いなと感じたことは覚えていたけど、今度はもっと大変。ホームがとても低いので、でかいスーツケースを持って、狭い乗り込み口のタラップを4段も運び上げなくてはならない。これにはまいった。ミラノ中央駅は日本と駅と同じようで、全く問題を感じていなかっただけに、この4段は効いた。

 

この経験で、イタリア語でホームがマルチャピエディ(歩道)と呼ばれる本当の意味がわかった。車道=線路。そこからほんのちょっと高いところがお客の歩道=プラットホームなのだ。レールとホームの高さは、20センチもない。歩道から列車まで、ヨイショと登らなくてはならないのだ。皆さんも、ご用心。

 

ちなみに、ミラノでは、ビンナリオ(プラットホーム=番線)と呼ぶ。段差はほとんど無い。

 

26.1マルチャピエディ.jpg

 

でも、問題はこれからだった。指定されたコンパートメントに乗り込んで、待っていても、定刻の10時40分になっても列車は動かない。11時になっても動かない。向かいのホームからは、ローカル列車が同じ方向にどんどん出発していく。しかし、僕たちのインターシティ特急666号は動かない。

 

30分待っても、40分たっても動かない。地元の人はインターシティから下りて、ローカル線でどんどん、ジェノバ方面に出発して行く。でも外国人の僕たちは待つしかない。アナウンスもない。

 

1時間たっても動かないので、機関車でも問題なのかと見に行くが、ちゃんとスタンバイしている。機関手さんも乗っている。

 

機関車から戻る途中、車掌さんらしい人がいたので聞いてみたら、「列車長」が来ないという。なんだと聞くと、列車にはカポ、つまり「頭:かしら」がいて、"Copotreno”がOKを出さないとイタリア国鉄では列車は出発できないのだそうだ。列車長が来るのを、駅長さんも、クルーも待っているという。もちろん、乗り込んだ乗客も。馬鹿な…と思った。

 

しばらくホームで見ていると、立派な制服を着た、恰幅の良い女性がもう一人制服を着た男とやって来た。これが列車長だと思って、状況を訊きはじめたら、今、忙しいから…と言って、僕の問いを全く聞かない。つっけんどん。列車長の遅刻が列車の遅れの原因。

 

僕達のインターシティ666号は、始発駅のラスペチアを80分遅れで出発した。なぜ、列車長が遅れたのかは分からないままで列車は走る。ジェノバ駅の電光掲示板にも、80分遅れと出ている。

 

 ミラノ中央駅には、やはり80分遅れで、13:50の予定が、80分遅れの15:10に着いた。電光掲示板にも80分遅れとでている。まったくの遅れの説明がなかった。途中の駅で列車長は交代して、悠然と巨体をゆすって列車から歩き去っていた。どうして彼女が遅れたのか、分からない。

 

いかにもお役人のイタリア国鉄だと怒りがわいた。

 

帰ってから、Capotorenoを調べてみたら、イタリア国鉄のもうけている役職で、機械とかハード以外の列車のソフトサイドの責任者だった。乗客サービス、車内の清掃、準備、人員点検、車内販売の点検を含めた偉いお役人だったわけ。

 

駅長さんにも出発の命令権はない。列車長にのみ、出発を決める権限があったのだ。やはり、僕たちは待つしかなかったのだ。

 

26.2汚れた窓ガラス.jpg

 

写真でわかるように、特急列車の窓は汚れていて、よく外が見えない。リビエラの美しい風景は、曇りガラスに鈍かった。

 

もちろん、ミラノでの遅延の払い戻しなんかは無かった。がっかり。

 

徳山てつんど
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