ミラノ 里帰り

第二章:トスカーナ( 12 / 12 )

21.古都ルッカに住むということ

 

 

 ホテル・イラリアの前には、水のきれいな小川が流れていた。ホテルの部屋から見ると、小川を挟んで正面に、それこそ300年以上たっただろう、ルッカの古い3~4建てのアパートメントが見えた。

 

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 見ていると、夕方になると、おじいさんと孫と思われる小さな男の子が姿を見せる。せまいベランダは花畑になっている。たくさんのプランターや、テラコッタの植木鉢なんかに花を植えているようだ。鉄のフェンスにもポットが掛けてあって、いろんな色の花々が咲いている。フェンスの向こうは、緑が茂っているからよくは見えない。

 

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 少し頭の薄くなったおじいさんが、大きなジョウロを持ってきて、花々に水をあげているのが見える。さらにみていると、チビの男の子も、自分用の小さなジョウロを持って、おじいちゃんの真似をして、草花に水をやっているようだ。でも、背が低いから、何度カメラで狙ってみても、その姿をしっかりと捉えることができない。しかし、二人が話し合いながら、ゆっくりとした夕方の時間を過ごしているのはよく分かる。何だか、ほほえましい。

 

 カレンダーを見ると、その日は土曜日。イタリア人は家族を大切にするから、嫁に行った娘さんがご主人と息子を連れて、里帰りしているのかもしれない。おじいちゃんは、孫と一緒に過ごすこの夕暮れの時間が好きなのではないか…と想像する。

 

 こうやって、特別なことはないけれど、落ちついた、のびやかな生活が流れているのを垣間見た気がした。これは、本当に幸せな時間ではないだろうかと思う。あくせく働くのが当たり前のような我々の日本での生活からすると、羨ましい限りだ。

 

 写真で分かる通り、アパートメントは古く、決して美しい感じではないけれど、着実な、ゆたかでおだやかな生活空間が、そこにはあると感じた。隣のアパートには、色とりどりの原色の洗濯物が翻っていたりして、普通のイタリアの生活が垣間見える。

 

 ルッカの町は、ホテルからサン・ジェルヴァジオ門を潜って行けば、旧市街。16世紀ぐらいの街並みがそのまま残っている。どちらかと言えば、ちょっと横方向に伸びた楕円形の城塞に取り囲まれた町だ。端っこから端っこまで歩いても、1.5キロくらいだから、全て歩きだ。住民の車は入ってくるけど、それ以外の車は入って来られないから、人が歩くには安全な街だ。

 

 前にも書いてけれど、イタリアでは大体の街で、歴史的中心街(チェントロ・ストリコ)からは車を締め出している。ちなみに、ホテル・イラリアは外側の壁の中にあり、旧市街の外なのだが、ホテル代の他に、一日15エウロの駐車料金を取る。ホテルの客からも、毎日取る。聞いてみると、環境保全のために使う費用だと決まっているようだ。仕方ない。

 

 ドゥオモとか、サンミケーレ・イン・フォロ教会とかのロマネスク建築を訪ね歩いていると、町のいたるところに昔からの市場が立つ。骨董屋だったり、家具屋だったり、もちろん普通の野菜や、果物などを売る市場もある。こうした市場の中で、ローマ時代の円形闘技場跡(Anfiteatro Romano)を取り囲む円形の建ものも、そのすべてが市場になっている。ルッカの中でも一番楽しめるマーケットだ。

 

 グイニージの塔のてっぺんには、樹齢100年以上と言われる立派な松が植わっていて、見上げると、まさに空中庭園。落ち着いた気持になれるいい町だ。歩いていると、日本の銭湯そっくりの共同浴場が今でも営業していたりして、庶民的な街でもある。

 

 伊豆高原に住む洋画家、ルッカでパトロンを見つけて住みついていたひとの奥様に、羨ましいだろうと、絵葉書を書いた。旦那は、肺がんで亡くなってしまったので、どんな思いで、絵葉書を読むかは分からない。そこはお任せだ。

 

 ルッカの旧市街を歩いていると、奇妙な感覚に襲われる。方向感覚が狂ってくるのだ。

 

 それは、おそらく、中世の頃、敵が侵入してきた時のことを想定して、あえて迷わせる構造になっているから、のように思える。そうしたトラップに引っかかって、僕も何度、道に迷ったか分からない。小さな町なのに、簡単には目的のところにたどり着けないのだ。夕食の買い出しで通ったスーパーマーケットまで、何度も迷いながらやっとたどり着いた。

 

21.4 San Cristoforo.jpg

 

 予想外の楽しい出来事もあった。町の中心にある古い、もう使われていない教会、サン・クリストフォロを会場に、若い人たちが計画したシャガール展を発見した。僕は、シャガールには全く目がない。聞いてみると、若者たちのグループが、自分たちで企画し、交渉し、作品を借り出して、ルッカの賑やかの街なかで、お客を呼び込んでいるのだという。若い人が元気な街はとても素晴らしいことだと思う。古いルッカとの対比がとてもいいのだ。

 

 ホテル・イラリア(イラリア:allegro:陽気なという意味)の朝の食事は、二階の森の見えるテラス席。鳥の鳴き声や風のやわらかなタッチを感じながら、ゆっくりとした朝食となる。しあわせな時間でもある。

 

 晴らしいルッカ、本当に来てよかったと思わせる小さな町だった。

 

第三章:リグーリア( 1 / 6 )

22.五つの孤島:チンクエテッレ

 リグーリアの海岸線、リヴィエラは長い。

 日本ではなぜかリヴィエラは、フランスのコート・ダジュールと混同されているようだが、実はイタリアにある。 

 リグーリア州の海岸線、リヴィエラは、西はモナコと接し、ジェノバで南下して、ポルトフィーノ、チンクエテッレと続き、ポルトヴェネレを過ぎてラスペチアで終わる。その先はトスカーナ州だ。

 

 ジェノバからの東海岸は、あまり知られていないけれど、美しい小さな港と、小さな町が僕を魅了してやまない。静かで、西リヴィエラの喧騒がないからだろう。

 

 この海岸線で、僕を一番虜にしたのはポルトフィーノ。しかし、今回のトスカーナの旅では、リヴィエラではチンクエテッレとなった。ここには、チンクエテッレの他にポルトヴェネレやラスペチアがあるからだ。ルッカからアウトストラーダを走って、1時間弱。途中、ヴィアレッジョの名前も見えるけれど、カーニバル以外の時期には何もないと聞いていたのでパス。

 

 宿は、ラスペチアに取った。旅行者は、小旅行でチンクエテッレにも行けるし、ポルトヴェネレもすぐそこ。さらに、ラスペチアはリグーリア州の中では、ジェノバに次ぐ大きな町だから、イタリア人の生の日常生活がある。実は、ここで楽しい体験が待っていたのだが、それは後で話すことにしよう。

 

 チンクエテッレは、五つの土地と言う意味だが、実はイタリア人に言わせると、リグーリアの「陸の孤島:五つ」という意味なのだそうだ。今は鉄道がこの五つの町に停まるようになったけれど、その前は、全く陸からのアクセスはできなくて、海からのアクセスしかできなかったという。確かに海に面した陸の孤島、まさしく島なのだ。今では、細い道が鉄道以外にも付いたようだけれど…。

 

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 ローカル線でヴェルナッチャに向けて出発。ここは、前にも来たことがあるので、半日もあれば楽しめるのを知っていたのでここを選んだ。ヴェルナッチャは、チンクエテッレの中でも一番古くからの町のようで、11世紀くらいから記述のある集落。窓のひどく汚れたイタリア国鉄の客車を降りて駅をでると、もう磯の匂いがする小さな入り江に立つ町だ。

 

 6月の日差しが暑いくらいだ。こんなに熱くなるとは思っていなかった今回のトスカーナの旅。完全に服装の予定は裏切られていた。30℃以上なんてどこにも書いていなかった。平均気温15~20℃と、一番過ごしやすいはずなのだが、グローバル・ウオーミングに影響だろうか、やけに暑い日が続くことになった。4週間の間、雨にあったのは半日だけで。ヨーロッパでは、ジュン・ブライドという気候のいい時期だとしても、この乾燥と暑さは全くの異常だ。

 

 チンクエテッレの周辺は、貧しい山と海。日本でも最近人気の、パスト・ジェノヴェーゼは、そんな貧しいリグーリアの象徴。新鮮なバジルの葉と松の実、ニンニクとオリーブオイルがあれば、簡単においしく作れる。僕も作れるくらいだから、とても簡単。こんな食事が意味するように、貧しい過去があったに違いない。産業と言えば、魚とりの漁、険しい山肌を削って作った気の遠くなるような急な段々畑でのブドウ作りくらいしかなかったわけだ。

 

 今はユネスコの世界遺産にも登録されて、ヨーロッパ中から観光客が集まってくる。もう、観光業の村と言っていいだろう。ここではイタリアでは珍しく、魚の料理が金曜日でなくても、いつでも食べられる。薄黄色のワイン、ヴェルナッチャとのマッチングは素晴らしい。勿論、基本のぶどうは、裏の岩山の段々畑で作られるぶどう、ヴェルメンティーノがボデイだ。観光客も、地元の人も、のんびりと時間を楽しんでいる。

 

 帰りは、ポルトヴェネレで乗り換える島めぐりのボートに決めていた。小さな町だから、冷やかしで声をかけた屋台の店で、欲しかった綿100%のひざ下までの短パンを15エウロで買った。これは実質的な自分への土産だ。

 

 パスト・ジェノヴェーゼを地のワインを飲みながら楽しんでいると、修道会の教会の浜では、泳いでいる人もいる。もう真夏の雰囲気だ。暑い日差しが、カステッロとは名ばかりの見張り塔の跡まで続くきつい石段が登る勇気を挫いて、観光客は木陰を、日陰を求めて、建物の影にへばりついている。観光客はみんな、マナローラか、ポルトヴェネレに向かうボートを待っている。

 

 そんな観光客に、地元の電気工事屋さんが観光案内をしている。仕事らしい仕事をしているのは、4人の中の一人だけ。他の3人には、午前中の時間がほとんど観光客とのおしゃべりに過ぎていく。のどかな風景だ。見ている方ものんびりしてくる。人が動き始めるのは、小さな岩場の港にボートが着く時間だけ。あとは、波の音。

 

22.2リオマッジョーレ.jpg

 

 ヴェルナッチャに負けない美しい村、リオマジョーレを過ぎて、ボートは夏の陽を浴びながら、ポルトヴェネレを目指して海の上を飛んでいく。

 

 キャビンに、日本人と思われる小柄なお年寄りが、でかい荷物を持って、一人座っている。陽の当たる甲板を見ると、妻を連れ回す初老の日本人がカメラを構えて、がんばっている。ボートを下りたら日本語だったので、挨拶したら、これからでかい荷物を持って、バルカン半島まで旅するといいう。元気なものだ。

 

ポルトヴェネレで食事をしようと、リストランテに入ったら、店の選択を間違った。カメリエーレがいい加減なのは、当たり前だけれど、中国人だと思って話しかけてきたから、日本人だといったら、アジア系の人はみんな中国人でいいんだときた。ムチャクチャだ。

 

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それに、まずいタコ料理、ふにゃふにゃの柔らかいタコ。塩、胡椒とのオリーブオイルで味を調えようとするけれど、食えたものではなかった。隣の店から取り寄せたコーヒーが一番良くて、感じの悪いリストランテにぶつかったものだとブツブツいいながら、ポルトヴェネレを離れてボートで、ラスペチアに戻ってきた。

 

 前の時は、ポルトヴェネレの印象は良かったので、そのギャップが大きかった。ポルトヴェネレの波止場から河岸を岬の方に向かって、3軒目のDa Iseoは敬遠したほうがいいだろう。

 

第三章:リグーリア( 2 / 6 )

23.ラ スペチア・NHホテルとフィアット500

 

 ラ スペチアのホテルを予約するとき、前に泊まったジョリホテルを希望して探したのだが、残念ながらブッキングのウエブには見当たらない。

 

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 仕方がないから、港に面した四つ星のホテルを探すとNHというまるで、暗号のような名前のホテルに出会った。場所的には前のジョリホテルに近い感じだったから、そこを予約した。アウトスラーダからのアクセスが簡単だし、チンクェテッレからのボートの桟橋にも近いので、そこで妥協した。

 

 ラ・スペチアは、人口13万人の大都市。その理由はイタリアきっての軍港で、イタリア海軍の艦船がいつも停泊しているし、その修理ドックもあるから、人が多いのだ。しかも、若い人も多い。そうすると、子供もいっぱいいる。トスカーナの田舎の観光客ばかりの風景から、こうした日常の生活感があるところに来ると、どこかホッとする。

 

 この街は、美しいポルトヴェネレ(ビーナスの港)にバスやボートで行けるし、チンクェテッレにも電車とボートで行けるから観光客も多い。同時に、市民の日常生活の賑やかさを楽しむことができる街だ。

 

 街に着いたら、まずやることは、スーパーマーケットを探すこと。スーペル・メルカートが見つかれば、うまくて安いワイン、大すきなゴルゴンゾーラ・チーズ、旅で不足がちな野菜(サラダ)と果物、パン、そして水を買えば、夕食を自分の好みで食べられる。ホテルで聞いて、近くにBASKOというスーパーを見つけたから、レストランの高い夕食に毎晩、お世話になることも必要ない。

 

 もともとの予定では、ラ・スペチアでは、チンクェテッレの日も入れて、3泊の予定だったけれど、予想を超える6月の暑さと旅の疲れもあって、リヴィエラ海岸をずっとニースまで走って、サンレモに泊まるという当初の予定を変更。結果としては、ラ・スペチアに5泊することした。ゆっくりできるわけだ。

 

ここからは、直接ミラノに帰るわけだから。フィアット500でミラノまでの250kmを運転する必要もない。ここからはイタリア国鉄で帰ることにした。これが後で問題になるのだけれど、そうとは知らず、ハーツにここで車を返すことにした。

 

運転者として、チビのしかもマニュアル車で、ミラノの混雑した、輻輳した街中、特に速い車の流れのロトンダ(信号のないロータリー)を安全に運転できるかと自問自答したら、やめておいた方がいいというのが答だった。

 

ミラノのロトンダの難しさは、高速で回っている中に素早く入って、何本目通りでロトンダの外に出るかを瞬時に判断しなくてはならない。それに、イタリア人は運転が本当にうまい。でも、その運転をほかの車にも要求するところがある。焦る。

 

イタリアでの、時間の感覚は日本と大きく違う。時間にルーズと言えば、それまでだけれど、それが半端じゃない。フィアット500を返すことにして、ハーツに電話したら、午後は2時半にオフイスが開くから、その時間に返却してくれと言われた。

 

慣れない街で、しかもグーグルの検索ができない環境では、ホテルNHのフロントに聞くしかない。シエナのモデルナと比較すると、フロントはしっかりした地図を描いてくれた。

 

 余裕を待って着こうと、15分かからないところだったのだけれど、20分前にはついてしまった。オフイスはもちろん昼休みで閉まっている。仕方ないので近くのバールで時間待ち。しかも、せっかちな日本人だから、午後一番乗りで、さっさとかたづけたいと思っていたので、オフイスが見える歩道の椅子に腰かけて、バールでコーヒーを飲む。(店の前にオリジナルのフィアット500を発見) 

 

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 しかし、2時半になっても、3時になっても、店が開く気配がない。見ていると、他にも、店が開くのを待っているようなイタリア人の姿が見える。あぁ、彼も開くのを待っているんだなぁと少し安心して待っていた。

 

店が開いたのは、3時半少し前。実に一時間以上も待ったわけだ。しかも遅れて店を開けたのが仏頂面の若い人。ミラノに返す予定だったのを、二日も早めたわけだから、レンタカー代金額を再計算してもらわなくてはならないけれど、そのまま車を受け取ろうとする。再計算した計算書を作ってくれと頼むと、迷惑そう。

 

ねばって、作ってもらったけれど、こちらもかなり不機嫌になる。メルセデスのA160より小気味よく走ってくれた可愛いフィアット500ともここでお別れ。ちょっと淋しくはなったけれど、全くの自由になった気がした。

 

23.1 フィアット500.JPG 

 

ラ スペチアで走る車を見ていると、三輪車があったり、スマートが頑張っていたり、僕の乗っているプジョウも元気。しかも、見慣れない車がたくさん走っている。タクシーがチェコのシュコダだったり、驚いたのは、インドの車が走っていることだ。日本では見かけたことのないタタ(TATA)やマヒンドラ(Mahindra)のトラックが結構走っている。車を見ていて楽しい街だった。NHホテルの窓から見ていても、飽きない、車の流れだった。

 

 

第三章:リグーリア( 3 / 6 )

24.ラ スペチア・ホテルからの眺め

 

サンレモへ行くのをやめたから、ラ スペチアでのんびりする時間ができた。僕の旅は一か所に3~4泊だから、どちらかと言えば、ゆっくりしたものなのだが、やはり、そのサイクルで棲家(?)を変えるのは心によくないようだ。どこか焦燥感と緊張感が湧いてくるから不思議なものだ。あれもこれもと、ガツガツ、見てはいないのだけれど…。

 

ミラノ以来、ここにきて、やっと自分が周りを見回す余裕ができた。

 

ラ スペチアは、それまでのトスカーナの町たちとは違っている。まず、町の中に、緑があるということ。

 

 

 

丘の上のトスカーナの町たちは、その立地から、いくら頑張っても丘の上の城壁に緑を植えるくらいしか、町には緑は無い。それは僕の知る限り、トスカーナの町、フィレンツエ、シエナ、サンジミニアーノ、ヴォルテッラ、そして平たいところにあるルッカだって、町の城壁の中には緑は少ない。

 

それは、昔から独立国家として、防衛しやすい丘の上で暮らし、狭い土地のぐるりを城壁で守って街を営んできたのだから無理もない。イタリアの心臓と言われる、緑の多いウンブリアのペルージア、オルビエート、アッシジにしても同じことが言える。ウンブリアは周りは緑が多いのに、町になると石の塊に見えてくる。

 

まぁ、そう言えば、公園の多いミラノを例外として、トリノ、ヴェネチア、ローマ、ペルージア、ナポリ、ジェノバだって、旧市街には緑は無い。

 

 

 

そういう目で見てみると、ラ スペチアは、街中に緑が多い。小さな町にしては、海岸通りのイタリア通りは緑の塊だし、駅に向かう下町のすぐ側にも大きな緑がある。ジュゼッペ・ヴェルディ広場の歩道には、オレンジが街路樹として植えられていたりする。人は、緑を見るとホッとするわけだ。

 

 スペチアx2.png

 

まぁ、こんなところにも目が行くのも、ゆとりのせいだろう。

 

そんなふうに見ていると、ある日、窓の外の地中海の光景が、意味を持って見えてきた。それは、単なるラ スペチアの港の風景というものではなかった。 

 

 

この写真で、みなさんは、何が読み取れるだろうか?

 

いつものおだやかなリグーリアの港だ。しかし、クルーズ中の大型客船が、この港に入ってきたのが、その発見のきっかけだった。

 

大きな客船だなぁ、どこから来たのかなぁ、どんな人が乗っているのかなぁ、結構、金がかかるだろうなぁ、なんて思っていたら。目が開いた。

 

全く別の世界が見えてきたのだ。それは、大理石の取れるフェラーラの美しい山並みの発見でもなく、もっと、もっと、人間くさい眺めだった。

 

24.3金持ちと貧乏人.JPG

 

この写真のどこかに、大金持ちがいる、まぁ金持がいる、小金もちがいる、貧乏人がいる、そして普通の人がいるって見えてきたのだ。大型客船が入ってこなかったら、全く気がつかなかっただろうと思う。

 

大西洋だって渡って来られる大型クルーザーのオーナーは、この景色の中で一番の金持ちだろう。たとえば、クルーザーの船長以下、機関士、コックさんなどを含めて、乗組員は20名ぐらいいるとする。油代とか、停泊料とか、メインテナンスの費用を考えたら、この外洋大型クルーザーを維持するだけで、一年間に10億くらいの金が必要だろう。すると、持ち主は、少なくとも50億くらいの年収が必要だ。

 

次に金持ちはとみると、外洋クルーザーが見える。外洋ヨットも見える。これだって、一年間の維持費は、1億はかかるだろう。収入は10億単位かなぁ。

 

次は、よく分からないけど、小型のヨットとか、クルーザーのオーナーかもしれない。もしかすると、大型客船で、クルージングしている船客たちかもしれない。一過性の料金だけれど、二人で一航海、最低でも400万円くらいはするだろう。すると、まあ昔でいう百万長者だろう。

 

僕みたいな普通の人は、チンクエテッレ観光の乗り合いボートに乗って楽しんでいるクラスだろう。もしくは、このラ スエチアのパッセジャータの遊歩道をのんびり、ジェラートでもなめながら歩いている人たちだろう。

 

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もう少し、貧乏な人は、このイタリア通りの赤信号で止まった車に寄ってきて、金をせびるか、無理矢理、車の窓ガラスを洗って、金をくれとせまる人たちかもしれない。

 

こんなことが、フッと、NHホテルの窓から眺めから湧いてきた。旅の発見だった。

 

徳山てつんど
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