トムと波止場の大砲

 祖父のナッター老は矢のように真っ直ぐで頭の光った、陽気でかくしゃくとした老紳士だった。
 若いころは船員だったという。
 十歳のとき、彼はかけ算九九の表に怖れをなして逃げ出し、そのまま海へと出てしまったのだ。
 このたった一度の航海は祖父を満足させた。彼が海に逃げ出していなかったら、ぼくたちの家族のだれかは存在しておらず、血筋のどれかは絶えていたはずだ。
 祖父は一八一二年には民兵軍のキャプテンだった。米英戦争——別名、第二次独立戦争——のときだ。
 もし、ぼくが英国民になにか借りがあるとするならば、祖父の足をマスケット銃で狙撃した、どこかの英国兵にだ。彼には心からの感謝を述べたい。
 立派な戦士だったキャプテン・ナッターが足をわずかに引きずらせる理由となったその銃弾は、肉体の損傷と引き換えに、この話を語る祖父も聞くぼくをも飽きさせないマテリアルになったからだ。

 話というのはこうである。

 米英戦争が起こったとき、リバーマスの沖に英国のフリゲート艦が数日間停泊していた。港の堅固なとりでと民兵の連隊は海岸沿いにそれぞれ点在していて、上陸を試みる敵艦を撃退する準備はできていた。
 キャプテン・ナッターは河口そばに築いた小さな稜堡りようほで待機していた。ある夜おそく、オールをこぐ音が聞こえた。
 歩哨ほしようがあわててハーフコックのまま銃の引き金を引き射撃に失敗すると、キャプテン・ナッターは、まっ暗闇の中、バリケードをこえて敵へ飛びかかり、叫んだのだ。
うぉぉぉおおおいっ!ボートだぁぁぁぁあああああーっ!!
直後にマスケット銃の銃声が響き、キャプテン・ナッターのふくらはぎに銃弾が撃ち込まれた。
 キャプテン・ナッターがボートから転げ落ち、のたうちまわって砦へ戻ったとき、おそらく飲み水を汲みにやってきたボートは艦へと戻っていった。

 これが米英戦争における、祖父の唯一の手柄だ。祖父の迅速かつ大胆な行動は、この国を武力で征服するのは難しいことを敵国に思い知らせたことだろうと、少年時代のぼくは強い信念でそう思った。

 ぼくがリバーマスへ来たときには、祖父はすでに楽隠居しており、主に海運業者に投資した株式の配当で楽に暮らしていた。
 ぼくの祖母はぼくが生まれる前に亡くなっており、何年ものあいだ、祖父は独身だった。それで、前述した未婚の妹であるミス・アビゲイルが、この家をきりもりしていた。
 アビゲイルさんは君臨者としてではなく、みなのためへの奉仕者として、兄と、兄の使用人と、兄への訪問客を管理した。
 彼女は背が高く、やせて骨張っており、顔色は灰色に近く、灰色の目に灰色の眉をしていて、いつも灰色の服を着ていた。
 そして彼女の最強の弱点は、『ホット・ドロップス』が万病に効くと信じている点だった。
 きみは『ホット・ドロップス』が何か知らないだろうから、説明しよう。それはドロップスと言っても、甘くておいしいキャンデーからはほど遠いシロモノだ。『ホット・ドロップス』とは様々なハーブや「体に良いと信じられているもの」を漬け込んだ一種の薬酒だ。アルコール度数は高く、クロロホルムのように今では人体に有毒と考えられる成分まで含まれていた。これをスプーンでひとなめするのだけど、味のひどさといったら、これをなめるくらいなら病気になった方がマシというシロモノだった。

 この家に憎しみ合ってるようにしか見えない二人がいたとすれば、それはミス・アビゲイルとキッティー・コリンズだ。
 また、この家に親愛の情で結ばれている二人がいたとすれば、それもミス・アビゲイルとキッティー・コリンズだった。
 二人はいつも小競り合いをするか、仲良くいっしょにお茶をしていた。

 アビゲイルさんはぼくに優しかったし、キッティーもそうだった。そして、当然の成り行きとして、二人が小競り合いをしたとき、ぼくは二人が相手の秘密を暴露するのを聞かされることになった。

 キッティーによれば、アビゲイルさんがこの家の家事をとりしきっているというのは、もともとは祖父の意図しないことだったという。
 祖父は、片手に紙袋を持ち、もう一方の手に色あせた青い綿布の傘(こちらはまだ現存している)を持ったミス・アビゲイルに、襲撃された(キッティーによる、キッティーらしい表現)のだという。
 祖母の葬式の朝にナッター家の玄関の前でミス・アビゲイルが披露した(キッティーのほのめかすように語った)奇妙ないでたちをぼくが知るよしはない。
 ミス・アビゲイルの手荷物が少なかったので、この皮肉屋の観察者は滞在は数日間だろうと考えた。そのときからずっと後、ぼくがこの物語に現れたときまで、キッティー曰く「それから十七年間」アビゲイルさんは滞在しつづけたのである。
 アビゲイルさんは現在、すでに人生を満了してしまったので、どのくらいの滞在予定か、いまとなって知ることができなくなってしまった。
 はたして、祖父がこの思いがけない家族の追加を歓迎していたかどうか。ナッター老はいつもミス・アビゲイルに優しく、めったに彼女に反対することはなかった。
 アビゲイルさんはときどき祖父の忍耐力を試していたのではないかとすら思う。キッティーに関する余計な干渉は、特にその最たるものだったにちがいない。

 キッティー・コリンズ(ミセス・キャサリンと呼ばれるより、こちらの方を好んだ)は、かつてアイルランドを統治した王の一族の子孫だ。
 様々な不幸な成り行きの結果、王の血を引く数百名の女性が働く彼女の会社は年間千八百名もの従業員を移民船でアメリカにやっかいばらいしており、キッティーもリストラされた一人だった。ジャガイモの不作でも、とがめられたのだろう。(※訳注 ジャガイモに伝染する疫病と政府の無策によってアイルランドの人口が二百万人以上減少したジャガイモ飢饉を指している
 この追放されたすばらしい王族は、いかなる運命のいたずらかきまぐれか、リバーマスへとやってきた。キッティーがこの国へ来てから数ヵ月後、彼女は週4シリング6ペンスの給料で家事手伝いとしてぼくの祖母に雇われたのだった。
 キッティーは当初、自分の出自を秘密にしてて、それはいつも彼女の心の圧迫していた。それを告白して重荷から解放されたのは、ナッター家の住人となって七年後のことだった。

 人間はときに、
「過去をもたない者は幸せである」
と言われるかもしれない。あるいは、その言葉はどこかの新参の国家に向けても言われるだろう。

 キッティーは過去を持っていた。それも、哀しい過去を。

 アメリカへの移民船の中で、キッティーはある水夫と知り合った。キッティーの身の上を知ったその水夫は、なにかと世話を焼いてくれ、船旅の終わりごろにはキッティーはそのボディガードから離れられなくなっていた。
 船旅は退屈であり、また若いひとり身の女性にとって危険なものでもあったからだ。そして、二人は離れなかった。キッティーの愛情に水夫は応え、二人は到着するやいなや港で結婚した。
 キッティーは、その夫の名前について決して語ろうとしなかった。その水夫と別れたとき、価値ある遺跡に大量の財宝を隠すように、キッティーはその名前を胸中に秘めたのだった。
 キッティーが結婚した若かりしころ、夫婦は南通りの下宿で、とても幸せに暮らしていた。その下宿はニューヨークのドックの近くにあった。
 幸せな若い二人にとって、数日は数時間のように過ぎていった。そして小さな花嫁がストッキング(節約)しても、貯金は少しずつ削られていき、とうとう残金が3ドルから4ドル……ストッキングは爪先だけになってしまった。
 キッティーは悩んだ。夫が港で就職できないのなら、再び水夫になって長い航海に行くしかなかったからだ。これは結婚したばかりの二人には辛い選択肢だった。しかし、なかなかおかでの仕事は見つからなかった。
 ある朝、夫は「おはよう(グッド・デイ)」のキスをすると、仕事を探しに出かけていった。

「いってらっしゃい(グッドバイ)のキスをしてよ、ぼくのかわいいアイリッシュ娘さん……って、あの人は言ったわ」
とキッティーはすすり泣きながら話した。
「おかげで、最後にさようなら(グッドバイ)を言うことができたのよ……神様にお礼を言わなくちゃね。あたしがあの人やあの人の仲間を怒鳴らずにすむようにしてくれたんだもの」

 キッティーの夫は戻ってこなかった。一日一日、一夜一夜と、何の進展も無い数週間が過ぎた。
 いったい、彼に何が起こったのだろうか?殺されたのか?ドックに落ちて死んだのか?キッティーを捨てて逃げたのか?
 ——いや。
 キッティーはそれだけはないと確信していた。彼は勇敢で思いやりのある誠実な人間だったと。仮にキッティーと別れるとしても、だまって出て行くような人間ではなかったと。何らかの理由で夫は死んだ——もし生きていれば、かならず戻ってくるはずだから。
 キッティーはそう、信じていた。

 一方、キッティーの夫がいなくなったのを知り、家賃の支払いが滞るだろうと考えた下宿の主人は、キッティーを追い出してしまった。
 八方手をつくしてキッティーは勤め先を探し、彼女を
「しようがない、使用人にしよう」
と言って雇ってくれる御仁を見つけた。
 キッティーを雇った家族はまもなくボストンへ移ったので、キッティーもそれに同伴した。
 ほどなくその一家は外国へと引っ越していったが、キッティーはアメリカを離れず、リバーマスへと流れ着いたのだった。
 それから七年のあいだ、キッティーはいつも明るくふるまい、決してこの哀しい話をしなかった。
 彼女の友人となった紙袋と青い傘を持った奇妙な訪問者のおせっかいが、彼女の唇を開くまで。

 キッティーの話から、祖父とミス・アビゲイルが彼女に対してより親身になったのが、きみにもわかるだろう。
 その日から彼女は単なる使用人ではなくなった。彼女は、その負い目にへこたれない強い心をもった誠実な家政婦、自発的な奉仕者、喜びも悲しみもわかちあうナッター家の友人と見なされるようになった。
 キッティーは台所で歌いながら仕事しているとき、アビゲイルさんへの返答にしばしば歌を止めて、ウィットにあふれる返事をしていた。
 おそらく彼女の心には無意識下に複雑なレース編みのようなユーモアの静脈があったのだと思う。彼女の明るいまっすぐな笑顔は、リバーマス、そしてナッター・ハウスでぼくの少年時代から現在までを照らしている。

 新しい家でのぼくにかかった最初の影は、両親のニューオーリンズへの帰還だった。ナチェズにあった父の銀行の支店で父が必要になり、滞在は予定より早くが切り上げられることになったからだ。
 父母が去ったとき、いままで想像したこともなかったような孤独感で、少年だったぼくの心ははりさけそうになった。
 ぼくはコソコソと厩舎へ行くと、ジプシーの首に腕を回して声を出してすすり泣いた。ジプシーもまた、いまや暖かい南部から見知らぬ土地へ来た、よそ者だった。
 ジプシーは、その柔らかい鼻をぼくの顔に何度もこすりつけ、しょっぱい涙を舌で拭き取ってくれた。彼女はぼくたちの置かれた情況を理解していて、ぼくが求める限りの共感を与えてくれているように思えた。

 夜が来ると、昼にもまして寂しさがこみあげてきた。ナッター老はだいたい、夜になると肘掛椅子に座ってリバーマス・バーナクル紙(ようするに地方新聞だ)を読んでいた。
 そのころ、家にはガスが来てなかったので、キャプテン・ナッターどのは小さいすずがねのオイルランプを片手に持って読みふけっておられた。
 ぼくは「ナッター老は夜、新聞を読んでいるとき三分か四分おきに居眠りする」という習性を発見し、それを観測しているうちに、ようやくホームシックを忘れることができたのだった。
 二回か三回、ランプの炎で新聞の端っこを焦がしてしまったときには、とくに大笑いした。夜の八時半を過ぎたころ、燃え上がるリバーマス・バーナクル紙の炎とともに言い訳をする祖父に大喜びしてしまったことを少々、申しわけなく思う。
 ナッター老は、あわてずさわがず、すみやかに炎を素手でもみ消した。近くに座って星型のランプの光で編み物をしていたアビゲイルさんは、見向きもしなかった。
 もう、このカタストロフィーには慣れっこだったのだ。

 その晩には会話らしい会話はなかったように思う。実際、ぼくはだれかが会話したかどうかさえ覚えていない。
 ひとつだけを除いて。
 ナッター老はひとこと、ぼくの両親が
「そろそろニューヨークについたころだな」
と半分眠りながら言ったのだ。
 このとき、ぼくはすすり泣きをこらえている自分自身を絞め殺しそうになってしまった。

 会話が無い中、アビゲイルさんの編み棒のカチリコチリという単調な音のみが部屋に響き、ぼくはさらにナーバスになった。最終的には、ぼくは居間からキッチンへと逃げ出してしまった。台所ではキッティーが
「アビゲイルさんに言えば『ホームシックにはホットドロップスが効く』と言って飲ませようとしたでしょうに」
と言って、ぼくを笑わせてくれた。
 アビゲイルさんはあらゆる非常時に際してすぐにホットドロップスで治療する準備ができていた。もしどこかの少年が足を折ったとか、母親を失ったとかする。アビゲイルさんはそういうとき、確実にホットドロップスを処方するのだ、間違いなく。

 キッティーは、ぼくを楽しませようと彼女の見知った話を展開した。いくつかのおかしなアイルランドの話、町に住んでる風変わりな人々といった話だった。
 しかし、そのおかしい話の中、ぼくは不本意にも涙をにじませてしまった。ぼくは、決して泣き虫ではなかったはずなのに。
 キッティーはぼくを抱きしめると、
「気にしない、気にしない。どこかのだれかのように、異国で一人ぼっちになった貧しい少女というわけじゃあるまいし」
と言った。
 しばらくしてぼくは元気を取り戻して、キッティーにタイフーン号の話や、タイフーン号にいた老いた船乗りの話をした。(そのとき、セイラー・ベンの名前はもう、記憶のはっきりした場所のずっと後ろに追いやられており、ぼくは思い出そうとして空しい努力をしてしまった)

 午後十時が来て、ぼくは心の中で喜んだ。この時刻こそ若者にとっても年寄りにとっても、ナッター・ハウスでの就寝時刻だった。
 ぼくは広い部屋で一人、これを最後にしようと、声を上げて泣いて枕をぬらした。そして、まだ涙でベッドが濡れてない部分へと寝返りを打って眠った。

 もし、ぼくが家と厩舎でだらだら過ごすのを許可されたら、ぼくはホームシックを何ヶ月も続けていただろう。
 賢明なことにナッター老は、ぼくを学校へ通わせるべきだという結論を下した(そもそも、そのために北部へ来たのだった)。
 したがって、翌朝、ナッター老はぼくの手を引いて学校へと出発した。学校はナッター・ハウスからだいぶ離れた、町外れにあった。

 テンプル文法グラマー学校スクールは大きな正方形の一区画の中央にあった。文法学校という名前がついているが文法の専門学校というわけじゃない。数学も社会も教えるごく普通の学校だ。リバーマス市の北側に住む十八歳までの男子が通う学校だった。二階建てのレンガの建物で、高くとがった杭のフェンスで囲まれていた。周辺は三本か四本の枯れかけた木があったほかはどんな草も生えてなく、つるつるしていて長い時間そこを歩くのは難しそうだった。
 ぼくは地面のあちこちに小さな穴があるのに気がついた。いうまでもなく、それは今、この学校でビー玉遊びが流行っていることの証拠だった。ここを良い野球場にするための工夫は存在していなかった。

 校門に着くと、キャプテン・ナッターどのはグリムショウ校長先生に面会を求めた。ノックに応じた少年が別室へと案内し、数分間、ぼくの目はグリムショウ先生が示した四十二個の帽子掛けにかけられた四十二個の帽子を数えるのにかかりきりになった。

グリムショウ先生は痩せてて色白で、病弱そうな手をしていた。そして、職業柄、身についた習慣であろう六種類ほどの異なる見かたでぼくをいちべつした。
 少しの話し合いのあと、ナッター老はぼくの頭をポンポンとたたくと、ぼくの正面に座って面接を行なってるグリムショウ先生に後のことをまかせて、ぼくを置き去りにして帰ってしまった。
 グリムショウ先生はぼくの知識レベルの深さを(もしくは浅さを)計ろうとして、いくつか質問をした。
 とくに歴史の知識ではグリムショウ先生を驚かしたのではないかと思う。ぼくは、グリムショウ先生に、リチャード三世がイングランドの最後の国王だと教えてさしあげたときのことを今でも思い出す。まったく、リチャード三世が最後の国王だとしたら、そのときのぼくはヴィクトリア女王をなんだと思っていたのだろう?(※訳注 リチャード三世は薔薇戦争の最後にボーズワースの戦いで敗れたイングランド王。戦死した最後のイングランド王でもあるが、イングランド最後の王ではない

 試練は終わり、グリムショウ先生は
「ついて来なさい」
と言った。教室のドアが開くと、ぼくは四十二組の視線の炎の中に立ち尽くすことになった。
 ぼくは年齢のわりには落ち着いたほうだったのだけど、ひるむことなくこの一群に対峙する大胆さには欠けていた。すこしぼうっとしながらグリムショウ先生の後について、低い二つの机にはさまれた狭い通路をよろよろ歩き、ぼくは恥かしそうに示された席へと着いた。
 ぼくの訪問によって生じた教室のざわめきは次第に静かになり、中断されていた授業が再開された。だんだん冷静さを取り戻したぼくは、そっと周囲を見回してみた。

 四十二個の帽子の持ち主は、ぼくと同様、それぞれ割り当てられた緑色の机に着席していた。机と机は、ちょうど少年たちが、ささやき声で会話するのを防げる程度に間隔があけて、六列に配置されており、教室の黒板は端から端まで達していた。
 ドアの近くに教壇があり、その上に教卓があった。そして教壇には一度に十五人から二十人の生徒が着席できる暗唱用のベンチもあった。ドラゴンとペガサスが彫られた二つ球のランプが窓と窓の間を占領してて、窓はキリンだけしか外を見られないってくらいに高い位置についていた。
 これらのディテールに関して思考しながら、好奇心を隠そうともせず、直感的に自分の友人や敵を選んで精査した。この直感による選択では二人だけ、その選別を間違えた。

 四列目に座っていた赤毛の土気色した少年は、午前中の授業のあいだ、こっそりなんども拳をぼくにむかって振り回すしぐさを見せた。ぼくはいずれ彼とはトラブルになるだろうと予感し、それはのちに現実となった。

 ぼくの左には、でぶでちびで、顔に胡椒ペツパーをまきちらしたような、すさまじいそばかすがある少年がいた。これがペッパー・ホイットコムだ。彼はぼくにミステリアスなしぐさををしてみせた。
 ぼくはそのジェスチャーの意味がわからなかったけど、平和的性質のものであるらしいのは明白だったので、ウインクで応じた。この対応に満足したらしく、彼はよそ見をやめて授業に向き直った。
 こののち、休み時間には、ぼくのところに何人かが青田買いにやってきたが、このときペッパー・ホイットコムがぼくにくれたのは食べ終えたりんごの芯だった。

 授業中の話に戻ろう。ほどなく、二列の真鍮ボタンをつけたオリーブ色のジャケットの少年が、自分用の小さな黒板の裏から折りたたまれた紙を取り出した。
 それが、ぼくのために用意したものであることをほのめかしつつ。
 その紙折りは机から机へと巧みにリレーされ、ぼくのところまで届けられた。紙折りをひらくと、中にはベトベトに湿った小さなキャンディーのカケラがたくさん入っていた。

 まぁ、歓迎のプレゼントにはちがいない。

 ぼくは、彼の意図を汲み取ったことをうなずきで示すと、その心づかいをすばやく口に滑り込ませた。瞬間、ぼくの舌はトウガラシによって炎上した。

 ぼくの顔は、よっぽどコミカルな表現に包まれていたらしい。オリーブ色のジャケットの少年はヒステリックに笑い転げ、ただちにグリムショウ先生から罰せられることになった。
 ぼくは涙とにじませながら激辛キャンデーを飲み込むと、平然を装い、マーデンがなにをしでかしたのかという追求をはぐらかす生徒の一人と化した。
 チャーリー・マーデン、それが彼の名前だった。

 ほかには、午前中の授業を中断するようなことは起きなかった。
 ただし、ある生徒が国語の授業中、旧約聖書のイスラエル王ダビデの子「アブサロム」を「あさぶろむ」と読み間違え、
「あさぶろむ!嗚呼、我が息子、あさぶろむ!」
とやったときには、クラス中の生徒が腹筋を崩壊させた。
 ぼくもみんなと同じように大笑いしたけど、そうするべきではなかったのかもしれない。実は絶対に「あさぶろむ」じゃないと確信できてはいなかったからだ。

 休み時間になると何人かの生徒がぼくの机に集まってきた。彼らはフィル・アダムズ(グリムショウ先生が前もってぼくに紹介してくれていた)を通じて友好的にぼくと握手をした。
 ぼくの新しい知人たちは運動場へ行こうと提案した。ぼくたちがドアの外へと飛び出したとき、赤毛の少年がクラスメイトをかきわけて進んでぼくの横にやってきた。
「言っておくぞ、新入り。この学校へ入りたいんだったら、なにごともこのオレに『ほう・れん・そう』しなきゃならねぇんだ。忘れるなよ」
 ぼくは彼の言っていることの意味がわからなかったけど、それがこの学校の慣習であり、それがぼくのためになると彼が言ってくれているのだから、ていねいに返事をした。
「意味がわからない」
「ナメたこと言ってんじゃねーっ!」 
赤毛は顔をゆがませた。

「周りをよく見ることだな!コンウェイ!」
運動場の端から澄んだ声の叱咤しつたがあった。
「ベイリー君を孤立させてどうする気だ?彼はこの土地へ来たばかりだ。コンウェイ、お前を怖れているかもしれないし、怖れて殴りかかるかもしれない。なんだって、自分から殴られようとするのだ?」
 声のした方をふりかえると、声の主は、すでにぼくたちの近くまで走ってきていた。コンウェイはべつ色のしかめっ面をぼくに投げるとコソコソと去っていった。
 ぼくは、ぼくを助けてくれた少年に感謝の握手をした。彼の名はジャック・ハリスと言った。

「予言しておこう、ベイリー君」
と握手を返しながらジャック・ハリスはおだやかに言った。
「三ヶ月のうちに、もしくは冬休みが来るまでに、きみはコンウェイと戦うことになる。ヤツはいつも暴力に飢えているのだ。いずれきみにもわかるだろう。だが、不愉快な作戦を急ぐこともない。今はいっしょに野球でもやろう。
 ……ああ、ところでベイリー君、アメの件でのきみのグリムショウ先生への対応は申し分なかった。もしきみが正直に話していたら、チャーリー・マーデンへの罰は二倍になってたところだった。チャーリーは私に、すまなかったときみに伝えてくれと言っていたよ。

 ……おーい、ブレイク!バットはどこだ?」

 ブレイクと呼ばれた、ぼくと同い年くらいのハンサムな少年は、校舎のわきの木の皮に彼のイニシャルを刻んでいるところだった。ブレイクはペンナイフをしまうと、バットを探しに駆けて行った。

 それからぼくは新しい友人たちと野球をして遊んだ。その友人たちとは、チャーリー・マーデン、ビニー・ウォーレス、ペッパー・ホイットコム、ハリー・ブレイク、そしてフレッド・ラングドンといった面々だ。
彼らの中にも、のちにぼくの選ばれし親友となった者の中にも、ぼくより二つ以上年上の人間はいなかった(ビニー・ウォーレスにいたってはぼくより年下だった)。
 フィル・アダムズとジャック・ハリスはぼくたちの上級生だったので、ぼくらにたいして非常に親切に「子供」扱いしており、たいていは別のグループとともにいた。
 もちろん、まもなくぼくはテンプル文法学校の全少年を親密に、あるいはほどほどに知ったのだけれども、この五名が、ぼくのふだんの遊び仲間となった。

 テンプル文法学校での初日はこんなもので、ぼくはおおむね満足した。ぼくは数人の親友を作り、コンウェイと彼の舎弟のセス・ロジャースを恒久的な敵だと認定した。この二人はまるで吐き気と頭痛のようにいつもセットになっていた。

 週末の前には、ぼくは授業についていけるようになった。そうなると、ぼくは自分がたいていの授業で下位にいることに気づいてちょっと恥かしくなり、ひそかに猛勉強を決意したのだった。
 学校は賞賛に値するものだった。やろうと思えば、ぼくは物語のこの部分を、よりおもしろおかしく誇張できる。
 グリムショウ先生を赤い鼻と巨大な指示棒を持った暴君にしたっていい。が、実際のグリムショウ先生は、そのセンセーショナルな目的には似合わない、静かで親切な紳士だった。しつけには厳しい、お堅い人ではあったが、正義感の強い人でもあった。
 つまり、素晴らしい教師であり、少年らはみな彼を尊敬していた。
 学校には他に、週に二度やってくるフランス語の先生と習字の先生もいた。毎週、水曜と土曜は午前中だけの授業で終わり、ぼくたちは正午には解放された。この週二回の半休日は、ぼくの歴史におけるもっとも明るい黄金時代だった。

 ぼくと同程度に、おしとやかには育てられなかった少年たちと毎日つきあうようになって、即座にいくつかの点で、ぼくの性格に改善があった。
 ことわざの中にはナンセンスなものがいくつか見つかるように、ぼくも自分の性格からナンセンスな部分を発見して修正したのだ。
 ぼくは、より男らしく独立独歩になった。世界は甘くはできてないことを発見したのだ。
 ニューオーリンズでは、ぼくは世界がそうであるという確信を持てずにいた。家にはぼくをギブアップさせる兄も姉もおらず、学校ではぼくが一番、年長の生徒だったので、自分の意思が反対されるということはめったになかったからだ。
 だが、リバーマスではそうはいかなかった。変化した情況に適合するのにそれほど長くはかからなかった。もちろん、ぼくは無意識に発せられた厳しい摩擦をたくさんくらった。
 しかし、ぼくには自分がその摩擦によって、ますますうまく適合していけるのだという感覚があった。

 ぼくの新しい学友たちとの交友は、考えうる最高にすばらしいものだった。そこにはいつもエキサイティングな冒険があった。
 徒歩で松林を抜け、デビルズ・パピット(悪魔の演壇)と呼ばれる断崖絶壁や、川の上の秘密の小島を訪れた。小さな島々への探検に行き、そこでテントを張り、何年も前にスペイン人の船乗りたちが難破した場所で遊んだ。町を取り囲む無限の松林は、とりわけぼくたちが何度も遊びに行った場所だった。
 水底になにかが隠されてそうな、すさまじい数のカメが生息している大きな緑色の沼。ハリー・ブレイクはあらゆるものに自分のイニシャルを彫ることに異常な情熱を燃やす少年だった。彼は捕まえたカメというカメの甲羅に自分のイニシャルを掘り込んだ。「H.B」のイニシャル入りのカメは二千匹はいたはずだ。
 ぼくたちはよく、そのカメを「ハリー・ブレイクの羊」と呼んでいた。
 これらのカメは住み慣れた土地に不満でもあるのか、移住性を持っていた。つまり、ぼくたちはカメたちの住む先祖代々の泥から数マイル離れた交差点で何度も放浪中のカメの二匹や三匹に遭遇したのだ。カメの中に「H」と彫られたものがいるのを発見したときのぼくらの喜びようは、言うまでもない。うたがいようもなく、この太った古代のカメはハリー・ブレイクによって手際よく甲羅に彫りつけられたあと、ベタベタした森林地帯からここまでやってきたのが明白だった。

 ナッター・ハウスの納屋をぼくたちの待ち合わせ場所にするのは、すぐにぼくらの習慣となった。ジプシーは自分が魅力的であることを立証した。
 キャプテン・ナッターどのは小さめの荷車をぼくに買ってくれ、ジプシーは上手にそれを引いた。……もっとも、ぼくを蹴り飛ばして車軸を二回か三回、壊したあとで、だ。
 ぼくらはよく、お弁当や釣具箱を座席の下に入れて午後の早い時間に海岸へと出発した。そこには貝や藻や海草といった目を見張る様々なものたちが無数に転がっていた。ジプシーはぼくたちと同じくらい熱心にスポーツを楽しみ、遠くまで行こうとした。
 あるときは海岸を駆け下りて、ぼくたちの泳いでいた海の中に小走りで入ってきたほどだ。
 ジプシーがいっしょにカートを連れてきたことによって、ぼくたちの食料が美味しくなったということはなかった。ぼくは、太西洋風味のかぼちゃパイの味を決して忘れないだろう。塩水に浸されたクラッカーはなかなか悪くなかった。だが、かぼちゃパイ、あれはだめだ。

「今日はなにする?」
と、ある陰気な雨の降る土曜の午後に、ぼくは納屋で開かれた秘密の七者会議でたずねた。
「そうだ!劇をやろう!」
と提案したのはビニー・ウォーレスだった。

 それはいい考えだ!でも……どこでやろう?
 厩舎の二階はジプシーのための干草でいっぱいだったけど、車庫の二階の長い部屋は幸いにして使われていなかった。
 うってつけの場所だ!——ぼくの経営者の目はこの部屋の劇場の資質を即座に見出した。劇なら、ぼくはニューオーリンズにいたとき何度かやっていたから多少ドラマについての知識があった。
 そんなわけで、どうにかこうにか、この車庫の二階の長部屋にぼくが自ら描いた即席の背景絵がかざられた。舞台幕は、ぼくの記憶ではたしか、別の場所でちゃんと使われていたものを劇をやるときだけいつも拝借していた。
 舞台幕はしばしば心優しきオフィーリア(胸元の開いたドレスを着たペッパー・ホイットコム)用の特別なベルトにからまって落ちてしまい、デンマークの王子と王様と墓守りが協力して、これを引き上げたものだった。

 多少のトラブルはあったものの、ぼくたちの劇場は大成功だった。
 ぼくらの「リバーマス劇場」は入場料としてお金の代わりに待ち針二十本を徴収した。ぼくはこのビジネスから手を引かざるをえなくなったときには、この待ち針が一五〇〇本に届く寸前だった。むろん、ぼくらの門番がしばしば「待ち棒」と呼んだ、頭が欠けてたり、折れてたり、曲がったりしたものを除いての数だ。
 リバーマス劇場は誕生から終焉しゆうえんまで、この偽金をすさまじく稼ぎつづけた。俳優としてのぼくは、劇の主役や重要な役を演じることが多かった。他のメンバーにくらべて演技がすぐれていたからではない。舞台の提供者だったので優遇されたというだけのことである。

 十回目の公演での不幸な事故。これがぼくの俳優人生を終了させた。ぼくたちは『ウィリアム・テル——スイスの英雄——』というドラマを演じていた。
 テルをやりたがったのはフレッド・ラングドンだったにも関わらず、主演はぼくだった。主演を外されたフレッドは、ひとつしかなかった小道具の弓を奪って退団してしまった。
 ぼくは一本のクジラのヒゲから即席のクロスボウを作り、舞台はひとまず順調に進んだ。
 舞台はゲスラー(オーストリアの暴君)がテルに向かって、彼の息子の頭の上のりんごを撃てと命令する、例の面白い場面にさしかかった。
 ペッパー・ホイットコム(女性と子供の役はすべて彼が担当した)がぼくの息子だった。
 事故への備えとしてホイットコムの顔の上半分に厚紙をハンカチで固定し、使用する矢のやじりには毛布のきれっぱしが何重にも巻かれた。
 ぼくは優れた射手だった。リンゴはたった2メートルしか離れてなかった。そして、りんごはその赤いほっぺがぼくの方へ向くように公正に置かれた。
 テルに扮したぼくにひるまず、ペッパー・ホイットコムが堂々と待ち構えたので、逆にぼくは笑いがこみあげて正視できなくなってしまった。
 ぎゅう詰めの観客は男子が七人女子が三人、かたを飲んで見守る沈黙の中、ぼくはクロスボウを持ち上げた(キッティー・コリンズはいなかった。キッティーは入場料として洗濯ばさみを支払うと主張したのだが)。
 話を戻そう。ぼくはクロスボウを持ち上げ、矢を放った。
「ビィーンッ!」
ムチのような音が鳴った!
 しかし、悲しいかな、矢はりんごに当たらず、かわりにペッパー・ホイットコムの口に飛び込んでいた。矢を放つ寸前に彼が口を開けたため、ぼくの狙いが狂ったのだ。

 ぼくは、あのひどい瞬間の記憶を決して追放できないだろう。
 ペッパー・ホイットコムが発した驚きと怒りと痛みを同時に表現したうなり声は今でもぼくの耳に鳴り響いている。
 ぼくは自分の任務失敗を集まった観衆とまったく同じようにとらえ、彼を死体のように眺めた。わびしい未来はちらりとも見なかった。

 幸いにも、あわれなペッパーはそれほどひどいケガはせずにすんだ。
 しかしながら、テルの息子の放った叫び声を聞きつけて混乱の中に現れたナッター老は、車庫の二階は閉ざし、以後ここでのすべての素人芝居を禁止してしまったのだった。
 残念ながら、閉鎖にともなって
「ぼくの矢がペッパー・ホイットコムの口にヒットしていなければ、この舞台は我々の人生の最高の瞬間になったでしょうに」
と、ぼくが言い、同意した聴衆(よろこばしいことにペッパーを含めて)が
「ヒア!ヒア!」
と歓声を上げる……そんな別れの挨拶をすることもなかった。
 ぼくは事故の原因はペッパー自身にあったのだと考える。後方にうずを描いて運命の矢がそこへ飛び込んだのは、矢を放つ瞬間、口を開けた彼が悪いのだ。
 ペッパーがうめき、カーテンがなぜかひとりでに落ち、聴衆が悲鳴をあげたとき、ぼくは小さめのうず潮でさえ大きい船を飲み込むことがある事例に例えて、なんとか説明しようとしていた。

 このウイリアム・テル騒動が、その後のあらゆる舞台を含めて、ぼくの最後の演技となった。
 しばらくのち、ぼくが抜けてからのウイリアム・テル・ビジネスが終焉したのをぼくが聞くまで、劇場のチケットを買えずにうらみを持ったガキんちょが通りでぼくに向かって後ろから大声で歌っていた。

だれが殺したこまどりを?
「わたし」と言うはスズメなり
「得物は弓と矢を使い
わたしが殺った
こまどりを」

 このマザー・グースを使った皮肉は、ぼくをへたりこませるのに十分だった。
 また、これ以後、ペッパー・ホイットコムはクックロビン(こまどり)と呼ばれるたびにブチ切れるようになったことを、付け加えておく。

 それからしばらく、たいていの少年が体験するよりもたくさんの陽射しとほんの少しの雲がぼくの運命に降り注いだ。
 コンウェイは確実に雲だった。
 学校の中では、彼はめったに攻撃的にふるまわなかった。しかし、ぼくが町で彼とすれ違ったとき、彼は肩をぶつけるのに失敗しなかった。もしくは帽子のつばを引っ張って目の下まで被らせるとか、ニューオーリンズのぼくの家族のことをわざと聞き、遠まわしな言い方でぼくの両親が身分の高い黒人であるかのようにふれまわり、ぼくをイライラさせたのだった。

 ぼくがコンウェイと戦うまで、コンウェイはぼくに安息を与えないだろうと言っっていたジャック・ハリスは正しかった。
 ぼくは、ぼくたちがこの惑星で出会って戦うのが生まれる前から決まっていた運命のように感じていた。
 運命から逃げないという覚悟から、ぼくは静かに差し迫った闘争のための準備を始めた。そして、体育館がぼくの劇的な勝利のための修行場へと変わった。ケンカのための準備だという事実を指摘する友人たちに対して、ぼくは絶対にそれを認めようとしなかったけど。
 根気強く逆立ちをして頭で支え、ウエイトリフティングをし、腕だけではしごを登り、ぼくの小さな体の筋肉をヒッコリーの樹のこぶのように頑丈で、牛の胃袋と同じくらい柔軟になるまで鍛え上げた。
 また、ぼくはしばしば、正当防衛のためのボクシングの技術を、フィル・アダムズから直々にレッスンしてもらった。

 ぼくはコンウェイとの戦闘という問題を完全に自分の一部になるまで熟考した。授業中もずっと仮想の中で彼と戦った。夜毎、彼と戦う夢を見た。
 ヤツは夢の中で4メートルの巨人になったかと思えば次の瞬間には殴れないほど小さな小人へと縮むのだ。ガリバーが小人国リリパットの人々をそうしたようにコンウェイはぼくをポケットへひょいと入れたり、あるいはリリパット人と化して髪へ隠れてはいずりまわった。
 おおむね、夢の中でのコンウェイはぼくを苦しめる雲だった。

 そのうえ、雲はぼくの家にもあった。
 それはナッター老やアビゲイルさんやキッティー・コリンズによるものではない。
 ぼんやりした陰鬱で形容しがたく、筋力トレーニングではどうしようもないもの……そう、日曜日のことだ。
 もしぼくが自分の息子のために進むべき道を用意できるなら、日曜は息子にとって楽しい日になるよう手を尽くすだろう。
 ナッター・ハウスにおいては、日曜は楽しい日ではなかった。きみも以下を読めば納得すると思う。

「日曜の朝が来る」
土用の夜になるとぼくはそうつぶやいて覚悟を決めて、深い憂鬱のすべてを午前中の霧のように霧散させたものだった。
 そして日曜。朝七時にナッター老はすました顔で階下に現れる。黒い服を着ていて、まるで友人全員に先立たれたかのようだ。
 アビゲイルさんも同じく黒い服に身をつつんでいる。死んだナッター老の友人をすべて埋葬する準備はバッチリで、いやがるどころか式を楽しもうとしているようにすら見える。
 この暗い雰囲気はキッティーにさえ伝染してしまったらしい。ぼくはキッティーがいつも重苦しい彫刻入りのつぼにコーヒ豆を入れて用意しているのに気付いた。しかしそのモニュメントはいつだってアビゲイルさんの前に置かれるのだ。アビゲイルさんはだまって、その壷の中身はコーヒー豆ではなく先祖の灰でも入っているかのように見つめる。
 こうして、日曜の朝の食事は静かに進むのだった。

 ナッター・ハウスの応接室のドアや窓が開きっぱなしになることは決してなかった。応接室の窓が開かれるのは六月の朝か、中央のテーブルから強い匂いがするときだけだった。
 部屋の家具と暖炉のマントルピースの上の小さな中国の装飾は珍妙な印象を抱かせる。
 ナッター老は緑のラシャで覆われた大きな聖書を読んで、マホガニー製の椅子に座っている。アビゲイルさんは、膝の上で手をかたく組んでソファーの端に座っている。
 ぼくは打ちひしがれて、隅に座る。
 『ロビンソン・クルーソー』と『ジル・ブラース』は取り出せる雰囲気ではない。クラッツの要塞からどうにか逃げ出した『バロン・トレンク』も、居間のクローゼットからは脱出できない人生を送っている。リバーマス・バーナクル新聞さえ月曜までは押さえつけられたのだ。
 おしゃべりや、無害な本、ほほえみ、ちょっとしたドキドキはすべて取り除かれた。
 どうしてもなにか読みたければ、リチャード・バクスター(英国の清教徒教会指導者)の『聖人の安息』なら読んでいいとされていた。

 死のう。

 ぼくは座ってかかとを蹴ってニューオーリンズの思い出を思考から追い出し、青色のカナブンが病的な飛行のあげく窓ガラスに激突自殺するのを見つめた。
 ——聞こえる!
 そう、それは庭で歌うコマドリだ。狂ったように歌うコマドリはまるで今日が日曜じゃないかのように楽しげで大胆で、つかのま、ぼくの心は癒されるのだった。

 ぼくが安息日学校へ行く準備ができると、ナッター老は顔を上げて陰気な声で
「行くかね」
と、たずねる。
 そう、行く時間だった。
 ぼくはその安息日学校が好きだった。少なくとも明るい若い顔がそこにあったからだ。
 ナッター・ハウスから出て日光の中に踏み出すとき、ぼくは大きく息を吸っていた。一張羅のズボンをはいていなかったら、お隣のペンハローさんちのペンキぬりたてのフェンスをサマーソルトで飛び越えていたにちがいない。
 それくらいうれしいナッター・ハウスの暗い空気からの脱出だった。
 安息日学校のあいだ、ぼくは講堂でナッター老とアビゲイルさんといっしょに礼拝する。
 この日においてはナッター老は、ぼくの関係者ではないようにふるまった。
 ワイバード・ホーキンス牧師はぼくたちのだれにも、ちょっぴりの希望さえ与えない。そのほかの人類と同様にぼくは自分が迷える創造物クリーチヤーだと確信して、保護者の後ろをゆっくり歩いて家へ戻る。
 そうして冷たく死んだ昼食を食べる。できたてのあたたかい食事は日曜には罪なのだ。ぼくは昨日の晩に用意されたそれが冷めていくのをうらめしげに見つめたものだ。

 この食事から二回目の礼拝まで、長いインターバルがあった。そして礼拝の始まりから終わりまでも非常に長かった。

 二度目の礼拝は改訂聖書の講釈が行われた。ワイバード・ホーキンス牧師の説話はいずれにせよなんでも、短いものは無かった。
 二度目の礼拝のあと、ぼくはナッター老と散歩する。近くの墓地は散歩にはうってつけの場所だ。ぼくは、自分から埋葬されたくなるまでその場所へたたずむ。
 日が暮れて、三度目の礼拝はたいていの場合、なんやかや理由をつけてパスすることができた。そして八時半に就寝。

 これがナッター・ハウスで観察できた日曜の過ごし方であった。
 我が家に限らず二十年前(一八五〇年頃)にはリバーマスのいたるところで観察できた事例だ。
 成功して土曜日には普通に幸福だった人も、明くる半日はもっとも悲痛な人間と化したのだ。
 ぼくはこれ以上の偽善はなかったと思う。それは単に週に一度、実を結ぶ古いピューリタニズムであった。
 街の人々は週の七番目の日以外は純粋なキリスト教徒だった。日曜に限り、人々は陰気のへりに座り、上品かつ厳粛にふるまったのだ。その点だけは誤解しないでほしい。
 もちろん、日曜日は神聖な日だ。だからこそ、ぼくは日曜が暗い日であるべきだとは思わない。
 日曜は主のための日だ。ぼくは陽気な心、陽気な顔が主を不愉快にさせるものではないと信じている。

やったー おやすみの日! きれいだね きもちいいね
こどもも おとしよりも おおよろこび
神様の日!それは世界の悪の休戦日!
神様の日!毎日そうだったらいいのにな!
だけどどうして人々は 明るい光をさえぎって
絶望の牢屋に身をおいて かの人の苦しみを共感したがるの?

桝田道也
作家:トマス・ベイリー・オルドリッチ/桝田道也 訳
トムと波止場の大砲
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