トムと波止場の大砲

第二章 ぼくのゆかいな偏見について

 ぼくはリバーマスという北部の町で生まれた。だけど、この美しいニューイングランド地方の町について知る前に、両親とともに南部のニューオーリンズへ移ってきたので、何も覚えていない。
 父はこの南部で銀行を始めたのだった。もっとも父はそこから自分のお金を取り出すことはできなかったのだけど——そのことについては、またあとで話そう。

 南部へ来たとき、ぼくはまだ一歳半だったので、故郷について何か思うところは何も無かった(あたりまえだ)。
 しかし、父が教育のためにぼくを北部へ転校させると言ったとき、ぼくの中には北部への偏見が育っていた。だから、それを聞いた瞬間、思わずいっしょに遊んでいた、ちびころのサムをけっとばし、リビングの真ん中で地団太をふんで
「ヤンキーだらけの北部になんか絶対行くもんか!」
と涙ながらに宣言した。

 きみは、ぼくが「南部の偏見に染まった北部出身者」だと思うかい?うん、その通り。ぼくにはニューイングランドの思い出が全くなかった。
 ぼくの人生最初期の思い出は南部に始まる。ぼくのうちでメイドをしていた黒人のクロエおばさん(本業は看護婦だ)に、石灰石造りのぼくの白い家と手入れされてない庭、広いベランダの向こうのオレンジの木々、さらにイチジク・モクレンと続き、そこが道路との境界になっていた。
 ぼくは自分が北部で生まれたのを知っていたけど、それがバレないことをいつも願っていた。その不幸な生い立ちを、時間と距離に覆われて思い出せない何かだと見なしていた。
 北部出身者(ヤンキー)であることを決してクラスメートに明かさなかった。級友たちはヤンキーをものすごくバカにしていたからだ。だもんで、ぼくは自分がルイジアナ生まれか、せめて南北の境界線上の諸州で生まれた人間でなければならないと感じていた。

 そして、この印象がクロエおばさんによって強化された。あるときクロエは言った。
北部にはまともな人間なんて、ひとりもいませんですだ
この、推測を越えた断言は、ぼくをふるえあがらせたものだった。
「もし北部人たちがぼっちゃんをだましてわたすから引き離そうとするなら、このひょうたんで頭を叩き割ってやりますだ!」
 この哀れな生き物への刷り込み、クロエの想像する「意地悪な白人」のかもし出す悲惨な空気といったものが、このころのぼくの記憶の中でもっとも鮮明に思い出せる部分だ。

 あからさまに言えば、北部に関するぼくの考えは、教養のある英国人が「知っている」アメリカ像と同程度には正確だった。
 つまり、ぼくは北部ではインディアンと白人が別々に住んでいると思っていた。インディアンは、ニューヨークをときどき襲い、日暮れには逃げ遅れた女性や子供をつかまえ(子供のほうを特に好んで)頭皮をはぐ。北部はそんな危ない土地だから、女や子供はいまやほとんどおらず、白人はハンターか教師のどちらかしかいない。そして、一年中ほとんど冬で、みんな丸太小屋に住んでいる——などなど。

 そのころのぼくがこうした偏見に染まっていたのをわかってもらえたならば、野蛮な北部のリバーマスに連れて行かれると知ったとき、われを忘れてサムに振るってしまったテロ行為にたいして、きみは情状しやく量を認めてくれるのではないだろうか?……もっともぼくは日ごろから、なにか気にくわないことがあると、力加減の差はあれ、サムを蹴っ飛ばすことにしていた。うん、情状酌量は取り消されても仕方がないと思うよ。

 この異常なテロの発生に父はびっくりして、次に、涙に水没しかけてるぼくの顔を見て本当に困惑していた。父はちびころのサムを抱き起こして謝ると、ぼくの手を引いて書斎へ連れて行った。
 とう製の椅子に座ってぼくに問い掛ける父の姿が今でも目に浮かぶ。父は、この奇妙なシュプレヒコールの原因は北部行きにあると気がつくと、ぼくの心の中の丸太小屋を解体し、ぼくが合衆国中にいると思い込んでいた空想上のインディアンを追い払った。

「いったい、だれがあんなバカなことをお前にふきこんだんだ?トム」
父は自分の涙をぬぐいながら言った。
「……クロエおばさん」
「おまえは、おまえのおじいちゃんがビーズで刺繍ししゆうされた毛布を着けていると本当に考えているのかい?おじいちゃんは敵の頭皮を剥いで、自分の膝当てにしてると?」
「……本当には、たぶん、そうじゃないと思ったけど……」
「本当には、たぶん……だって?トム。ああもう、まったく困ったやつだ」

 そう言うと父はハンカチで顔をおおった。見上げると、つらそうにしているのがわかり、ぼくは深く心をゆさぶられた。ただぼくは、ぼくが言ったことがどうして父をそれほど傷つけたのか、まだよくわかっていなかった。おそらく、祖父がインディアンかもしれないとバカげたことを言ったから、父が傷ついたのだろうと思った。
 父はニューイングランドの明確でわかりやすい説明をするのにその晩をついやし、その後も毎日のようにぼくに正しい北部のことを教え込んだ。独立戦争、以後の発展、そして現在……与えられた知識は、学校の歴史の授業にまったく興味を持たなかったぼくを導く明かりになった。
 数日もしないうちに、ぼくは北部へ行くのがいやではなくなり、むしろ新しい土地へのことをあれこれ想像して眠れなくなるほどだった。
 といって、インディアンに襲われるというスリルを完全に期待しなくなったわけでもない。船がボストンに到着したとき、万一のことがあってはいけないと、小さな真鍮しんちゆう製のピストルをこっそりポケットにしのばせたのだった。

 実際、チェロキー族——あるいは 酋長しゆうちようコマンチェの率いた部族だったか——がアーカンソーの彼らの猟場から追い払われたのは、ついこのあいだのことだった。西部の荒野では、まだインディアンが辺境への開拓者にとっての脅威だったのだ。
 この「インディアン問題」はニューオリンズ紙に掲載される主要ニュースであり、ぼくたちは絶えずフロリダ州の内部で攻撃されて、殺害されている旅行者について聞いていた。
 フロリダでそうなのだから、マサチューセッツ州でそれが起きないとは限らないだろう。……が、結局、ぼくはリバーマスへ着くまで、自分の頭の中以外の場所でインディアンを発見できなかった。

 ぼくは実際に北部へ行く日のずっと前には、もう南部を離れることを切望していた。航海には両親が同伴してくれることになっていたし、毎年、夏には父と母がリバーマスに来てくれると約束したので、なにも心配はなかったのだ。
 そのうえ父がぼくのために賢くて小さいポニーを買ってくれて、ぼくが出発する二週間も前にリバーマスの祖父のところへ送っていたからだ。ポニーがぼくをベッドから追い出そうとする夢を見るくらい、リバーマスでの生活への期待は高まっていた。
 ポニーの名前はギタナといった。スペイン語でジプシーという意味だ。 だから、ぼくは彼女を——つまり、牝馬だったからだが——いつもジプシーと呼んだ。

 時はきた。ぼくはオレンジの樹とツタだらけの家を出た。ちびころのサムにさよならを言った(もう蹴られなくてすむ彼は、心からぼくの出発を祝福してくれたと確信している)。
 純真なクロエおばさんはというと、悲しみでうろたえながらも、ぼくのまつげにキスをし、ぼくたちを見送るために持ってきた明るい色のバンダナに顔をうずめた。
 開け放した門のところで見送るサムとクロエおばさんの姿は今も目に浮かぶ。涙がクロエおばさんのほおを伝っていた。サムの六本の前歯が真珠のようにきらめいていた。 ぼくは涙をこらえて二人に手を振った。声にならない声で
「さようなら!」
と叫んだ。懐かしい故郷は見えなくなった。ぼくはもう二度とそれらを見ることはできないのだ!

第三章 タイフーン号の三人男

 ボストンまでの航海については、それほど覚えていない。出航して数時間もしないうちに、ぼくは船に酔ってしまったからだ。

 ぼくたちの乗った船は『快速定期船タイフーン号』という名前だった。もっとも、その船が「快速」に走れるのは新聞広告の上だけらしかったけど。この定期船の出資金の25%は父の銀行から出ていたらしい。それが、ぼくたち一家がこの船に乗った理由だ。
 ぼくは父の所有する25%とやらが船のどこからどこまでかを真剣に考えた。最終的には丸い窓があって、たっぷり朝寝坊ができそうな二段ベッド(壁に釘付けされた棚か箱にしか見えない)のある、船の後方のキャビンのあたりがそれだろうと結論づけたのだった。なぜなら、そこがいちばん居心地がよかったからだ。

 航海のあいだ、甲板はいつもしっちゃかめっちゃかだった。船長は使い込んだトランペットを吹き鳴らして命令するのだけど、水夫たちはまるで言うことを聞こうとしない。顔を真っ赤にしてトランペットを吹くキャプテンは、まるでハロウィーンのかぼちゃランタンのよう。船長は
「おまえたちには船長に対してあってしかるべき尊敬がかけらも無い!」
と水夫たちをののしりつづけるのだけど、水夫たちはそれを気にしないばかりか、歌まで歌う始末だった。

ホイサッサァー
 ラム酒をまわせ
 フレー!フレー!おお、スペイン大海圏!

 ぼくはカリブ海を中心とした「スペイン大海圏」を悪いことだと思ってた。なぜなら、彼らは中南米の金銀宝石を略奪していたからだ。しかし、その歌の「フレー!」は明らかに「スペイン大海圏」にに向けられたものだった。
 少し悩んだけど、おそらく「フレー」に深い意味はなく単なる歓喜で、水夫たちは見た目どおり陽気でいい人たちなのだろうと結論づけた。
 事実、その通りだった。
 特に、あるひとりの風雨にさらされた水夫に、ぼくの眼は釘付けになった。青い目と王冠のようにきらめく灰色の髪をした陽気なガチムチ五十男の水夫。彼がタール塗りの防水帽を取ると、頭頂部は実にスムースというかなめらかというかシンプルだった。だれかから若いときに罰を受けたのだろうか?
 彼の赤褐色の表情には、なんだか魅力的なゆるさがあった。そのゆるさはいいかげんに結ばれた彼のネッカチーフにもよく現れていた。しかし、ぼくがなにより心をうばわれたのは、彼の左腕にあった素晴らしい絵だった。
 それはエメラルドグリーンの髪をピンクのくしでといている人魚の絵で、こんなきれいな絵は生まれてはじめて見た!と思ったほどだった。
 ぼくは、なんとしてでも、この水夫とと友達になろうと思った。ぼくの腕にこういう絵を描いてもらうためなら、大事な真鍮のピストルをあげてもいいと思ったくらいに。

 そんなふうに、ぼくがその美術品を賞賛しながら立っていたとき、ドイツ・ゴシック体でAJAXと書かれた外輪カバーをつけたずんぐりした蒸気船が、 ゼイゼイ言いながらタイフーン号の近くでモクモクと煙を吐きあげはじめた。
 そいつはこのぼくらの立派な船とくらべると、ばかげて小さいうぬぼれやのようで、ぼくはそいつがなにをしているのか気になった。数分後、水夫達はその小さな怪物をムチで打ち、
「ポッポー」
と悲鳴をあげさせながら、手際よく波止場から船を曳航させた。蒸気船はタグボートだったのだ。

 ミシシッピー河で、丸ぽちゃで黒ずんだ船首をしたタグボートがタイフーン号を引っ張るのを見ると、アリが自分の八倍から十倍ものチーズを運ぶ様子を思い起こさずにいられなかった。
 ミシシッピー河を下るあいだ、ぼくたちは景色を楽しんだ。河の流れはぼくたちを喜ばせた。河岸には無数の蒸気船に停留中の船、長く連なった倉庫が見えた。船はまるで翼で飛ぶようにスイスイと進んだ。ぼくたちが動いているのではなく、河岸の方がぼくたちから遠ざかっていくように見えたくらいだ。
 後方甲板からこの景色を見るのは良い気晴らしだった。しばらくのあいだ、見るべきものはなにもなかった。曲がりくねった湖沼群や、スペイン苔がびっしり生えて成長が止まった糸杉や、ワニや、サンショウウオのほかはなにも。
 イエロー・サンドバーのあたりでは、生きている流木たちが鮫のように水の中から鼻を出していた。
 ぼくがあたりを見回すと、
「これがニューオーリンズを見る最後のチャンスだよ。よく見ておきなさい」
と父が言った。
 ぼくは、ふりかえって、ニューオーリンズを見た。ニューオーリンズはもはや、ただ遠くにある灰色の塊だった。聖チャールズのホテルのドームだけが太陽を反射して少しだけキラキラ光っていたけど、それはもう、クロエおばさんの指貫の先端ほどの大きさも無かった。

 そのあとなにがあったんだっけ?そうだ、灰色の空と不機嫌なメキシコ湾。タグボートはタイフーン号を引いて進み、にくたらしいが来ると去っていった。たまらず、ぼくはさけんだ。
「こっちは運賃を払ってんだぞ!なにがタイフーンだ!このボロ船!」

 船はすました顔でぼくを無視した。船にもし口があれば
なるようになるのさケ・セラ・セラ、おお、スペイン大海圏!」
とでも歌っただろう。巨大な白い帆が大きく膨らむ様子はまるで七面鳥の丸焼きのようで、船酔いで食欲の無いぼくへの当てつけのように感じられた。ぼくは操舵室の近くの父によっかかって、子供特有の精密な知覚でそれらのものを観察していた。
 しばらくすると嵐と船酔いがおさまりはじめたので、ぼくたちは夕食をとるために下へ降りていった。
 新鮮な果物、ミルク、および冷たい鶏肉のスライスはとても美味しそうに見えた。が、ぼくはまだそれほど食欲が戻っていなかった。おまけに防水のためのタールの匂いが船のいたるところに漂っていて、これがさらに食欲を減退させた。
 船は食事中の人間なんかおかまいなしに突然揺れるものだから、フォークの行き先が口になったり目になったりという大問題も発生していた。テーブルの上のラックのワイングラスやタンブラーはチリンチリンと鳴りつづけ、金の鎖で吊るされたテーブルランプは少し落ち着けってくらいに揺れていた。床が上昇してきたかと思うと、次の瞬間、羽毛布団に乗ったときのように沈み込んでいくのだった。

 このとき食堂にはぼくたちを含めて十名くらいの乗客がいた。一時間半前に自分の部屋に戻ったハゲ頭の紳士(引退した船長で、トラック氏といった)以外の、ほぼ全員の乗客が集まっていたわけだ。
 夕食後に現れたその年配の紳士、すなわちキャプテン・トラック氏と父はチェッカーを始めた。この攻防は見ていて実に愉快なものだった。というのも、船がゆれるたびに置いたコマが盤面からズレてしまうので、父とトラック氏はゲームそっちのけでコマの位置を保持するのにおおわらわだったからだ。
 父は苦笑いし、キャプテン・トラック氏はというとマジギレしてしまい、
「この、おんぼろのニワトリ小屋がここまでゆれてなかったら、わしが勝っていたはずなんだ!」
と言いはる始末。いくらなんでも、おんぼろのニワトリ小屋と言われてはタイフーン号がかわいそうだ。

 それでも、まだいくぶんか船酔いしていたので、ベルトを父の膝にあずけると
「ぼくはもう寝るよ」
と言って船室に戻った。
 タイフーン号が安定してがむしゃらなスピードで突き進みはじめたころだったので、寝るにはちょうどいいころだった。ぼくは二段ベッドの上のほうをサッと片付けた。ここならすぐに眠れるだろうと思えた。脱いだ衣服は足元の細長い棚に置いた。真鍮製のピストルがそばにあるというのは、実に心強かった。いつなんどき海賊に襲われるかわからないと、真剣に考えていたからだ。

 ここまでがぼくがハッキリ覚えている最後のことだ。あとで教えられたことだが、その日の真夜中から船がマサチューセッツ州の沖に入るまでのあいだ、大嵐に襲われたのだった。

 何日も何日も、身の回りのことなんか、まったくわからないような日が続いた。自分の体が上や下へとあちこちに投げつけられたこと。ぼくはそれを好まなかったこと。それがぼくの感知できたことのすべてだった。
 たしか、父がぼくを元気づけようと、ぼくのことを「おいぼれ水夫くん」と呼んでいたような気がする。しかし、そのおいぼれ水夫ははっきりとそのときのことを思い出せないくらい、元気からほど遠い状態だった。立派な航海士が送声管を通じて
「この小さくて、お先真っ暗の、あやしい小舟は、帆をすべてたたんで急速に状態を回復しつつありまァす!」
と言っていたが、ぼくは信じなかった。
 実のところ、あくる朝ぼくはついに絶望的情況になってしまった思ったのだ。
「ズドォン!」
という船首の大きな大砲が放った音と衝撃のせいだ。ぼくはもちろん、海賊が襲ってきたんだと直感した。数秒後、大砲が打ち返す音が聞こえた。ぼくはズボンのポケットをまさぐろうと、けんめいな努力をした。
 しかし、ようするにタイフーン号は南からケープコッドの海岸に近づく船の礼儀として空砲を撃っただけだった。
 船は、もんどりをうつのをとっくにやめていた。ぼくの船酔いは、始まったときと同じくらいのすばやさで去っていった。
 ぼくと同様に船酔いで寝込んでいた母を診断したキャプテン・トラック氏の言葉は
「ミセス・ベイリー号は少し船体がきしんで、わずかに浸水しておりますが、もう大丈夫。沈没の心配はありませんぞ」
というものだったが、まさしくぼくたちの船酔いはすでになんともなくなっていた。
 ケープコッドでは
「お別れの時間がやってきました。ザ・暴風雨、提供はメキシコ湾でした。さようなら」
とも言わずに嵐がぼくらから去っていった。航海士が言うには、晴天であれば七時間ですむ航海に二日も費やされたということだった。

 いまや、船酔いの治ったぼくは船に向き合うことができた。腕に緑髪の人魚の刺青を持つ水夫セイラーと親しくなるために、ぐずぐずしてるひまはなかった。ぼくは、船の前方下部にある貯蔵庫で彼を見つけた。彼は思ったとおり気のいいセイラーで、ぼくたちは五分とかからず仲良しになった。
 彼はいままでに世界二周か世界三周していると言い、話のタネが尽きることはまったくなかった。彼自身の計算によれば、生まれてこのかた、二年に一回のペースで難破に遭遇しているという話だった。
 彼は、かの勇敢なスティーブン・ディケーター海軍代将がバーバリ戦争でアルジェリア人を丸め込んで捕虜の解放を約束させたとき、代将の部下として働いていたという。
 また、メキシコ戦争でのベラクルス大海戦では砲兵として戦ったといっていたし、アレキサンダー・セルカークの島(別名、ロビンソン・クルーソー島)へも何度か行ったことがあるという話だった。
 つまり、おかで過ごしていたのは、数えるほどしかないということだ。

桝田道也
作家:トマス・ベイリー・オルドリッチ/桝田道也 訳
トムと波止場の大砲
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