トムと波止場の大砲

 リバーマスの港はすばらしく、最大サイズの船でさえ直に波止場へ停泊し錨をおろすことができた。ただしそういう豪華客船は、まず停泊しようとしなかったけど。
 何年も前からリバーマス港は「それ」で有名だった。英国と戦争していた一八一二年、西インド諸島から英国へと運んでいく敵国の商船を襲う私掠しりやく船の港としてリバーマスは最適だったからだ。
 一部の人々はなぜかある日とつぜん大金持ちになった。
 今日、多くの「大統領を輩出している一族」は、 彼らの祖父たちがマチルダ・ジェーン号の二十四門の大砲を共有シエアしていたころまで、系図を明らかにしようとはしない。やれやれだ。

 このため、わずかな船しかリバーマスにはこなくなった。商業船は他の港へと流れていってしまった。神出鬼没だった私掠船団は、ある日、出航していったかと思うと二度と戻ってこず、崩れかけた古い倉庫はいまも空っぽで、陽射しが愛情こめてふりそそぐ波止場の崩れた石積みはフジツボとアマモにびっしりおおわれた。
 ずっと昔に終わった西インド貿易が行なわれていた痕跡の残る場所へ何度か行ったけど、そのたびにかすかなスパイスの匂いがした。
 もちろん、ぼくは駅からナッター老の家まで馬車にのってるあいだ、美しいにれの枝の描く影とすてきな家々で彩られた通りの風景に夢中だったので、いま、リバーマスの歴史についていま説明したことは、後になって知ったことだ。

 リバーマスはとても古い街だ。ぼくが少年のころ、コロンブスがはじめて上陸したのがこのリバーマスの地だったと、少年達のあいだで密やかな噂がささやかれていた。ぼくは、その正確な場所をペッパー・ホイットコムに案内させたのを覚えている。
 事実もあった。キャプテン・ジョン・スミスに関する伝説だ。彼は一六一四年、この地の美しさに魅了され、パウハタン族の族長の娘・ポカホンタスと結ばれた。そのころのリバーマスは野イチゴの深いやぶにおおわれた土地だった。

 リバーマスには植民地時代の歴史のすべてがある。だれの家にも歴史の痕跡があり、それはときには考えさせられ、ときには楽しませてくれる。もし幽霊が自分の出る場所を選べるなら、必ずにぎわうだろう通りがリバーマスにはたくさんある。
 ぼくはこんなに古い家々が残ってる街をほかに知らない。さて、読者諸君。街の古参老人たちがジロジロ見て回る観光客に
「見るんだったらあそこに行け!」
と指し示す建物に、もう少し、おつきあいねがいたい。

 そこにはむくり屋根と深くはめ込まれた窓枠を持った、正方形の大きな建物がある。ドアと窓の上には木の葉やドングリ、耳から羽の生えた智天使ケ ル ビ ムといったブナ材の彫刻が、奇妙に、乱雑に、大量に飾られているのだが、それらの彫刻のかもし出す独特の威風は、この家そのものの呼び起こす奇妙な関心の前にかすんでしまっている。
 その関心とは、この家が何千年もの歴史を持つからでも、建築として重要な構造を持っているからでもなくて、この広い建物に泊まった有名な男たちの波乱に富んだ生涯への興味だ。

 一七七〇年には、そこは貴族的なホテルだった。現在、ホテル入り口の左の高い柱にはハリファックス伯爵の表札がぶらさがっている。
 重税にあえぐ植民地が英国王の支配を捨てようと決意したとき、王の支持者たちはこのホテルにハリファックス伯爵を招いて秘密会議を行い、伯爵は王を支持する彼の家臣たちの説得を受けた。
 このことは、反逆者らを立腹させた。そしてある夜、反逆者たちは伯爵を襲い、表札を引きずり下ろし、鉄格子を壊し、うしろのフェンスをいちべつするだけの時間を伯爵へと与えて連れ去ったのだった。
 数ヶ月のあいだ、壊されたホテルは管理する者もなく、そのままだった。独立がうまくいきそうだとが立って、追放されたホテルの主人はようやく戻ることが許された。
 ホテルは『ウィリアム・ピット』と名付けられた。大ピットと小ピット、二代にわたる親米派の英国の政治家・ウィリアム・ピットの名を誇らしげに書いた看板を柱に吊るすことで、愛国者たちの怒りをなだめたのだ。それからはホテルに旅行者の荷物やゴシップ新聞をのせた郵便馬車がボストンから週に二度も到着するという状態が何年も続いた。
 最近、発行されたリバーマスの年代記にお世話になりながら、いま、この文章を書いている。

 次に一七八二年。リバーマスの港にはフランスの艦隊が駐留していた。金のモールの織り込まれた白いユニフォームを着た八人の役員が、ウイリアム・ピット・ホテルに泊まった。
 いま、ホテルのドアを開けて入ろうとしている、このハンサムな役員はだれだろうか?独立戦争とフランス革命の双方で活躍した「両世界の英雄」こと、ラファイエット侯爵がさほど世に知られていないのと同程度には、彼もまた有名人ではない。
 この男に会うため、先見の明のあるラファイエットはわざわざ船でここまでやってきたのだ。彼がどれほど勇ましく見える騎士であったことか。鋭い眼光、漆黒の髪! 四十年後、ふたたび彼がこの地に立ち寄ったとき、足腰は弱り髪は白髪が混じっていたが、その心に宿る自由への愛はいささかも衰えていなかった。
 そろいのユニフォームの役人達とともに四頭立ての馬車から降りた、この立派な身なりの旅行者こそ、独立宣言に、巨人の手で書かれたかのように大きく偉大に記された、その名の持ち主だ。
 ジョン・ハンコック。きみは知ってるだろうか?それがアメリカ独立宣言に最初に署名した偉大なる彼の名前だ。

 フランス革命のとき、三人の若者が召使とともにウィリアム・ピット・ホテルの玄関に立ち、礼儀正しく挨拶をしながら、世界一丁寧な言い方で宿泊できるかどうか、尋ねたこともあった。
 三人はオルレアン公の息子たちで、そのときは亡命中の身だった。三人のうちのひとり、ルイ・フィリップは、このリバーマスへの訪問を生涯、忘れなかった。数年後、彼はフランスの玉座に座っていた。王はそのときたまたま宮廷に居合わせたアメリカ人の婦人に、あの居心地のいい大きな建物はまだ健在かと訪ねたという。

 しかし、それに先立つ一七八九年に、フランス王以上の偉大な男が宿泊するという光栄がこのホテルに訪れていた。ジョージ・ワシントンがやってきたのである。彼は州のお偉方への最後の表敬訪問に来たのだった。
 いまも、彼の眠った板張りの部屋、そして彼が州のお偉方をもてなした大食堂は、自分勝手なモンスター旅行者でさえ破壊できないほどの威厳と品位が保たれている。

 ぼくが——いや、わがはいがリバーマスの君主であったころ、ジョセリン御前というおおばば様が、この貴族的な建物の上の階に住んでおった。ジョージ・ワシントン王がはじめてここを訪れたとき、彼女は若い、きっぷのいい姫君であった。
 いま、ご子孫の所有する象牙の額に入った肖像から判断するに、きわめて魅力的で美しい女性であったと言えよう。
 ジョセリン御前によれば、ジョージ・ワシントンはほんの少しのあいだ、威厳を保ちながら、考えられる限り最高に洗練されたやり方で彼女といちゃいちゃお遊びになられたという。
 ジョセリン御前の部屋の暖炉の上には、凝ったもののフレームがついた鏡がかかっておる。その鏡はもう、ガラスがひび割れ、水銀がもれたか、あるいは変色してしまっている。
 読者どのはその鏡を見ても、鏡なのに顔が正しく映らないという奇妙な面白さを感じるくらいかもしれぬ。おのれの顔がミンチ器にかけられたらこうなるのだろうかと想像してな。
 しかし、我輩はこの鏡の、サビが金メッキに浮き上がったフレームのてっぺんから垂れ下がる、先っぽに紅の入った色あせた緑の羽にうっとりせざるをえないのである。この羽飾りこそ、ワシントンが彼の三角帽子から引き抜いて、リバーマスを永遠に去ったその日に女王ジョセリンへの忠誠を誓って渡した羽だからじゃ。
 この愛すべき大婆様に関する話が彼女の作り話である可能性や、我輩がわざと古めかしい言い方をしてる件について、あえて説明はするまい。

 ぼくは土曜の午後には何度も、ウィリアム・ピット・ホテルのぐらぐらしたせん階段を上がり、いつも嗅ぎタバコのような匂いのするこの薄暗い部屋へ通った。安楽しない椅子に何時間も座って、ジョセリン御前の昔話を聞いたものだった。
 御前が、いかにおしゃべりだったことか!御前は病気療養のため、もう十四年もこの部屋から出たことがなかった。一方、そのあいだに世界は御前のずっと先へと進んでいた。
 思いがけない罠につかまり十八世紀に置いていかれた、この鼻歌を歌っている老婆は新世紀の変化を理解できずにいた。
 御前は新しい概念にがまんがならなかった。古い時代の古いやり方が御前には良かったのだ。御前は蒸気機関を見たことがなかった。大婆様のいうところの「いやなもの」が遠くで金切り声を上げるのは聞いたことがあっても。
 ジョスリン御前の時代、高貴な方々が旅行するといえば、それは自前の馬車で行くものだった。御前は立派な人々が下郎や無名貴族と同じ客車で旅して下車するのを決して見ようとはしなかった。
 老いた貧しい貴族であったホテルの主人は御前に宿泊費を要求せず、隣人は御前を食事に招いていた。
 九十九歳となった最晩年、御前は食事に関して非常に不機嫌でわがままになった。気に入らない食べものがあったとき、ためらうことなく「ジョセリン流の礼儀正しい賛辞」を述べてつっかえしたのだった。

 ぼくはきみに、雑談が長すぎると感じさせてしまっただろうか?しかし、ぼくが三年から四年のあいだ少年時代をすごしたこの錆びついた古い街についての楽しい思い出としては、これは決して長ぎるものではないのだ。

第五章 ナッター・ハウスとナッター・ファミリー

 リバーマスでは、ナッター・ハウスのように目立った建物はだれかの名前にちなんで名付けられる。たとえば、ウォルフォード・ハウスとか、ベンナー・ハウス、トレフェセン・ハウスという風に。
 その建物に、必ずしも同じ姓の人が住んでいるとは限らないが、ナッター・ハウスには百年のあいだナッター家の一族とともにあり、この家は大工の棟梁とうりよう(ぼくの先祖だと信じている)の仕事がたぐいまれなる耐久性を誇るものだったという履歴書にほかならなかった。
 もし、ぼくの先祖が棟梁だったとするなら、彼はただ腕が良いだけではなく自分の商売に精通していたと言える(ぼくも、自分の仕事に対してそうでありたいと思うのだが)。
 良い材木と良い職人を集めるのは、この家が建てられた時代には難しいことだった。

 大きな広間が中央にある天井の低い構造の建物を想像してほしい。きみが建物に入ると黒くて高いマホガニー材でできた時計が、まるで死後、おきあがったミイラのように右手に立っている。広間の左右にはドアがあった。ただ、ドアのノブはガタがきてて、なかなか回らなかったことは正直に告白しよう。
 広間に入る。暖炉やはりは木彫レリーフの板張りで装飾されていて、壁には田園風景や海景色といった壁紙が貼られている。応接間や他の部屋でも、基本的にはこの賑やかな壁紙の繰り返しだ。
 イタリアの帽子を被ったイギリスの農民たちが海辺をバックに芝生の上で踊っている図。国籍不明のもんやりした顔の漁師が釣りざおにかかった小さなクジラを釣り上げるために恐ろしい大海戦に向かうかのように海原を進むの図。さらにその漁師の絵は背景に小さくイギリスが描かれていて、さっきと同じ農民達が踊っているのだった。
 ぼくの先祖は素晴らしい人たちだったけれども、この壁紙だけは大嫌いだった。

 これらのすてきな壁紙の各部屋に火鉢やストーブは無かったけれども、かわりに立派な暖炉がナッター・ハウスにはあった。でっぷりした予備のまきが薪台のうえでゆったり寝そべられるくらい広くて立派な煙突部屋があったのだ。
 では、広い階段を登ってホールから二階へと、順序良く話を進める。一階と二階の途中に屋根裏部屋がある。
 ニューイングランドの少年にとって、築五十年から六十年を過ぎた建物の屋根裏部屋が好奇心の博物館であることは説明するまでもない。さあ、いっしょに見ていこう。
 すべて破損している一家の椅子、すべて落ち着きを無くしてしまってるテーブル、すべてよれよれになってしまってる帽子。すべて酔い潰れてしまっているブーツ。すべて折れて廃業してしまったステッキ。破壊にいたる何らかの決められた手順でもあったのだろうか。
 「人生に疲れてしまった」ポットやナベや旅行カバンや、だれかがこの無数のガラクタで埋め尽くされた部屋の目録を作ってくれるだろうという、計測不能なほど低い可能性を期待している空き瓶たち。
 しかし、雨がパタパタと降りしきる午後を過ごすには、なんと素晴らしい場所だったことか!『ガリバー旅行記』や『大怪盗リナルド・リナルディーニ』を読むのに、なんと素晴らしい場所だったことか!

 ナッター・ハウスは大通りから少し下がったところに建っていた。そこは二本の素敵なにれの樹の影の中であり、風の強い日にはにれの大枝が頻繁に切妻に当たった。家の後ろには三十メートル四方ほどはあろうかという、梅とスグリの樹でいっぱいの美しい庭があった。
 これらの樹は年老いた移住者であったため、一本をのぞいて現在ではすべて枯れてしまった。その一本は卵ほどの大きさの紫の実を結ぶプラムの樹だ。くりかえすが、この樹はまだ健在だ。この樹と争うような美しい樹は、この庭のどこにも育たなかったのだ。
 庭の北西の隅には細い通りへと開く車庫と厩舎きゆうしやがあった。ぼくがジプシーの様子を見るためすぐにそこへ行ったことは容易に想像できるよね?
 到着の日、ぼくは三十分おきに彼女を見にいった。二十四回目の訪問のとき、ぼくは彼女にかなり強く足を踏まれてしまった。
 思うに、おそらく、ぼくの表敬訪問は彼女をちょっぴりうんざりさせてしまったのだろう。 知ってのとおり、ジプシーは小さなポニーだ。彼女についてはあとでたっぷりページを割いて別章で語るつもりだから、覚悟してくれたまえ。

 ジプシーの厩舎も願いえられる最高のものだったけど、ぼくのために用意された快適な寝室は新しい環境の中で、これ以上ないほど満足できたものだった。その部屋は広間の正面入り口の上にあった。
 ぼくはそれまで、自分の部屋というものを持ったことがなかった。そして、この部屋(タイフーン号でのぼくたち一家の個室の二倍の広さはあった)は清潔と安らぎの驚異だった。
 きれいな更紗のカーテンが窓にかかり、ヨセフのコートよりカラフルな(※訳注 旧約聖書の逸話。ヨセフは兄弟のだれよりも父に可愛がられ、特別に作られたカラフルなコートをもらい、他の兄弟から嫉妬された)パッチワークのキルトで覆われた、小さな車輪付きのベッドがあった。
 壁紙のパターンは例のあの方向の中では最高のものだった。暗い背景に、この世に存在するすべての植物に似ていない枝と葉っぱ。すべての枝に赤紫のうろと、そこで休む黄色い鳥が描かれてて、ちょうど天然痘の激しい症状が峠をこえたのに似ていた。その鳥がこの世に存在するいかなる鳥にも似ていないからといって、ぼくはこの絵の賞賛を惜しんだりしなかった。鳥は全部で268羽、描かれていた。壁紙の、ちゃんとつながってない接合部で分割された鳥は数えないとして。
 あるとき目のまわりにアザ作ってベッドに倒れこんだときに、鳥を数えてたらすぐに寝落ちしてしまい、鳥たちがすべて群れとなって窓から飛んでいくという夢を見た。その日以来、ぼくはこの壁紙の鳥や木々をただの枝とは思えなくなったのだ。

 部屋の隅には洗面台があって、マホガニー材でできたたんすや、すかし細工のフレームの鏡、真鍮製の釘がびっしり打ち付けられた棺桶に似た背の高い椅子といった家具があった。
 ベッドの頭の側には二つのブナ材の棚があり、十冊以上の本が並べてあった。

  • 『セオドア、あるいはペルー人』
  • 『ロビンソン・クルーソー』
  • 『トリストラム・シャンディ』の一部
  • バクスターの『聖人の安息』
  • ハーヴェイによる600カットもの木版挿絵の入った素晴らしい『アラビアンナイト』の英訳版。

 ぼくがこれらの本を最初に分解点検したときのことを忘れることができようか。おっと、バクスターの『聖人の安息』についてはノーコメント。あれは元気な少年から遠いところにある本だった。
 かわりにロビンソンクルーソーやアラビンナイトの話をしよう。あのとき、ぼくが指先に「ひろわせて」感じたスリルは、いまなお「いろあせて」はいない。
 ぼくは何度もねぐらに忍び寄っては、読みかけの折り目を入れた本を手にとり、心奪われた分野を飛び回った。ここにはぼくの凧を邪魔するいかなる授業も少年もいなかった。
 ひきつづいて本の虫と化したぼくは、屋根裏部屋の壊れたトランクから

  • 『大泥棒ジャック・シェパード』
  • 『ドン・キホーテ』
  • 『ジル・ブラース物語』
  • 『シャーロット・テンプル』

といった一貫性の無いコレクションを発掘した。
 ぼくは、これらの作品の題材には、黄色い髪の小さな乱暴者を魔法のページに何時間もすがらせるために本当だと信じ込ませる親切さがないと思った。
 つまり、子供だましの作り物のリアリティがないと感じた。したがって本当の話だと判断し書かれていた文章をすべて信じた。
 船乗りシンバッドの冒険にはなんら疑わしい点はなく、憂顔の騎士は実在し彼の祖父は確かに騎士だったのだろうと。

 ベッドの足側の壁にはシングルバレルのショットガンが吊り下げられていた。ナッター老が飾ったらしい。
「さすがおじいさん!ぼくのためにこんなすばらしいものを用意してくれたんだ!」
なんてよろこんだものの運悪く引き金がもぎとられており、おそらくそれは子供の手にできるもっとも恐ろしい武器ではなくなっていた。
 こんな状態では、ぼくのポケットの真鍮製のピストルよりも役に立たないのは明白だ。
 すでにインディアンに対する馬鹿げた疑念も晴れていたこともあり、ぼくはただちにその鳥撃ち銃のインテリアを元に戻した。

 さて、ナッター・ハウスの説明はこれで終わりだ。続いてはナッター家の家族についてのプレゼンテーションを行おう。
 まず、祖父のナッター老。そして、祖父の妹の、つまりぼくの大おばにあたるミス・アビゲイル。さらには、家のあらゆる仕事をこなすメイドのキッティー・コリンズ。

 祖父のナッター老は矢のように真っ直ぐで頭の光った、陽気でかくしゃくとした老紳士だった。
 若いころは船員だったという。
 十歳のとき、彼はかけ算九九の表に怖れをなして逃げ出し、そのまま海へと出てしまったのだ。
 このたった一度の航海は祖父を満足させた。彼が海に逃げ出していなかったら、ぼくたちの家族のだれかは存在しておらず、血筋のどれかは絶えていたはずだ。
 祖父は一八一二年には民兵軍のキャプテンだった。米英戦争——別名、第二次独立戦争——のときだ。
 もし、ぼくが英国民になにか借りがあるとするならば、祖父の足をマスケット銃で狙撃した、どこかの英国兵にだ。彼には心からの感謝を述べたい。
 立派な戦士だったキャプテン・ナッターが足をわずかに引きずらせる理由となったその銃弾は、肉体の損傷と引き換えに、この話を語る祖父も聞くぼくをも飽きさせないマテリアルになったからだ。

 話というのはこうである。

 米英戦争が起こったとき、リバーマスの沖に英国のフリゲート艦が数日間停泊していた。港の堅固なとりでと民兵の連隊は海岸沿いにそれぞれ点在していて、上陸を試みる敵艦を撃退する準備はできていた。
 キャプテン・ナッターは河口そばに築いた小さな稜堡りようほで待機していた。ある夜おそく、オールをこぐ音が聞こえた。
 歩哨ほしようがあわててハーフコックのまま銃の引き金を引き射撃に失敗すると、キャプテン・ナッターは、まっ暗闇の中、バリケードをこえて敵へ飛びかかり、叫んだのだ。
うぉぉぉおおおいっ!ボートだぁぁぁぁあああああーっ!!
直後にマスケット銃の銃声が響き、キャプテン・ナッターのふくらはぎに銃弾が撃ち込まれた。
 キャプテン・ナッターがボートから転げ落ち、のたうちまわって砦へ戻ったとき、おそらく飲み水を汲みにやってきたボートは艦へと戻っていった。

 これが米英戦争における、祖父の唯一の手柄だ。祖父の迅速かつ大胆な行動は、この国を武力で征服するのは難しいことを敵国に思い知らせたことだろうと、少年時代のぼくは強い信念でそう思った。

 ぼくがリバーマスへ来たときには、祖父はすでに楽隠居しており、主に海運業者に投資した株式の配当で楽に暮らしていた。
 ぼくの祖母はぼくが生まれる前に亡くなっており、何年ものあいだ、祖父は独身だった。それで、前述した未婚の妹であるミス・アビゲイルが、この家をきりもりしていた。
 アビゲイルさんは君臨者としてではなく、みなのためへの奉仕者として、兄と、兄の使用人と、兄への訪問客を管理した。
 彼女は背が高く、やせて骨張っており、顔色は灰色に近く、灰色の目に灰色の眉をしていて、いつも灰色の服を着ていた。
 そして彼女の最強の弱点は、『ホット・ドロップス』が万病に効くと信じている点だった。
 きみは『ホット・ドロップス』が何か知らないだろうから、説明しよう。それはドロップスと言っても、甘くておいしいキャンデーからはほど遠いシロモノだ。『ホット・ドロップス』とは様々なハーブや「体に良いと信じられているもの」を漬け込んだ一種の薬酒だ。アルコール度数は高く、クロロホルムのように今では人体に有毒と考えられる成分まで含まれていた。これをスプーンでひとなめするのだけど、味のひどさといったら、これをなめるくらいなら病気になった方がマシというシロモノだった。

 この家に憎しみ合ってるようにしか見えない二人がいたとすれば、それはミス・アビゲイルとキッティー・コリンズだ。
 また、この家に親愛の情で結ばれている二人がいたとすれば、それもミス・アビゲイルとキッティー・コリンズだった。
 二人はいつも小競り合いをするか、仲良くいっしょにお茶をしていた。

 アビゲイルさんはぼくに優しかったし、キッティーもそうだった。そして、当然の成り行きとして、二人が小競り合いをしたとき、ぼくは二人が相手の秘密を暴露するのを聞かされることになった。

 キッティーによれば、アビゲイルさんがこの家の家事をとりしきっているというのは、もともとは祖父の意図しないことだったという。
 祖父は、片手に紙袋を持ち、もう一方の手に色あせた青い綿布の傘(こちらはまだ現存している)を持ったミス・アビゲイルに、襲撃された(キッティーによる、キッティーらしい表現)のだという。
 祖母の葬式の朝にナッター家の玄関の前でミス・アビゲイルが披露した(キッティーのほのめかすように語った)奇妙ないでたちをぼくが知るよしはない。
 ミス・アビゲイルの手荷物が少なかったので、この皮肉屋の観察者は滞在は数日間だろうと考えた。そのときからずっと後、ぼくがこの物語に現れたときまで、キッティー曰く「それから十七年間」アビゲイルさんは滞在しつづけたのである。
 アビゲイルさんは現在、すでに人生を満了してしまったので、どのくらいの滞在予定か、いまとなって知ることができなくなってしまった。
 はたして、祖父がこの思いがけない家族の追加を歓迎していたかどうか。ナッター老はいつもミス・アビゲイルに優しく、めったに彼女に反対することはなかった。
 アビゲイルさんはときどき祖父の忍耐力を試していたのではないかとすら思う。キッティーに関する余計な干渉は、特にその最たるものだったにちがいない。

 キッティー・コリンズ(ミセス・キャサリンと呼ばれるより、こちらの方を好んだ)は、かつてアイルランドを統治した王の一族の子孫だ。
 様々な不幸な成り行きの結果、王の血を引く数百名の女性が働く彼女の会社は年間千八百名もの従業員を移民船でアメリカにやっかいばらいしており、キッティーもリストラされた一人だった。ジャガイモの不作でも、とがめられたのだろう。(※訳注 ジャガイモに伝染する疫病と政府の無策によってアイルランドの人口が二百万人以上減少したジャガイモ飢饉を指している
 この追放されたすばらしい王族は、いかなる運命のいたずらかきまぐれか、リバーマスへとやってきた。キッティーがこの国へ来てから数ヵ月後、彼女は週4シリング6ペンスの給料で家事手伝いとしてぼくの祖母に雇われたのだった。
 キッティーは当初、自分の出自を秘密にしてて、それはいつも彼女の心の圧迫していた。それを告白して重荷から解放されたのは、ナッター家の住人となって七年後のことだった。

 人間はときに、
「過去をもたない者は幸せである」
と言われるかもしれない。あるいは、その言葉はどこかの新参の国家に向けても言われるだろう。

 キッティーは過去を持っていた。それも、哀しい過去を。

 アメリカへの移民船の中で、キッティーはある水夫と知り合った。キッティーの身の上を知ったその水夫は、なにかと世話を焼いてくれ、船旅の終わりごろにはキッティーはそのボディガードから離れられなくなっていた。
 船旅は退屈であり、また若いひとり身の女性にとって危険なものでもあったからだ。そして、二人は離れなかった。キッティーの愛情に水夫は応え、二人は到着するやいなや港で結婚した。
 キッティーは、その夫の名前について決して語ろうとしなかった。その水夫と別れたとき、価値ある遺跡に大量の財宝を隠すように、キッティーはその名前を胸中に秘めたのだった。
 キッティーが結婚した若かりしころ、夫婦は南通りの下宿で、とても幸せに暮らしていた。その下宿はニューヨークのドックの近くにあった。
 幸せな若い二人にとって、数日は数時間のように過ぎていった。そして小さな花嫁がストッキング(節約)しても、貯金は少しずつ削られていき、とうとう残金が3ドルから4ドル……ストッキングは爪先だけになってしまった。
 キッティーは悩んだ。夫が港で就職できないのなら、再び水夫になって長い航海に行くしかなかったからだ。これは結婚したばかりの二人には辛い選択肢だった。しかし、なかなかおかでの仕事は見つからなかった。
 ある朝、夫は「おはよう(グッド・デイ)」のキスをすると、仕事を探しに出かけていった。

「いってらっしゃい(グッドバイ)のキスをしてよ、ぼくのかわいいアイリッシュ娘さん……って、あの人は言ったわ」
とキッティーはすすり泣きながら話した。
「おかげで、最後にさようなら(グッドバイ)を言うことができたのよ……神様にお礼を言わなくちゃね。あたしがあの人やあの人の仲間を怒鳴らずにすむようにしてくれたんだもの」

 キッティーの夫は戻ってこなかった。一日一日、一夜一夜と、何の進展も無い数週間が過ぎた。
 いったい、彼に何が起こったのだろうか?殺されたのか?ドックに落ちて死んだのか?キッティーを捨てて逃げたのか?
 ——いや。
 キッティーはそれだけはないと確信していた。彼は勇敢で思いやりのある誠実な人間だったと。仮にキッティーと別れるとしても、だまって出て行くような人間ではなかったと。何らかの理由で夫は死んだ——もし生きていれば、かならず戻ってくるはずだから。
 キッティーはそう、信じていた。

 一方、キッティーの夫がいなくなったのを知り、家賃の支払いが滞るだろうと考えた下宿の主人は、キッティーを追い出してしまった。
 八方手をつくしてキッティーは勤め先を探し、彼女を
「しようがない、使用人にしよう」
と言って雇ってくれる御仁を見つけた。
 キッティーを雇った家族はまもなくボストンへ移ったので、キッティーもそれに同伴した。
 ほどなくその一家は外国へと引っ越していったが、キッティーはアメリカを離れず、リバーマスへと流れ着いたのだった。
 それから七年のあいだ、キッティーはいつも明るくふるまい、決してこの哀しい話をしなかった。
 彼女の友人となった紙袋と青い傘を持った奇妙な訪問者のおせっかいが、彼女の唇を開くまで。

 キッティーの話から、祖父とミス・アビゲイルが彼女に対してより親身になったのが、きみにもわかるだろう。
 その日から彼女は単なる使用人ではなくなった。彼女は、その負い目にへこたれない強い心をもった誠実な家政婦、自発的な奉仕者、喜びも悲しみもわかちあうナッター家の友人と見なされるようになった。
 キッティーは台所で歌いながら仕事しているとき、アビゲイルさんへの返答にしばしば歌を止めて、ウィットにあふれる返事をしていた。
 おそらく彼女の心には無意識下に複雑なレース編みのようなユーモアの静脈があったのだと思う。彼女の明るいまっすぐな笑顔は、リバーマス、そしてナッター・ハウスでぼくの少年時代から現在までを照らしている。

桝田道也
作家:トマス・ベイリー・オルドリッチ/桝田道也 訳
トムと波止場の大砲
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