トムと波止場の大砲

「思うんだけど」
ぼくはたずねた。
「おじさんの名前、まさかタイフーンじゃないよね?」
「なぜかね?王に愛でられし少年よ。わがはいの名はナンタケットのベンジャミン・ワットソンであるぞ」
と彼は言い
「……ただし真の名は「青いタイフーン」である」
とつけたした。
 ベンジャミンか、ワットソンか、ナンタケットか、ブルータイフーンか……どれがぼくの心に響いたのかはよくわからない。だいたい、そのときのぼくは「タイフーン」とはいったいなんなのか——野菜の名前か、はたまた職業名か——それすら知らなかったのだから。
 素直さが要求されていたので、ぼくは自分の名前はトム・ベイリーだとセイラー・ベンに教えた。ベンは、とても良い名前だとほめてくれた。

 親しくなってくると、ぼくは、ベンが自分を「パーフェクト絵本人間」と呼ばれたがってるのだと気がついた。ベンの右腕にはふたつの錨とひとつの星、そして帆をすべて張ったフリゲート艦が彫られていた。胸には握手する愛らしい一組の手が彫られていた。体のほかの部分も同じクオリティのイラストだらけなんだろう。
 ぼくは、ベンは絵画が大好きで自分の芸術趣味を満足させるためにこのような手段をとっているのだと考えた。これはまったく理にかなった結論だった。世界中を旅する船乗りにとって、額縁に飾られた絵だと置き忘れたり、海に落としてしまうことがあるかもしれないからだ。ベンが絵と一心同体であれば、どこへいこうと彼は詩趣をおびた偉大な人間でいられるというわけだ。

あの娘がどこへ行こうとも
 指のリングと爪先の鈴が
 鳴るところ……

と、ベンは古い童謡を何度も口ずさんだ。

 胸に彫られた二つの手について、ベンは説明してくれた。それは何年も前に死んでしまった仲間の思い出へ捧げたもので、墓石に彫るより確実に素晴らしいやり方だと彼は自慢した。
 そこで、ぼくは遠く離れてしまった故郷の年老いたクロエおばさんを思い出した。ぼくはベンに、ぼくの胸にピンクの手と黒い手を描いてくらたら一生恩に着ると言った。
 ベンは、これは針で皮膚の中に描いていくものだから、かなり痛いのだとぼくに説明した。ぼくは、痛いのは我慢するから、すぐやってくれと断言した。
 この、お人よしの心の友(おそらく彫物師のスキルはほとんど持ってない)は、ぼくの頼みに応えるために船の前部船室に連れて行こうとした。が、この装飾美術行為を邪魔したのは、たまたま通路にいたぼくの父だった。父は水夫の業務を邪魔している息子を引きはがして客室へ連行した。
 その後、ぼくはセイラー・ベンと二人きりになるチャンスがなく、翌朝とうとうボストン州議会の丸い屋根が視界に入ってきたのだった。

第四章 リバーマス

 タイフーン号がロングワーフ(長い波止場=ボストン港のこと)に接岸したのは美しい五月の朝のことだった。
 ぼくは、インディアンが見当たらないのは、ここが彼らの戦線ではないからなのか、彼らは早起きが苦手だからなのか、判断をくだしかねていた。しかし彼らが大挙して現れることはなかった。また実際、インディアンなんてどこにもまったくいなかったのだ。
 ニューオーリンズにいたとき、ぼくが歴史とちがってなまけずに学んだ地理の教科書にはピルグリム・ファーザーズ(メイフラワー号に乗ってアメリカに渡った約百人の移民団)がプリマスに上陸する様子の絵が載っていた。
 未開人に近づこうとしている、かなり変な帽子とコートを着たご先祖様たち。一方、コートも帽子も着ていない未開人は明らかに握手するべきか、襲って頭の皮をはぐべきかを決めかねている……そういう絵だった。
 これは学校で習ったことであるから、父の数日に及ぶ教育にもかかわらず、いつネイティブなアメリカの人々が「ごあいさつ」に来てもいいように、ぼくは決して油断せずにいたのだった。しかしながら、ぼくの期待は満たされることはなく、残念でならなかった。
 それはそうと、ピルグリム・ファーザーズについて。ぼくはどうして、まったくというほどだれも「ピルグリム・マザーズ」とは言わないのか、いつも不思議に思ったものだった。

 ぼくたちの荷物が荷揚げされてるあいだ、ぼくはキャビンの船窓からボストンの様子を観察した。たくさん家がひときわ高いビルの周りに密集しているのには港にはいったときに気がついた。
 その大きな建物はマサチューセッツ州会議事堂だった。周りの建物にくらべて誇らしげなほど高い彼女の姿は、さながらたくさんの雛に囲まれためんどりのように見えた。
 しかし、いくつかの点でぼくのボストンに対する評価はやや辛口だった。
 三日月型の川にぴったり沿って拡がるこの街の大きさはニューオーリンズと大差なく、さほど印象的なものではなかったからだ。
 ぼくはてんでばらばらに連なる家々にうんざりしてしまったので、父がボストンにしばらく滞在しようと言い出さずに本当によかったとほっとした。そんな気分で手すりによりかかってると、浮浪者らしい裸足の小さな男の子が
「波止場に降りるなら2セントで靴をみがいてやるぜ。ここいらじゃ相場の値段さ」
と声をかけてきた。
 しかしぼくはそのときは波止場へ降りず、帆綱に登って彼を見下ろしてニヤニヤしただけだった。少年は腹を立てて積み重ねられた板切れの山に乗って逆立ちをして、自分をなだめていた。

 タイフーン号で遅い朝食をとったあと、手荷物置き場に積み重ねられたトランクを自分たちで馬車に積み込んで、駅へと向かった。馬車は少なくとも100回は角を曲がって、ようやく駅に到着した。リバーマス行きの始発列車は正午に出発した。

 言葉にする間もないほど恐ろしい速さで、列車はこの国を縦断していった。いま、鉄橋をガタガタと通過したかと思うと、次の瞬間には轟音を立ててトンネルを通過していた。いま、にぎやかな村をナイフでふたつに切り裂くように通過したかと思うと、次の瞬間には暗い松林の中にいた。
 列車はときどき海岸線を併走し、水平線の上の船の白い帆が銀貨のようにきらめいているが見えた。ねむたげな目をした家畜たちのいる岩だらけの牧草地を通ったときは、線路のそばの新芽の出た木々のまわりにいたのろまな牛たちがおびえる様子がゆかいだった。
 列車は路線上の小さな茶色い駅(おじいさんの古時計そっくりでうんざりさせられる)のどれにも停まらなかった。通過時に機械のように飛び出して赤い旗をふる駅員達は、ぼくたちを止めたがってるようにも見えたけれども。
 ぼくたちの乗った列車は急行列車で、エンジンに水を飲ませるために二度ほど停まった以外は、途切れることなく走りつづけたのだった。

 ひとの記憶が何に執着するかというのは、なかなか奇妙なものだ。ぼくはその、人生ではじめての体験した汽車——リバーマス行き急行列車——のことを、まるで昨日のことのように覚えているのだ。
 ハンプトンの村を通過したとき、赤レンガの納屋の裏でケンカする二人の少年を見たのは、二十年も前のことだ。黄色いムクイヌもいた。そいつは自分を縛る縄から外されて興奮して尻尾に向かって吠えていた。
 見えたのは一瞬だけだったけど、二人のケンカがマジもんだと確認するには十分だった。そのときから、どちらの少年が勝ったかと何回ぐらい考えたか、言うのが恥かしいほどだ。
 おそらく、この二人の小さなヤクザは両方とも死んでしまったか(このケンカ以外の理由で、と望む)、二人とも結婚して父親に似た小さな戦士をこさえたことだろう。いまのところ、ぼくはその結果がどうなったのか知りえてはいない。

 列車は二時間半、走りつづけた。教会の尖塔みたいな煙突のついた高い工場に到着したかと思うと、機関車が悲鳴を上げて、機関士はベルを鳴らした。薄暗い木造建築の中で停車し、客車の両端の扉が開いた。開いたドアから車掌が首だけ出して
「お客様!リバーマスです!」
と大声で叫んだ。

 ついに長旅は終わった。プラットホームでは、父が血色の良い落ち着いた表情でピシッと立っている老齢の紳士と握手した。その人は白い帽子に長い燕尾服を着ていて、耳が隠れるほどの長襟のシャツを着ていた。
 偉大なるご先祖、ピルグリム・ファーザーズの一人とは思えなかった(あたりまえだ)。
 そう、この人こそぼくの祖父のナッター老だった。母は祖父に何度もキスをした。ぼくも祖父に再会できてうれしかった。もっとも、最後に別れたのは生後十八ヶ月のときだったので、すごく親密な人だと感じたわけじゃないけど。
 ぼくたちはナッター老が用意してくれた四人がけ馬車へと乗り込んだ。馬車の中で、ぼくは自分のポニーの健康についてたずねた。
 ジプシーはぼくたちより十日も早く到着してて、馬小屋でぼくに会いたがってるという話だった。

 馬車は静かで古い街並みを通り抜けていった。ぼくはリバーマスは世界一美しいところだと思った。じっさい、いまでもそう思っている。街を南北に貫く街道は広くて長く、妖精の手仕事のような優雅なアーチ橋のかかる短い大通りには大きなアメリカにれの樹の枝の落とす影があちらこちらで重なり合っていた。
 多くの家には大きな煙突が一本、軒からはみでるように家の前面に持ち、だれもが空いたスペースに季節の花の鉢を並べた小さな花壇を作っていた。
 美しい川の流れはせせらぎを立てながら町を横断し、湾内の島々にぶつかってひきかえし渦をまいたあと海へと消えていっていた。

 リバーマスの港はすばらしく、最大サイズの船でさえ直に波止場へ停泊し錨をおろすことができた。ただしそういう豪華客船は、まず停泊しようとしなかったけど。
 何年も前からリバーマス港は「それ」で有名だった。英国と戦争していた一八一二年、西インド諸島から英国へと運んでいく敵国の商船を襲う私掠しりやく船の港としてリバーマスは最適だったからだ。
 一部の人々はなぜかある日とつぜん大金持ちになった。
 今日、多くの「大統領を輩出している一族」は、 彼らの祖父たちがマチルダ・ジェーン号の二十四門の大砲を共有シエアしていたころまで、系図を明らかにしようとはしない。やれやれだ。

 このため、わずかな船しかリバーマスにはこなくなった。商業船は他の港へと流れていってしまった。神出鬼没だった私掠船団は、ある日、出航していったかと思うと二度と戻ってこず、崩れかけた古い倉庫はいまも空っぽで、陽射しが愛情こめてふりそそぐ波止場の崩れた石積みはフジツボとアマモにびっしりおおわれた。
 ずっと昔に終わった西インド貿易が行なわれていた痕跡の残る場所へ何度か行ったけど、そのたびにかすかなスパイスの匂いがした。
 もちろん、ぼくは駅からナッター老の家まで馬車にのってるあいだ、美しいにれの枝の描く影とすてきな家々で彩られた通りの風景に夢中だったので、いま、リバーマスの歴史についていま説明したことは、後になって知ったことだ。

 リバーマスはとても古い街だ。ぼくが少年のころ、コロンブスがはじめて上陸したのがこのリバーマスの地だったと、少年達のあいだで密やかな噂がささやかれていた。ぼくは、その正確な場所をペッパー・ホイットコムに案内させたのを覚えている。
 事実もあった。キャプテン・ジョン・スミスに関する伝説だ。彼は一六一四年、この地の美しさに魅了され、パウハタン族の族長の娘・ポカホンタスと結ばれた。そのころのリバーマスは野イチゴの深いやぶにおおわれた土地だった。

 リバーマスには植民地時代の歴史のすべてがある。だれの家にも歴史の痕跡があり、それはときには考えさせられ、ときには楽しませてくれる。もし幽霊が自分の出る場所を選べるなら、必ずにぎわうだろう通りがリバーマスにはたくさんある。
 ぼくはこんなに古い家々が残ってる街をほかに知らない。さて、読者諸君。街の古参老人たちがジロジロ見て回る観光客に
「見るんだったらあそこに行け!」
と指し示す建物に、もう少し、おつきあいねがいたい。

 そこにはむくり屋根と深くはめ込まれた窓枠を持った、正方形の大きな建物がある。ドアと窓の上には木の葉やドングリ、耳から羽の生えた智天使ケ ル ビ ムといったブナ材の彫刻が、奇妙に、乱雑に、大量に飾られているのだが、それらの彫刻のかもし出す独特の威風は、この家そのものの呼び起こす奇妙な関心の前にかすんでしまっている。
 その関心とは、この家が何千年もの歴史を持つからでも、建築として重要な構造を持っているからでもなくて、この広い建物に泊まった有名な男たちの波乱に富んだ生涯への興味だ。

 一七七〇年には、そこは貴族的なホテルだった。現在、ホテル入り口の左の高い柱にはハリファックス伯爵の表札がぶらさがっている。
 重税にあえぐ植民地が英国王の支配を捨てようと決意したとき、王の支持者たちはこのホテルにハリファックス伯爵を招いて秘密会議を行い、伯爵は王を支持する彼の家臣たちの説得を受けた。
 このことは、反逆者らを立腹させた。そしてある夜、反逆者たちは伯爵を襲い、表札を引きずり下ろし、鉄格子を壊し、うしろのフェンスをいちべつするだけの時間を伯爵へと与えて連れ去ったのだった。
 数ヶ月のあいだ、壊されたホテルは管理する者もなく、そのままだった。独立がうまくいきそうだとが立って、追放されたホテルの主人はようやく戻ることが許された。
 ホテルは『ウィリアム・ピット』と名付けられた。大ピットと小ピット、二代にわたる親米派の英国の政治家・ウィリアム・ピットの名を誇らしげに書いた看板を柱に吊るすことで、愛国者たちの怒りをなだめたのだ。それからはホテルに旅行者の荷物やゴシップ新聞をのせた郵便馬車がボストンから週に二度も到着するという状態が何年も続いた。
 最近、発行されたリバーマスの年代記にお世話になりながら、いま、この文章を書いている。

 次に一七八二年。リバーマスの港にはフランスの艦隊が駐留していた。金のモールの織り込まれた白いユニフォームを着た八人の役員が、ウイリアム・ピット・ホテルに泊まった。
 いま、ホテルのドアを開けて入ろうとしている、このハンサムな役員はだれだろうか?独立戦争とフランス革命の双方で活躍した「両世界の英雄」こと、ラファイエット侯爵がさほど世に知られていないのと同程度には、彼もまた有名人ではない。
 この男に会うため、先見の明のあるラファイエットはわざわざ船でここまでやってきたのだ。彼がどれほど勇ましく見える騎士であったことか。鋭い眼光、漆黒の髪! 四十年後、ふたたび彼がこの地に立ち寄ったとき、足腰は弱り髪は白髪が混じっていたが、その心に宿る自由への愛はいささかも衰えていなかった。
 そろいのユニフォームの役人達とともに四頭立ての馬車から降りた、この立派な身なりの旅行者こそ、独立宣言に、巨人の手で書かれたかのように大きく偉大に記された、その名の持ち主だ。
 ジョン・ハンコック。きみは知ってるだろうか?それがアメリカ独立宣言に最初に署名した偉大なる彼の名前だ。

 フランス革命のとき、三人の若者が召使とともにウィリアム・ピット・ホテルの玄関に立ち、礼儀正しく挨拶をしながら、世界一丁寧な言い方で宿泊できるかどうか、尋ねたこともあった。
 三人はオルレアン公の息子たちで、そのときは亡命中の身だった。三人のうちのひとり、ルイ・フィリップは、このリバーマスへの訪問を生涯、忘れなかった。数年後、彼はフランスの玉座に座っていた。王はそのときたまたま宮廷に居合わせたアメリカ人の婦人に、あの居心地のいい大きな建物はまだ健在かと訪ねたという。

 しかし、それに先立つ一七八九年に、フランス王以上の偉大な男が宿泊するという光栄がこのホテルに訪れていた。ジョージ・ワシントンがやってきたのである。彼は州のお偉方への最後の表敬訪問に来たのだった。
 いまも、彼の眠った板張りの部屋、そして彼が州のお偉方をもてなした大食堂は、自分勝手なモンスター旅行者でさえ破壊できないほどの威厳と品位が保たれている。

 ぼくが——いや、わがはいがリバーマスの君主であったころ、ジョセリン御前というおおばば様が、この貴族的な建物の上の階に住んでおった。ジョージ・ワシントン王がはじめてここを訪れたとき、彼女は若い、きっぷのいい姫君であった。
 いま、ご子孫の所有する象牙の額に入った肖像から判断するに、きわめて魅力的で美しい女性であったと言えよう。
 ジョセリン御前によれば、ジョージ・ワシントンはほんの少しのあいだ、威厳を保ちながら、考えられる限り最高に洗練されたやり方で彼女といちゃいちゃお遊びになられたという。
 ジョセリン御前の部屋の暖炉の上には、凝ったもののフレームがついた鏡がかかっておる。その鏡はもう、ガラスがひび割れ、水銀がもれたか、あるいは変色してしまっている。
 読者どのはその鏡を見ても、鏡なのに顔が正しく映らないという奇妙な面白さを感じるくらいかもしれぬ。おのれの顔がミンチ器にかけられたらこうなるのだろうかと想像してな。
 しかし、我輩はこの鏡の、サビが金メッキに浮き上がったフレームのてっぺんから垂れ下がる、先っぽに紅の入った色あせた緑の羽にうっとりせざるをえないのである。この羽飾りこそ、ワシントンが彼の三角帽子から引き抜いて、リバーマスを永遠に去ったその日に女王ジョセリンへの忠誠を誓って渡した羽だからじゃ。
 この愛すべき大婆様に関する話が彼女の作り話である可能性や、我輩がわざと古めかしい言い方をしてる件について、あえて説明はするまい。

 ぼくは土曜の午後には何度も、ウィリアム・ピット・ホテルのぐらぐらしたせん階段を上がり、いつも嗅ぎタバコのような匂いのするこの薄暗い部屋へ通った。安楽しない椅子に何時間も座って、ジョセリン御前の昔話を聞いたものだった。
 御前が、いかにおしゃべりだったことか!御前は病気療養のため、もう十四年もこの部屋から出たことがなかった。一方、そのあいだに世界は御前のずっと先へと進んでいた。
 思いがけない罠につかまり十八世紀に置いていかれた、この鼻歌を歌っている老婆は新世紀の変化を理解できずにいた。
 御前は新しい概念にがまんがならなかった。古い時代の古いやり方が御前には良かったのだ。御前は蒸気機関を見たことがなかった。大婆様のいうところの「いやなもの」が遠くで金切り声を上げるのは聞いたことがあっても。
 ジョスリン御前の時代、高貴な方々が旅行するといえば、それは自前の馬車で行くものだった。御前は立派な人々が下郎や無名貴族と同じ客車で旅して下車するのを決して見ようとはしなかった。
 老いた貧しい貴族であったホテルの主人は御前に宿泊費を要求せず、隣人は御前を食事に招いていた。
 九十九歳となった最晩年、御前は食事に関して非常に不機嫌でわがままになった。気に入らない食べものがあったとき、ためらうことなく「ジョセリン流の礼儀正しい賛辞」を述べてつっかえしたのだった。

 ぼくはきみに、雑談が長すぎると感じさせてしまっただろうか?しかし、ぼくが三年から四年のあいだ少年時代をすごしたこの錆びついた古い街についての楽しい思い出としては、これは決して長ぎるものではないのだ。

桝田道也
作家:トマス・ベイリー・オルドリッチ/桝田道也 訳
トムと波止場の大砲
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