我ハ、しゃくじん(石神)デアル無料版

タイトル

我ハ、しゃくじん(石神)デアル
無料版
志茂井真泉
Rev.4:May.2.2013

第1章 プロローグ( 1 / 4 )

プロローグ

 1985年の春を迎えた東京都北区堀船町の梶原銀座商店街の朝は明るい日差しに溢れていた。堀船町には、荒川区三ノ輪橋から新宿区早稲田までを結ぶ都電荒川線が通り、堀船町に残る梶原塚に由来する「梶原」という停留所が梶原銀座商店街の入り口である。

 この町に住む今泉仁(いまいずみ・じん)は、この春、高校2年生になり、今日4月8日は、春休み明けの初登校日だったが、本人は相変わらずの針のむしろのような生活の中で、1人閉じこもる日々が続くものと思っていた。
 仁が商店街を通り、都電の梶原駅へ向かう途中で、後ろから自転車に乗って追いかけてきたセーラー服でショートヘアの女の子が、仁の丸坊主の頭をピシャリとたたいて、「仁くん、おはよう!」と声をかけながら通り過ぎて行った。女の子の名はアスナという。アスナは、そばかすがチャームポイントと言ってはばからない、活発で、運動神経が抜群の女の子だ。仁と同い年で、幼馴染みで、家も隣同士だ。

 仁の家は、商店街の通りを抜けた先の南北に走る道の西側にあった。仁の家は、南側のアスナの家と、北側の町工場の間にはさまれた間口6メートル半で奥に細長く伸びた土地の木造2階建ての家だった。仁の家の1階は、玄関を入ると、浴室、洗面、トイレ、階段、居間が並び、居間の奥におじいちゃんとおばあちゃんがいた和室と台所があった。2階には、手前に仁の部屋と奥に両親の部屋が並んでいた。仁の家の南側には、アスナの家との間に幅が3メートル、奥行きが10メートルほどの庭があり、おじいちゃんとおばあちゃんが丹精込めて手入れをしていた。仁の両親は、商店街の寿司屋で朝から夜まで働いていたから、仁はおじいちゃんとおばあちゃんに育てられたのも同然だった。また、仁の家では柴犬を飼っていて、仁は小さい頃からどんな犬にも好かれた。
 アスナの家は、父親が柔道の達人で、自宅で道場を開いていた。母親はフリーランスのライターをしていて家にいないことが多かった。アスナの家は、1階が道場で、2階の南側に手前から勉強部屋、居間、奥に母親の仕事部屋が並び、北側に手前からアスナの部屋、キッチン、奥に両親の部屋が並んでいた。
 仁の家の北側の町工場は、駐車場にクレーン付きのトラックが停めてあり、スレート葺きの工場からは1日中、ガッチャンガッチャンと機械の音が響いていた。
 仁とアスナには、もう1人幼馴染みがいて、名は雄一という。雄一の家は、堀船町の外れにあって、両親のほかに病気がちの祖父母も一緒に住んでいた。雄一は、小学1年生の時からアスナの家の道場に通っていた。
 仁とアスナと雄一の3人は、ともに一人っ子だったこともあり、いつも兄弟のように一緒に遊んだ。遊び場は、仁の家のときもあれば、堀船公園や白山神社の境内でもよく遊んだ。3人は、小学1、2年生は同じクラスで、3、4年生は別々のクラスで、5、6年生は再び同じクラスになった。仁は、運動は不得意だったが本をよく読んで物知りだった。アスナは、男勝りのおてんばだった。雄一は、勉強もスポーツもよくできる優等生だった。商店街は3のつく日に縁日があり、3人で綿アメをなめながら、金魚すくい、射的、カルメ焼きなど、縁日の端から端まで楽しみながら歩いたものだった。

 関東に広がる武蔵野台地の東端に、飛鳥山から上野の山に続く高台の上野台地があり、上野台地の東側は、隅田川の氾濫原の低地帯である。隅田川はこの低地帯を蛇行しながら南下して東京湾に注ぐ。堀船町は、この低地帯にある下町であり、武蔵野三大湧水地の1つである三宝寺池を水源とする石神井川(しゃくじいがわ)が、武蔵野台地を流れ、上野台地を削り渓谷を作って下り、隅田川に合流する地点である。堀船町は、明治時代以降、隅田川の水上交通を利用した工場が次々に建設されたことによって発展し、工場で働く人々が住みはじめ、梶原商店街は大きくなった。
 堀船町の町名は、江戸時代からあった梶原堀之内村と船方村が昭和7年に統合されたときに、梶原堀之内の「堀」と、船方の「船」を合わせて、「堀船(ほりふな)」としたことによる。梶原堀之内村とは、梶原氏という氏族の城館を中心とした村という意味であり、梶原氏の城館跡に梶原政景という戦国武将の墳墓である梶原塚があった。梶原塚は、江戸時代の隅田川の氾濫の際に一部が流されたため、梶原堀之内村の鎮守であった白山神社の別当寺である福性寺に移され今も残る。一方、船方とは船乗りのことであり、船方村は古くから水上交通の要所であった隅田川の船乗りが住んだ村である。船方村の鎮守である船方神社も今に残る。

第1章 プロローグ( 2 / 4 )

6000年前

 およそ16000年前に縄文時代が始まったが、それ以前の氷河期の時代は海面が現在より100メートル近くも低く、東京湾は陸地(盆地)であったため、多摩川、荒川、隅田川、利根川などの大きな川が東京湾の盆地で合流し(利根川は、江戸時代に行われた利根川東遷移事業以前は東京湾に注いでいた)、古東京川と呼ばれる大河となって太平洋に注いでいた。現在も東京湾の海底には古東京川の流れがえぐった川筋跡が残る。武蔵野台地の元は、縄文時代以前にできた多摩川の巨大な扇状地であり、武蔵野台地には、富士山の火山灰から成る関東ローム層が、数メートルから10数メートルの厚さで積もっている。
 縄文時代に、温暖化による海水面の上昇(縄文海進と呼ばれる)が起こり、6000年前は関東平野の一部が海底に沈んだ。東京湾の奥に奥東京湾と呼ばれる広大な海ができ、霞ヶ浦あたりには広大な香取海ができた。東京湾、奥東京湾、香取海の周囲からはたくさんの縄文貝塚が見つかっていて、海岸線が関東平野の奥まで広がっていたことがわかる。堀船町周辺では、高台の上野台地から中里貝塚(北区上中里)や西ヶ原貝塚(北区西ヶ原昌林寺境内)が見つかっていて、その辺りに海岸線があり、低地帯の堀船町は奥東京湾の海底だった。

第1章 プロローグ( 3 / 4 )

魂だけで存在する種族の降臨

 その頃、魂だけで存在する種族が、天から初めて関東地方に降臨し、上野台地の海岸線にあった青く四角い石に宿った。その青い石に宿った魂は、当時の縄文人と交信し、その神通力により石の神として祀られ、石神(しゃくじん)と呼ばれた。石神は、縄文人が恐れた洪水、地震、噴火などの天変地異を予知する力を持っていた。また、人間の中には魂(の一部)を体外に離脱する能力をもつ者がまれに存在しているが、石神は、そうした人間とだけ交信することができたのだった。その青い石に宿る石神は、およそ1000年を経て天に帰還し、新しい石神が天から降臨して交代した。その後も、およそ1000年ごとに石神の交代は続き、現在に至っている。
 全国で約2300ヶ所の縄文貝塚が見つかっていて、関東地方に約1000ヶ所があり、東京湾、奥東京湾、香取湾周辺に約600ヶ所が集中している。このように関東の縄文人が他の地域に比べて、より繁栄した理由には諸説があるが、後に述べる現在の石神の言によれば、関東の縄文人は、当時青い石に宿った石神との交信により、天変地異を予知し得たから繁栄できたのだという。

maizumi
作家:志茂井真泉
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