我ハ、しゃくじん(石神)デアル無料版

第1章 プロローグ( 1 / 4 )

プロローグ

 1985年の春を迎えた東京都北区堀船町の梶原銀座商店街の朝は明るい日差しに溢れていた。堀船町には、荒川区三ノ輪橋から新宿区早稲田までを結ぶ都電荒川線が通り、堀船町に残る梶原塚に由来する「梶原」という停留所が梶原銀座商店街の入り口である。

 この町に住む今泉仁(いまいずみ・じん)は、この春、高校2年生になり、今日4月8日は、春休み明けの初登校日だったが、本人は相変わらずの針のむしろのような生活の中で、1人閉じこもる日々が続くものと思っていた。
 仁が商店街を通り、都電の梶原駅へ向かう途中で、後ろから自転車に乗って追いかけてきたセーラー服でショートヘアの女の子が、仁の丸坊主の頭をピシャリとたたいて、「仁くん、おはよう!」と声をかけながら通り過ぎて行った。女の子の名はアスナという。アスナは、そばかすがチャームポイントと言ってはばからない、活発で、運動神経が抜群の女の子だ。仁と同い年で、幼馴染みで、家も隣同士だ。

 仁の家は、商店街の通りを抜けた先の南北に走る道の西側にあった。仁の家は、南側のアスナの家と、北側の町工場の間にはさまれた間口6メートル半で奥に細長く伸びた土地の木造2階建ての家だった。仁の家の1階は、玄関を入ると、浴室、洗面、トイレ、階段、居間が並び、居間の奥におじいちゃんとおばあちゃんがいた和室と台所があった。2階には、手前に仁の部屋と奥に両親の部屋が並んでいた。仁の家の南側には、アスナの家との間に幅が3メートル、奥行きが10メートルほどの庭があり、おじいちゃんとおばあちゃんが丹精込めて手入れをしていた。仁の両親は、商店街の寿司屋で朝から夜まで働いていたから、仁はおじいちゃんとおばあちゃんに育てられたのも同然だった。また、仁の家では柴犬を飼っていて、仁は小さい頃からどんな犬にも好かれた。
 アスナの家は、父親が柔道の達人で、自宅で道場を開いていた。母親はフリーランスのライターをしていて家にいないことが多かった。アスナの家は、1階が道場で、2階の南側に手前から勉強部屋、居間、奥に母親の仕事部屋が並び、北側に手前からアスナの部屋、キッチン、奥に両親の部屋が並んでいた。
 仁の家の北側の町工場は、駐車場にクレーン付きのトラックが停めてあり、スレート葺きの工場からは1日中、ガッチャンガッチャンと機械の音が響いていた。
 仁とアスナには、もう1人幼馴染みがいて、名は雄一という。雄一の家は、堀船町の外れにあって、両親のほかに病気がちの祖父母も一緒に住んでいた。雄一は、小学1年生の時からアスナの家の道場に通っていた。
 仁とアスナと雄一の3人は、ともに一人っ子だったこともあり、いつも兄弟のように一緒に遊んだ。遊び場は、仁の家のときもあれば、堀船公園や白山神社の境内でもよく遊んだ。3人は、小学1、2年生は同じクラスで、3、4年生は別々のクラスで、5、6年生は再び同じクラスになった。仁は、運動は不得意だったが本をよく読んで物知りだった。アスナは、男勝りのおてんばだった。雄一は、勉強もスポーツもよくできる優等生だった。商店街は3のつく日に縁日があり、3人で綿アメをなめながら、金魚すくい、射的、カルメ焼きなど、縁日の端から端まで楽しみながら歩いたものだった。

 関東に広がる武蔵野台地の東端に、飛鳥山から上野の山に続く高台の上野台地があり、上野台地の東側は、隅田川の氾濫原の低地帯である。隅田川はこの低地帯を蛇行しながら南下して東京湾に注ぐ。堀船町は、この低地帯にある下町であり、武蔵野三大湧水地の1つである三宝寺池を水源とする石神井川(しゃくじいがわ)が、武蔵野台地を流れ、上野台地を削り渓谷を作って下り、隅田川に合流する地点である。堀船町は、明治時代以降、隅田川の水上交通を利用した工場が次々に建設されたことによって発展し、工場で働く人々が住みはじめ、梶原商店街は大きくなった。
 堀船町の町名は、江戸時代からあった梶原堀之内村と船方村が昭和7年に統合されたときに、梶原堀之内の「堀」と、船方の「船」を合わせて、「堀船(ほりふな)」としたことによる。梶原堀之内村とは、梶原氏という氏族の城館を中心とした村という意味であり、梶原氏の城館跡に梶原政景という戦国武将の墳墓である梶原塚があった。梶原塚は、江戸時代の隅田川の氾濫の際に一部が流されたため、梶原堀之内村の鎮守であった白山神社の別当寺である福性寺に移され今も残る。一方、船方とは船乗りのことであり、船方村は古くから水上交通の要所であった隅田川の船乗りが住んだ村である。船方村の鎮守である船方神社も今に残る。

第1章 プロローグ( 2 / 4 )

6000年前

 およそ16000年前に縄文時代が始まったが、それ以前の氷河期の時代は海面が現在より100メートル近くも低く、東京湾は陸地(盆地)であったため、多摩川、荒川、隅田川、利根川などの大きな川が東京湾の盆地で合流し(利根川は、江戸時代に行われた利根川東遷移事業以前は東京湾に注いでいた)、古東京川と呼ばれる大河となって太平洋に注いでいた。現在も東京湾の海底には古東京川の流れがえぐった川筋跡が残る。武蔵野台地の元は、縄文時代以前にできた多摩川の巨大な扇状地であり、武蔵野台地には、富士山の火山灰から成る関東ローム層が、数メートルから10数メートルの厚さで積もっている。
 縄文時代に、温暖化による海水面の上昇(縄文海進と呼ばれる)が起こり、6000年前は関東平野の一部が海底に沈んだ。東京湾の奥に奥東京湾と呼ばれる広大な海ができ、霞ヶ浦あたりには広大な香取海ができた。東京湾、奥東京湾、香取海の周囲からはたくさんの縄文貝塚が見つかっていて、海岸線が関東平野の奥まで広がっていたことがわかる。堀船町周辺では、高台の上野台地から中里貝塚(北区上中里)や西ヶ原貝塚(北区西ヶ原昌林寺境内)が見つかっていて、その辺りに海岸線があり、低地帯の堀船町は奥東京湾の海底だった。

第1章 プロローグ( 3 / 4 )

魂だけで存在する種族の降臨

 その頃、魂だけで存在する種族が、天から初めて関東地方に降臨し、上野台地の海岸線にあった青く四角い石に宿った。その青い石に宿った魂は、当時の縄文人と交信し、その神通力により石の神として祀られ、石神(しゃくじん)と呼ばれた。石神は、縄文人が恐れた洪水、地震、噴火などの天変地異を予知する力を持っていた。また、人間の中には魂(の一部)を体外に離脱する能力をもつ者がまれに存在しているが、石神は、そうした人間とだけ交信することができたのだった。その青い石に宿る石神は、およそ1000年を経て天に帰還し、新しい石神が天から降臨して交代した。その後も、およそ1000年ごとに石神の交代は続き、現在に至っている。
 全国で約2300ヶ所の縄文貝塚が見つかっていて、関東地方に約1000ヶ所があり、東京湾、奥東京湾、香取湾周辺に約600ヶ所が集中している。このように関東の縄文人が他の地域に比べて、より繁栄した理由には諸説があるが、後に述べる現在の石神の言によれば、関東の縄文人は、当時青い石に宿った石神との交信により、天変地異を予知し得たから繁栄できたのだという。

第1章 プロローグ( 4 / 4 )

1000年前

 奈良に朝廷があった飛鳥時代、土着豪族の国造(くにのみやつこ)が治める地域や、県主(あがたぬし)が治める地域が各地に散在していたが、701年、大宝律令が制定され、朝廷は令制国と国府を定め、国司を派遣して治めさせることにした。関東では令制国の1つとして武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県東部)が定められたが、当時の日本の中心地は関西に移っていて、武蔵国は都から遠く離れた「へき地」となっていた。武蔵国の領地は、无邪志(むざし)国造の領地と、知知夫(ちちぶ)国造の領地を合わせたものとされる。
 多摩川のほとり武蔵国多摩郡(現在の東京都府中市)に、111年に創建されたという大國魂神社があり、代々の无邪志国造が祭務を行なったとされる。武蔵国の国府は府中に定められ、703年、武蔵国の国司が都から赴任してきた。国司の着任後の最初の仕事は赴任した国の全ての神社を巡って参拝することであったが、その国の全ての神社の神様を合祀する「総社」を定め、そこに詣でることによって神社の巡回を省くことが広まり、大國魂神社が武蔵国の総社とされた。

 京都に朝廷が移った平安時代(およそ1000年前)に、武蔵国を事実上治めていたのは秩父氏という開発領主であった。秩父氏の一族には、男衾郡畠山郷(現在の埼玉県大里郡寄居町)を拠点に荒川上流を治めた畠山氏、入間郡河越(現在の川越市)を拠点に入間川流域を治めた河越氏、下総国葛飾郡葛西(現在の葛飾区)を拠点に利根川下流域を治めた葛西氏、江戸(現在の千代田区)を拠点に江戸湊と浅草を治めた江戸氏、橘樹郡稲毛荘(現在の川崎市登戸付近)を拠点に多摩川下流域を治めた稲毛氏、そして、堀船町のある武蔵国豊島郡では豊島(現在の北区豊島町)、石神井(現在の練馬区石神井台)、平塚(現在の北区上中里)などに拠点を置き、隅田川と石神井川の流域を治めた豊島氏がいた。
 豊島氏の一族には、練馬(現在の練馬区)に拠点を置いた練馬氏、板橋(現在の板橋区)に拠点を置いた板橋氏、赤塚(現在の板橋区赤塚)に拠点を置いた赤塚氏、志村(現在の板橋区志村)に拠点を置いた志村氏、滝野川(現在の北区滝野川町)に拠点を置いた滝野川氏、足立郡宮城堀之内(現在の足立区宮城町・堀之内町)に拠点を置いた宮城氏などがいた。
 秩父氏の一族は、入間川、荒川、隅田川、利根川、多摩川など関東の川筋の地域に勢力を伸ばし、「川筋族」とでも言うべき特徴を持った開発領主であった。川筋の土地は、魚介類が取れ、生活用水に困らず、水運に便利、防衛線になるなど、利点も多いが、毎年洪水に見舞われるという難点もあった。殊に、関東平野の川筋の土地は、山間部とは異なり、洪水のたびに川筋が大きく変わる氾濫原となっており、当時は住むにも耕作にも適さない土地とされていた。しかし、秩父氏の一族は、そうした川筋の土地に根付いて開発し、武蔵国を繁栄する国に変えていった。後に武蔵平一揆の乱(1368年)にて室町幕府配下の鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の大軍に敗れるまでの約350年にわたり、周囲に武力でまさる列強氏族がいたにもかかわらず、武蔵国を治め続けた(後の徳川氏よりも長い)。それは、秩父氏の一族が武力だけでなく、川筋の土地の「治水技術」を兼ね備えた氏族だったからだとされるが、後に述べる現在の石神の言によれば、秩父氏一族の豊島氏は、平塚の地に石神の宿る青い石を祀り、石神との交信によって得た天変地異の予知情報を大いに利用したのだという。また、豊島氏は、1000年ごとに行なわれる石神の交代の儀式を盛大に執り行ったのだという。

 豊島氏は、武蔵平一揆の乱で秩父氏一族が崩壊した後も関東管領上杉氏の家臣として生き残り、豊島郡を治めた。武蔵平一揆の乱の約10年後の1380年頃、鎌倉公方足利氏の家臣で梶原道景という武将が堀船町あたりに移り住み、梶原堀之内村と呼ばれることになる。それから約100年後の1476年、上杉氏家臣の長尾景春が起こした長尾景春の乱において、豊島氏は、長尾景春に加担し、1478年、上杉氏家臣の太田道灌に敗れ、ここに450余年の歴史を営んだ豊島氏はついに滅亡した。それから更に約100年後の1590年、徳川家康は、太田道灌が築いた江戸城に入り、関東で続いていた戦乱の時代は終息した。しかし、関東の戦乱の時代に、石神の宿った青い石は行方知れずとなり、石神の伝説を伝える者は誰もいなくなっていた。

maizumi
作家:志茂井真泉
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