我ハ、しゃくじん(石神)デアル無料版

第1章 プロローグ( 3 / 4 )

魂だけで存在する種族の降臨

 その頃、魂だけで存在する種族が、天から初めて関東地方に降臨し、上野台地の海岸線にあった青く四角い石に宿った。その青い石に宿った魂は、当時の縄文人と交信し、その神通力により石の神として祀られ、石神(しゃくじん)と呼ばれた。石神は、縄文人が恐れた洪水、地震、噴火などの天変地異を予知する力を持っていた。また、人間の中には魂(の一部)を体外に離脱する能力をもつ者がまれに存在しているが、石神は、そうした人間とだけ交信することができたのだった。その青い石に宿る石神は、およそ1000年を経て天に帰還し、新しい石神が天から降臨して交代した。その後も、およそ1000年ごとに石神の交代は続き、現在に至っている。
 全国で約2300ヶ所の縄文貝塚が見つかっていて、関東地方に約1000ヶ所があり、東京湾、奥東京湾、香取湾周辺に約600ヶ所が集中している。このように関東の縄文人が他の地域に比べて、より繁栄した理由には諸説があるが、後に述べる現在の石神の言によれば、関東の縄文人は、当時青い石に宿った石神との交信により、天変地異を予知し得たから繁栄できたのだという。

第1章 プロローグ( 4 / 4 )

1000年前

 奈良に朝廷があった飛鳥時代、土着豪族の国造(くにのみやつこ)が治める地域や、県主(あがたぬし)が治める地域が各地に散在していたが、701年、大宝律令が制定され、朝廷は令制国と国府を定め、国司を派遣して治めさせることにした。関東では令制国の1つとして武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県東部)が定められたが、当時の日本の中心地は関西に移っていて、武蔵国は都から遠く離れた「へき地」となっていた。武蔵国の領地は、无邪志(むざし)国造の領地と、知知夫(ちちぶ)国造の領地を合わせたものとされる。
 多摩川のほとり武蔵国多摩郡(現在の東京都府中市)に、111年に創建されたという大國魂神社があり、代々の无邪志国造が祭務を行なったとされる。武蔵国の国府は府中に定められ、703年、武蔵国の国司が都から赴任してきた。国司の着任後の最初の仕事は赴任した国の全ての神社を巡って参拝することであったが、その国の全ての神社の神様を合祀する「総社」を定め、そこに詣でることによって神社の巡回を省くことが広まり、大國魂神社が武蔵国の総社とされた。

 京都に朝廷が移った平安時代(およそ1000年前)に、武蔵国を事実上治めていたのは秩父氏という開発領主であった。秩父氏の一族には、男衾郡畠山郷(現在の埼玉県大里郡寄居町)を拠点に荒川上流を治めた畠山氏、入間郡河越(現在の川越市)を拠点に入間川流域を治めた河越氏、下総国葛飾郡葛西(現在の葛飾区)を拠点に利根川下流域を治めた葛西氏、江戸(現在の千代田区)を拠点に江戸湊と浅草を治めた江戸氏、橘樹郡稲毛荘(現在の川崎市登戸付近)を拠点に多摩川下流域を治めた稲毛氏、そして、堀船町のある武蔵国豊島郡では豊島(現在の北区豊島町)、石神井(現在の練馬区石神井台)、平塚(現在の北区上中里)などに拠点を置き、隅田川と石神井川の流域を治めた豊島氏がいた。
 豊島氏の一族には、練馬(現在の練馬区)に拠点を置いた練馬氏、板橋(現在の板橋区)に拠点を置いた板橋氏、赤塚(現在の板橋区赤塚)に拠点を置いた赤塚氏、志村(現在の板橋区志村)に拠点を置いた志村氏、滝野川(現在の北区滝野川町)に拠点を置いた滝野川氏、足立郡宮城堀之内(現在の足立区宮城町・堀之内町)に拠点を置いた宮城氏などがいた。
 秩父氏の一族は、入間川、荒川、隅田川、利根川、多摩川など関東の川筋の地域に勢力を伸ばし、「川筋族」とでも言うべき特徴を持った開発領主であった。川筋の土地は、魚介類が取れ、生活用水に困らず、水運に便利、防衛線になるなど、利点も多いが、毎年洪水に見舞われるという難点もあった。殊に、関東平野の川筋の土地は、山間部とは異なり、洪水のたびに川筋が大きく変わる氾濫原となっており、当時は住むにも耕作にも適さない土地とされていた。しかし、秩父氏の一族は、そうした川筋の土地に根付いて開発し、武蔵国を繁栄する国に変えていった。後に武蔵平一揆の乱(1368年)にて室町幕府配下の鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の大軍に敗れるまでの約350年にわたり、周囲に武力でまさる列強氏族がいたにもかかわらず、武蔵国を治め続けた(後の徳川氏よりも長い)。それは、秩父氏の一族が武力だけでなく、川筋の土地の「治水技術」を兼ね備えた氏族だったからだとされるが、後に述べる現在の石神の言によれば、秩父氏一族の豊島氏は、平塚の地に石神の宿る青い石を祀り、石神との交信によって得た天変地異の予知情報を大いに利用したのだという。また、豊島氏は、1000年ごとに行なわれる石神の交代の儀式を盛大に執り行ったのだという。

 豊島氏は、武蔵平一揆の乱で秩父氏一族が崩壊した後も関東管領上杉氏の家臣として生き残り、豊島郡を治めた。武蔵平一揆の乱の約10年後の1380年頃、鎌倉公方足利氏の家臣で梶原道景という武将が堀船町あたりに移り住み、梶原堀之内村と呼ばれることになる。それから約100年後の1476年、上杉氏家臣の長尾景春が起こした長尾景春の乱において、豊島氏は、長尾景春に加担し、1478年、上杉氏家臣の太田道灌に敗れ、ここに450余年の歴史を営んだ豊島氏はついに滅亡した。それから更に約100年後の1590年、徳川家康は、太田道灌が築いた江戸城に入り、関東で続いていた戦乱の時代は終息した。しかし、関東の戦乱の時代に、石神の宿った青い石は行方知れずとなり、石神の伝説を伝える者は誰もいなくなっていた。

第2章 1985年( 1 / 5 )

1985年

 1985年は、日本の経済成長の最盛期であった。働く人の給料は上がり続け、団塊世代を中心とした大人たちは一億総中流社会を謳歌し、現在の延長線上に未来社会があると信じていた。一方、彼らの子供世代は学生時代を迎えていたが、彼らの現実は、大人たちが経験した学生時代とは異なるものだった。団塊世代の学生時代は、皆が似たような境遇(例えば、貧乏人の子沢山の子)の集団の中で、競争社会を生き抜いていく準備をすることができた。しかし、子供世代の学生時代は、皆が違う境遇や個性を際立たせ、競争社会への準備をする前に、いきなり受験競争、就職競争の中に放り込まれた。そして、団塊世代の学生時代には与えられなかった文明の恩恵(マイルーム、マイテレビ、マイコンピューターなど)が、子供世代に与えられたとは言え、彼らは自力で競争を生き抜くことが求められた。大人たちが経験してきた過去と子供たちが向かい合う現実とが分断されはじめた時代。大人たちが期待する未来と子供たちが迎える未来とが分断されはじめた時代。それが1985年だった。

第2章 1985年( 2 / 5 )

3人の一人っ子

 仁が物心ついた頃、仁のまわりは仁をよく知る優しい人たちばかりだった。何をやっても、「よくできた」と誉められこそ、「こんなこともできないのか」と現在のように責められたりはしなかった。
 仁が小学6年生のときに、先ず愛犬が亡くなった。それからおばあちゃんが亡くなり、続けざまにおじいちゃんも亡くなった。また、幼馴染みの雄一が、祖父母を残し、両親とともに九州に引っ越して行った。それからというもの、仁のまわりは一変してしまった。それ以来、苦手だった友達ばかりが近付いてくると仁は感じた。友達も先生も両親もみんな仁を責める側に回ったと感じた。それは、遊び場でも、学校でも、家でも同じだと仁は感じた。仁はたった1人で自分を守らなくてはならなくなったと感じた。仁が初めて自分を守るために取った行動は黙りこむことだったが、それでもだめなら泣くしかなかった。仁は、責められると泣いてしまう泣き虫っ子になった。

 仁は、中学校に入ると「オジン」という馬鹿にしたようなあだ名で呼ばれるようになった。それは、名前が「じん」ということ、運動神経が悪く動作がスローモーなこと、寡黙なこと、頭が丸坊主なこと、年寄り臭いこと(時代劇、植木、庭石に詳しい)など・・・・・・。要は、おじいさんみたいだったからだ。仁が年寄り臭いのは、おじいちゃんとおばあちゃんの影響があったのかも知れない。雄一が去り、仁の唯一の幼馴染みであるアスナは、それでもオジンとは呼ばずに、以前と同じように「仁くん」と呼んだ。また、アスナは、むやみに仁を責めたりもしなかった。それがせめてもの救いだった。

 仁が中学1年生のときに、仁にとっては思い出したくないソフトボール事件があり、仁は泣き虫っ子を止めて、嘘つきっ子になった。それは、学校行事で親睦のために行われたソフトボールの試合で、運動神経に恵まれなかった仁はエラーを繰り返して、仁が参加したチームの足を大きく引っ張った。チームメイトは、仁こそが敗因の全てであるかのように、仁をみんなで責めたてた。仁は勝敗だけが全てじゃないだろうと言いたかったが言えなかった。そんなときの仁は、今までならば泣き虫っ子になって、みんなに愛想尽かしてもらうか、あるいは、あきらめて許してもらうのが常であった。しかし、泣き虫っ子を演じることは、中学生にもなって自分でも嫌でしょうがなかったから、仁は意を決して、嘘つきっ子になることにした。
「足が痛かったんだ。昨日、多分足を捻挫したんだ」
 とか出まかせを言った。すると、誰かが、
「嘘をつくな、今朝は遅刻しそうになって走ってたじゃないか」
 と言った。
「いや、あの時は痛いのを我慢して必死に走ったんだ」
 と仁はまた嘘をついた。すると、別の誰かが体育教師で担任の中村先生を呼び、仁の足が捻挫らしいから、嘘か本当か調べてくれと言った。この中村という担任がまた仁にとっては鬱陶しくて、仁は完全に苦手としていた。中村先生は、仁を保健室に連れて行き、一応は捻挫かどうか調べた。仁は、中村先生が足を触るたびに、「痛い、痛い」とわめいてみせたが、すぐに嘘だとばれてしまった。中村先生は仁を尋問した。
「なぜ、嘘をつくんだ?」
 仁は、もう泣いて誤魔化すことは止めたんだ。1人で自分を守るためには嘘をつくのはしょうがないんだと考えていた。すると、
「いいか、嘘をつくのが良くないってことは、もう中学生なんだから知っているだろ」
 と中村先生は言った。仁は、中村先生は僕のことを何も分かっちゃいないと思ったが、気持ちとはうらはらに中村先生にうなずいた。
「それじゃ、反省文を明日までに書いてこい」
 と中村先生は言った。
 仁は反省文に、「嘘をつくのは悪かったです。反省して今後は嘘をつきません」と嘘を書いた。
 しかし、仁はたびたび「嘘つき事件」を起こした。その度に、仁は中村先生と同じようなやり取りを繰り返した。すると、中村先生はとうとう諦めたらしく、その後は、
「またか、いい加減にしろよ」
 で尋問は終わった。その代わり、2学期の通知表に、「嘘をつく癖があるから、家庭でのしつけをお願いします」と書いてきた。
 仁の父親も、母親も、通知表を見て、たいそう心配して仁に訳を聞いた。仁は、
「あの担任の先生がおかしい。何か誤解している。先生に説明して3学期の通知表には書かれないようにする」
 とまた嘘を言った。
 仁の両親は、仁の説明に納得はできなかったが、さりとてどう対処すればいいか思い付かなかった。仁の父親が自分の子供時分を思い出してみると、父親がいつも目を光らせていて、嘘をつこうものならこっぴどく叱られたし、父親に運よく見つからなかったとしても兄弟の誰かに見つかって、結局は叱られただろうと思った。しかし、仁の父親も母親も忙しくて、仁に目を光らせることはとてもできなかった。それに仁は一人っ子だから、仁の父親の子供時代のように両親の代わりに目を配る兄弟もいないのだ。
 仁は、次には嘘をつくのを止めて、敢えて1人で閉じこもることにした。人とかかわると、何があろうと結局は嘘をつくはめに陥り、嘘をつきはじめると、嘘が嘘を呼んでとめどがなくなった。それに対して、1人で閉じこもることは、仁にとって苦痛でも何でもなかった。仁には自分の部屋があり、自分のテレビと自分のビデオデッキがあった。自分の本、まんが、そして自由に使える小遣いがあり、何よりも自分の時間があった。果たして、3学期の通知表には、嘘つきとは書かれなかったが、「1人で閉じこもりがちで心配だから、家庭でも閉じこもらないようにしてほしい」とあった。
 仁の両親は、通知表を見て、またもや頭を悩ませてしまった。仁の父親は、自分の子供時代は子沢山の家ばかりで、子供の部屋などなく、閉じこもるのはほぼ不可能だったと思った。仁の両親は、自分たちの子供が向かい合う現実に対処するのに、自分たちの過去の経験が通用しないことに気付いて愕然とした。

 仁が中学2年生のときに、年をとった寿司屋の親方が買出しに行けなくなり、仁の父親が代わりに買出しをすることになって、おじいちゃんとおばあちゃんが丹精込めて手入れした庭の半分が駐車場に作り変えられた。駐車場には「泉寿司」と書いた白い軽のワンボックスカーが停められた。庭の奥にはおじいちゃんとおばあちゃんが、植木や庭石を運ぶのに使った古びたリヤカーが、当時のままに立て掛けられてあった。わずかに残った庭には、駐車場になった場所にあった大きな庭石がいくつか転がっていた。仁は、それを見ると、小学5年生の頃から反抗期になって、おじいちゃんとおばあちゃんにも反抗したことを思い出し、密かに後悔した。
 そして、庭に洗濯物を干す場所が足りなくなったので、駐車場の上に木製の物干し場が作られた。それは2階の東側の仁の部屋とつながっていた。仁の家の物干し場は、アスナの家の敷地のすれすれにまで近付いていて、そこがちょうどアスナの部屋になっていた。アスナが部屋の窓を開けると、約70センチ位のところに仁の家の物干し場がきた。運動神経が抜群のアスナは、易々とアスナの部屋の窓から物干し場の手摺りに飛び移ったり、また逆に物干し場の手摺りからアスナの部屋の窓に飛び移った。仁もアスナにそそのかされてやってみようとしたが、手摺りに立って下を見ると足がすくんで動けなかった。そういうわけで、物干し場ができてから、アスナは時々、仁の家の玄関を通らずに仁の部屋にやってきた。それは多分、仁が閉じこもりがちになったから、アスナが幼馴染みのよしみで心配してくれたからかも知れない。とにかく、アスナがやってくると安普請の物干し場は、ドスン(アスナが手摺りから飛び降りた音)、ミシミシ(アスナが歩いている音)と、大きな音がするので、アスナがやってくるのがすぐに分かるという具合だった。

 仁が中学3年生のある日、幼馴染みの雄一がひょっこりこの町に戻って来て、仁と同じ中学校に通うようになった。実は、雄一の父親だけは戻っては来なかったのだが、雄一はそれを誰にも言わなかった。戻って来た雄一は、いつの間にか仁の味方から、仁を責める側に変わったと仁は思った。しかし、雄一の方は、仁の方こそ情けない奴に変わったと思った。仁はやればできるはずなのに、自分勝手に自分の殻に閉じこもるから。雄一は、仁の自分勝手な閉じこもりを正そうと世話をやいた。雄一は、仁をオジンとは呼ばなかったが、自分から頑張ろうとしない仁を責めた。曰く、
「仁はオレと同じように頑張れるはずだ」と。
 しかし、仁は思った。雄一は僕とは違う。まず、雄一は頭も運動神経がいいから、なかなか失敗しない。もしも失敗したとしても、雄一が謝れば誰も雄一を責められない。なぜなら、雄一ができないならば誰にもできないのだから。しかし、僕が失敗すると誰もが僕を責める。だから、僕は一生懸命言い訳をするしかなくなるのだ。それでもまだ責める奴がいると、僕は止むに止まれず嘘をついたが、嘘をつくのが嫌になったから、僕はバリアーを張って自分の殻に閉じこもることにしたのだ。
 雄一は何でも頑張るし、みんなが嫌がることにも率先して取り組むような優等生だったが、仁には、そういう雄一が鬱陶しくてかなわなかった。放っといてくれと思った。仁は雄一が何より苦手になった。意地悪な奴だと誤解して距離をおいた。
 そして、アスナも雄一と同じように、仁に、閉じこもりからの脱出を勧めたが、仁は脱出する気は毛頭なかった。しかし、仁はアスナに対してだけは、人との係わり合いを避けるための心のバリアーを解くことがたまにあった。それは仁にとってアスナが聖母のように優しいことがたまにあったからだ。
 仁の両親は、閉じこもりがちで成績も芳しくなかった仁に、中学を卒業したら両親のいる寿司屋で働けといった。仁の父親も中学を卒業してすぐに寿司屋で働きだしたのだ。また、同じ店ならば、仁に目を配ることもできると考えたのだ。しかし、仁は、それに逆らい、都立の工業高校を受験し、かろうじて合格した。
 一方、雄一は、祖父母が病気がちで家計が苦しかったため、大学への進学校を受験せず、仁と同じ都立の工業高校を受験して易々と合格した。
 また、アスナは、中学での成績は芳しくはなかったが、スポーツ特待生として私立高校に入った。アスナは母親がやっているライターという仕事に憧れ、高校の新聞部に入り、その後はスポーツよりも近所の催しなどを取材して学校新聞に記事を載せることに励んだ。
 高校生生活が始まっても、仁は相変わらず閉じこもり気味だった。仁は両親のいる寿司屋には決して近寄らなかったが、アスナは記事のネタ探しを兼ねて、ときたま寿司屋を手伝うようになった。アスナは明るい性格で健康的な美人だったから寿司屋の常連さんたちに歓迎された。ある日、アスナが手伝いに行ったとき、仁の両親から、仁をいろいろな場面に連れ出してほしいと頼まれた。
 アスナは、雄一に仁を連れ出す相談をした。雄一も仁が閉じこもりがちなのをなんとかしたいと思っていたから、雄一はアスナに尋ねた。
「あいつは閉じこもって何をしているんだ?」
「庭の手入れと、最近はファミリーコンピューターにハマっていると思う」
「庭の手入れ? オジンだなぁ、それとファミリーコンピューターかぁ、聞いたことがある」
 アスナも雄一もファミリーコンピューターは持ってはいなかった。
「あいつんちは金持ちだなぁ」
「お小遣いを貯めてやっと買ったって言ってたけど」
「そうだ、コンピューターか! それがいい」
 雄一は、当時流行り始めたパーソナルコンピューターを学校に買わせて、コンピュータークラブを作ることを思い付いた。仁が、コンピューターゲームを好きなのだったら、1人で部屋にこもらずに、学校のクラブ活動でみんなとやればいいと思ったのだ。
 アスナも、
「それはいいことを思い付いたわね」
 と大賛成した。そして、
「アタシも何か考えなきゃ」
「おい、まずは、オレの考えでやろうぜ」
「そうだけど、アタシもいいこと思い付きたいの!」
 アスナは一旦言い出したらきかない。雄一が、
「しばらく、アスナは記事でも書いてなって」
 と言うと、
「あっ、そうだ。それそれ。お手柄犬の取材に連れて行こうっと」
「何それ、それもオレのアイディアじゃないか」
「いいえ、お手柄犬を思い付いたのはアタシよ。雄一くん、ありがとう」
 こう言われると雄一は何も言えなかった。

 雄一が、仁にコンピュータークラブを一緒にやろうと誘うと、仁は雄一が鬱陶しいと思ったが、コンピューターでゲームをしていれば気にすることはないと考えて賛成した。そこで雄一が学校に申し入れると、そんな予算はないし、学校でゲーム遊びはダメだと言われてしまった。さらに、仁がやりたくないと言い出した。仁は、また雄一にいいところを見せられて、自分はヘマをするはめになると思ったのだ。雄一も仁も学校の先生も、パーソナルコンピューターの使い道としてゲーム遊びしか思い付かなかったのだ。結局、雄一の名案はボツになった。

 アスナの言うお手柄犬というのは、泥棒を捕まえたということで先日新聞に載った犬のことだった。お手柄犬は堀船町の隣の滝野川にいるから、学校新聞に載せる記事を書くため、仁を連れて取材に行くことにしたのだ。アスナは犬が苦手だから、犬が好きな仁に一緒に来てほしいと頼んだのだ。仁は案の定、嫌だと言ったが、
「あら、アタシが犬に噛みつかれてもいいの」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃ、いいのね。仁くん、ありがとう。今度の土曜日よ」
 仁は、アスナに逆らうのは無理だと改めて知るのだった。
 滝野川は、高台の上野台地にある。西から流れてきた石神井川が上野台地を削り、渓谷となって流れ、滝がたくさんあったということからその名がついた。石神井川は、上野台地を下り低地帯の堀船町周辺にくると音無川とも呼ばれ、堀船町で隅田川に合流する。
 アスナと仁は、滝野川に行ってお手柄犬の飼い主の老夫婦に会うことができ、アスナは手作りの名刺を飼い主のご主人に手渡した。お手柄犬は、最近知り合いからもらってきた犬だったが、今はどこかに逃げてしまったと言う。あの犬は外につなぐとうるさく吠えるし、家に入れると吠えなくなるが、ウンチとオシッコが臭くて実は困っていたところだと言う。お手柄犬ということで有名になってしまったから、今更保健所には連れていけないし、と思っていたらちょうど逃げてしまったと言う。仁は、愛情なく犬を飼うなと腹がたった。飼い主は、逃げられて良かった、探さないでくれと言う。お手柄犬の写真も取れず、記事にもならずに2人は帰ってきた。
 ところが数日後、逃げた犬が見つかったと飼い主からアスナに電話があった。アスナは、仁にまた取材に行こうと誘ったが、仁は飼い主が気に入らないとまだ怒っていた。そこで、アスナだけで飼い主に会いに行くと、飼い主は、逃げた犬が帰ってきて、かわいくて仕方ないと思うようになったと言う。だから手放せなくなったとアスナに言った。アスナが仁に取材内容を報告すると、仁は人にかかわるとろくでもないから気をつけろと言った。アスナは、この顛末は美談だから学校新聞の記事になると言った。しかし、仁は、あの飼い主はどうせまたあの犬が嫌になるに違いないと言った。そして、仁の言う通りとなった。
 そして、1985年、3人の一人っ子たちの高校2年の春が来た。

maizumi
作家:志茂井真泉
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