我ハ、しゃくじん(石神)デアル無料版

第1章 プロローグ( 4 / 4 )

1000年前

 奈良に朝廷があった飛鳥時代、土着豪族の国造(くにのみやつこ)が治める地域や、県主(あがたぬし)が治める地域が各地に散在していたが、701年、大宝律令が制定され、朝廷は令制国と国府を定め、国司を派遣して治めさせることにした。関東では令制国の1つとして武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県東部)が定められたが、当時の日本の中心地は関西に移っていて、武蔵国は都から遠く離れた「へき地」となっていた。武蔵国の領地は、无邪志(むざし)国造の領地と、知知夫(ちちぶ)国造の領地を合わせたものとされる。
 多摩川のほとり武蔵国多摩郡(現在の東京都府中市)に、111年に創建されたという大國魂神社があり、代々の无邪志国造が祭務を行なったとされる。武蔵国の国府は府中に定められ、703年、武蔵国の国司が都から赴任してきた。国司の着任後の最初の仕事は赴任した国の全ての神社を巡って参拝することであったが、その国の全ての神社の神様を合祀する「総社」を定め、そこに詣でることによって神社の巡回を省くことが広まり、大國魂神社が武蔵国の総社とされた。

 京都に朝廷が移った平安時代(およそ1000年前)に、武蔵国を事実上治めていたのは秩父氏という開発領主であった。秩父氏の一族には、男衾郡畠山郷(現在の埼玉県大里郡寄居町)を拠点に荒川上流を治めた畠山氏、入間郡河越(現在の川越市)を拠点に入間川流域を治めた河越氏、下総国葛飾郡葛西(現在の葛飾区)を拠点に利根川下流域を治めた葛西氏、江戸(現在の千代田区)を拠点に江戸湊と浅草を治めた江戸氏、橘樹郡稲毛荘(現在の川崎市登戸付近)を拠点に多摩川下流域を治めた稲毛氏、そして、堀船町のある武蔵国豊島郡では豊島(現在の北区豊島町)、石神井(現在の練馬区石神井台)、平塚(現在の北区上中里)などに拠点を置き、隅田川と石神井川の流域を治めた豊島氏がいた。
 豊島氏の一族には、練馬(現在の練馬区)に拠点を置いた練馬氏、板橋(現在の板橋区)に拠点を置いた板橋氏、赤塚(現在の板橋区赤塚)に拠点を置いた赤塚氏、志村(現在の板橋区志村)に拠点を置いた志村氏、滝野川(現在の北区滝野川町)に拠点を置いた滝野川氏、足立郡宮城堀之内(現在の足立区宮城町・堀之内町)に拠点を置いた宮城氏などがいた。
 秩父氏の一族は、入間川、荒川、隅田川、利根川、多摩川など関東の川筋の地域に勢力を伸ばし、「川筋族」とでも言うべき特徴を持った開発領主であった。川筋の土地は、魚介類が取れ、生活用水に困らず、水運に便利、防衛線になるなど、利点も多いが、毎年洪水に見舞われるという難点もあった。殊に、関東平野の川筋の土地は、山間部とは異なり、洪水のたびに川筋が大きく変わる氾濫原となっており、当時は住むにも耕作にも適さない土地とされていた。しかし、秩父氏の一族は、そうした川筋の土地に根付いて開発し、武蔵国を繁栄する国に変えていった。後に武蔵平一揆の乱(1368年)にて室町幕府配下の鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の大軍に敗れるまでの約350年にわたり、周囲に武力でまさる列強氏族がいたにもかかわらず、武蔵国を治め続けた(後の徳川氏よりも長い)。それは、秩父氏の一族が武力だけでなく、川筋の土地の「治水技術」を兼ね備えた氏族だったからだとされるが、後に述べる現在の石神の言によれば、秩父氏一族の豊島氏は、平塚の地に石神の宿る青い石を祀り、石神との交信によって得た天変地異の予知情報を大いに利用したのだという。また、豊島氏は、1000年ごとに行なわれる石神の交代の儀式を盛大に執り行ったのだという。

 豊島氏は、武蔵平一揆の乱で秩父氏一族が崩壊した後も関東管領上杉氏の家臣として生き残り、豊島郡を治めた。武蔵平一揆の乱の約10年後の1380年頃、鎌倉公方足利氏の家臣で梶原道景という武将が堀船町あたりに移り住み、梶原堀之内村と呼ばれることになる。それから約100年後の1476年、上杉氏家臣の長尾景春が起こした長尾景春の乱において、豊島氏は、長尾景春に加担し、1478年、上杉氏家臣の太田道灌に敗れ、ここに450余年の歴史を営んだ豊島氏はついに滅亡した。それから更に約100年後の1590年、徳川家康は、太田道灌が築いた江戸城に入り、関東で続いていた戦乱の時代は終息した。しかし、関東の戦乱の時代に、石神の宿った青い石は行方知れずとなり、石神の伝説を伝える者は誰もいなくなっていた。

第2章 1985年( 1 / 5 )

1985年

 1985年は、日本の経済成長の最盛期であった。働く人の給料は上がり続け、団塊世代を中心とした大人たちは一億総中流社会を謳歌し、現在の延長線上に未来社会があると信じていた。一方、彼らの子供世代は学生時代を迎えていたが、彼らの現実は、大人たちが経験した学生時代とは異なるものだった。団塊世代の学生時代は、皆が似たような境遇(例えば、貧乏人の子沢山の子)の集団の中で、競争社会を生き抜いていく準備をすることができた。しかし、子供世代の学生時代は、皆が違う境遇や個性を際立たせ、競争社会への準備をする前に、いきなり受験競争、就職競争の中に放り込まれた。そして、団塊世代の学生時代には与えられなかった文明の恩恵(マイルーム、マイテレビ、マイコンピューターなど)が、子供世代に与えられたとは言え、彼らは自力で競争を生き抜くことが求められた。大人たちが経験してきた過去と子供たちが向かい合う現実とが分断されはじめた時代。大人たちが期待する未来と子供たちが迎える未来とが分断されはじめた時代。それが1985年だった。

第2章 1985年( 2 / 5 )

3人の一人っ子

 仁が物心ついた頃、仁のまわりは仁をよく知る優しい人たちばかりだった。何をやっても、「よくできた」と誉められこそ、「こんなこともできないのか」と現在のように責められたりはしなかった。
 仁が小学6年生のときに、先ず愛犬が亡くなった。それからおばあちゃんが亡くなり、続けざまにおじいちゃんも亡くなった。また、幼馴染みの雄一が、祖父母を残し、両親とともに九州に引っ越して行った。それからというもの、仁のまわりは一変してしまった。それ以来、苦手だった友達ばかりが近付いてくると仁は感じた。友達も先生も両親もみんな仁を責める側に回ったと感じた。それは、遊び場でも、学校でも、家でも同じだと仁は感じた。仁はたった1人で自分を守らなくてはならなくなったと感じた。仁が初めて自分を守るために取った行動は黙りこむことだったが、それでもだめなら泣くしかなかった。仁は、責められると泣いてしまう泣き虫っ子になった。

 仁は、中学校に入ると「オジン」という馬鹿にしたようなあだ名で呼ばれるようになった。それは、名前が「じん」ということ、運動神経が悪く動作がスローモーなこと、寡黙なこと、頭が丸坊主なこと、年寄り臭いこと(時代劇、植木、庭石に詳しい)など・・・・・・。要は、おじいさんみたいだったからだ。仁が年寄り臭いのは、おじいちゃんとおばあちゃんの影響があったのかも知れない。雄一が去り、仁の唯一の幼馴染みであるアスナは、それでもオジンとは呼ばずに、以前と同じように「仁くん」と呼んだ。また、アスナは、むやみに仁を責めたりもしなかった。それがせめてもの救いだった。

 仁が中学1年生のときに、仁にとっては思い出したくないソフトボール事件があり、仁は泣き虫っ子を止めて、嘘つきっ子になった。それは、学校行事で親睦のために行われたソフトボールの試合で、運動神経に恵まれなかった仁はエラーを繰り返して、仁が参加したチームの足を大きく引っ張った。チームメイトは、仁こそが敗因の全てであるかのように、仁をみんなで責めたてた。仁は勝敗だけが全てじゃないだろうと言いたかったが言えなかった。そんなときの仁は、今までならば泣き虫っ子になって、みんなに愛想尽かしてもらうか、あるいは、あきらめて許してもらうのが常であった。しかし、泣き虫っ子を演じることは、中学生にもなって自分でも嫌でしょうがなかったから、仁は意を決して、嘘つきっ子になることにした。
「足が痛かったんだ。昨日、多分足を捻挫したんだ」
 とか出まかせを言った。すると、誰かが、
「嘘をつくな、今朝は遅刻しそうになって走ってたじゃないか」
 と言った。
「いや、あの時は痛いのを我慢して必死に走ったんだ」
 と仁はまた嘘をついた。すると、別の誰かが体育教師で担任の中村先生を呼び、仁の足が捻挫らしいから、嘘か本当か調べてくれと言った。この中村という担任がまた仁にとっては鬱陶しくて、仁は完全に苦手としていた。中村先生は、仁を保健室に連れて行き、一応は捻挫かどうか調べた。仁は、中村先生が足を触るたびに、「痛い、痛い」とわめいてみせたが、すぐに嘘だとばれてしまった。中村先生は仁を尋問した。
「なぜ、嘘をつくんだ?」
 仁は、もう泣いて誤魔化すことは止めたんだ。1人で自分を守るためには嘘をつくのはしょうがないんだと考えていた。すると、
「いいか、嘘をつくのが良くないってことは、もう中学生なんだから知っているだろ」
 と中村先生は言った。仁は、中村先生は僕のことを何も分かっちゃいないと思ったが、気持ちとはうらはらに中村先生にうなずいた。
「それじゃ、反省文を明日までに書いてこい」
 と中村先生は言った。
 仁は反省文に、「嘘をつくのは悪かったです。反省して今後は嘘をつきません」と嘘を書いた。
 しかし、仁はたびたび「嘘つき事件」を起こした。その度に、仁は中村先生と同じようなやり取りを繰り返した。すると、中村先生はとうとう諦めたらしく、その後は、
「またか、いい加減にしろよ」
 で尋問は終わった。その代わり、2学期の通知表に、「嘘をつく癖があるから、家庭でのしつけをお願いします」と書いてきた。
 仁の父親も、母親も、通知表を見て、たいそう心配して仁に訳を聞いた。仁は、
「あの担任の先生がおかしい。何か誤解している。先生に説明して3学期の通知表には書かれないようにする」
 とまた嘘を言った。
 仁の両親は、仁の説明に納得はできなかったが、さりとてどう対処すればいいか思い付かなかった。仁の父親が自分の子供時分を思い出してみると、父親がいつも目を光らせていて、嘘をつこうものならこっぴどく叱られたし、父親に運よく見つからなかったとしても兄弟の誰かに見つかって、結局は叱られただろうと思った。しかし、仁の父親も母親も忙しくて、仁に目を光らせることはとてもできなかった。それに仁は一人っ子だから、仁の父親の子供時代のように両親の代わりに目を配る兄弟もいないのだ。
 仁は、次には嘘をつくのを止めて、敢えて1人で閉じこもることにした。人とかかわると、何があろうと結局は嘘をつくはめに陥り、嘘をつきはじめると、嘘が嘘を呼んでとめどがなくなった。それに対して、1人で閉じこもることは、仁にとって苦痛でも何でもなかった。仁には自分の部屋があり、自分のテレビと自分のビデオデッキがあった。自分の本、まんが、そして自由に使える小遣いがあり、何よりも自分の時間があった。果たして、3学期の通知表には、嘘つきとは書かれなかったが、「1人で閉じこもりがちで心配だから、家庭でも閉じこもらないようにしてほしい」とあった。
 仁の両親は、通知表を見て、またもや頭を悩ませてしまった。仁の父親は、自分の子供時代は子沢山の家ばかりで、子供の部屋などなく、閉じこもるのはほぼ不可能だったと思った。仁の両親は、自分たちの子供が向かい合う現実に対処するのに、自分たちの過去の経験が通用しないことに気付いて愕然とした。

 仁が中学2年生のときに、年をとった寿司屋の親方が買出しに行けなくなり、仁の父親が代わりに買出しをすることになって、おじいちゃんとおばあちゃんが丹精込めて手入れした庭の半分が駐車場に作り変えられた。駐車場には「泉寿司」と書いた白い軽のワンボックスカーが停められた。庭の奥にはおじいちゃんとおばあちゃんが、植木や庭石を運ぶのに使った古びたリヤカーが、当時のままに立て掛けられてあった。わずかに残った庭には、駐車場になった場所にあった大きな庭石がいくつか転がっていた。仁は、それを見ると、小学5年生の頃から反抗期になって、おじいちゃんとおばあちゃんにも反抗したことを思い出し、密かに後悔した。
 そして、庭に洗濯物を干す場所が足りなくなったので、駐車場の上に木製の物干し場が作られた。それは2階の東側の仁の部屋とつながっていた。仁の家の物干し場は、アスナの家の敷地のすれすれにまで近付いていて、そこがちょうどアスナの部屋になっていた。アスナが部屋の窓を開けると、約70センチ位のところに仁の家の物干し場がきた。運動神経が抜群のアスナは、易々とアスナの部屋の窓から物干し場の手摺りに飛び移ったり、また逆に物干し場の手摺りからアスナの部屋の窓に飛び移った。仁もアスナにそそのかされてやってみようとしたが、手摺りに立って下を見ると足がすくんで動けなかった。そういうわけで、物干し場ができてから、アスナは時々、仁の家の玄関を通らずに仁の部屋にやってきた。それは多分、仁が閉じこもりがちになったから、アスナが幼馴染みのよしみで心配してくれたからかも知れない。とにかく、アスナがやってくると安普請の物干し場は、ドスン(アスナが手摺りから飛び降りた音)、ミシミシ(アスナが歩いている音)と、大きな音がするので、アスナがやってくるのがすぐに分かるという具合だった。

 仁が中学3年生のある日、幼馴染みの雄一がひょっこりこの町に戻って来て、仁と同じ中学校に通うようになった。実は、雄一の父親だけは戻っては来なかったのだが、雄一はそれを誰にも言わなかった。戻って来た雄一は、いつの間にか仁の味方から、仁を責める側に変わったと仁は思った。しかし、雄一の方は、仁の方こそ情けない奴に変わったと思った。仁はやればできるはずなのに、自分勝手に自分の殻に閉じこもるから。雄一は、仁の自分勝手な閉じこもりを正そうと世話をやいた。雄一は、仁をオジンとは呼ばなかったが、自分から頑張ろうとしない仁を責めた。曰く、
「仁はオレと同じように頑張れるはずだ」と。
 しかし、仁は思った。雄一は僕とは違う。まず、雄一は頭も運動神経がいいから、なかなか失敗しない。もしも失敗したとしても、雄一が謝れば誰も雄一を責められない。なぜなら、雄一ができないならば誰にもできないのだから。しかし、僕が失敗すると誰もが僕を責める。だから、僕は一生懸命言い訳をするしかなくなるのだ。それでもまだ責める奴がいると、僕は止むに止まれず嘘をついたが、嘘をつくのが嫌になったから、僕はバリアーを張って自分の殻に閉じこもることにしたのだ。
 雄一は何でも頑張るし、みんなが嫌がることにも率先して取り組むような優等生だったが、仁には、そういう雄一が鬱陶しくてかなわなかった。放っといてくれと思った。仁は雄一が何より苦手になった。意地悪な奴だと誤解して距離をおいた。
 そして、アスナも雄一と同じように、仁に、閉じこもりからの脱出を勧めたが、仁は脱出する気は毛頭なかった。しかし、仁はアスナに対してだけは、人との係わり合いを避けるための心のバリアーを解くことがたまにあった。それは仁にとってアスナが聖母のように優しいことがたまにあったからだ。
 仁の両親は、閉じこもりがちで成績も芳しくなかった仁に、中学を卒業したら両親のいる寿司屋で働けといった。仁の父親も中学を卒業してすぐに寿司屋で働きだしたのだ。また、同じ店ならば、仁に目を配ることもできると考えたのだ。しかし、仁は、それに逆らい、都立の工業高校を受験し、かろうじて合格した。
 一方、雄一は、祖父母が病気がちで家計が苦しかったため、大学への進学校を受験せず、仁と同じ都立の工業高校を受験して易々と合格した。
 また、アスナは、中学での成績は芳しくはなかったが、スポーツ特待生として私立高校に入った。アスナは母親がやっているライターという仕事に憧れ、高校の新聞部に入り、その後はスポーツよりも近所の催しなどを取材して学校新聞に記事を載せることに励んだ。
 高校生生活が始まっても、仁は相変わらず閉じこもり気味だった。仁は両親のいる寿司屋には決して近寄らなかったが、アスナは記事のネタ探しを兼ねて、ときたま寿司屋を手伝うようになった。アスナは明るい性格で健康的な美人だったから寿司屋の常連さんたちに歓迎された。ある日、アスナが手伝いに行ったとき、仁の両親から、仁をいろいろな場面に連れ出してほしいと頼まれた。
 アスナは、雄一に仁を連れ出す相談をした。雄一も仁が閉じこもりがちなのをなんとかしたいと思っていたから、雄一はアスナに尋ねた。
「あいつは閉じこもって何をしているんだ?」
「庭の手入れと、最近はファミリーコンピューターにハマっていると思う」
「庭の手入れ? オジンだなぁ、それとファミリーコンピューターかぁ、聞いたことがある」
 アスナも雄一もファミリーコンピューターは持ってはいなかった。
「あいつんちは金持ちだなぁ」
「お小遣いを貯めてやっと買ったって言ってたけど」
「そうだ、コンピューターか! それがいい」
 雄一は、当時流行り始めたパーソナルコンピューターを学校に買わせて、コンピュータークラブを作ることを思い付いた。仁が、コンピューターゲームを好きなのだったら、1人で部屋にこもらずに、学校のクラブ活動でみんなとやればいいと思ったのだ。
 アスナも、
「それはいいことを思い付いたわね」
 と大賛成した。そして、
「アタシも何か考えなきゃ」
「おい、まずは、オレの考えでやろうぜ」
「そうだけど、アタシもいいこと思い付きたいの!」
 アスナは一旦言い出したらきかない。雄一が、
「しばらく、アスナは記事でも書いてなって」
 と言うと、
「あっ、そうだ。それそれ。お手柄犬の取材に連れて行こうっと」
「何それ、それもオレのアイディアじゃないか」
「いいえ、お手柄犬を思い付いたのはアタシよ。雄一くん、ありがとう」
 こう言われると雄一は何も言えなかった。

 雄一が、仁にコンピュータークラブを一緒にやろうと誘うと、仁は雄一が鬱陶しいと思ったが、コンピューターでゲームをしていれば気にすることはないと考えて賛成した。そこで雄一が学校に申し入れると、そんな予算はないし、学校でゲーム遊びはダメだと言われてしまった。さらに、仁がやりたくないと言い出した。仁は、また雄一にいいところを見せられて、自分はヘマをするはめになると思ったのだ。雄一も仁も学校の先生も、パーソナルコンピューターの使い道としてゲーム遊びしか思い付かなかったのだ。結局、雄一の名案はボツになった。

 アスナの言うお手柄犬というのは、泥棒を捕まえたということで先日新聞に載った犬のことだった。お手柄犬は堀船町の隣の滝野川にいるから、学校新聞に載せる記事を書くため、仁を連れて取材に行くことにしたのだ。アスナは犬が苦手だから、犬が好きな仁に一緒に来てほしいと頼んだのだ。仁は案の定、嫌だと言ったが、
「あら、アタシが犬に噛みつかれてもいいの」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃ、いいのね。仁くん、ありがとう。今度の土曜日よ」
 仁は、アスナに逆らうのは無理だと改めて知るのだった。
 滝野川は、高台の上野台地にある。西から流れてきた石神井川が上野台地を削り、渓谷となって流れ、滝がたくさんあったということからその名がついた。石神井川は、上野台地を下り低地帯の堀船町周辺にくると音無川とも呼ばれ、堀船町で隅田川に合流する。
 アスナと仁は、滝野川に行ってお手柄犬の飼い主の老夫婦に会うことができ、アスナは手作りの名刺を飼い主のご主人に手渡した。お手柄犬は、最近知り合いからもらってきた犬だったが、今はどこかに逃げてしまったと言う。あの犬は外につなぐとうるさく吠えるし、家に入れると吠えなくなるが、ウンチとオシッコが臭くて実は困っていたところだと言う。お手柄犬ということで有名になってしまったから、今更保健所には連れていけないし、と思っていたらちょうど逃げてしまったと言う。仁は、愛情なく犬を飼うなと腹がたった。飼い主は、逃げられて良かった、探さないでくれと言う。お手柄犬の写真も取れず、記事にもならずに2人は帰ってきた。
 ところが数日後、逃げた犬が見つかったと飼い主からアスナに電話があった。アスナは、仁にまた取材に行こうと誘ったが、仁は飼い主が気に入らないとまだ怒っていた。そこで、アスナだけで飼い主に会いに行くと、飼い主は、逃げた犬が帰ってきて、かわいくて仕方ないと思うようになったと言う。だから手放せなくなったとアスナに言った。アスナが仁に取材内容を報告すると、仁は人にかかわるとろくでもないから気をつけろと言った。アスナは、この顛末は美談だから学校新聞の記事になると言った。しかし、仁は、あの飼い主はどうせまたあの犬が嫌になるに違いないと言った。そして、仁の言う通りとなった。
 そして、1985年、3人の一人っ子たちの高校2年の春が来た。

第2章 1985年( 3 / 5 )

町内の人たち

 仁の両親が働いている寿司屋は、梶原商店街の入り口近くにある。本屋と花屋に挟まれた間口6メートル、奥行き10メートルほどの小さめの店である。店に入ると左側に4人掛けのテーブル席が2つあり、右側には4人くらい並んで座れるカウンターがある。カウンターの内側で仁の父親が寿司を握り、母親がお茶を淹れたり、味噌汁を作ったり、お酒をつけたり、レジを扱ったりする。店の奥には部屋が2つあり、左側の部屋は客用の6畳の座敷で、右側の部屋は3畳の板間になっている。板間は、仁の両親が休憩したり、物を置いたりするのに使っている。この板間に沿って2階へ続く階段があり、板間の奥には裏手に出る勝手口がある。2階には寿司屋の親方が1人で住んでいる。親方が寿司屋の持ち主であり、仁の両親は親方に面倒をみてもらっていることになるわけだが、親方は70歳近くの老人で、跡取りも家族もいないので実際は逆に仁の両親が親方の面倒を見ている。板間の部屋の手前に、トイレがあり、トイレの手前に壁で仕切られて、カウンターの内側とつながっている流し台とコンロがある。
 仁の父親はいつも白い半纏(はんてん)を着て、仁と同じ丸坊主の頭に手拭いの鉢巻きをしている。源太という名前なので、通称「源さん」と呼ばれている。仁の母親は雅代という名前なので、「マーちゃん」と呼ばれている。ちなみに寿司屋の箸袋は、折り紙を折って作ったマーちゃんのお手製であり、それが店の唯一の名物になっている。

 毎週金曜日は、寄合と称して商店街の古株さんたちが奥の座敷を占拠するが、お店にとってはありがたいお客様たちであった。さて、今日、4月19日は金曜日で、いつもの通り、座敷には商店街の古株さんたちが集まっていた。時折、
「マーちゃん、ビールもう1本」とかいう声が聞こえる。
「おい、この間の巨人阪神戦を見ただろう」
「あー、見た見た」
「水曜日に阪神がバックスクリーンに3連発をぶち込んだ」
「槙原が、バースと掛布と岡田に打たれた」
「そこでだ、オレは、今年は阪神が優勝すると見た」
「何い、乾物屋は巨人ファンのはずだろ、なあ洋品屋」
「そうだそうだ、阪神が優勝するなんて間違っても口にしちゃぁいけねぇな」
「本屋さん、オレは根っからの巨人ファンだよ、だから阪神が優勝するとは言ってねぇ、優勝するかも知れないと、ちょっと心配になっただけさ」
 そう言って乾物屋と呼ばれた男は満面の笑みを浮かべた。ここで、それまで黙っていた若い男が、
「だけど槙原も気持ちよく打たれ過ぎだよ」
 と言うと、洋品屋と呼ばれた男が口をとがらせながら、
「いや、二代目さんよ、あれは打った方をほめなきゃなぁ」
 と言う。すると、本屋と呼ばれた男が、
「おいおい、洋品屋まで阪神の味方をするのかよ」
 と言う。乾物屋と洋品屋が同時に、
「いや、オレは巨人ファンだ」と言う。
 乾物屋と呼ばれた男は、今は「スーパー武田」の主人だが、娘婿の代になって店を拡張する前は乾物屋だったから、仲間内では未だに乾物屋と呼ばれている。ずんぐりむっくりの体つきで頭が見事に禿げ上がっている。緊張すると満面の笑みを浮かべて誤魔化す癖がある。洋品屋と呼ばれた男は、乾物屋に次ぐ古株で、背がひょろ長い。すぐに口をとんがらせる癖がある。本屋と呼ばれた男は、洋品屋に次ぐ古株で、大柄な体つきをしている。両手を挙げてガッツポーズをする癖がある。二代目と呼ばれた男は、仁の家の隣の町工場の二代目で、体調のすぐれない父親に代わって寄合には欠かさず参加している。
 そこへ、障子を開けて、アスナが入ってきた。ジーンズに白い割烹着という出で立ちだ。お盆にビール瓶が1本載っている。
「さあ、みなさん、お待ちどうさま」
 とにっこり笑って言うと、ビールをテーブルに置いてさっさと出ていく。アスナは、今日は混みそうなので手伝いにきているのだ。
「あれー、マーちゃん、若返っちゃったなぁ」
 と本屋が言うと、
「お前はアホか、マーちゃんと同じ割烹着を着ているけど、あれはアスナちゃんだよ。いつも洋品屋がセクハラなことを言うから、アスナちゃん、さっさと出ていったぞ」
 と乾物屋が言う。
「乾物屋には言われたくないよな」
 と洋品屋が口をとんがらせて乾物屋をにらむが、乾物屋は満面の笑みだった。
 アスナは、今日はライターをしている母親の夏子と一緒に来ていた。母親がここに来るときは、いつもある女性文化人と連れ立って来る。そして、カウンターに座っておしゃべりをする。その女性は、日本語の達者なアメリカ人のおばあさんで、髪の色が白いので一見すると日本人のおばあさんにも見えるが、日本人のおばあさんは着ないような明るい色の服をいつも着ている。今日も普段着のままの常連さんたちの中にあって、オレンジ色の花柄の服は1人だけ垢抜けしている。文化人とは、アスナが付けたあだ名だ。母親がまだ学生の頃、旅行中にその頃は長野に住んでいた女性文化人の家に泊まったことがあったらしい。文化人は元々は画家で、その旦那さんは、やはりアメリカ人で、日本文化を研究する学者だったので夫婦で日本に来ていたらしい。旦那さんは残念なことに、だいぶ前に亡くなったらしいが、文化人は、日本と日本人が好きになって日本に住みついている。しかし、ひとつところには住みつかず、あっちに住んだり、こっちに住んだりしている中で、偶然、アスナの母親と再会したらしい。
 アスナは、母親のライターという仕事に憧れていて、母親が文化人にインタビューしているかのような、2人のおしゃべりを聞くのがお気に入りだった。今日は、曜変天目(ようへんてんもく)茶碗とか言う茶碗の話のようだが、茶碗の話なのに宇宙が出てきたりしている。アスナは、その茶碗を見たことも聞いたこともなかったので、たいへん興味深かったのだが、始終、お座敷からお呼びが掛かって、ところどころしか聞けないでいた。だから、後で母親に聞こうと思っていた。

 午後8時頃になって、新たなお客たちがどやどやと店に入ってきた。いずれも体格のいい大柄な面々だ。それは、道場主をしているアスナの父親の弘と、父親の師匠の渡辺という大先生と、中村という中学の体育教師と、写真屋の4人だった。稽古を終えて、ここに来る途中にある銭湯で、ひとっ風呂浴びてからやってきたようだ。
「おい、アスナ、悪いけど、冷えたビールを頼む」
 とアスナの父親は言いながら、奥のテーブル席に座る。この4人が座ると、テーブルがいかにも小さく見える。
「あなた、今日の夕飯は、ここでね」
 とアスナの母親が父親に言う。
「ああ、そうだと思った」
「源さん、今日も寄合やってる?」
 と写真屋が、奥の座敷を顔で指して仁の父親に尋ねる。
「ああ、いつもと同じさ」
 写真屋は、大先生と、アスナの父親と、体育教師に、
「ちょっと・・・」
 と言いながら、奥の座敷に向かおうとする。そこへ、アスナがビールとコップを4つと漬物の皿を持ってくると、
「やっぱり、ビールが先か」
 とか言いながら、写真屋は大先生とアスナの父親と体育教師のコップにビールを注ぎ、自分のコップにもビールを注ぐ。そして、
「お疲れさまぁ」
 と言って、乾杯した後、コップを飲み干すと、
「それじゃあ、大先生、ちょっと失礼」
 と言って、奥の座敷に向かった。
「中村さんは、やっぱり体育の教師だけあって筋がいいね」
 と大先生が体育教師に言いながら、体育教師のコップと自分のコップにビールを継ぎ足している。
「いやぁ、大先生の指導が厳しいから、一生懸命ですよ」
「引き手をもっと手元に引き寄せる練習をすれば、技に切れ味が出ると思う」
「いやぁ、大先生は何でもお見通しですから・・・」
 アスナの父親は、自分でビールを注ぎ、もくもくと飲んでいる。
「ときに、一昨日の巨人阪神戦は見たか?」
「バース、掛布、岡田の3連発ですか? ええ、プロ野球ニュースで見ました。阪神、すごいじゃないですか、あっ、大先生は巨人ファンでしたっけ」
「阪神ファンだ」
「ああ、じゃいいんだ。ええ、私も阪神ファンでしてね・・・」
「嘘だ。本当は巨人ファンだ」
「ええっ、人が悪いなぁ・・・ じゃあ、今日のところは、私も巨人ファンにしときますよ」
 と言いつつ、体育教師は、大先生とアスナの父親にビールを注ぐ。大先生は笑いながら、
「嘘だよ、本当は大の阪神ファンだ」
 と旨そうにコップをあける。
「それじゃあ、阪神の優勝を祈念して、乾杯」
「アスナ、悪いけど、冷えたビールを頼む。それから、何かつまむもの」
 とアスナの父親が声をあげる。すると、仁の母親が、ビールと刺身の盛り合わせを運んできた。
「大先生、お久しぶりです。先生、アスナちゃんは、ただいまお座敷ですよ。それから、冷えてないビールはお出ししてませんから」
 ときつい口調だが、仁の母親の顔は笑っている。カウンターのアスナの母親が、
「あなたが、声が大き過ぎなのよ」
 とアスナの父親に注意する。カウンターの仁の父親が、
「お前の言い方が失礼だ」
 と仁の母親に注意する。そこへ、戻ってきたアスナが、
「まあまあまあ」
 と皆をなだめに割って入った。

 それから、床屋とやっさんが続いて店に入って来た。床屋は、
「こちとらぁ、古株さんたちみたいな隠居身分じゃなくて現役だからな、お客がいると遅くなっちまうのはしょうがねぇじゃねぇか」
 とぶつぶつ言いつつ、奥の座敷にさっさと入って行った。やっさんは、
「僕も残業で遅くなって。家へ直行しようと思ったんだけれども、そこで床屋さんと一緒になってね、源さん、ビールと、えーと、握りの上をください」
 と言った。やっさんと呼ばれた男は、商店街の近くの実家に住む36歳の独身サラリーマンである。髪を七三に分け、黒っぽいスーツを着て、黒の書類バッグを持っている。やっさんが床屋に続いて座敷へ行こうとすると、カウンターでアスナの母親と話しをしていた女性文化人が、
「やっさーん、お帰りなさい」
 と言った。
「あっ、バーバラさん、こんばんは、奇遇ですね」
 と言って、やっさんはそのままカウンターに座りこんだ。
「アスナちゃんのお母さんもこんばんは」
 とやっさんは言って、店内を見渡すと、
「あっ、道場主さんもこんばんは。大先生、お久しぶりです。あっ、中村先生お疲れ様です」
 と次々に挨拶した。
「やっさーんは、お友達が多いですね」
 と文化人が言うと、アスナの母親が、
「バーバラさんと、やっさんが、仲良しだなんて知らなかった」
 と言った。やっさんは、
「それがね、僕も最近まではバーバラさんのお顔を知ってるくらいだったのですが、この前、バーバラさんのマッキントッシュが調子悪いというので、見させていただいたのです。そうしたら、ここで特上の握りをご馳走になりまして。バーバラさん、どうもご馳走様でした」
「それがね、やっさーんは、マッキントッシュを、パパッと一瞬で治してくださったのよ」
「僕も英語版のマッキントッシュをいじるのは、初めてでしたが、治って良かったです」
「えっ? マッキントッシュって何のこと?」
 文化人は、うふふと静かな微笑を浮かべ、
「じゃあ今度は、マッキントッシュの話題にしましょうか」
 と言い、カウンターでアスナの母親がインタビューする相手は、文化人とやっさんの2人になった。
 夜も更けてきて、アスナ一家と大先生と中村先生は、そろそろ帰り支度に入ろうとした。一方、奥の座敷は、徐々に騒がしくなった。アスナ一家が帰るのなら、文化人とやっさんも帰るということで、順番にレジで精算を始めたときに、奥の座敷からアスナにお呼びがかかった。アスナが座敷に入っていくと、商店街の古株さんたちが、巨人が優勝するか、阪神が優勝するかで言い争っていた。アスナは、古株さんたちの酔いっぷりを見て、これはまずい、こちらを立てればあちらが立たずという非常に難儀な場面に出くわしてしまったと思った。体格のいい写真屋が、
「アスナちゃん、よく来た。アスナちゃんは確か阪神ファンだったよね」
 と言い、アスナが返事をする間もなく、
「おい、アスナちゃんに声をかけるなんてずるいぞ」
 と乾物屋が声を荒げた。すると、
「何を揉めているのか」
 と様子を見に来た大先生が言うと、
「おお、大先生がいらっしゃった。ご無沙汰しております」
「お前たちは、酒を飲む時間はあるが、練習する時間はないと見える」
 商店街の古株さんたちは、一応は道場の門下生であったが、写真屋以外はそれは名ばかりで、実際の練習はずーっとサボっていたのだった。
「で、阪神がどうしたって?」
「いえね、写真屋と床屋が、強硬に今年は阪神が優勝するなんて世迷い言を言うもんで、商店街の平和のために会長としてたしなめているところで・・・」
「いいか、乾物屋さん、阪神の優勝は世迷い言なんぞではないぞ」
「そうですよ。大先生の言うとおりだ」
 と知らないうちに中学の中村先生まで座敷の入り口にきていた。
 アスナは、あー、ますます事態は悪化しつつあると思った。
「じゃあ、こうしよう。今年は巨人が優勝すると思う人は?」
 と乾物屋は自分で言って、自分で手を上げた。続いて洋品屋と本屋と二代目が手を上げた。
「じゃあ、阪神だと思う人は?」
 大先生と中村先生と写真屋と床屋の4人が手をあげた。
「4対4の引き分けだ。ということで、今日はもうおしまいにしようじゃないか」
 と大先生が引き取って論争は終わるかに見えた。しかし、ほろ酔い加減の古株さんたちは引き下がらなかった。
「いや、まだ、アスナちゃんの意見を聞いていない」
 アスナは、ほら来た。だからやばいと思ったんだと我が身の不運を嘆いた。一同の目がアスナに集中し、一触即発の空気が流れた。一瞬をおいてアスナは、
「アタシはどっちが優勝するか、応援するよりも、自分でホームランを打つ方が好きよ」
 とバットを振るまねをしながら言うと、みんなが、
「オレもそうさ」
「オレだってそうだ」
 と口々に言い始めた。
「まてまて、それじゃあ、試合で決めるか」
 と中村先生が言えば、
「おお、それがいい」
「賛成」
「オレたちだって3連続ホームランくらい、わけないさ、なあ洋品屋さんよ」
 と乾物屋が言い、
「そりゃあそうさ、本屋さんもそう思うだろ」
 と洋品屋が続けば、
「当たりめぇよ」
 と本屋が締めくくった。
「では、商店街チーム対道場チームの対戦ってことでいいな」
 と大先生が乾物屋に念を押すと、乾物屋は、
「単なる勝敗だけじゃ面白くねぇ」
 乾物屋は、何事かを大先生の耳元でゴニョゴニョとささやいた。
「そんな大きなことを言うのは、あんたが酔っているからだ」
「じゃあ洋品屋と本屋にも確かめてやる」
 そこで、乾物屋と洋品屋と本屋が何やらゴニョゴニョと相談して、
「大先生、洋品屋と本屋も同意見さ」と言った。
 中村先生が、
「それじゃあ、私が中学校の校庭を借りてソフトボールの試合ができるように準備をしますが、いいですか」と言った。
 床屋は、
「こちとらぁ、お前さんたちと違って現役だからよ、休めないのさ」
 と言って不参加を表明した。同じく、仁の父親も
「店を休むわけにはいかねぇ」と不参加を表明した。
 やっさんが、
「あの~、商店街チームは、メンバーが足りないと思うので、寿司屋チームっていうことにして、常連さんも入れてほしいな」と言うと、文化人も、
「賛成、やっさーんも出てくださいね、応援に行きますから」と言った。
 仁の父親が、
「おい、雅代、親方も応援で、ほら、たまには外に連れ出してやらないとな」と言うと、
 アスナが、
「それなら、仁くんをまず参加させなくっちゃ」と言った。
 仁の父親は、
「うーむ、うーむ」と言うばかりだったが、
 中村先生が、
「私に考えがある」
 と遠くを見つめるような目をして言った。

 翌日の土曜日の昼過ぎのこと、仁の父親は、いつも店で着ている白半纏に手拭いの鉢巻きという姿のまま、自宅の1階の和室でアスナが来るのを落ち着かない様子で待っていた。おじいちゃんとおばあちゃんがいた和室は、2人の遺品を整理するという名目で、いまは父親が使っているが、遺品はほとんどそのままで整理しているようには見えない。仁の母親は、遺品は結局は捨てるしかないと割り切っていたが、仁の父親は、自分の両親のことでもあるので踏ん切りがつかないでいた。遺品の1つに、おばあちゃんの日記があった。日記を読むと、おばあちゃんの孫である仁のことばかりが書いてあった。おばあちゃんが亡くなる直前は、仁は反抗期になっていて、おじいちゃんとおばあちゃんにも、だいぶ反抗していたけれども、おばあちゃんの日記には、そういうことで困ったり、怒ったりした様子は微塵もうかがえなかった。それに対して、仁の父親も母親も仁の扱いに困っていた。今回のソフトボールの試合に、仁は断固として出ないと言い、仁の父親も母親も、仁をどうしても説得できないでいた。
 玄関でチャイムが鳴り、約束のアスナが来たことを告げた。アスナは「仁を説得する秘策」を中村先生から聞いてきて、これから仁を説得することになっていた。仁は呼ばれて、2階から降りてきて、父親とアスナが待つ居間に入った。アスナは、中村先生から預かった仁の中学生時代の反省文を見せた。その反省文に仁の父親は、心当たりがあった。反省文には、
「勝敗にこだわる体育は楽しくない。下手な人でも楽しい体育にしてほしい」
 と左利きの仁らしい四角ばった文字で書いてあった。父親は仁に、
「てめえはあの頃、嘘ばっかりつきやがって・・・」
 と言い掛けたが、仁は父親をさえぎって、
「いや、この反省文は本当に思ったことを書いたんだ・・・」
 と言った。すると、アスナが、
「本当に本当なのね」
 と突っ込みを入れた。ソフトボールの試合には死んでも出ないと固く決めていた仁の心がわずかに動いた。そこへすかさずアスナがさらに切り込んだ。
「仁くん、下手な人でも楽しいソフトボールよ。アタシのために出ると言って」
 仁はアスナのあまりの剣幕に、つい、
「うん」
 と言ってしまい、結局ソフトボールの試合に出るはめになった。しかし、「アスナのために」とはどういう意味でアスナが言ったのか、仁にはよく分からないままであった。

maizumi
作家:志茂井真泉
我ハ、しゃくじん(石神)デアル無料版
0
  • 0円
  • ダウンロード

5 / 10