我ハ、しゃくじん(石神)デアル無料版

第2章 1985年( 4 / 5 )

4人目の一人っ子

 5月5日の日曜日は、朝から晴れて、絶好のソフトボール日和となったが、仁にとっては、久しぶりの気持ちの重たい朝となった。父親は、とっくに起きて、寿司屋の仕込みと買い出しに出掛けており、既に家にはいなかった。母親は、3人分のお弁当を作った。仁の分と母親の分と親方の分だ。母親と親方は、今日はもちろん応援専門だ。母親は、渋る仁を連れ出すと、親方を迎えに行くために、まず寿司屋に向かった。母親は、歩きながら、
「気持ちのいい天気になって良かったよ」
 と仁に話しかけるが、仁の口は重かった。母親が来るのを待っていた親方は、仁を久しぶりに見たと言い、「大きくなった」「立派になった」とあたかも仁が自分の孫のように喜んだ。そして、たまには顔を見せてほしいと頼むのであった。仁は、やれやれ朝一番から面倒くさいことになった。だから、寿司屋に行くのは面倒くさいと言ったのにと思った。
 それから、3人で中学校に向かった。親方は、足が痛むというので3人はゆっくりと歩いた。すると、途中で初夏らしい水色のワンピース姿の女性文化人と、買ったばかりと思われる真新しい白いジャージを着たやっさんに出会った。仁は、今日は人とかかわらないように、心の中にバリアーを張って黙って過ごそうと決めたのに、朝からその誓いは破られそうであった。果たして、やっさんが仁に話しかけてきた。
「源さんの息子さんだってな。今、高校生かい?」
 仁は、蚊の鳴くような声で、
「高校2年です」と言った。
「僕のことは知ってるかな?」
 仁は、やっさんのことは知らなかったから、知らないと言った。すると、母親と親方と一緒に前を歩いていた文化人のおばあさんが振り向いて、
「私のことは、知っていますか」
 と聞いた。仁は、
「なんて耳のいいおばあさんだ」
 と驚いたが、よく見ると外国人だったので尚更驚いた。母親が、
「仁たら、ほら、バーバラさんだよ、この前話したアスナちゃんのお母さんと仲のいい・・・」
 と横から口を出したが、仁にはまったく記憶がなかった。
「今日はよろしく。頑張ってくださいね」
 と優しく言うので、仁はまたも蚊の鳴くような声で、
「よろしく」と言った。
「僕もよろしく。僕は安崎一郎。通称はやっさんです。だから、君も、やっさんと呼んでくれ」
 とやっさんは言った。
「今日の試合には、僕が勤めている会社の野球部の友達を、寿司屋チームの助っ人として3人も連れてきたんだ。僕は、下手だけど、彼等は上手なんだ」
 仁は、助っ人が来るとは知らなかったし、会社には野球部があるというのも知らなかった。会社の放課後に集まって、社員が校庭で練習するのだろうか? 会社に放課後や校庭があるとは思えないし。仁の想像する会社とは、隣の町工場が精一杯だった。

 仁にとって、中学校の校庭は、2年ぶりだった。校庭と隣の自動車教習所の間に並んでいるイチョウの木々が、青空の下に青々と元気にあふれていた。しかし、仁には、この校庭で元気にあふれたような思い出はなかった。ソフトボールについては尚更だった。しかも今日は、あの中村先生が、再び仁の前に登場する。仁にとって、意外だったのは、仁のことは何も分かっちゃいないと思っていた中村先生が、嘘つき事件ばかり起こした仁の反省文を、大事に取ってあったことだ。仁は、中村先生は一体何を考えているのだろうと不安に思った。
 寿司屋チームは、ばらばらに集まってきたが、道場チームは、一団となってやって来た。道場チームは、今朝は一旦、道場に集合してからやって来たのだ。その一団の中に、赤いジャージ姿のアスナと青いジャージ姿の雄一がいた。アスナの両親と大先生と師範代の大学講師もいた。そして、写真屋と駐在所のお巡りさんもいた。今日は非番らしい。他に、顔の知らない会社員風の人や、OL風の女性がいた。
「さすがに、体育会系は違うな」
 と仁は思ったが、道場チームの所属にならなくて良かったと思った。校庭の隅に白い乗用車が1台停められてあった。仁が近寄ろうとすると、
「仁くん、おはよう。来てくれてありがとう。今日は頑張ろうね」
 と言いながらアスナが近づいてきた。仁が車を見ているので、アスナはつけ加えた。
「この車はね、祥子(さちこ)ちゃん一家の車よ。今日は、祥子ちゃんのお父さんが道場チームに参加するの。祥子ちゃんのお父さんは、アタシのお母さんの弟なの、知ってるわよね」
 と言った。
 仁は、祥子のことを少しだけ覚えていた。確かアスナの従妹で、一人っ子で、生まれつき耳が聞こえなくて、父親が銀行員で、転校の多い子だったと思った。仁が小学6年生のときに、1回だけ会った(というより見ただけだったが)。そのとき、祥子は確か小学3年生で、小さな体に不似合いなくらい大きな眼鏡をかけていた。仁がアスナに、
「すごい眼鏡だな」
 と思わず言って、
「そういうことを言わないの」
 とアスナに坊主頭をピシャリとたたかれたことを覚えている。それから、どっか遠いところへ引っ越して行って、一昨年、また東京に戻ってきたということだ。
「ほら、祥子ちゃんたちがあっちを歩いている」
 とアスナが言う方を見ると、祥子と両親がイチョウの木の下を歩いていた。祥子は中学2年生になったはずだが、相変わらず小柄な体つきで、おかっぱ頭に大ぶりの眼鏡をかけていた。アスナによれば、祥子は見かけによらず、剣道が得意なのだそうだ。祥子は、あんな小さな体で、耳が聞こえないことと、度の強い眼鏡を背負っているのだと気付いて、仁は重たい気分になった。目が悪くて耳が聞こえないならば、1人で過ごすことが多いのに違いない。けっこう可哀想な奴なのだろう。僕みたいに心の中にバリアーを張って、うかつに人とかかわらないように生きているに違いない。目が悪くて耳が聞こえないのだから、責められ方も半端ではないに違いない。僕だったら自殺するかも知れないという境遇だ。そうだ、祥子と出会ってから、しばらくしたらワンコが死んで、おばあちゃんの具合が悪くなった。そして、あっという間に亡くなってしまった。すると、今度はおじいちゃんの具合が悪くなって、おじいちゃんも死んでしまった。思えば、あれから、仁の周りの世界はすっかり様子が変わってしまった。祥子は、それこそ疫病神なのではないか。仁は、祥子のことを思い出すにつれ、縁起の悪い何かむずむずするものを感じた。

 みんなが集まり、試合開始予定の時刻になると、中学の体育教師の中村先生がきりっとした声で、
「集合!」
 と号令をかけた。みんなはなんとなく、ホームベースのまわりに輪のように集まった。すると、また中村先生が、
「大会会長挨拶!」
 と声をはりあげた。商店街で1番の古株の乾物屋が一歩踏み出すと、帽子を取って一礼する。みんなも慌てて、帽子を取って一礼した。乾物屋は、帽子を手に持ったまま中村先生よりも大きな声をはりあげ、
「おはようございます」
 と言った。顔は満面の笑みだ。みんなもつられて、
「おはようございます」
 と大声を張り上げた。
「えー、本日は5月5日、日曜日でこどもの日です。お日柄もよく、これもみなさまの日頃のご精進の賜物と思います。本日はここにおられる中村先生のお陰で中学校の校庭とソフトボールの用具を借りることができました。本当にありがとうございます」
 と一礼する。またもや、みんなはつられて、
「ありがとうございます」
 と一礼した。みんなが乾物屋につられる様子がおかしくて、仁の横にいたアスナがぷっと吹き出した。
「本日はけがのないように頑張りましょう」
 みんなからのパラパラとした拍手の中、アスナは、
「会長も毛がない」
 と仁にささやいて、くっくっくと腹をかかえた。続いて、中村先生が、
「本日のルールを説明します」
 と言った。
「先ほどのキャプテン同士のじゃんけんにより、道場チームが先攻、寿司屋チームが後攻となりました」
「キャプテンって誰だぁ」
 と言う声が飛ぶ。すると、「しっ」と言う声がいくつも飛び交った。
「今日は7回戦で行ないます。それぞれのキャプテンは、今から15分以内に、このメンバー票の打順に合わせて、名前と守備位置を記入して、私に提出してくださぁい」
「選手は各自で準備運動をしてくださぁい」
 と中村先生は叫んだ。
 仁は、中村先生の顔をまともには見られなかった。しかし、中村先生の方も仁を敢えて見ようとはしなかったので、仁はなんとなく胸をなでおろした。

 それぞれのチームは、メンバー票を囲んで円陣になった。仁のいる寿司屋チームは、乾物屋と洋品屋と本屋が3番、4番、5番を誰が打つかで揉めていた。やっさんの連れてきた3人の助っ人がバッテリーとサードを守り、1、2番と6番を打つことになった。仁はライトで9番を希望し、それが認められてややホッとした。すると、やっさんはセンターで8番を希望して、やはり認められた。そして7番は町工場の二代目でファーストを守ることになった。
 道場チームは、アスナがピッチャーになり、雄一がキャッチャーになった。中村先生はアンパイアの場所にすっくと立った。仁は初回の守備につくため、中学校から借りた用具入れからグローブを探した。仁はグローブを持っていなかった。仁は左利きだが、運悪く左利き用のグローブは用具入れにはなかった。寿司屋チームには、仁のほかに左利きはいなかった。道場チームにも左利きはいなかった。仁は、やむなく右利き用のグローブを取って守備位置についた。右利き用のグローブを右手にはめるのは、仁にとっては難しく、やむなく、左手にグローブをはめた。この瞬間から、仁の胸は嫌な予感でざわついた。やっぱり、今日の試合には来ない方がよかったと仁は思った。

 中村先生が五月晴れの空に手を上げて、「プレイボール」を宣言した。やっさんの会社からきた助っ人のピッチャーは、球が素晴らしく速く、しかもコントロールも抜群だった。道場チームの1番打者はアスナだったが、1球目は手が出ずストライク、2球目は空振りでストライク、3球目はゆるい釣り球でボール。あの釣り球に引っかからないのは、さすがにアスナだった。しかし、4球目の低目のゆるい球を打ちそんじて、サードにゴロが飛んだ。やっさんの会社からきた助っ人のサードがまたうまかった。華麗にさばいてワンナウトだ。
 2番打者は雄一だった。1球目、見逃しのストライク、2球目、空振りのストライク、3球目は見逃してボール、4球目を打ってボテボテのゴロと、アスナとまったく同じ道にはまる。違っていたのは、サードゴロではなく、今度は、乾物屋の守るショートへのゴロだったが、サードの助っ人が飛ぶように走ってきて見事にさばいた。その間、乾物屋は一歩も動かず呆然と立っていた。そして、アウトになったのを見て満面の笑みを浮かべた。すると、セカンドの洋品屋が口をとんがらせて、乾物屋をやじった。
「乾物屋さぁんよぉ、ショートの守備は楽そうだね」
 レフトの本屋が両手を上げて曲げたり伸ばしたりを繰り返す得意のガッツポーズをしてみせながら、
「乾物屋さーん、その調子」
 と叫んだ。乾物屋は、満面の笑みのまま、洋品屋、本屋に向かって次々に手を振った。
 3番は道場に通う元高校のソフトボール選手という体格のがっしりしたOLだった。バッターボックスで素振りをする姿が流石と思わせた。しかし、結果はいい当たりのサードライナーで万事休す。仁は、自分のところに球が飛んで来ずにチェンジになったので、やれやれ不幸中の幸いだと思いながらベンチに戻った。

 1回裏の寿司屋チームの攻撃は、1、2番がやっさんの会社からの助っ人だ。仁は、今日は黙っていようと思ってベンチの隅っこに座った。すると、やっさんが隣に座って、
「うちの連中、うまいだろう」
 と自慢気に語りかけるので、仁はやむを得ず、
「ええ、お陰で僕はありがたいです」
 と言って黙った。アスナの立ち上がりは最悪だった。コントロールが定まらず、2人続けてフォアボールを出して、ノーアウト1、2塁のピンチを迎えた。しかし、この場面で乾物屋と洋品屋と本屋の古株クリーンナップトリオがアスナを助けた。
 乾物屋は、
「3番、バース」
 と声高らかに右バッターボックスに入ると、洋品屋がすかさず、
「バースはいつから右打ちになったー」
 とちゃちゃを入れた。乾物屋は慌てて左バッターボックスに移って構えたが、よく見ると右手を上に握ったままだった。アスナの球に全てホームラン狙いの大振りでたちまち三振する。次は、4番掛布の洋品屋だが、またもやホームラン狙いの大振りで三球三振に倒れる。
 その次は、5番岡田の本屋だ。洋品屋が、
「球をよく見ていけ、大振りはするなー」
 と自分を棚に上げて叫ぶ。しかし、本屋は貴重な忠告を無視して大振りをする。すると、たまたまバットのどこかに球が当たってピッチャーとファーストの間に転がった。ファーストの元ソフトボール選手のOLが飛び出して掴み、3塁と2塁を見ると、各ランナーはすでに素早く進塁していた。1塁を見ると誰もベースカバーに入っていなかった。そこでやむなくボールを持って1塁に走ったが、間一髪、本屋が駆け抜けた後だった。本屋は1塁上でガッツポーズを繰り返し、英雄気取りだった。
 ツーアウト満塁で向かえるバッターは6番に入ったやっさんの会社の助っ人だった。アスナの初球を軽々とレフトの頭を越えて運び、余裕たっぷりの3塁打になり3点が入った。7番の二代目は、肩に力が入り過ぎて、1塁ゴロでチェンジになった。

 2回表、道場チームのサードで4番は道場の師範代だった。本業は体育大学の講師でバリバリの現役アスリートだ。助っ人のスピードボールに師範代の振ったバットがかすかに当たり、打球はサードの上にふらふらと上がった。しかし、打球はなかなか落ちて来ずに上昇を続け、レフトの本屋にまで飛んだ。本屋はと見ると、打球を見失ったらしく辺りをうろうろしている。結局、師範代の大飛球を捕球したのはレフトまで走ったサードの助っ人だった。
 5番はセカンドを守る大柄の写真屋だ。しかし、助っ人のスピードボールは手に負えなかった。ファウルで粘ったが結局は三振だった。
 6番はセンターを守る非番のお巡りさんだが、たちまち追い込まれて、ゆるい釣り球に手を出して三振で、またも道場チームは三者凡退に終わった。

 2回裏の寿司屋チームの攻撃はやっさんからだ。バッターボックスでの様子を見ると、やっさんは仁と同じくソフトボールの才能はまったくないようだ。仁はなんとなくやっさんに親近感を覚えた。仁がそんなふうに考えていると、アンパイアの
「三振バッターアウト」
 という声が聞こえて、仁は我に返った。次はついに仁の打順だ。仁は身震いするのをどうにか抑えた。前のやっさんが凡退したので気分はいくらか楽だった。仁がバッターボックスに入ると、仁の母親と寿司屋の親方が大声で声援したので、仁の気持ちは再び地下にもぐっていった。仁の父親は寿司屋の準備のために来ていない。仁は親父が来られなくて不幸中の幸いだと思った。仁はバットを鋭く振ろうとしても振れない。どこに力を入れたらいいのか分からない。アスナの球がきたと思ってバットを振っているのだが、バットが動くのは球が通り過ぎた後だ。それを見て、仁の母親がもっと速く振れと叫ぶと、仁は焦って手が汗でベトベトになった。すると、アンパイアの中村先生がタイムをかけてくれて、
「おい、仁くん、汗を拭け。今日は楽しんでやればいいんだぞ」
 と言った。結局、仁も三振となったが、この様子を見て今度はやっさんが仁に親近感を覚えた。仁は、あの中村先生が何でこんなに優しいのかと思ったが、やはり中村先生の顔はまともに見られないままだった。
 次は1番に戻って助っ人だ。助っ人はセーフティバントでアスナを揺さぶろうとしたが、アスナは見事なフィールディングでアウトにした。寿司屋チームは三者凡退となり、2回を終わって0対3で寿司屋チームのリードとなった。

 3回表の道場チームの先頭バッターは、7番ショートの銀行員で、アスナの母親の実の弟だ。そして、祥子の父親でもあった。日頃の運動不足解消ということだが、父親としていいところも見せたいと思っているふうであった。しかし、助っ人の球はとにかく速過ぎて手が出せない。そこで先ほど助っ人がセーフティバントをしたのを思い出し、バントを仕掛けた。ボールはうまくファーストの二代目の手前に転がった。二代目がよろけながらボールをつかむと、ピッチャーの助っ人はあっという間に1塁に行って、二代目からの送球を待っている。祥子の父親は懸命に走る。二代目が送球する。間一髪でアウトだったが、道場チームのベンチから拍手が起こった。祥子の父親は苦笑いをしながらベンチに迎えられたが、確かに惜しいバントであった。
 8番は会社員だ。会社員も果敢にバントを狙った。しかし、結果はキャッチャーフライだった。
 最後は道場主のアスナの父親だ。父親は柔道6段、それにサンボという柔道に似たロシアの武術の達人でもあった。アスナの父親は、助っ人のスピードボールを強烈に打ち返し、助っ人はこのピッチャーライナーを掴もうととっさに手を出して素手で掴んだ。しかし、助っ人は右手を痛めてしまい、寿司屋チームは次の4回からピッチャーの助っ人とファーストの二代目が入れ替わることになった。

 3回裏の寿司屋チームの攻撃は、2番の助っ人は出塁したが、古株クリーンナップトリオが三者三振に倒れた。寿司屋チームのベンチで応援する文化人の横に、いつの間にかアスナの母親が座り、戦況についておしゃべりを始めた。寿司屋チームはピッチャーが素晴らしかったから完勝かと思ったが、ピッチャーが代わると、攻撃力は道場チームの方がだいぶ上だから、道場チームが追い上げて接戦になるんじゃないかというのが2人の結論だった。果たして、4回、5回、6回と回を追う毎に、アスナ、雄一、師範代、アスナの父親の活躍で、道場チームはじわじわと追い上げた。仁の守るライトには、ゴロの打球ばかりが3回来て、仁は運よくエラーをしないで済んだが、打つ方はさっぱりだった。6回が終わると、3対3の同点になっていた。

 最終回の表の道場チームの攻撃は、2番雄一からの好打順だ。雄一はショートの乾物屋の頭を越えるヒットで1塁に出た。
 続く3番のたくましいOLは、いい当たりを打ったがサード正面のライナーでアウトになった。
 4番の師範代は、ランナーを進め、かつ自分も生きようというセーフティバントだったけれども、サードの助っ人とファーストに回った助っ人のコンビネーションによってアウトになったが、雄一は隙を突いて2塁に進塁した。
 ツーアウト2塁で大柄の写真屋がバッターボックスに入ると、道場チームのベンチからたくさんの声援が巻き起こった。写真屋は一旦、バッターボックスを外し、目を閉じて精神集中しているように見えた。写真屋は二代目の初球を打った。打球はライトの仁とセンターのやっさんの間に上がった。仁もやっさんも打球を懸命に追うが、いかにも2人の走りは遅かった。一方、ランナーの雄一は早くも3塁を回った。打球の落下点で仁はやっさんと衝突してしまった。仁は、痛さをこらえながら、左利きのグローブが見つからなかったときに感じた嫌な予感が的中したと思った。打球を追わなければよかったと悔やんだ。ところが、打球は見事にやっさんのグローブの中に収まっていたから、やっさんと仁の2人は、チームメイトに温かく迎えられてベンチに戻った。それでも仁は、自分がやっさんの守備を妨害してしまったから、それを責められるのではないかと心配したが、みんなもやっさんも責めなかった。むしろ、やっさんは、仁くんはよく走ったと誉めてくれた。
「仁くんが走ったから、僕も走ったんだ。君が走らなかったら、たぶん僕も走らなかったよ。僕は走るのが苦手だからね」
 仁は、それを聞いて、今朝からずっと続いていた緊張感から解き放たれたように感じた。

 最終回の寿司屋チームの攻撃は、5番の本屋からであった。道場チームは、アスナの球速が落ちてきたので、ここで踏ん張って延長戦に持ち込むため、バッテリーを入れ替えた。雄一がピッチャーに、アスナがキャッチャーになって、少しの間、投球練習をした。雄一の球は速かった。コントロールも抜群だった。
 そのとき、ベンチで応援していた祥子がベンチから立って、バットのそばに歩み寄るとバットを手に取った。両手でグリップを持って重さを試すようにバットの先を揺らしてみている。それからバットを頭上に振り上げ降り下ろす。なるほど祥子は剣道が得意なのだ。次は、普通のバッターのようにバットを右の肩にかつぐように構え左下方に振り下ろした。それを2、3度繰り返すとバットを置いてベンチに戻り、隣に座る母親と何事か話し2人で微笑み合った。
 雄一の投球練習が終わり、アンパイアの中村先生が「プレイ」を告げた。本屋は、この期に及んでも、ホームラン狙いの大降りで三球三振に倒れた。
 続く6番は、初回に3点をたたきだした助っ人で、たちまちレフト前にクリーンヒットを打った。
 7番は、二代目で、肩に力が入り過ぎて1塁ゴロに倒れたが、その間にランナーは2塁に進塁した。
 さて、ツーアウト、ランナー2塁で、やっさんの打順となったが、やっさんは、さっきの守備で右手を負傷したのでとてもバッターボックスには立てないと言う。ならば、寿司屋チームは、やっさんの代打を送らなければならないが、さりとて代打のなり手はいなかった。そこで、やっさんは、道場チームのベンチを指して、あの女の子に打たせてあげてほしいと言った。それはさっきバットをいじっていた祥子のことだ。すると、アンパイアの中村先生が寿司屋チームのキャプテンの乾物屋を呼び、一緒に道場チームのベンチに向かった。そして、道場チームのキャプテンの大先生と祥子の母親が集まり、なにやらゴニョゴニョと相談をはじめ、ついに、アンパイアの中村先生はこう言った。
「寿司屋チーム、ピンチヒッター祥子ちゃん」
 寿司屋チームのベンチは一瞬どよめいたが、次にはそれが祥子への声援に変わった。キャッチャーのアスナは、ルールの知らない祥子に、売ったら1塁に走ることだけを丁寧に教えた。
 バッターボックスに立った祥子の構えは、まるで剣道の上段の構えのようで祥子の顔は静かな無表情に見えた。雄一の1球目は、その姿のまま身動きもせず見送って、ワンストライクとなった。次に同じコースに来た球に、祥子の目にもとまらぬ鋭い一撃が襲い、打球はピッチャー雄一のグローブをはじき、センターの前へてんてんと転がった。2塁ランナーの助っ人がホームインして劇的なサヨナラゲームとなった。寿司屋チームのベンチは大歓声となった。

 アンパイアの中村先生が「ゲームセット」を告げ、みんなで道具類を片付け終わると、待ちかねた昼食会が始まった。中村先生は、
「けがをしないようにと言ったのに、寿司屋チームのピッチャーの方が負傷したのと、やっさんが負傷したのは、たいへん残念だ。ひとえに私の責任だ。申し訳ない」
 と言った。しかし、ピッチャーをした助っ人は、
「いやいや、ほんとはまだ投げられたのですけれど、潮時と思い、ちょっと嘘ついて交代しました」
 と遠慮がちに言った。すると、アスナの父親が、
「それは何よりでした。怪我をさせてしまったかと実は気になっていました。しかし、あなたのピッチングはほんとに素晴らしくて、一時はパーフェクト負けかと心配になりました」
 と笑いながら言った。やっさんは、
「僕もほんと大したことないです。実は早くビールを飲みたくて嘘を言いました」
 と負傷したはずの右手をひらいて差し上げた。
「それにしても祥子ちゃんはすごい。ヒロインだ」とやっさんが言った。
「やっさんも殊勲賞ものだよ、よくぞ祥子ちゃんに代わってくれたよ」
「そうだそうだ、やっさんがバッターボックスに立っていたら、道場チームに追い上げられていたし、延長戦で負けていたかも知れない」
「オレは、祥子ちゃんのためなら命はいらねぇってんだ」
 と乾物屋は早くも酔いが回ったのか巻き舌で言った。
 そこに、道場チームのキャプテンを務めた大先生が現れた。寿司屋チームのキャプテンの乾物屋は、大先生と缶ビールで乾杯をすると続けた。
「お陰様で巨人ファンのチームが阪神ファンのチームに勝利できて、めでたしめでたしです」
 これに、阪神ファンの大先生がどう答えるのかと一同が見守る中、大先生は、寿司屋の箸袋を取り出した。
「乾物屋さん、洋品屋さん、そして本屋さん、この箸袋を覚えていますかな」
「おい、なんだっけ」
「乾物屋さんたちは、大先生となんかゴニョゴニョと約束してた気がする」
 と二代目が言った。大先生は、
「その通り」
 と言い、折り紙で作られた箸袋を広げ折り紙の裏を見せた。そこには大先生宛に3名の署名入りでこう書いてあった。
「われらは3連続ホームランを打つことをここに誓う。約束を違えたときは、仰せに従います」
「残念ながら、3連続ホームランは出なかったので、3名には阪神優勝祈願のお参りと懇親会に付き合ってもらう」と勝ち誇ったかのように大先生は言った。
 アスナが、
「あのー、祥子ちゃんたちがお先に失礼しますって」
 と言った。
「オレは祥子ちゃんのためなら命はいらねぇ」
 と乾物屋がまた言った。すると、大先生が別の箸袋の紙に「祥子ちゃんのためなら命はいらない」と書いて乾物屋さんに渡すと、乾物屋は、すぐさまサインをした。洋品屋が、口をとんがらせて
「あー、懲りない奴はやだねぇ」
 と言いながら、自分もサインをした。
 祥子一家は自動車で来ていたのでアルコールは飲めないし、祥子は大勢の中でのおしゃべりが苦手なので、昼食会には参加せず、一同に惜しまれながら先に帰宅した。
 仁は、中学生時代のソフトボールにまつわる自らの嘘を思い出していた。それから、ピッチャーの助っ人さんとやっさんが白状した嘘に心を動かされていた。仁の心の中で結論には至らなかったけれども、少なくとも世の中には、いい嘘もあるんだと仁は思った。仁はやっさんから、今度の日曜に遊びに来いと誘われた。それから、中村先生から、
「おい、仁くん、今日のソフトボールは楽しかったか」
 と聞かれたので、
「やっぱり僕には楽しくなかったです」
 と答えながら、これは嘘だなと気付いて思わず苦笑いになったが、中村先生の目をしっかり見ながら言うことができた。すると、中村先生には、仁の気持ちが正しく伝わったらしく、目を細めて、「そうか、そうか」と笑った。
 仁は、さっきまで中村先生の顔をまともに見られなかったのは、自分が心の中にバリアーを張っていたからだと気付いた。そして、今は知らぬ間に心の中のバリアーが解けていることに我ながら驚いたのだった。

第2章 1985年( 5 / 5 )

石神

 5月11日は、雨の土曜日だった。仁の家の庭の片隅で咲き始めた皐月つつじに、雨の雫が溜まったりこぼれたりした。夜になって、仁は部屋のベッドで目をつぶり、外の雨音を聞いていた。
 ベッドに横になって目はつぶっているが、
 意識は起きているという夢。
 ベッドに横になって目はつぶっているが、
 外の物音はちゃんと聞こえているという夢。
 これは眠っているのか、いないのか、
 金縛りにあっているのかも知れない。
 体外離脱しかかっているのかも知れない。
 夢と夢の間で覚醒していたのかも知れない。
 しかし、そういう夢を見ていただけなのかも知れない。

 仁の意識は、体から半ば強引に引き離され、厚い雲におおわれた夜空に上がっていった。雨は既に止んでいた。屋根を通り抜けたはずだが、どうやって通り抜けたか細部は思い出せなかった。思い出せるのは、夜の町が下に広がっていたという実感だ。それから徐々に高度が下がってゆき、新幹線の高架を越え高台にある大木の並ぶ神社の境内に降りて行った。走ろうとして足を懸命に動かすと、少しだけ前に加速する。曲がろうとすると、ゆっくりと方向が変わる。息を止めて上に伸び上がろうとすると、少しずつ高度は上がる。しゃがみこむようにすると、少しずつ高度が下がる。限りなくもどかしく、じれったい動きだった。足を動かし過ぎたのか、筋肉に尿酸が溜まったかのように、足がたまらなく重くなった。しかし、足を動かさずにはいられなかった。体中から脂汗が出てくるのが分かった。境内に着くと、自分の体の中から自分とは別の声がした。
「我ハ、石神(しゃくじん)デアル」
 と仁の中の仁ではない声がそう告げた。仁は訳が分からずパニックになりそうになったが、そうか、これは夢に違いないと気付いて落ち着きを取り戻した。そう言えば、手を広げて足をばたばたさせると空が飛べる夢を見たことがあったのを思い出した。得体の知れない声は続けて、
「我ハ、森羅万象ノ盛衰ヲ1000年ニ渡リ見定メテキタ八百万(やおよろず)ノ神ノ一族デアリ、天ニ帰還スルタメ、オ前ヲ見出シタ。帰還ノ儀式ヲ執リ行ウベク、オ前ノ村ノ長(おさ)ニ告ゲヨ」
 と言った。仁は、何の意味か全く分からなかったが、おかしな夢を見るものだなあと思った。仁は、かなり落ち着きを取り戻せたので、成り行きを見守ることにした。すると、
「返事ヲセヌノハ何故カ? 言葉ノ意味ガ分カラヌノカ?」
 と声は尋ねた。仁は、ますますおかしいなと思ったが、思い切って、
「なんだか分からない、僕には関係ないと思う」
 と思うままを言ってみた。すると、声は同じ言葉を今度はゆっくりと繰り返した。
「我ハ、森羅万象ノ盛衰ヲ、1000年ニ渡リ見定メテキタ、八百万ノ神ノ一族デアリ、天ニ帰還スルタメ、オ前ヲ見出シタ。帰還ノ儀式ヲ、執リ行ウベク、オ前ノ村ノ長ニ告ゲヨ」
 仁は、言葉の意味が少しはわかったが、口をあんぐりと開ける以外のことはできなかった。すると、また、
「我ハ、森羅万象ノ、盛衰ヲ、1000年ニ渡リ、見定メテキタ、八百万ノ神ノ、一族デアリ、天ニ、帰還スルタメ、お前ヲ、見出シタ。帰還ノ儀式ヲ、執リ行ウベク、オ前ノ村ノ長ニ、告ゲヨ」
 と繰り返した。仁は、言葉の意味がわかるにつれ、頭には疑問が次々にわいてきた。こいつはいったい何者だ。言葉は日本語には違いないが人間離れした話し方だ。何でこいつは僕を狙い打ちにするのか。森羅万象の盛衰とは何か。帰還の儀式とは何か。そして、とにかく巻き込まれたらたいへんそうだ、知らぬ存ぜぬを貫こうと心に決めた。それから、石神という奴が何を言おうが、仁はダンマリを貫いた。やがて、石神は、
「今夜ハ、コレマデトスル」
 と告げた。すると、体が急に楽になった。寝汗をかいていたことに気付いた。そっと目を開けて見ると、仁は自分のベッドに横になっていた。仁は、まったく何て不気味な夢を見たものだ。もう一度寝て忘れようと思って寝返りを打った。さっきはあんなに重くなっていた手足が、軽く動くので気持ちも軽くなった。

 *

 明くる日曜日の朝、仁は気持ちよく起きて、昨夜の不気味な夢のことはすっかり忘れていた。そうだ、今日は、やっさんの家に行くんだと、ソフトボールの後にやっさんとした約束を思い出した。やっさんは、やっさんのコンピューターを見せてくれると言ったのだ。仁は、やっさんが自分専用のアーケードゲーム機でも持っているのかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。しかし、仁は、コンピューターが何なのか、実はよくは知らなかった。
 やっさんの家は寿司屋の裏手にある一軒家で、お袋さんと一緒に住んでいた。庭に花水木があり、きれいに剪定されていて、ほどよく花が咲いていた。仁は、手入れのいい庭が気に入った。やっさんには2つ年下の弟がいるが、千葉県の小学校の先生になっていて、千葉県に住んでいるとのことだった。
 やっさんは2階の2部屋を自分の部屋にしていて、たくさんの本とコンピューターに囲まれていた。やっさんはコンピューターのことをパソコンと呼んでいた。PC8801、PC9801、マッキントッシュというパソコンが2台ずつあった。ほかにもプリンタやイメージスキャナーやワープロがいくつかあった。
 仁は、四角い箱のようなマッキントッシュに親近感を覚え、近寄って触ろうとすると、やっさんはこれが自慢だとばかりにマッキントッシュを起動させると、
「ほれほれ、漢字が使えるんだ」
 と言うが、仁にはよく分からない。
「ほかのパソコンは、漢字が使えないの」
 と尋ねると、使えると言う。つまり漢字が使えるマッキントッシュは、まだ発売されてはいないが、やっさんはそれを持っているところが自慢らしい。しかも、やっさんは、1人で自作したかのように言う。
「ときどき来いよ。いろいろ教えてやる」
 とやっさんは言った。こんなにパソコンを持つとは、やっさんは金持ちなのかと尋ねると、やっさんは、コンピューターエンジニアで昨年課長職に昇格し、冬のボーナスをたんまりもらったのだと言う。来月にはまたボーナスをもらうから、仁がパソコンをやりたいなら、買ってあげると言った。
 次に、やっさんは頭が良かったのかと尋ねると、仁の工業高校の先輩だと言う。仁は、将来は寿司職人になるか、職工になるかと思っていたけど、やっさんのようなコンピューターエンジニアになるのもいいと思った。
 そして、仁は、やっさんに、パソコンをやりたいから是非パソコンを買ってくださいと言ってしまった。後で両親に怒られると思ったが、意外にも両親は喜んだ。父親は、やっさんに会いに行き、お金は父親が払うから、仁にパソコンを教えてやってほしいとお願いした。

 仁は、やっさんの家で、パソコンの使い道がゲームばかりではないことに驚いた。ワープロソフトを使えば、パソコンがワープロの代わりになることが分かったが、同じようにソフトを入れ替えると、仁が想像もしなかったことがパソコンでできることを、やっさんは仁に見せてくれた。スプレッドシートソフトで表計算がたちどころにできることに驚いたが、仁にはワープロソフトもスプレッドシートソフトも魅力的ではなかった。やっさんが、近いうちに、会社では1人1台のパソコンが与えられ、事務書類の作成などは手書きではなく、みんなパソコンを使うようになると言われても、仁には全く実感が湧かなかった。それよりも、仁にはペイントソフトでお絵描きができる方が面白かった。やっさんの家には、BYTE(バイト)という名前のコンピューター雑誌があって、いろんなプログラムの例題が掲載されていた。例えば、数式と与えるパラメータに応じてフラクタル図形を描くプログラムがあり、中でもマンデルブローと呼ばれる図形を自動的に描くプログラムに仁は魅了された。仁は、いろんな役目のプログラムが集まって、みんなが使うソフトができあがっていることがなんとなく分かったような気がした。それから、パソコンが音楽を演奏するのにも魅了されたが、生憎と仁は音楽的な才能を持ち合わせておらず、魅了されはしたけれども、自分には手は出せないなと思った。

 *

 仁が不気味な夢を忘れてパソコンに熱中しはじめてから1ヶ月ほど経ち、紫陽花が咲き始めた6月のある日の夜、仁は再び石神の夢を見た。夢の中で、石神はまたもや、仁に向かって、
「我ハ、石神(しゃくじん)デアル。我ハ、森羅万象ノ盛衰ヲ1000年ニ渡リ見定メテキタ八百万ノ神ノ一族デアリ、天ニ帰還スルタメ、オ前ヲ見出シタ。帰還ノ儀式ヲ執リ行ウベク、オ前ノ村ノ長ニ告ゲヨ」
 と告げた。仁は、「また、この変な夢か」と気持ち悪く思い、再びダンマリを決め込むことにした。すると、石神は同じ言葉を繰り返し繰り返し仁に伝え続けた。仁は、ついに我慢しきれなくなって、前にこの夢を見たときに湧いた疑問をぶつけることにした。
「しゃくじんとはなんだ。お前はいったい何者だ」
「石神(しゃくじん)トハ、石ニ宿ス神デアル。我ハ、1000年前ニ降臨シ、コノ石ニ宿ス八百万ノ神ノ一族デアル」
 あたりを見ても何も見えなかったが、不思議なことに、地面に埋まっている大きくて青い色をした四角い石を身近に感じることができた。
「この青い四角い石のことか」
 と尋ねると、
「ソウデアル」
 と答えた。
「なぜ、僕を狙い打ちにするのか」
「我ハ、我ノ魂ノ一部ヲ石カラ離脱サセル。次ニ、我ハ、近クニイル人間ノ細胞ト交信スル。次ニ、ソノ人間ガ魂ノ一部ヲ体カラ離脱サセル能力ヲ秘メタ人間カドウカヲ見定メル。次ニ、ソノ人間ノ魂ノ一部ヲ強制的ニ体カラ離脱サセ、コノ青イ石ノ近クニ連レテクル。次ニ、我ノ魂ハ、ソノ人間ノ魂ト交信スル。オ前ハ魂ノ一部ヲ離脱サセル能力ヲ秘メタ人間デアル。我ノ魂ハ、離脱サセル能力ヲ持タナイ人間ノ魂トハ交信デキナイノデアル」
 仁は石神の回りくどい言い方に驚いたが、質問を続けた。
「森羅万象の盛衰を見定めるとは何のことか」
「我ハ、森羅万象ニ宿ス小サナ魂タチト交信スル。次ニ、我ハ、大地ノ動キト天変地異ヲ知ルノデアル」
「森羅万象に宿す小さな魂たちとは、お前の仲間なのか」
「ソウデアル。オ前ニ分カリ易ク伝エルナラバ、我ラノ飼イ犬ノヨウナモノデアル。彼ラハ、主ニ大小サマザマナ小石ニ宿スコトヲ好ムノデアル」
「帰還の儀式とは何か」
「帰還ノ儀式トハ、我ノ魂ガコノ青イ石カラ完全ニ離脱スル儀式デアル。我ノ魂ガ青イ石カラ完全ニ離脱スルト我ノ魂ハ天ニ帰還スルノデアル」
「お前が魂を離脱させて勝手にどこへでも帰還すればいいじゃないか」
「我ノ魂ノ力ハ、コノ青イ石カラ完全ニ離脱スルニ足リズ、幾バクカノ人間ノ魂ノ助ケガ必要ナノデアル」
「人間の魂の力の助けだって?」
「人間モ自力デハソノ魂ヲ体カラ完全ニ離脱スルコトハデキナイノデアル。人間ハ体ガ死スト、体ニ宿ス魂ハ完全ニ離脱シ、天ニ帰還スルノデアル。我ノ魂ハ、帰還スル亡者ノ魂ヲ捕マエテ、石カラ完全ニ離脱スルコトガデキル」
「つまり、生け贄を捧げろという意味だとしたら、帰還の儀式なんてもってのほかだぞ」
「カツテ、我ガ兄弟ハ、生ケ贄ノ儀式ニヨッテ帰還シタノデアル。次ニ、人間ノ魂ガ強ク念ジルト我ノ魂ノ離脱ニ必要ナアル作用ガ発サレル。大勢ノ人間ノ魂ガ一斉ニ念ジルナラバ、我ノ魂ハ石カラ完全ニ離脱スルコトガデキル」
「つまり、大勢の人間が集まってお前のために祈りを捧げろということか」
「ソウデアル」
「そうか、人間の手助けをお願いしたいのだな。その割には態度がでかいな」
「ソウデアル」
「何が、そうであるだ。それで、お前はどこへ帰還するというのか」
「ココニ降臨スル前ニ、我ガ生マレ育ッタトコロデアル。亡クナッタ人間ニ宿シテイタ魂ガ帰還スルトコロト同ジデアル」
「つまり、あの世か」
「ソウデアル」
「僕にはまったく関係ないから、面倒なことに巻き込まないでほしい」
「帰還ノ儀式ヲ執リ行ウノハ、オ前ノ役目デハナイ。我ガ知ルトコロニヨレバ村ノ長ノ役目デアル。次ニ、オ前ハ村ノ長ニ告ゲルダケデイイノデアル」
「村長はいないぞ。北区の区長はいるけど、言っても無駄だと思うけどな。だいたい夢の話なんか相手にされっこないに決まっている」
「コレハ断ジテ夢ノ話デハナイノデアル」
 仁は、念のために頬をつねってみたが、別に少しも痛くはなかった。ところが、不思議なことに、石神のビリビリとした怒りを身近に感じた次の瞬間、全身がしびれ、手足が石のように重く固くなり動かなくなった。
「我ハ、オ前ノ細胞ト交信スルノデアル。我ハ、夢デナイ証トシテ、オ前ニ告ゲルノデアル。7月、長野地方ニテ、地滑リガ起コルノデアル。オ前ガ村ノ長ニ告ゲナケレバ、大勢ノ人間ガ死スノデアル。我ガ告ゲルコトヲ重ク受ケ止メヨ。今夜ハ、コレマデトスル」
 と石神は告げた。すると、急に体が軽くなった。そっと目を開けて見ると、仁は自分のベッドに横になっていた。仁は、何て不気味な夢が続くんだろうと気が重くなった。寝返りを打つとさっきのしびれがまだ残っているように感じた。
 明くる朝、仁は石神の夢も地滑りの予告も覚えていた。何かむずむずするような気味悪さを感じてはいたが、誰かに話すと面倒なことになるような気がして誰にも話さなかった。そして、それを忘れようとするかのように、パソコンについての勉強を猛然とはじめた。

 仁は、雑誌に載っているプログラムの意味を、やっさんに解説してもらうにつれて、プログラム作りにのめりこんでいった。やっさんから雑誌とプログラミングの本を借りて、夜遅くまで読むようになった。そして、ついに仁のパソコンが仁の部屋にやってきた。それは、残念ながら仁が最初にお気に入りになったマッキントッシュではなく、やっさんに選んでもらったPC9801というパソコンであった。パソコンがきたので、仁は早速、実際にプログラムを動かしてみた。しかし、仁の作ったプログラムは、なかなか仁の意図したようには動いてくれなかった。すると、仁は諦めるどころか、逆にさらにのめりこんでいく始末だった。

 百日紅(さるすべり)の赤い花が咲き始め、学校が夏休みに入ると、アスナが頻繁に仁の部屋を訪れるようになった。それもこれも、仁が閉じこもるのを心配してのことだったが、仁のパソコン操作の腕前を認めて、
「仁くん、すごい!」
 と言ってくれた。

 やっさんはプログラミングもいいけれど、次はパソコン同士をむすぶパソコン通信をやってみようと言い出した。そして、パソコンを2台つないだ「パソコン通信セット」を自作する計画を一緒に立ててくれた。仁はやっさんに連れられて、自作パソコンのメッカであった秋葉原電気街に行くようになった。

 *

 場面は変わって、ここは1964年8月に戸隠バードラインが完成した長野県地附山(ぢづきやま)付近である。7月20日頃から戸隠バードラインに亀裂が入りはじめ、山の斜面のところどころで崩落がはじまった。地元行政は監視体制を急いで作り、地滑りの警戒をはじめたところ、7月26日午後5時頃、大轟音とともに大規模な地滑りが発生した。地附山の南東側斜面が幅約450メートル、長さ約350メートルに渡って崩れ落ちた。戸隠バードラインは寸断され、付近の老人ホームの一部が押しつぶされて26名の死者を出した。仁の夢の中で石神が予知した地滑りが現実のものとなったのだ。

 *

 仁は、夏休みに入ったこともあり、やっさんが立ててくれた「パソコン通信セット」の自作計画にまい進していた。計画が遅れているわけではなかったが、仁は昼も夜も熱中していて、テレビも新聞も目に入らなかったから、長野県で石神の予言した地滑りが起こったことに全く気付かなかった。そんな7月の終わりのある日、仁は三度目の石神の夢を見た。夢の中で、石神は仁をいきなり責めたてた。
「我ガ予言通リニ地滑リハ起コッタノデアル。予言ヲ知ラサレヌ人間ハ犠牲トナッタノデアル。次ニ、我ガ告ゲルコトヲ、オ前ハ村ノ長ニ告ゲテイナイ。災イハ繰リ返サレルノデアル。我ガ告ゲルコトヲ重ク受ケ止メヨ。我ガ帰還ノ儀式ヲ執リ行ワセシメヨ」
 仁の心の中は、半信半疑であった。心の一方では、ついに面倒なことに巻き込まれたと嘆き、心のもう一方では、これはまだ夢の一部に違いないとタカをくくっていた。しかし、石神との時間がたつにつれ、夢の中での仁の立場はどんどん悪くなった。仁は小さい頃のように泣いて誤魔化すことはできず、嘘をつくにも事態を逃れる嘘は考えられず、ダンマリを決め込むことに意味はなかった。しかし、仁は責められ続けても、以前よりも冷静に論理的に考えることができた。それはここ1ヶ月の間プログラミングに粘り強く励んだからではないかと仁は思った。そして、仁は石神が長野県の地滑りを予知した秘密に興味を覚えた。
「お前はどうやって長野の地滑りを予知したのか」
「我ガ地滑リヲ予知スルノハ、長野ノ多クノ小石ニ宿ス小サナ魂タチガ感ジル大地ノ動キヲ交信ニヨッテ知ルノデアル」
「そんな遠くの小石にも小さな魂とやらが住み着いているのか」
「ソウデアル」
「それでお前は、そんなに遠くの小石たちともいつも交信しているのか」
「ソレハ間違イデアル。小石ニ宿ス小サナ魂ハ、近クニイル魂タチトダケシカ交信デキナイノデアル。大地ノ動キハ、ヒトツノ小サナ魂カラ次ノ小サナ魂ヘト次々ニ伝エラレテクルカラ、ヤガテ我ニ伝ワルノデアル」
 仁は、それを聞いて「伝言ゲーム」を思い浮かべた。
「小石たちが感じる大地の動きとは何か」
「オ前ニ分カリ易ク伝エルナラバ、ソレハ重力場ノ変動、電磁場ノ変動、放射線ノ変動、圧力ノ変動、温度ノ変動、湿度ノ変動、成分ノ変動・・・」
 仁は石神をさえぎって、
「もういい、分かった」
 と言った。
「我ハ、オ前ニ、我ガ告ゲルコトヲ、オ前ノ村ノ長ニ告ゲヨト二度伝エタノデアル。次ニ、オ前ハ二度裏切ッタノデアル。我ガ一族ガ初メテコノ石ニ降臨シテカラ数エテ6000年ガ過ギル間、二度裏切ッタ人間ハイナカッタノデアル。今夜ハ三度目デアル。我ガ告ゲルコトヲ重ク受ケ止メヨ。我ガ帰還ノ儀式ヲ執リ行ワセシメヨ。サモナクバ災イガ繰リ返サレルト知レ。今夜ハ、コレマデトスル」
「ま、待ってくれ。お前と交信できる人間は世界中で僕だけなのか」
「ソレハ間違イデアル」
「そ、そうだろ。ならば、僕以外の誰かにも頼むべきだと僕は考えるが」
「ソウデアル」
「じゃ、もう頼んだのか」
「ソウデアル」
 仁は、突破口を見つけたと思った。プログラムのデバッグでバグを見つけた時と同じような快感が湧いた。
「誰に頼んだんだ」
「何ヲ答エレバイイカ分カラナイ。細胞ノ数ヲ答エレバイイカ?」
「そんなもの教えてもらってもしょうがない。それじゃ特徴を教えてくれ」
「我ト交信デキル人間同士ハ、接触スルコトニヨリ互イニ交信デキルノデアル」
「何だって、それじゃ、僕と接触して交信できる奴を探せということか、そんな奴に出会ったことはないぞ」
「一生ノ間ニワタッテ交信デキルモノデハナイノデアル。我ト交信スルト、ソノ後1ヶ月クライノ期間ダケハ、細胞ガアル作用ニヨリ活性化スルノデ交信デキルノデアル」
「と、とにかく誰かに頼んだことは確かなんだな」
「ソウデアル」
「それじゃ、僕はもうお前の手伝いをしなくてもいいんだな」
「ソレハ間違イデアル。オ前ハ裏切ッテハナラヌ。今夜ハ、コレマデトスル」

 仁は、目が覚めて、昨夜の石神とのやりとりを思い出した。そして、あの石神は夢ではなく現実のことなのだろうかと分からなくなった。しかし、例え、あの石神が現実のことであったとしても、最大のピンチは逃れたと思った。少なくとも仁の責任は半分に減ったと思った。
 仁は、家に残っていた2日前の新聞に長野県の地滑りの記事を見つけた。しかし、仁は、この記事が、石神の存在が夢ではないことの証拠になるとはどうしても思えなかった。あの石神が現実に存在するなんて、どう考えてみても現実的とは思えなかった。
 石神は、石神のことを、たぶん北区長に言えと言った。そして、仁が北区長に言わなかったことを裏切りだと責めた。しかし、石神のことを北区長に言いに行くのは全くばかげていると思った。北区長が、そうかと言って、大勢を集め石神の帰還のために祈りの儀式を開くはずないじゃないかと思った。では、仁の両親に相談してみるか? 学校の先生に相談してみるか? やっさんやアスナや雄一に相談してみるか? いやいや、それもばかげていると仁は思った。それでは、また石神に責められたらどうするか? 僕には無理だから別の奴に頼めというしかない。その別の奴にはすまないが、やはりそれしかないと仁は思った。仁は、自分の心が決まって少し安心した。

 8月に入り、町のあちこちで朝顔を見掛けるようになった頃、パソコン通信セットが仁の部屋でついに完成した。パソコン通信セットは、仁のPC9801とやっさんのマッキントッシュを細いケーブルで接続したもので、両方のパソコンともに仁の部屋に置いてある。原理的には、仁の部屋のPC9801とやっさんの部屋のマッキントッシュを電話網を経由して接続してもいいのだが、そうすると通信料金がかかるので、このパソコン通信セットでは、やっさんのマッキントッシュを仁の部屋に持ち込み、ケーブルで接続することにしたのだ。
 日曜日にやっさんが仁の部屋に来て、パソコン通信セットのテストを行なった。一方のパソコンのキーボードから文字を入力すると、パソコン画面に入力した文字が表示される。文章を完成させて、画面の下部に表示された「送信」に対応するファンクションキーを押すか、「送信」という表示をマウスでクリックすると、完成した文章が相手のパソコン画面に表示されるという仕掛けである。テストは難なく成功した。仁は1人で何度も何度もテストしていたのだから、うまくいって当然なのだけれども、やっさんが、
「素晴らしい、よくやった」
 と言うと、仁は嬉しくて興奮した。
「やっさん、みんながパソコン通信をするようになったら、物凄く便利になりますね」
 と言った。しかし、やっさんは、
「今のパソコン通信には、言わなかったけれども、実は大問題があるんだよ」
 と言った。
「なぜだか分かるか」
 仁にはやっさんの言いたいことがさっぱり分からなかった。
「例えば、日本中にコンピューターが100台あって、どのコンピューターでも残りの全てのコンピューターと交信できるようにしようとするとどうなる?」
 仁が黙っていると、
「答えは全てのコンピューターに99本の通信線を引かなきゃならないわけだ。じゃあ、コンピューターが1人に1台ずつ与えられて全部で1億台になったらどうなる?」
「全てのコンピューターに9999万9999本の通信線を引くなんてできないよね」
 仁は石神と小石との交信の話を思い出した。そこで、
「コンピューターは近くのコンピューターとだけ交信するようにして、その代わりにコンピューターからコンピューターへ次々に交信内容が伝わるようにしたらいいんじゃないですか」
 と言った。すると、やっさんは目を丸くして驚いた。
「そ、そうなんだよ、よく分かったな、驚いた」
 と言った。
「実は、そういう仕組みの未来のコンピューターネットワークをアメリカの国防省とたくさんの大学が協力して作ろうとしているんだよ。僕は去年、会社の仕事でアメリカの大学に行って、この目で見てきたんだよ。君はすごい。才能あるよ。いつの間にコンピューターサイエンスの最新テクノロジーを勉強したんだろう」
 と仁を誉めちぎった。仁は内心、
「夢で石神に聞いたのさ」
 と思ったがそれは言わなかった。しかし、仁はパソコン通信に、がぜん興味が湧いて、なんとか自作したパソコン通信セットを利用できないものかと考えた。

 仁の家に物干し場ができ、アスナが玄関を通らずに仁の部屋に来られるようになってから初めての大事件が起きた。それは、仁がアスナにマスターべーションを見られてしまったという大事件だ。アスナにとって、男性の性器が勃起している様を目撃したのは生まれて初めてではあったけれど、アスナは何事もなかったかのように動じないふりを一生懸命に演じ、仁は仁でアスナが知らんぷりをしてくれたお陰で、説明に窮することもなく助かったのだった。
 仁は、アスナが突然部屋に入って来ないようにする案を考えている内にパソコン通信が使えるんじゃないかと思い付いた。つまり、アスナの部屋と仁の部屋の間にパソコン通信セットを設置して、アスナが仁に用がある時は、いきなり部屋に行くのではなく、パソコン通信で相手に知らせるというアイディアだった。そうと決まれば早速とばかりに、仁はアスナに申し入れをした。それは今までの閉じこもりの仁にあるまじき積極姿勢であったから、アスナは密かに、
「アレをアタシに見られたのが仁には余程こたえたに違いない」
 と思い、賛成してあげないと悪いかなと思って承諾した。

 仁は、次の日にアスナの部屋にマッキントッシュを持ち込んだ。何年かぶりでアスナの部屋に入った仁は、アスナの部屋がずいぶん女の子っぽくなったと思った。子供の頃のアスナの部屋は、仁の部屋と大して変わらず、おもちゃの種類が違うくらいのものだった。しかし、今では女の子らしい持ち物が増えて、何やら仁が触ってはいけないものばかりになったような気がした。しかも、アスナはいつもと違ってタンクトップに異常に短い短パンという姿で、胸のふくらみや下半身のふくよかさを強調していたが、何よりもいつもに比べて肌の露出が多かった。
 アスナが窓際の机の上を片付けて、ここに置いてというので、仁はマッキントッシュを机に置き、窓からケーブルを通してマッキントッシュと接続した。
 一方、アスナはマッキントッシュよりも、仁がアスナのセクシーさについてなんて言うのか興味深々だった。しかし、仁はもくもくと作業するばかりで、今日のアスナのセクシーさについては何も言わなかった。そこでアスナはやむなく、
「どう、このスタイルは?」
 と雑誌のモデルのようなポーズをしながら仁に近寄っていくと、
「アスナって地黒だね」
 と仁はぶっきらぼう言った。アスナは心の中で、
「お前は絶対に一生モテないぞ」
 とつぶやいた。
 アスナは、パソコン通信セットができることについて、仁から説明を受けると、パソコン通信は祥子のような耳の聞こえない人にとっての電話になると気付いた。そこで、アスナは、祥子をアスナの家に呼んで、パソコン通信セットを見せることにした。

(つづく)

maizumi
作家:志茂井真泉
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