我ハ、しゃくじん(石神)デアル無料版

第1章 プロローグ( 2 / 4 )

6000年前

 およそ16000年前に縄文時代が始まったが、それ以前の氷河期の時代は海面が現在より100メートル近くも低く、東京湾は陸地(盆地)であったため、多摩川、荒川、隅田川、利根川などの大きな川が東京湾の盆地で合流し(利根川は、江戸時代に行われた利根川東遷移事業以前は東京湾に注いでいた)、古東京川と呼ばれる大河となって太平洋に注いでいた。現在も東京湾の海底には古東京川の流れがえぐった川筋跡が残る。武蔵野台地の元は、縄文時代以前にできた多摩川の巨大な扇状地であり、武蔵野台地には、富士山の火山灰から成る関東ローム層が、数メートルから10数メートルの厚さで積もっている。
 縄文時代に、温暖化による海水面の上昇(縄文海進と呼ばれる)が起こり、6000年前は関東平野の一部が海底に沈んだ。東京湾の奥に奥東京湾と呼ばれる広大な海ができ、霞ヶ浦あたりには広大な香取海ができた。東京湾、奥東京湾、香取海の周囲からはたくさんの縄文貝塚が見つかっていて、海岸線が関東平野の奥まで広がっていたことがわかる。堀船町周辺では、高台の上野台地から中里貝塚(北区上中里)や西ヶ原貝塚(北区西ヶ原昌林寺境内)が見つかっていて、その辺りに海岸線があり、低地帯の堀船町は奥東京湾の海底だった。

第1章 プロローグ( 3 / 4 )

魂だけで存在する種族の降臨

 その頃、魂だけで存在する種族が、天から初めて関東地方に降臨し、上野台地の海岸線にあった青く四角い石に宿った。その青い石に宿った魂は、当時の縄文人と交信し、その神通力により石の神として祀られ、石神(しゃくじん)と呼ばれた。石神は、縄文人が恐れた洪水、地震、噴火などの天変地異を予知する力を持っていた。また、人間の中には魂(の一部)を体外に離脱する能力をもつ者がまれに存在しているが、石神は、そうした人間とだけ交信することができたのだった。その青い石に宿る石神は、およそ1000年を経て天に帰還し、新しい石神が天から降臨して交代した。その後も、およそ1000年ごとに石神の交代は続き、現在に至っている。
 全国で約2300ヶ所の縄文貝塚が見つかっていて、関東地方に約1000ヶ所があり、東京湾、奥東京湾、香取湾周辺に約600ヶ所が集中している。このように関東の縄文人が他の地域に比べて、より繁栄した理由には諸説があるが、後に述べる現在の石神の言によれば、関東の縄文人は、当時青い石に宿った石神との交信により、天変地異を予知し得たから繁栄できたのだという。

第1章 プロローグ( 4 / 4 )

1000年前

 奈良に朝廷があった飛鳥時代、土着豪族の国造(くにのみやつこ)が治める地域や、県主(あがたぬし)が治める地域が各地に散在していたが、701年、大宝律令が制定され、朝廷は令制国と国府を定め、国司を派遣して治めさせることにした。関東では令制国の1つとして武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県東部)が定められたが、当時の日本の中心地は関西に移っていて、武蔵国は都から遠く離れた「へき地」となっていた。武蔵国の領地は、无邪志(むざし)国造の領地と、知知夫(ちちぶ)国造の領地を合わせたものとされる。
 多摩川のほとり武蔵国多摩郡(現在の東京都府中市)に、111年に創建されたという大國魂神社があり、代々の无邪志国造が祭務を行なったとされる。武蔵国の国府は府中に定められ、703年、武蔵国の国司が都から赴任してきた。国司の着任後の最初の仕事は赴任した国の全ての神社を巡って参拝することであったが、その国の全ての神社の神様を合祀する「総社」を定め、そこに詣でることによって神社の巡回を省くことが広まり、大國魂神社が武蔵国の総社とされた。

 京都に朝廷が移った平安時代(およそ1000年前)に、武蔵国を事実上治めていたのは秩父氏という開発領主であった。秩父氏の一族には、男衾郡畠山郷(現在の埼玉県大里郡寄居町)を拠点に荒川上流を治めた畠山氏、入間郡河越(現在の川越市)を拠点に入間川流域を治めた河越氏、下総国葛飾郡葛西(現在の葛飾区)を拠点に利根川下流域を治めた葛西氏、江戸(現在の千代田区)を拠点に江戸湊と浅草を治めた江戸氏、橘樹郡稲毛荘(現在の川崎市登戸付近)を拠点に多摩川下流域を治めた稲毛氏、そして、堀船町のある武蔵国豊島郡では豊島(現在の北区豊島町)、石神井(現在の練馬区石神井台)、平塚(現在の北区上中里)などに拠点を置き、隅田川と石神井川の流域を治めた豊島氏がいた。
 豊島氏の一族には、練馬(現在の練馬区)に拠点を置いた練馬氏、板橋(現在の板橋区)に拠点を置いた板橋氏、赤塚(現在の板橋区赤塚)に拠点を置いた赤塚氏、志村(現在の板橋区志村)に拠点を置いた志村氏、滝野川(現在の北区滝野川町)に拠点を置いた滝野川氏、足立郡宮城堀之内(現在の足立区宮城町・堀之内町)に拠点を置いた宮城氏などがいた。
 秩父氏の一族は、入間川、荒川、隅田川、利根川、多摩川など関東の川筋の地域に勢力を伸ばし、「川筋族」とでも言うべき特徴を持った開発領主であった。川筋の土地は、魚介類が取れ、生活用水に困らず、水運に便利、防衛線になるなど、利点も多いが、毎年洪水に見舞われるという難点もあった。殊に、関東平野の川筋の土地は、山間部とは異なり、洪水のたびに川筋が大きく変わる氾濫原となっており、当時は住むにも耕作にも適さない土地とされていた。しかし、秩父氏の一族は、そうした川筋の土地に根付いて開発し、武蔵国を繁栄する国に変えていった。後に武蔵平一揆の乱(1368年)にて室町幕府配下の鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏の大軍に敗れるまでの約350年にわたり、周囲に武力でまさる列強氏族がいたにもかかわらず、武蔵国を治め続けた(後の徳川氏よりも長い)。それは、秩父氏の一族が武力だけでなく、川筋の土地の「治水技術」を兼ね備えた氏族だったからだとされるが、後に述べる現在の石神の言によれば、秩父氏一族の豊島氏は、平塚の地に石神の宿る青い石を祀り、石神との交信によって得た天変地異の予知情報を大いに利用したのだという。また、豊島氏は、1000年ごとに行なわれる石神の交代の儀式を盛大に執り行ったのだという。

 豊島氏は、武蔵平一揆の乱で秩父氏一族が崩壊した後も関東管領上杉氏の家臣として生き残り、豊島郡を治めた。武蔵平一揆の乱の約10年後の1380年頃、鎌倉公方足利氏の家臣で梶原道景という武将が堀船町あたりに移り住み、梶原堀之内村と呼ばれることになる。それから約100年後の1476年、上杉氏家臣の長尾景春が起こした長尾景春の乱において、豊島氏は、長尾景春に加担し、1478年、上杉氏家臣の太田道灌に敗れ、ここに450余年の歴史を営んだ豊島氏はついに滅亡した。それから更に約100年後の1590年、徳川家康は、太田道灌が築いた江戸城に入り、関東で続いていた戦乱の時代は終息した。しかし、関東の戦乱の時代に、石神の宿った青い石は行方知れずとなり、石神の伝説を伝える者は誰もいなくなっていた。

第2章 1985年( 1 / 5 )

1985年

 1985年は、日本の経済成長の最盛期であった。働く人の給料は上がり続け、団塊世代を中心とした大人たちは一億総中流社会を謳歌し、現在の延長線上に未来社会があると信じていた。一方、彼らの子供世代は学生時代を迎えていたが、彼らの現実は、大人たちが経験した学生時代とは異なるものだった。団塊世代の学生時代は、皆が似たような境遇(例えば、貧乏人の子沢山の子)の集団の中で、競争社会を生き抜いていく準備をすることができた。しかし、子供世代の学生時代は、皆が違う境遇や個性を際立たせ、競争社会への準備をする前に、いきなり受験競争、就職競争の中に放り込まれた。そして、団塊世代の学生時代には与えられなかった文明の恩恵(マイルーム、マイテレビ、マイコンピューターなど)が、子供世代に与えられたとは言え、彼らは自力で競争を生き抜くことが求められた。大人たちが経験してきた過去と子供たちが向かい合う現実とが分断されはじめた時代。大人たちが期待する未来と子供たちが迎える未来とが分断されはじめた時代。それが1985年だった。

maizumi
作家:志茂井真泉
我ハ、しゃくじん(石神)デアル無料版
0
  • 0円
  • ダウンロード

3 / 10