受容ホルモン

第1章( 4 / 5 )

「ここでの生活は気に入っていますか」
ふと思いついて、ローザは尋ねた。
お馴染みの質問ではあったが、闇から日なたへ突き飛ばされたるりは、一瞬、理解し損
なったと思った。間が空いた。

「あら、ごめんなさい、うんざりでしょう、この質問には」
素直に自分に笑いかける相手に、るりも苦笑を返してかぶりを振った。
「オオムネ。タダ、我慢シテルト損ヲスルバカリ、トイウ事アリマスネ。日本人ノ美徳ガ
通ジナイ、トイウカ」

(確かに彼に律されてしまっている。お金になる急ぎの翻訳の仕事がある。真夜中
まで二人で取り組む。ある程度かたがつくと、私は寝に行くことを許される。
彼はなお三、四時間も推敲やタイプやらで起きている。明け方、ベッドに倒れ込んでくる。
もう三ヶ月もそんな日が続いている。五回以上なかったろう、その間に。そして、
二、三日おきにあの声を聞くという寸法だ。彼は仕事にいれ込んだときの常で、気づかな
いのがほとんど。気づいても、またやってるな、と呆れるだけだ。

聖人よ! 私だけがやられてしまう。耳をふさぐことは出来ない。
それどころか、彼が話し掛けたりしてよく聞こえないと怒鳴りつけたくすらなる。静かな
夜にもその幻の声を聞くほどに私の中に棲みついてしまった。
そのあげくが、こんな脈絡のない行動だ。
探索と発見と成功。この人を見ること。
自分に欠けているものをかって持った彼女と同化すること、それを望んだのか?
馬鹿げてる! どうかしてる!)

(すぐに彼のことを思いだしてしまう。何てことでしょう、今日は。

昼休みに、雨降りの日だけ行っていた小さなカフェテリアでアクセルを初めて見た。
トーマスは三日間の予定で出張だった。彼がいないからといって、私の生活に変化は起こ
らない。
彼の留守を利用して求めるような自由を必要としていなかったから。
昼食をアプフェルクーヘンとコーヒーで済ませ、私は椅子に凭れていた。)

店内はかすかな人声で充たされていた。
外の雨の気配が、中の空気をいつもより濃くしているようにローザには思われた。
そのせいで身体の輪郭が少し凝縮されたかのように、妙に明瞭に自分の存在が感じられた。
空気と皮膚の無数の接点の描き出す身体の線と、その内側を充たしているある重さとを感
じ続けた。何も考えていなかった。
その重さは、単に彼女の存在の重さであって、何らかの感情とか、意識や想念や願望とかの
人間的な認識の産物は外側に押し出されていた。

ローザはこの無心の状態が好きだった。その後では自分のことも、他人のことの、より愛
しく想われた。
自分がそんなとき、かすかに柔らかにほほえんでいることをローザは感じるともなく知っ
ていて、理由のない無償の幸せを味わった。

ローザの輪郭を充たしている灰色の無の画面に、突然、黒い雨傘が浮き出た。傘が閉じら
れた。
若い男の横顔が、雨傘の滴を追ってうつむいていた。こちらに顔を向けた。
黒い髪、黒い目と眉、黒いダスター。
顔と手の白さだけが操り人形めいて動いた。
長い指をした、大きな手だ。
白と黒の男は、ぐんぐん近づいてきた。ローザの前の一つ空いた席で止まった。

会釈も忘れたらしく、あっという間に腰を下ろした。黒いバッグから書類を出してすぐに
書き込み始めた。
中肉中背に比して小さめの顔は前髪に隠され、睫の先と鋭い鼻先だけが見えた。指の爪は細
く長い。
ウェイターが来て注文を尋ねた。男の顔がまた現れた。寄せられていた眉が額につり上げ
られた。
薄青いひげ剃りあとの中の唇が少し笑って、コーヒーと言った。薄赤い、一本割れ目のつ
いた、やや厚めの唇。
白と黒と一点赤の男は、さらに忙しく書き込み続ける。ローザは男を映し続けた。
次第に、彼女の身体の濃い線がゆるみだした。
少しずつ、認識と感情が動き始める。神経質のイライラだわ、とローザは思った。

一方で別の感じが、ローザの中で言葉になりかけた。その時意外な素早さで、金髪青眼肉
色の大きな男の姿が立ち現れた。トーマスだった。ローザは画面の中のその姿を見つめ
た。
幾秒だったのか、気がつくと男の視線がそこにある。わずかなためらいの後、二つの微笑
が交わされた。

第1章( 5 / 5 )

(その時の私の印象が、人畜無害、だったわけ。でも、私には危険な男だった。
私はその日のうちにそれまでしたことのないことをしてしまい、−−勿論、トーマスと長
く同棲していることはすぐに言った。アクセルの方がその日はウーテのことを隠していた
−−後にも先にもない、私のスーパーウーマンの能力を発揮しだしたのだった。

トーマスが母親のところに二週間帰ることになった。それが決まった瞬間から、私の身体
は止めどなく震え始めた。
咎めるような良心など、思い出す余裕もなかった。それまでの数週間、切れ切れに、束
の間にしか燃やせなかった火花を、やっと完全燃焼させられるのだ。
トーマスの別れ際のキスを、耳鳴りの中で受けた。私はすでに失神し続けていた。
彼を待つ間、できればもうベッドに倒れ込みたかったけれど、やっておかねばならないこ
とがあった。
トーマスの気配を完全に消すこと。
アクセルが二度目にて訪れたとき、私はうっかりトーマスの歯ブラシをしまい忘れていた。
バスルームから出てくると、彼はそのまま帰ってしまったんだわ。

洗面台に下半身を押しつけながら、疼いている胸を抱いて鏡を見た。自分の瞳の色が定か
に見えなかった。ため息ばかり出た。
彼が入ってきたとき、私はほとんど崩れ落ちて歩けなかった。
おお、リープリング、ああ、リープリング。
遠くで女の声が聞こえた。

昼間、私は仕事に出かけた。
帰るとすぐ、バスタブの中で愛撫し合った。
どうして止めたらいいのかわからなくなるくらいだった。

夜は凄まじく輝いていた。二人で感じているもの、二人の全身を艶やかに染めているもの
が、愛しくて惜しくてたまらなかったわ。
明け方、一、二時間しか眠らなかった。
そんな生活に人間は二週間は耐えられるものだと驚いたのは、それは後でのことだった。
昼間の私は、澄み切った、落ち着いたかげりのないガラス玉のような心地でいた)

その日々の興奮と満足の実感を、ローザはもう思い出せない。思い返すことはできるが、
それは概念でしかなかった。
その後の成り行きの方が、どうかすると今でも鋭く思い出された。

第2章( 1 / 5 )

混線 

ローザは、大気とその下の町全体を充たしている、さざ波のような輝きをふりあおいだ。
それはトーマスの全身を覆っている金色のうぶ毛を連想させた。暖かく、理解があり、父
性的でありながら、いつまでも少年のような笑い声を持っている。

(私達の関係は極めてヒューマンだわ。それはたしか。
そしてアクセルと私との関係はただ一つの面だけで成り立っていた。それはそれで純粋な
美しさだったのに。
時々、彼が何か喋ったりすると、何だか私はまるでついていけなくなった。鋭すぎた。彼
のペシミズムや批判や、感情の激しさや神経質な繊細さやが。

私は耳を塞ぐ代わりに、彼の唇にとびついたものだった。一緒に暮らすことはとてもでき
そうになかったから、それをはっきり言うべきだと思った。
だからそう言った、はっきりと。
でも言ったことが彼の神経にさわった。どちらに決めるかなどと尋ねもしないのに、一方
的に宣言するなんて侮辱的だって。

それが発端。それから出会いのたびに段々ややこしくなっていったのだわ。
どうしていいかわからなくなって、しばらく会わないことにした。
この気持ちがただの性的な興味にすぎないのか、それとも愛なのか考えてみたい、確かめ
なくてはならないって、私の方から言った。
でも考えることなんかできなかった。

頭も、身体も、感情もともかく彼で埋まっていた。私などどこにもいなかった。

ト−マスがあの頃とても多忙だったのはただの偶然ではなかったと、ずっと後になって私
はうかつにも思い至った。
時々花を買ってくれたっけ。ご機嫌いかが、マドモワゼル、とおどけて言った。
そして結局、アクセルを愛している、ということになった。彼を食べて呑み込んでしまい
たかった。それを他に何と名付けられただろう。
それにまた、彼との関係を続けるためにはそう確信する必要もあったのだろう。

でも、彼の方で嫌気がさしていたのだったわ、もうその時には。三人目の女までできてい
て)

恋人が三人になってしまったころのゴタゴタについて、るりはアクセル自身から話を聞い
ていた。
アクセルにはおよそ自分を隠せないところがあった。女関係のすったもんだも詳しく語っ
て聞かせた。そのたび毎にるりは絶対に消えない傷を負わされた。
嫉妬し、打ちのめされながらも、しかし一言も聞き逃すまいとして、かみそりのような視
線を、伏せた瞼の下に秘めていた。

第2章( 2 / 5 )

アクセルは次第に自分のしていることの馬鹿らしさに耐え難くなっていた。

最初の恋人二人から、続けて手痛い仕打ちをされて以来、女全般への復讐心が根本にある
のは知っていた。
真剣な心の傾倒などというへまなことにならないよう、自分をコントロールしていた。
女の子を引っかけたり、捨てたりするときには、良心に対し意識的に、これは復讐だと言
い聞かせた。

ウーテは、わざわざ好みでないタイプだから選んだ。ところが、何としても結婚まで持ち
込もうとするウーテの執着は凄まじかった。
アクセルは何度か、わざをけんかをふっかけて関係を絶とうと試みた。が、そのたびに、
ウーテが余りにもへりくだって謝るので、それを受け入れざるを得なかった。

ローザとは、そのままうまくつきあえたかもしれなかった。飾り気が無くセクシーで、し
かもセンスがあった。しかし他の男の存在は理屈抜きに気に入らない。かと言ってローザ
がはっきりトーマスとは別れないと言っている以上、それを押し切ろうとするほどの馬鹿
ではないつもりだった。

ある日、一人で車で家を出た。週末が始まろうとするのんきな午後である。

悪友のヘルマン、アントンの二人と待ち合わせていた英国公園のビヤガーデンで、彼らが
もう二人の女をテーブルに引き込んでいるのを見て、アクセルは皮肉に肩をすくめた。女
たちは十歳は年上かと見えた。

マリアンネというのが、色白の豊満なタイプで、もう一方のよく日に焼いたやせ形の褐色
の肌のブリュネットは、スザンネといった。
性格も対照的で、マリアンネは開けっぴろげでよく笑い、スザンネはとりつきにくい感じ
だった。特に細身のたばこをくゆらしながら、深い緑色の目でじっと人を見据えるときが、
自分と世の中を知り尽くした大人の女そのものだった。

三、四時間が、特にどうということもなく過ぎた。若い男三人の間で、話題毎に議論が白
熱する以外は、女たちの仕事先の人物評を面白く聞いたほどのことで終わり、誰かが誰か
に惚れたと言った気配はなかった。

アントンがマリアンネを、アクセルがスザンネを車で送って行く間に、ヘルマンは用事を
ひとつ済ませ、3人でまた行きつけの店で会うことを約して、まだ日の高い夏時間の六時
頃解散となった。

スザンネとは余り喋りもしなかったアクセルは、ごく神妙に運転して彼女の住まいについ
た。
途中、離婚して六才の男の子と暮らしている、と突然スザンネが言った。アクセルは冗談半
分に、
「扶養料はちゃんと貰っているの」
と尋ねた。
「そんなもの要らないわ。自分の生きる分くらい自分で稼ぐわ。子供の養育費だけよ」
鬱蒼と夏葉の生い茂るカスタニアの並木道に面した、あっさりしたハウスだった。わりに
しゃれた手すりの階段が入り口についている。

その前で、アクセルがエンジンをかけっぱなしのまま待っているのに、スザンネはなかな
か車から降りなかった。
「コーヒーでもいかが」
アクセルは不意をつかれて、横の女を見た。
スザンネはそっぽを向いていた。車の少ない静かな通りである。

そのまま三日間、アクセルはそこにとどまった。スザンネは年下の男への突然の執着を率
直に自分に認めた。

アクセルの女関係を聞いても、無い方が不思議だわ、と言ったのみだった。
アクセルの方はかなりはっきり計算をしていた。これで、ウーテともローザとも切れるだ
ろう、と。
アクセルは電話で、ウーテには第二の女ができたこと、ローザには第三の女ができたこと
を伝え、双方に対し、付き合いを断つと宣言した。

アクセルはひどく自由を感じた。スザンネとは元々一時の関係のつもりだった。

東天
作家:東天
受容ホルモン
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