受容ホルモン

第3章( 1 / 3 )

ローザの別れ

                         三 ローザの別れ

「ジャア、オ姑サンヲスッカリ失望サセタッテワケ」
るりはまた皮肉な流し目をして言った。女たちについては触れるのを避けていた。
「あの頃はまだましな方だったよ。勉強もしていたからね。その前は、手当たり次第、毎
晩違う女の子さ。短い関係が次々と続いた」

「ドウシテ、ナゼソンナコトバカリシタノカ。新シイ子ダト、ヤハリ新鮮ナノダロウカ」
「それはそうさ。僕だって人生を楽しみたいわけだし。しかしやがて疑問は起こるもんだ
ね。ある夜、組み敷いてる相手が誰だかわからなくなった、参ったなあ、途中で止めてし
まった。それからはさすがに自粛したね」
るりはアクセルが気楽そうに寝転んでいる真紅のダブルベッドを眺めやった。

「なんだい、このベッドが気に食わなくなったのかい」
「ソンナコトハナイ」
「確かにこれは二回目の婚約のときに親に買ってもらったものだから、気にくわないと
は思うけどね、買い替えるにはまだもったいないし。それにいつも言うように、あの婚約
は本気じゃなかったんだよ」
「ワカッテル、オ金ハナイシ」
「そうだよ、お利口さん」
アクセルはわざわざ起き上がってるりの頬に口をつけた。るりは急いで微笑み、目を伏せ
た。地模様のバラの花が確かにまだまだ美しく浮き出ている、その深紅のベッド地には無
数のしみと、タバコの焼け焦げの穴がひとつあった。

その後、三人の女たちとは並行して続いた。

ウーテは花嫁衣裳の並べてあるショウウインドウや結婚指輪にあいかわらず興味を示した。
ローザは、いわば第二夫人を自認する度合いがひどくなった。ある夜、飲み屋でヘルマン
と一緒のところをローザとばったり出くわした。彼を認めるや、ローザは優しい眉を逆立
てて、店から出ていった。
アクセルはるりにそう語りながら、愉快そうに笑った。

「面白イ、ソレデ第三夫人ハドウナッタ」
と、るりは黒いたわわな髪をちょっと気取ってゆすって見せた。

スザンネはやや積極的になった。友人間にアクセルを紹介したがった。苦手な日光浴に誘
われて、アクセルがやっと昼もずいぶん過ぎた頃に、イザール川の野原に行ったことが
あった。すでに彼も顔見知りの知人二人と並んで、スザンネはトップレスで甲羅干しをし
ている。その壮観な眺めまであと十メートルということろへ、アクセルがサングラスに隠
れるようにして歩いていったとき、
「パピィ」
と子供の声がした。マックスだと思った瞬間、
「パピィ、パピィ」
少しわざとらしく叫びながらはたして跳びついて来た。

「まったく。まるでああするように言い聞かせてあったみたいだった」
「彼女モ結婚シタカッタノカモ」

「まさかと思うけど。結婚すると男女関係の一番味わい深いところが失われるって、いつ
も言っていたからね。それに、自活できる女なら、自分の生活を自分で決定できる自由を
絶対手放すべきじゃないって言うのが持論だったから」
「確カニソウダ」

「そうか、るりも本来は結婚はこりごり派だったな」
「デモ、ドウシテ男ノ人モワザワザ結婚シテ不自由ニナリタイノカ。ア、ソウカ、彼ラハ
結婚ニヨッテモ決定ノ自由ヲ失ワナイバカリカ、家政婦ヲ安ク雇ッタコトニナルノダ」

「日本人の亭主族のことだろう、とくにるりの前夫のこと」
「マア、ソウ思ッテモラッテモイイ、トコロデ、私ニハ決定ノ自由ガアルワケ?」
「半分はあるさ。僕が半分。何でも話し合って決める、人生を分け合う。それが結婚の意
義だ」
「理屈トシテワソウダ。シカシ誰ノ意見ガ正シイノカ、ソレヲ誰ガ決メルノカ」

アクセルがじろりと見た。議論を吹っかけてくる気だ、とるりも身構えた。
「るりがね、不自由をかこっているのは知ってるさ。でも構わないさ。僕だって自分勝手
なことは何一つしない、模範亭主なんだから。そうだろう」
「フン、ソレモ認メルケド」
「それにいつでもセックスパートナーがいるってのも結婚の利点さ」
「アラッ」

いきなりるりはベッドに倒れた。アクセルが
頭を不意につっついたのだ。
「何をそう驚いてるんだい」
「ダッテ、ドア、ドア、開イテイル」
「誰もいないぜ、ちょうど」目の前にアクセルの顔が大きく映った。優し
い目の線を美しいと思った。

そんな嬉しい眺めは、もう一年も前のこと
だったろうか。
まだ楽しいと言えた頃の事だ。
結婚生活とはつまるところ、人生を生き抜いて行くための、荒波を二人でひっかぶって進
む二人三脚なのだから、とアクセルは言った。
市役所での結婚の宣誓を言葉通りに受け取っている、珍しく批判的でないのが妙にバカら
しかった。

第3章( 2 / 3 )

お互いが相手にかぶる荒波そのものだったらどうするの?
生きてるのってアホらし。
そのとき、るりはたくさんの社会的策略の網の目をを感知したようだった。

風に吹かれて、光っては消え、彩に輝いては消えする噴水の水滴のような、アクセルの女
たちのさまざまな瞳色が、ただの噴水の色へと、色あせた。

るりはフンと小さく鼻をならした。
ローザはオレンジをむいていた。指先が黄色に染まっている。
イタリアかイスラエルでとれたオレンジの、強い芳香が漂う。勢いよく半分に割る。鮮や
かな朱色の半分がるりの前に差し出された。
ためらいもせずにるりは手を伸ばした。

「アリガトウ、トテモイイニオイ」
と、るりがローザを見ると、ローザはオレンジにそのままかじりついていた。口中に広が
る自然の恵みを余さず享受するかのように、ローザのまぶたは半ば閉じられ、フーンと、
長い讃嘆の声がもれた。

「私、とてものどが乾いていましたの」
口の周りの黄色い汁をぬぐいながら、満足して口を開けて笑う。目じりにしわが寄った。
るりもオレンジにかじりついた。同じように、フーンと長く嘆声を発した。バカみたい、と
一方で思っていた。オレンジはそうおいしくもなかった。
最後の一房を含もうと口を開いたとき、るりはもう恥ずかしさにいたたまれなくなってい
た。

(そうよ、あなたの思い、私の思い。きちがいみたいに羨ましがったってどうすることも
できやしない。それが結論。私は私、ほかの私にはなれやしない)
急いで飲み下すと
「私行キマス、サヨナラ」

するとローザはおおむ返しにさようならを言ったが、その瞳はどこか深みをさまよって
いるらしい無表情さを見せていた。るりはくるっと回った。

(アクセルが日本に去るまでの日々は、またそれまでとは違った狂気に充たされていたの
だった。今だけ、今だけ思い出すことにしよう。

私は可能な限り、彼の部屋に走り込んでいった。彼の身体にぴったり身を寄せると、触れ
ているすべての部分から優しい波が涌き出てきたわ。ひたひたと浸されていく。彼の指の
軽い動きに、髪の毛の一本一本までもが生気を取り戻す。

彼の触れていく背中が、びりびりと震え出す。全身に生じた波が、やがて、
いくつかの点へと沸き立ちながら押し寄せ始め、熱く集中していく。するともう、空気が
足らなく思える。燃えるための酸素を声とともに吸い、荒く長く吐息する。ひと息毎に波
に乗って、ますます高く翔けていく。私にだけわかるある点まで達すると、そこは熱砂の
ようでもあり、砂糖壷の中のようでもあった。

私はその中で踊りつづけ、素晴らしいわ、素晴らしいわ、幸せよ、幸せよ、と訴えつづけ
るしかない。同時に、愛しいと思う気持ちが、確信を持って、ハンマーのように悦びを強め
る。私は叩かれる、いくどもいくども叩かれる。ただ紅の存在となる。

会わないでいる間の、スザンネへの嫉妬、東洋に去った彼が会うであろう、見も知らぬ女
たちへの嫉妬!あの頃、私はすっかりやつれてしまった。結局はトーマスとのいさかい、
すまないとも思う、自己嫌悪、自分への絶望。

アクセルは辟易していたのだわ。肉体が誘惑に応えてしまうのにいつも腹を立てていたし、
関係を断つことができないでいる自分が馬鹿みたいに思えたのだろう。

出発の日をアクセルは私たちの誰にも教えなかった。ある日彼は消えた。私の世界から。
手紙は書いた。案の定返事はなかった。三度出して、それで私は諦め始めた。
彼とは別れたほうが身のためだ、と言い聞かせたわ。喜びが減った分、苦しみも減って。
執着が薄れるにつれ、私の身体を染めていた紅蓮の色も失せていき、ありがたいことに静
かな基本色に落ち着いてくれた。

ときどきの、それぞれの、淡色の喜びの色が映っていくのにゆだねられるようになって、
私は元のローザに戻ったのだわ。そういうことだったのだわ)

第3章( 3 / 3 )

るりは、ケーニクスプラッツで危うく地下鉄から降りそこねるところだった。

地上へとエスカレーターで運ばれる間、みるみる広がっていく空に、カルル通りの左右の
建物が竹の子の育ってくるかのようにニョキニョキと全身を現してくる。一瞬気を取られ
た。面白い錯覚だ、原因と結果が逆。

(まあ、ともかく無事に帰れそうだ、アクセルはまだアルバイトから帰っていないはずだ。
でもなんと言おう。何をして過ごしていた、ときっと尋ねるだろうから。イヤだな。
愛?
監視だ。私は彼の領土の一部だから、保護もするが管理もするって具合。前の夫の無関心
も行き過ぎだったけど。

あの頃、アクセルは振り回されるのにうんざりして、女たちの餌食になったようにまで
思って、つてのあったのを幸い、父の勤める大学にドイツ語の外人講師として日本に渡っ
てきた。私たちを引き合わせたのは当時主任だった父自身だったから、思いもよらぬこと
だったとはいえ、その日のことを父はずいぶん呪ったのだろう)

アクセルは、初めてひとりの女性に真剣な思いを寄せている自分に気づいて慌てた。しか
も既婚の、主任教授の娘がその対象となったのは運命の悪意のように思えた。
二、三度、市の名所めぐりに付き合ってくれた。会話の練習台にされている、という感じ
だった。会話のテーマとしてさまざまなことを話した。彼女には一見知的に勝って冷たい
ところがあり、もともとアクセルには近づきにくい立場だったのに、意外に世間知らずな
優しさが本質だった。その間隙に、何か深いものが隠されているようにアクセルには思わ
れた。そう思いたかったとき、アクセルの恋が始まったのだ。彼女のありふれた悩みを聞
いても、人間としての彼女に近づく喜びを感じた。

「一年近くもグズグズしたあげく、まったく、一年もだぜ、僕は決意した。運命を自分の望
むままに作ってやるって。困難と不利益は覚悟の上さ。君の全存在を、君の生活、君の夢
も、自分のものにしてしまうことを誓った。

勿論君次第だがね。いや、ちがうか、君の意志すらも僕の欲するとおりにしてしまおうと
決心した。だってそれは必要だったじゃないか。君は恐ろしくためらい、抵抗し、心配し
た。僕は執拗に説得しつづけた、そしてついにもう後戻りできないところまで、君を僕に
引きつけた。
僕たちは戦った。傷だらけになったが、日本から逃れ出ることですべてのしがらみから自
由になった。るり、さもなければ、君は今でもあの孤独な結婚生活を続けていただろう
よ」

(どちらがましだったのか。自分がこんなにも嫌悪すべき存在だってことをここまでわか
らされてしまったからには。比較なんかするものじゃないけど)

ただ、今も惨めだなあ、とるりはつぶやいた。
そろそろ昼休みに入る居酒屋の戸口に、所在なげに立っていた男が自分を眺め回している
のがわかった。何を想像しているのか知れている。るりの悩みが男にわかったら男はどう
するだろう。そう思ってしまってから、るりは舌打ちした。
(自分の始末くらい自分でつけなさいな、るり、みっともない!)

第4章( 1 / 3 )

倒錯

                                          四     倒錯

カルル通り三十五番の建物に帰り着く。
エレベーターが閉まる直前に、若い娘が走り込んできた。るりが四階のボタンを押す。娘
のほとんど黒っぽいマニュキアの指が五階を押した。確か一.二度見かけたと思った。

溢れるほどの漆黒の髪が、縮れながら肩を厚くおおっている。眉も睫もうっとおしいほど
濃く密生している。不思議なほどに細い鼻梁、大きな、しかも切れ長な目の真っ黒な瞳、ド
イツ人でないのは確かである。まだ十七,八かと見えた。

娘はエレベーターが上がり出すと、ひどく冷たい視線を一瞬るりに向けた。るりも凝視せ
ずにいられなかった。この娘か。この娘があの声の主か。娘はすだれのような睫を上げて、
またるりを見た。怒っているような感じがした。憎しみとすら受け取れた。

「サヨウナラ」
慣習通りに、出るときに言った。返事はない。
るりが左に折れて、十歩ほど歩く間、エレベーターはたちまち五階につき、娘の足音が
るりの立っている入り口の真上で止まった。
るりは鍵を開けた。上でチャイムのなる音がした。
ドアを閉めたとき、るりは自分の心の重さによろめいた。

ローザの存在、それにあの娘の存在に触れた衝撃は、泥沼に投げ入れられた意地悪なつぶ
てとなって、どっぷりと波打つ自己嫌悪の輪が広がった。恥の上塗りだった。一人相撲の
敗北の渦にさらに巻き込まれ続けるだろう自分を思って、るりは呻いた。
(でもどうしてあの娘が私を睨む必要がある
のだろう)
自分が、下から彼女の喜びに関与している厚かましさに対するものかもしれないような気
がした。

その若い男を初めて見たのは、次の日、ごみのポリ袋を下のコンテナまで持っていった帰
り、自室のドアを開けて中に入ろうとした時だった。

顔の回りを、ライオンのたてがみを思わせるブロンドの巻き毛が包んでいた。巻き毛と言
うより、汚れた金羊毛に近かった。学生らしい構わなさでよれよれのリュックを背負い、
ちょうど階段を降りて来たらしく廊下をこちらへ歩いていた。キリストの絵に似た、非の
打ち所のない顔立ちだった。燃えるように青い瞳だ。

もうひとつの足音が階段を降りてくる。繁茂した黒髪が目に入った。るりの心臓がコトコ
ト鳴り出した。いつもに比べ、ゆっくり動いているだけの違いはあったが、るりは確実に
部屋に入り、ドアを閉めつつあった。娘が若者に何か呼びかけた。若者は無愛想に答えた。
フランス語らしかった。ドアののぞき穴いっぱいに娘の後ろ姿があった。

その日から、るりはひどくきれい好きになった。少しのゴミでも、下まで運んでいった。
いい歳をして、と思いつつも駆り立てるものに抗えなかった。それは恋心に似ていた。そ
の窓の粗雑そうな白いカーテンを下から見つめた。

上の住居はいわゆる共同住宅で、主に学生たちが一部屋ずつ借りているという。従ってあ
のペアが例の声の主だとは決まっていない。現に他の顔も時々るりは見かけている。しか
し何かがるりを確信させた。
二度、若者が自転車で出かけるのを台所の窓から見送った。娘はしばらく来ないようだっ
た。るりは、自分を苦しめ、惨めにする声を待ちくたびれるほどに待った。

東天
作家:東天
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