「よし、仕方ない、ともかく行くよ。しかし今はだめだ、急ぎの下調べがある。夕方行く
から待っててくれ。その上で話をしよう」
「本当に来てくれるの、本当ね」
「約束したら破らないだろう、俺はいつも」
「本当ね」
「うるさいな」
「ごめんなさい、じゃ、待っているわ。おいしいものを作っておくわね」
ウーテが出て行くまで結局十分はかかっただろう。息を整えながら、そっとアクセルは客
室をのぞきに言った。
ロ−ラのなだらかな背中が、しんとして見えた。ドアを閉める音で、ローザはびっくとし
て振り向いた。涙が大きな筋をなして頬に光っていた。
「アクセル!」
ローザは立ち上がり、アクセルに両腕をさしのべた。涙はまさに滝のように鳶色の瞳を浸
し、溢れて流れ落ちた。
「愛しい人、私の大切な人!」
窓からの光を背に受けて、ローザの柔らかな体の線がニットのワンピースを透かして浮き
上がって見えた。
少しおそれるように、彼女はアクセルの首に手を回した。
「止めてくれ、ローザ」
しかしアクセルの声は弱かった。ローザは次第次第に腕に力を込め、全身をアクセルに隙
間無く押しつけ始めた。泣いているために、身体全体が波打っていた。波打つたびにいよ
いよ強く密着してきた。
アクセルがしまったと思ったときには、彼の手は、ローザの腰に当たってしまっていた。
誘うようななめらかな肌をもう手は感じていた。
アクセルは自分の上にあったローザのぐったりした身体をベッドに落とした。ローザは顔
を濡れた髪の中に埋めたまま深い息をはき続けている。アクセルの耳には彼女の高い叫び
声が、こだまのように残っていた。それを振り落とすようにローザを肘でこづいた。
「リーブリング、リーブリング」
ローザは何度も言い続けた。
本質的には同じことがウーテの部屋でもその晩繰り返された。スズラン型の小さなランプ
が枕元でかすかに耳障りな音を立てていた。
目を閉じると、瞼の裏に入り込んでくる光が彼をイライラさせた。そのままでじっと横た
わっていた。
スザンネはその間に、アクセルが連絡しないので、何度も自宅に電話をかけてきていた。
翌日の午後遅く帰ったアクセルに母親が、淫売屋じゃなんだからね、いい加減におし、と
かみついた。
「ママたちと違ってどうも俺は運が悪くてね。当分落ち着く見込みはないよ。ともかくスザ
ンネと話をつけに行って来る」
「これで終わりにするのは余りに惜しいの。もう少し人間同士の深い付き合いに持ってい
けるような気がしているの。あなたのことをもっと知りたい、私のことももっと知って欲
しい、そう思っているの」
スザンネは、目を伏せたまま低い声で言った。
視線の先にアクセルの手があった。スザンネは肉の薄い日焼けした色の手で、アクセルの
美しく白い長い指に触れた。
「変ね、こんなに色が違う」
スザンネは深い声音で、短く笑った。困惑したアクセルの目が壁の書棚をさまよった。数
冊の心理学のタイトルが注意を引いた。
「あ、この本あったかな」
そう言って立ち上がったときには、アクセルのいつもの癖で、もうその本のことしか考え
ていなかった。
ユングの文字に手を伸ばしながら、
「これを読みたいと思っていたんだ」
スザンネが椅子から立ち上がってきた。
「ほらね、私達はまだ話すことがあるでしょう」
二人は自然にソファまで歩いていき、並んでそこに身を沈めた。
両方からのぞき込んで、同じページを読み進み、思いついたことを時々喋り合った。数刻
して、
「暗いな」
と、アクセルが窓の方へ目を上げようとした時、スザンネの、逆光のためにシルエットだ
けになった顔の、緑色の双眸が間近で光っていた。
それ程近く座っているとは知らなかった。スザンネは少し首を傾げて、
「さあ」
と、口ごもるように言ってほほえんだ。
スザンネは最後に一声、しかもアクセルが達したのを見届けた瞬間に、鋭く叫ぶ以外はほ
とんど声を立てない。アクセルの方が時には声高になる。彼女はアクセルを楽しませるこ
とにより熱中するようだった。
「どう、これも悪くないわね。心理学を読むのと同じくらい」
アクセルの手を撫でながら彼女は言い、素早く白い手に接吻した。が、再び唇を付けると、
そのまま唇も舌も一点の隙間無く密着させて、美味なものでも食べるように、いつまでも感
触を楽しんでいた。
まるで女になったようだ、とアクセルは内心妙な気がした。二人の身体は、その接触点を
中心にして、内側から蠕動し始めた。