受容ホルモン

第2章( 1 / 5 )

混線 

ローザは、大気とその下の町全体を充たしている、さざ波のような輝きをふりあおいだ。
それはトーマスの全身を覆っている金色のうぶ毛を連想させた。暖かく、理解があり、父
性的でありながら、いつまでも少年のような笑い声を持っている。

(私達の関係は極めてヒューマンだわ。それはたしか。
そしてアクセルと私との関係はただ一つの面だけで成り立っていた。それはそれで純粋な
美しさだったのに。
時々、彼が何か喋ったりすると、何だか私はまるでついていけなくなった。鋭すぎた。彼
のペシミズムや批判や、感情の激しさや神経質な繊細さやが。

私は耳を塞ぐ代わりに、彼の唇にとびついたものだった。一緒に暮らすことはとてもでき
そうになかったから、それをはっきり言うべきだと思った。
だからそう言った、はっきりと。
でも言ったことが彼の神経にさわった。どちらに決めるかなどと尋ねもしないのに、一方
的に宣言するなんて侮辱的だって。

それが発端。それから出会いのたびに段々ややこしくなっていったのだわ。
どうしていいかわからなくなって、しばらく会わないことにした。
この気持ちがただの性的な興味にすぎないのか、それとも愛なのか考えてみたい、確かめ
なくてはならないって、私の方から言った。
でも考えることなんかできなかった。

頭も、身体も、感情もともかく彼で埋まっていた。私などどこにもいなかった。

ト−マスがあの頃とても多忙だったのはただの偶然ではなかったと、ずっと後になって私
はうかつにも思い至った。
時々花を買ってくれたっけ。ご機嫌いかが、マドモワゼル、とおどけて言った。
そして結局、アクセルを愛している、ということになった。彼を食べて呑み込んでしまい
たかった。それを他に何と名付けられただろう。
それにまた、彼との関係を続けるためにはそう確信する必要もあったのだろう。

でも、彼の方で嫌気がさしていたのだったわ、もうその時には。三人目の女までできてい
て)

恋人が三人になってしまったころのゴタゴタについて、るりはアクセル自身から話を聞い
ていた。
アクセルにはおよそ自分を隠せないところがあった。女関係のすったもんだも詳しく語っ
て聞かせた。そのたび毎にるりは絶対に消えない傷を負わされた。
嫉妬し、打ちのめされながらも、しかし一言も聞き逃すまいとして、かみそりのような視
線を、伏せた瞼の下に秘めていた。

第2章( 2 / 5 )

アクセルは次第に自分のしていることの馬鹿らしさに耐え難くなっていた。

最初の恋人二人から、続けて手痛い仕打ちをされて以来、女全般への復讐心が根本にある
のは知っていた。
真剣な心の傾倒などというへまなことにならないよう、自分をコントロールしていた。
女の子を引っかけたり、捨てたりするときには、良心に対し意識的に、これは復讐だと言
い聞かせた。

ウーテは、わざわざ好みでないタイプだから選んだ。ところが、何としても結婚まで持ち
込もうとするウーテの執着は凄まじかった。
アクセルは何度か、わざをけんかをふっかけて関係を絶とうと試みた。が、そのたびに、
ウーテが余りにもへりくだって謝るので、それを受け入れざるを得なかった。

ローザとは、そのままうまくつきあえたかもしれなかった。飾り気が無くセクシーで、し
かもセンスがあった。しかし他の男の存在は理屈抜きに気に入らない。かと言ってローザ
がはっきりトーマスとは別れないと言っている以上、それを押し切ろうとするほどの馬鹿
ではないつもりだった。

ある日、一人で車で家を出た。週末が始まろうとするのんきな午後である。

悪友のヘルマン、アントンの二人と待ち合わせていた英国公園のビヤガーデンで、彼らが
もう二人の女をテーブルに引き込んでいるのを見て、アクセルは皮肉に肩をすくめた。女
たちは十歳は年上かと見えた。

マリアンネというのが、色白の豊満なタイプで、もう一方のよく日に焼いたやせ形の褐色
の肌のブリュネットは、スザンネといった。
性格も対照的で、マリアンネは開けっぴろげでよく笑い、スザンネはとりつきにくい感じ
だった。特に細身のたばこをくゆらしながら、深い緑色の目でじっと人を見据えるときが、
自分と世の中を知り尽くした大人の女そのものだった。

三、四時間が、特にどうということもなく過ぎた。若い男三人の間で、話題毎に議論が白
熱する以外は、女たちの仕事先の人物評を面白く聞いたほどのことで終わり、誰かが誰か
に惚れたと言った気配はなかった。

アントンがマリアンネを、アクセルがスザンネを車で送って行く間に、ヘルマンは用事を
ひとつ済ませ、3人でまた行きつけの店で会うことを約して、まだ日の高い夏時間の六時
頃解散となった。

スザンネとは余り喋りもしなかったアクセルは、ごく神妙に運転して彼女の住まいについ
た。
途中、離婚して六才の男の子と暮らしている、と突然スザンネが言った。アクセルは冗談半
分に、
「扶養料はちゃんと貰っているの」
と尋ねた。
「そんなもの要らないわ。自分の生きる分くらい自分で稼ぐわ。子供の養育費だけよ」
鬱蒼と夏葉の生い茂るカスタニアの並木道に面した、あっさりしたハウスだった。わりに
しゃれた手すりの階段が入り口についている。

その前で、アクセルがエンジンをかけっぱなしのまま待っているのに、スザンネはなかな
か車から降りなかった。
「コーヒーでもいかが」
アクセルは不意をつかれて、横の女を見た。
スザンネはそっぽを向いていた。車の少ない静かな通りである。

そのまま三日間、アクセルはそこにとどまった。スザンネは年下の男への突然の執着を率
直に自分に認めた。

アクセルの女関係を聞いても、無い方が不思議だわ、と言ったのみだった。
アクセルの方はかなりはっきり計算をしていた。これで、ウーテともローザとも切れるだ
ろう、と。
アクセルは電話で、ウーテには第二の女ができたこと、ローザには第三の女ができたこと
を伝え、双方に対し、付き合いを断つと宣言した。

アクセルはひどく自由を感じた。スザンネとは元々一時の関係のつもりだった。

第2章( 3 / 5 )

しかし、そう簡単には行かなかった。

アクセルが自宅に帰るやいなや、まず飛んできたのはローザだった。
「愛しているわ、私、あなたを!愛しているのが分かったの、セックスに惑わされていた
のよ!」
ローザの言う発見にアクセルは一瞬当惑して、突っ立っていた。

その隙にローザは両腕をアクセルの首に回し、ジャニーンDの香りで彼を包み、すぐ誘惑に
かかった。瞳を潤ませ、愛しさを込めてアクセルの顔中に接吻しながら、同時に喘ぎ始め
ていた。

その時、チャイムが鳴った。待って、母が帰ってきたのかも、とアクセルは口ごもって
言いつつ、これを幸いとローザの腕から逃れ出た。母親なら鍵で入ってくる。
そしてふと、ある予感がした。
ドアののぞき穴から、案の定ウーテの水色の瞳が見えた。何たることだ、めちゃくちゃ
だ! アクセルは思わず額を押さえた。

忍び足で自室まで取って返し、放心状態のローザを奥の客室に引っ張っていった。母親
が留守だったのは今となっては不幸中の幸いだった。
「ちょっとここで待っててくれ。ゼミの仲間が来た。少し話があるから」
ローザの反応は見ずに、後ろ手で客室のドアをきちんと閉める。

ウーテはもうほとんど泣きじゃくっていた。
ドア口で追い返すことなどできそうにない。
喋る暇を与えぬよう、急いで自分の部屋まで彼女のヒクヒクしている薄い背中を押して
いった。
客室と自室とは二つのドアで仕切られているが、他の女の気配なりとも二人がお互いに感
じないとはいえなかった。

アクセルはウーテの泣き顔を見、哀訴する声を聞いて、心底ため息が出た。自分に対して
も二人に対しても腹が立った。
「アクセル、私を捨てないで。お願い、お願いだから、私をまたひとりぽっちにしないで。
これまでの恋人たちのように私を捨てないでちょうだい。両親すら私を欲しくなかったの
よ。もう耐えられない、人から疎まれることには」
やせた肩の中に深くうなだれて、ウーテはすすり泣いた。
(誰であろうと、結婚する気なんか俺にはないんだ)

アクセルが説得にかかろうと身を屈めた時、ウーテがその唯一の美点である黒い睫を涙で
きらめかせながら、目を上げた。
「分かってる、私がうるさすぎたんでしょう。もう焼き餅なんか焼かない、あなたのお母さ
んのことを嫌いだなんて言わない、結婚も口にしない、それに、それに、その別の女だっ
ていて構わない。だから私を捨てないで。嫌われないようにどんなことでもするわ。だか
ら!」
ウーテは意外な強さで彼の手をつかんだ。
「行きましょ、私の部屋にすぐ来て、ね!今すぐに」
アクセルの母親の留守を知ってか知らずか、ウーテは一刻も時間を失いたくないという風
に、もうバッグをかかえた。アクセルにはウーテの意図はよく分かっていた。しかし今
はウーテを何とか帰さなくてはならない。

後でアクセルは思い返した、このときに至ってもまだ、ローザとウーテの鉢合わせを避け
ようとしたのはいかにも矛盾だった。
この顛末をるりに物語っていたとき彼はそれを事態の混乱のせいにしたので、るりは自分
を押さえきれずに、つい日本語でブツブツ言った。

「何だい、もっとはっきり言えよ」
「ツマリ、アナタハ、ツマリ余リ真剣ニ別レルツモリハナ無カッタノダ、セイゼイ半分グ
ライシカ」
「そうかもしれんさ」
とアクセルは珍しくるりの言葉を否定しなかった。

「だが、少なくとも一人に絞りたかったのは事実だ。つまり、ゼロにすればまた一から探
すのも面倒だという意味で」
そこまで率直に言われたるりは、流し目をしてアクセルを見たきり何も言えないでいた。

第2章( 4 / 5 )

「よし、仕方ない、ともかく行くよ。しかし今はだめだ、急ぎの下調べがある。夕方行く
から待っててくれ。その上で話をしよう」
「本当に来てくれるの、本当ね」
「約束したら破らないだろう、俺はいつも」
「本当ね」
「うるさいな」
「ごめんなさい、じゃ、待っているわ。おいしいものを作っておくわね」

ウーテが出て行くまで結局十分はかかっただろう。息を整えながら、そっとアクセルは客
室をのぞきに言った。
ロ−ラのなだらかな背中が、しんとして見えた。ドアを閉める音で、ローザはびっくとし
て振り向いた。涙が大きな筋をなして頬に光っていた。
「アクセル!」
ローザは立ち上がり、アクセルに両腕をさしのべた。涙はまさに滝のように鳶色の瞳を浸
し、溢れて流れ落ちた。
「愛しい人、私の大切な人!」
窓からの光を背に受けて、ローザの柔らかな体の線がニットのワンピースを透かして浮き
上がって見えた。
少しおそれるように、彼女はアクセルの首に手を回した。

「止めてくれ、ローザ」
しかしアクセルの声は弱かった。ローザは次第次第に腕に力を込め、全身をアクセルに隙
間無く押しつけ始めた。泣いているために、身体全体が波打っていた。波打つたびにいよ
いよ強く密着してきた。
アクセルがしまったと思ったときには、彼の手は、ローザの腰に当たってしまっていた。
誘うようななめらかな肌をもう手は感じていた。

アクセルは自分の上にあったローザのぐったりした身体をベッドに落とした。ローザは顔
を濡れた髪の中に埋めたまま深い息をはき続けている。アクセルの耳には彼女の高い叫び
声が、こだまのように残っていた。それを振り落とすようにローザを肘でこづいた。
「リーブリング、リーブリング」
ローザは何度も言い続けた。

本質的には同じことがウーテの部屋でもその晩繰り返された。スズラン型の小さなランプ
が枕元でかすかに耳障りな音を立てていた。
目を閉じると、瞼の裏に入り込んでくる光が彼をイライラさせた。そのままでじっと横た
わっていた。

スザンネはその間に、アクセルが連絡しないので、何度も自宅に電話をかけてきていた。

翌日の午後遅く帰ったアクセルに母親が、淫売屋じゃなんだからね、いい加減におし、と
かみついた。
「ママたちと違ってどうも俺は運が悪くてね。当分落ち着く見込みはないよ。ともかくスザ
ンネと話をつけに行って来る」

「これで終わりにするのは余りに惜しいの。もう少し人間同士の深い付き合いに持ってい
けるような気がしているの。あなたのことをもっと知りたい、私のことももっと知って欲
しい、そう思っているの」

スザンネは、目を伏せたまま低い声で言った。
視線の先にアクセルの手があった。スザンネは肉の薄い日焼けした色の手で、アクセルの
美しく白い長い指に触れた。
「変ね、こんなに色が違う」
スザンネは深い声音で、短く笑った。困惑したアクセルの目が壁の書棚をさまよった。数
冊の心理学のタイトルが注意を引いた。
「あ、この本あったかな」
そう言って立ち上がったときには、アクセルのいつもの癖で、もうその本のことしか考え
ていなかった。
ユングの文字に手を伸ばしながら、
「これを読みたいと思っていたんだ」
スザンネが椅子から立ち上がってきた。
「ほらね、私達はまだ話すことがあるでしょう」

二人は自然にソファまで歩いていき、並んでそこに身を沈めた。
両方からのぞき込んで、同じページを読み進み、思いついたことを時々喋り合った。数刻
して、
「暗いな」
と、アクセルが窓の方へ目を上げようとした時、スザンネの、逆光のためにシルエットだ
けになった顔の、緑色の双眸が間近で光っていた。

それ程近く座っているとは知らなかった。スザンネは少し首を傾げて、
「さあ」
と、口ごもるように言ってほほえんだ。
スザンネは最後に一声、しかもアクセルが達したのを見届けた瞬間に、鋭く叫ぶ以外はほ
とんど声を立てない。アクセルの方が時には声高になる。彼女はアクセルを楽しませるこ
とにより熱中するようだった。

「どう、これも悪くないわね。心理学を読むのと同じくらい」
アクセルの手を撫でながら彼女は言い、素早く白い手に接吻した。が、再び唇を付けると、
そのまま唇も舌も一点の隙間無く密着させて、美味なものでも食べるように、いつまでも感
触を楽しんでいた。
まるで女になったようだ、とアクセルは内心妙な気がした。二人の身体は、その接触点を
中心にして、内側から蠕動し始めた。

東天
作家:東天
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