受容ホルモン

第2章( 3 / 5 )

しかし、そう簡単には行かなかった。

アクセルが自宅に帰るやいなや、まず飛んできたのはローザだった。
「愛しているわ、私、あなたを!愛しているのが分かったの、セックスに惑わされていた
のよ!」
ローザの言う発見にアクセルは一瞬当惑して、突っ立っていた。

その隙にローザは両腕をアクセルの首に回し、ジャニーンDの香りで彼を包み、すぐ誘惑に
かかった。瞳を潤ませ、愛しさを込めてアクセルの顔中に接吻しながら、同時に喘ぎ始め
ていた。

その時、チャイムが鳴った。待って、母が帰ってきたのかも、とアクセルは口ごもって
言いつつ、これを幸いとローザの腕から逃れ出た。母親なら鍵で入ってくる。
そしてふと、ある予感がした。
ドアののぞき穴から、案の定ウーテの水色の瞳が見えた。何たることだ、めちゃくちゃ
だ! アクセルは思わず額を押さえた。

忍び足で自室まで取って返し、放心状態のローザを奥の客室に引っ張っていった。母親
が留守だったのは今となっては不幸中の幸いだった。
「ちょっとここで待っててくれ。ゼミの仲間が来た。少し話があるから」
ローザの反応は見ずに、後ろ手で客室のドアをきちんと閉める。

ウーテはもうほとんど泣きじゃくっていた。
ドア口で追い返すことなどできそうにない。
喋る暇を与えぬよう、急いで自分の部屋まで彼女のヒクヒクしている薄い背中を押して
いった。
客室と自室とは二つのドアで仕切られているが、他の女の気配なりとも二人がお互いに感
じないとはいえなかった。

アクセルはウーテの泣き顔を見、哀訴する声を聞いて、心底ため息が出た。自分に対して
も二人に対しても腹が立った。
「アクセル、私を捨てないで。お願い、お願いだから、私をまたひとりぽっちにしないで。
これまでの恋人たちのように私を捨てないでちょうだい。両親すら私を欲しくなかったの
よ。もう耐えられない、人から疎まれることには」
やせた肩の中に深くうなだれて、ウーテはすすり泣いた。
(誰であろうと、結婚する気なんか俺にはないんだ)

アクセルが説得にかかろうと身を屈めた時、ウーテがその唯一の美点である黒い睫を涙で
きらめかせながら、目を上げた。
「分かってる、私がうるさすぎたんでしょう。もう焼き餅なんか焼かない、あなたのお母さ
んのことを嫌いだなんて言わない、結婚も口にしない、それに、それに、その別の女だっ
ていて構わない。だから私を捨てないで。嫌われないようにどんなことでもするわ。だか
ら!」
ウーテは意外な強さで彼の手をつかんだ。
「行きましょ、私の部屋にすぐ来て、ね!今すぐに」
アクセルの母親の留守を知ってか知らずか、ウーテは一刻も時間を失いたくないという風
に、もうバッグをかかえた。アクセルにはウーテの意図はよく分かっていた。しかし今
はウーテを何とか帰さなくてはならない。

後でアクセルは思い返した、このときに至ってもまだ、ローザとウーテの鉢合わせを避け
ようとしたのはいかにも矛盾だった。
この顛末をるりに物語っていたとき彼はそれを事態の混乱のせいにしたので、るりは自分
を押さえきれずに、つい日本語でブツブツ言った。

「何だい、もっとはっきり言えよ」
「ツマリ、アナタハ、ツマリ余リ真剣ニ別レルツモリハナ無カッタノダ、セイゼイ半分グ
ライシカ」
「そうかもしれんさ」
とアクセルは珍しくるりの言葉を否定しなかった。

「だが、少なくとも一人に絞りたかったのは事実だ。つまり、ゼロにすればまた一から探
すのも面倒だという意味で」
そこまで率直に言われたるりは、流し目をしてアクセルを見たきり何も言えないでいた。

第2章( 4 / 5 )

「よし、仕方ない、ともかく行くよ。しかし今はだめだ、急ぎの下調べがある。夕方行く
から待っててくれ。その上で話をしよう」
「本当に来てくれるの、本当ね」
「約束したら破らないだろう、俺はいつも」
「本当ね」
「うるさいな」
「ごめんなさい、じゃ、待っているわ。おいしいものを作っておくわね」

ウーテが出て行くまで結局十分はかかっただろう。息を整えながら、そっとアクセルは客
室をのぞきに言った。
ロ−ラのなだらかな背中が、しんとして見えた。ドアを閉める音で、ローザはびっくとし
て振り向いた。涙が大きな筋をなして頬に光っていた。
「アクセル!」
ローザは立ち上がり、アクセルに両腕をさしのべた。涙はまさに滝のように鳶色の瞳を浸
し、溢れて流れ落ちた。
「愛しい人、私の大切な人!」
窓からの光を背に受けて、ローザの柔らかな体の線がニットのワンピースを透かして浮き
上がって見えた。
少しおそれるように、彼女はアクセルの首に手を回した。

「止めてくれ、ローザ」
しかしアクセルの声は弱かった。ローザは次第次第に腕に力を込め、全身をアクセルに隙
間無く押しつけ始めた。泣いているために、身体全体が波打っていた。波打つたびにいよ
いよ強く密着してきた。
アクセルがしまったと思ったときには、彼の手は、ローザの腰に当たってしまっていた。
誘うようななめらかな肌をもう手は感じていた。

アクセルは自分の上にあったローザのぐったりした身体をベッドに落とした。ローザは顔
を濡れた髪の中に埋めたまま深い息をはき続けている。アクセルの耳には彼女の高い叫び
声が、こだまのように残っていた。それを振り落とすようにローザを肘でこづいた。
「リーブリング、リーブリング」
ローザは何度も言い続けた。

本質的には同じことがウーテの部屋でもその晩繰り返された。スズラン型の小さなランプ
が枕元でかすかに耳障りな音を立てていた。
目を閉じると、瞼の裏に入り込んでくる光が彼をイライラさせた。そのままでじっと横た
わっていた。

スザンネはその間に、アクセルが連絡しないので、何度も自宅に電話をかけてきていた。

翌日の午後遅く帰ったアクセルに母親が、淫売屋じゃなんだからね、いい加減におし、と
かみついた。
「ママたちと違ってどうも俺は運が悪くてね。当分落ち着く見込みはないよ。ともかくスザ
ンネと話をつけに行って来る」

「これで終わりにするのは余りに惜しいの。もう少し人間同士の深い付き合いに持ってい
けるような気がしているの。あなたのことをもっと知りたい、私のことももっと知って欲
しい、そう思っているの」

スザンネは、目を伏せたまま低い声で言った。
視線の先にアクセルの手があった。スザンネは肉の薄い日焼けした色の手で、アクセルの
美しく白い長い指に触れた。
「変ね、こんなに色が違う」
スザンネは深い声音で、短く笑った。困惑したアクセルの目が壁の書棚をさまよった。数
冊の心理学のタイトルが注意を引いた。
「あ、この本あったかな」
そう言って立ち上がったときには、アクセルのいつもの癖で、もうその本のことしか考え
ていなかった。
ユングの文字に手を伸ばしながら、
「これを読みたいと思っていたんだ」
スザンネが椅子から立ち上がってきた。
「ほらね、私達はまだ話すことがあるでしょう」

二人は自然にソファまで歩いていき、並んでそこに身を沈めた。
両方からのぞき込んで、同じページを読み進み、思いついたことを時々喋り合った。数刻
して、
「暗いな」
と、アクセルが窓の方へ目を上げようとした時、スザンネの、逆光のためにシルエットだ
けになった顔の、緑色の双眸が間近で光っていた。

それ程近く座っているとは知らなかった。スザンネは少し首を傾げて、
「さあ」
と、口ごもるように言ってほほえんだ。
スザンネは最後に一声、しかもアクセルが達したのを見届けた瞬間に、鋭く叫ぶ以外はほ
とんど声を立てない。アクセルの方が時には声高になる。彼女はアクセルを楽しませるこ
とにより熱中するようだった。

「どう、これも悪くないわね。心理学を読むのと同じくらい」
アクセルの手を撫でながら彼女は言い、素早く白い手に接吻した。が、再び唇を付けると、
そのまま唇も舌も一点の隙間無く密着させて、美味なものでも食べるように、いつまでも感
触を楽しんでいた。
まるで女になったようだ、とアクセルは内心妙な気がした。二人の身体は、その接触点を
中心にして、内側から蠕動し始めた。

第2章( 5 / 5 )

瞼の裏がほの明るんでいた。アクセルは何時頃かな、と思った。スザンネの傍らにいるこ
とがゆっくり意識にのぼった。
自分に裏切られた失望感と、それへの諦めの交ざった苦い気持ちが浮かんだ。

突然、ドアがガタッと開く音がし、小さな固まりがベッドに躍りあがった。
思わず大声を上げて身を縮めたアクセルの上に、得意満面に真っ赤な頬をした少年が乗っ
ている。
「アア、マックスったら、それは止めてっていつも言ってるでしょう」
スザンネはすまなさそうに眉を寄せてアクセルを見た。

手早く朝食が並んで、アクセルは帰りそびれた。少年が絶えずアクセルの注意を引こうと
しているのがかなり神経にさわった。
金曜日の夜にまた会う約束に、出きるだけ急いでオ−ケイしてドアを閉めた。
生物としての目的を果たしたはずなのに、とアクセルは影のようにゆらゆらと歩きながら、
自分の中の不満足感を鼻で笑った。

第3章( 1 / 3 )

ローザの別れ

                         三 ローザの別れ

「ジャア、オ姑サンヲスッカリ失望サセタッテワケ」
るりはまた皮肉な流し目をして言った。女たちについては触れるのを避けていた。
「あの頃はまだましな方だったよ。勉強もしていたからね。その前は、手当たり次第、毎
晩違う女の子さ。短い関係が次々と続いた」

「ドウシテ、ナゼソンナコトバカリシタノカ。新シイ子ダト、ヤハリ新鮮ナノダロウカ」
「それはそうさ。僕だって人生を楽しみたいわけだし。しかしやがて疑問は起こるもんだ
ね。ある夜、組み敷いてる相手が誰だかわからなくなった、参ったなあ、途中で止めてし
まった。それからはさすがに自粛したね」
るりはアクセルが気楽そうに寝転んでいる真紅のダブルベッドを眺めやった。

「なんだい、このベッドが気に食わなくなったのかい」
「ソンナコトハナイ」
「確かにこれは二回目の婚約のときに親に買ってもらったものだから、気にくわないと
は思うけどね、買い替えるにはまだもったいないし。それにいつも言うように、あの婚約
は本気じゃなかったんだよ」
「ワカッテル、オ金ハナイシ」
「そうだよ、お利口さん」
アクセルはわざわざ起き上がってるりの頬に口をつけた。るりは急いで微笑み、目を伏せ
た。地模様のバラの花が確かにまだまだ美しく浮き出ている、その深紅のベッド地には無
数のしみと、タバコの焼け焦げの穴がひとつあった。

その後、三人の女たちとは並行して続いた。

ウーテは花嫁衣裳の並べてあるショウウインドウや結婚指輪にあいかわらず興味を示した。
ローザは、いわば第二夫人を自認する度合いがひどくなった。ある夜、飲み屋でヘルマン
と一緒のところをローザとばったり出くわした。彼を認めるや、ローザは優しい眉を逆立
てて、店から出ていった。
アクセルはるりにそう語りながら、愉快そうに笑った。

「面白イ、ソレデ第三夫人ハドウナッタ」
と、るりは黒いたわわな髪をちょっと気取ってゆすって見せた。

スザンネはやや積極的になった。友人間にアクセルを紹介したがった。苦手な日光浴に誘
われて、アクセルがやっと昼もずいぶん過ぎた頃に、イザール川の野原に行ったことが
あった。すでに彼も顔見知りの知人二人と並んで、スザンネはトップレスで甲羅干しをし
ている。その壮観な眺めまであと十メートルということろへ、アクセルがサングラスに隠
れるようにして歩いていったとき、
「パピィ」
と子供の声がした。マックスだと思った瞬間、
「パピィ、パピィ」
少しわざとらしく叫びながらはたして跳びついて来た。

「まったく。まるでああするように言い聞かせてあったみたいだった」
「彼女モ結婚シタカッタノカモ」

「まさかと思うけど。結婚すると男女関係の一番味わい深いところが失われるって、いつ
も言っていたからね。それに、自活できる女なら、自分の生活を自分で決定できる自由を
絶対手放すべきじゃないって言うのが持論だったから」
「確カニソウダ」

「そうか、るりも本来は結婚はこりごり派だったな」
「デモ、ドウシテ男ノ人モワザワザ結婚シテ不自由ニナリタイノカ。ア、ソウカ、彼ラハ
結婚ニヨッテモ決定ノ自由ヲ失ワナイバカリカ、家政婦ヲ安ク雇ッタコトニナルノダ」

「日本人の亭主族のことだろう、とくにるりの前夫のこと」
「マア、ソウ思ッテモラッテモイイ、トコロデ、私ニハ決定ノ自由ガアルワケ?」
「半分はあるさ。僕が半分。何でも話し合って決める、人生を分け合う。それが結婚の意
義だ」
「理屈トシテワソウダ。シカシ誰ノ意見ガ正シイノカ、ソレヲ誰ガ決メルノカ」

アクセルがじろりと見た。議論を吹っかけてくる気だ、とるりも身構えた。
「るりがね、不自由をかこっているのは知ってるさ。でも構わないさ。僕だって自分勝手
なことは何一つしない、模範亭主なんだから。そうだろう」
「フン、ソレモ認メルケド」
「それにいつでもセックスパートナーがいるってのも結婚の利点さ」
「アラッ」

いきなりるりはベッドに倒れた。アクセルが
頭を不意につっついたのだ。
「何をそう驚いてるんだい」
「ダッテ、ドア、ドア、開イテイル」
「誰もいないぜ、ちょうど」目の前にアクセルの顔が大きく映った。優し
い目の線を美しいと思った。

そんな嬉しい眺めは、もう一年も前のこと
だったろうか。
まだ楽しいと言えた頃の事だ。
結婚生活とはつまるところ、人生を生き抜いて行くための、荒波を二人でひっかぶって進
む二人三脚なのだから、とアクセルは言った。
市役所での結婚の宣誓を言葉通りに受け取っている、珍しく批判的でないのが妙にバカら
しかった。

東天
作家:東天
受容ホルモン
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