受容ホルモン

第2章( 4 / 5 )

「よし、仕方ない、ともかく行くよ。しかし今はだめだ、急ぎの下調べがある。夕方行く
から待っててくれ。その上で話をしよう」
「本当に来てくれるの、本当ね」
「約束したら破らないだろう、俺はいつも」
「本当ね」
「うるさいな」
「ごめんなさい、じゃ、待っているわ。おいしいものを作っておくわね」

ウーテが出て行くまで結局十分はかかっただろう。息を整えながら、そっとアクセルは客
室をのぞきに言った。
ロ−ラのなだらかな背中が、しんとして見えた。ドアを閉める音で、ローザはびっくとし
て振り向いた。涙が大きな筋をなして頬に光っていた。
「アクセル!」
ローザは立ち上がり、アクセルに両腕をさしのべた。涙はまさに滝のように鳶色の瞳を浸
し、溢れて流れ落ちた。
「愛しい人、私の大切な人!」
窓からの光を背に受けて、ローザの柔らかな体の線がニットのワンピースを透かして浮き
上がって見えた。
少しおそれるように、彼女はアクセルの首に手を回した。

「止めてくれ、ローザ」
しかしアクセルの声は弱かった。ローザは次第次第に腕に力を込め、全身をアクセルに隙
間無く押しつけ始めた。泣いているために、身体全体が波打っていた。波打つたびにいよ
いよ強く密着してきた。
アクセルがしまったと思ったときには、彼の手は、ローザの腰に当たってしまっていた。
誘うようななめらかな肌をもう手は感じていた。

アクセルは自分の上にあったローザのぐったりした身体をベッドに落とした。ローザは顔
を濡れた髪の中に埋めたまま深い息をはき続けている。アクセルの耳には彼女の高い叫び
声が、こだまのように残っていた。それを振り落とすようにローザを肘でこづいた。
「リーブリング、リーブリング」
ローザは何度も言い続けた。

本質的には同じことがウーテの部屋でもその晩繰り返された。スズラン型の小さなランプ
が枕元でかすかに耳障りな音を立てていた。
目を閉じると、瞼の裏に入り込んでくる光が彼をイライラさせた。そのままでじっと横た
わっていた。

スザンネはその間に、アクセルが連絡しないので、何度も自宅に電話をかけてきていた。

翌日の午後遅く帰ったアクセルに母親が、淫売屋じゃなんだからね、いい加減におし、と
かみついた。
「ママたちと違ってどうも俺は運が悪くてね。当分落ち着く見込みはないよ。ともかくスザ
ンネと話をつけに行って来る」

「これで終わりにするのは余りに惜しいの。もう少し人間同士の深い付き合いに持ってい
けるような気がしているの。あなたのことをもっと知りたい、私のことももっと知って欲
しい、そう思っているの」

スザンネは、目を伏せたまま低い声で言った。
視線の先にアクセルの手があった。スザンネは肉の薄い日焼けした色の手で、アクセルの
美しく白い長い指に触れた。
「変ね、こんなに色が違う」
スザンネは深い声音で、短く笑った。困惑したアクセルの目が壁の書棚をさまよった。数
冊の心理学のタイトルが注意を引いた。
「あ、この本あったかな」
そう言って立ち上がったときには、アクセルのいつもの癖で、もうその本のことしか考え
ていなかった。
ユングの文字に手を伸ばしながら、
「これを読みたいと思っていたんだ」
スザンネが椅子から立ち上がってきた。
「ほらね、私達はまだ話すことがあるでしょう」

二人は自然にソファまで歩いていき、並んでそこに身を沈めた。
両方からのぞき込んで、同じページを読み進み、思いついたことを時々喋り合った。数刻
して、
「暗いな」
と、アクセルが窓の方へ目を上げようとした時、スザンネの、逆光のためにシルエットだ
けになった顔の、緑色の双眸が間近で光っていた。

それ程近く座っているとは知らなかった。スザンネは少し首を傾げて、
「さあ」
と、口ごもるように言ってほほえんだ。
スザンネは最後に一声、しかもアクセルが達したのを見届けた瞬間に、鋭く叫ぶ以外はほ
とんど声を立てない。アクセルの方が時には声高になる。彼女はアクセルを楽しませるこ
とにより熱中するようだった。

「どう、これも悪くないわね。心理学を読むのと同じくらい」
アクセルの手を撫でながら彼女は言い、素早く白い手に接吻した。が、再び唇を付けると、
そのまま唇も舌も一点の隙間無く密着させて、美味なものでも食べるように、いつまでも感
触を楽しんでいた。
まるで女になったようだ、とアクセルは内心妙な気がした。二人の身体は、その接触点を
中心にして、内側から蠕動し始めた。

第2章( 5 / 5 )

瞼の裏がほの明るんでいた。アクセルは何時頃かな、と思った。スザンネの傍らにいるこ
とがゆっくり意識にのぼった。
自分に裏切られた失望感と、それへの諦めの交ざった苦い気持ちが浮かんだ。

突然、ドアがガタッと開く音がし、小さな固まりがベッドに躍りあがった。
思わず大声を上げて身を縮めたアクセルの上に、得意満面に真っ赤な頬をした少年が乗っ
ている。
「アア、マックスったら、それは止めてっていつも言ってるでしょう」
スザンネはすまなさそうに眉を寄せてアクセルを見た。

手早く朝食が並んで、アクセルは帰りそびれた。少年が絶えずアクセルの注意を引こうと
しているのがかなり神経にさわった。
金曜日の夜にまた会う約束に、出きるだけ急いでオ−ケイしてドアを閉めた。
生物としての目的を果たしたはずなのに、とアクセルは影のようにゆらゆらと歩きながら、
自分の中の不満足感を鼻で笑った。

第3章( 1 / 3 )

ローザの別れ

                         三 ローザの別れ

「ジャア、オ姑サンヲスッカリ失望サセタッテワケ」
るりはまた皮肉な流し目をして言った。女たちについては触れるのを避けていた。
「あの頃はまだましな方だったよ。勉強もしていたからね。その前は、手当たり次第、毎
晩違う女の子さ。短い関係が次々と続いた」

「ドウシテ、ナゼソンナコトバカリシタノカ。新シイ子ダト、ヤハリ新鮮ナノダロウカ」
「それはそうさ。僕だって人生を楽しみたいわけだし。しかしやがて疑問は起こるもんだ
ね。ある夜、組み敷いてる相手が誰だかわからなくなった、参ったなあ、途中で止めてし
まった。それからはさすがに自粛したね」
るりはアクセルが気楽そうに寝転んでいる真紅のダブルベッドを眺めやった。

「なんだい、このベッドが気に食わなくなったのかい」
「ソンナコトハナイ」
「確かにこれは二回目の婚約のときに親に買ってもらったものだから、気にくわないと
は思うけどね、買い替えるにはまだもったいないし。それにいつも言うように、あの婚約
は本気じゃなかったんだよ」
「ワカッテル、オ金ハナイシ」
「そうだよ、お利口さん」
アクセルはわざわざ起き上がってるりの頬に口をつけた。るりは急いで微笑み、目を伏せ
た。地模様のバラの花が確かにまだまだ美しく浮き出ている、その深紅のベッド地には無
数のしみと、タバコの焼け焦げの穴がひとつあった。

その後、三人の女たちとは並行して続いた。

ウーテは花嫁衣裳の並べてあるショウウインドウや結婚指輪にあいかわらず興味を示した。
ローザは、いわば第二夫人を自認する度合いがひどくなった。ある夜、飲み屋でヘルマン
と一緒のところをローザとばったり出くわした。彼を認めるや、ローザは優しい眉を逆立
てて、店から出ていった。
アクセルはるりにそう語りながら、愉快そうに笑った。

「面白イ、ソレデ第三夫人ハドウナッタ」
と、るりは黒いたわわな髪をちょっと気取ってゆすって見せた。

スザンネはやや積極的になった。友人間にアクセルを紹介したがった。苦手な日光浴に誘
われて、アクセルがやっと昼もずいぶん過ぎた頃に、イザール川の野原に行ったことが
あった。すでに彼も顔見知りの知人二人と並んで、スザンネはトップレスで甲羅干しをし
ている。その壮観な眺めまであと十メートルということろへ、アクセルがサングラスに隠
れるようにして歩いていったとき、
「パピィ」
と子供の声がした。マックスだと思った瞬間、
「パピィ、パピィ」
少しわざとらしく叫びながらはたして跳びついて来た。

「まったく。まるでああするように言い聞かせてあったみたいだった」
「彼女モ結婚シタカッタノカモ」

「まさかと思うけど。結婚すると男女関係の一番味わい深いところが失われるって、いつ
も言っていたからね。それに、自活できる女なら、自分の生活を自分で決定できる自由を
絶対手放すべきじゃないって言うのが持論だったから」
「確カニソウダ」

「そうか、るりも本来は結婚はこりごり派だったな」
「デモ、ドウシテ男ノ人モワザワザ結婚シテ不自由ニナリタイノカ。ア、ソウカ、彼ラハ
結婚ニヨッテモ決定ノ自由ヲ失ワナイバカリカ、家政婦ヲ安ク雇ッタコトニナルノダ」

「日本人の亭主族のことだろう、とくにるりの前夫のこと」
「マア、ソウ思ッテモラッテモイイ、トコロデ、私ニハ決定ノ自由ガアルワケ?」
「半分はあるさ。僕が半分。何でも話し合って決める、人生を分け合う。それが結婚の意
義だ」
「理屈トシテワソウダ。シカシ誰ノ意見ガ正シイノカ、ソレヲ誰ガ決メルノカ」

アクセルがじろりと見た。議論を吹っかけてくる気だ、とるりも身構えた。
「るりがね、不自由をかこっているのは知ってるさ。でも構わないさ。僕だって自分勝手
なことは何一つしない、模範亭主なんだから。そうだろう」
「フン、ソレモ認メルケド」
「それにいつでもセックスパートナーがいるってのも結婚の利点さ」
「アラッ」

いきなりるりはベッドに倒れた。アクセルが
頭を不意につっついたのだ。
「何をそう驚いてるんだい」
「ダッテ、ドア、ドア、開イテイル」
「誰もいないぜ、ちょうど」目の前にアクセルの顔が大きく映った。優し
い目の線を美しいと思った。

そんな嬉しい眺めは、もう一年も前のこと
だったろうか。
まだ楽しいと言えた頃の事だ。
結婚生活とはつまるところ、人生を生き抜いて行くための、荒波を二人でひっかぶって進
む二人三脚なのだから、とアクセルは言った。
市役所での結婚の宣誓を言葉通りに受け取っている、珍しく批判的でないのが妙にバカら
しかった。

第3章( 2 / 3 )

お互いが相手にかぶる荒波そのものだったらどうするの?
生きてるのってアホらし。
そのとき、るりはたくさんの社会的策略の網の目をを感知したようだった。

風に吹かれて、光っては消え、彩に輝いては消えする噴水の水滴のような、アクセルの女
たちのさまざまな瞳色が、ただの噴水の色へと、色あせた。

るりはフンと小さく鼻をならした。
ローザはオレンジをむいていた。指先が黄色に染まっている。
イタリアかイスラエルでとれたオレンジの、強い芳香が漂う。勢いよく半分に割る。鮮や
かな朱色の半分がるりの前に差し出された。
ためらいもせずにるりは手を伸ばした。

「アリガトウ、トテモイイニオイ」
と、るりがローザを見ると、ローザはオレンジにそのままかじりついていた。口中に広が
る自然の恵みを余さず享受するかのように、ローザのまぶたは半ば閉じられ、フーンと、
長い讃嘆の声がもれた。

「私、とてものどが乾いていましたの」
口の周りの黄色い汁をぬぐいながら、満足して口を開けて笑う。目じりにしわが寄った。
るりもオレンジにかじりついた。同じように、フーンと長く嘆声を発した。バカみたい、と
一方で思っていた。オレンジはそうおいしくもなかった。
最後の一房を含もうと口を開いたとき、るりはもう恥ずかしさにいたたまれなくなってい
た。

(そうよ、あなたの思い、私の思い。きちがいみたいに羨ましがったってどうすることも
できやしない。それが結論。私は私、ほかの私にはなれやしない)
急いで飲み下すと
「私行キマス、サヨナラ」

するとローザはおおむ返しにさようならを言ったが、その瞳はどこか深みをさまよって
いるらしい無表情さを見せていた。るりはくるっと回った。

(アクセルが日本に去るまでの日々は、またそれまでとは違った狂気に充たされていたの
だった。今だけ、今だけ思い出すことにしよう。

私は可能な限り、彼の部屋に走り込んでいった。彼の身体にぴったり身を寄せると、触れ
ているすべての部分から優しい波が涌き出てきたわ。ひたひたと浸されていく。彼の指の
軽い動きに、髪の毛の一本一本までもが生気を取り戻す。

彼の触れていく背中が、びりびりと震え出す。全身に生じた波が、やがて、
いくつかの点へと沸き立ちながら押し寄せ始め、熱く集中していく。するともう、空気が
足らなく思える。燃えるための酸素を声とともに吸い、荒く長く吐息する。ひと息毎に波
に乗って、ますます高く翔けていく。私にだけわかるある点まで達すると、そこは熱砂の
ようでもあり、砂糖壷の中のようでもあった。

私はその中で踊りつづけ、素晴らしいわ、素晴らしいわ、幸せよ、幸せよ、と訴えつづけ
るしかない。同時に、愛しいと思う気持ちが、確信を持って、ハンマーのように悦びを強め
る。私は叩かれる、いくどもいくども叩かれる。ただ紅の存在となる。

会わないでいる間の、スザンネへの嫉妬、東洋に去った彼が会うであろう、見も知らぬ女
たちへの嫉妬!あの頃、私はすっかりやつれてしまった。結局はトーマスとのいさかい、
すまないとも思う、自己嫌悪、自分への絶望。

アクセルは辟易していたのだわ。肉体が誘惑に応えてしまうのにいつも腹を立てていたし、
関係を断つことができないでいる自分が馬鹿みたいに思えたのだろう。

出発の日をアクセルは私たちの誰にも教えなかった。ある日彼は消えた。私の世界から。
手紙は書いた。案の定返事はなかった。三度出して、それで私は諦め始めた。
彼とは別れたほうが身のためだ、と言い聞かせたわ。喜びが減った分、苦しみも減って。
執着が薄れるにつれ、私の身体を染めていた紅蓮の色も失せていき、ありがたいことに静
かな基本色に落ち着いてくれた。

ときどきの、それぞれの、淡色の喜びの色が映っていくのにゆだねられるようになって、
私は元のローザに戻ったのだわ。そういうことだったのだわ)

東天
作家:東天
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