「ここでの生活は気に入っていますか」
ふと思いついて、ローザは尋ねた。
お馴染みの質問ではあったが、闇から日なたへ突き飛ばされたるりは、一瞬、理解し損
なったと思った。間が空いた。
「あら、ごめんなさい、うんざりでしょう、この質問には」
素直に自分に笑いかける相手に、るりも苦笑を返してかぶりを振った。
「オオムネ。タダ、我慢シテルト損ヲスルバカリ、トイウ事アリマスネ。日本人ノ美徳ガ
通ジナイ、トイウカ」
(確かに彼に律されてしまっている。お金になる急ぎの翻訳の仕事がある。真夜中
まで二人で取り組む。ある程度かたがつくと、私は寝に行くことを許される。
彼はなお三、四時間も推敲やタイプやらで起きている。明け方、ベッドに倒れ込んでくる。
もう三ヶ月もそんな日が続いている。五回以上なかったろう、その間に。そして、
二、三日おきにあの声を聞くという寸法だ。彼は仕事にいれ込んだときの常で、気づかな
いのがほとんど。気づいても、またやってるな、と呆れるだけだ。
聖人よ! 私だけがやられてしまう。耳をふさぐことは出来ない。
それどころか、彼が話し掛けたりしてよく聞こえないと怒鳴りつけたくすらなる。静かな
夜にもその幻の声を聞くほどに私の中に棲みついてしまった。
そのあげくが、こんな脈絡のない行動だ。
探索と発見と成功。この人を見ること。
自分に欠けているものをかって持った彼女と同化すること、それを望んだのか?
馬鹿げてる! どうかしてる!)
(すぐに彼のことを思いだしてしまう。何てことでしょう、今日は。
昼休みに、雨降りの日だけ行っていた小さなカフェテリアでアクセルを初めて見た。
トーマスは三日間の予定で出張だった。彼がいないからといって、私の生活に変化は起こ
らない。
彼の留守を利用して求めるような自由を必要としていなかったから。
昼食をアプフェルクーヘンとコーヒーで済ませ、私は椅子に凭れていた。)
店内はかすかな人声で充たされていた。
外の雨の気配が、中の空気をいつもより濃くしているようにローザには思われた。
そのせいで身体の輪郭が少し凝縮されたかのように、妙に明瞭に自分の存在が感じられた。
空気と皮膚の無数の接点の描き出す身体の線と、その内側を充たしているある重さとを感
じ続けた。何も考えていなかった。
その重さは、単に彼女の存在の重さであって、何らかの感情とか、意識や想念や願望とかの
人間的な認識の産物は外側に押し出されていた。
ローザはこの無心の状態が好きだった。その後では自分のことも、他人のことの、より愛
しく想われた。
自分がそんなとき、かすかに柔らかにほほえんでいることをローザは感じるともなく知っ
ていて、理由のない無償の幸せを味わった。
ローザの輪郭を充たしている灰色の無の画面に、突然、黒い雨傘が浮き出た。傘が閉じら
れた。
若い男の横顔が、雨傘の滴を追ってうつむいていた。こちらに顔を向けた。
黒い髪、黒い目と眉、黒いダスター。
顔と手の白さだけが操り人形めいて動いた。
長い指をした、大きな手だ。
白と黒の男は、ぐんぐん近づいてきた。ローザの前の一つ空いた席で止まった。
会釈も忘れたらしく、あっという間に腰を下ろした。黒いバッグから書類を出してすぐに
書き込み始めた。
中肉中背に比して小さめの顔は前髪に隠され、睫の先と鋭い鼻先だけが見えた。指の爪は細
く長い。
ウェイターが来て注文を尋ねた。男の顔がまた現れた。寄せられていた眉が額につり上げ
られた。
薄青いひげ剃りあとの中の唇が少し笑って、コーヒーと言った。薄赤い、一本割れ目のつ
いた、やや厚めの唇。
白と黒と一点赤の男は、さらに忙しく書き込み続ける。ローザは男を映し続けた。
次第に、彼女の身体の濃い線がゆるみだした。
少しずつ、認識と感情が動き始める。神経質のイライラだわ、とローザは思った。
一方で別の感じが、ローザの中で言葉になりかけた。その時意外な素早さで、金髪青眼肉
色の大きな男の姿が立ち現れた。トーマスだった。ローザは画面の中のその姿を見つめ
た。
幾秒だったのか、気がつくと男の視線がそこにある。わずかなためらいの後、二つの微笑
が交わされた。