海賊ブラッド

七 海賊

 ジェームズ・ナトールは、この暑さの中をブリッジタウンからビショップ大佐のプランテーションまで全力疾走したが、仮に熱帯気候の真っ只中を走る為に作られた人間が存在するとすれば、それは背が低く痩せた体とひょろ長い脚の持ち主である、ジェームズ・ナトール氏を置いて他にいないであろう。彼は極度に疲労困憊し、もはや体中の水分を絞り尽くされたかのようであったが、しかし彼の体内に未だ水分が残っていたのは、砦柵さいさくに到着した時に噴き出すような汗をかいていたのを見れば明らかだった。

 その入口で、彼は危うく、ヘラクレスの腕とブルドッグの顎を備えたずんぐりしたガニ股のけだもの、奴隷監督のケントに衝突しかけた。

「ブラッド先生はいますか」息つく間もなくナトールは尋ねた。

「何をそんなに慌ててるんだ」ケントがうなるように言った。「何の用だ?双子でも生まれるのか?」

「え?ああ!違います、違います。私は独り者で。従弟です」

「何があった?」

「あいつ、ひどく具合が悪くて」すかさずケントの言葉に便乗したナトールは出まかせを言った。「先生はここにおいでですか?」

「向こうに奴の小屋がある」ケントはぞんざいに指差した。「そこにいなけりゃ、他のどこかだ」そして彼は去っていった。この男は口より先に鞭でものを言う、常に不機嫌で無慈悲な野獣であった。

 ナトールはケントが納得した様子で去るのを見送りながら、彼の進行方向を忘れぬように心にとどめた。それから囲いの中に突進し、ブラッド医師が残念ながら不在であるのを確認した。目端の利いた男ならば、そこに座って待っているのが結局は最も早くて確実な方法だと判断するだろう。しかしナトールにはそのような判断能力の持ちあわせはなかった。彼は再び砦柵の外に飛び出し、どちらに行くべきかとしばしためらった末に、ケントが向かった道以外を手当たり次第に探す事にした。密生した茎が城壁のようにそびえ立ち、目がくらむような六月の日差しを浴びてほのかな金色に輝いているサトウキビ畑に向かい、彼はからからに乾いた大草原サバンナを横断して急いだ。本道は琥珀色のサトウキビが茂るいくつもの区画と交差していた。この区画の一つで、彼は遠くに何人かの奴隷が働く姿を見つけた。その大通りに入ったナトールは彼等に向かって進んだ。奴隷達は物憂げな目で横を通り過ぎていく彼を見た。ピットはその中にはおらず、そして彼にはピットについて尋ねてまわる度胸はなかった。一時間近く、彼は小道に降りたり上がったりを繰り返して捜索を続けた。一度、奴隷監督が彼を呼び止めて、何をしているのかと問いただした。彼はドクター・ブラッドを探しているのだと説明した。従弟が病気なのだと。監督は悪態を吐き、とっとと農園から出て行けと命じた。ブラッドはここにはいない。いるとしたら、砦柵の中にある自分の小屋だ。

 ナトールは出て行くと約束した上で、道を進んでいった。しかし彼が向かったのは別の方角だった。彼は砦柵から最も遠い側にある農園に向かい、そこを縁取る密林を目指して先へ進んだ。あの奴隷監督はこちらを軽んじていたし、恐らく、この真昼に近い苦しいほどの暑さでは、わざわざ行く先を変えさせるのも億劫に違いない。

 うろつき回った末に本道の終端まで行ったナトールは、その角を回った処で、一人きりで木製の鋤を振るい用水路で作業しているピットに出くわした。だぶだぶの木綿の股引ドロワースはみすぼらしく、膝までしかなかった。熱帯の太陽光線から伸ばし放題の金色の頭を保護する大きな麦わら帽子を除けば、上半身は裸だった。彼の姿を視界にとらえたナトールは、思わず造物主への感謝が口をついて出た。ピットが彼をまじまじと見つめると、船大工は惨めな調子で気の滅入る報せを滔々と語った。要約すると、彼は昼までにブラッドから10ポンドを受け取らねばならず、さもなければ全てが水の泡だという。そして彼の辛苦と大汗に対してジェレミー・ピットが返したのは、非難の言葉だった。

「馬鹿!」ピットは言った。「ブラッドを探してるんなら、何でこんな処でぐずぐずしてるんだ?」

「見つからないんだよ」ナトールは泣きごとを言った。彼はピットの反応に憤慨した。心配のあまりにろくに眠れぬ一夜を過ごし、絶望の夜明けを迎えた苛立ちからくるピットの険悪な状態を彼は失念していた。「だから、あんたの処に行こうと思って……」

「俺が鋤を放り出して、彼を探しにいけるとでも思ったのか?そう考えたっていうのか?俺達の命はこんなトンマにかかってるのか!こんな処でぐずぐずしてる間に、どんどん時間は経っていくんだぞ!お前と俺が話しているのを監督に見つかって、捕まえられたらどうする?なんて言い訳するつもりだ?」

 一瞬、ナトールは、このような恩知らずに対して返す言葉を失った。それから彼は爆発した。

「かなうもんなら、こんな話に関わり合わなかった事にして欲しいよ。そうともさ!かなうもんなら俺は…」

 他に何を願ったのか、彼に最後まで語る機会はなかった。何故ならば丁度その時、サトウキビ畑の区画を回り込んで、ビスケット色のタフタを着た大柄な男が、木綿の股引ドロワースをはき舶刀カットラスを帯びた二人の黒人奴隷を従えてやってきたからだ。10ヤードと離れていない先だったが、柔らかな泥灰土のせいで彼等の足音は聞こえなかったのだ。

 そちらを見て慌てふためいたナトールは、その瞬間、脱兎のごとく逃げ出すという、この状況下で彼が取り得る最も愚かで不審な行動に出た。ピットは一言罵ると、鋤に寄りかかって大人しく立っていた。

「おい!止まれ!」逃亡者の背中に向けてビショップ大佐がわめき、更に下品な言葉で飾り立てた恐ろしい脅し文句を加えた。

 だが逃亡者は全速力のまま、振り返りすらしなかった。ナトールに残された唯一の希望は、ビショップ大佐には顔を見られていないかもしれないという可能性だけであった。ビショップ大佐の権力と影響力をもってすれば、大佐が死を望みさえすれば、如何なる男であろうと吊るし首にできるのだ。

 逃げ去った者の姿が低木の茂みに消えるに至って、ビショップは憤慨と驚きから回復し、背後に従えている一対の猟犬のような黒人奴隷達の存在を思い出した。二年前、ある奴隷が彼を襲い、危うく絞め殺されそうになって以来、大佐は護衛を連れずにプランテーション内で行動する事は決してなかった。

「追え、黒豚ども!」彼は奴隷達に怒鳴り立てた。しかし、いざ彼等が追い始めると、大佐はそれを制止した。「待て!止まるんだ、くそっ!」

 あの輩を捕らえて罰をくれてやる為には、当人の後を追いかけて、忌々しい林の中で一日がかりで狩って回る必要などないのだと大佐は思い当たったのである。ここにピットがいるではないか。ピットに内気な友人の正体と、彼等が中断させられた内緒話の中身を白状させればいい。当然、ピットは拒むだろう。ピットにとっては更に不運な事に、創意工夫に富むビショップ大佐はそのような頑固な犬ころを躾ける1ダースの方法――そのうちのいくつかは、なかなか良い気晴らしになる――を知っているのだ。

 大佐は体の内と外からの熱により真っ赤に染まった顔と、残忍な知性を秘めた興奮に輝く両眼をピットに向けた。彼は軽い竹の杖を振りながら進み出た。

「あの逃げ出した男は、何者だね?」ぞっとするような猫撫で声で彼は尋ねた。鋤に寄りかかったまま、ジェレミー・ピットは少しうなだれて、落ち着かぬ様子で素足をあちこちと動かした。彼は心中でむなしく答を捜し求めたが、ジェームズ・ナトールの愚行を罵る以外に何もできなかった。

 大佐の竹杖は、刺すような一撃で若者のむきだしの肩に落ちた。

「答えろ、犬っころ!奴の名は?」

 ジェレミーは陰鬱さの消え失せた挑むような目で無骨な農場主を見た。

「知りません」彼はそう答えたが、その声には己の命を守る為に受けるがままにした一撃によって沸き上がった反抗心が、かすかに滲んでいた。彼の身体は攻撃に対して硬直していたが、しかし同じ時、その中にある精神は苦痛にのたうっていた。

「知らないだと?なら、これで物忘れが治るだろう」再び杖が振り下ろされた。「これで奴の名を思い出したか?」

「いいえ」

「頑固だな、あん?」一瞬、大佐は嘲るような目付きになった。それから彼は激情に支配された。「こいつめ!厚かましい犬っころめが!私を侮る気か?お前ごときが私を虚仮にできるとでも思っているのか?」

 ピットは肩をすくめて再び立ったまま横を向くと、頑固に沈黙を保った。それ以上の挑発的な態度は見せなかった。だがビショップ大佐の気質には多くの挑発など必要なかった。獣じみた激怒が、今や彼の内部に目覚めていた。彼は一打ごとに罰当たりな悪口雑言をわめき散らしながらピットの無防備な肩を猛烈に打ちすえたが、激痛が忍耐の限度を越えた時、ピットの中で未だくすぶっていた男の意地という残り火は煽られて炎となり、自分を鞭打つ者に飛びかかった。

 しかし彼が飛びかかった時、同時に黒人護衛達も飛びついてきた。たくましいブロンズ色の腕が虚弱な白い体を押し潰すように巻き付けられて、不運な奴隷は身動きのかなわぬ状態にされると、あっという間に手首を革紐で後ろ手に縛り上げられた。

 息を荒げ、顔をまだらにして、しばしビショップは彼について思いをめぐらせた。そして「そいつを連れいくぞ」と告げた。

 およそ8フィートにまで伸びたサトウキビが形成する金色の壁に挟まれた長い道を進み、畑で作業する同輩の奴隷達から怯えた目を向けられつつ、惨めなピットは黒人護衛に小突かれながら大佐の後ろを歩いた。彼は絶望と共に歩んだ。間近に自分を待ち受ける苦痛がどれほど酷いものかは理解していたが、それは彼にとってはどうでもいい事だった。彼の心を苦しめている真の原因は、この言語を絶する地獄からの入念な逃亡計画が、いざ実行しようとした瞬間に頓挫してしまったという思いにあった。

 彼等は緑の台地に出ると、砦柵さいさくと奴隷監督の白い家を目指して進んだ。ピットの視線はカーライル湾上を走った。この台地は、湾の端にある砦から、その反対の端にある埠頭の長い倉庫群までを、はっきりと見下ろす事が可能だった。埠頭に沿って何艘かの平底船が係留されており、ピットは我知らず、この中のどれがあのウェリーだろう、ほんの少し運が向いていれば、今頃は海の上だったのにと考えていた。彼の視線は海上を惨めに彷徨った。

 その岸にある停泊地に、カリブ海のサファイア色の水面にさざ波ひとつ立てずに吹く穏やかな微風の中を、英国の船旗エンザインをはためかせたフリゲート艦の堂々たる真紅の船体が入ってきた。

 ビショップ大佐はその船を眺める為に立ち止まり、肉厚な掌で目の上にひさしを作った。その船は微風に合わせて前檣帆フォアスルだけを広げていた。他の帆は全てたたまれ、そびえ立つ船尾楼スターンキャッスルから、眩しい日差しにきらめいている金箔をきせた激突艦首ビークヘッドまで、その船体の雄大な輪郭があらわになっていた。

 非常にゆったりとした前進は、この水域にあまり精通していない航海長マスターが慎重に進むようにと命じた為だった。このペースでは、この船が湾内の停泊地に着くまでに、恐らく一時間はかかるだろう。大佐がこの船を、恐らくはその優美さ故にうっとりと眺め入る間に、ピットは砦柵さいさくの中へと急き立てられて、仕置きの必要な奴隷の為に用意されている晒し台に叩き付けられた。

 間もなくビショップ大佐も体を揺すぶりながら、悠々とした足取りで彼の後を追った。

「主人に牙を剥く反抗的な駄犬は、背中に縞模様を刻んで躾をせねばならん」刑吏の仕事にとりかかる前に彼が発したのはそれだけだった。

 彼のような地位にある大抵の男ならば、自尊心から黒人従者に任せるであろう仕事、それを自らの手で行うという事実が、この男の獣性を物語っていた。彼が奴隷の頭や肩を鞭で打つのは、残忍で野蛮な本能を満足させる薬味のようなものであった。間もなく彼の杖は、自らの振るった暴力によっていくつもに割れ裂けた。一本のしなやかな竹杖に打たれる痛みならば、恐らく想像もつくだろう。しかしそれがナイフのように鋭いエッジがある数本の長い柔軟な刃に分かれた時、その殺人的な効果を余人に理解できるだろうか?

 ようやく疲れ切ったビショップ大佐が劣化して軸と紐とに化した杖を投げ捨てた時、惨めな奴隷の背中は首から腰部まで滅多打ちにされ、血を流していた。

 意識を保っている間、ジェレミー・ピットは声ひとつ上げなかった。だが痛みによって意識が遠のくにつれ、彼は晒し台に向かって前のめりに倒れ、身を縮めてうずくまり、弱々しくうめいた。

 ビショップ大佐は横木の上に足を置くと、自分が痛めつけた男に向かって屈み込み、粗野な顔一杯に残忍な笑いを浮かべた。

「これで貴様も本物の服従を覚えたろう」彼は言った。「さて、貴様の恥ずかしがり屋の友人についてだが、奴の名前と正体を素直に話すまで、飲まず食わずで――聞こえたか?飲まず食わずでだ――ここにいるんだ」彼は横木から足を外した。「ここにいるのに飽きたら、私に合図しろ。貴様の為に焼印を持ってきてやる」

 そう言い残すと彼は身を返し、黒人奴隷達を従えて砦柵さいさくの外に大股で歩み去った。

 ピットはそれを、夢の中で聴こえてくる言葉のように聞いていた。残虐な罰によって激しく消耗し、そして既に陥っていた絶望があまりにも深かったが為に、彼は自分が生きていようが死んでいようが、もはやどうでもよかった。

 しかし痛みによって朦朧としていた彼は、間もなく新たな痛みによって叩き起こされた。この台は熱帯の太陽の眩しい光に直に晒された戸外に立っており、その灼熱の光線は出血した背中が炎に焦がされているように感じるまで絶え間なく降り注いでいた。そして間もなく、更に忌々しい悩みの種が加わった。蝿である。アンティル諸島の凶暴な蝿が血の匂いに呼ばれて群れを成し、彼の側に飛んできたのだ。

 頑固な口を割らせる術を熟知している、創意に富んだビショップ大佐が、別種の拷問に頼る必要性を考慮しなかったのはさして不思議ではない。大佐の悪魔のごとき残虐性をもってしても、目下のピットが被っているような、自然によってもたらされた苦痛よりも更に残酷で耐え難い拷問を編み出すのは不可能だろう。

 ピットは晒し台の上で手足を引きちぎらんばかりに身悶えし、のたうち回り、苦しみに絶叫した。

 そのような状況にあった為、ピーター・ブラッドに発見された時、彼にはそれが、己の苦痛が生み出した妄想が突然現実化したかのように感じられた。ブラッドは大きな棕櫚パルメットの葉を運んできた。それでジェレミーの背中に集っていた蝿を掃ってから、これ以上の蝿による攻撃と日差しから保護する為に、細長いひげ根を使って若者の首から葉を吊った。次に彼の横に座ると、自分の肩で患者の頭を支え、錫小鍋パニキンの中に入った冷たい水で彼の顔を洗った。ピットは震え、うめくと、長く息を吸い込んだ。

「飲みなさい!」彼は息を荒げて言った。「飲むんだ、後生だから!」錫小鍋パニキンが彼の震える唇に押し当てられた。ピットは貪欲に、騒々しく、容器の中のものを一気に飲み干した。その一杯で落ち着きと生気を回復し、彼は座り直そうと試みた。

「背中が!」彼は絶叫した。

 ブラッドの目は常にない光を放ち、唇は固く結ばれた。しかし話をする為に口を開いた時、彼の声は冷静で落ち着いていた。

「楽にしなさい、さあ。慌てなくていい。背中は保護したから、さしあたりは大丈夫だ。何があったんだ。君が殺されて我々が危うく航海士ナビゲーターを失いそうになるまで、あの獣のビショップを怒らせるなんて、一体何を考えているんだ?」

 ピットは再び座り直し、そしてうめいた。しかし今度の彼の苦しみは、身体よりも心にあった。

「航海士は、もう必要ないと思うよ、ピーター」

「どういう事だ?」ブラッドは叫んだ。

 ピットは息を詰まらせ、あえぎながらも、極力手短かに状況を説明した。「俺の処に来た奴の正体と用件を大佐に話さなけりゃ、ここで朽ち果てるしかないんだ」

 ブラッドは喉の奥でうめくと、立ち上がった。「薄汚い奴隷商人め、地獄に堕ちろ!」彼は言った。「切り抜けてやるんだ、何があろうと。ナトールなぞ知った事か!奴が船の保証金を払おうが払うまいが、奴がそれを説明しようがしまいが、あの船はあそこにあるんだ。我々は海に出る。そして君も我々と共に行くんだ」

「ピーター、あんたは夢を見てるんだ」ピットは言った。「今回は無理だ。脅されたナトールが計画を吐いて、俺達全員の額に焼き印が押されるなんて事にならなかったとしても、少なくとも、保証金が支払われなきゃ、役人は船を没収しますよ」

 ブラッドは顔をそむけると、苦悩を込めた瞳で、すぐにでも自由の身に戻り旅に出られるのだと希望を描いていた、青い海原を見渡した。

 大きな赤い船は、既にかなり近くの岸まで入ってきていた。ゆっくりと、堂々と、その船は湾に入った。既に一、二艘のウェリーが、その船を岸に着けさせる為に埠頭を離れていた。ブラッドの立つ場所からは、曲線を描く激突艦首ビークヘッド上にある船首大砲の真鍮の輝きが見え、左舷ラーボード上部で水深を測ろうとするように身を乗り出している測鉛手そくえんしゅの姿をとらえる事ができた。

 怒声が彼を無念の思いから現実に引き戻した。

「貴様、ここで何をしている?」

 戻ってきたビショップ大佐は、相変わらず黒人奴隷達を引き連れて、砦柵さいさくの中に大股で歩み入ってきた。

 彼と対面する為に振り返ったブラッドの浅黒い顔――今やインディアンとの混血のような金茶色に焼けた顔――には、その内心を示す痕跡はどこにもなかった。

「何を?」穏やかに彼は応じた。「私の職務をです」

 大佐は猛然と大股で歩み出ると、二つの事実を見て取った。囚人の横に置かれた空の錫小鍋パニキンと、その背中を保護している棕櫚パルメットの葉。「承知の上でやったのか?」大佐の額の血管は縄のように浮き上がっていた。

「何か問題でも?」わずかに驚いた様子でブラッドは答えた。

「私が命じるまで、こいつを飲まず食わずのままにしておけと言ったのだ」

「無論、その御命令は存じませんでした」

「知らなかっただと?そもそも、貴様がここにいなかったから、命令を聞いていなかったんだろうが?」

「ですから、御命令を知りようがなかった私は、どうすればよかったと仰せなのです?」ブラッドは如何にも遺憾な調子で言った。「私の知る限りの事実は、貴方の奴隷の一人が太陽と蝿に殺されかけていたという事です。そして私は、かように考えたのです。これは大佐の奴隷の一人である、そして私は大佐の医者であり、大佐の財産の世話をしており、それが私の職務と自負している。故に私はその奴隷にひとすくいの水を与え、太陽光線から彼の背中を保護しました。何か間違った事でも?」

「間違った事?」大佐は絶句した。

「落ち着いてください、どうか、落ち着いて!」ブラッドは彼に哀願した。「そのように興奮しては脳卒中を起こしますよ」

 大佐は罵り文句を吐きながら彼を脇に押しやって進み出ると、ピットの背中の棕櫚パルメットの葉を引きちぎった。

「慈悲の名の下に、それは…」ブラッドは口を開いた。

 大佐は猛然と彼に向かって腕を振った。「とっとと行け!」彼は命じた。「私が呼ぶまで、二度とこいつの側に寄るな、こいつと同じ目に遭いたくないならな」

 彼の威嚇、彼の巨体、彼の力は凄まじいものだった。だがブラッドは全く怯まなかった。その黄褐色の顔の中で異様に目立つ、ライトブルーの目――銅にはめられた青白いサファイアのような――に見つめられた時、大佐は思った。この処、このならず者は増長している。矯正してやらねばならない。一方ブラッドは再び話し始めたが、その口調は静かで断固たるものだった。

「慈悲の名の下に」彼は繰り返した。「貴方は彼の苦しみを和らげる為に、私にできる限りの事をする許可をくださるはずだ。さもなくば、私は即座に己の医者としての義務を放棄すると宣言する。その場合、この健康に害のある島で私が治療を担当している別の患者が厄介な事になる」

 大佐は驚きのあまり、咄嗟に言葉が出なかった。そして――

「屑めが!」彼は怒鳴り立てた。「犬ころの分際で、そんな生意気な口をきくつもりか?私に向かって対等に話そうというつもりか?」

「そのつもりです」憶する事のない青い目が、堂々と大佐を見返した。そして、その瞳の奥には絶望から生まれた無謀という悪魔が顔をのぞかせていた。

 ビショップ大佐は長い間、無言で彼を見つめた。「お前を甘やかし過ぎたようだな」遂に彼はそう言った。「躾け直してやらねばならん」そして唇を引き結んだ。「貴様の薄汚い背中の皮が1インチもなくなるまで鞭打ってやる」

「そうなさると?その場合、スティード総督は如何なさるでしょう?」

「この島に、医者は貴様一人ではない」

 ブラッドは快活に笑った。「では総督閣下にそのように報告するおつもりか?自分の足で立つ事もできぬほど酷い痛風の閣下に。貴方もよく御承知のはずだ、閣下が別の医者で我慢するはずがない、知性ある人間として、自分の身体に何が最良かは御存知だ」

 だが完全に呼び覚まされた大佐の獣じみた激情は、そう易々とは揺るがされなかった。

「私の黒人奴隷どもが仕置きを終えた後でも息があれば、貴様も道理をわきまえるようになっているだろうよ」

 命令を伝える為に、彼は黒人奴隷達に向かって腕を振った。しかしその命令が実行される事はなかった。その瞬間、凄まじい雷音の轟きが彼の声を掻き消し、その場の空気を震わせた。

 ビショップ大佐は仰天し、黒人奴隷達も彼と共に飛び上がって驚き、そして常に動揺を表に出さないブラッドさえもが驚きを見せていた。それから四人は一斉に海の方向を凝視した。

 眼下の湾内には、今や要塞まで一鏈(約185m)内の距離へと迫った大型船が、船体を包む煙雲の上に中檣トップマストをのぞかせた姿が一望できた。崖から驚いて飛び立った海鳥の群れが青空を旋回し、警戒を鳴き交わす鳥達の中でも、悲しげなシギの鳴き声は殊更にけたたましく響いた。

 未だ何が起ったのかを把握できぬまま、一同がその場から凝視を続けると、大檣冠メイントラックから英国旗ブリティッシュ・ジャックが下がり、立ちのぼる雲煙の中に消えていった。間髪を容れず、英国旗に代わって雲の中から上昇し、ひるがえったのは、金と深紅のカスティリヤの旗だった。彼等は理解した。

海賊パイレーツめ!」大佐は怒号し、再び「海賊め!」と繰り返した。

 彼の声には恐れと信じ難い思いが入りまじっていた。日に焼けた彼の顔は粘土色になるまで青ざめ、小さく丸い目には憤怒が宿っていた。彼を見た黒人奴隷達は、眼と歯をむいて間の抜けた笑みを浮かべた。

八 スペイン人

 あの堂々とした風格ある船は、偽の国旗カラーを掲げてカーライル湾中に悠々と侵入してみせたスペインの私掠船1であり、「浜辺の同胞団2」に対する積年の恨みと、カディス行きの二隻の宝物ガレオン船がプライド・オブ・デヴォン号に敗北した先日の借りを返す為にやってきたのであった。軽微な損傷を受けて撤退したこのガレオン船は、ドン・ディエゴ・デ・エスピノーサ・イ・バルデスの指揮下に入っていた。ディエゴはスペインのドン・ミゲル・デ・エスピノーサ海軍提督の実弟であり、兄と同じく非常に短気で高慢、激しやすい紳士であった。

 敗北を深く怨嗟し、その敗北を招いたのが己の采配であるという事実を棚に上げた彼は、あのイングランド人どもに忘れられない痛い教訓を与えてやると誓っていた。彼はモーガン3やその海賊仲間達を手本にして、英国植民地のひとつに報復奇襲を仕掛けるつもりだった。彼自身にとっても他の多くの者達にとっても不幸な事に、この目的で彼がサン・フアンドゥ・プエルトリコでシンコ・ラガス号を艤装ぎそうした時、兄である海軍提督は彼を制止できるような近くにはいなかった。彼は標的として、その地勢の為に守備が疎かにされがちなバルバドス島を選んだ。その地が選ばれたもう一つの理由は、斥候の報告によってプライド・オブ・デヴォン号がこの島に錨を下ろしている事が判明しており、自分の復讐が因果応報の意味を帯びる事を望んだ為であった。そしてカーライル湾には戦艦が停泊していないと知った時、彼は瞬時に決断を下した。

 既に彼は意図を悟られず要塞に近接し、挨拶代わりに二十発の砲撃を加える事に成功していた。

 そして今、岬上の砦柵さいさくから呆然と見守る四人の眼前で、立ちのぼる煙雲の下から忍び寄る大型船は、大檣帆メインスル詰め開きクローズホールドにして、迎撃体制の整っていない要塞に左舷砲を向ける為に帆走していた。

 その二度目の砲撃の凄まじい轟音により、ビショップ大佐は麻痺状態から覚めて己の職務を思い出した。眼下の町では半狂乱でドラムが打ち鳴らされ、危険を報せるにはそれでも足りぬとばかりにトランペットが悲鳴を上げていた。バルバドス民兵隊の指揮官としてビショップ大佐が成すべきは、スペインの大砲によって打ち砕かれ瓦礫と化した要塞で彼の貧弱な部隊の指揮をとる事であった。

 それを思い出し、彼はその巨体と暑さにもかかわらず駆け足で去り、その後を黒人奴隷達が急ぎ足で追いかけた。

 ブラッドはジェレミー・ピットに向き直った。彼は人の悪い顔で笑った。「これだよ」彼は言った。「私が折よい横槍と呼んでいるものだ。ここからどういう展開になるかな」そして彼は付け足した。「悪魔のみぞ知る、だ」

 三度目の砲声が響き渡った時、彼は棕櫚パルメットの葉を拾い上げると、ピットの背中に再び慎重にあてがった。

 それから間もなく、息を切らし汗みずくになったケントが、農園で作業していた労働者の大部分である二十名ほどを従えて砦柵の中に入ってきた。労働者の一部は黒人奴隷であり、そして全ての労働者が恐慌状態だった。ケントが白い家の中に彼等を誘導すると、時を移さずに彼等はマスケット銃と弾薬帯で武装して再び外へ出た。

 この頃には、我が身の無防備と周囲のパニックに気づいた叛乱流刑囚達も、即座に作業を放棄して三々五々、帰ってきていた。

 急いで武装した護衛が走り出ると、ケントは奴隷達に指示を与える為に一旦、足を止めた。

「森に行け!」彼は命じた。「森に行くんだ。俺達があのスペインの豚どもの内臓を地べたにぶちまけて騒ぎを収めるまで、そこでじっとしていろ」

 そう言い残すと、彼は部下の後を追って急ぎ立ち去った。彼等はスペインの上陸部隊を迎え撃ち鎮圧するべく、町の男達と合流しに向かったのである。

 ブラッドの存在がなければ、奴隷達は即座にケントの命令に従っていただろう。

「この暑さの中で、何故そんなに急ぐ必要がある?」彼は問うた。囚人たちの目には、彼はおそろしく涼しい顔に見えた。「恐らく森に行く必要などないだろし、何にせよ、スペイン人達が町を制圧するまでには、かなりの時間がかかるだろう」

 そうするうちに遅れていた者達も加わって、二十名――叛逆流刑囚の全員――が揃ったが、彼等は自分達のいる高台から眼下で行われている激戦の趨勢を見物する為に、その場に留まった。

 敗者に対しては一切の情けが期待できぬ事を知る者の悲壮な決意の下、民兵隊と武器を扱える全ての島民は海賊達の上陸を迎え撃った。スペイン兵の無慈悲は悪名高く、カスティリャ紳士達の蛮行は、昔日のモーガンやロロネー4すら及ばぬほどであった。

 しかしこのスペインの指揮官は手馴れており、率直に言って、バルバドス民兵隊の上を行くものであった。奇襲攻撃の利により要塞を無力化した彼は、あっという間に自分がこの戦況の支配者である事を見せ付けた。スペインの大砲は、無能なビショップが部下達を整列させていた突堤後方の空き地に狙いを移して民兵隊を血まみれの小片に引き裂き、スペイン海賊という正体が露見する前にボートに乗り込み本船を離れて全速で岸に向かっていた上陸部隊を援護した。

 焼けつくような午後の間中、戦いは続き、マスケット銃の発射音が次第に町の奥深くから聞こえるようになった事から、防衛側が後退を強いられているのがうかがわれた。日没までに、二百五十名のスペイン人がブリッジタウンを制圧し、島民は武装解除され、そして総督邸ではビショップ大佐と数名の下士官に護られたスティード総督――彼は恐慌状態で痛風の痛みも忘れていた――が、ドン・ディエゴから慇懃無礼な態度で身代金の額を告げられていた。

 8レアル銀貨5十万枚と五十頭の牛、それらと引き換えに、ドン・ディエゴはこの地を塵灰と化すのを容赦するだろう。そして優雅にして礼儀正しいスペインの指揮官が、怒り狂うイングランドの総督と細目の交渉を行っていた頃、スペイン海賊達は忌まわしい破壊と略奪、野蛮な饗宴にふけり、戦禍は拡大していった。

 大胆にもブラッドは、夕暮れ時に危険を冒して町中に向かった。彼がそこで目撃したものは、後に彼がこの時の事を話したジェレミー・ピットによって記録されている――この物語の大部分は彼の筆になる大量の記録ログに基づいているのである。筆者はこの稿でそれを引用するつもりはない。それはあまりにも不快で吐き気を催すような記述ばかりであり、恥を知らぬ人間というものが、これほどまでの獣じみた残虐性と欲の深淵に身を落とせるとは、全く信じ難い事である。

 彼を急き立て、蒼ざめた顔を再び地獄に直面させたもの、それは狭い小路で彼のいる方向に突進してきた少女であった。彼女は必死な目をして振り乱した髪を背になびかせながら走っていた。彼女の後を、笑いまじりの悪態を吐きながら、頑丈なブーツをはいたスペイン人が追いかけてきた。その男はあわや彼女を捕まえる寸前だったが、その時、いきなりブラッドが割って入った。ブラッドは少し前に死者の側から剣を拾い上げ、いざという時に備えて武装していた。

 スペイン人が怒りと驚きで見返した時、男の目は夕闇の中で素早く抜かれたブラッドの剣の鉛色のきらめきをとらえた。

「ペロ・イングレス!(イングランドの犬め!)」男はそう叫ぶと己の死に向かって突進した。

「主の御前に参上する用意はできているか」ブラッドはそう言って男の体を貫いた。彼は剣術家と外科医の技能を併せ、手際よくそれをやってのけた。男はうめき声ひとつ上げずに崩れ落ち、おぞましい小山と化した。

 ブラッドが振り向くと、少女は息を切らし、すすり泣きながら壁に寄りかかっていた。彼は少女の手首をとらえた。

「来なさい!」彼は言った。

 しかし少女はためらい、彼に身を預ける事を拒んだ。「貴方、誰なの?」彼女は激しく問い詰めた。

「私の素性を気にしている場合か?」彼は鋭く言った。彼女がスペインの暴漢から逃げてきた角の先から、こちらに向かう足音が近づいていた。「来なさい」彼は再び強くうながした。そして今度は彼の明確な英語の発音に安心したのか、彼女はそれ以上の質問はしなかった。

 彼等はその路地を速足で直進し、更に別の道に入ったが、幸いにも郊外に向かって進む間、誰にも遭遇せずに済んだ。どうにか町外れに至ると、蒼白になり、ふらつきながらも、ブラッドはビショップ大佐の家を目指して、彼女を半ば引きずるようにして丘を駆け上った。彼は自分が誰で何者かを手短に説明し、それから後は白い邸宅に着くまでの間、二人は一切言葉を交わさなかった。完全な暗闇が、わずかばかりの安堵を与えてくれた。仮にスペイン人がここまできていたならば、灯りが点いているはずだ。彼はノックをしたが、答えが返ってくるまでに、もう一度、更にもう一度ノックしなければならなかった。返答は上階の窓からの声だった。

「そこに誰かいるの?」その声はビショップ嬢のものであり、やや震えてはいたが彼女自身である事に間違いはなかった。

 ブラッドは安堵のあまり眩暈がした。それまで彼は、考えたくもないものを脳裏に描いていた。自分が先刻通り抜けてきた地獄の中にいる彼女を想像していたのだ。彼女が叔父に従ってブリッジタウンに向かったか、あるいは何か他の軽率な行動をとったのではないかと考え、そして彼女の身に起きたかもしれない事を想像した彼は、それだけで頭の天辺から爪先まで震え上がる心地がしていた。

「私だ――ピーター・ブラッドだ」彼は息を切らしながら告げた。

「どうしたっていうの?」

 彼女がドアを開く為にやってくるかどうかは確かでない。この機に乗じて惨めな農園奴隷達が反乱を起こし、スペイン海賊に劣らぬ危険性を発揮するのは容易に予測できる事態なのだ。しかしブラッドが救った少女が、闇を通してアラベラの声が聞こえた方向を見上げた。

「アラベラ!」彼女が叫んだ。「私よ、メアリー・トレイルよ」

「メアリー!」その声は驚きで高くなり、彼女の頭は室内に引っ込んだ。ほとんど間を空けず、ドアは大きく開いた。ドアの向こうの広いホールにはアラベラ嬢が立っており、白い服をまといほっそりとした乙女らしい姿が、彼女の手にした蝋燭の薄光に照らし出されていた。

 ブラッドは、すっかり取り乱しているメアリー嬢に続いて大股で歩み入った。少女はアラベラの華奢な胸に飛び込んで泣きじゃくっていた。彼は時間を無駄にはしなかった。

「ここに貴女と一緒にいるのは誰です?どんな使用人が?」彼は急かすように問い詰めた。

 唯一の男手は、年老いた黒人従者のジェームズであった。

「彼でいい」ブラッドは言った。「彼に馬を出すよう命じなさい。スペーツタウンか、もっと遠い北でもいい、安全な場所まで一緒に行くんだ。ここにいては危険だ――命に関るほど危険なんだ」

 彼女は蒼ざめ、驚いた様子だった。「戦いは終わったと思ってたわ……」

「この通りだ。だが騒乱状態は始まったばかりだ。道すがらトレイル嬢が説明するだろう。頼むからマダム、私の言葉を信じて、言う通りにするんだ」

「こ……この人は私を助けてくれたの」トレイル嬢はすすり泣きながら言った。

「貴女を?」ビショップ嬢は驚いた。「何から助けてくれたんですって、メアリー?」

「後にするんだ」半ば怒りながらブラッドは厳しく言った。「奴等の手が届く場所から一刻も早く離れなきゃならない時に、君はぺちゃくちゃお喋りをして一晩明かすつもりか。さあジェームズを呼んで、私の言う通りにするんだ――今すぐ!」

「高飛車なんだから……」

「ああ、まったく!高飛車だとも!話しなさい、ミス・トレイル、私が高飛車になるだけの理由がある事を、彼女に説明してあげるんだ」

「は、はい」少女は震えながら叫んだ。「この人の言う通りにして――ああ、お願いよ、アラベラ」

 ビショップ嬢は、再びブラッドとトレイル嬢を残して立ち去った。

「わた……私、御恩は決して忘れませんわ」治まりつつある涙声で彼女は言った。彼女はもう、ちっぽけな小娘でも子供でもなかった。

「私はその時すべき事をしただけだ。それだけだよ」そう言ったブラッドの佇まいは、幾分そっけなく見えた。

 彼女は納得したふりをせず、疑問を隠そうともしなかった。

「貴方は……貴方はあの人を殺したの?」彼女は恐る恐る尋ねた。

 彼は揺らめく蝋燭の光で彼女を凝視した。「多分ね。その可能性は高いし、さして重要な事ではない」彼は言った。「重要なのは、ジェームズという男が馬を連れてくる事だ」そして彼が出発の準備を急かす為に、その場を離れて歩き出そうとした時、彼女の声が呼び止めた。

「置いて行かないで!私だけ独りにしないで!」彼女は恐怖で叫んだ。

 彼は立ち止まった。彼はゆっくりと振り返り、そして戻ってきた。彼女を見下ろすと、彼は微笑みかけた。

「大丈夫、ここにいなさい!怖がらなくていい。もう終わったんだよ。君は間もなく、ここを離れる――スペーツタウンに行けば安全だ」

 ようやく馬が連れてこられた――ビショップ嬢は案内役のジェームズだけでなく、メイド達も全員連れて行く事に決めた為、その馬のうち四頭は彼女等に使わせるものだった。

 ブラッドはメアリー・トレイルを軽々と持ち上げて彼女の馬に乗せると、既に騎乗しているビショップ嬢に別れを告げる為に振り返った。別離の言葉を告げたものの、彼には尚も付け加えるべき何かがあるような気がした。しかしその言葉が何であれ、それは声に出される事はなかった。ビショップ邸の扉の前に立つ彼を残して馬達は走り出し、サファイア色の星月夜に紛れていった。彼の耳に届いた最後のものは、震える声で何度も叫ぶメアリー・トレイルの子供っぽい言葉であった――

「貴方のしてくださった事、絶対忘れないわ、ブラッドさん。絶対よ、忘れないわ……!」

 しかしそれは、彼が本当に聞きたいと願っていた声ではなく、その約束の言葉がもたらした充足感はわずかなものであった。彼は石楠花ロードデンドロンの中を飛ぶ蛍を見つめ、蹄の音が消えてゆくまで暗闇の中に立ち尽くしていた。それから彼は溜息をつき、己を叱咤した。やるべき事は山ほどある。彼が町中に赴いたのは、勝ち誇るスペイン人達の様子を眺めて無意味な好奇心を満たす為ではなかった。それには全く別の目的があり、彼は一連の行動の間にも、既に求める情報を全て得ていた。彼の前にはおそろしく多忙な夜が待ち受けている。行かねばならない。

 彼は砦柵に向かって歩調を速めた。そこには彼の仲間の奴隷達が、深い不安とわずかな希望と共に彼を待っているのである。


  1. privateer 国家から戦時に敵国船の拿捕・略奪を許可されている民有の武装船。 

  2. Brethren of the Coast 17世紀から18世紀の大西洋、カリブ海、メキシコ湾で活動していた海賊達の緩い連合。慣習法に基づいて、獲得した財物の分配や個々の海賊の権利保護、揉め事の仲裁等が行われていた。但し、後世のフィクション内でしばしば描かれているような常任制の組織が存在した訳ではない。 

  3. ヘンリー・モーガン(1635年 1688年)
    ウェールズ出身の海賊。艦隊を率いて大規模な遠征を何度も敢行し、カリブ海で悪名と勇名を轟かせた。後にイングランド政府に懐柔されて海賊を引退し、英国領ジャマイカ島植民地代理総督の地位を与えられて海賊を取り締まる側にまわった。 

  4. フランソワ・ロロネー(1635年 1667年)
    フランス出身の海賊。捕虜や略奪地の住民に対する残虐行為で有名。パナマ沿岸で船が座礁し、上陸した処で原住民に捕らえられ、惨殺された。 

  5. メキシコで鋳造されていたスペイン銀貨。スペイン・レアル硬貨の8倍の価値があった為にpieces of eightと呼ばれた。16世紀後半から19世紀までは、事実上の世界通貨として流通していた。 

九 叛逆流刑囚

 熱帯地方の紫色をした宵闇がカリブ海を包んだ刻、シンコ・ラガス号の守備をする為に残された者は十人以下であり、スペイン人達は島の完全制圧を――相応の根拠あっての事だが――露ほども疑っていなかった。筆者は先に、守備する為の十人と記したが、これは彼等の任務というよりも、彼等が船に残った名目と言う方が的確であろう。実の処、スペイン人の大半が陸上で飲み食いし蛮行に興じる間、スペイン船の砲手ガンナー砲側員ガンクルー達――彼等は見事に役目を果たし、その日の大勝利は既に決まったも同然であった――は砲塔甲板ガンデッキ上で、岸から運び込んだワインと新鮮な肉を楽しんでいた。上方には、船首ステム船尾スターンに見張りが二名いるだけだった。彼等もまた同様に終始目を光らせていた訳ではなく、さもなければ、大型船の船尾に静かに接近する為にオール受けにしっかりと油を塗り、暗闇に紛れて埠頭から滑り出てきた二艘のウェリー(平底船)に気づいていた事だろう。

 ドン・ディエゴが陸に向かう際に使用した梯子ラダーは未だ船尾展望台に掛かっていた。この展望台付近にやってきた船尾担当の水夫は、突如この梯子上に現れた黒い人影と対峙した。

「そこに誰がいるのか?」そう尋ねたが、同僚の誰かと思い込んでいた彼は警戒してはいなかった。

「俺だよ」静かに答えた流暢なカスティリャ語の主は、ピーター・ブラッドであった。

「ペドロ、お前か?」スペイン人は更に一歩近づいた。

「私の名も聖ペトロからとられているが、生憎あいにく、お前の知っているペドロとは別人だ」

「何っ?」見張り番は聞きとがめた。

「こういう事だ」それがブラッドの返答だった。

 木製の船尾手摺タフレールは低く、スペイン人は完全に不意を打たれた。船尾突出部カウンターの下で待機している満員のボートの一艘をかすめるようにして彼が水面に叩きつけられた際に発した水飛沫の音を除けば、そのスペイン人が遭遇した災難を周囲に告げる物音は一切なかった胴鎧コルセレット腿鎧キュイッサルツヘッドピースで武装していた男は装備もろとも沈んでゆき、二度と浮かんではこなかった。

「静かに!」ブラッドは待機中の囚人仲間を制止した。「さあ、今だ、音を立てるな」

 彼等が進入を開始してから五分も経たぬうちに、狭い船尾展望台からあふれ出た総勢二十名は船尾甲板クォーターデッキ上に身を伏せていた。前方に灯りが見えた。大きな角灯ランタンの下、彼等は船首にいるもう一人の見張りが船首楼フォアキャッスルをゆっくりと歩く黒いシルエットを見た。下からは砲塔甲板ガンデッキの馬鹿騒ぎが聞こえた。朗々とした男声は、品のないバラッドを合唱していた。

「イ・エストス・ソン・ロス・ウソス・デ・カスティリャ・イ・デ・レオン!(そしてこいつがカスティリャ・レオンの流儀さ!)」

「今日、目にしたものからすれば、その流儀は確かに事実なのだろうな」ブラッドはそう言い、次いでささやいた。「行くぞ――私に続け」

 低く屈んで滑るように動き、影のように音もなく船尾甲板クォーターデッキの手摺に至ると、そこから忍び降りて中部甲板ウエストに潜入した。彼等の三分の二がマスケット銃で武装していたが、それらの銃は奴隷監督の家で発見したものか、逃亡計画に備えてブラッドが苦心の末にかき集め、秘匿していたものである。残りの者達はナイフや舶刀カットラスを装備していた。

 彼等はしばし中部甲板で待機し、その間にブラッド自ら、上の甲板には船首の厄介者以外に見張りはいないと確認した。彼等がまず注意すべきは、その見張りであった。ブラッドは二名の仲間と共に自ら忍び足で前進し、残りの者達は英国海軍での経験を考慮してナザニエル・ハグソープに指揮権をゆだねた。

 ブラッドの不在は短かった。彼が僚友の許に戻った時、スペイン人の見張りの姿は甲板上になかった。

 一方、下で飲み騒ぐ者達は、己の安全を疑う事なく油断し切って陽気に笑いさざめいていた。バルバドスの駐屯部隊は敗北し武装解除されており、そして彼等の仲間達は陸に上がって町を完全に掌握し、勝者の報酬としてたらふく飲み食いしていた。恐れるべきものなど一体どこにある?彼等の持ち場に乗り込まれ、そして自分達が二十人の荒々しく危険な、半裸の――彼等が白人であろうとは推察できはしたものの――野蛮人の大群としか見えない男達に囲まれているのに気づいた時でさえ、スペイン人達は自分の目を信じる事ができなかった。

 ひと握りの忘れられたプランテーション奴隷達が、あえて自らこのような大それた行動に出るなど、誰が想像できただろうか?

 半ば酔っていたスペイン人達は、突然笑いをやめ、歌を唇で凍りつかせて、自分達に照準が定められたマスケット銃を困惑しつつ呆然と見つめた。

 そして次に、彼等を取り囲んだ武骨な野蛮人の群れの中から、背が高く痩身、黄褐色の顔にライトブルーの目をした男が、その瞳に意地の悪いユーモアをきらめかせて進み出てきた。その男は訛りのない完璧なカスティリャ語で演説した。

「貴君等が率先して我々の囚人となり、率先して安全な場所に収まり大人しくしているならば、率先して苦痛と厄介に我が身をさらす事にはならないだろう」

「なんてこった!」砲手は毒づいたが、それは言葉にしようもないほどの驚きを表すには全く足りなかった。

「では、よろしいかな」とブラッドは尋ね、スペインの紳士達は一、二度マスケット銃で小突かれただけで、それ以上の抵抗もなく、直ちに昇降口から下の甲板へと降りる気になった。

 その後に、叛逆流刑囚はスペイン人達が食べていた佳肴を飲み食いした。何ヶ月もの間、塩漬けの魚とトウモロコシ団子だけしか口にしていなかった不幸な囚人達にとっては、キリスト教徒らしい食物を味わえるというだけで豪華な饗宴に等しかった。しかしそこに放縦はなかった。その為には断固とした態度が必要であったが、ブラッドは行き過ぎぬように気を配った。

 勝利の喜びに浮かれる前に、作戦は遅滞なく遂行されねばならない。この局面を突破する鍵の一つを手にしたとはいえ、所詮これは前哨戦に過ぎないのである。その鍵を使って最大の利を得るという仕事は、未だ片付いてはいなかった。その作戦計画にはこの重要な夜の大部分が費やされた。だが少なくとも、いささか驚くべき一日を照らす太陽がヒルベイ山の肩に顔をのぞかせる前には、彼等の準備はぬかりなく整っていた。

 肩にスペインのマスケット銃を担ぎ、スペインの胴鎧と兜を身に着けて船尾甲板クォーターデッキを往復していた叛逆流刑囚がボートの接近を報せてきたのは、日の出が間近い時刻だった。そのボートにはドン・ディエゴ・デ・エスピノーサ・イ・バルデスが、夜明けにスティード総督から届けられた身代金、計二万五千枚の銀貨を納めた四つの大きな宝箱と共に搭乗していた。彼は息子のドン・エステバンと六人の漕ぎ手を伴っていた。

 フリゲート艦上は、全て平常通りに静かで整然としていた。錨を下ろし、左舷を岸に向け、そして舷梯メインラダーは右舷側に。ドン・ディエゴと宝物箱を載せたボートは舷梯を目指して旋回した。ブラッドは作戦上の有効性を意図して配置を行っていた。彼がデ・ロイテル提督の下で学んだのは伊達ではなかった。回り込んでくるボートを待ち構えて、巻き上げ機ウインドラスには要員が配置されていた。下では――先に記したように――政治活動に熱中してモンマス公爵に従う前は英国海軍ロイヤル・ネイビー砲手ガンナーであったオーグルの指揮下で、一名の砲側員ガンクルーが待機していた。オーグルは頑丈で信頼に値する決然とした男であり、任された事は必ずやり遂げる能力があった。

 ドン・ディエゴは梯子を登り、そして単身、何の疑念も抱かず甲板に足を踏み入れた。この哀れな男に、一体何を疑う事があっただろう?

 周囲を見渡して、彼を迎えに出てきた護衛を観察するより前に、ハグソープが手にした車地棒キャプスタン・バーで手際良く加えた頭上からの軽打によって、余計な騒ぎを起こす間もなく彼は意識を失った。

 ドン・ディエゴは自分の船室キャビンに運び入れられ、その間に、ボートに残された男達の手によって宝箱が甲板に上げられていった。その作業が完了し、順々に梯子を上ってきたドン・エステバンとボートの残る乗員達は、同様に手際よく処理された。ピーター・ブラッドはこの手の策に関して天与の才があり、それは劇的な演出力を身に着けていると表現してもよいのではなかろうか。劇的ドラマティック、というより他にない光景が、この時、襲撃の生存者達の眼前で繰り広げられたものであった。

 ビショップ大佐と、その横で壁の残骸に座っている痛風のスティード総督を筆頭にした町の生存者達は、略奪、殺人、口にするもおぞましい暴虐の限りを尽くしていったスペインのごろつきどもを乗せた八艘のボートの出発を、陰鬱な面持ちで見送った。

 彼等は無慈悲な敵達が去って行く安堵と、この小さな植民地の繁栄と幸福を、一時的にであれ完膚なきまで破壊した猛威により陥った絶望との相半ばする思いで、それを傍観していた。

 笑い嘲るスペイン人達を載せたボートは岸を離れ、水面を走る間も、彼等は自らの蛮行から生き延びた者達に嘲弄を浴びせ続けた。ボートは埠頭と船の中間に至ったが、その時突然、空気が大砲の轟きによって震えた。

 鉄塊弾ラウンドショットが先頭のボートから一尋(183cm)の海面に着弾し、乗員達の頭上には、にわか雨が降り注いだ。彼等はオールを漕ぐ手を止めて、一瞬の間、驚きに静まり返った。それから彼等は爆発したように、口々に話し始めた。怒りのあまりの雄弁さで、彼等は母船の砲手ガンナーに向かってこの危険な不注意を罵った。お前は実弾を装填したまま礼砲を撃つほど愚かなのかと。一発目よりも正確に照準を定められ、ボートの一艘を木っ端微塵にして乗員を生死問わず水中に叩き込んだ二発目が発射された瞬間も、彼等は未だ砲手を呪っていた。

 だが、この一艘を沈黙させた代わりに、残る七艘の乗員達は一層怒り、激し、当惑して饒舌になった。彼等が興奮のあまり立ち上がり、金切り声で悪態を吐き、大砲を撃ち込んだ狂人を告発しようと天国と地獄に請い願う間、オールを漕ぐ手は止まり、ボートは水上でただ浮かんでいるだけだった。

 彼等の中央に三発目があやまたず撃ち込まれ、凄まじい威力で二艘目を破壊した。再び訪れた恐ろしい沈黙の一瞬の直後、スペイン人は皆が早口で話し始め、てんでんばらばらに慌てて漕ぎ始めたオールが水飛沫を上げた。何人かは、他の者達が真っ直ぐに母船に向かったのは誤りかもしれないと考えて、陸に上がる選択をした。船内で何か非常に重大な悶着が起っているのは疑いの余地がなく、彼等が論じ合い、腹を立て、呪いの言葉を吐く間にも、更に二発の弾が三艘目のボートを仕留める為に水上を飛来した。

 決然たるオーグルは卓越した実践によって砲術への精通を十全に証明して見せた。仰天したスペイン人達がボートを密集させてくれていたお陰で、彼の受け持つ作業は手間が省けた。

 第四打の後には、もはやスペイン人の間に意見の相違はなかった。それは全員一致で協定を結んだか、あるいは結ぼうとしたかのようであった。何故なら彼等が真に一丸となる前に、スペイン船のボートのうち更に二艘が沈められてしまったからである。

 水中でもがき苦しむ不運な仲間を捨て置いて、残る三艘のボートは全速力で埠頭を目指して引き返した。

 スペイン人達も事態を全く理解していなかったが、シンコ・ラガス号の大檣メインマストからスペイン旗が降ろされて、その代わりに英国旗がはためくのを目にするまでは、陸上の哀れな島民達の理解はスペイン人に輪を掛けておぼつかぬものだった。尚も若干の混乱は続き、この異常事態のはけ口として島民に残虐性を向けられはしまいかと、彼等はスペイン人の帰還を恐れを込めて凝視していた。

 しかしオーグルは、己の砲術知識が昨日今日身に着けたものではない証拠を示し続けた。逃げるスペイン人達の背後から砲撃が浴びせられた。最後のボートは埠頭にたどり着いたのとほぼ同時に木っ端微塵にされ、その残骸は崩れた石材の下に埋もれていった。

 これが、ほんの十分じっぷん前には、悪事の分け前として手に入れた銀貨を笑いながら数えていた海賊パイレーツ一味の最期だった。六十名近い生存者が懸命に上陸を試みた。そのスペイン人達が如何なる歓迎を受けたかについては、彼等の辿った運命を記した資料が残されていない為、ここで語る事はできない。記録の欠如は、それ自体が雄弁である。上陸した生存者が即座に縛り上げられた事は判っており、そして彼等の仕出かした蛮行を考慮すれば、彼等には命永らえたのを後悔する理由が山程あった事に疑いの余地はない。

 スペイン人に対する報復を行う為、そして島を守る代償に要求された銀貨十万枚という法外な身代金が奪い去られるのを防ぐ為に土壇場になって現れた救い手の正体は、依然として謎のままだった。今やシンコ・ラガス号がこちらの味方であるのは疑いの余地なく証明済みであった。しかしブリッジタウンの人々は互いに尋ね合った。あの船は何者の支配下にあるのだろう?一体、いつの間に制圧されたのだろう?唯一の現実的な仮定はかなり事実に近いものだった。勇敢な島民の一団が夜の間に忍び込み、船を奪ったに違いない。ならば、この謎の救済者達の正確な身元を確認して、大いに誉めてやらねばなるまい。

 この使いの為に、総督代理として――スティード総督の容態では自ら足を運ぶ事はできなかった――二人の士官を伴ったビショップ大佐が赴く事となった。

 梯子から帆船の中部甲板ウエストに踏み入った時、大佐は昇降口メインハッチの横に置かれた四つの宝箱に気づいた。そのうち一つの中身は、ほぼ全てを彼自身が単独で提供していた。それは実に喜ばしい光景であり、それを眺める彼の目は輝いていた。

 彼が横断する甲板デッキの両側には、胴には鎧、頭上には輝くスペインの軍用兜モリオンが顔に影を落とし、脇にはきちんとマスケット銃を携えた二十人の男達が、整然と二列に並んでいた。

 この背筋をぴしりと伸ばして輝く鎧を身に着けた、如何にも凛々しい立ち姿の正体が、つい昨日には彼のプランテーションで酷使されていた野晒しの案山子のような連中であるのを一目で見破れというのは、ビショップ大佐には無理な相談というものであった。そして彼を歓迎する為に進み出た礼儀正しい紳士――痩身の優雅な紳士であり、黒づくめに銀のレースをあしらったスペイン風の衣装のをまとい、金糸で刺繍をほどこされた幅広の剣帯バルドリックから金柄の剣を下げ、綺麗に櫛を入れ入念にカールされた漆黒の巻き毛の上に羽飾り付きのつば広帽をかぶっていた――が誰であるかを見分けろというのは、輪をかけて無理な相談であった。

「シンコ・ラガス号へようこそ、親愛なる大佐殿」どことなく聞き覚えのある声が大佐に呼びかけた。「御使者をお迎えする栄に預かり、我々はスペイン人達の衣装部屋で体裁を整えました。よもや閣下が直々にお越しくださるとまでは期待しておりませんでしたが。閣下の周りにいるのは、貴方の友人達――なつかしき旧友達ですよ、全員」大佐は麻痺したように凝視した。この、全身を華麗に――本来の嗜好を加味して――飾り立て、入念に髭を剃り、同じく入念に髪を整えたブラッドは、はるかに若返って見えた。実際は彼の実年齢である三十三歳相応に見えたというだけなのだが。

「ピーター・ブラッド!」大佐は驚きのあまり思わず叫んだ。そしてすぐに合点がいった。「では、これはお前の仕業だったのか……?」

「私ですよ――私と、ここにいる我が良き友、そして貴方の友でもある者達です」ブラッドは手首から精巧なレースをひるがえし、直立姿勢で待機している男達の列に向け片手を振って示した。

 大佐は更に目を凝らした。「なんてこった!」彼は間の抜けた歓喜の叫びを上げた。「スペイン人に一泡吹かせて、あの犬どもの勝ち目をひっくり返したのは、お前達か!一発逆転じゃないか!英雄的ヒロイックな活躍だ!」

英雄詩ヒロイック、ですか?おお、主よビダッド1、これは叙事詩エピックですよ!どうやら貴方も、我が非凡なる才の雄大と深遠なるを悟り始めたようですね」

 ビショップ大佐は倉口縁材ハッチコーミングの上に座り、つば広帽を脱ぐと、額の汚れを拭った。

「まったく驚いたぞ!」彼はあえぐように言った。「まったく、たまげたものだ!宝箱を取り戻した上に、この素晴らしい船を積荷ごと拿捕するとはな!これで我々が被った損失の帳尻合わせができるかもしれん。なんてこった、貴様、大手柄だぞ」

「お説、まったくごもっとも」

「くそっ!お前達みんな大手柄だ。なんて奴等だ、わかるか、この私が恩に着てるんだぞ」

「それはそうでしょうね」ブラッドは言った。「問題は、我々がどれほどの報酬に値するのか、そして我々はどこまで貴方に期待できるのかという事です」

 ビショップ大佐は彼を見つめた。彼の顔には驚きの影が差していた。

「よかろう――総督閣下はお前の功績について、陛下に宛てて書状を送るだろう、そうすれば、恐らくお前に下された判決のいくらかは赦免されるはずだ」

「ジェームズ陛下の御寛容は有名だからな」側に控えていたナザニエル・ハグソープが冷笑し、そして整列していた叛逆流刑囚の中にも笑いだす者がいた。

 ビショップ大佐はぎくりとした。軽い胸騒ぎが、今や全身に広がる不安となっていた。この場にいる者達は皆、見せかけほどには友好的ではないのでは、という認識が彼の心に浮かんだ。

「そして、もう一つ問題がある」ブラッドは再び口を開いた。「私に予定されている鞭打ちの件が。このような事柄について、閣下は有言実行を旨としておられるはずだ。そして確か、このようにおっしゃっていたはずだ、大佐が自ら――さもなくば、他の者の手を借りてでも――私の背中に一寸の皮膚も残らぬようにしてみせると」

 大佐はこの問題を切り捨てた。半ば腹を立てているようであった。

「ええい!この大手柄の後で私がそんな事をすると、お前は本気で思っているのか?」

「そのように感じていただけるとは望外の喜び。しかしながら、私にとってスペイン人の襲来が今日ではなく昨日であったのは並みならぬ幸運であり、それが今日の出来事であったなら、私はジェレミー・ピットと同じ窮状に陥っていたに違いないと考えている。そしてその場合、あの見下げ果てたスペイン人どもに目に物見せてやった天才は、さて、何処いずこに在り也?」

「何故、今、そんな話をする?」

 ブラッドは話を再開した。「御理解いただきたい、親愛なる大佐殿。長の年月、邪悪で無慈悲な行いに専念してきた貴方にとって、これが教訓に、二度と忘れられぬ教訓になればいいのだが。――我々の後に続くかもしれない人々の為にね。ジェレミーは随分と派手な色の背中になって、今は後部船室ラウンドハウスに運び込まれている。あの気の毒な若者は、一ヶ月は回復しないだろう。そしてスペイン人の来襲がなければ、恐らく今頃、彼は死んでいただろうし、私自身も彼と運命を共にしていたはずだ」

 ハグソープはゆっくりと前に進み出た。彼はかなり背が高く壮健な男であり、それだけで出自の良さがわかるような端正で魅力的な顔立ちをしていた。

「こんなハム用の去勢豚を相手に、何を言っても無駄なんじゃありませんか?」と、この元英国海軍ロイヤル・ネイビー士官は疑問を呈した。「船外に放り捨てて、終りにしてはどうです」

 大佐の目玉は飛び出しそうになった。「何を言っとるんだ?」彼は怒鳴った。

「貴方は実に幸運な人ですよ、大佐、貴方が御自分の幸運の理由を知る事はないでしょうが」

 そして更に、もう一人が口を挟んだ――屈強な隻眼のウォルヴァーストンは、もう一方の紳士的な囚人仲間ほどには慈悲深い性分ではなかった。

桁端ヤードアームから吊るしちまえ」そう叫んだ低い声は険悪で怒りを含んでおり、そして武器を構えて待機していた奴隷達のうち数名がその声に唱和した。

 ビショップ大佐は震え上がった。ブラッドは振り返った。彼は落ち着き払っていた。

「いいか、ウォルヴァーストン」彼は言った。「私は自分の流儀を通す。そういう約束だ。覚えておきたまえ」彼の視線は隊列の端から端へと動き、それがこの場にいる全員に向けた宣言である事を明確にした。「私はビショップ大佐を生かしたままでおく事を望む。理由の一つは人質として彼が必要であるからだ。もし諸君等が彼の首を吊る事をあくまでも要求するなら、諸君等は彼と一緒に私の首を吊るか、あるいは私が船から降りるかだ」

 彼はひと呼吸おいた。答えはなかった。しかし彼等はブラッドの前で、ばつの悪そうな、半ば反抗的な状態にあり、ハグソープのみが肩をすくめ、やれやれという調子で笑っていた。

 ブラッドは再び語りだした。「一隻の船に、一人の船長キャプテン。これを理解したまえ。そして」彼は驚愕している大佐に再び向き直った。「さて、私は貴方に生命の保障をするが、貴方には――お聞きの通り――この船に留まってもらう必要がある。我々が外海に出てしまうまでの間、スティード総督に、そして砦に未だ残っている兵達に、お行儀良くしていてもらう為の人質として」

「外海に……」戦慄のあまり、ビショップ大佐はその信じ難い宣告を最後まで繰り返す事はできなかった。

「如何にも左様」そう言うとピーター・ブラッドは、大佐に同伴していた士官達の方を向いた。「紳士諸君、君達をボートが待っている。私の話は聞いていたね。謹んで総督閣下にお伝えしてくれたまえ」

「しかし……」彼等の一人が反駁しようとした。

「紳士諸君、これ以上言うべき事はない。我が名はブラッド――キャプテン・ブラッド、船内に拘束中の我が捕虜、ドン・ディエゴ・デ・エスピノーサ・イ・バルデスより戦利品として接収した、このシンコ・ラガス号の船長キャプテンだ。私があのスペイン人達の更に上を行く逆転劇を演じたのは御理解いただけたと思う。梯子ラダーはあちらだ。舷側げんそくから落ちるよりも梯子を使った方が便利なのは一目瞭然だろう。ぐずぐずしていると、遠慮なく海に放り込むぞ」

 多少の押し合いはあったが、ビショップ大佐の怒声にもかかわらず、彼等は去っていった。大佐の激しい怒りは、このような連中、つまり彼等からは憎悪されてしかるべき理由があると自分でも承知している男達に、生殺与奪の権を握られてしまった恐怖に煽られたものであった。

 当面は身動きのとれないジェレミー・ピットとは別に、半ダースほどの乗組員が操船術に関する浅い知識を持っていた。ハグソープは元海軍士官であり、航法の訓練は受けていないものの操船に関する知識はあり、彼の指導の下で乗組員達は船を動かし始めた。

 要塞から干渉される事なく、彼等は錨を引き上げて、大檣帆メインスルを広げ、穏やかな微風をはらませた。

 彼等が湾の東にある岬の近くを航行し始めると、ピーター・ブラッドは監視下に置かれている大佐の許に戻った。狼狽した様子の彼は、再び昇降口メインハッチの縁に力なく座り込んでいた。

「貴方は泳げますか、大佐?」

 ビショップ大佐は顔を上げた。彼の大きな顔は血色が悪く、その瞬間はひどく弛緩しているようであり、小さく丸い目は一層ビーズのように見えた。

「貴方の主治医として、私は貴方の気質に起因する過度の発熱を冷ます為に、水泳をお勧めする」ブラッドは愛想良く説明を始め、大佐の返答を待たずに話し続けた。「私が仲間達の一部と同じように血を欲する本能に動かされてはいないのは、貴方にとって不幸中の幸いだ。彼等には復讐を思いとどまるよう説得しなければならなかったが、それはこの上ない難事業だった。貴方にその骨折りに値するだけの価値があるかどうかは、甚だ疑問だが」

 彼は嘘をついていた。彼は疑問など微塵も抱いていなかった。もしもブラッドが己の願望と欲動に従っていたならば、彼は確実に大佐をロープで吊るし、そしてそれを称賛に値する行為と思ったであろう。アラベラ・ビショップの考え、それが彼に慈悲の実践をうながし、彼に対して反乱を起こされる危機に直面しながらも、他の奴隷達の至極当然な復讐心に抗うように導いたのであった。大佐がアラベラの叔父であるという事実は、当人にしてみれば想像だにしないであろうが、彼がブラッドに情けをかけられた理由の全てなのであった。

「貴方に水泳の機会をさしあげよう」ピーター・ブラッドは続けた。「向こうの岬まで4分の1マイルもない。格別の幸運に恵まれずとも、たどり着けるだろう。大丈夫、それだけ脂肪がついていればよく浮くはずだ。さあ!ぐずぐずするな。それとも我々と長い航海を共にするつもりか。このままでいれば、貴方の身に何が起るかは明白だ。貴方は一片の情けもかけるに値しない存在なのだから」

 ビショップ大佐は我を抑えて立ち上がった。これまでの人生を自制とは無縁に過ごしてきた無慈悲な暴君は、皮肉な運命によって、彼の感情が最も暴力的に激していた、まさにその瞬間に自制を強いられていた。

 ピーター・ブラッドは指示を出した。板が舷縁ガンネルの上に渡され、固定された。

「では、大佐」そう言うと、彼は優雅な仰々しい身振りと共にうながした。

 大佐は彼を見たが、その視線には憎悪が込められていた。それから心を決めると表情を取り繕い、着替えを手伝う者が誰もいない為に、自分で靴とビスケット色のタフタ製の上等なコートを脱いで、板の上に登った。

 彼は一旦立ち止まり、段索ラットラインをきつく握って体を安定させると、約25フィートは下にある逆巻く緑の水を恐怖しつつ見下ろした。

「ちょいとした散歩ですよ、大佐ちゃん」背後から調子良く嘲るような声が聞こえた。

 板上で段索にすがったまま、ビショップ大佐はためらいつつ視線をめぐらせて、舷牆ブルワークにずらりと並んだ浅黒い顔を見た。――昨日ならば、彼の不機嫌に反応して蒼白になっていたであろうその顔が、今は皆が皆、底意地の悪いにやにや笑いを浮かべていた。

 一瞬、激怒が恐怖を凌駕した。彼は毒々しく支離滅裂な呪いの言葉を吐き散らすと、段索を掴んだ手を放して板の上に歩み出た。彼がバランスを失って緑色の深い淵に落ちるまで、三歩だった。

 ビショップ大佐が空気を求めてあえぎながら再び水面に浮上した時、シンコ・ラガス号は既に数ファーロング(1ファーロング=201.168m)風下に移動していた。しかし叛逆流刑囚達が別れを告げる嘲り声の響きは水面を渡って彼まで届き、成す術もない怒りの銛を更に心深くまで打ち込んだ。


  1. bedadはby Godに同じ。アイルランドで使われる言い回し。 

十 ドン・ディエゴ

 ドン・ディエゴ・デ・エスピノーサ・イ・バルデスは目を覚まし、痛む頭とけだるい目で、背後にある正方形の窓から陽の光が差し込んでいる船室キャビンを見回した。それから彼はうめき声を上げて、頭部の猛烈な痛みに思わずまた目を閉じた。横たわり、彼は考えようと試みた。今はいつで、自分はどこにいるのか。しかし頭の痛みと混乱した思考では、筋が通った考えは不可能であるとわかった。

 漠然とした不安から再び目を開き、彼はもう一度、自分の置かれた状況を確かめるように己を鼓舞した。

 彼が自分の船であるシンコ・ラガス号内の船長室グレートキャビンで横になっていた事に疑いの余地はなく、漠とした不安には根拠などないはずだった。だがしかし、湧き上る記憶が省察を助け、それが落ち着かぬ感覚と共に、この場の何かが決定的に間違っているという認識を強いた。低い位置にきている太陽が、正方形の船尾舷窓から船室に黄金の光を溢れさせており、彼は当初、船が西に向かっているという仮定の下で、今は早朝であると判断した。それから別の可能性が心に浮かんだ。船が東に向かっているのなら、時刻は遅い午後のはずだ。足元の船体の穏やかなうねりから、船が航行しているのは感じ取れた。しかし彼等はどのような成り行きで船を出したのだろうか?そして航海長マスターである彼は、航路が東か西かも知らないのか、あるいは目的地を思い出せないのか?

 彼の思考は昨日の冒険を想起していた。それが実際に昨日であれば、なのだが。バルバドス島に上陸し、容易に成功した襲撃については、はっきりしていた。船に帰還する為に再び甲板に踏み出した瞬間までの記憶は、あらゆる細部までが全て鮮明に存在していた。記憶はそこで突然に、そして不可解に途切れていた。

 煩悶しつつ懸命に答えを導きだそうとしていた時、ドアが開き、ドン・ディエゴにとって不可解な謎が更に増えた。彼の最も上等な衣装を着た男が船室に入ってくるのを目撃したのである。それは一年前にカディスで彼の為に仕立てられた、銀糸のレース飾りがあしらわれた黒いタフタの極めて優雅で個性的なスペイン様式の衣装であり、その服の細部まで熟知していた彼には見間違えようがなかった。

 その衣装を着た男は扉を閉める為に足を止め、それからドン・ディエゴが横になっているソファーに向かって歩を進めた。その服を着て船室に入ってきたのは、ドン・ディエゴ自身の身長体格と大差のない痩せた長身の紳士であった。驚愕で大きく見開かれたスペイン人の目が自分に向けられているのに気づくと、その紳士は歩幅を大きくした。

「お目覚めかな?」スペイン語で彼は言った。

 横たわったままの男は、黒い巻き毛の房に縁取られた黄褐色の皮肉っぽい顔から彼を見つめている、一対のライトブルーの瞳を当惑しつつ見上げた。しかし彼は如何なる答えであれ、言葉を返すにはあまりにも当惑していた。

 見知らぬ男の指がドン・ディエゴの頭頂に触れ、痛みにたじろいだドン・ディエゴは悲鳴を上げた。

「圧痛有り、か?」見知らぬ男は言った。彼はドン・ディエゴの手首を親指と人差し指で掴んだ。そして遂に困惑に耐え切れなくなったスペイン人は言葉を発した。

「君は医者か?」

「でもある」浅黒い紳士は患者の脈をとり続けた。「安定かつ平常」ようやく彼はそう宣言し、手首を放した。「深刻な傷害は負わなかったようだ」

 ドン・ディエゴは赤いベルベットのソファーから懸命に起き上がり、居ずまいを正そうとした。

「貴様、何者だ?」彼は尋ねた。「私の服を着て、私の船に乗って、一体何をしている?」

 平行だった黒い眉が上がり、かすかな微笑が唇に曲線を描いた。

「未だうわごとを言っているのか、困った事だ。これは貴方の船ではない。これは私の船であり、そしてこれは私の服だ」

「貴様の船、だと?」驚愕したように相手の言葉を繰り返し、更なる驚愕のままに言葉を継いだ。「貴様の服?しかし……それは……」彼の目は懸命にその男を凝視した。その視線は再び船室内をめぐり、馴染み深い調度の一つひとつを綿密に確かめた。「私はおかしくなったのか?」彼はようやく尋ねた。「この船は確かにシンコ・ラガス号か?」

「シンコ・ラガスだ」

「それなら…」スペイン人は突然、口をつぐんだ。彼のまなざしは苦悩を深めた。「バルガ・ミ・ディオス!(神よ、お助けあれ!)」彼は苦悶しつつ叫んだ。「では、貴様は自分がドン・ディエゴ・デ・エスピノーサだとでも言うつもりか?」

「いや、違う。私の名はブラッド――キャプテン・ピーター・ブラッド。この船は、この洒落た衣装と同じように、勝者の権利によって私のものとなった。ドン・ディエゴ、貴方が私の捕虜となったのと同じようにね」

 その説明に仰天させられつつも、しかしそれは同時にドン・ディエゴの心を落ち着かせるものでもあった。それは彼が思い描き始めていた事態よりは、まだ有り得る範囲のものであった。

「だが……では、貴様はスペイン人ではないのか?」

「私のカスティリャ語をお褒めいただけて光栄だ。私はアイルランド人に生まれた事を誇りに思っている。貴方は奇跡が起きたと思っていたようだが。そう、これは――私の才覚によって引き起こされた奇跡だ、類いまれなる能力によってね」

 手短かに真相を語る事によって、キャプテン・ブラッドは謎を晴らした。スペイン人の顔を朱と白の交互に染めたのは、その顛末であった。彼は自分の後頭部を探り、そこにその話を裏付けるような鳩の卵程度の大きさの瘤があるのを確かめた。最後に彼は冷笑を浮かべたキャプテン・ブラッドを、動揺を露にした目付きでにらんだ。

「では私の息子は?息子はどうしている?」彼は叫んだ。「息子は私のボートに同乗していた」

「御子息は無事だ。彼とボートの乗組員は、貴方の砲手ガンナーとその部下達と共に船倉口ハッチの下で大人しく拘束中だ」

 ドン・ディエゴは再びソファーに沈み込んだが、ぎらついた黒い目は、彼を見下ろしている黄褐色の顔に定めたままだった。彼は気を落ち着かせた。ともあれ、彼はこの絶望的な交渉に必要とされる冷静さを取り戻した。この博打では、既にさいは負けの目を出していた。大勝ちしたと思った瞬間に、大逆転されたのである。彼は宿命論者の堅忍をもって状況を受け入れた。

 最大限の冷静さを保ちつつ、彼は問うた。

「それで、現状は?セニョール・キャピタン(船長殿)」

「それで、現状は」キャプテン・ブラッドは――ドン・ディエゴが彼を呼んだ称号を当然のように受け止め――答えた。「慈悲を知る者として、貴方が我々の加えた軽打で死に至らなかった事を気の毒に思う。何故ならば、それはつまり、貴方が再び振り出しに戻って死の不安に向き合わねばならない事を意味するのだから」

「ああ!」ドン・ディエゴは深く息をした。「だが、そんな必要はあるのか?」そう尋ねた彼は内心の動揺を表には出さなかった。

 キャプテン・ブラッドの青い目は、彼の態度に満足を示した。「自分の胸に訊きたまえ」彼は言った。「経験豊かな、そして血にまみれた海賊パイレートとして、貴方自身が私の立場にあれば何をする?」

「ああ、だが相違もあるぞ」ドン・ディエゴはこの問題を議論する為に姿勢を正した。「君は慈悲深い男と自負しているのだろう」

 キャプテン・ブラッドは長い樫テーブルの縁に腰を下ろした。「だが私は愚か者ではない」彼は言った。「そして私の身に備わったアイルランド人的な感傷癖をもってしても、必要かつ適切な行為を妨げはしないだろう。貴方自身と、貴方の部下である凶賊の生き残り達は、この船にとっての脅威だ。それ以上に、当船は水と食料を無駄にできない。幸いにも我々は少数だが、しかし貴方と貴方の部下達は食い扶持を増やしてしまう。よろしいか、思慮分別に従えば、あらゆる点から見て貴方達には謹んで御退場いただくべきであり、我々の慈悲深い心を鬼にせざるを得ず、かなうならば自主的に舷側から板をまたいで海原に消えて欲しいものなのだが」

「わかった」物思いに沈みつつスペイン人は言った。彼はソファーから身を起こし、その端に座ると膝上に肘をついた。ドン・ディエゴは相対した男を見定めた上で、表面的な上品さと人当たりの良い超然とした態度で調子を合わせた。「白状するが」と彼は認めた。「君の意見はもっとも過ぎて、反論の余地が見つけられないな」

「お陰でこちらも気が楽になった」キャプテン・ブラッドは言った。「私は不必要に剣呑な振舞いはしない。ましてや私と我が友人達は、貴方に大きな借りがあるのだから。他の者達にとってはどうあれ、我々にとって貴方のバルバドスへの襲撃は実に好都合だった。従って私は、私に選択の余地がない事を貴方に御理解いただけて非常にうれしいのですよ」

「しかし我が良き友よ、私は受け入れられんぞ」

「貴方に代替案がおありなら、それを検討できれば幸甚」

 ドン・ディエゴは鋭く黒い顎鬚を撫でた。

「朝までの猶予をもらえるか?頭がひどく痛んでな、考えがまとまらん。それにこれは、君も認めるだろうが、重大な問題なのだから」

 キャプテン・ブラッドは立ち上がった。彼は棚から三十分の砂時計をとると、赤い砂の満ちた側が上になるように逆さまにしてテーブルの上に置いた。

「ドン・ディエゴ、このような問題を押しつけて、まことに遺憾に思うが、しかしこの砂一杯が貴方に与えられる猶予だ。この砂が落ち切るまでに受容可能な選択肢を提案できないならば、私は断腸の思いで貴方と貴方の友人達に、揃って舷側の向こうに消えていただくようにお願いしなければならないだろう」

 キャプテン・ブラッドはお辞儀をし、部屋を出ると扉に錠を下ろした。膝上に肘をつき、掌に顔を乗せて座ると、ドン・ディエゴは赤い砂が上の球から下の球へと少しづつ落ちてゆく様を見つめた。それを見る彼の褐色の顔にはしわが深くなった。時間通りに最後の砂粒が落ち切った時、ドアは再び開いた。

 スペイン人は溜息をつき、彼の答えを聞く為に戻ったキャプテン・ブラッドに向かい合う為に背を伸ばして座った。

「私は代替案を考えた、サー・キャプテン。だが、それは君の寛容に依存する。君がこの厄介な群島の一つに我々を上陸させ、後の事は我々自身にゆだねるという選択肢だ」

 キャプテン・ブラッドは唇をすぼめた。「それは難しいな」ゆっくりと彼は言った。

「で、あろう事を恐れていた」ドン・ディエゴは再び溜息をつき、立ち上がった。「ならばもう言うまい」

 彼に向けられたライトブルーの目は剣の切っ先のようにひらめいた。

「貴方は死を恐ないのか、ドン・ディエゴ?」

 スペイン人は眉間にしわを寄せ、頭をめぐらせた。

「その質問は愉快なものではないな」

「では、私から一つ提案をさせていただきたい――恐らくは、もう少し愉快なものだ。貴方は生きる事を望まないか?」

「ああ、こうは言えるな。私は生きる事を望む。更に言えば、私の息子の生存も望む。とはいえ、君の楽しみの為にへつらう事は望まんがな、冷笑家殿」彼がわずかであれ昂ぶりの、もしくは憤慨の兆候を見せたのは、これが初めてであった。

 キャプテン・ブラッドは、すぐには答えなかった。先程と同じように、彼はテーブルの角に腰掛けた。

「貴方は生命と自由を――貴方御自身、貴方の御子息、そして船内にいる他のスペイン人達の生命と自由を獲得する事をお望みだろうか?」

「獲得する事?」ドン・ディエゴはそう言い、そして用心深い青い目は、彼に走った震えを見逃さなかった。「それを獲得する事を、と言うのか?君の提示する条件が私の名誉を傷つけるようなものならば……」

「私がその配慮をしないとでも?」ブラッドは断言した。「海賊にも名誉がある事は承知している」そして直ちに彼は申し出を明らかにした。「その窓から外を見れば、ドン・ディエゴ、水平線に姿を現している雲のようなものが見えるだろう。あれは遠ざかりつつあるバルバドス島だ。我々は終日、追風を受けてひたすら東に航行してきた。ただ一つの目的――可能な限りバルバドスと我々との間の距離を広げるという目的の為に。しかし陸地がほとんど視界から消えた今、我々は困難に直面している。航法を習得している唯一の乗組員は、高熱で臥せってうわごとを言っている。実をいえば、我々が彼をここに運び入れるより前に、陸でいささか惨い仕打ちに遭った結果そうなったのだが。私は操舵ができるし、私の助手を務められる者も一、二人搭乗している。しかし高度な船舶操縦術や、目印のない大海を行く道を見つける術に関してはお手上げだ。岸に沿って航行し、貴方が適切にも厄介な群島と呼んだ海域に紛れ込んだ時、我々が自ら大変な厄介事を招くであろうと想像するのは容易だろう。それで、結論はこういう事だ。我々は可能な限り真っ直ぐに、キュラソー島のネーデルラント植民地に向かいたい。貴方は御自分の名誉にかけて誓えますか。もしも私が貴方に執行猶予の待遇を与えたならば、貴方はその為の航路を教えると?貴方にそれが誓えるのなら、我々はその地に到着次第、貴方と貴方の生き残った部下達を解放しましょう」

 ドン・ディエゴは深くうなだれると、物思いにふけりつつ船尾舷窓に向けて大股で歩き去った。そこで彼は明るい光の当たる海と、大型船の航跡のよどんだ水とを見つめて立ち尽くした――彼の船、このイングランドの犬どもが彼から奪い取った船。彼の船、それを安全に港につけるよう求められたが、その港に入れば完全に彼から取り上げられ、恐らくは彼の同胞と戦う為に改装されてしまう船。それが天秤の片側に乗せられており、もう一方の側には十六人の命が乗っていた。そのうちの十四人は、彼にとってさして重要ではなかったが、しかし残る二人は、彼自身と彼の息子の命であった。

 彼はようやく振り返ったが、逆光になっている彼の顔がどれほど青ざめているかを、ブラッドは見る事ができなかった。

「承諾しよう」彼は言った。

イソノ武威
作家:ラファエル・サバチニ
海賊ブラッド
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