海賊ブラッド

二 カーク大佐の竜騎兵

 オグルソープの農場はブリッジウォーターから1マイルほど南、川の右岸にあった。蔦に覆われた基部の上方にはテューダー朝時代の灰色の建物がのぞいていた。その建物を目指して、朝の陽光にきらめくパレット川の岸辺にある、理想郷アルカディア的な平和にまどろむような芳しい香りの果樹園を通り抜けて進むブラッドには、ここが争いと流血によって苦悶する世界の一部であると信じるのは難しかった。

 ブリッジウォーターから馬を走らせる途中、二人は橋上で戦場から逃れてきた先陣の兵士達に出会っていた。彼等は疲弊し、希望を失い、多くの者は負傷し、全ての者が恐怖に苛まれ、なけなしの力を振り絞って、あの町が彼等を匿ってくれるであろうというむなしい期待から避難所を求めて急ぎつつも、思うに任せずよろめき歩いていた。疲労と恐れで虚ろになった目が、やつれた顔から馬を進めるブラッドとピットを哀れっぽく見上げ、かすれた声が容赦ない追撃が迫っているぞと警告を叫んだ。しかしピット青年は手綱を緩める事なく、続々と集まってくるセッジムーアの総崩れからの哀れな逃亡者達の脇を通って、埃まみれの道を全速力で馬を走らせた。やがて彼は横道にそれて露を帯びた牧草地を渡る小道に入った。彼等はここですら、竜騎兵ドラグーンの赤いコートを警戒して何度も恐る恐る振り返りながら広い牧草地を散り散りに逃げる敗残者達に出くわした。

 しかしピットが馬首を南に向けフェバーシャムの本営に近づくにつれ、敗残の兵士達と戦闘の残骸に妨げられぬようになり、やがて彼等は林檎酒シードル生産の最盛期も間近な、熟した林檎のたわわに実る平和な果樹園の中を走っていた。

 ようやく彼等が中庭の踏み石の上に降り立つと、暗い顔をした農場主ヨーマンのベインズが取り乱した様子で彼等を迎え入れた。

 広々とした板石舗装の広間で、ブラッドはギルドイ卿――非常に長身で浅黒い若い紳士であり、顎と鼻が目立っていた――が丈高い方立ほうだて仕切り付きの窓の下で、ベインズ夫人とその器量良しの娘の世話を受けながら籐の寝椅子に横たわる姿を見つけた。彼の頬は鉛色で、目は閉じられ、青ざめた唇からは苦しげな弱々しい呼吸と共にうめき声がもれていた。

 ブラッドは彼の患者を見つめ、しばし静かに立っていた。彼はギルドイ卿のような前途有望な若者が、一文の値打ちもない山師の野心を助ける為に身の破滅となるような危険を冒した事を嘆いた。この勇敢な若者に好意と敬意を抱いていたが故に、ブラッドは自らの患者として対面した彼に嘆息したのである。それから彼は跪いて診察にとりかかり、上衣ダブレットと肌着を引き裂いてずたずたにされた貴人の脇腹をむき出しにすると、水とリンネルと治療に必要な諸々を要求した。

 半時間後、竜騎兵連隊の兵士達が農場に踏み込んできた時、彼は未だ治療に集中していた。兵士達の接近の予兆である蹄の音にも遠い叫び声にも全く集中を妨げられなかった。彼は易々と動じるような性格ではなく、また自分の作業に没頭していたという理由もあった。しかし意識を回復したギルドイ卿は少なからぬ不安を見せ、荒事慣れしたジェレミー・ピットは衣装箪笥に隠れた。ベインズは不安げであり、彼の妻と娘は震えていた。ブラッドは彼等を励ました。

「何を恐れる事がある?」彼は言った。「ここはキリスト教徒の国だ、そうだろう?クリスチャンならば、傷ついた者にもそれを匿う者にも、無体な事などするはずがない」この発言でもわかる通り、彼は未だキリスト教徒に対して幻想を抱いていたのである。ブラッドは自分で調合した薬草酒コーディアルのグラスを持ち、ギルドイ卿の唇にあてがった。「気をお静めなさい、若様。これ以上悪い事など起きませんよ」

 そうするうちに、兵士達はやかましい音を立てながら広間の石畳に踏み込んできた――軍用ブーツジャックブーツをはきタンジール1連隊の真紅の軍服ロブスター・コートをまとった丁度1ダースの騎兵達は、コートの胸に大量の金モールをつけた頑強で浅黒い男に率いられていた。

 ベインズが半ば挑むような態度で踏みとどまる一方で、その妻と娘は新たな不安で縮みあがった。長椅子の端にいたブラッドは侵入者達を吟味する為に肩越しに振り返った。

 その士官は命令をわめいて部下達に警戒待機させると、手袋をはめた手を剣の柄頭に置き、身動きの度に調子良く拍車を鳴り響かせながら尊大な足取りで進み出た。彼は農場主ヨーマンに向かって自らの権力を誇示した。

「私はホバート大尉、カーク大佐2の竜騎兵連隊所属である。貴様、謀反人を匿っているな?」

 ベインズはそのこれ見よがしの威嚇に恐怖した。それは彼の震える声に表れていた。

「わた……私は謀反人を匿ってなどおりません。こちらのお怪我をなさった紳士は…」

「自分の目で確かめる」大尉は長椅子の方へ踏み出すと、灰色の顔をした患者をにらみつけた。

「この有様では、どういう次第で何故傷を負ったかを尋ねるまでもないな。忌々しい謀反人が一匹、それで充分だ」彼は竜騎兵達に命じた。「こいつを連行しろ」

 ブラッドは長椅子と騎兵達の間に立ちはだかった。

「人道において貴君に訴える!」怒りを含んだ声で彼は言った。「ここはタンジールではなく、イングランドだ。この紳士は傷を負っている。動かせば命にかかわるのだぞ」

 ホバート大尉は面白がった。

「おお、この手の謀反人の命には配慮するとも!充分にな!なあどう思う?我々がこいつを連れまわすのは、こいつの健康には良くないかもしれんな?ウェストンからブリッジウォーターまでの道路沿いには絞首台が置かれていてな、こいつも他の連中と同じに、そのうちの一つの世話になるのがいいかもな。カーク大佐はこいつら非国教徒の馬鹿どもに子々孫々の代まで教訓を与えてくださるだろう」

「君達は裁判もなしに絞首刑を行っているのか?どうやら私は間違っていたようだな。我々が今いるのはタンジールらしい、君の連隊がいた土地だ」

 大尉は激した目で彼を見つめた。彼はブラッドの乗馬靴の爪先からかつらの天辺までをじろじろと観察した。その無駄のない俊敏そうな体躯、尊大な落ち着きがうかがえる顔と、身に帯びた威信ある雰囲気に気づき、彼はブラッドが自分と同じく軍人であるのを悟った。大尉の目は細くなった。彼には思い当たる節があった。

「貴様、一体何者だ?」彼は詰問した。

「私の名はブラッドだ――ピーター・ブラッド、お見知り置きを」

「なるほど――なるほどな!そうだ!そういう名前だった。貴様、前にフランスに仕官していたな?」

 ブラッドが驚いたとしても顔には出さなかった。

「如何にも」

「覚えているぞ――五年かそこら前、貴様はタンジールにいたな」

「そうだ。私は貴君の連隊長を知っていた」

「だろうな、貴様は旧交を温められるかもしれんぞ」大尉は不快な笑い声を上げた。「何故ここにいた?」

「この怪我をした紳士の為だ。私は彼を治療する為に呼ばれたのだ。私は医者だ」

「医者だと――貴様が?」その嘘――と、彼は思った――に対する嘲りから空威張りは激しくなった。

「メディシナエ・バカラウレウス(ラテン語で『医学士』)」ブラッドは言った。

「フランス語でまくしたてるな、まったく」と、ホバート大尉がさえぎった。「英語で話すんだ!」

 ブラッドの微笑は彼を苛立たせた。

「私はブリッジウォーターの町で開業している医者だ」

 大尉は冷笑した。「それが庶子公爵の腰巾着の為に、ライム・リージスを通ってここまできたと」

 今度はブラッドが冷笑する番であった。「もし声の大きさと知力の高さが比例していれば、親愛なる大尉、君も今頃さぞ重要人物になっていただろうにな」

 一瞬、大尉は絶句した。彼の顔は真紅に染まった。

「貴様は首を吊られてしかるべき重罪人かもしれんな」

「なるほど、確かに貴君は如何にも絞首刑執行人らしい容貌と作法を備えているな。だが君がここで私の患者相手に君の天職を実践しようすれば、君は自分の首にロープをかける事になるかもしれんぞ。この方は君が首を吊るせる類の人ではないし、尋問が許される人でもない。この方は裁判を受ける権利があるし、その審理を行う権利があるのは、彼と同じ階級の方々だ」

「彼と、同じ、階級?」

 大尉はブラッドが強調した三つの言葉によって、あっけにとられた。

「無論、誰であれ余程の愚か者か野蛮人以外の者ならば、絞首台行きを命じる前に彼の名を尋ねただろうがな。こちらの紳士はギルドイ卿だ」

 そして卿自身が、弱々しい声で語り出した。

「私はモンマス公爵と自分の関係を隠すつもりはない。私は己の行動の結果から逃げるつもりはない。しかし、かなうならば、それは裁判を――私と同じ階級の者による審議を受けてからにしたいのだ。この医者が言ったように」

 弱々しい声は途絶え、後には沈黙が続いた。大概の空威張り屋と同じく、ホバート大尉も実際は相当な小心者であった。貴族階級である事を告げられて、彼は内心動揺していた。卑屈な成り上がり者である彼は称号に対し畏怖心を抱いていた。そして彼は、自分の連隊長に対しても畏怖心を抱いていた。パーシー・カーク大佐は粗忽者に対して甘くはなかった。

 身振りによって彼は部下達を制止した。そうせざるを得なかった。彼の逡巡を見て取ったブラッドは、大尉の考慮すべき事柄を指摘する為に更に付け加えた。

「貴君も知っているだろう、大尉。ギルドイ卿には、もし卿が市井の罪人のような扱いを受けたならば、カーク大佐に物申すようなトーリー党3側の御友人や御親類がある事を。慎重に行動したまえ、大尉。さもなくば私が言ったように、貴君は明朝には自分の首を吊る為の縄をなう事になるぞ」

 ホバート大尉は虚勢による侮蔑の言葉を返したが、とはいえその行動は警告に従ったものだった。「長椅子を持ち上げろ」彼は言った。「その上に寝かせたままブリッジウォーターに運ぶんだ。処遇が決定されるまで、拘置所に入れておけ」

「卿は長旅に耐えられないかもしれない」ブラッドが抗議した。「動かしていい容態ではないんだ」

「お生憎あいにく様。私の任務は謀反人の捕縛なんだ」彼は身振りで命令の駄目押しをした。二人の部下は長椅子を持ち上げると、それを運び出す為に揺すぶった。

 ギルドイ卿はブラッドに向かって弱々しく腕を伸べようとした。「先生」彼は言った。「借りができてしまいましたね。もし私が生き延びる事ができたならば、きっとお返ししましょう」

 ブラッドはその答の代りに一礼し、それから兵士達に「慎重に運ぶんだ」と命じた。「卿の御命がかかっているんだぞ」

 貴人が運び出された途端、大尉はにわかに勇み立った。彼は農場主ヨーマンを責め立てた。

「他にはどんな呪われた謀反人を隠している?」

「誰もおりません。卿は…」

「さしあたって、卿については対応済みだ。この家の捜索が終わったら、すぐに貴様の相手をしてやる。もし貴様が嘘をついたのなら……」彼は命令をがなり立てる為に言葉を切った。部下の竜騎兵四名が外に出た。しばし後、隣の部屋で彼等が騒々しく動き回る物音が聞こえた。その一方で、大尉はピストルの台じりで羽目板を叩きながら広間を探索していた。

 ブラッドは長居した処で益はないと判断した。

「よろしければ、ごきげんようを言って和やかに去りたいのだが」彼は乞うた。

「よろしくないな、ここを離れるなよ」大尉は彼に命じた。

 ブラッドは肩をすくめると腰を下ろした。「うんざりさせてくれるね」彼は言った。「君の連隊長もよく我慢できるものだ」

 しかし大尉は取り合わなかった。彼は小さな一束の樫の葉がピンで留められた、埃まみれの汚い帽子を拾い上げる為に身を屈めた。それは不運なピットが隠れている洋服箪笥の近くに落ちていた。大尉は意地の悪い微笑を浮かべた。彼の視線は部屋を隈なく見渡した後、小馬鹿にしたようにまずは農場主に、次はその背後に隠れた二人に、そして最後に、内心とは裏腹の無関心な素振りで足を組み座っているブラッドに向けられた。

 それから大尉は洋服箪笥の方に踏み出し、そのどっしりしたオーク材の扉の片翼を引き開けた。彼は中で縮こまっていた男の上衣ダブレットの衿を掴んで、力任せに引きずり出した。

「こいつは一体何者だ?」彼は問うた。「もう一人の貴族か?」

 ブラッドの脳裏には、先程この大尉が話した絞首台が描かれていた。そしてその絞首台の一つを飾るのは、ホバート大尉が逃した別の犠牲者の代わりに、裁判なしで絞首刑にされた不運な若い航海士の姿であった。即座に彼はこの若者の爵位のみならず、一族まるごとをでっち上げた。

「左様、おっしゃる通りだ、大尉。こちらはピット子爵、君の連隊長の妹であり、かつてはジェームズ陛下の王妃に侍女として仕えていた尻軽女のモル・カーク4を妻にしている、トーマス・ヴァーノン男爵の従弟にあらせられる」

 大尉もその捕虜も同じく息を呑んだ。だが次にピット青年が慎重に平静を装ったのに対し、大尉の方は口汚い罵りを吐いた。ホバートは再び自分の捕虜をじろじろと見つめた。

「奴は嘘をついているな?」彼は若者の肩を掴み、その顔をにらみつけて詰問した。「でたらめに決まっている、神かけて!」

「君がそう信じるのなら」とブラッドは告げた。「彼の首を吊って、その後で我が身に何が起こるか確かめてみるといい」

 大尉は医者、次に自分の捕虜に狷介な視線を向けた。「くそっ!」彼は若者を部下達に突き出した。「ブリッジウォーターに連れて行け。こいつを拘束しろ」彼はベインズを指差して言った。「そいつには謀反人を匿えばどういう事になるか教えてやらねばならん」

 しばし混乱があった。ベインズは騎兵達の拘束する腕の中でもがき、猛烈に抵抗した。怯えた女達は金切り声を上げ続け、それは更に著しい恐怖によって声を失うまで続いた。大尉は彼等に向かって大股で歩いていった。彼はその少女の両肩を掴んだ。金色の髪をした愛らしい娘は、その優しげな青い瞳で懇願するように哀れっぽく竜騎兵の顔を見上げた。彼は厭らしい視線を返すと、両目をぎらつかせ、片手で少女の顎を掴み、残忍な接吻で彼女を身震いさせた。

「こいつはほんの手付てつけだ」彼は不気味な微笑と共にそう言った。「大人しくしておいで、謀反人ちゃん、この悪党どもの始末をつけるまでな」

 それから卒倒寸前に怯えさせた少女を苦悩に苛まれた母親の腕に残し、彼は再び勢いよく身をひるがえした。彼の部下達は二人の虜囚を手早く拘束し、にやにや笑いを浮かべながら命令を待っていた。

「そいつらを連れて行け。ラッパ兵に世話を任せろ」彼のくすぶった目は再び、怯えた少女の姿に向けられた。「私はしばらく滞在するぞ――ここを探索する為にな。ここには未だ、他の謀反人が隠れているかもしれん」思い出したように彼は付け加えた。「それと、こいつを連れて行け」彼はブラッドを指し示した。「さっさとしろ!」

 ブラッドは思案していた。彼は診察道具のケースに入っている、ホバート大尉に対して有益なオペを行なえそうな両刃メスランセットの事を考えていたのである。有益、というのは、人類にとっての益という意味であるが。いずれにせよ、この竜騎兵は見るからに多血性であり、瀉血が必要だ。問題はそのチャンスを如何に作り出すかにあった。隠し金か何かの作り話で大尉の気をそらせないだろうか、時ならぬ小休止で得た限られた時間に彼はそのように考えた。

 彼は時間稼ぎに努めた。

「確かに私にとっては渡りに船だな」彼は言った。「ブリッジウォーターは私の行き先なのだから、君達に連行されなくとも、どの道自分で行くはずだった」

「貴様の行き先は拘置所だ」

「ああ、まったく!冗談はやめてくれたまえ!」

「それとも絞首台に直行する方がいいか。遅かれ早かれ世話になるんだしな」

 乱暴な腕がブラッドを掴み、そして頼みの綱の両刃メスランセットは手の届かないテーブル上に置かれたケースの中だった。強く敏捷な彼は竜騎兵の腕をねじり上げたが、しかし兵達はすぐさま再び彼を締め上げ押し倒した。彼を地面に押さえつけると兵達はその手首を後ろ手に縛り、乱暴に引っ張りあげて再び無理矢理に立たせた。

「連行しろ」ホバート大尉が命じ、待機していた他の騎兵達に指示を出す為に振り返った。「この家を捜索しろ。屋根裏から地下室まで全てだ」

 兵士達は室内に通じるドアから出て行った。ブラッドは竜騎兵の手でピットとベインズの待つ中庭に押し出された。広間の入り口からホバート大尉を振り返り、彼はそのサファイアの瞳を燃え上がらせた。ブラッドの唇は、彼がこの苦境から生き延びる事ができた時にホバートに何をしてやるかを告げる脅し文句で震えた。幸いにも彼は、それを口に出せば自分が生き延びる機会を失うであろう事を思い出した。現在、国王軍は西国を支配しており、西国は勝者によって戦争の最悪の惨禍を受けるべき敵国と見なされていた。この情勢下においては、一介の騎兵も生死を司る神に等しかった。

 果樹園の林檎の木の下で、ブラッドと不運な彼の仲間達は、それぞれ騎兵達の鐙革にきつく結ばれた。それから進軍ラッパの鋭い号令により小隊はブリッジウォーターに向けて出発した。彼等が歩み出してから、この地は竜騎兵達に征服された敵国なのだというブラッドの忌まわしい憶説には完全なる確証が与えられた。打ち壊され投げ捨てられた家具の木材が割れる音がし、粗野な男達の怒声と笑声が聞こえた。それは、この謀反人の捜索が、略奪と破壊の口実以上の何ものでもないのだと告げているようであった。最後に全ての物音を圧し、痛切な苦しみによる、かん高い女の叫び声が聞こえた。

 ベインズは歩みを止め、もがきつつ、血の気が失せた顔を振り向かせた。その結果、鐙革に結ばれたロープに足をとられた彼は、騎兵が手綱を引き、口汚く悪態を吐いて剣の平で彼を打ちすえる前に、1、2ヤードを成す術もなく引きずられる事となった。

 香気に満ちた芳しい七月の朝、たわわに実った林檎の樹の下を足を引きずるようにして歩いていたブラッドに、その思いはもたらされた。人類とは――彼が長い間そう疑っていた通り――神の手になる作品のうち、最も下劣な存在であると。絶滅すべき最悪の種の治療を己の職と定めるのは、愚か者だけであろうと。


  1. もしくはタンジェ。モロッコ北部にある都市。1662年のチャールズ世とポルトガル王女カタリナとの結婚により一時的に英国領になっていたが、アラウィー朝モロッコとの戦いの末に1682年に放棄された。タンジール市を守る駐屯部隊として派遣されていたロイヤル竜騎兵連隊は本国に帰還し、モンマスの乱勃発の際にはその鎮圧にあたった。 

  2. パーシー・カーク大佐(1646年 1691年)
    1680年に第二タンジール連隊隊長を務め、1682年にはタンジール連隊隊長兼イングランド領タンジール総督に就任し、現地での専横な振舞いにより悪名を残している。本国に帰還後も、セッジムーアの戦いの残党狩りにおいて千人以上の敗残兵を裁判を待たずに殺害する等の非道を行った。 

  3. ヨーク公ジェームズ即位賛成派をトーリー党と呼び、現代イギリス政界における保守党の源流となっている。対立勢力であるヨーク公即位反対派のホイッグ党は自由党の源流。 

  4. モル・カークはパーシー・カーク大佐の妹。ホワイトホール宮殿の侍従でチャールズ世の寝室担当だったジョージ・カークの娘であり、彼女自身もヨーク公ジェームズ妃の侍女を務めていたが、ヨーク公、モンマス公、マルグレイヴ伯爵らと次々と関係を持つ極めて身持ちの悪い女性だった。 

三 裁判長閣下

 それからピーター・ブラッドが大逆罪の罪状で裁判にかけられるまで二ヶ月足らず――正確な日付を記せば、それは9月19日の事であった。この罪状について彼が無実であったのは今まで記してきた通りだが、しかし起訴された時点での彼が謀反を働きかねない状態であった事に疑いの余地はない。この二ヶ月間の非人間的で言語に絶する投獄生活は、既に彼の心をジェームズ王とその臣下達に対する冷たく激しい憎悪に変えていた。このような状況にあっても尚、彼が未だ完全に意志を保っていたという事実は、彼の持つ不屈の精神を示すものと言えるかもしれない。この完全に潔白な男にとっては悲惨以外の何ものでもない境遇ではあるのだが、彼には幸いとして勘定に入れるべき事が二つあった。一つ目は、彼が裁判にかけられたという事自体。二つ目は、彼の裁判がその前日ではなく、その日に行なわれた事である。彼を憤激させた、その一日の遅れの中にこそ――彼には知る由もないのだが――彼にとって絞首台をまぬがれる唯一のチャンスが存在していたのであった。

 運命の女神の好意がなければ、戦いの翌日に、満員になったブリッジウォーターの拘置所から囚人を半数に減らそうという意図により無作為に選び出され、血に飢えたカーク大佐によって市場で即座に首を吊られた者達の中に彼が加わっていた可能性は大であった。このタンジール連隊の大佐は同様のやり口で全ての囚人を処分しようとしており、そのような戦地臨時軍法会議に対してミューズ司教1が強硬な介入によって歯止めをかけていなければ、捕虜の大部分が虐殺されていたかもしれない。

 それでも尚、セッジムーアの戦いの一週後には、カークとフェバーシャムは全く裁判の体をなさない略式裁判の後に百人を超える捕虜を処刑しようと企んでいた。街道に設置された絞首台に囚人達を運ぶ為には、何台もの護送車が必要とされた。彼等は自分達が如何なるやり口でその囚人達を捕縛したのかも、自分達が如何に多くの罪なき生命を奪ったかも意に介してはいなかった。とどのつまり、うすのろどもの命なぞに何の意味があるというのか?死刑執行人はロープと斧と、死体に塗るタール2を煮る大鍋の扱いで大わらわだった。その吐気を催すような細部の描写は割愛しよう。我々の関心は結局の処、モンマスの叛徒達よりもピーター・ブラッドの運命にあるのだから。

 処刑をまぬがれた彼は囚人の陰鬱な集団に加えられ、二人一組で鎖につながれて、ブリッジウォーターからトーントンまでを行進させられた。歩いて進むにはあまりにも酷い傷を負った者達は、おそろしく混み合った荷車で運ばれたものの、彼等は包帯もされずに怪我が化膿するに任せられていた。多くの者は幸運にも途上で死亡した。この苦しみをいくらか和らげる為に医術を用いる権利をブラッドが迫った際、彼は煩いという理由により鞭で脅された。仮に今、彼に後悔する事があるとしたら、それは彼が実際にはモンマスに与していなかったという事であった。それは無論、非論理的であった。しかし彼のような境遇の男に論理性を期待するのは、無理な相談というものだ。

 その惨い行進におけるブラッドの鎖仲間は、現在彼が落とされている不幸の周旋人というべきジェレミー・ピットであった。この若い航海士は同時逮捕後に彼の囚人仲間となっていた。それ故に、偶然にも彼等はぎゅう詰めの刑務所内で鎖によってつながれ、暑さと悪臭で窒息しそうになりながら、七月、八月、九月と日々を共に過ごした。

 ニュースの断片は外界から拘置所の中にも漏れてきた。そのうちのいくつかは、慎重に真偽を検討しなければならぬ類のものであった。モンマス公の死に関する話がそれにあたる。それは公爵の為に、そして彼が支持者達に公言していた信仰上の主張の為に罰せられている人々の間に、最も甚だしい狼狽を引き起こした。多くの者が、そのニュースを信じる事を頭から拒絶した。モンマスに似た男が公爵の身代わりとなって自首をし、本物のモンマスはシオンの再興3をもたらさんとしてバビロンと戦う為に生き延びた、などという荒唐無稽な物語が既に広がり始めていた。

 ブラッドはモンマスの訃報を聞いた時と同様の無関心で、その物語を聞き流した。だが、これに関連して耳にした恥ずべき事柄については到底無関心ではおられず、その報は彼がジェームズ王に対して抱きつつあった軽蔑を助長するのに役立った。国王陛下はモンマスとの会見に同意していた。王にモンマスを許すつもりがなかったとすれば、これは思想信条に関わらず、実に酷い、そして忌まわしいものであった。何故ならその会見を行うについて他の目的があったとすれば、それは不運な甥が惨めに許しを請うのをはねつける事で得る、邪悪で狭量な満足より他にはないのだから。

 後日、彼等はモンマス公の後に――実際には、前に、であると思われるが――叛乱勢力のリーダーとなったグレイ男爵4の消息を聞いた。彼は既に四万ポンドで自身の恩赦を購っていた。ピーター・ブラッドにとって、これが最後の1ピースとなった。遂に彼はジェームズ国王に対する軽蔑をあらわにした。

「ほう、この国の王座に座っているのは随分と卑劣で汚い人物らしいな。もっと前から彼についてこれくらい詳しく知っていたら、私が今ここにいる理由も事実無根ではなかったかもしれないな」それから彼はふと思い出し「そう言えば、ギルドイ卿はどこにいると思う?」と尋ねた。

 話し掛けられたピット青年は、何ヶ月もの拘禁生活の間に船乗りらしい濃い日焼けがすっかり薄れた顔を彼に向けた。彼の灰色の目は丸くなり、もの問いたげであった。ブラッドは彼に答えた。

「無論、オグルソープの農場でのあの日から、一度も卿を見ていない。で、連行された他の貴人達はどこにいる?――この忌々しい叛乱の真の主導者達は。グレイの一件は彼等の不在の説明になる、私はそう思う。彼等は身代金を支払って己自身を釈放できるだけの富豪だ。ここで絞首刑を待っているのは、その貴人達に従った哀れな者達だけ、彼等を導いた功のある者達は自由放免だ。好奇心をそそられる上に、啓蒙的でもある常道の逆転だな。全くもって当てにならない世の中だ!」

 そう言って笑った後、彼は怒りを含んだ軽蔑という精神状態に落ち着き、そして裁判を受ける為にトーントン城の大広間に足を踏み入れた時、彼はその思いに浸り込んでいたのである。彼と共にピットと農場主ヨーマンのベインズが召喚された。彼等三人は一緒に裁かれる予定であり、そして彼等の事件は、その凄惨な日に行われる裁判の皮切りとなるはずであった。

 その広間では、傍聴席――その大部分が婦人で占められる野次馬により混雑していた――にまで緋色の布が掛けられていた。至極自然に、流血を求める自らの心を反映する色を選んだ首席判事の愉快な計らいの結果が、これであった。

 演壇の上端は、緋色のローブと分厚く黒いかつらを着けた、中央裁判所から派遣されてきた国王直属の裁判官5五名が占めており、その中央に座っているのが、ヴェム男爵ジェフリーズ6であった。

 囚人は監視の下で列をなして入ってきた。触れ役が、違反した者は投獄の罰に処すると言い渡した上で沈黙を要求し、そしてざわめきが次第に静まった時、ブラッドは興味をもって陪審を構成する十二人の善良なる男達を見つめた。彼等は善にも良にも見えなかった。彼等は怖れ、不安げであり、隣人のポケットに手を入れて捕えられた泥棒と変わらぬ惨めさであった。彼等は十二人の動揺した男であり、それぞれが皆、この処の首席判事が振るう血に飢えた裁きの剣と、己が良心の壁との間で板ばさみになっていた。

 ブラッドの落ち着いた慎重な視線は彼等の上を通り過ぎて裁判官達へと移り、別して裁判長を注視した。ジェフリーズ裁判長の悪名は、本人の到着に先んじてドーチェスターから届いていた。

 ブラッドは、繊細な美貌を備えた楕円形の顔をした、長身で痩せた四十手前の男を眺めた。眠たげな目の下には、その目の輝きと貴族的な物憂さを強調するような、病か不眠による黒いくまがあった。顔は非常に青白く、厚い唇と、やや高いが目立つほどではない頬骨上の紅潮がより色鮮やかに見えた。その顔の完璧さを幾分損なっていたのは、唇であった。その鼻孔の繊細さ、黒く涼やかな目の柔和さ、青白い額の気高い落ち着きと矛盾する、とらえ難いが否定し難い欠陥がそこに潜んでいた。

 医者としてのブラッドは裁判長閣下を格別の興味を持って考察し、彼が著しい苦しみの伴う病に蝕まれている事、にもかかわらず、驚くほどに乱れ、堕落した生活を送っている事――恐らくはそれが病の原因である事を洞察した。

「ピーター・ブラッド、挙手せよ!」

 出し抜けに、彼は罪状の認否を問う耳障りな声によって自分の立場に引き戻された。彼の服従は機械的なものであり、そして判事補佐はピーター・ブラッドを、最も輝かしく最も優れたる君主ジェームズ世、神の恩寵によりてイングランド、スコットランド、フランス及びアイルランドの王に定められた、最高位にして生まれながらの主君に対する不実なる叛逆者であると宣告する無闇に長い訴状を単調に読み上げ続けた。それによれば、彼の心には神に対する恐れはなく、代わりに悪魔の扇動に駆り立てられ誘惑され、愛と真実、そして主君たる国王に帰すべき当然至極の忠順を失い、王国の平和と平穏を乱して戦争を起こそうとし、主君たる国王をその地位、名誉、帝国の頂点たる称号から退ける為に謀反を起こしたのであり――そして同様の夥しい罪状が全て読み上げられると、その最後に彼は有罪ギルティ無罪ノットギルティかを申告するよう求められた。彼は尋ねられた以上の事を答えた。

「私は完全に潔白イノセントだ」

 彼の右手前でテーブルを前にしていた尖った顔の小男が跳び上がった。それは判事補佐のポレックスフェン氏7であった。

「被告人は有罪か無罪かギルティ・オア・ノットギルティ?」この短気な紳士は厳しい口調で問うた。「どちらかを言葉通りに答えよ」

「言葉通りに、ね?」ピーター・ブラッドは言った。「では――無罪ノットギルティ」次に彼は判事席に向かい、自ら演説した。「言葉通りであるかという問題について、畏れながら裁判長閣下に申し上げるが、先程読み上げられた私を評する言葉の中には私が犯したとして弁明せねばならぬようなギルティは一切ない。健康はおろか生命にすら甚大な危険を及ぼす悪臭を放つ拘置所に、二ヶ月以上の拘禁を強いられた程度の事を我慢できぬという忍耐の美徳を欠く罪を除けばの話だが」

 彼は更に論じようとしたが、しかしこの時点で裁判長閣下が穏やかに、幾分悲しげな声で異議を差し挟んだ。

「よいかな。我々は一般的かつ通常通りの裁判を執り行わねばならぬ故、被告人の言をさえぎらねばならぬ。恐らく被告人は裁判の形式について無知なのであろうな?」

「単に無知であるのみにとどまらず、閣下、これまで無知でいる事に大変満足していた。私は幸いにも、そのような知識とは無縁のままに過ごしてきたのだ」

 かすかな微笑が、ほんの一瞬、思いに沈んだ表情を照らした。

「信じよう。被告人答弁の段階で、被告人の主張は全て聞かれるであろう。しかし被告人の今の発言は形式に則っておらず、妥当ではない」

 その表面的な同情と思い遣りにうながされたブラッドは、それから後は要求された通りに、自分は神とその王国によって裁かれるであろうと答えた。判事補佐はそれに続けて、彼に良き救けをくださるようにと神に祈り、アンドリュー・ベインズに挙手して答弁を行うよう要求した。

 無罪を主張したベインズの次に、判事補佐はピットに確認を求めたが、大胆にもピットは己の有罪を認めた。裁判長はそれを受けて意気込んだ。

「うむ。よきかな」彼はそう言い、四人の緋色の同僚は頷いた。「もし皆がこの被告人の仲間である二名の謀反人と同様に頑固であったら、彼等の裁きはいつまでも終わらぬであろう」

 非人間的な冷たさで差し挾まれ、法廷中を震えあがらせたその不吉な言葉に続いて、ポレックスフェン氏は立ち上がった。おそろしく冗長に三人の男に共通の罪状を読み上げてから、彼は最初に起訴される予定となっているピーター・ブラッドのみに適用される罪状を述べた。

 国王側証人として召喚された唯一の目撃者は、ホバート大尉であった。彼は自分がギルドイ卿とこの三人の被告人を発見し捕縛した顛末をきびきびと証言した。連隊長の命令に従って即座にピットの首を吊るはずだったが、しかしピットが貴族階級であり配慮の必要な人物であると信じるように仕向けたブラッド被告の嘘により、抑止されたのだと。

 大尉が証言を終えた時、ジェフリーズ男爵は横目でピーター・ブラッドを見た。

「被告人ブラッドは、証人に質問があるか?」

「否、閣下。彼は何が起こったかを正確に話した」

「被告人のような輩の常である言い逃れをせず、自ら罪を認めるのは喜ばしい事だ。そして私は、かように告げよう。法廷において、言い逃れには何の益もない。何故ならば我々は常に、最終的には真実を手にするのであるから。必ずやだ」

 ベインズとピットが同じく大尉の証言の正確さを認めると、緋をまとった裁判長閣下は安堵の溜息を漏らした。

「これで我々は大いにはかどる。神の御名において、我々には成すべき事が数多くあるのだからな」彼の声音にはもはや、寛大さは跡形もなかった。情の感じられない、きしむような声であり、それを発する唇は蔑みに歪んでいた。「ミスター・ポレックスフェン、この三名の悪徒の邪なる叛逆の罪は――当人が公の場でその罪を認めた事により――立証され、これ以上の審議は不要である」

 ピーター・ブラッドの声は歯切れよく響きわたり、その声音には半ば笑いが含まれているように思われた。

「畏れながら裁判長閣下に申し上げる、しかしながら、審議するべき事は未だ残っている」

 彼に目を向けた裁判長閣下はその図太さにあっけにとられ、それから次第にうっすらと怒りの表情を浮かべた。緋色の唇が苦々しげになり、その無慈悲な線は表情全体を変貌させた。

「この期に及んで如何にするつもりだ、悪徒よ?無駄な言い逃れで我々の時間を浪費するつもりか?」

「私には閣下が先程お約束くださったように、陪審員諸君にお聞かせすべき被告人答弁における主張がある」

「ほう、では申すがよい、悪党め。申すがよい」裁判長閣下の声はやすりのようにざらついていた。話しながら彼は身をよじり、一瞬、その容貌が歪んだ。青い静脈が浮いた繊細な青白い手で、彼はハンカチーフを唇に、次に額に当てた。ピーター・ブラッドは医者の目で観察し、男爵を破壊しつつある病の痛みが彼を苛んでいると判断した。「では申すがよい。しかしあの自白の後に、一体何の被告人答弁が残されているというのだ?」

「御自身で審判なされよ、閣下」

「私がここに座っているのは、その為にだ」

「そして貴方達もそうするべきだ、紳士諸君」ブラッドは判事達から陪審員達へと視線をめぐらした。後者は彼の青い瞳の自信に満ちたひらめきを受けて落ち着かなげになった。ジェフリーズ男爵による嗜虐的な陪審員説示は、既に彼等の意気をくじいていた。彼等自身が叛逆罪で起訴された被告人だとすれば、男爵は既にこれ以上はないというほどの苛烈さで彼等を責め立てていたのである。

 ピーター・ブラッドは、不敵に、図太く、背筋を伸ばし、沈着に、そしてむっつりと立っていた。彼は綺麗に髭をそり、そしてカールは落ちていたものの慎重に梳いたかつらを着けていた。

「ホバート大尉は彼の知る処を――彼がウェストンでの戦闘後、月曜の朝にオグルソープの農場で私を発見した事を証言した。しかし彼は、私がそこで何をしていたかについては話さなかった」

 再び裁判長は口を挟んだ。「ほう、被告人は一体、謀反人一味と共に何をしていたというのだ、そのうちの二名――ギルドイ卿と、ここにいるもう一名――は既に自らの罪を認めているのだぞ?」

「それが、私が閣下に発言の許可を求めている事だ」

「何なりと申すがよかろう。そして主の御名において、願わくば手短に。やれやれ。被告人のような叛逆者の犬どもめの発言権の事で一々煩わされていたら、私は春期の巡回裁判までここに座り続けねばならぬだろうからな」

「裁判長閣下、私は私の職業である医者として、ギルドイ卿の傷を治療する為にそこにいたのだ」

「何だと?被告人は我々に、自分が医者であると主張しているのか?」

「ダブリンのトリニティー・カレッジの卒業生だ」

「これは驚いた!」ジェフリーズ男爵は突然声を高め、陪審席に視線を送りつつ叫んだ。「なんと厚かましい悪党もいたものだ!目撃者は数年前にタンジールで被告人を見知っており、被告人がフランス軍所属の士官であったと証言した。陪審員諸君は、この被告人が証人の発言は真実であると認めた言葉を既に聞いたであろう?」

「そう、彼はそう証言した。だがしかし、私が話しているのは同じく真実だ。それはこういう次第だ。数年の間、私は軍人であった。しかしそれ以前の私は医者であり、そして私は昨年の一月から再び医者に戻り、ブリッジウォーターで開業したのだ。それについては百人の目撃者を連れてきて証言させる事も可能だ」

「そのような事で我々の時間を浪費する必要はない。被告人は、その卑しい口によって自らに有罪を宜告した。私が被告人に尋ねるのは只一つ、ブリッジウォーターの町で平穏に医者として暮らしているはずの者が、一体どのような次第でモンマス公爵の軍と共にいたのだ?」

「私はモンマス軍とは無関係だったのだ。証人はその点を供述しなかったが、私は証人が言わぬであろう事をあえて宣誓証言する。私はあの謀反には一切与してはいない。私はあの暴挙を邪悪な狂気と見なしていた。私は閣下に尋ねたい」(彼のアイルランド訛りは一層強調された)「旧教徒パピストとして生まれ育った私が、新教徒プロテスタントの擁護者の軍で何をしていたというのか?」

「汝が旧教徒パピストであると?」裁判長は一瞬、表情を曇らせた。「むしろ女々しい長老教会派信徒ジャック・プレスビテル8のように見えるがな。よいか、私はな、長老教会派プレスビテリアンの臭いならば40マイル先からでもわかるのだ」

「では、閣下がその鋭い鼻をもってしても四歩先の旧教徒パピストの臭いを嗅ぎわけられぬとは、唯々驚愕するばかり」

 傍聴席に笑いのさざ波が起きたが、裁判長の凄まじいひとにらみと廷吏の声によって直ちに鎮められた。

 ジェフリーズ男爵は机上へ更に身を乗り出した。彼はハンカチーフをきつく握ったまま、レースの泡から生えたように繊細な白い手を上げた。

「差し当たり、汝の信仰については置くとしよう」彼は言った。「だが、心せよ」威嚇するような人差し指が彼の言葉の拍子をとった。「覚えておくがいい、偽りを述べる事が許されているなどと説く信仰はない。汝は貴重な不滅の魂を持ち、それと等しい価値を有するものはこの世の何処にもない。天地の主たる偉大なる神を思うのだ、汝と我々と全ての人々が最後の日にどなたに裁かれるのかを。汝は全ての偽りの報いを受けるであろう、そして永遠の炎の中で正義の一撃が汝を打ち、汝が全ての真実を包み隠さず話し、そして真実以外の何も話さぬと申し出ぬ限り、汝は地獄の業火の中に落とされるであろう。汝にその理由を告げよう、それは神は偽かれぬからだ9。その上で、私は被告人に正直に答えるように命じる。どのような次第で、この叛逆者達と行動を共にした?」

 ピーター・ブラッドは驚きのあまり、一瞬、呆然と彼を見つめた。この男は信じ難くも現実離れした、誇大妄想的な悪夢の裁判官だった。それから彼は返答の為に己を取り戻した。

「その朝、私はギルドイ卿を救護する目的で呼び出され、それに応じる事が己に課された職業上の義務であると考えた」

「それで、応じたと?」裁判長は、今や恐ろしい様相――その顔は白く、その歪んだ唇は彼が求めてやまぬ血のように赤かった――で、邪悪な嘲りを込めてブラッドをにらみつけた。それから自制をしたが、それにはいささかの努力を要した様子であった。彼は溜息をついた。裁判長は穏やかで物悲しい調子に立ち戻った。「主よ!何たる時間の浪費か。だが私は忍耐し、被告人に付き合おう。被告人を呼び出したのは何者か?」

「ピットだ、彼が証言するだろう」

「ほう!ピットが証言すると――自身が叛逆者であると自白したピットがな。その目撃者は?」

「同じく、ここにいるベインズが答えるだろう」

「善良なるベインズは、何よりもまず、自分自身の為に供述せねばならぬであろう。彼が己の首を絞首刑から救うのは大変な難事であろうが。いい加減にせよ。被告人の目撃者は彼等のみか?」

「あの朝、私がピットの馬の後ろに乗るのを見たブリッジウォーターの住民達を連れてくる事もできる」

 ジェフリーズ男爵は微笑した。「それは必要なかろう。よいか、私はこれ以上の時間を浪費するつもりはない。ただこの問いに答えよ。被告人があくまでも言い立てる通りにピットが被告人を呼ぶ為にやってきたとして、その時、ピットの自白によって確認されたように、彼がモンマスの支持者であった事を承知していたか?」

「私は承知していた」

「被告人は承知の上と!ほう!」ジェフリーズ男爵はすくみ上がっている陪審に目をやると、短い、突き刺すような笑いを発した。「それにもかかわらず、被告人は彼に同行したと?」

「負傷したひとりの人間を救護する為に、己の神聖なる義務としてだ」

「汝の神聖なる義務、そう申すか?」突如として再び彼の憤激が燃え上がった。「神よ!まむしすえ10のはびこる世である事よ!汝の神聖なる義務とはな、悪漢よ、それは汝の王と神に対するものだ。だがそれは置こう。被告人の救けを必要としている者が誰であるか、彼は明かしたか?」

「ギルドイ卿と――そう言った」

「そして被告人は、ギルドイ卿が負った傷は戦いによるものである事を、そして彼がどちらの側で戦ったかをも承知していたか?」

「知っていた」

「そして被告人は、自らが国王陛下の正真にして忠実なる臣民であるかのように主張するにもかかわらず、彼を救護する為に向かったのか?」

 ピーター・ブラッドは一瞬、自制を失った。「私の務めは、閣下、彼の政治信条に対してではなく、彼の傷に対するものだ」

 傍聴人席から、そして陪審席からも、彼に賛同するざわめきが起こった。それは恐ろしい裁判官を余計に激怒させたに過ぎなかった。

「イエスよ!この世に汝ほど恥を知らぬ悪党がいるであろうか?」彼は白い顔を勢いよくめぐらせて陪審席に向けた。「陪審の紳士諸君、願わくば、この叛逆者である悪徒の恐るべき態度を心に留め、そして同時に、この種の者達の精神が如何に邪悪にして非道なるものであるかを感得していただきたい。被告人は己の口から、十二回の絞首刑を宣告されるに値する証言を行った。その上に、尚も追求すべき事がある。答えよ。もう一人の叛逆者ピットの身分に関する嘘によってホバート大尉を欺いた時、被告人は一体、何の権利があって干渉したのか?」

「裁判なしで彼が首を吊られる恐れがあった為、それを防ごうとしたのだ」

「彼のような悪党が首を吊られたとて、被告人に何の関わりがあるというのだ?」

「正義は全ての忠実なる臣民の関心事だ。何故ならば、王の信任を受けた者によって犯された不正義は、王の威厳をいささかなりと汚すからだ」

 それは陪審に向けられた鋭く痛烈な一撃であり、そしてそれは、筆者が思うに、この男の知性の鋭敏さ、大いなる危険が迫り来る瞬間にあっても揺らぐ事なき冷静さを示すものであった。相手がどのような陪審であろうとも、全ての者が彼の意図した通りの印象を受けたはずだ。それは、この哀れで臆病な羊達に対してすら有効であったかもしれない。しかし恐怖の裁判官ドレッド・ジャッジの存在がそれを打ち消した。

 彼は大きくあえぎ、それから乱暴に身を乗り出した。

「天上の主よ!」彼は激発した。「これほどまでに偽善的で厚顔な悪党が未だかつて存在したであろうか?だが逃しはしない。私には見えるぞ、悪党め、私には汝の首に縄が巻かれた姿が見えるのだ」

 そう語ると邪悪にほくそ笑み、彼は再び椅子に背を預けて落ち着きを取り戻した。それはさながら幕が下りたかのようであった。全ての感情が彼の青白い顔から再び消え去った。穏やかな憂愁が再び彼を覆った。一瞬の間を置いて語りだした彼の声は柔らかく、穏やかとすら言えるものであったが、それでも彼の発する一言一句は静かな法廷に鋭く響いた。

「私個人の感情について言えば、そもそも私は人を苦しめる事を楽しんだり、ましてや、その者が地獄で永遠の罰を受けるのを歓喜するような性質ではない。私がこのように言葉を尽くしたのは、被告人に対する深い思い遣りが故だ――被告人が自らの不滅の魂について懸念するようにうながし、頑強にも偽りと言い逃れに固執する事によって天罰が下されるのを確かにしてはならぬと悟らせる為であった。しかし被告人に対するあらゆる骨折りは尽くされ、慈悲と慈愛は尽き果てた。それ故に、私にはもはや被告人にかける言葉はない」再び彼は物思わしげな美貌を陪審に向けた。「紳士諸君、私は法の名において、一個人としてではなく、陪審員としての諸君等に告げねばならない。もしある者が国王陛下に対する謀反に加わっているとすれば、もう一人の者――実際には謀反そのものに加わっていない者――がそれを承知の上で彼を受け入れ、匿い、慰め、あるいは援助を与えた場合、そのような者は実際に武器を携えた者と何ら変わりない叛逆者である。我々は、如何なる法が適用されるべきかを諸君等に示すにあたって、我々の宣誓と良心とに拘束されている。そして諸君等は、諸君等の評決を答申し、事実により証明された真実を述べるにあたって、諸君等の宣誓と良心とに拘束されている」

 そのように告げた上で彼は説示に進み、第一に謀反人を匿った事実によって、第二にその傷を治療し謀反人を助けた事実によって、ベインズとブラッドが両者共に叛逆の罪を犯しているという概要を述べた。彼はそれに、正統なる君主にして正当なる統治者、神に定められし国王陛下に対するへつらうような言辞と、非国教徒及び――彼自身の言葉によれば――嫡出が継承権において優先される我が王国において、最も卑劣なる主張を厚顔にも行ったモンマスに対する罵詈雑言を織り交ぜて演説した。「イエスよ!このようなまむしすえが我等の間にはびこる事を許すべきであろうか」彼は突然、大仰な疑問形を用いて熱狂し大声を発した。それから自分の発揮した狂暴性によって消耗したかのように椅子の背に沈んだ。一瞬、彼は動きを止め、再び唇を押さえた。それから不快な様子で身じろぎをした。またしても彼は痛みに顔を歪ませ、何度かうなり声を上げ、ほとんどしどろもどろな言葉によって評決を検討する為に陪審員を下がらせた。

 ピーター・ブラッドは、その抑制を欠いた冒涜的な、品位なき罵りに等しい長広舌を、後に振り返れば我ながら驚くような超然とした態度で聞いていた。彼はその男に、その男の心と身体の間で起きている反応に、そして陪審を脅しつけ抑圧して流血を強制するやり口に呆然とし、自分の命が危機に瀕している事すら失念していたのであった。

 その判断力を奪われた陪審員達の不在は短いものだった。評決は、三名の被告人全員が有罪。ピーター・ブラッドは緋色に飾られた法廷を見回した。束の間、白い顔の泡沫が眼前をうねるように感じた。それから我に返った彼は、大逆罪で有罪となり宜告された死刑を免れる為に何か申し開きがあるかと尋ねる声を知覚した。

 彼は笑った。そして彼の笑いは法廷の死のごとき静寂の中で奇妙に耳障りに響いた。何もかもが、あまりにグロテスクだった。このような正義のまがい物が、物思わしげな目をして緋衣をまとった道化ジャック・プディングによって、彼自身がまがい物――残忍で陰湿な執念深い王の腐敗した手先――であるような男によって執り行なわれているとは。彼の笑いは、その道化ジャック・プディングの厳粛を揺るがす衝撃を与えた。

「笑うのか、下郎めが。貴様は首にロープをかけて、突として赴く事になった常世の入口に立っているのだぞ?」

 ブラッドは報復した。

「疑いなく、私の置かれた境遇は閣下のそれより笑うにふさわしいものだからな。何故ならば、私には閣下が判決を下す前に告げておくべき事がある。閣下の御目には、私――その唯一の罪は慈善を行ったという事だけの潔白な男――が首の周りにロープを巻いた男に見えているようだ。閣下、貴方は裁判長として、私の身にこれから起こる事をお話しになられた。私は医者として、閣下の御身にこれから起こるであろう事をお話ししよう。そして私は自分の境遇と閣下のそれとを交換するのは御免こうむると申し上げる――閣下が私の首に巻きつけた縄と、閣下が御自分の御体の中に入れている石とを交換するのは御免こうむると。閣下が私に運命づけた死は、首席判事であらせられる閣下が自らに運命づけた死に比べれば、陽気な別れの辞のようなものだ」

 灰色の顔をし、唇をひきつらせて、裁判長閣下は硬直したように座していた。そしてピーター・ブラッドが話を終えた後、十数えるほどの間、その麻痺した法廷には物音ひとつしなかった。ジェフリーズ男爵を知る全ての者が、これを嵐の前の静けさと見なして激発に備え身を引き締めた。しかし何も起こらなかった。

 ゆっくりと、かすかに、その灰色の顔に血色が戻っていった。緋をまとった身体は剛性を失い、前傾した。裁判長閣下は話し始めた。抑えられた声で、そして手短かに――このような場合における彼の常よりもはるかに手短かに、そして唇が語る間にも思いは別の処にあるような、完全に機械的な調子で――ピーター・ブラッドの発言については一切触れず、彼は形式通りに死罪を宣告した。それを宣告すると、彼は疲れ切った背を椅子に沈めた。彼は半ば目を閉じ、その額には汗が光っていた。

 囚人達は列をなして退出した。

 ポレックスフェン氏――この裁判の進行を担当する法曹という立場にありながらも、心底ではホイッグである人物――は陪審員の一人が同輩の法曹に耳打ちするのを聞いた。

「たまげたね、あの浅黒いならず者は閣下を脅えさせた。ああいう男が首を吊られねばならんとは残念だな。ジェフリーズを震え上がらせる事ができるような男なら、さぞ大物になっただろうに」


  1. ピーター・ミューズ(1619年 1706年)
    神学者、聖職者。クロムウェル時代も王党派としてスチュアート王家の為に活動し、王政復古後はオックスフォード大学長や各地の高位聖職を歴任する。モンマスの乱当時はウィンチェスター大司教。 

  2. 当時の英国では重罪人は処刑後に見せしめの為に死体を街道にさらされたのだが、その際にはコールタールを塗って腐敗防止処理をしていた。 

  3. 旧約聖書にある、ユダヤ人(シオンの子ら)のバビロン捕囚からの開放と神殿再建の故事より。 

  4. フォード・グレイ(1655年 1701年)
    第三代ヴェルケ男爵。ライハウス陰謀事件に関与しロンドン塔に幽閉されたが、脱出。その後モンマスの乱の指導者の一人となるが、敗走後は同志達を国王側に売って生き延びた上に1686年6月には地位も回復した。モンマスの乱当時は男爵だったが、ウィリアム王の治世中には国家の重職に就き、初代グレンデール子爵及び初代タンカービル伯爵の位を得た。 

  5. 巡回裁判は中央の国王裁判所から派遣された裁判官による臨時裁判であり、「王座裁判所」「民訴裁判所」「財務裁判所」及び上級法廷弁護士から選ばれた裁判官が地方を巡回する。 

  6. ヴェム男爵ジョージ・ジェフリーズ(1645年 1689年)
    通称「首吊り判事」。1683年に高等法院首席判事(最高裁判所長官に相当)となり、ライハウス陰謀事件や、カトリック陰謀事件沈静化後に行われたタイタス・オーツの偽証罪に関する裁判を担当した。
    ジェームズ世の即位後、モンマスの乱の戦後処理において、主犯・従犯を問わず、裁判の体を成さない裁判で夥しい人民を死罪や南洋送りに処した苛烈な「Bloody Assizes(血の巡回裁判)」によって英国史に名を留めている。彼自身はカトリックではない。1685年に大法官の地位に就くが、名誉革命により失脚、暴徒からの保護を求めて自らロンドン塔への拘留を希望し、獄中で死亡。死因は腎臓病。 

  7. ヘンリー・ポレックスフェン(1632年 1691年)
    イングランドの上級法廷弁護士、インナー・テンプル(法曹院)幹部員。カトリック陰謀事件ではダンビー伯の弁護人を担当し、様々な政治的重要事件において法律顧問を務めた。ジェームズ世の逃亡後、イングランドに上陸したオレンジ公ウィリアムが王位宣言する際に法的な裏付けを与えて貢献し、ナイト爵に叙された。英国の根本法「権利の章典」作成にも関わっている。 

  8. プロテスタントの一派であり、カルヴァンの理想に従い、司祭を置かず信徒の長老と牧師によって教会を運営する長老制をとる。 

  9. 新約聖書パウロ書簡ガラテヤ人への書より。「自ら欺くな、神は侮るべき者にあらず、人の播く所は、その刈る所とならん。」 

  10. 新約聖書マタイによる福音書23章より。「蛇よ、蝮の裔よ、汝等いかでゲヘナの刑罰を避け得んや。」 

四 奴隷市

 ポレックスフェン氏は正しくもあり、同時に間違ってもいた――大抵の人間が思い描くよりも、はるかにありふれた状況である。

  偏りのない明確な思索の下では、彼は正しかった。すなわち、その物腰と言葉によってジェフリーズのような恐怖の権化を怯ませる事ができる男には、その天与の器量に任せ、己自身を材料として大いなる運命を築き上げるのを可能にすべきであろうという考えである。固定観念の下では、彼は――理には適っているのだが――間違っていた。すなわち、ピーター・ブラッドは絞首刑に処さねばならぬという前提である。

 既に記したが、オグルソープ農園への救難行の結果として彼に訪れた苦難には――未だ彼はそれを認知してはいなかったろうが――二つの幸運が含まれていた。一つは彼が裁判にかけられた事自体。もう一つは、彼の裁判が9月19日に行われたという事にあった。18日までに巡回国王裁判で下された判決は、文字通り、かつ迅速に執行されていた。しかし19日の朝、ジェフリーズ男爵宛の書状を携えた国務大臣サンダーランド伯1の急使がトーントンに到着し、その書状には、一千百人の叛徒を王の南海プランテーションがあるジャマイカ、バルバドス、もしくはリーウォード諸島のいずれかに労働力を供給する為に流刑にするべしという、畏れ多くも有難い陛下の御意が記されていた。

 この君命は無論、慈悲心に基づいて下されたものではない。チャーチル男爵2は、大理石像に負けず劣らず無情な国王陛下の思し召しを伝えたに過ぎない。一連の大規模な絞首刑の執行が、貴重な有価物の著しい浪費である事は既に認識されていた。プランテーションでは奴隷が緊急に必要とされており、健康で頑強な男には少なくとも10ポンドから15ポンドの価値があるはずだった。そして宮廷には、陛下への奉仕に対して何がしかの報奨を求める多くの紳士達がいた。ここに、そのような要求を片付ける為の元手のかからぬお手軽な方法があった。有罪判決を受けた謀反人の一部をその紳士達に下げ渡し、彼等がそれを売り払って利益とすればよいのだ。

 サンダーランド伯の書状は、人肉に関する国王の気前良さを詳細に記録している。千人の叛徒が約八人の廷臣達の間で分配されるように、更に追伸には、それとは別に百人以上を王妃の為に確保するよう求めた指示もあった。この囚人達は直ちに英国王のプランテーションに送られる予定となっており、速やかに現地への輸送が遂行され、各々が割り当てられた場所に無事入るのが確認されて後、十年間をその地で刑に服すよう定められていた。

 ジェフリーズ男爵の秘書が残した史料には、かの首席判事が酔いに任せた狂乱から、この夜、陛下が説き伏せられてしまった筋違いな温情処置に対して如何に激しく立腹したが記されている。王にその決定を再考させるべく、彼が書状によって説得を試みたのも後世に伝わっている。しかしジェームズ王は己の決定に固執した。これは如何にも彼にふさわしい、大きな価値――彼がそれから得る間接的利益を別として――のある温情処置だった。このような形での助命は、囚人達にとっては死が生き地獄に替えられたに過ぎない事を彼は知っていた。多くの者が西インド諸島で送る奴隷生活の悲惨な境遇の中で苦しみに斃れるであろうし、それすら生き残った仲間にとっては羨望の的となるだろう。

 かくしてピーター・ブラッド、ジェレミー・ピット、アンドリュー・ベインズは、判決文に記された通りに首を吊られて四肢を裂かれる代わりに、ブリストルに運ばれて約五十名の他の囚人達と共にジャマイカ商人の船に乗せられる事となった。船倉口ハッチの下での密集した監禁状態、そして栄養不良と汚れた水により病が発生し、十一名が死亡した。その中には、ただ慈悲に従って行動したという罪により、芳しい香りの林檎園に囲まれた静かな住まいから暴力によって無理やり引き離された、オグルソープの不運な農園主ヨーマンも含まれていた。

 囚人達の死亡率は、ピーター・ブラッドの存在がなければ更に高かったかもしれない。当初、このような扱いによって人々をいたずらに死なせている事に対するブラッドのいさめと、彼に薬箱を使わせ病人の世話をする時間を与えるようにという主張に対して、ジャマイカ商船の船長は罵りと脅しで応じた。だが商品である奴隷達のあまりにも多大な損失により、自分が責任を追及されるかもしれないと思い至ったキャプテン・ガードナーは、遅まきながらピーター・ブラッドの技能に頼る事にした。ブラッド医師は喜び勇んで仕事にとりかかり、その巧みな看護と囚人達の環境改善によって病気の蔓延を食い止めた。

 十二月の半ば近く、ジャマイカ商人はカーライル湾に錨を下ろして、四十二名の生き残った謀反人達を上陸させた。

 この不運な囚人達が、自分は未開の蛮地に送られるのであろうと想像していたのならば――彼等の大部分がそう思っていたであろうが――彼等が舷側で待機中のボートに慌ただしく押し込まれる前にちらりと見た光景だけで、その先入観を修正するには充分であった。彼等が目にしたのは、西洋の建築様式の家々で構成されているが、ヨーロッパの都市で当たり前に見られるような乱雑さのない、充分に立派な規模の町だった。教会の尖塔は赤い屋根の上に他を圧するようにそびえ、狭間から砲口を突き出した要塞が広い港の入口を護り、そしてこの町を見下ろすなだらかな丘上に建つ総督官邸が君臨するように広大な姿を表していた。この丘はイングランドの四月の丘のように鮮やかな緑であり、激しい雨季が終わったばかりのこの日は、イングランドの四月の日の様であった。

 海に面した石畳の広場には、自分達を引き取る為に整列している赤いコートを着た民兵の姿が見え、そして集まってきた――彼等の到着を見物しようと出てきた――群衆は、女性が少なめで多数の黒人が含まれている事を除けば、服装も物腰も自国の港の群集と大差ないのが見て取れた。

 防波堤に並ばされた彼等を検分する為にやってきたスティード総督は、短躯で恰幅の良い赤ら顔の紳士であり、夥しい金のレース飾りで重たくなった青いタフタの服を着こみ、少し足を引きずって、頑丈な黒檀の杖に寄りかかっていた。その後ろを、バルバドス民兵隊大佐の制服をまとった長身で肉付きの良い男が、体を揺すぶるようにして歩いていたが、総督より頭一つは高い位置にあるその男の大きな黄ばんだ顔には、むき出しの悪意が浮かんでいた。その側に、彼の粗野とは奇妙に対照的な肩肘を張らぬ若々しく優雅な身ごなしで、流行の乗馬服を着たほっそりとした若い婦人がやってきた。緋色の弧を描く駝鳥の羽飾りが付いた灰色の帽子の広いつばが卵形の顔に陰を落としていた。北回帰線の気候が影響を残していないその顔は、非常に繊細な白さであった。彼女の肩には赤茶色の巻き毛が掛かっていた。大きく見開かれたハシバミ色の瞳には率直さが表れており、常ならば彼女のみずみずしく若い口もとに宿っているはずの茶目っ気は、今は同情心によって抑圧されていた。

 ピーター・ブラッドは、 ある種の驚きと共に、このような場所にはひどく場違いに思える清々しい顔を我知らず凝視していた。そして自分が彼女に見つめ返されているのに気づいて居心地の悪い気分になった。彼は自分の惨めな姿を意識して、いたたまれなくなった。何日も洗っていない悪臭を放つもつれた髪と、見苦しい黒い顎鬚、もとは素晴らしかった黒いキャムレット織の上下は、虜囚となった今はぼろぼろで案山子も恥らう有様となり、彼はあのような優美な目に見つめられるにふさわしい状態ではなかった。にもかかわらず、その見開かれた目はほとんど子供のような驚きと哀れみで彼を見つめ続けた。その瞳の主が同伴者の緋色の袖に触れる為に手を伸べると、男は不機嫌そうにぶつくさ言いながら、大きな太鼓腹を揺すぶり彼女と向き合った。

 彼女は大佐を見上げて懸命に話しかけていたが、彼は明らかにその女性の話をろくに聞いてはいなかった。垂れ下がった肉付きの良い鼻を挟んだ両側に狭い間隔で並んでいる邪気を含んだ小さな両眼は、彼女の上を素通りしてブラッドの横に立つ頑丈な金髪のピット青年に視線を定めた。

 総督も同様に足を止め、その三人はしばし立ち話をしていた。彼女が声を低めた為に、ピーターにはその淑女レディの言葉が全く聞き取れなかった。彼の許まで届いた大佐のどら声は不明瞭であった。だが総督の方は、声を落とすような気遣いもなければ不明瞭さもなかった。自分が機知に富むと信じ込んでか、彼は持ち前のかん高い声を、その場の全員に聞こえるように響かせた。

「とはいえ、我が親愛なるビショップ大佐。まずは君が、この可憐な芳しい花束から好きなものを選んで値付けをするべきだな。その後に残りを競りに出そうではないか」

 ビショップ大佐は頷いた。彼は返答の為に声を張り上げた。「大変結構ですな、閣下。しかし残念ながら、こやつ等はひ弱そうで、プランテーションでは大した働きをしそうにない」底意地の悪い小さな両目が再び囚人達に視線を走らせると、彼等に対する蔑みにより大佐の顔に浮かぶ悪意は深まった。その表情は彼等がもっと良好な状態ではない事に苛立っているようであった。次に彼はジャマイカ商人の代表であるキャプテン・ガードナーにこちらに来るよう合図し、そしてしばしの間、彼の要請により作成されたリストを見ながらガードナーと立ち話をした。

 リストを払いのけた大佐はひとりで叛逆流刑囚達に歩み寄り、彼等を凝視して唇をすぼめていた。サマセットシャーの若い航海士の前で足を止めると、大佐は彼を品定めする間その場に留まった。それから彼は若者の腕の筋肉を指で触り、次に歯を点検する為に口を開くよう命じた。彼は再び粗野な唇をすぼめ、そして頷いた。

 彼は肩越しにキャプテン・ガードナーへ話しかけた。

「こいつを15ポンドで」

 船長キャプテンは狼狽の表情になった。「15ポンド!そりゃアタシがこいつに付けた値段の半分にもなりませんよ」

「それは私が支払うつもりでいた値段の倍だ」大佐は不興げに言った。

「しかしこいつは安くても30ポンドはするはずですよ、大佐」

「その値段ならば黒人奴隷を買える。こういう白豚は長生きしないものだ。こやつ等は重労働に耐えられんからな」

 ガードナーはピットの健康、若さと活力を言い立てた。彼が論じているのは人間についてではなかった。家畜についてであった。繊細な若者であるピットは無言のまま身じろぎひとつしなかった。ただ頬の紅潮だけが、自制を保つ為の内心の努力を示していた。

 ピーター・ブラッドは忌まわしい値切りの押し問答に吐き気を催した。

 その背後で、囚人達の列に沿ってゆっくりと歩きながら、あのレディが総督と何やら会話を交わしていた。総督は自慢たらしく得意げな笑みを浮かべ、片足を引きずりつつ彼女の横を歩いていた。彼女は大佐が行っている、不快極まりない取引を意識していないようだった。関心がないのだろうか?ブラッドはいぶかしんだ。

 ビショップ大佐は次に進む為にきびすを返した。

「20ポンドまでは支払う。それ以上は1ペニーたりとも出さんが、それでもお前がクラブストンからせしめられる金の倍になるはずだ」

 話を打ち切る意向を察したキャプテン・ガードナーは、溜息をついて屈服した。ビショップは既に列の先に進んでいた。ブラッドに対しては、その隣のひ弱な青年と同様に、蔑みを込めた一瞥いちべつしか与えなかった。しかし次の男、セッジムーアで片目を失ったウォルヴァーストンという名の中年の巨漢が大佐の興味を引き、再び値段交渉が始まった。

 ピーター・ブラッドは明るい陽射しの下に立ち、芳しい香りの空気を吸い込んだが、それは彼が今までに呼吸した事のある如何なる空気とも異なっていた。それはログウッドの花とピメント、アロマティックシダーの入りまじった奇妙な香気で満たされていた。彼はその風変わりな芳香に誘われた埒もない思索に我を忘れた。ブラッドは会話をする気分ではなく、その側に無言で立つピットもまた同じであった。ピットは、これまでの苦難の数ヶ月を共に助け合ってきた、既にその指導に心酔し、生命の維持を頼るまでになっていたこの男から、遂に引き離されようとしているのだと思い悩んでいた。全身に染み渡る孤独と苦痛の感覚は、それに比べれば今まで耐えてきた全てが取るに足らぬ事のようにすら思えた。ピットにとって、この別れは彼に課されたあらゆる苦難の痛烈なるクライマックスであった。

 他の買い手達がやってきて、囚人達を品定めしては通り過ぎていった。ブラッドは彼等に注意を払わなかった。買い手達は列の終端まで進んだ。ガードナーは、ビショップ大佐が奴隷を選び終えるまで待っていた大勢の買い手達に向けて売り込み口上をがなり立てていた。自分の番が終わった時、対面に目をやったブラッドは、あの少女がビショップと話しながら、手にした銀柄の鞭で列を指し示しているのに気づいた。ビショップは彼女が指す方向を見る為に手庇てびさしを作った。それからゆっくりと、巨体を揺すぶりながら、彼はガードナーを伴い、あのレディと総督を従えて再び歩み寄ってきた。

 一同は、大佐がブラッドの真横にくる位置まで進んだ。大佐はそのまま通り過ぎようとしたが、あのレディが鞭でその腕をつついた。

「私が言ったのは、この人の事よ」彼女は告げた。

「こいつか?」嘲るような口調だった。ピーター・ブラッドは、茹で団子ダンプリングの中に沈んだ干し葡萄のような、黄ばんだ肉付きの良い顔の中に食い込んだ一対のビーズに似た茶色い目を我知らず見入っていた。彼はその蔑みが込められた品定めの恥辱により、徐々に顔に血が上るのを感じた。「ふん!骨と皮じゃないか。何に使えるというんだ?」

 彼が背を向けようとした時、ガードナーが口を挟んできた。

「こいつは痩せてるかもしれませんが、タフですぜ。タフで健康だ。こいつ等の半分が病気になって、もう半分も病気になりかかってた時、この罪人はぴんしゃんしたまんまで仲間の治療をしたんですよ。こいつがいなけりゃ、もっと沢山がくたばってたはずでさぁ。15ポンドで如何ですかね、大佐。お買い得ですよ。こいつはタフですぜ、閣下――痩せちゃいますが、タフで強い。それに、この暑さにだって耐えられますよ。ここの気候くらいじゃ死にやしません」

 スティード総督はクスクス笑った。「聞いたかね、大佐。姪御さんを信用したまえ。女というのは、男の品定めの仕方をよく心得ているものだ」そして彼は自分の機知に満足して笑った。

 しかし笑ったのは彼ひとりだった。大佐の姪の顔には苛立ちの影がよぎり、大佐はといえば、総督のユーモアに注意を払うには、この取引の検討に熱中し過ぎていた。彼はやや唇を歪め、しばし顎を撫でていた。ジェレミー・ピットは、ほとんど息をするのも忘れていた。

「こいつに10ポンド支払おう」ようやく大佐が言った。

 ピーター・ブラッドは、この申し出が拒絶されるように祈った。理由を説明しようにも、自分がこの粗野なけだものの所有物に、そしてあのハシバミ色の目をした若い娘のある種の所有物になるのだという考えに、猛烈な嫌悪を感じたからとしか言えないのだが。しかし彼をその運命から救うには、嫌悪以上のものが必要だった。奴隷は奴隷であり、自分の運命を定める力を持ってはいない。ピーター・ブラッドは10ポンドという不名誉な金額で、ビショップ大佐――侮蔑的な買い手――に売り渡されたのである。


  1. 第二代サンダーランド伯ロバート・スペンサー(1641年 1702年)
    ジェームズ世統治時代の北部担当国務大臣兼枢密院議長。ウィリアム王時代にもホイッグ党の纏め役として内政改革に手腕を発揮した。 

  2. 初代マールバラ公ジョン・チャーチル(1650年 1722年)
    ヨーク公ジェームズ配下の軍人であり、ジェームズの即位後は男爵位を叙されてモンマスの乱鎮圧の任務にあたった。セッジムーアの戦いにおける国王軍の圧勝は主にチャーチルの功績と言われている。名誉革命の際にはジェームズ王を裏切りオレンジ公ウィリアムを擁立し、マールバラ伯爵に叙された上に新体制では枢密顧問官に任ぜられた。スペイン継承戦争においてイングランド陸軍最高司令官兼同盟軍最高総司令官として数々の軍功を立て、マールバラ公爵に陞爵しょうしゃくされた。

    第二代サンダーランド伯ロバート・スペンサーの孫チャールズと初代マールバラ公ジョン・チャーチルの娘アンの結婚により両家の血筋は結ばれた。この家系の末裔には英国首相ウィンストン・チャーチル(1874年 1965年)や元英国皇太子妃ダイアナ・スペンサー(1961年 1997年)がいる。 

五 アラベラ・ビショップ

 ジャマイカ商人達がブリッジタウンにやってきた日から一ヶ月ほど後、よく晴れた一月のある朝、アラベラ・ビショップ嬢は市の北西にある丘に建つ叔父の屋敷から馬に乗って走り出た。彼女は礼儀に則った距離をおいて後から速足で従う二人の黒人奴隷に付き添われ、最近まで病床にあった総督夫人を見舞う為に総督邸を目指していた。頂上近くのなだらかな草深い斜面で、彼女は反対方向に歩いて行く、背が高く痩身の、地味だが紳士らしい服装をした男に出会った。それは彼女が初めて見る人物であり、この島では新参者は非常に珍しかった。にもかかわらず、何故ともわからぬ理由によって、その男は見知らぬ者のようには思えなかった。

 アラベラ嬢は手綱を引き、景色を眺める風を装って小休止した。それは実際、足を止めるだけの価値がある眺めであった。しかしながらハシバミ色の目の隅で、彼女は次第に近づいてくる男を入念に見定めた。彼女は男の衣服に対する第一印象を改めた。それが地味なのは間違いないが、しかし紳士らしさとは程遠かった。コートと膝下丈ズボンブリーチズは簡素な粗い織物製であった。そして前者がこれほど彼の身に馴染んでいるのは、仕立ての為というよりも、彼の身についた優雅さに拠る処の方が大きいようだ。ストッキングは簡素な木綿製で、彼女に気づいた男が礼儀に則って脱いだつば広のカスター帽は、古びてベルトも羽飾りも付いていなかった。かつらと思っていたのは、近くから見れば、その男自身の光沢のある黒い巻き毛であるのがわかった。

 日に焼けた髭のない陰気な顔から、驚くほど青い二つの目が謹厳に彼女を見つめていた。男はそのまま通り過ぎようとしたが、しかし彼女は呼び止めた。

「貴方とは、お会いした事があるような気がするのですけど」彼女は言った。

 彼女の声はきびきびとして少年のようであり、その仕種にも幾分か少年めいた処があった――これほど可憐な淑女レディにそのような形容を当てはめるのが可能ならば、の話ではあるが。これは恐らく、女の手管とは無縁の心安さや率直さからくるものであり、それが彼女に誰とでも分け隔てない親しい付き合いを可能にさせていた。これこそが、アラベラ嬢が二十五歳になっても未婚であるというだけでなく、求婚された事自体がない理由かもしれない。彼女は全ての男性に姉か妹のように率直で媚のない態度で接していたが、それが男達が彼女に言い寄る事を難しくしていた。

 黒人奴隷達は後方で若干の距離を置いて止まり、彼女が先へ進む意向を示すまで、短い芝の上にしゃがんで待機していた。

 その見知らぬ男は、声をかけられるとすぐに立ち止まった。

「レディたるもの、御自分の所有する財産を把握しておくべきですね」彼は言った。

「私の財産?」

「少なくとも、貴女の叔父上の財物であるのは確かだ。自己紹介させていただきましょう。私の名はピーター・ブラッド、そして私の値段はきっかり10ポンド。それが貴女の叔父上が私に対して支払った金額だ。そのお陰で私は知る事ができたのですよ。全ての人間に、自分の値段を確かめる機会がある訳ではありませんからね」

 それで彼女は男が何者かを悟った。あの日、一か月前の突堤上で目にして以来、彼に会うのはこれが初めてであり、今の彼が奴隷とは程遠い外見に変貌していた点を考慮すれば、彼女がブラッドに対する興味をかき立てられていたにもかかわらず、再び彼を見た際にそれと気づけなかったのも驚くにはあたるまい。

「驚いた!」彼女は言った。「それに貴方、笑えたのね!」

「努力の末にね」と彼は認めた。「それに、最悪の不運手前でやっていけていますので」

「その事は聞いているわ」彼女は言った。

 彼女が聞かされたのは、この謀反人が医者であると判明した件であった。それが痛風に苦しむスティード総督の耳に入り、総督は買い手であるビショップ大佐から、彼を借り受けていた。技能によるものか幸運によるものかはともかく、ピーター・ブラッドは、ブリッジタウンで開業している二人の医者が両方とも匙を投げていた総督の苦痛を軽減した。そして総督夫人は、彼女の気鬱を治療する為に彼の付き添いを望んだ。ブラッドは既に、彼女の苦しみが癇癪――バルバドスにおける日々の倦怠が、社交生活を求める貴婦人に自然と引き起こした不機嫌の結果――に過ぎないと判断していた。しかし彼は夫人の為に処方を指示し、そして彼女はブラッドの処方のお陰で快方に向かっていると思い込んでいた。彼の名声がブリッジタウンに広まる頃には、ビショップ大佐は元々の購入目的であるプランテーションでの労働よりも、本職である医術を続けさせる方がこの新しい奴隷から得られる利益が大きい事に気づいていた。

「私の比較的安楽で清潔な状態は、貴女のお陰ですよ、マダム」ブラッドは告げた。「貴女に御礼を述べる機会を得られて光栄の極み」

 それは上辺だけの礼に過ぎず、彼の声音には感謝の色はなかった。この人は嘲っているんだわ。彼女は不思議に思い、そして余人ならば当惑するかもしれぬような、率直で探るような目を彼に向けた。彼はその視線に込められた問いを読み取り、それに答えた。

「仮に誰か他のプランテーション主が私を買っていたなら」と彼は説明した。「私の輝ける能力に光が当たる機会はなかったでしょうし、今この瞬間も、共に上陸した哀れな連中と同じく斧か鍬を振るっていたはずですから」

「それで、貴方は何故、その事で私に感謝するの?貴方を買ったのは私の叔父よ」

「しかし貴女が彼をせっついていなければ、買ってはいなかったはずですよ。私は貴女の関心に気づいていた。その時、私はそれに憤慨したのですよ」

「憤慨?」彼女の少年のような声には、挑むような調子があった。

「私は死と背中合わせの境遇を、これまで何度も経験してきた。しかし、売り飛ばされて買われるというのは初めての経験だ。それに私は、自分の買い手に尻尾を振るような気持ちにはなれなくてね」

「私が貴方の事で叔父をせっついたというのなら、それは私が貴方に同情したからよ」彼女の口調には、彼との会話中に感じ取った嘲りと軽薄さの混合をとがめるように、やや深刻さが含まれていた。

 彼女は続けて自分の行動について解き明かした。「私の叔父は、貴方からすれば非情な人に見えるでしょうね。それは事実よ。プランテーションの経営者というのは皆、非情な人達だもの。それが現実、と私は思っているわ。でも、ここにはもっとたちの悪い人達がいるの。たとえばスペーツタウンのクラブストン氏。あの人は叔父が選んだ後の残りが売りに出されるのを待ってあの突堤にいたけれど、もし貴方が彼の手に落ちていたらと思うと……。ぞっとするわ。それが理由よ」

 彼はいささか当惑した。

「その赤の他人に対する関心ですが……」と彼は言いかけた。それから探りを入れる方向を変えた。「他の囚人達だって、同情に値したでしょうに」

「貴方は他の人達とは全然違って見えたのよ」

「私は彼等とは違う」彼は言った。

「あら!」アラベラ嬢は彼をにらむと、つんと顎を上げた。「お高くとまってるのね」

「逆ですよ。他の者達は全員、立派な叛乱軍の闘士だ。私はそうじゃない。それが違いです。私はイングランドには浄化が必要だと判断するだけの知性を持ちあわせていなかった。私がブリッジウォーターで医術に専念する事に満足している間、見識ある人々は薄汚い専制君主と悪辣な腰巾着どもを追い払う為に血を流していたんですから」

「貴方!」と彼女が阻んだ。「謀反の事を言ってるのよね」

「曖昧な物言いは、しないように心がけています」彼は応じた。

「そんな話を聞きつけられたら、鞭で打たれるわよ」

「それは総督が許さないでしょう。彼は痛風にかかっているし、夫人は気鬱の病だ」

「それを盾にとるつもり?」彼女は軽蔑を隠さなかった。

「貴女は痛風にも、恐らくは気鬱の病にすらかかった事はないのでしょうね」彼は言った。

 彼女は少し苛立ったような仕草をすると、しばし彼から視線を外して海に目を向けた。突然に彼女は再び彼を見た。彼女は眉を寄せていた。

「でも、叛逆者でないのなら、何故ここにいるの?」

 彼女が理解したのを見て取ると、彼は笑った。「そう、話せば長い物語だ」彼は言った。

「そして多分、話すのは気が進まないような物語?」

 ごく簡潔に、彼は事情を話した。

「ああ!なんて卑劣な!」彼が語り終えた時、彼女は叫んだ。

「おお、それこそが我等がジェームズ陛下のしろしめす麗しき国、イングランド也!だから私を哀れむ必要はない。諸々を考え合わせれば、私はバルバドスの方が気に入っているんですよ。少なくともここでは、人は神の存在を信じる事ができる」

 話しながら彼は右方から左方に、ヒルベイ山の遠く霞む威容から、天空より吹く風によって波立つ広大な海原へと視線を動かした。すると、その雄大な眺望が、彼に己の存在の卑小さと、苦難の瑣末さを悟らせようとしているかに思えた。

「それは、他の土地ではそんなに難しい事なの?」そう尋ねる彼女は非常に厳粛であった。

「人間がそれを難しくしているんです」

「わかるわ」彼女は少し笑ったが、ブラッドにはそれが悲しげな調子に聞こえた。「私はバルバドスをこの世の天国だなんて思った事は一度もないわ」彼女は打ち明けた。「でも、貴方の方が、私より世の中を知っているのは確かね」彼女は小さな銀柄の鞭を馬にあてた。「貴方の不幸が少しでも和らいで、よかったわ」

 彼はお辞儀をし、そして彼女は馬を進めた。黒人奴隷達は慌てて立ち上がると彼女の後を速足で追いかけた。

 しばしの間、ピーター・ブラッドはその場に立ち尽くしていた。彼女が彼を残して行った場所は、眼下にカーライル湾がきらめき、カモメが騒がしく羽ばたく広い港で船積みが行われる様が一望できた。

 これは充分に雄大な眺望だ、と彼は思案した。しかしここは牢獄であり、そして彼はイングランドよりもこちらを好むと宣言する事によって、人が己の不運を矮小化して見せるような殊勝な姿勢に自己陶酔していたのだ。

 彼は振り返ると再び自分の目指す道を進み、泥と編み枝で作られた小屋の雑然とした密集――プランテーション奴隷達が居住している、そして彼自身も共に寝泊りしている、柵で囲われた小さな村――に向かって大股で歩み去った。

 彼は心の中でラブレス1の詩を諳んじた。

『石壁とて監獄を作るにあたわず、
鉄棒とて牢屋を作るにあたわざる也2

 けれども彼は、この一節に新たな意味を、作者が意図したのとは正反対の意味を与えた。監獄は監獄だ。彼は熟考した。壁も鉄格子もなくとも、どんなに広くとも、そこが監獄である事に変わりはない。そしてこの朝、それを悟って以降、時に加速度がついたかのように、彼の認識は益々強まっていった。毎日のように、彼は己の切り取られた翼について、己の世界からの排除について、そして僥倖として己に許された自由のあまりのささやかさについて考えるようになった。そしてまた、仲間である囚人達の不運と、比較的安楽な自分の境遇とを比較して満足しようとするのもやめた。むしろ、彼等の不幸について深く考える事により、彼の心には恨みがつのった。

 ジャマイカ商人によってブラッドと共にこの地に連れてこられた四十二名のうち、ビショップ大佐は少なくとも二十五名を購入していた。残りはより小規模なプランテーション経営者に買われ、スペーツタウンや更にその北へと連れて行かれた。後者の多くについては知る術はないが、ビショップの奴隷達については、大半が悲惨な状態にあるのを彼等の寝屋に自由に出入りできるが故に知っていた。彼等は日の出から日没まで砂糖農園で酷使され、もたつきでもしようものなら奴隷監督とその部下達の鞭が飛んだ。彼等はぼろを着ており、中には裸同然の者もいた。劣悪な場所で寝起きし、そして彼等の大半は塩漬け肉とトウモロコシ団子という食事のせいで栄養不足から体調を崩し、ビショップが自分の為に奉仕する間は奴隷の命にもいくらかの価値があるのを思い出して、病人が多少ましな手当てを受けられるようにしてくれというブラッドのとりなしを受け入れる前に、二名が病気で死亡していた。残忍な奴隷監督のケントに反抗した者の一人は、見せしめとして僚友の目前で黒人の使用人によって死ぬほど激しく打ちすえられ、そして森の中に逃げるという誤った選択をした別の者は、追跡され、連れ戻され、鞭打たれ、そして命ある限り逃亡した叛逆者(fugitive traitor)として世に知られるようにと、額に「F.T.」の焼き印を押された。当人にとっては幸いな事に、この哀れな者は鞭打ちの末に死亡した。

 そのような事件の後、残りの者達の間を精気のない、放心したような諦めが支配した。最も反抗的な者達は鎮圧され、そして己の理不尽な運命を悲痛な覚悟と共に受け入れたのであった。

 ピーター・ブラッドだけは、このような過酷な苦しみから免除されており、己の属する人類という種に対して日々深まりゆく憎悪と、人間がこれほどまでにおぞましいやり方で造物主の美しい御業みわざを汚している場所から逃れる事に対する日々深まりゆく憧れという内面の変化を除けば、一見変わりないままでいた。ここでは希望を見いだす事は許されなかった。しかし、にもかかわらず、彼は絶望に屈しなかった。彼は陰鬱を笑顔の仮面で隠して我が道を行き、ビショップ大佐の利益の為に病人を治療し、ブリッジタウンで開業している二人の別の医師達の領分を徐々に侵食していった。

 囚人仲間が受けている下劣な懲罰と窮乏を免除されていた彼には自尊心を保つ事が可能であり、彼が売りとばされた非情な農園主からさえ厳しい扱いはされなかった。その全ては痛風と気鬱の病に負うていた。既に彼はスティード総督からの尊重を獲得しており、そして――更に重要なのは――彼は臆面もなく、そして皮肉っぽく、追従ついしょうを口にして機嫌を取る事により、総督夫人からも重んじられるようになっていた。

 時折、ビショップ嬢の姿を目にする事もあり、二人が顔を会わせる機会は滅多になかったものの、彼女の方はブラッドに対する興味を示して、幾度か会話を交わす為に呼び止めようとした。彼の方は、決して長居しようとはしなかった。彼は彼女の繊細な外見に、彼女の若々しい魅力、彼女の明るさ、少年のような身ごなしと快活さ、少年のような声に騙されないようにと自分に言い聞かせた。今までの全人生――それも非常に様々な経験をした――において、彼は一度も彼女の叔父より酷いと思える男に出会った事はなく、そして彼にはあの男と彼女を分けて考える事ができなかった。彼女はあの男の姪であり、同じ血が流れており、そしてその悪徳のいくらかは、あの裕福な農園主の無慈悲な残虐性のいくらかはきっと、彼女の快活な体にも宿っているに違いない。彼は己にそう言い聞かせた。彼は非常にしばしば、異議を申し立てる本能に応酬して説得するかのように、このような論を内心で展開し、可能な限り彼女を避け、不可能な時にはそっけなく応対する際にも、このような論拠を己に用いた。

 彼の推論がまことしやかであったとしても、妥当なものに思えたとしても、しかしそれでも彼は、その推論と対立する直感をもう少し信じてみるべきだったのだ。ビショップ大佐と同じ血がその血管に流れているとはいえ、それでも彼女は叔父を損なっている悪徳にとらわれてはいなかった。何故ならば、そのような悪徳は血統に由来するものではなかったのだから。そのような資質は、大佐に関して言えば後天的に獲得されたものだった。彼女の父親トム・ビショップ――つまりビショップ大佐の実兄――は、親切で騎士道精神を備えた穏やかな心の持ち主であったが、まだ若い愛妻の早世に心引き裂かれた結果、住み慣れた世界を捨てて新世界で深い悲しみを癒そうとした。当時五歳の幼い娘を連れてアンティル諸島までやってきた彼は、農園主として第二の人生を送るつもりだった。成功を求めて汲々としない人間が時に大きな成功を収める事がままあるが、彼もその例に漏れず、当初から事業は上々に行った。事業は成功し、彼は故郷ではいささか乱暴者として噂されている軍人の弟について考えるようになった。彼は弟にバルバドスに来るように勧めた。別の時期であったなら鼻で笑われたかもしれない助言だが、それは丁度ウィリアム・ビショップの放縦な気質が環境の変化を欲していた折に届いたのであった。やってきたウィリアムは、寛大な兄によって、豊かなプランテーションの共同経営者として迎えられた。六年ばかりが過ぎて、アラベラが十五歳の時に父親は亡くなり、彼女は叔父の後見に託される事となった。恐らくこれはトム・ビショップの過ちであろう。しかし彼自身の人柄の良さ故に、彼は他者に対しても好意的な評価をしがちな傾向にあった。それに加えて、既に彼自身が娘の教育を行なっていたのであるが、恐らく彼としても度が過ぎたと考えるほどの独立心を娘に与えていた。このような背景により、叔父と姪の間に通い合う愛情は無きに等しいものであった。しかし彼女は叔父に逆らわず、そして彼も姪の前では慎重に振舞っていた。経験的にも、本能的にも、彼は兄について畏怖すべき価値ありと判断するだけの洞察力はあった。そして現在、兄に対する畏敬の幾許いくばくかはその子供に対して引き継がれたかのようであり、プランテーション経営に関する実務を執ってはいないものの、彼女はある意味で彼の共同経営者に等しい存在だった。

 ピーター・ブラッドは――人は皆、そのような判断をしがちなものだが――不充分な知識から彼女を判断したのである。

 間もなく彼は、その判断に修正を迫られるはずであった。五月も終わりに近いある日、暑さが厳しさを増しつつあった頃、カーライル湾に傷つき破損したイングランド船、プライド・オブ・デヴォン号がたどり着いた。乾舷フリーボードは傷つき壊れ、船体は大きく裂けて破損し、後檣ミズンマストは根元からへし折れて、ぎざぎざした丸太の断面だけがそこに何が立っていたのかを物語っていた。この船はマルチニーク沖で活動中に二隻のスペイン宝物船と行き合ったのだが、船長の証言によれば、何らの挑発行為もしていないにもかかわらず、突如スペイン船が彼の船を取り囲み、もはや交戦は避けられなかったのだという。スペイン船の片方は戦闘から離脱したが、プライド・オブ・デヴォン号はそれを追跡可能な状況ではなかった。もう片方は既に沈んだが、しかしそのスペイン船が運んでいた財宝の大半をイングランド船に積み替えるには間に合ったのだと。実際の処、これはセント・ジェームズ宮殿(英国王室)とエル・エスコリアル(スペイン王室)との絶え間ない揉め事の原因であり、双方が常に相手に苦情を申し立てている、珍しくもない海賊行為の一例であった。

 しかしながらスティードは大方の植民地総督の流儀として、イングランド船員の話を額面通りに受け止めるほど鈍い振りをするのを厭わず、その証言に反する如何なる証拠も無視した。彼もまた、バハマから本土までのあらゆる国の人々が共通して抱いている、傲慢で威圧的なスペインに対する憎悪に事欠かなかった。それ故に、彼はプライド・オブ・デヴォン号をバルバドスの港に庇護し、修理に必要なあらゆる便宜を図ったのである。

 しかしプライド・オブ・デヴォン号が到達するより前に、船体と同様に酷い攻撃を受けて負傷した十二名以上のイングランド船員達が船を離れてやってきた。そして彼等と共に、英国船に乗り込んだまま取り残されてしまった、スペインのガレオン船からの切り込み隊の生存者であり、同じく負傷した半ダースほどのスペイン人も連れてこられたのであった。この負傷者達は埠頭の倉庫に運ばれて、彼等の看護の為にブリッジタウンの医師が呼び寄せられた。ピーター・ブラッドもこの仕事に手を貸すように命じられたが、彼がカスティリャ語を話せる――彼は母国語同様、流暢にそれを話した――という理由と、奴隷という下等な境遇にあるという理由から、彼にはスペイン人の患者があてがわれた。

 現在のブラッドには、スペイン人に好意を持つ理由はなかった。彼が経験したスペインの刑務所での二年間と、その後のネーデルラントにおける対スペインの戦闘は、スペイン人の気質の全く褒められたものではない側面について嫌というほど思い知らせてくれた。にもかかわらず、彼は骨身を惜しまず医者としての職務を熱心に果たし、個々の患者に対しては、事務的なものではあるが表面上は愛想良く接していた。速やかに首を吊られる代わりに怪我の治療をされた驚きのあまりにか、彼等はスペイン人としては非常に異例といえる従順な態度をとった。しかしながら彼等は、慈善精神を発揮して傷ついた英国船員達の為に果物や花や食物の見舞いを携えて仮設病院に集まってきたブリッジタウンの住民達からは避けられていた。実の処、このような住民達の何割かの望みはスペイン人達が害獣のように処分される事であり、ピーター・ブラッドは初っ端からその実例を経験していた。

 助手として小屋に送られた黒人奴隷の手を借りて骨折患者の脚を固定していた時、ブラッドにしてみればこの世の人間の中でこれ以上嫌な声も他にない、野太いどら声が突然彼を詰問した。

「貴様、そこで何をしている?」

 ブラッドは自分の作業から顔を上げなかった。その必要はなかった。声の主はわかっていた。

「脚骨折の治療中です」彼は手を止めずに答えた。

「見ればわかる、馬鹿めが」ピーター・ブラッドと窓の間に巨体が割り込んだ。藁上に寝かされた半裸の男は、この侵入者を見上げる為におそるおそる土気色の顔から黒い目をぎょろりと動かした。敵がやってきたのだと理解する為に英語の知識は不要だった。その声の荒々しく威嚇的な響きが事態を充分に物語っていた。「馬鹿めが、そのごろつきが何者かも見ればわかるぞ。誰がお前にスペイン野郎の脚を治す為に暇をやった?」

「私は医者です、ビショップ大佐。この男は傷を負っている。私は患者のえり好みはしない。自分の職務に専念するだけです」

「何だと、ふざけるな!貴様が医者の職務に専念していたら、今頃こんな処にいるはずがないだろうが」

「それどころか、私がここにいるのは私がそれを実行したからです」

「ふん、でまかせを言いおって」大佐は冷笑した。そしてブラッドが意に介さず作業を続けているのに気づいて、彼は激怒した。「手を止めてこっちを見ろ!私が話しているんだぞ!」

 ピーター・ブラッドは中断したが、しかしほんの一瞬の事だった。「患者が痛がっていますので」彼は短く告げると施術を再開した。

「痛がっているだと、こいつがか?それは結構な事だ、忌々しい海賊の犬めが。こっちを見んか、反抗的な与太者め」

 自分に対する挑戦と受け取って激怒した大佐は怒声を上げたが、それに対しては平静なる黙殺という更なる挑戦的な態度で応じられた。彼の長い竹の杖が振り上げられた。ピーター・ブラッドの青い目はそのひらめきをとらえ、強打を阻止する為に彼は素速く説明した。

「反抗には該当しないはずです。私はスティード総督の特命に従って行動しているのです」

 大きな顔を紫色に染めて、大佐は腕を止めた。彼は口を開いた。

「スティード総督だと!」彼は鸚鵡返しに言った。それから杖を下げ、くるりと身を返すと、ブラッドにはそれ以上の言葉をかけずに小屋の奥に向かい、総督のいる場所に移動した。

 ピーター・ブラッドはくすりと笑った。しかし彼の勝利感は人道主義的な考えよりも、己の残忍な所有者のもくろみを妨げてやったという思いによる方が大きかった。

 スペイン人は、この医者が本来の帰属に逆らって自分を庇っているが故のいさかいなのだと察し、思い切って何が起きたのかを小声で訊ねてみた。しかし医者は黙って首を振ると治療を続行した。彼の耳は今、スティードとビショップの間で交わされている言葉を聞き取るべく集中していた。大佐の巨体は、しなびた体をゴテゴテと着飾ったちびの総督を見下ろして、猛り狂い怒鳴り散らしていた。だが、ちびの洒落者は脅しに屈しなかった。総督閣下は自分の背後には世論の支持があると自認していた。ビショップ大佐のように無慈悲な見解を持つ者は、皆無ではないが多くもなかった。総督は己の権限を主張した。ブラッドが負傷したスペイン人の看護にあたっているのは彼の命令によるものであり、彼の命令は実行されて当然なのである。これ以上は言うべき事はない。

 ビショップ大佐は意見を異にしていた。彼の見解では言うべき事は山ほどあった。仰々しく、やかましく、猛烈に、口汚く――怒りに駆られると口汚い言葉がいくらでも沸いて出るので――彼はそれをまくしたてた。

「まるでスペイン人のような物言いだな、大佐」と総督は言い、大佐の誇りに数週間は痛むであろう傷を付けた。思わず言葉を失い、返す言葉を見つけられなかったが故の憤慨により、彼は足を踏み鳴らして小屋から出て行った。

 それから二日後、ブリッジタウンの婦人達、つまりはプランテーション経営者や商人の細君や娘達が埠頭に最初の慈善訪問を行い、負傷した船乗り達への見舞いの品を運んできた。

 ピーター・ブラッドは依然としてそこで患者の世話をしており、誰からも顧みられない不運なスペイン人の間を動きまわっていた。全ての慈善、全ての見舞いの品は、プライド・オブ・デヴォン号の乗組員達に向けられたものであった。そしてピーター・ブラッドは、それを至極当然の事と考えていた。だがそれまで治療に没頭していた彼が、ふと患部から顔を上げると、驚いた事に、人だかりから離れた一人の淑女レディが、いくつかの食用バナナと一束のみずみずしいサトウキビを彼の患者のベッドカバー代わりに掛けてやっていたマントの上に置く姿が見えた。彼女はラベンダー色の絹で優雅に装い、バスケットをたずさえた半裸の黒人奴隷を後に従えていた。

 ピーター・ブラッドはコートを脱いで粗い織りのシャツを腕まくりし、血で汚れたぼろ布を手にして、しばし彼女を見つめたまま立っていた。彼に気づいて唇に微笑を浮かべながら振り返ったレディは、アラベラ・ビショップであった。

「その男はスペイン人ですよ」と、誤解を正すように彼は言ったが、その声には心中の嘲りめいた感情が露骨に滲んでいた。

 彼女のうれしそうな微笑は唇の上で消えていった。彼女は態度を硬化させながら、眉を寄せてしばし彼をにらんだ。

「ええ、わかっています。でも、その人も人間には違いないでしょう」彼女は言った。

 その答えと言外の非難は彼を驚かせた。

「貴女の叔父上の大佐殿は、別の意見をお持ちのようですよ」彼は気を取り直してそう言った。「大佐は彼等の事を、苦しみを長引かせる為に生き延びさせた害虫で、怪我が化膿してそのまま死ねばよいと思っておられるようだ」

 彼女は彼の声に込められた皮肉が、より明確になるのを感じ取った。彼女は彼を見つめ続けた。

「どうして私にそんな事を話すの?」

「貴女が大佐の不興を買うかもしれないと警告する為に。もし大佐が自分の流儀を通していたなら、私は決して彼等の傷を治療する事を許されなかったでしょうから」

「そして貴方は、当然、私が叔父と同じ考えに違いないと思ったのね?」彼女の言は歯切れよく、ハシバミ色の瞳は険悪で挑むようにきらめいていた。

「御婦人に対する失礼など、考える事すらしたくはないのだが」と彼は言った。「しかし貴女が彼等に見舞いの品を与えた事が叔父上の耳に入ったら……」彼は皆まで言わずに「つまり、まあ――そういう事です!」と締めくくった。

 しかしこのレディは全く納得していなかった。

「初めに貴方は私の事を不人情、次に臆病者って決めつけたのね。なんとまぁ!婦人に対する失礼は考える事すらしたくないという人にとって、それはちっとも失礼じゃないという訳なの」彼女は少年のような笑い声を響かせたが、しかし今回、それは耳障りに聞こえた。

 彼は今、初対面のような気持ちで彼女を見つめ、自分が如何に彼女を誤解していたのかを理解した。

「それは、だが、私に想像できると思いますか……あのビショップ大佐が、自分の姪に対してなら寛大な心を持てるだなんて?」無謀にも彼はそう言った。何故なら彼は、突然の後悔に駆られた人間が往々にしてそうなるように無謀になっていたので。

「貴方にはそんな想像なんて、できなくて当然なんでしょうね。貴方の推測がよく当たるだなんて考えちゃいけなかったんだわ」その言葉と目付きで彼を怯ませると、彼女は自分の黒人奴隷と彼が運んできたバスケットの方に向きを変えた。そこから一杯に詰め込まれていた果物と食物を取り出すと、アラベラ嬢は六名のスペイン人のベッドにそれらを積み上げ始め、最後の者に配り終えた時にはバスケットは空になり、彼女の同国人に振舞うものは残っていなかった。実際の処、彼等には彼女の見舞い品など必要なかった。何故なら英国船員達は――彼女がしっかりと観察したように――他の見舞い客達から有りあまるほどの品々を贈られていたのだから。

 そうしてバスケットを空にすると、彼女は黒人奴隷を呼び、ピーター・ブラッドには一言もかけず、一瞥すら与えずに、背筋をしゃんと伸ばし顎をつんと上げ、優雅に裾を引いてその場から退出した。

 ピーターは彼女の出発を見送った。そして彼は溜息をついた。

 自分が彼女を怒らせてしまったのを気に病んでいるという事実に思い当たり、彼は驚いた。これが昨日ならばどうとも思わなかっただろう。彼女の本質が明らかにされたからこそ、そう感じるようになったのだ。「不運バッドセス3に祟られてしまったな。私は人間性について何も理解していなかったような気がする。だが、ビショップ大佐のような悪魔を生み出した一族が、聖女を生み出す事もできるなんて、誰に想像できる?」


  1. リチャード・ラブレス(1617年 1657年)
    17世紀英国を代表する宮廷詩人。チャールズ世に忠実であった為に清教徒革命時には二度も投獄された。代表作"To Althea, from Prison,"、"To Lucasta, Going to the Warres."等。 

  2. ラブレスの"To Althea, from Prison (獄中より、アルテアに)"からの引用。1642年の清教徒革命勃発時にウェストミンスターのゲートハウス刑務所内で書かれた詩。拘禁生活の中での魂の自由を詠った。 

  3. bad cessはbad luckに同じ。アイルランドで使われる言い回し。 

イソノ武威
作家:ラファエル・サバチニ
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