海賊ブラッド

十一 孝心

 彼が行った誓約により、ドン・ディエゴ・デ・エスピノーサは、元々は彼のものであった船における自由を許され、彼が航海士の役割を引き受けた事により船の針路は彼に一任された。この船の乗組員達にとってスパニッシュ・メイン1は未知の領域であり、そしてブリッジタウンでの経験があってすら、全てのスペイン人は即座に殺害すべき油断ならぬ凶犬であるという教訓を得るには充分でなかった為に、彼等はドン・ディエゴ自身の丁重で上品な態度に合わせた礼儀正しさで彼に教えを請うた。彼は船長室グレートキャビンでブラッドと食事を共にし、そして三名の士官オフィサーが彼の助手として選ばれた。ハグソープ、ウォルヴァーストン、ダイクである。

 彼等はドン・ディエゴを気持ちの良い、愉快な仲間とさえ思い、そして不運な状況における彼の不屈の精神と勇敢な沈着さは、彼に対する好意を助長した。

 ドン・ディエゴが公正に役割を果たしていないのではと疑うのは不可能であった。更にいえば、彼がそうしない理由というのは想定できなかった。そしてドン・ディエゴは彼等に対して最大限の率直さで接していた。彼はバルバドスを離れた際の、貿易風に乗って進むという選択を非難した。彼等は向かい風を受けてカリブ海を目指し、群島からは離れるべきであった。この選択ミスのせいで、キュラソー島にたどり着く為に再びこの島々を通過するように強いられているのであるし、この航路を乗り切るには、かなりのリスクを覚悟しなければならない。島々の間の如何なる方位ポイントであれ、この船と同等かそれ以上の船舶と遭遇する可能性があるのだ。それがスペイン船であれ英国籍の船であれ不都合には変わりなく、そして彼等は人員不足の故に戦闘可能な状態ではなかった。この危険を極力減らす為に、ドン・ディエゴはまず南へ、次に西へ向かうコースを指示し、彼等はトバゴ島とグレナダの間に針路をとって危険水域を無事通り抜け、比較的安全なカリブ海上に出たのであった。

「この風が続くなら」夕食の席において、ドン・ディエゴは現在位置を説明した後で彼等に告げた。「我々は三日以内にキュラソー島に着くはずだ」

 風は三日間吹き続け、それどころか二日目には少し強まり、三日目の夜に至っては強風が吹いたにもかかわらず、その時になっても未だ、彼等は初認陸地ランドフォールをしていなかった。シンコ・ラガス号は青い天球の下、両舷で波を切って進んでいた。キャプテン・ブラッドはドン・ディエゴに対し、懸念を含みつつそれを指摘した。

「明日の朝になるだろう」彼は平静に確信をもって答えた。

「諸聖人にかけて、スペイン人が『明日の朝』と言う時、その明日というのはやってきたためしがないのだよ、我が友よ」

「だが、この明日はくるよ、安心したまえ。君がどれだけ早起きだったとしても、必ず舳先に陸地を見られるはずだ、ドン・ペドロ」

 その説明を良しとして、キャプテン・ブラッドはその場を離れて彼の患者であるジェレミー・ピットの許に向かった。ドン・ディエゴが一命を拾う機会を得たのは、ひとえにピットの健康状態のお陰であった。この二十四時間、患者の熱は下がり、裂傷を受けた背中はピーター・ブラッドの手当てによって順調に治癒しつつあった。とりあえず、彼は暑苦しい船室キャビンに閉じ込められている事に不平を言える程度にまで回復したのは確かだった。患者の希望をかなえてやる為にキャプテン・ブラッドは甲板で新鮮な空気にあたる事を許し、暮れ残っていた空の輝きも消え去る頃、ジェレミー・ピットはキャプテンの肩を借りながら甲板まで上がった。

 倉口縁材ハッチコーミング上に腰を下ろしたサマセットシャーの若者は、感激と共に冷たい夜の空気で肺を満たし、お陰で自分はよみがえったと宣言した。それから船乗りの習慣により、彼の目は金色の光点が無数にきらめく暗い天球を逍遥した。しばらくは何もせず、ぼんやりと夜空を走査していた。それから彼の視線は急激に定まった。その目は横に立つキャプテン・ブラッドには丸く飛び出しているように見えた。

「天文には詳しいですか、ピーター?」彼は尋ねた。

「天文学だって?勘弁してくれ、こうやって眺めても、私にはオリオンのベルトとヴィーナスのガードルの区別もつかないよ」

「ああ!きっと他の海に不慣れな乗組員も、貴方と似たり寄ったりなんでしょうね」

「彼等に比べれば、私はかなりましな部類と考えた方がいい」

 ジェレミーは右舷船首方向、前方の天に見える光点を指し示した。「あれは北極星です」彼は言った。

「そうなのか?大したものだな、よくこれだけ大量の星の中から判るものだ」

「そして貴方の前方右手にある船首上に北極星が見えるという事は、我々が針路を北、北西、あるいは多分、北微西に取っている事になります。西方に10度以上向いて進んでいるかどうかも怪しいですから」

「それはまずいのか?」とキャプテン・ブラッドは驚いた。

「説明してくれましたよね――覚えてますか?――俺達はキュラソー島を目指して、トバゴ島とグレナダの間を通って群島の西にきたって。もしそれが現在の針路なら、北極星は船の真横に、あっちに見えるはずなんですよ」

 瞬時にブラッドは気を引き締めた。懸念で体をこわばらせた彼が口を開きかけた時、一条の光が彼等の頭上の闇を裂いた。それは丁度開かれたばかりの船尾楼甲板下船室プープキャビンの扉から射したものだった。扉は再び閉じられ、そして甲板昇降口階段コンパニオンを上る者がいた。ドン・ディエゴが近づいてきた。キャプテン・ブラッドの指は警告の為にジェレミーの肩をつついた。それから彼はドン・ディエゴに呼びかけ、他の者達が同席している時には常にそうしているように英語で話した。

「ドン・ディエゴ、ちょっとした言い争いを解決してもらえるかな?」軽い調子で彼は言った。「議論していたんだよ、ピットと私はね、北極星はどれなのかで」

「ほう?」スペイン人は気楽な調子で応じたが、その裏で笑いをかみ殺しているようだった。その理由は次の台詞で明らかになった。「しかし、確か貴兄はミスター・ピットが本船のナビガント(航海士)だと言っていなかったかな?」

「いないよりはまし、という程度なんでね」キャプテンは馬鹿にしたように冗談めかし、笑いながらそう言った。「あれが北極星かどうかで、銀貨百枚を賭けているんだ」そしてそのまま船の真横に見える光点を指し示した。後日、彼はピットに、ドン・ディエゴが彼の言を肯定していたら、その瞬間に彼を刺していただろうと語った。だが実際には、スペイン人は遠慮なく軽蔑を露にした。

「君の無知を保証しよう、ドン・ペドロ。貴兄の負けだ。北極星は向こうだ」彼はそれを示した。

「本当に?」

「親愛なるドン・ペドロ!」スペイン人はある種、面白がるような調子で抗議した。「間違えようがあるかな?方位磁針コンパスはないのかね?羅針儀ビナクルの処に行って、針路を確認するといい」

 彼の至極率直で、隠し事のある人間とは思えぬくつろいだ態度は、キャプテン・ブラッドの心から疑念を拭い去った。ピットの方は、それほど簡単には納得していなかった。

「御教示いただけますか、ドン・ディエゴ。キュラソー島を目的地とした場合に、何故、現在の針路をとるのですか?」

 またしても、ドン・ディエゴには何らの躊躇もなかった。「その疑問はもっともだ」彼はそう言って溜息をついた。「気づかれねばよいがと思っていたのだが。私は不注意だった――おお、この落ち度は責められてしかるべきだな。私は観察を怠っていた。悪い癖だ。計算を重視し過ぎるのだ。私には推測航法2に頼り過ぎる傾向がある。そして今日になってようやく四分儀クアドラントで確認して、南に0.5度寄り過ぎて進んできた為に、キュラソー島がほぼ真北になっている事に気づいたのだ。この為に到着が遅れる。だが、明日には着くはずだ」

 その説明は筋が通っている上、躊躇もなく率直に答えられた為に、ドン・ディエゴが執行猶予の条件に背いているという疑いを深める余地はないように思えた。そしてドン・ディエゴが再び船内に戻ってしまうと、キャプテン・ブラッドはピットに向かい、彼を疑ったのは馬鹿げていたと告白した。その経歴はともあれ、己の名誉や祖国を傷つける事に加担するくらいならば速やかに死を選ぶと表明した時、彼は己の品位を証明したのだと。

 スパニッシュ・メインの海にも、そこを庭にする命知らず達の流儀にも明るくないキャプテン・ブラッドは、未だ思い違いをしていた。だが次の夜明けは突然に、そして永久に、その思い違いを粉砕するはずであった。

 太陽が昇る前に甲板デッキに出ると、スペイン人が昨夜うけあった通り、彼は前方に陸地を見た。それは約10マイル前方にあり、大きな岬が彼等に向かって真っ直ぐに突き出し、長い海岸線は東西に広がる地平線となっていた。それを凝視した彼は眉を寄せた。キュラソー島がこれほどの大きさのはずはない。実際、これは島どころか本土にしか見えなかった。

 風上に向かい、陸へと吹く穏やかな微風を受けて縫航ほうこうしながら、彼は右舷船首方向に大型の艦船を視認し、それが3、4マイル先であり、トン数は自船と同等か更に上であろうと――距離を見積もったのと同様に――判断した。彼が見つめる間にも、その大型艦船は針路を変えて帆を詰め開きクローズホールドにし、彼等に向かってみるみる近づいてきた。

 仲間達のうち十名ほどは船首楼フォアキャッスル上でざわめき、身を乗り出して先を眺めており、彼等の笑いと話し声は巨大なシンコ・ラガス号の端から端まで響き渡って、彼の立つ場所にまで届いた。

「ここが……」と、優美なスペイン語で、背後から穏やかな声が告げた。「約束の地だよ、ドン・ペドロ」

 その声に潜む押し殺した歓喜が疑いを呼び起こし、彼が半ば抱いていた疑念は完全なる不信となった。即座に振り返ってドン・ディエゴに対面すると、ブラッドの目はスペイン人の顔から狡猾な微笑が消えぬうちに、そのひらめきをとらえた。

「目の前の光景に随分と御満悦だな――してやったりとでもいうように」ブラッドは言った。

「無論」スペイン人は手をこすったが、ブラッドはその手が震えているのに気づいた。「船乗りの本懐だからな」

「あるいは裏切り者の――どちらかね?」ブラッドが静かに彼に尋ねた。そして彼の言を肯定するようなスペイン人の豹変した表情によって全ての嫌疑は裏書きされ、ブラッドは遠い岸を指し示した。「あの陸地はどこなんだ?」彼は回答を要求した。「あれがキュラソー島の海岸だと言い張るほど厚顔ではあるまい?」

 彼は出し抜けにドン・ディエゴへと歩み寄り、ドン・ディエゴはじりじりと後ずさった。「あれがどこなのか説明してやろうか?この私の方から?」猛烈な勢いで自らその回答を述べようとするブラッドに、スペイン人は驚き、茫然としているようだった。何故ならば、ドン・ディエゴは未だ自分の回答を口にしてはいなかったのだ。そしてキャプテン・ブラッドは推量――あるいは確かな狙いあっての推論――をした。あのような海岸線は本土のものではないと彼にはわかっており、そして本土でないとすれば、キューバかイスパニョーラ島以外には有り得ない。ブラッドは現在、キューバが更に2度北西にあるのを念頭に置いて、ドン・ディエゴが裏切りを意図したとすれば、それより更にスペイン領に近い地点に向かうであろうと素早く推論した。「あの陸地はな、腹黒いスペインの背誓犬め、イスパニョーラ島3だ」

 そう言うと、彼は自分の推論の真偽を物語るように、ドン・ディエゴの浅黒い顔から血の気が引いてゆくのを間近に見た。しかしスペイン人は既に船尾甲板クォーターデッキ中央まで後ずさっており、下にいる乗組員達の目からは、彼等の姿は後檣帆ミズンスルによってさえぎられていた。彼の唇はうなるような微笑に歪んでいた。

「ああ、ペロ・イングレス!(イングランドの犬め!)物知りじゃないか」彼は息を荒らげながらそう言うと、キャプテンに跳びかかった。

 互いの腕で組み合いながら、キャプテン・ブラッドの右の足払いでスペイン人はバランスを崩し、二人は甲板上からもつれ落ちた。スペイン人は腕力に頼っており、それは相当のものだった。しかしそれは、奴隷に身を落とすという波瀾によって鍛えられたアイルランド人の無駄のない身体には太刀打ちできなかった。彼はブラッドを絞め殺して、あの大型船がこちらを制圧するまでの半時間を稼ごうとした。――このスペイン水域内のイスパニョーラ島沖で堂々と航行している以上、あれがスペイン船であるのは必定だった。しかしドン・ディエゴの画策は全て露見し、完全に無駄となった。彼がそれを悟ったのは甲板上で仰向けに押さえ込まれた時であり、キャプテンの叫び声に応じた男達の足音が甲板昇降口階段コンパニオンに騒がしく響く間も、ドン・ディエゴは自分の胸の上で跪くように体重をかけているブラッドによって身動きがとれなくされていた。

「この体勢のまま、貴様の腐った性根の為に祈ってやろうか?」キャプテン・ブラッドは猛々しく嘲笑った。

 だが打ち負かされたスペイン人は、今や望みを絶たれたにもかかわらず、無理やり唇に微笑を浮かべて虚勢の為に嘲り笑った。

「あのガレオン船がやってきて、こちらに板を渡して乗り込んできた時、貴様の為に祈る人間はいるのかな?」

「あのガレオン船!」ドン・ディエゴの裏切りがもたらすものを避けるには既に手遅れなのだという突然の恐ろしい認識と共に、キャプテン・ブラッドは鸚鵡返しに言った。

「あのガレオン船」ドン・ディエゴは冷笑を深めながら繰り返し、そして付け加えた。「あの船が何なのか知っているか?教えてやろう。あれはエンカルナシオン号、カスティリャ海軍提督ドン・ミゲル・デ・エスピノーサの旗艦だ、そしてドン・ミゲルは私の兄だ。実に幸運な遭遇だな。全知全能なる神は、我等がカトリック・スペインをみそなわしたもう」

 今やキャプテン・ブラッドの態度には、ユーモアも洗練も跡形もなかった。彼の輝く瞳は燃え上がり、その表情は硬くなった。

 彼は部下達にスペイン人を任せて立ち上がった。「奴を縛り上げろ」と彼等に命じた。「手首と足首をくくり上げろ、だが、傷つけるな――奴の有難い髪の毛一本傷つけるなよ」

 その禁止命令は必須であった。ほんの少し前に逃れてきたばかりの労役よりも、更に酷い境遇の奴隷に落とされる可能性が高いのだという考えに狂乱した者たちは、この場でスペイン人の手足を引き千切りかねなかった。そして今、彼等がキャプテンに従い自制したのは、その声がにわかに帯びた非情な響きが、ドン・ディエゴ・バルデスに対し死よりもはるかに激烈な何かを約束していたからに過ぎなかった。

「人間の屑!汚い海賊め!随分と信義に篤い男だな!」キャプテン・ブラッドは虜囚に呼びかけた。

 しかしドン・ディエゴは彼を見上げて笑った。

「私を見くびっていたな」彼は全ての者に理解できるように英語で話した。「私は死など恐れないと言ったはずだ、それを貴様の前で証明してやる。身の程を知れ。貴様なぞ、イングランドの駄犬に過ぎんのだ」

「アイルランドのだよ、生憎だが」キャプテン・ブラッドは訂正した。「で、貴様の執行猶予はどうなると思うね、スペインの野良犬殿?」

「この美しいスペイン船を貴様等のような下衆どもに引き渡し、我が同胞たるスペイン船と戦わせる為に私の命を救うとはな!はッ!」ドン・ディエゴは喉で笑った。「冗談ではない!さあ殺すがいい。ふん!実に結構。私は己の務めを果たして死ぬのだ。一時間以内に貴様はスペインの虜囚となり、そしてシンコ・ラガス号は再びスペインの所属となるのだ」

 キャプテン・ブラッドが平然としているように見えたとしても、それは濃い日焼けが血の気が引く様を目立たなくしていたに過ぎなかった。この囚人によって一瞬のうちに激高し、凶暴化した叛逆流刑囚達は、文字通り波のように押し寄せた。「そいつの血をぶちまけてやれ」

「待て」キャプテン・ブラッドは厳然として命じ、それから身をひるがえすと、手摺の側まで歩いた。彼がその場に立ったまま自分の考えに没頭していると、ハグソープ、ウォルヴァーストン、そして砲手ガンナーのオーグルが加わってきた。押し黙ったまま、彼等はブラッドと共に海の向こうにいるもう一隻の船を凝視した。その船は風上に向かって方位を1度修正し、今やシンコ・ラガス号と合流する線上を帆走していた。

「半時間もしないうちに」ようやくブラッドが口を開いた。「あの艦に近接されて、我が方の甲板に砲弾を叩き込まれているだろうな」

「俺達は戦える」片目の大男が宣言した。

「戦いだと!」ブラッドは冷笑した。「丸腰同然の二十人の寄せ集めという戦力で、どう戦うつもりだ?いや、方法はたった一つ。この船には何の問題もないと奴等に納得させて、このまま航海を続けさせるように仕向ける為に、我々全員がスペイン人だと思わせるんだ」

「どうやったらそんな事が可能になるんです?」ハグソープは尋ねた。

「そう簡単にはいかない」ブラッドが言った。「それには条件が…」それから彼は突然口をつぐむと、深緑の海面をにらんだまま立ち尽くし、考え込んでいた。皮肉で混ぜ返すつもりのオーグルが苦々しげに口を挟んだ。

「俺達全員がカトリック王の忠臣だって、兄貴の提督相手に保証してもらう為に、ドン・ディエゴ・デ・エスピノーサをスペイン人の部下を満載したボートで行かせりゃいいんですよ」

 キャプテンはくるりと振り返り、一瞬、殴りつけようと意図しているかのようにオーグルを見た。それから彼の表情は変化した。彼のまなざしには天啓の光があった。

主よビダッド!それだ。この忌々しい海賊は死を恐れていない。だが息子の方には別の見解があるかもしれない。孝心が重んじられる事、スペインでは絶大だからな」彼は突然にきびすを返すと、スペイン人を取り押さえている者達の許に大股で戻った。「こっちだ!」彼等に大声で言った。「奴を下まで連れて行け」そして彼は先頭に立って中部甲板ウエストに降り、更にそこから艙口蓋ブービーハッチを通って、タールと縒縄スパニヤンの悪臭で満たされた甲板間の空間トゥイーンデッキの暗がりへと進んだ。船尾まで行くと、ブラッドは広い上級士官室ワードルームのドアを開け放ち、その後を縛り上げられたスペイン人と共に1ダースの部下が続いた。一部の者にハグソープと共に甲板に残るようにと厳しく命じていなければ、全ての乗組員が彼の後に従っていただろう。

 士官室にはスペイン人砲手が置き残していったままに、三門の船尾迎撃砲スターンチェイサーが装填済みの砲口を砲門から突き出して鎮座していた。

「オーグル、君にうってつけの仕事だ」ブラッドはそう言い、そして呆然と見とれている男達の小集団の中から屈強な砲手が進み出てくると、中央にある迎撃砲を指し示し、「その砲を運び出せ」と命じた。

 その作業が完了すると、ブラッドはドン・ディエゴを拘束している者を手招きした。

「砲口に奴を縛り付けろ」そう命じると、彼等は即座にもう二名の手を借りて指令を果たすべく急ぎ、その間にブラッドは残りの部下達に向き直った。「何名かは後部船室ラウンドハウスに行って、スペインの捕虜達を連れてこい。それからダイク、上に行ってスペイン旗を掲げるよう命じるんだ」

 砲口に大の字にされ、両側の砲架に脚と腕をきつく縛りつけられたドン・ディエゴは、狂ったようにキャプテン・ブラッドをにらみつけた。死を恐れない人間であっても、その死に方については怖気を振るうものなのかもしれない。

 泡を吹いた唇から、彼は呪詛と罵倒の言葉を迫害者達に浴びせた。

「この野蛮人!人外のけだもの!忌まわしい異端者め!キリスト教徒にふさわしいやり方で殺すだけでは満足できんのか?」キャプテン・ブラッドは彼に悪意に満ちた微笑を向けてから、眼前に突き出された十五名の手錠をかけられたスペイン人捕虜達を振り返った。

 こちらに向かう間にも、彼等にはドン・ディエゴのわめき声が聞こえていた。今、彼等はその恐怖にとらわれた目で、ドン・ディエゴの苦境を間近に眺めた。捕虜達の中から、見目の良いオリーブ色の肌をした若者であり、他の者達とは振舞いや衣服が明らかに違う者が、「父上!」と叫びながら前に出てきた。

 若者は彼を羽交い絞めにしようとする何本もの腕に抗ってもがきながら、この惨事を避けられるように天国と地獄に呼びかけ、そして最後にキャプテン・ブラッドに向かって荒々しくも哀れっぽく慈悲を請うた。彼を見つめながら、キャプテン・ブラッドは若者の見せた充分な孝心に満足を覚えた。

 後日になって告白しているが、この時、彼は一瞬、情に流されそうになり、彼の心はしばし非情な計画に抗ったという。だが、そのような感傷を正す為に、彼はこのスペイン人達のブリッジタウンでの行いを思い出そうと努めた。彼が殺したあの暴漢が嘲りながら追ってくるのに怯えながら逃げる、うら若いメアリー・トレイルの蒼白な顔が眼前によみがえり、そしてあの恐ろしい夕刻に目撃した筆舌に尽くし難い光景が、目的を前にした彼のためらいを叱咤するように次々と脳裏に浮かんだ。あのスペイン人達は如何なる種類の慈悲も感傷も品性もなく振舞っていた。信仰に凝り固まっているくせに、キリスト教精神のかけらも持ちあわせない。そのような者達の信仰のシンボルが、今も接近してくる艦の大檣メインマストに掲げられているのだ。先程も、残酷で邪悪なドン・ディエゴは、主がカトリック・スペインに対し特別の御加護をお与えくださっているのだという僭越な思い込みによって、全能の神を侮辱していた。ドン・ディエゴは己の誤りを思い知るべきだろう。

 己に課せられた務めに臨むに際しての冷笑的な態度、適切な演出には不可欠の冷笑的態度を取り戻し、彼はオーグルに、ドン・ディエゴをくくりつけた大砲の点火口タッチホールから鉛の火蓋エプロンを取り除いてマッチに火をつけるように命じた。するとドン・エステバンが再び呪詛の入りまじった祈願により割って入り、ブラッドは若者の方に向きを変えた。

「落ち着け!」彼は鋭く言った。「落ち着いて聞くんだ!君の父親を彼にふさわしい地獄に吹き飛ばしたり、息の根を止めたりする事が私の目的ではない」

 その断言――この状況下においては完全に想定外の断言――によって、二の句が継げなくなるほど若者を驚かせると、次に彼は幸いにも――ドン・ディエゴの為にも、彼自身の為にも幸いな事に――母国語同然に流暢で品の良いカスティリャ語で自分の目的を説明した。

「この苦境の中に、そして拿捕される危険の中に我々を故意に誘い込み、スペイン船に乗った死神を呼び込んだのは君の父上の背信だ。ドン・ディエゴが兄の旗艦を識別したのと同様、兄の提督の方もシンコ・ラガス号を識別してしまっているだろう。今までの処は、何ら問題はない。しかし程なくエンカルナシオン号は、当船が問題ないどころではないと察知するのが可能な距離まで接近するはずだ。遅かれ早かれ何かがおかしいと疑いだすか、目ざとく発見するかして、次には砲撃するか当船との間に板を渡して乗り込んでくる。今の我々は戦える態勢にない。君の父上が、それを承知の上で我々を罠に追いやったようにな。だが戦う以外に道がないというのなら、我々はその道をとる。我々は残忍なスペイン軍にむざむざと降伏はしない」

 彼はその手をドン・ディエゴがくくりつけられた大砲の砲尾に置いた。

「わかるかな。エンカルナシオン号からの第一打に対して、この砲は返礼として火を吹くだろう。私の言いたい事が理解してもらえただろうか?」

 蒼白になり、震えながら、ドン・エステバンは自分に視線を定めている無慈悲な青い瞳に見入った。

「理解?」たじろいだ彼は、全員が固唾を呑んで見守る中、沈黙を破った。「だが、主の御名において、何を理解しろというのだ?どう納得しろと?お前は戦いを避ける事ができるのか?そんな方法があるのなら、私であれ、彼等であれ、その為にお前に手を貸せる事があるのなら――それがお前の意味する処なら――天の御名において、それを言ってくれ」

「もしドン・ディエゴ・デ・エスピノーサが兄の船に乗り込み、彼の立会いと保証によって、あの旗が示すようにシンコ・ラガス号が未だ真実スペイン船であり、何ら問題などないと提督に納得させられれば、戦いは避けられるだろう。だが無論、ドン・ディエゴは自ら赴く事はできない、何故なら彼は……そう、身動きがとれないからな。彼には微熱があり、その為に――なんと言えばいいかな?――船室に閉じ込められている。だが君が、彼の息子である君が伯父上に、この事情や他のちょっとした問題を伝えるんだ、父上からの挨拶と共にね。君はこのスペインの捕虜六名が乗ったボートであちらに向かい、そして私――君達の最近の襲撃によってバルバドスでの拘束から救われた、誉れ高きスペイン人――は君のお目付け役として同行しよう。もし私が生きて戻り、尚かつ、これより先の自由な航海を妨げる如何なる種類のアクシデントもなければ、ドン・ディエゴは生命を保証されるだろう、君達全員と同様に。しかし、わずかであれ裏切りや不測の事態による――そのどちらであろうと私にとっては同じ事だ――アクシデントが発生し、私が先程解説させてもらったような戦いになれば、この大砲が我々の側の第一打に使用され、そして君の父上がこの戦いの最初の犠牲者となるだろう」

 彼は一旦、言葉を切った。彼の仲間達からは賛意を示す低いどよめきが起こり、スペインの捕虜達は不安に身じろぎした。顔色を失い、頬を涙に濡らして、ドン・エステバンは彼の前に立っていた。彼は父親からの意思表示を待った。しかし反応はなかった。ドン・ディエゴの勇気は、悲しいかな、野蛮な試練によって衰えてしまったように見受けられた。酷いいましめを受けた彼は力なく吊るさがり、そして沈黙を守っていた。どうやら彼は、あえて自分の息子に反抗をうながす事はせず、そして恐らくは屈服をうながす事も恥じているようだった。それ故に、こうして彼は息子に決定をゆだねたのだろう。

「さあ」ブラッドが言った。「私の意図は充分に理解できたと思うが?さて、君の返答は如何?」

 ドン・エステバンは乾き切った唇を湿らせ、手の甲で額から冷や汗をふき取った。彼の目は導きを乞うかのように、しばし必死に父親の肩を凝視した。しかし彼の父は無言だった。すすり泣きらしきものが若者から漏れた。

「わた……私は受け入れる」ようやく彼は答え、それから同胞達を振り向いた。「同じく、諸君等も――諸君等も受け入れるだろう」彼は力説した。「ドン・ディエゴの為に、そして諸君等自身の――我々全員の為に。もしも従わなければ、この男は情け容赦なく我々全員を屠殺するだろう」

 ドン・エステバンが屈服し、そして彼等の首領も抵抗を勧めないというのに、何故わざわざ彼等が徒労に過ぎない英雄行為の真似ごとで身の破滅を招くというのだろう?さしたるためらいもなく、彼等は要求された通りの事を行うと答えた。

 ブラッドは向きを変え、ドン・ディエゴの方に進んだ。

「このような姿勢で不自由をさせて済まないな、しかし…」一瞬、彼は言葉を切って囚人を観察し、眉をひそめた。それから、そのほとんど気づかれる事のない休止の後、彼は更に続けた。「君がこの拘束以上の不自由を経験する事はないであろうし、これが可能な限り短い時間で済むと約束しよう」ドン・ディエゴは無言のままだった。

 ピーター・ブラッドはしばし佇み、彼を観察した。それから彼は一礼し、そしてきびすを返した。


  1. 大航海時代におけるカリブ海沿岸のスペイン領。フロリダ半島からメキシコ、中米、南米北岸まで。 

  2. Dead Reckoning 船の元の位置がわかっている時に、時間・船速・進行方向から相対的な現在位置を推定して目的地を目指す航法。 

  3. 【1686年時点のカリブ海】
    1818 Pinkerton Map of the West Indies
    図版 1818 Pinkerton Map of the West Indies, Antilles, and Caribbean Sea(パブリックドメイン)
     諸島のうち、東から西へ吹く貿易風の風下(leeward)に位置する島々をリーワード諸島、風上(windward)に位置する島々をウィンドワード諸島と呼ぶ。リーワード諸島は英仏オランダ領が入りまじり、ウィンドワード諸島のうち、南方の島々は概ね英国領、北方の島々はフランス領になっている。
    ※バルバドス島、トバゴ島、グレナダ島は英国領。キュラソー島はオランダ領。
    ※フロリダ半島、メキシコ、中米、南米北岸はスペイン支配域であり、イスパニョーラ島は西側三分の一がフランス領、残りはスペイン領。トゥルトゥーガ島はフランス領。ジャマイカ島は英国領。 

一二 ドン・ペドロ・サングレ

 シンコ・ラガス号とエンカルナシオン号は、礼儀正しくシグナルを交わしてから四分の一マイル弱ほど離れた位置で停止し、そして両船の間で穏やかに波打っている陽に照らされた水面を、前者から降ろされた一艘のボートが渡っていった。それは艇尾床板スターンシートにドン・エステバン・デ・エスピノーサとキャプテン・ピーター・ブラッドを乗せた、スペイン人船員六名の漕ぐボートであった。

 そのボートには、8レアル銀貨五万枚を納めた二つの宝物箱も積まれていた。金銭とは常に最も雄弁なる誠意の証とされるものであり、あらゆる面で徹底的に体裁を整える事がこちらの利に働くという理由から、ブラッドはこの決定を下した。彼の仲間達はこれを必要以上の偽装と考えた。しかしこの件に関するブラッドの強い意志が彼等を制した。更に彼は、エスピノーサ家の紋章で厳重に封印された、スペインの閣下グランデ宛ての大きな包み――シンコ・ラガス号の船室キャビン内で急ごしらえされた、もう一つの証拠品――を用意し、歳若い同伴者に指示を確認する事により最後の仕上げをした。

 ドン・エステバンは最後まで消え残る不安を口にした。

「だが、貴様がしくじった場合はどうなる?」彼は叫んだ。

「それは皆にとっての不幸だな。私は君の父上に我々の成功を祈るように助言した。私は君が本気で私に協力してくれるのを当てにしているよ」

「最善を尽くす。私が間違いなく最善を尽くすのは、主も御存知だ」若者は抗議した。

 ブラッドは何事か思案しつつ頷くと、彼等がエンカルナシオン号のそびえ立つ巨体の舷側に行き当たるまで、それ以上の言葉は発しなかった。ドン・エステバンは梯子ラダーを登り、彼から離れぬようにしてキャプテン・ブラッドが後に続いた。中部甲板ウエストには彼等を歓迎する為に提督自らが待ち構えていたが、彼は端正で高慢そうな顔立ちをした非常に背が高く姿勢のよい男性であり、ドン・ディエゴよりもやや年長で白髪まじりではあるが、弟とよく似ていた。彼は四名の士官と、黒と白のドミニコ会士の衣をまとった修道士一名を伴っていた。

 その拭い去れぬ狼狽を喜びによる興奮と見間違えたドン・ミゲルは、両腕を広げて我が甥を抱きしめると、ドン・エステバンの仲間を歓迎する為に振り返った。

 ピーター・ブラッドは優雅に一礼し、外観から判断する限りでは、完全にくつろいでいるように見えた。

「我が名は」と、彼は自分の名前をそのままスペイン語に訳して自己紹介した。「ドン・ペドロ・サングレ、不運なるレオンの紳士です。つい先日、ドン・エステバンのまことに勇敢な御父上によって、虜囚の境遇より救い出されました」そしてバルバドス島を支配する忌まわしい異端者達の虜となり、そこから救出されたという架空の顛末を手短に語った。「ベネディカムス・ドミノ(主を讃美せん)」と修道士が彼の身の上話に対して言った。

「エクス・ホク・ヌンク・エト・ウスクエ・イン・セクルム(今より、とこしえに至るまで)」便宜的旧教徒パピスト1のブラッドはそう返し、目を伏せた。

 提督と彼に従う士官達は同情を込めて傾聴し、彼に対して暖かな歓迎の意を表した。それから恐れていた質問がなされた。

「ところで、我が弟はどこにいる?何故、挨拶に出てこないのだ?」

 これに答えたのは甥のエスピノーサであった。

「父は伯父上に御挨拶をする名誉と喜びを断念せねばならぬ事を遺憾に思っております。しかし生憎あいにく、父は体調が思わしくありません――いえ、重篤ではないのですが、船室を離れられぬ程度には重いもので。先頃、こちらの紳士の喜ばしい救出をもたらした、バルバドスへの襲撃の際に受けた軽症が元の発熱です」

「否、我が甥よ、否」ドン・ミゲルが皮肉を込めた否定と共にさえぎった。「それに関して私は知るべきではない。私はこの海上においては、カトリック王陛下2の代理人を務める誉を賜っており、陛下は英国王とは友好関係にあるのだ。お前は私が知るべきでない話題を口にした。私は忘れるように努めよう。そして諸君等も……」と彼は部下達に視線を走らせてから付け加えた。「忘れるように」しかし彼はキャプテン・ブラッドのきらめく瞳に向けて目くばせした後に、そのきらめきを消し去る一言を付け加えた。「だが、ディエゴが私の許に来るのがかなわぬというなら、私が彼の許に赴くとしよう」

 一瞬、ドン・エステバンの顔は蒼白い恐れの仮面と化した。するとブラッドは、丁重さと厳粛さと、そして狡猾な嘲りとを織り交ぜた、秘密めかした調子で声を低めて発言した。

「失礼ながら、ドン・ミゲル、それは閣下が避けるべきお振舞い――まさしくドン・ディエゴが最も望まぬ行いですぞ。ドン・ディエゴのお怪我が治るまで、閣下は彼にはお会いにならぬ方が賢明です。それが彼自身の望む処。彼が今、ここに居らぬ本当の理由なのです。実を申せば、ドン・ディエゴのお怪我はこちらへの訪問を妨げるほど重いものではないのです。お二人が一連の事件について直接お話しになられた場合の、閣下のお立場への影響をおもんぱかった為なのです。お言葉の通り、カトリック王陛下とイングランド王とは友好関係にありますが、閣下の御賢弟ドン・ディエゴは……」彼は言葉を切った。「これ以上は言わずもがな。単なる世間話とお受け取りください。御理解いただけましょうや」

 ドン・ミゲル閣下は思案しつつ眉を寄せた。「承知した……一部はな」彼は言った。

 キャプテン・ブラッドは一瞬、不安に駆られた。このスペイン人は、私に疑いを持ったのだろうか?しかし服装とカスティリャ語によって、完璧にスペイン人になりおおせている自信はある。その上、ドン・エステバンの存在が身元の保証となっているはずではないか?彼は提督が言葉を継ぐ前に、更なる保証を与える為に畳み掛けるように言った。

「そして我々は、閣下にお引渡しする為に、下のボートに銀貨五万を収めた二つの箱を積んでまいりました」

 ドン・ミゲルは飛び上がるように驚き、彼の士官達はどよめいた。

「ドン・ディエゴがせしめた身代金です……くだんの総督から」

「それ以上は口にしてはいかん、主の御国にかけて!」懸念から提督は叫んだ。「弟は私がこの金を引き受けて、彼の為にスペインに運ぶ事を望んでいるというのか?まあ、それは弟と私の身内同士の問題だ。従って、それは可能ではあるのだが。しかし、私としては関知…」彼は突然言葉を切った。「うむ!私の船室でマラガワインを一杯いかがかな」彼は一同を誘い、「あの宝箱が運び込まれる間に」と続けた。

 ドン・ミゲルは宝箱の積込みに関する命令を下すと、四人の士官と修道士を従えて、客人達を王宮の一室のような彼の船室に案内した。

 皆が各自の席に着き、それぞれの前に置かれたグラスに黄褐色のワインを注いだ従卒が退出してしまうと、ドン・ミゲルは笑いながら白髪まじりの鋭い顎鬚を撫でた。

「ビルゲン・サンティシマ!(聖処女よ!)我が弟の思慮深い事よ。指摘がなければ、このような時に無謀にも彼の船に乗り込んで厄介事に巻き込まれていたかもしれん。そこで目にしていたかもしれぬ物に関して、スペイン海軍の提督としての私は、立場上、無視する事が難しかったはずだ」

 エステバンとブラッドはすかさず彼への同意を示し、続いてブラッドがグラスを掲げ、スペインの栄光と、イングランドの王座を占拠した愚かなジェームズへの天罰を祈って乾杯した。彼の乾杯の辞は、後者に限れば嘘偽りないものであった。

 提督は笑った。

「ドン・ペドロ、ドン・ペドロ、ここに私の弟がいれば、貴君の軽率な振舞いをとがめているだろう。カトリック王陛下と英国王が、まことに良き友人同士である事を忘れてはならんな。それはこの船室で発するにふさわしい乾杯の辞ではない。とはいえ、既に発されてしまった事であるし、それにこれはイングランドの犬どもを憎む正当な理由を持つ人によるものである以上、我々としては重んじざるを得まい――ただし、内々にな」

 一同は笑い、そしてジェームズ王への天罰に乾杯した――ごく内々に、しかしそれ故に殊更、熱烈に。それから父の身を案じたドン・エステバンは、酷い状態に置き残されたドン・ディエゴが今この瞬間も苦しみ続けている事を思い出し、立ち上がって自分達はもう辞さねばならないと告げた。

「父は」と彼は説明した。「サント・ドミンゴに急いでおります。故に御挨拶を済ませたら、すぐに戻るようにと申しておりました。よろしければ、そろそろお暇をいただきたいのですが、伯父上」

 そういう事情であればと、『伯父上』は強く引き止めなかった。

 彼等が船端に戻った時、ブラッドの懸念を含んだ視線は、舷檣ブルワークに身を乗り出しているエンカルナシオン号の船員達の上を走った。彼等は梯子ラダーの下で待機している小艇コックボート内のスペイン人達と無駄話にふけっていた。だが彼等の様子はブラッドの懸念が杞憂であると物語っていた。ボートの乗員達は賢明にも寡黙を通していた。

 提督は彼等に別れの辞を告げた――エステバンには愛情を込め、ブラッドには厳かに。

「名残惜しい事だ、ドン・ペドロ。今少しゆるりと、このエンカルナシオン号に滞在していただきたかったのだが」

「まことに残念です」キャプテン・ブラッドは丁寧に答えた。

「再びお目にかかる機会があればよいのだが」

「それがかなうならば、無上の喜びですな」

 彼等はボートに乗り込むと、巨大な船体を離れて漕ぎ出した。遠ざかってゆく彼等に向けて提督は船尾手摺タフレールから手を振り、彼等の耳には水夫長ボースンが各自に持ち場へ戻るようにと合図する号笛ホイッスルの鋭い音が響いた。そしてボートがシンコ・ラガス号に到着する直前、彼等はエンカルナシオン号が帆を張り船首を回す姿を見た。エンカルナシオン号は彼等の為にわずかに旗を下げ、船尾からは一発礼砲が撃たれた。

 シンコ・ラガス号にも約一名、お返しの礼砲を撃つ機知のある者――それは後でハグソープとわかった――がいた。喜劇は終わった。しかしエピローグとして、劇全体に残酷で皮肉な味を加える一場が控えていた。

 一同がシンコ・ラガス号の中部甲板ウエストに足を踏み入れた時、彼等を迎える為にハグソープが進み出てきた。ブラッドは彼の顔に半ば怯えたような表情が張りついているのを見て取った。

「君も気づいたのか」彼は静かに言った。

 ハグソープの目には問いが浮かんでいた。しかしそれが何であれ、彼は心中にあるものを振り払った。

「ドン・ディエゴ…」と彼は話しだしたが、すぐに口をつぐむと、奇妙な表情でブラッドに目くばせした。

 その逡巡と表情に気づいたエステバンが、憤怒の面持ちで飛ぶように駆けてきた。

「この駄犬め、約定を裏切ったのか?父上の身に危害を加えたのか?」彼は叫び――そして彼の背後にいる六名のスペイン人達は怒りと共にその問いの答えをやかましく要求した。

「我々は約定に反してはいない」ハグソープはきっぱりと、彼等を黙らせるほど毅然とした口調で告げた。「そしてこの場合、約定に反する必要はなかった。君達がエンカルナシオン号に着くより前に、ドン・ディエゴはいましめられたまま死んだのだ」

 ピーター・ブラッドは沈黙を保っていた。

「死んだ?」エステバンは絶叫した。「お前が父上を殺したという事か。父上は何故、亡くなられたのだ?」

 ハグソープは若者を見た。「私の見立てでは」彼は言った「ドン・ディエゴは恐怖に耐えられなかったのだ」

 ドン・エステバンはハグソープの顔面に一撃を食らわせ、ハグソープはやり返そうとしたが、ブラッドが彼等の間に割って入り、部下達が若者を押さえつけた。

「いい加減にしろ」ブラッドは言った。「君は彼の父親に対する侮辱で、あの若者を挑発した」

「侮辱したつもりはありません」ハグソープは頬をさすりつつ言った。「事実ですから。こっちに来て見てください」

「もう見た」ブラッドは言った。「彼が死んだのは、私がシンコ・ラガス号を離れる前だ。私がここを離れる前に話しかけた時には、既に彼は縄に掛かったまま死んでいた」

「何を言ってるんだ?」エステバンが叫んだ。

 ブラッドは厳粛な面持ちで彼を見た。完全に厳粛ではあったが、陽気さを欠いているとはいえ、それでも微笑に近い表情を浮かべていた。

「もし君がそれを知っていたら、どうしていた?」ようやく彼はそう尋ねた。一瞬、ドン・エステバンは目を大きく見開き、不信を込めて彼を凝視した。「貴様なぞ信じられるものか」ようやく彼はそう答えた。

「それならそれでもいい。私は医者で、死の見立てには慣れている」

 確信が若者の心に染み透る間、再び沈黙が降りた。

「もしも私がそれを知っていたら」遂に彼はかすれた声で言った。「貴様は今頃、エンカルナシオン号の桁端ヤードアームからぶら下がっていただろうな」

「わかっている」ブラッドは言った。「それについては考慮している――他者の無知に付け込んで得た利益だという事は」

「だが、いずれ貴様はそこにぶら下がるだろうよ」少年がわめき立てた。

 キャプテン・ブラッドは肩をすくめてきびすを返した。しかし、その夜のうちに船室で行なわれた会議で見せたように、彼はドン・エステバンの言葉を軽んじていた訳ではなく、そしてそれはハグソープにとっても、あの発言を耳にしていた他の乗組員達にとっても同様に聞き流してよいものではなかった。

 この会議はスペイン人捕虜達の処遇について話し合う為に開かれた。この船には水と食料が不足しており、ピットが未だ航海士ナビゲーターを務められる状態ではないという事情も考え併せると、現状ではキュラソー島へ渡るのは困難が過ぎ、まずはイスパニョーラ島の東を目指し、更にその北の海岸沿いに進んで、カリブの海賊バッカニア達の集う地であるトルトゥーガ島に向かう以外に選択肢はないとの決定が既になされていた。あの無法の港ならば、少なくとも彼等が再び捕らえられる危険はないであろうと思われた。問題は、そこにスペイン人達を伴うべきか、それともほんの10マイル先にあるイスパニョーラ島の海岸にたどり着けるように、ボートを与えて彼等を解放するべきか。この二つがブラッド自身が推す道であった。

「他に道はあるまい」彼は強く主張した。「トルトゥーガ島に連れて行けば、連中は生皮をはがされるだろう」

「あの豚どもにゃ、それでも足りんでしょうよ」ウォルヴァーストンは怒りを込めて言った。

「思い出してください、ピーター」ハグソープが口を挟んだ。「今日、あの若者が口にした、貴方に対する脅し文句を。もし彼が逃げおおせて伯父の提督に一連の顛末を知らせたら、あの脅し文句は簡単に現実になるでしょう」

 このような議論によってもピーター・ブラッドが頑として己の意見を変えなかったという事実は、彼の美質を物語るものである。これは瑣末事に過ぎるかもしれないが、しかし彼の悪行について多くを記述せざるを得ないこの物語において、筆者は彼の仁徳がうかがえる挿話や、彼の特質である皮肉癖は生まれ持った性質というよりも、むしろ彼の理性と世の不正への恨みの念に起因している事を明らかにするような詳細を――この物語は彼の擁護を試みた原稿という性質もあるので――なおざりに扱う訳にはいかないのである。「彼の脅し文句なぞ、気にする必要はない」

「気にしなきゃいけませんよ」ウォルヴァーストンが言った。「この場合、一等賢いのは、あの餓鬼と残り全員の首を吊る事だ」

「賢明である事は、人間的ではない」ブラッドが言った。「誤ちを犯す方がはるかに人間的だ、恐らく慈悲の側に誤るのは稀有だろうがね。我々は稀有になろうじゃないか。ああ、真っ平だ!私は冷酷な殺しをするような気分ではない。夜明けになったら、あのスペイン人達に小樽ひとつ分の水と団子ダンプリング一袋を持たせてボートに乗せろ。そして悪魔の許へでも行かせるんだ」

 その言葉はこの議題に対する彼の結論であり、そして彼に託された権限と彼の強い統率力は、この決定を皆に納得させた。夜明けにドン・エステバンと彼に従う者達は一艘のボートを与えられ、放逐されたのである。

 二日後、シンコ・ラガス号は、神の御業によってこの地を専有する者達の砦として創られたかのような、岩に囲まれたカヨナ湾に入った。


  1. 「便宜的国教徒」をもじった洒落。この時代、イングランドでは公職に就任する際に英国国教会の聖餐を受けて非国教徒ではない事を証明するように義務付けられていたが、就任時の儀式でのみ国教徒を装って公職に就く「便宜的国教徒」が続出していた。 

  2. カルロス世(1661年11月6日 ― 1700年11月1日)
    スペイン・ハプスブルク家最後の王(在位1665年 ― 1700年)。出生時から心身に重い障害があり、実際の国政は母や親族が行っている状態。「カトリック王」は15世紀末のグラナダ征服の功によりローマ法王からスペイン王に贈られた称号。 

十三 トルトゥーガ島

 ここで明かしておくが、キャプテン・ブラッドの偉業の数々が後世に遺されたのは、全てサマセットシャーの船乗りジェレミー・ピットの勤勉さに負うものである。航海士としての技量だけにとどまらず、この好青年は疲れを知らぬペンによっても才を発揮したのだが、彼の筆致はピーター・ブラッドに対する隠しようもない愛慕の念によって勢いを増していたように思われる。

 彼は自分がマスター、あるいは現代でいうナビゲーション・オフィサーを務めた砲四十門搭載のフリゲート艦アラベラ号の航海日誌ログを記していたが、それは私がこれまで類例を見た事のない書かれ方による日誌であった。その航海日誌は二十冊あまりの様々なサイズのノートに記されているのだが、そのうちの若干は散逸しており、残りの大半も判読不能な状態まで紙が劣化していた。筆者は時として困難が伴う日誌――それらはコマートンのジェームズ・スピーク氏の図書館に保存されている――の精読作業に際して、資料の脱落により苦慮する一方、残された原稿の過度の冗長さと雑多な総体から本当に不可欠な部分をより分ける面倒という問題も抱える事となった。

 私はジョン・エスケメリング1が――どのように、あるいはどこでという推測まではできないが――これらの記録に触れた事があり、そしてブラッドの偉業のいくらかを、彼のヒーローであるキャプテン・モーガンのものとして混入し、粉飾したのではないかと疑っている。だがこれは余談である。後々マラカイボの事件について物語る際に、エスケメリングの著書を読んだ人々が、実際にはピーター・ブラッドの事跡であるものをヘンリー・モーガンが本当に行ったと考えるのではという危惧から、念の為に言及したまでである。とはいえ、あの事件においてブラッドとかのスペイン海軍提督の両者を駆り立てた動機を真摯に考え、その事件がブラッドの人生の中で如何に重要な部分を構成しているか――モーガンの事跡とされるものの中では単なる一挿話に過ぎない――を考慮した者は、筆者と同じく剽窃が行われたという結論に達するであろうと思う。

 この航海日誌の冒頭部分は、ブラッドが初めてトルトゥーガ島にやってくるまでに起きた出来事を、ほぼ全て網羅する回顧に費やされている。この記述とタナット・コレクションの国事犯裁判記録が、これまでの処、筆者の拠る主な――しかし唯一ではない――史料である。

 ピットは前章で詳しく描写した事件に比重を置き、これのみがピーター・ブラッドがトルトゥーガ島に停泊地を求めた理由であるとしている。一部の者から非難を向けられていたらしき事情をおのずと物語るように、彼はかなりの分量を費やし、そして激烈な筆致を用いて、フランスによる半公然の保護下でトルトゥーガ島をねぐらにし、主な標的をスペイン船に定めた残忍な稼業に精を出す海賊バッカニア達と不幸にも手を結んだのは、ブラッドや彼の仲間達が初めから計画していた事ではなかったのだと力説している。

 ピットの記述によれば、フランスもしくはネーデルラントに向かうのがブラッドの本来意図した針路だった。しかし、これらの国のいずれかに彼を運んでくれる船を何週間も待つうちに、彼等の蓄えは次第に乏しくなり、遂には尽きてしまった。そしてまたピットは、ブラッドの内面に秘められた苦悩の兆候を察知したとも考えており、この時期の無為な日々は西インド諸島の気風が悪影響を及ぼした故であって、その為に上陸後に付き合った無頼漢達の次元まで己を落とす結果を招いたのだと説明している。

 筆者はピットが自分の英雄を正当化する為に手前勝手な弁解を行っているだけとは思わない。この当時、ピーター・ブラッドの心に重くのしかかる問題が存在していたのは推察できる。それはアラベラ・ビショップへの思い――その思いが彼の精神の中で、日に日に大きな存在になっていた事に疑いの余地はない。彼は決して成就する事のない憧れによる苦しみで煩悶していた。もはや永遠に手の届かぬ存在となってしまったにもかかわらず、彼はアラベラを切望した。そしてまた、彼はフランスかネーデルラントに渡る事を望んでいたかもしれないが、しかし仮にこれらの国にたどり着けたとして、彼には成すべき事は何もなかった。彼が何者かといえば、脱走した奴隷であり、祖国においては犯罪者であり、他国においては故郷を失った追放者であった。残るは万人に対して開かれた自由の海であり、そして自身がいわゆる人類社会と対立状態にあると感じている者達にとって、それはとりわけ魅惑的に思えた。更に、かつて彼を放浪生活に駆り立てた冒険を愛する精神について考慮し、そしてその精神が公権を剥奪された結果としての自暴自棄により高まっていた事情についても斟酌すれば、海戦における彼の経験と技量が、目の前に差し出された誘惑に手を伸ばすよう強力に後押しをしたのは不思議でもあるまい。あるいはそれでも尚、彼が遂に誘惑に屈した事は非難されるべきであろうか?そしてこのような誘惑は、トルトゥーガ島の悪漢達の憩いの場である居酒屋で冒険好きな山師達からそそのかされただけではなかった。ムッシュー・ドジェロン、この島の総督であり、湾の中に持ち込まれた全ての戦利品から入港税として10パーセントを徴収し、更にフランスの手形への交換を希望された現金に対して手数料を科す事によって私腹を肥やしていた人物からも勧められていた事情も念頭に置くべきだろう。

 イングランドやフランスやネーデルラントの、油ぎった酔いどれの冒険家やブカン・ハンター2、木こり、波止場ゴロ等から迫られれば嫌悪感を催す様相を帯びたであろう稼業も、フランス西インド会社の代表を務めている事からフランスという国の代表を務めているかのように考えられていた、礼儀正しく優雅な中年の紳士によって提唱されれば、公式の私掠免許を得た航海も同然の堂々たるものに感じられた。

 そしてまた、バルバドスのプランテーションからピーター・ブラッドと共に逃れてきた者達――その血の中に執拗かつ厳然たる海への憧れを持つ者達であり、それはジェレミー・ピット自身も例外ではない――も同様に行くべき先がなく、皆が皆、浜辺の同胞団に加わって無宿者となる事を決意した。そして彼等はブラッドを説得しようと試みていた他の者達に同調し、一同がバルバドスを脱出して以来そうであったように、今後も彼が指導者の役割を務めるように求め、ブラッドが導く処がいずこであろうと忠実に従うと誓ったのであった。

 この問題に関連した記録の要約として、ジェレミー・ピットはブラッドが外的な、そして内的な圧力に屈し、運命の流れに身をゆだねるという結論に至ったと記している。「ファータ・ウィアム・インウェニエント(運命は、その道を見出すであろう)3」これがブラッド自身の表現であった。

 その運命を受け入れる事にブラッドが抗い続けていたとすれば、それは彼を縛るアラベラ・ビショップへの思いが理由ではないかと筆者は考える。彼等が再びまみえる日は二度とないという事実は、当初、あるいはその時までは、切実な重荷ではなかった。自分が海賊に転じたと知った彼女から向けられる軽蔑を想像したブラッドは、単なる想像に過ぎないその軽蔑によって、あたかも現実に蔑まれたかのごとくに傷つけられたのである。そしてこれを乗り越えても尚、彼女への思いは常に彼と共にあった。ブラッドは、彼女の記憶によって戸惑うほど活性化させられた良心と折り合いをつける事にした。彼はアラベラの面影にかけて、自分が乗り出そうとしている無頼な稼業の中で可能な限り我が手を汚さずに保ち続けると誓った。彼はむなしい希望で己を慰めたりはせず、いつの日か彼女を我がものとするどころか、彼女と再会する日が訪れる事すら期待していなかったが、それでもアラベラ嬢の面影は、甘くほろ苦い清めの力として彼の魂に留まり続けるはずであった。決して悟られる事のない愛は、しばしばその男を導く理想として存在し続けるものだ。ひとたび心を決めてしまうと、彼は積極的に成すべきを行った。融通が利くという点においては右に出る者のない植民地総督ドジェロンは、ブラッドがアラベラ号と改名したシンコ・ラガス号に適切な設備を整える為の資金を前払いしてくれた。この改名を行うに際しては、それによって自分の心の秘密を悟られるかもしれないという、わずかなためらいがあった。しかし彼のバルバドスの仲間達は、それを単に彼等のリーダーお得意の皮肉と受け取った。

 彼は既に従えていた追従者二十名に加えて、更にトルトゥーガの冒険家の中から慎重に眼識を働かせて――彼は人材を見抜く能力については卓越していた――選抜した六十名を部下とした。その全ての部下達と彼が結んだ契約は、「浜辺の同胞団」では一般的な、略奪した戦利品を全乗組員が規定の配分率に基づいて分配するという内容であった。しかしこの契約は、他の点においては異例なものだった。アラベラ号の中では、他の海賊船においては常である、ならず者の無秩序は一切許されなかった。彼と共に航海する者はブラッドに、そして選任された士官オフィサーに対し、絶対の服従と従順を義務付けられた。条項中のこの節を不服とする者は、他の首領を探すようにとされたのである。

 ハリケーン・シーズンも過ぎ、十二月も終わりに向かう頃、彼は備品も乗員も申し分ない自分の船で航海に乗り出し、そして次の五月に予定より長引いた冒険的な巡航から帰島するより前に、キャプテン・ピーター・ブラッドの名声はカリブに吹く微風が海面に立てるさざ波のように広まっていた。手始めにウィンドワード海峡でスペインのガレオン船との戦い4があったが、その船は破壊され、遂には沈む結果となった。豊かな真珠の収獲を運搬していたリオ・デ・ラ・アチャのスペイン真珠交易船パールフリートに対して、奪取した何艘かの丸木舟ピラグア5で仕掛けた大胆な襲撃6もあった。スペインの支配域内にあるサンタ・マリアの金鉱地7には、陸路からの驚くべき遠征を行った。これら全ての襲撃が全くの無傷で終わった訳ではないが、概ねは順調にやりおおせ、アラベラ号の乗組員は名声と富を得た。

 そして五月に、アラベラ号が再装備と修理――この船にも多少の損傷があった事は容易に想像できるだろう――の為にトルトゥーガ島へ帰還した頃には、この船と船長キャプテンであるピーター・ブラッドの名声はバハマからウィンドワード諸島、ニュープロビデンス島からトリニダードにまで広まっていた。

 その反響はヨーロッパまで届くに至り、セント・ジェームズ宮殿においては怒れるスペイン大使に対して、このキャプテン・ブラッドなるやからがイングランド王から何らかの指令を受けているなどとは、夢にも考えてはならぬとの返答がなされた。この輩は一介の追放された叛逆者であり、脱走した奴隷に過ぎず、カトリック王がブラッドに対して如何なる処置をとろうとも、イングランド国王ジェームズ世は心からの称賛を贈るであろうと。

 スペイン海軍の西インド洋方面提督ドン・ミゲル・デ・エスピノーサ、そして彼と行を共にしている甥のドン・エステバンの両名は、ブラッドを桁端ヤードアームに吊るさんとする意志が固かった。ブラッドを捕えるという任務は今や国際問題であるが、彼等にとっては一族の名誉問題でもあった。

 スペインはドン・ミゲルを通して盛んに脅しをかけてきた。それらの言葉はトルトゥーガ島にも届けられ、そしてドン・ミゲルは母国の権威のみならず、イングランド王の権威をも背負っているのだと断言していた。

 そのブルツム・フルメン(空虚な脅迫)はキャプテン・ブラッドを微塵も動揺させなかった。そしてまた、彼はトルトゥーガ島の安全性に頼り切るのも潔しとしなかった。彼は人の世に苦しみを負わされた己の身代わりとして、スペインをスケープゴートに選ぶと決めたのである。これは二重の目的に貢献した。彼は自身が報酬を得ると同時に、彼が嫌悪するスチュアート家の王に対してではなく、残酷で、危険で、貪欲で、頑迷なカスティリャが、新世界との交易から排除しようと努めているイングランドを含む文明世界の人間全てに対して貢献したのである。

 そのようなある日、ブラッドがタールとタバコのむっとする臭気のこもる波止場の居酒屋で、ハグソープとウォルヴァーストンを伴い、パイプとラム酒を前に座っていた時、金のレースを飾ったダークブルーのサテンで仕立てたコートに1フィート幅の深紅のサッシュを締めた、派手な無頼漢が近づいて話しかけてきた。

「セ・ヴ・コン・アプレ・レ・サング?(レ・サングというのは、あんたかい?)」男はそう呼びかけて彼に挨拶した。

 返事を返す前に、キャプテン・ブラッドは質問者を見る為に顔を上げた。男は長身で、敏捷かつ力強そうな体格と、浅黒く鷲のように野性的でハンサムな顔を備えていた。相当な値打ちものらしいダイヤモンドがきらめいているすらりとした手はロング・レイピアの柄頭にさり気なく添えられ、金のイヤリングをつけた耳は艶やかな栗色の長い巻き毛で半ば隠されていた。

 キャプテン・ブラッドは唇からパイプを離した。

「私の名は」と彼は言った。「ピーター・ブラッド。スペイン人はドン・ペドロ・サングレと呼ぶ。フランス人ならレ・サングと呼ぶかもしれないな」

「グッド」その派手な冒険家は英語で言うと、断りもいれずに椅子を一つ引き寄せて、油じみたテーブルに同席した。「俺の名前は」と、少なくともそのうち二人は不審げに彼を注視している三人組に、その男は告げた。「ルバスールだ。あんたも聞いた事があるかもしれんが」

 確かに彼等には聞き覚えがあった。この男は一週間前に錨を下ろした二十砲門搭載の私掠船を率いていたが、その乗組員はイングランド人以上の激烈さでスペインに対する憎しみを抱くだけの理由がある、北イスパニョーラ島からきたブカン・ハンターを中心に構成されていた。ルバスールは、まずまずの成果を挙げた航海からトルトゥーガに帰還していた。とはいえ、この男の怪物じみた虚栄心を満たすには、その程度の成果ではまだ充分ではなかったのだが。威勢がよく喧嘩好きで大酒飲み、そして博打好きの無頼漢として、荒っぽい浜辺の同胞の間では、海賊バッカニアとしての評判は高かった。彼は別の方面での悪評も高かった。派手に着飾って意気揚々と闊歩する彼は、女達に奔放な魅力を振りまいていた。彼が大っぴらに女運の良さボンヌ・フォルチュンヌの自慢を始めてもキャプテン・ブラッドは不思議に思わなかったが、しかしその自慢にもそれなりに義認の尺度というものがあるらしいのは意外であった。

 最新のゴシップによれば、総督令嬢のマドモアゼル・ドジェロンさえもが彼の野性的な魅力の罠に陥落しており、ルバスールは図々しくも、結婚の許しを得る為に彼女の父親を訪問するという挙に出たらしい。ムッシュー・ドジェロンは既に、これ以外は有り得ぬ答を返していた。彼を叩き出したのである。ルバスールは怒りと共に総督邸宅を後にすると、キリスト教世界に存在する全ての父親を敵に回しても、必ずやマドモアゼルを妻とし、ムッシュー・ドジェロンが彼に加えた侮辱を後悔させてやるぞと誓ったのだという。

 そのような男が今、キャプテン・ブラッドに連合を提案し、彼自身の武力だけでなく、彼の船と乗組員達をも提供しようと持ちかけてきたのである。

 十二年前、二十歳そこそこの若造だったルバスールは、化け物じみた残虐な海賊のフランソワ・ロロネーと共に航海していたという話だが、それが事実であるのは後年の活躍ぶりが証明しており、彼は亡き師の悪名を大いに高からしめていた。同時代に活動した浜辺の同胞団の中に、このルバスール以上の悪党は存在したであろうか。彼に対して不快を感じたとはいえ、この男の提案が大胆さと独創性、そして力量を示している事をキャプテン・ブラッドには否定できず、彼等が手を組めば単独で成し得るものよりも大規模な作戦を実行できると認めざるを得なかった。ルバスールにより持ち込まれた計画の見どころは、豊かな大陸に位置するマラカイボ市への襲撃だった。その為には少なくとも六百人の手勢が必要になるが、彼等の率いる二隻の船では六百人の兵を一度に運ぶのは不可能だった。この目的の為には、更なる船を捕獲する為の予備航海を行う必要があった。

 この男に対する嫌悪の故に、キャプテン・ブラッドは自分の態度をその場では明らかにしなかった。しかし提案それ自体は気に入った為に、検討はする事にした。その後、あのフランス人について、ブラッドが感じたような個人的な嫌悪を持たないハグソープとウォルヴァーストンにうながされて、最終的には一週間も置かぬうちにルバスールとブラッドの間で契約が作成されて、彼等二人により、そして――常の通りに――彼等の追従者のうちから選ばれた代表によりサインが加えられる運びとなった。

 この契約書には、これら二隻の船が別行動をとった場合の共通条項も含まれており、個別に獲得した全ての戦利品の処理に関して、それを獲得した船が五分の三を取ると共にパートナーに五分の二を渡すべし、という厳密な記述が続いていた。これらの分け前は、その後、既にそれぞれのキャプテンと部下達との間で取り交わされた約定に従い乗組員間で分配される事になっていた。この契約の残る部分は通常通りの条項を全て含んでおり、どちらの船の如何なる者であれ、戦利品の如何なる一部であれ、1ペソ以上の価値あるものを着服もしくは隠匿した事実が判明した場合、速やかに桁端ヤードアームから吊るされるべしという節もあった。

 彼等が準備万端整えて航海に出ようとする日の前夜、執心するマドモアゼル・ドジェロンと情熱的な別離の挨拶を交わさんとして、総督邸の庭園の壁をよじ登るというロマンティックな試みの結果、ルバスールは弾丸を浴びせられて命からがら逃げ出した。香り高いピメントの木陰に待ち伏せていた総督の護衛達から二度の銃撃を受けるに至って彼は断念し、そして帰還後には更に断固とした別の手段をとると誓って場を離れた。

 彼はその夜、如何にも彼らしい派手好みからラ・フードル(雷光)号と名づけた自分の船で眠り、そして翌日、そこにキャプテン・ブラッドからの訪問を受けた彼は、冗談半分に提督閣下ヒズ・アドミラルと挨拶して歓迎した。ブラッドはいくつかの細目について最終的な決定をする為にやってきたのだが、ここで言及しておくべきは、故意か偶然かの別によらず、二隻が分かれた場合、両者は可能な限り速やかにトルトゥーガ島で合流するべしという項である。

 その後ルバスールは提督閣下ヒズ・アドミラルを夕食にもてなし、彼等は遠征の成功を祈って乾杯したのだが、浴びるように痛飲したルバスールは、別れ際には辛うじて意識を保っている程度まで泥酔していた。

 結局、キャプテン・ブラッドは夕闇迫る時刻にボートでルバスールの船を離れ、沈みゆく太陽によって赤い舷檣ブルワークと金箔をきせた舷窓が燃え立つ炎と化したような、彼の雄大な船へと帰還した。

 彼はいささか沈み込んでいた。筆者は既に、彼が人の器を量るのが巧みであると書いたが、彼のルバスールに対する心象は溢れるほどの疑念を呼び起こしており、出発の時間が近づくにつれて、その疑念は更に深刻になっていた。

 彼はアラベラ号の中に足を踏み入れた際に、最初に顔を合わせたウォルヴァーストンにそれを話した。

「君はあの契約を結ぶように私を説きつけたがな、この悪党め。この提携が上手くいったら奇跡だぞ」

 巨漢は殺気立った隻眼をぎょろつかせてブラッドを見ると、がっちりした顎を突き出して鼻であしらった。「裏切りなんてしやがったら、あの犬っころをくびり殺してやりますよ」

「そうするさ――手遅れになる前に奴をくびり殺せるような猶予があればな」そしてこの話題を切り上げた。「出航は翌朝、最初の干潮だ」そう指示すると、彼は船室キャビンに向かった。


  1. Alexandre Olivier ExquemelinもしくはJohn Exquemeling(1645年 1707年?)
    ネーデルラント出身、フランス西インド会社の年季奉公人から外科医見習いを経て、海賊船の船医となる。帰国後はアムステルダムで医者を開業する一方で、1678年に南洋時代の体験や見聞を綴った"De Americaensche Zee-Roovers (The Buccaneer of America)"を出版。各国語に翻訳されてベストセラーとなる。
    「実在人物ピーター・ブラッドの伝記」というていで執筆されているサバチニの冒険活劇"Captain Blood"シリーズもエスケメリングの記述に負う処が大きく、本編内の「こちらの方がエスケメリングのネタ元」という言及は一種のメタギャグである。 

  2. boucan-hunters スペインの南米征服の足がかりとして利用された西インド諸島にスペイン船が置き残し、野生化した豚や牛を狩って燻製肉にして売る事で生計を立てていた人々。boucanの語源は「燻製小屋」を指す原住民の言葉といわれている。スペイン領の中にまで侵入して狩りをした為にスペイン軍との軋轢が絶えず、遂には討伐隊を差し向けられるようになった。やがて彼等はスペイン船に対する襲撃も行うようになり、その為にカリブの海賊を指すbuccaneerという言葉の語源ともなっている。 

  3. Fata viam invenerunt プブリウス・ウェルギリウス・マロ(BC70年 BC19年)の叙事詩『アエネーイス』より、預言者ヘレヌスの言葉。 

  4. 詳しい顛末は、短編集"The Chronicles of Captain Blood"収録の"The Treasure Ship"で描かれている(「宝物船サンタ・バルバラ号」の訳題で『海賊ブラッド外伝:枢機卿の身代金』に収録)。 

  5. ピラグアは南米原住民の使用する丸木舟、手漕ぎ舟一般を指すが、英語圏ではマスト付きの小型の平底船も含まれる。 

  6. リオ・デ・ラ・アチャ襲撃作戦については、短編集"The Fortunes of Captain Blood"収録の"The Eloping Hidalga"で描かれている。 

  7. サンタ・マリアへの遠征作戦の顛末は、短編集"The Chronicles of Captain Blood"収録の"The Gold at Santa Maria"に描かれている。 

十四 ルバスールの英雄気取り

 翌朝の10時頃、出航予定の一時間ほど前に、ラ・フードル号の舷側に漕ぎ寄せた一艘のカヌーから降りた混血のインディアンが梯子ラダーを登っていった。その男はなめしていない毛皮の股引ドロワースをはき、赤い毛布を外套代わりに引っ掛けていた。彼が運搬人を務めた折りたたまれた紙片は、キャプテン・ルバスールに宛てたものであった。

 ルバスールは、その混血児が運んでくる過程で惨めなまでに汚れ、しわくちゃになった手紙を広げた。その内容は、大まかに翻訳すれば以下のようなものだった。

『いとしい人――私はネーデルラントのヨンブロウ号というブリッグ船に乗せられています。私達を永遠に引き裂く為に、残酷なお父さまは私を兄に預けてヨーロッパに送るつもりなの。お願い、私を助けにきて。私をさらってちょうだい、いとしい英雄さん!――あなたを愛する、孤独なマドレーヌより』

 そのいとしい英雄さんは情熱的な訴えに心を動かされた。皮革とタバコを積んでアムステルダムに向け出帆するはずのネーデルラントのブリッグ船を探して、彼の険悪な視線は湾を見渡した。

 狭い岩に囲まれた港の船舶の中に、その船は見当たらなかった。彼は心に浮かんだ問いを声にして叫んだ。

 それに答えて混血児が指差したのは、この港の主たる守りを構成する要素の一つである岩礁の存在を示している泡立つ波の向こうだった。1マイルかそこら離れた沖に帆が見えた。「船はあそこです」彼が言った。

「あれか!」蒼白になりながら、フランス人は懸命に目を凝らした。この男の邪悪な気性が目を覚まし、使者を相手にそれを発散するべく振り返った。「さっきまでお前はあそこにいたってのに、こいつを持ってきただけなのか?どうなんだ!」

 混血児はルバスールの剣幕に恐れをなして縮こまった。何か言い分があったとしても、恐怖にすくんだ彼にはまともな釈明はできなかった。ルバスールは男の胸倉を掴み、怒鳴りつけながら二度揺さ振ると、甲板排水孔スカッパーに投げつけた。落下の際に頭を舷縁ガンネルにぶつけ、その男は口から血を垂らしながら倒れ伏して、そのまま動かなくなった。

 ルバスールは埃を払うように両手をはたいた。

「そのゴミを船外に放り出せ」彼は中部甲板ウエストで怠けていた者達に命じた。「それから錨を上げて、あのネーデルラント船の後をつけるんだ」

「落ち着いてくださいよ、キャプテン。何だっていうんです?」彼の肩に引き止めようとする手が置かれ、筋骨たくましく酷薄なブルトン人の無頼漢、副長カユザックの大きな顔がのっそりと突き出された。

 ルバスールは無闇な悪態を吐きながら目的を明かした。

 カユザックは首を振った。「ネーデルラントのブリッグ船!」彼は言った。「そりゃ無茶だ!厄介な事になりますぜ」

「何が無茶なんだ?」驚きと激怒の半ばでルバスールは応じた。

「第一に、ウチの連中は絶対に進んでやる気にゃならんでしょう。もう一つは、キャプテン・ブラッドの事です」

「キャプテン・ブラッドが何だっていうんだ……」

「奴は無視できませんよ。奴には力と武器と兵隊があるし、俺の思い違いでなきゃ、俺達がネーデルラント船にちょっかいかけるより前に、奴はこっちを沈めるでしょう。海賊稼業についちゃ、自分の流儀を譲らないんですよ、あのキャプテン・ブラッドって男は。前にも言ったでしょうが」

「はん!」ルバスールは歯をむいて言った。しかし彼の視線は遠い帆に吸い寄せられ、陰鬱な思いにとらわれていた。だがそれも長い間ではなかった。キャプテン・ブラッドが、その臨機応変の才知によって己のパートナーが意図した航路を易々と察してきたのである。

 彼は内心で罵り、錨を上げる段になっても、自分が加わっている提携関係の義務から何とか逃れられぬものかと思案をめぐらせていた。カユザックのほのめかしは事実だった。ブラッドは自分の立ち会う場所では、決してネーデルラント船に対する襲撃を許さないだろう。ならば、奴の目が届かない処でやればいい。やってしまった後となれば、文句を言おうにも後の祭りなのだから、ブラッドも認めざるを得ないはずだ。

 その時刻のうちに、アラベラ号とラ・フードル号は共に沖を進んでいた。経緯を知らないにもかかわらず、キャプテン・ブラッドは予定変更を容認し、指定された時刻より前にパートナーが錨を上げようとする動きを見せると、それに合わせて自船の錨を上げたのであった。

 日のあるうちはずっと、ネーデルラントのブリッグ船は常に視界に入っていたが、夜を迎える頃には、その船は北の水平線上の小さな点と化すまで遠のいていた。ブラッドとルバスールが予定する航路は、東に向かいイスパニョーラ島の北岸に沿うものだった。アラベラ号は夜を通してそのコースを着実に守り続けた。再び夜が明けた時、アラベラ号は単独航海をしていた。暗闇に紛れたラ・フードル号は、既に全速で北東に向かい離脱していたのである。

 カユザックは再び抗議を試みた。

「悪魔に喰われちまえ!」それがルバスールの返答だった。「船は船、ネーデルラント船だろうとスペイン船だろうと、船には違いないんだ。今の俺達には船が要る。あいつで充分だろうが」

 副長はそれ以上は言わなかった。しかし例の手紙にちらりと視線を送り、船ではなく小娘がキャプテンの本当の目的であると察した彼は、やれやれと首を振りつつ必要な指示を伝える為にがに股で歩み去った。

 夜明けの光で自船の背後1マイルもない距離にラ・フードル号がぴたりと張りついているのを目視したヨンブロウ号側は、その船影によって混乱に陥れられた。それがルバスールのラ・フードル号であると識別したマドモアゼルの兄は、あの船がこのネーデルラント船にとって災いの元となる事を確信した。速度を上げて引き離そうという無駄なあがきからヨンブロウ号が帆を揚げようとしているのを見て、ラ・フードル号は右舷方向に舵をとり、目標の鼻先に威嚇砲撃が可能な距離まで近づいた。ヨンブロウ号は舵を切り方向転換すると 船尾迎撃砲スターンチェイサーを発射した。砲弾は鋭い音を上げながらラ・フードル号の横静索シュラウドを抜け、帆に軽微な損傷を与えた。追撃戦がしばし続き、その過程でネーデルラント船は片舷斉射を放った。

 五分後、両者の間に板が渡されて、ラ・フードル号の四爪錨グラプネルががっちりとかまされたヨンブロウ号の中部甲板ウエストに、海賊達が騒々しくなだれ込んだ。
 
 海賊バッカニアに立ち向かうべく、ネーデルラント船の船長が顔を紫色にしながら進み出てきたが、そのすぐ後ろにいる蒼白な顔をした優雅な装いの若い紳士が未来の我が義弟である事にルバスールは気がついた。

「キャプテン・ルバスール、この暴挙はどういう事だ。貴様、私の船で何を探している?」

「俺は自分のものを探しにきただけだ、俺から奪われたものをな。だが、あんたが発砲してウチの船を傷つけた挙句、手下を五人ばかりあの世に送ってくれた以上、こいつは戦争だし、あんたの船は戦利品って訳だ」

 船尾側手摺クォーターレールから、マドモアゼル・ドジェロンは驚きで呼吸を乱し、瞳を輝かせながら最愛の英雄を見下ろしていた。ふてぶてしく、大胆に、美しく、その場にそびえ立つ彼は、輝かしい英雄のように見えた。令嬢の姿に気づくと、彼は歓喜の叫びを上げて彼女に向かって行った。ネーデルラント船の船長は、行く手を妨げようと両手を上げて割り込んだ。ルバスールが彼と争う為に歩みを止める事はなかった。恋人の許にたどり着こうと彼は気が急いていた。彼は手にした戦斧ポールアックスを振り回し、ネーデルラント人は頭骨を割られて血を噴出しながら倒れた。情熱的な恋人は喜びに顔を輝かせ、その死体を踏み越えて彼女の許に急いだ。

 しかしマドモアゼルは今や身をすくめ、怯えていた。彼女は女性として最も美しい盛りに差し掛かったばかりの娘であり、洗練された長身に均整の取れた体つきをして、豊かで艶やかな黒い巻き毛が時代のついた象牙の色をした顔を取り巻いていた。顔立ちは驕慢そうで、眠たげな瞼が黒い瞳を際立たせていた。

 彼女の最愛の男は飛ぶように恋人の傍らにやってくると、血まみれの戦斧を投げ捨てて、彼女を抱き締めようと腕を一杯に広げた。彼女は抱擁を拒まなかったが、その腕の中にあってさえ未だ縮こまっていた。怯えた表情が、完璧に近い彼女の顔に常にあった驕慢を薄れさせていた。

「我がものに、遂に我がものに、あらゆる障害を越えていざ!」彼は勝ち誇り、芝居がかった調子で、完全に英雄気取りで叫んだ。

 だがマドモアゼルはルバスールを突き放そうと試みて彼の胸を押し、よろめいただけだった。「何故、どうして、あの人を殺したの?」

 彼は笑った。丁度英雄がそうするように。そして死すべき運命さだめの人の子に対する神の寛容をもって、英雄らしい態度で彼女の問いに答えた。「奴は俺達の間に立ち塞がった。奴の死をシンボルに、警告にするんだ。我等の間を阻もうとする者は注意せよ、用心するがよい、ってな」

 その言葉はまことに華麗にして不敵であり、その身振りはまことに大胆にして堂々としており、彼の魅力にはまことに抗し難い力があり、彼女が思わず愚かな興奮に身震いして我から身を任せ、甘い抱擁に陶酔せずにおられぬほどであった。それから彼は少女を肩に軽々と担ぎ上げて勝ち誇ったかのように行進し、手下達からやんやの喝采を浴びながら、自船の甲板デッキに彼女を運び入れた。抜け目ないカユザックに音もなく足をすくわれて鶏のように縛り上げられていなければ、彼女の無粋な兄はこのロマンティックな場面を台無しにしていたかもしれない。

 その後、船室キャビンでルバスールがマドレーヌ嬢の微笑に骨抜きになっていた頃、カユザックは戦利品の処理を行っていた。ネーデルラントの船員達はロングボートに押し込められて、悪魔にその運命をゆだねられた。幸いにも彼等は三十名以下しかおらず、そのロングボートは混みあい過ぎとはいえ、どうにか全員を収容する事ができたのであった。次にカユザックは積荷を点検し、操舵手と部下二十名をヨンブロウ号に配備すると、ラ・フードル号の後に続いて、リーウォード諸島に向け南へ針路をとるように手はずを整えさせた。

 カユザックは不機嫌だった。ネーデルラントのブリッグ船を奪取し、トルトゥーガ総督の家族に狼藉を働くという危険を冒したにしては、戦利品の価値が釣り合っていなかった。彼は浮かぬ顔でルバスールにそれを告げた。

「そいつは胸にしまっとけ」キャプテンはそう答えた。「俺が抜け出す方法も知らんのに輪縄に首を突っ込むような男だなんて思うなよ。トルトゥーガ総督には、奴が受け入れるしかないような交渉条件を突き付けてやる。針路をヴァージン・マグラに向けろ。オカに上がって、そこで事を片付ける。それと、船室キャビンにあの腰抜けドジェロンを連れてこさせろ」

 ルバスールは熱愛するレディの許に戻った。

 同様に、そのレディの兄も案内されてやってきた。ルバスールは船室の天井に頭をぶつけぬようにたくましい長身を屈めながら、彼を迎える為に立ち上がった。マドモアゼルも同じく立ち上がった。

「どうしてこんな事を?」レディは兄のいましめられた手首――カユザックの用心の名残――を示してルバスールに尋ねた。

「遺憾だ」彼が言った。「こんな事はやめにしたい。ムッシュー・ドジェロン、君に仮釈放を与える許可をくれたまえ……」

「お前ごときにやるものなど何もない」青年の蒼白な顔からは、未だ気迫が失われてはいなかった。

「御覧の通りだ」ルバスールは深い遺憾の意に肩をすくめ、そしてマドモアゼルは兄に向かって抗議した。

「アンリ、こんなの馬鹿げてるわ!兄さんは私の味方をしてくれないのね。兄さんは……」

「小さなお馬鹿さん」彼女の兄は答えて言った――とはいえ『小さな』という形容は不適当だった。彼女は一族の中でも大柄な方なのだ。「小さなお馬鹿さん、この下種な海賊野郎との仲を取り持つ為に、僕がお前の味方をするとでも思っているのかい?」

「落ち着きたまえ、若鶏くん!」ルバスールは笑った。しかし彼の笑いは愉快そうには見えなかった。

「お前の愚行の結果、どれだけの者が傷ついたか、まだわからないのか?この怪物がお前をかどわかす為に、人命が失われた――何人もの死者が出ているんだぞ。それなのにお前は、自分がどんな立場にいるのか理解できないのか?犬小屋で生まれて盗みと殺人で育った、この性悪な獣の手中に捕らえられてしまったんだぞ」

 ルバスールが殴って口をふさがなければ、彼は更に言葉を続けていただろう。第三者から見た己の実像になどルバスールは興味がなかった。

 青年が殴打の衝撃で後方によろめくのを目の当たりにして、マドモアゼルは悲鳴を押し殺した。隔壁に倒れ掛かった彼は、唇から血を流しながらそこで身を支えていた。しかし彼の精神は屈しておらず、妹の姿を求めて視線を彷徨わせながらも、その蒼白な顔には凄まじい微笑が浮かんでいた。

「見たか」彼は短く告げた。「その男は抵抗できない人間を殴ったんだ」

 単純な言葉、そして言葉よりも雄弁な言外の蔑みが、ルバスールの奥底で決して眠らずにいた激情を煽り立てた。

「なら、両手が自由になったらどうするんだ、わんこちゃん?」ルバスールは上着ダブレットの胸倉を掴んで青年を揺さ振った。「答えろ!何をするんだ?あぁ!このおしゃべり野郎!てめぇは……」それからマドモアゼルにとっては未知の言葉ではあるが、その醜悪さは直観的に伝わってくる罵詈雑言が雨あられと降り注がれた。

 キャビンテーブルの側に立ち、頬を青ざめさせていた令嬢は、ルバスールに向かってやめてと叫んだ。ルバスールは彼女の言に従ってドアを開けると、そこから彼女の兄を放り出した。

「俺がまた呼ぶまで、その屑を船倉口ハッチの下にぶち込んでおけ」彼はそう怒鳴ってドアを閉めた。

 気を静めると、彼は取り繕うような微笑を浮かべて再び少女の方を向いた。しかし彼女は微笑を返さなかった。巻かれていた紙が広げられたがごとくに、彼女は最愛の英雄の本性をはっきりと目撃し、眼前にした光景の汚らわしさ、恐ろしさを理解した。それによりネーデルラント人船長の残忍な殺害を思い起こし、彼女は突然、兄が先程この男について語った事は、全てが真実以外の何ものでもないのだと理解した。身を支える為に傍らのテーブルに寄りかかった彼女の顔を見れば、不安からパニックを起こしているのは明白であった。

「おや、可愛い子ちゃん、どうしたんだい?」ルバスールは彼女に近寄った。彼女は後ずさりした。彼の浮かべた微笑、彼の目の輝きによって、彼女の心臓は喉から飛び出しそうになった。

 ルバスールは船室の端まで追い詰められた彼女を捕えると、長い腕で彼女を取り押さえ、それから引き寄せた。

「いや、いやよ!」彼女はあえいだ。

「わかった、わかった」ルバスールは彼女をからかったが、その嘲笑は何よりも恐ろしいものだった。ルバスールは抵抗する彼女を故意に痛めつけるようにして粗暴に引き寄せると、彼の抱擁に苦悶する少女に接吻した。そして熱情がつのり、激した彼は、未だその表情を取り繕っていた英雄の仮面を完全に脱ぎ捨てた。「小さなお馬鹿さん、君が俺の手中にあるっていう兄貴の言葉を聞いただろ?そいつを思い出せよ、それと自分から進んでここにきたってのも思い出すんだ。俺は女が適当にあしらえるような男じゃない。だから観念しな、俺のお嬢ちゃん、自分から誘ったんだろうが」彼は半ば嘲るように再び接吻し、それから彼女を放り出した。「辛気臭い面はやめろ」彼が言った。「さもないと後悔する事になるぞ」

 誰かがノックした。邪魔者に向かって罵ると、ルバスールは扉を開く為に大股で離れた。彼の前に立っていたのはカユザックであった。ブルトン人の表情は深刻だった。彼はネーデルラント船の砲弾によって受けた損傷の結果、脆弱な箇所に浸水が発生していると報告した。慌てたルバスールは彼と共に船室を出た。快晴が続く限り、浸水は深刻なものではなかった。しかし嵐に襲われて、あっという間に深刻な事態に陥る可能性はあった。船員が一名、帆布を使った応急修理の為に船外で吊られながら作業し、揚水機ポンプが稼動していた。

 進行方向の水平線上に低く見えるのは、ヴァージン諸島最北の島の一つであるとカユザックが告げた。

「あそこに避難して船を修理せにゃならん」ルバスールは言った。「この、うだるような暑さは油断できん。俺達が陸に上がる前に、嵐に追いつかれるかもしれんぞ」

「嵐か、他の何かにね」カユザックが思わせぶりに言った。「気がついてますか?」彼は右舷を指し示した。

 ルバスールはそちらを見て息を呑んだ。互いに少し離れた位置を保ちながら、かなりの積載量と思われる船が二隻、約5マイルの距離から彼等に向かって進んでいた。

「あいつ等が俺達の後を追ってるとしたら、次はどうなると思います?」カユザックが詰問した。

「嫌も応もない、戦ってやるさ」ルバスールは毒づいた。

「最後の手段にね」カユザックは蔑んでいるようだった。それを表現する為に、彼は甲板に唾を吐いた。「色ボケと一緒に海に出るからこんな事になるんだ。今は頭をしっかりさせといてくださいよ、キャプテン。ネーデルラント船相手のヤマのせいでウチの船がまともに動けないようなら、あの二隻に追いつかれたら、向こうの連中と直でやりあわなきゃならんのですから」

 その日の残る時間、ルバスールの頭は色恋以外のもので占められていた。彼は甲板に留まり、その両目は陸地と、ゆっくりと接近しつつある二隻の船とに向けられていた。海原を進むのは何の益もなく、浸水によって更に危険な事態に追い込まれるだけだろう。彼は追い詰められており、戦わねばならなかった。そして夕刻、海岸まで3マイルの地点で戦闘準備の命令を下そうとしていた時、彼は檣頭見張台クローネストから二隻のうち大型の船はアラベラ号であると告げる声を聞いて、安堵のあまり気が遠のきかけた。もう一隻は恐らく彼等の戦利品だろう。

 しかしカユザックの悲観は変わりなかった。

「最悪より多少はマシってだけでしょうが」彼は怒って言った。「ネーデルラント船の件でブラッドがなんて言うと思います?」

「何とでも言わせておけ」ルバスールは安堵の深さのあまり笑った。

「それにトルトゥーガ総督の子供達はどうします?」

「奴に知らせる必要はない」

「遅かれ早かれ知られますよ」

「はッ、だがその時までには、畜生モーブル、問題は片付いているだろうよ。俺は総督と手打ちをしているはずだ。俺にはドジェロンが折り合うしかないように強制する手があるんだよ」

 四隻の船は現在、鳥と亀以外の生き物は住んでおらず、塩以外は何も産せず、南に大きな池があるだけで乾燥して樹木も生えない、差し渡し12マイルほどの細長く小さな島、ラ・ビルゼン・マグラの北の海岸沖に停船していた。

 ルバスールはカユザックと二人の士官を伴ってボートに乗り、アラベラ号に搭乗しているキャプテン・ブラッドを訪問する為に向かった。

「我々の短い別行動は、実に有意義だった」それがキャプテン・ブラッドの挨拶だった。「お互いに忙しい朝だったようだな」分け前を提供する為に船長室グレートキャビンに案内する際、彼は上機嫌だった。

 アラベラ号が伴っていた大型帆船は、プエルトリコからやってきた砲二十六門装備のスペイン船サンティアゴ号であり、十二万ウェイトのカカオ、銀貨ピーセズ・オブ・エイト四万枚、そして銀貨一万枚以上の値打ちがある宝石を積んでいた。豊富な戦利品の五分の二が、協定に従いルバスールと彼の部下達のものとなった。金と宝石はその場で分配された。カカオはトルトゥーガ島に運んでから換金するという事で話がまとまった。

 そしてルバスールの番になり、彼の事情が明かされるにつれて、キャプテン・ブラッドの額が曇っていった。話を聞き終えたブラッドは手厳しく非難した。ネーデルラント人とは友好関係にあり、敵に回すのは避けるべき愚行であった。ましてや、せいぜい銀貨二万枚程度にしかならない皮革とタバコのようなわずかな獲物の為になど。

 だがルバスールは、先刻カユザック相手に主張した理屈を繰り返した。船は船であり、それは彼等の遠征計画に必要とされる船であると。恐らくは、その日が彼にとって上首尾に運んでいた為にか、ブラッドは肩をすくめるだけでこの問題を片付けた。そこでルバスールは、カカオを降ろして更なる乗組員を募る為に、アラベラ号とブラッド達が拿捕した船はトルトゥーガ島に戻るべきであろうと提案した。その間にルバスールは船を修理した上で南に進み、マラカイボ襲撃に好都合な位置――北緯11度11分――にある島、サルタテュドスでブラッドを待つと。

 ルバスールが安堵した事に、キャプテン・ブラッドは同意したのみならず、すぐにでも出航する準備が整っていると告げた。

 アラベラ号が行ってしまうと、ルバスールは即座に礁湖ラグーンの中に自分の船を運び入れ、彼と部下達、そして彼の客人となるように強いられた者達がラ・フードル号の修繕と手入れが済むまで使用する宿舎の設営作業に取り掛からせた。

 日没の頃、夜風は勢いを増した。それは強風になり、やがてルバスールが既に自分が陸上におり、彼の船も安全な場所に避難済みであるのを感謝するようなハリケーンにまで成長した。この暴風雨の中、キャプテン・ブラッドはどうしているだろうかと、彼はしばし考えた。しかしそれは彼を煩わせるほどの問題ではなかった。

イソノ武威
作家:ラファエル・サバチニ
海賊ブラッド
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