海賊ブラッド

六 脱走計画

 その後、アラベラ・ビショップは埠頭の小屋に毎日果物を届け、更に後日、スペインの虜囚達に金と衣類等も持ってきた。しかし彼女が慎重に訪問のタイミングを見計らっていた為に、ピーター・ブラッドがそこで彼女と顔を合わせる事は二度となかった。そしてまた、患者達が回復するにつれて、彼が診療する時間も以前より短くなっていた。ワッカーとブロンソン――他の二人の医師――の治療を受けていた負傷者のうち三分の一が、怪我がもとで死亡していった間に、ブラッドが治療にあたった患者は全員が着実に治癒して健康を取り戻していった事実は、この叛逆流刑囚のブリッジタウンにおける評判を高めるのに役立った。それは単に患者の武運の差に過ぎなかったのかもしれない。だが町の人々は、その点について然程の斟酌をしなかった。この件が自由市民である同業者達の仕事を減らし、ブラッドの仕事を増やし、ひいては彼の所有者に利益をもたらした。ワッカーとブロンソンは、この耐え難い状態を終わらせる名案を考え出す為に額を寄せ合い知恵を絞った。だがそれは予測された行動だったのである。

 ある日、偶然か意図的にか、いつもより三十分早く速足で埠頭へとやってきたピーター・ブラッドは、丁度小屋から出てきたビショップ嬢と鉢合わせした。彼は帽子を脱いで、彼女に道を譲る為に脇に寄った。きっと顔を上げ、彼の姿が視界に入るだけで不愉快と言わんばかりの目付きで、彼女はそのまま行こうとした。

「ミス・アラベラ」なだめるような、訴えるような調子で彼は声をかけた。

 彼女はたった今、ブラッドの存在に気づいた風を装い、小馬鹿にしたような険のある視線を向けた。

「あら!」彼女は言った。「これはこれは、繊細な心の持ち主の紳士さん!」

 ピーターはうめくように言った。「お尋ね申し上げます。私めに寛大なる御容赦をいただけないものでしょうか?」

「随分と殊勝な事ね!」

「私を苛めるとは、なんと残酷な」謙虚を装って彼は応じた。「所詮、私は奴隷に過ぎないのに。それに、貴女もそのうち病気になるかもしれないのだし」

「それが何なの?」

「貴女が私を目の敵にしていたら、私を頼るのは癪でしょうね」

「ブリッジタウンに医者は貴方だけじゃないのよ」

「しかし私は一番腕がいい」

 彼女は不意に、どうやら彼がまたもや自分をからかう気でいるらしく、自分も少々乗せられてしまったのに気づいた。アラベラ嬢は身を硬くして、再び彼をにらんだ。

「貴方、ちょっと遠慮がなさ過ぎるんじゃなくて?」彼女は非難した。

「医者の特権ですよ」

「私は貴方の患者ではありません。ちゃんと覚えておいてちょうだい」そして見るからに腹を立てながら彼女は立ち去った。

「はてさて、彼女が口やかましい牝狐ヴィクセンなのでしょうか、私が愚か者なのでしょうか、それとも両方なのでしょうか?」天の蒼穹に向かって問いを投げると、彼は小屋に入った。

 それが騒がしい朝の皮切りとなった。一時間ほど後、仕事を切り上げて帰ろうとしていた際に、他の二人の医者のうち、年若い方のワッカーが彼と帰路を共にした――このように擦り寄ってくる態度は異例であり、今までは彼等のどちらも、時折ぞんざいに「良い日を!」と挨拶する以上の言葉を彼にかけた事はなかったのだ。

「ビショップ大佐の許に帰るのなら、少し御一緒しませんか、ブラッド先生」と彼は言った。ワッカー医師は背が低く恰幅の良い四十五歳の男性であり、弛んだ頬と鋭く青い目をしていた。

 ピーター・ブラッドは驚いた。しかし彼はそれを押し隠した。

「私は総督邸に行くのですが」と彼は答えた。

「ああ!なるほどね!総督夫人か」そして彼は笑った。あるいは多分、冷笑した。ピーター・ブラッドにはどちらとも判断がつかなかった。「彼女は君にべったりだそうじゃないか。若くてハンサムなブラッド先生!若さと見目の良さ!我々の職業にとっても、計り知れない利点ですな――特に御婦人方に関しては」

 ピーターは彼を見つめた。「貴方の勘繰りをほのめかしたいのなら、スティード総督に直接おっしゃった方がよろしい。きっと総督も愉快に思われるでしょう」

「誤解ですよ」

「そう願いたいものですね」

「そうかっかしないで!」医者はピーターと腕を組んだ。「私は君と友人になりたいんですよ――君の力になりたいんです。まぁ、お聞きなさい」本能的に彼の声はより低くなった。「君が今ある奴隷の境遇は、君のように有能な人にとっては、実にうんざりするもののはず」

「察しのいい事ですな!」皮肉っぽくブラッドは叫んだ。しかし医者は額面通りに受け取った。

「私は馬鹿ではありませんぞ、我が親愛なるドクター。人を見る目には自信がありましてね、それに私はしばしば他人の心のうちを言い当てる事もできるのです」

「私の心の内を言い当てて御覧になれば、説得力もありましょうが」ブラッドは応じた。

 彼等が埠頭に沿って歩き出すと、ワッカー医師は更に傍に寄ってきた。彼はより一層、秘密めかした調子で声を低めた。彼の鋭く青い目は、自分より高い位置にある同行者の浅黒く皮肉っぽい顔を見上げた。

「私は一体何度、君が海に面した窓から外を見つめる姿を目にした事か。君の心はその二つの目に表れていた!君が何を考えていたのか、私にわからないとでも?もしも君が奴隷身分の地獄から逃れられたなら、自らの喜びと利益を追い求める自由な人間として、己の専門とする職に力を発揮し、誉れを得る事ができるだろうに。世界は広い。君の同胞達を暖かく迎え入れてくれるような、イングランド以外の国は数多くある。英国領以外にも、植民地なぞいくらでもあるんだ」声は更に、ささやきと変わらぬほど低くなった。とはいえ、声の届く範囲には他に誰もいなかった。「キュラソー島のネーデルラント入植地ならば、今の処は何も問題はない。この季節なら難易度の低い安全な航海計画が組めるかもしれない。そしてキュラソー島は単なる足がかりに過ぎないんだ、君が奴隷の身分から解放された瞬間に目の前に開かれる、広い世界に出る為のね」

 ワッカー医師は話を終えた。彼は蒼ざめ、わずかに息を切らしていた。しかし彼の鋭い目は依然として無表情な同行者に定められていた。

「で?」彼は再び言った。「どうだね?」

 それでも尚、ブラッドはすぐには答えなかった。彼は激しく動揺し、己の心に投げ込まれた、恐るべき騒動を引き起こす事が必至の問題を正確に見定める為に、気を静めようと努力していた。彼は別の側面から攻める事にした。

「私には金がない。そういう事には相当な金がいるでしょう」

「私は君の友人になりたいと言っただろう?」

「何故?」至近距離からピーター・ブラッドは尋ねた。

 しかし彼はその返答を真剣に聞いてはいなかった。ワッカー医師は奴隷待遇によって衰弱した同僚医師に心を痛めているのだと力説したものの、彼の弁舌の才は発言に説得力を与える事に失敗し、ピーター・ブラッドは明白な真相に鷹のごとく飛びかかった。ワッカーと彼の同僚は、自分達を脅かす商売敵を追い払いたかった。ブラッドには優柔不断という短所はなかった。彼は他者が這う処で跳ぶ男である。そして今さっきワッカー医師に植え付けられるまでは抱いていなかった逃走という考えは、瞬く間に大きく成長するようになっていた。

「わかった、わかりました」彼は同行者が尚も説明を続けるのをさえぎって、ワッカー医師の面目を立てる為にお人よしを演じた。「実に気高い方だ――医師仲間に対してこれほど親身になってくださるとは。私も同じ立場に置かれた時には、かくありたいものです」

 熱心に尋ねるあまりにワッカーの鋭い目はぎらつき、かすれ声は震えた。

「で、どうなんです?応じますか?」

「応じる?」ブラッドは笑った。「もし私が捕えられて連れ戻されたら、彼等は二度と飛べないように私の翼を切って、生涯消えない烙印を押すでしょうね」

「まさか、少しばかりの危険を冒す価値もないと?」そそのかそうとする声は、前にも増して震えていた。

「まさか」ブラッドは同じ言葉で返した。「しかし、この計画には勇気だけでは足りない。金が要ります。小型帆船スループは、恐らく20ポンドはするでしょう」

「それなら用立てよう。借りればいいんだよ、我々――私への返済は、君の都合の良い時でかまわない」

 うっかりと漏らされた「我々」という言葉から、ブラッドは即座に理解した。もう一人の医師も計画に加わっているのだと。

 彼等は波止場の居住区の近くまできていた。ブラッドは感謝する筋合いなどないのは百も承知の上で、手短かつ雄弁に感謝の意を表した。

「続きはまたにしましょう――明日にでも」彼はこう言って話を結んだ。「貴方は私の為に、希望の門を開けてくださいました」

 少なくともそれだけは掛け値なしの真実以外の何ものでもないのだという事を、彼は押し殺した笑いによって露骨に表した。それは実際、ここで一生を終えるのだと思い込んでいた暗い牢獄の扉が、突然、明るい外界に向かって開かれたようなものだった。

 彼は興奮を静め、何をするべきか筋道を立てて計画する為に、急いで一人になろうとした。誰かと相談する必要もある。その相手は既に思いついていた。航海には航海士ナビゲーターが必要だが、航海士ならば手の届く場所にいる。ジェレミー・ピットだ。まず初めに、この計画を実行に移す時には必ずや自分と行動を共にするであろう、あの若い航海士と相談する事だ。その日は終日、彼の心は新たな希望で混乱し、パートナーと定めた男とこの件を論じる為に、夜になるのを待ち焦がれて苛々と過ごした。最終的に、ブラッドはその夜、複数の奴隷小屋と監督の大きな白い屋敷をまとめて大きく柵で囲った地で、他の者には気づかれずにピットとわずかに言葉を交わす機会を見いだした。

「今晩、皆が眠った後で私の小屋に来てくれ。君に話したい事がある」

 ブラッドの含みのある口調によって、人間性を奪い尽くされる日々の末に陥っていた無気力から目覚めさせられた若者は、彼を凝視した。それから彼は頷いて理解と同意を示し、二人は離れた。

 バルバドスにおける六ヶ月のプランテーション生活は、若い船乗りに悲惨とも言うべき痕跡を刻みつけていた。かつての聡明な機敏さは、すっかり失われていた。顔には空虚が広がり、瞳はどんよりとして輝きに欠け、虐待された犬のように萎縮し、こそこそと行動した。栄養価の低い食事、照りつける太陽の下での過酷な砂糖きび農園の労働、手を休めた時に監督が振るう鞭、彼に運命づけられた死人のように単調な家畜生活の中で、ピットは命を保っていた。しかしそれでも未だ、更にどん底が控えていた。時折、彼の持ち場の近くで酷使されているのを見かける黒人奴隷達と同等の、家畜以下の待遇まで落とされる危険にさらされているのだ。しかしピットは未だ踏みとどまっており、完全に生気を失った訳ではなく、ただ深すぎる絶望によって活力を失っていたのである。ブラッドがその夜、彼に話した最初の単語によって、若者は即座にその無気力を振り払い、そして目覚めた――目覚めて、そして泣いた。

「逃亡?」彼はあえぎながら言った。「ああ、神よ!」彼は両手で顔を覆うと、子供のようにすすり泣いた。

「しっ! 落ち着け!落ち着くんだ!」泣きじゃくる若者を危惧してブラッドは小声で警告した。彼はピットの傍らに行き、なだめる為に若者の肩に片手を置いた。「後生だから、しゃんとするんだ。この話を聞きつけられたら二人とも鞭で打たれるぞ」

 ブラッドに許されている特別待遇には彼専用の小屋も含まれており、ここで彼等は二人きりだった。 とはいえ、その小屋は編み枝細工に薄く泥を塗った壁と竹製の扉で作られている為、物音は筒抜けだった。その晩、砦柵さいさくには錠が下ろされており、今は――真夜中過ぎの事である――皆が寝静まっていたが、それでも奴隷監督が表を歩いているかもしれず、声を聞きとがめられる可能性はあった。ピットはそれを悟り、感情の爆発をコントロールした。

 間近に座り、彼等はその後、小声で一時間かそこら話をしたが、その間に、なまくらにされていたピットの知性は希望という貴重な砥石によって鋭く研ぎ澄まされていった。この企てには仲間を募る必要がある。少なくとも半ダース、可能ならばそれ以上、しかし十人が上限。それには、ビショップ大佐が買い取ったモンマス軍の生存者二十名から選抜しなければならない。航海慣れした者が望ましかった。しかし、この条件に適う者は不運な囚人達の中には二人しかおらず、その上、彼等の知識は決して完全ではなかった。英国海軍ロイヤル・ネイビーに所属していたハグソープと、前国王の御世に下士官であったニコラス・ダイク、そしてもう一人、オーグルという名の砲手ガンナーがいた。

 彼等は別れる前に、ピットがこの三人を手始めにして、次に六人から八人の者に誘いをかける事で意見が一致していた。彼は細心の注意を払って行動するつもりであり、事を打ち明ける前には極力慎重にその者に打診をし、いよいよ打ち明ける段になっても、具体的な行動に移す以前に裏切りによって失敗する事態を警戒して、計画の全てを話すのは避けねばならなかった。彼等とはプランテーションで共に作業している為に、ピットは同輩の奴隷に問題を切り出す機会には事欠かなかった。

「あらゆる事を警戒するんだ」それが別れ際にブラッドの与えた最後の忠告であった。「イタリアのことわざにもあるだろう、『ゆっくり行く者は安全に遠くまで行ける』だ。君が迂闊な事をすれば全てがお終いになる。航海士は君しかいない、君なしでは、我々の逃亡計画は成り立たないんだ」

 ピットは再び確約すると、自分の小屋と藁の寝床に戻る為に忍び足で立ち去った。

 翌朝、埠頭にやってきたブラッドは、気前の良い心持のワッカー医師に出くわした。一晩置いてみると、彼は30ポンドまでならば、この囚人に前払い金を提供してやる心構えになっていた。それだけあれば、この植民地から離れる事を可能にする船を入手できるだろう。ブラッドは愛想良く感謝を表し、ワッカーが何故こうも気前良くなったのか、本当の理由に気づいている事はおくびにも出さなかった。

「私が必要としているのは、金ではありません」と彼は言った。「船です。一体、誰が私に船を売って、スティード総督の布告通りの罰を受けたがるでしょう?貴方がたも、あの布告は読まれたでしょう?」

 ワッカー医師の太った顔が曇った。思案しつつ、彼は顎をさすった。「私もあれは読んだ――うん。私も君に船を用意してやる事はできない。露見してしまうだろうからね。確実に。罰則は、投獄に加えて200ポンドの罰金。身の破滅だ。わかってくれるね?」

 ブラッドの心中の大きな期待はしぼみ始めた。そして絶望の影が彼の顔を曇らせた。

「しかしそれでは……」と彼は口ごもりながら言った。「どうしようもない」

「いやいや。事はそれほど深刻でもない」ワッカー医師は、固く結んだ唇にわずかに微笑を浮かべた。「それについては考えてある。船を買う男は、君と行を共にする集団の一員になるはずだ――当人がここにいないので詳しい話は後日になるが」

「しかし私の仲間達以外に、誰が私と同行するというんです?私に無理なら、その人でも無理でしょう」

「奴隷以外にも、この島には拘留された者達がいる。借金が返せずに島流しにされた者達にとっても、ここからの逃亡は望む処だろう。ナトールという男がいるのだが、そいつは船大工でね、たまたま小耳に挟んだ話からすると、彼は君に雇われるチャンスに飛びつくはずなんだ」

「だが破産した人間が、どうやって船を買う金を手に入れられるんです?それは訊かれるはずですよ」

「確かに疑問に思われるだろうね。だが抜かりなくやりおおせれば、問題が起きるより前に君達は全員ここからいなくなっているはずなのだ」

 ブラッドが理解を示して頷くと、彼の袖にワッカーが自分の手を置いて腹案を明かした。

「君は私から金を受け取る。受け取ったら、それを提供したのが私だという事を忘れるんだ。君にはイングランドに友人――恐らくは親類――がいる。その人物は、ブリッジタウンに住む君の患者の一人を介してその金を送った。その気高い人物を厄介事に巻き込まないように、君は決してその名を明かさないだろう。何を尋ねられたとしても、それは君が説明すべき問題だ」

 彼はブラッドを真剣に見つめ、ひと呼吸おいた。ブラッドは理解と同意を示して頷いた。ほっとした様子で、医者は話を続けた。

「しかし君が慎重に事を進めるなら、余計な質問をされたりはしまい。君はナトールと協力して事にあたるのだ。君は彼を仲間に加える、船大工というのは乗組員としては非常に有用だろう。君は売りに出されているスループ船を見つける為に彼を引き込むんだ。君の方で必用な準備は、船を買う前に全て済ましておく。避けられぬ質問がされる前に、船を手に入れてすぐに脱出できるようにね。どうだ、この案に乗るかい?」

 その案を採用したブラッドは、一時間も経たぬうちに首尾よくナトールと顔を合わせ、ワッカー医師の予測した通りにこの男が計画に乗り気であるとわかった。彼がこの船大工の許を立ち去った時には、ナトールが必要とされる船を探し、ブラッドはすぐに購入資金を用意する事で両者は合意していた。

 早速、出処を隠したワッカー医師の金を受け取ったブラッドにとって、船の探求は予想より長くかかった。しかし三週間が経とうとする頃、ナトール――今や毎日会うようになっていた――が、うってつけのウェリー(平底船)を見つけ出し、その所有者には22ポンドで売る意思があると知らせてきた。その夜、人目につかない遠い浜で、ピーター・ブラッドは新たなパートナーにその金額を渡し、翌日の遅くに購入を完了するようにと指示されたナトールは帰って行った。彼が埠頭に船を運び、ブラッドと仲間の囚人達が夜闇にまぎれて合流し、そして逃亡する手はずであった。

 全ての準備が完了していた。負傷者達が全員移動させられてからは無人になっていた例の小屋に、ナトールは既に必要な備品を隠していた。ハンドレッド・ウェイト(50)のパン、大量のチーズ、水樽と、かなりの本数のカナリア諸島産のサック酒カナリー羅針盤コンパス四分儀クアドラント、海図、砂時計、測程索ログライン、防水布、様々な大工道具、角灯ランタン蝋燭ろうそく。そして砦柵さいさく内でも同様に準備が整えられていた。既にハグソープ、ダイク、オーグルは、この危険を伴う冒険への参加に同意しており、そして他にも八名の者が慎重に誘いを受けていた。ピットの小屋は他の叛逆流刑囚五名と共有されていたが、その全員が自由を得る為の計画に参加しており、準備を重ねる夜の間にはひそかに梯子が設置されていた。彼等はこれを使って砦柵を越えて出入りしていたのである。彼等は物音を立てぬようにしていた為に、発見される危険を案じる必要はなかった。夜間には、全ての囚人を柵の内側に閉じ込めておく以上の予防措置はなかった。結局の処、逃亡を試みるほど愚かな者がいたとして、一体、この島のどこに身を隠せるというのだ?主たる危険は後に残される囚人達に気づかれる事の方にあった。彼等が用心深く静かに行動しなければならないのはその為であった。

 その日、バルバドスで彼等が過ごす最後となるはずの日は、逃亡計画に加わった十二名の仲間達にとっては希望と不安の一日であり、下の町にいるナトールにとっても、その点に変わりはなかった。

 日没に向かう頃、取引を済ませ次第その足で小型船を所定の停泊地に運ぶという役目の為に出発するナトールを見送ってから、ピーター・ブラッドが砦柵に向かってゆったりと歩いてゆくと、丁度畑から駆り立てられてきた奴隷達と行き会った。ブラッドは彼等に道を開けてやる為に入口で脇に寄ったが、その瞳に希望の輝きを込めてメッセージを送る以外には奴隷達と意思の伝達を図ろうとはしなかった。

 ブラッドが彼等の後から柵いの中に入り、各々の小屋に入る為に奴隷達が列を崩した時、彼はビショップ大佐と言葉を交わしている奴隷監督のケントの姿を見た。反抗的な奴隷に罰を加えるという目的で緑地の真ん中に据えられている晒し台の近くに、二人はいた。

 ブラッドが歩を進めると、ビショップは彼を見る為に振り返り、顔をしかめた。「今までどこにいた?」彼はそう怒鳴り、そして大佐の声が脅すような調子なのはいつもの事であるにもかかわらず、ブラッドは心臓が不安に締まるのを感じた。

「町で診察をしていました」彼は答えた。「パッチ夫人が熱を出し、デッカー氏が足首を捻挫しました」

「私はデッカーの許にお前を呼びに行かせたが、お前はあそこにはいなかったぞ。怠け癖が過ぎるな、貴様。無駄な時間潰しをやめんようなら、近いうちに自由時間を減らさにゃならん。自分が叛逆罪で刑に服している事を忘れたか?」

「それを忘れられるような機会など、私には一時たりとも与えられていない」言い返さずにはいられない性分のブラッドはそう言った。

「くそっ!反抗する気か?」
 
 大事なものを危険にさらしている事を思い出し、構内を取り巻いている小屋で皆が不安に耳をそばだてているのを突然に強く意識して、彼は直ちに常にない服従を示した。

「反抗ではありません。私……私を探す為に、お手間をとらせて申し訳ありませんでした……」

「まったくだ、だが貴様はもっと申し訳なく思うだろうよ。総督閣下が痛風のせいで負傷した馬のように悲鳴を上げているというのに、貴様はどこを探してもいないんだからな。とっとと行け、こいつめが――さっさと総督邸に行くんだ!言っただろう、総督がお待ちだ。一番早い馬をこいつに貸してやれ、ケント。さもないと、この田吾作は一晩かかってもたどり着けんぞ」

 彼等はブラッドを急き立て、彼は心理的抵抗を押し殺して振舞った為に息が詰まりそうになっていた。不本意とはいえ、結局の処は治療を済ませる以外になかった。逃亡は真夜中に予定されており、その時までには容易に戻れるはずだ。彼はケントが極力早く目的地に着けるようにと用意した馬に乗った。

「柵の中に戻る際には、どのようにして入ればよいのでしょうか?」彼は別れ際に尋ねた。

「入る必要はなかろう」ビショップが言った。「総督邸での役目が済んだら、閣下が朝までの間、犬小屋でもあてがってくださるだろうよ」

 ピーター・ブラッドの心は、水に投げ入れられた小石のように沈んだ。

「しかし…」と、彼は言いかけた。

「行けと言ったろう。日が暮れるまでそこに突っ立って、無駄話を続ける気か?閣下がお待ちだ」そしてビショップ大佐が容赦なく蹄側を杖で打った為に、牝馬は乗り手を振り落とさんばかりに前脚を跳ね上げた。

 ピーター・ブラッドは、絶望に近い心理状態で総督邸に向かった。絶望するに足る理由はあった。逃亡は少なくとも明晩まで延期しなければならず、そして延期はナトールの取引の露見と、糊塗するに困難な問題の発生を意味する。

 彼の頭にあったのは、総督邸での仕事を終えてすぐに夜道を歩いてこっそりと戻り、柵の外から合図してピットや仲間達に合流すれば、脱走計画はまだ実現可能だろうという考えだった。しかし彼は総督の事を計算に入れていなかった。スティード総督は痛風の重い症状に苛まれており、ブラッドの到着の遅れによる苛立ちが、そのまま彼に対する怒りに転じていたのである。

 ブラッドは真夜中過ぎのかなり遅い時刻まで引き止められ、ようやく瀉血によって患者を少し落ち着かせる事ができた。そこで彼は退出しようとした。しかしスティードは耳を貸さなかった。急にブラッドが必要になった場合に備えて、総督邸内に泊まるように求めたのである。さながら運命が彼をもてあそんでいるかのようであった。少なくとも、今夜は逃亡を断念せざるを得ないのは確実だった。

 特定の薬が必要であり、自ら薬局まで取りに行かねばならないという理由で一時的に外出するまでは、ピーター・ブラッドは早朝まで総督邸から抜け出せなかった。

 その口実を用いて目を覚ましつつある町を訪れると、彼は狼狽で怒り狂っているナトールの許へと直行した。ナトールは全てが露見し、自分も事件に関係したせいで破滅すると考えていた。ピーター・ブラッドは彼の不安を鎮めた。

「計画は、今晩に延期だ」彼は内心よりも自信に満ちた調子で告げた。「総督から死ぬまで血を抜き取ってやらねばならん。君は昨夜と同じ準備をしておいてくれ」

「けど、それまでに怪しまれたらどうするんだ?」ナトールが愚痴っぽく言った。彼は針金のように痩せた青白い小柄な男であり、今は不安げな目をしきりとしばたたかせていた。

「可能な限り誤魔化せばいい。機転をきかせるんだよ。私もそうそう長居はしていられない」そしてピーターは、前もって書付を送っておいた薬を受け取りに薬局へ向かった。

 彼が去ってから一時間も経たぬうちに、ナトールの惨めなあばら家に総督府の役人がやってきた。船の売り手は正規の手続き――流刑囚がやってきた事によって制定された法――に従って役所に売上を報告し、小型船の保有者全てに義務付けられている10ポンドの保証金の償還を受け取ろうとしていた。取引の確認が完了しないうちは、償還の支払いは先延ばしにされるのである。

「我々は、君がロバート・ファレル氏からウェリーを購入したという報告を受けている」担当者が言った。

「その通りです」これで一巻の終わりと思い、ナトールは答えた。

「総督府に報告にくるのに、随分と手間取っているようだな」役人は如何にも官僚らしい傲慢な態度だった。

 ナトールの気弱そうな目は一層せわしなく瞬きした。

「ほ……報告を?」

「それが法令だと知っているだろう」

「わ……私は、存じませんで。申し訳ありません」

「しかし、一月に公示された布告で施行されているぞ」

「わた、私は、字が読めないんです。私は、ぞ……存じませんで」

「ふん!」役人は侮蔑によって彼を萎縮させた。

「ともかく、今、お前は知らされた訳だ。正午になる前に、義務付けられている10ポンドの保証金と一緒に必ず役所にくるんだぞ」

 尊大な役人は去って行き、この朝の暑さにもかかわらず、ナトールは冷や汗をかいていた。彼は最も恐れていた質問、つまり多額の借金を抱えた彼のような者がどうやってウェリーを買う金を手に入れたのか、という質問を、あの役人がしなかった事でほっとしていた。だが、これが一時の猶予に過ぎないのはわかっていた。遠からず、この質問は確実にされ、目の前で地獄への扉が開くだろう。ピーター・ブラッドの脱出計画などに耳を貸してしまった自分の馬鹿さ加減を、彼は罵った。きっと全ての計画が発覚するだろう。恐らく自分も首を吊られるか、少なくとも焼印を押されて、愚かな気の迷いで結託してしまった忌まわしい謀反人達と同じように奴隷として売り飛ばされてしまうのだ。この忌々しい保証の為に10ポンドを用意できさえすれば、役人から不審に思われるきっかけを与えずに事務手続きが速やかに完了して、質問はずっと先になるかもしれない。あの役人の使いが、ナトールが債務者であるという事実を見落としたように、総督府の役人達も、少なくとも一日か二日は気づかずにいてくれるかもしれない。そして彼等がそれに気づいた時には、上手くいけば、自分は連中の質問の届かぬ場所にいるだろう。しかし、それまでの間に、この金をどう工面すればいい?しかも正午になる前にだ!

 ナトールは帽子をひったくると、ピーター・ブラッドを探しに表へ出た。だが、どこを探せば見つけられるだろう?凸凹とした舗装されていない道を無計画にうろつき回り、彼は思い切って一人、二人をつかまえて、今日の朝、ブラッド医師を見かけなかったかと尋ねてみた。ナトールは体調の悪いふりをしたのだが、実際、彼の様子は偽装に説得力を与えるようなものであった。しかしながら誰からも情報は得られなかった。この計画で果たすワッカー医師の役割をブラッドが一切話していなかった為に、不幸な無知のままに歩き回るナトールは、このバルバドスにおいて彼を窮地から救い得る唯一の人物が住む家の前を素通りしてしまった。

 最終的に、ナトールはビショップ大佐の農園に向かう事にした。恐らくブラッドの行先はそこだろう。彼が不在だったとしても、ピットを見つけて伝言を残せばいい。彼はピットと、この計画にピットが果たす役割を承知していた。ブラッドを探すに際しての口実は、自分が体調不良で医者の助けを必要としているという事でいいだろう。

 そしてナトールが心配のあまり焼けつくような暑さにも無感覚になりながら、町の北にある丘へと登ろうとしていたのと同じ頃、これまでの処は総督の痛みが和らいでいる為に退出を許されたブラッドは、ようやく総督邸を出たのであった。騎馬している彼は、予期せぬ遅れさえなければナトールよりも先に砦柵に着いていたはずであり、その場合には、いくつかの不幸な出来事は回避されていたかもしれない。その予期せぬ遅れとは、アラベラ・ビショップ嬢によって引き起こされたものであった。

 二人は総督邸の華麗な庭園の門で鉢合わせし、自身も騎馬していたビショップ嬢は、馬上のピーター・ブラッドをまじまじと見つめた。図らずも、彼はこの時、気勢の上がった状態であった。総督の病状が今の処は好転しているという事実、それはすなわち、ブラッドが行動の自由を取り戻したという事であり、これまでの十二時間以上を働きづめに過ごした鬱屈を払うに充分だった。鬱屈の反動で高揚した気分は、現在の状況に必要とされる程度を超えて高まっていた。彼は楽天的になっていた。昨夜失敗した事が、今晩また失敗したりはしないだろう。結局の処、一日くらい何だというのだ?役人は厄介かもしれないが、しかし少なくとも、この二十四時間に限ればそう深刻な厄介ではない。そしてその時までには、自分達ははるか彼方に去っているはずなのだ。

 この楽天的な思い込みが彼の最初の不運だった。次の不運はビショップ嬢もまた同様に機嫌が良く、そして彼女は根に持つ性分とは程遠いという点にあった。この二つの組み合わせは、結果的に恐ろしい遅延を招く結果となった。

「おはよう、素敵な朝ね」彼女は機嫌良く彼を歓迎した。「最後にお会いしてから、一ヶ月近いんじゃないかしら?」

「二十一日」彼は言った。「指折り数えていましたのでね」

「私、貴方が死んでしまったんじゃないかと思い始めていたところよ」

「花輪のお礼を言わねばならぬようですね」

「花輪?」

「私の墓を飾る為の」彼が説明した。

「貴方って、人をからかわずにいられないの?」最後に会った時、自分が彼のからかいに腹を立てて立ち去った事を思い出し、彼女は不思議そうに、そして生真面目に彼を見た。

「人間というものは、時々自分を笑いものにするか、それとも自分に腹を立てるかしなければやっていけないものなんですよ」彼は言った。「大抵の人間はそれがわからない。だから世の中には掃いて捨てるほど狂人がいるんだ」

「貴方が自分自身を笑いものにするのは、ご自由に。でも貴方、時々、私の事も笑いものにするじゃないの。それって随分失礼じゃなくって」

「信じてください、誤解ですよ。私が笑うのは滑稽な人間だけ、貴女には滑稽な処などどこにもない」

「じゃあ、私は何なの?」彼女は笑いながら尋ねた。

 一瞬、彼は彼女について思いめぐらせた。明るく溌剌とした美しさがあり、完全に乙女らしく、そして尚かつ、完全に率直で臆する事がない。

「貴女は」彼は言った。「私を奴隷として所有している男の姪御さんですよ」しかし彼の物言いは気楽なものだった。彼女が思わずむきになったほど、あまりにも軽い調子だった。

「駄目よ、誤魔化さないで。今朝は正直に答えてもらうわよ」

「正直に?まったく、貴女の質問に答えるのは大仕事だ。だが正直に答えましょう!あー、そうだな、貴女を友人に加えられる男は、幸せ者だとは言えるかも知れませんね」彼の心の内には言うべき事は多々あった。しかし彼はそこで言葉を切った。

「それは御丁寧に」彼女は言った。「社交辞令がお上手でいらっしゃること、ミスター・ブラッド。貴方のような立場の人なら…」

「やれやれ、他の連中がどんな事を言うのか見当がつかないとでも?我が同胞の男どもの事をまるでわかっていないとでも?」

「時々、貴方は本当にわかっていないんじゃないかって思うわ。それとも承知の上で、わざとやっているのかしら。どちらにせよ、貴方が自分の同胞の女の事をわかっていないのは確かね。あのスペインの人達の一件を思えば」

「その事は忘れてくれませんか?」

「絶対、いや」

間の悪さバッドセスのせいで、すっかり悪い印象を持たれてしまった。あれの埋め合わせになるような美点は、私には一つもないんですか?」

「そうね、いくつかあるかも」

「たとえば?」彼の態度は熱望に近いものだった。

「貴方はスペイン語がお上手よね」

「それだけ?」彼は呆然とした。

「どこで覚えたの?スペインで過ごした経験がおありなの?」

「確かに。スペインの刑務所で二年過ごしましたよ」

「刑務所にいたの?」彼女の声は不安げで、彼はそのままにはおけないと思った。

「戦争で捕虜にされてね」彼は説明した。「私はフランス側で戦ったんだ――フランスに仕官して」

「でも、貴方は医者でしょう!」彼女は叫んだ。

「あれは、ただの回り道だったような気がする。私の天職は軍人だった――少なくとも、私は十年間を軍人として務めた。万事順調だった訳ではないが、だがそれは、ご覧の通り、奴隷に落とされる原因になった医師稼業よりは、はるかに性に合っていた。人を殺す事の方が、人の命を救う事よりも主の御心にかなっていたらしい。どうやら、ね」

「でも、どうして軍人になって、フランスに仕官する事になったの?」

「私はアイルランド人ですよ、よろしいか?そして医学を学んだ。それ故に――我等は頑固な民であるが故に、……だが、長い話になってしまうな、大佐は私の帰りを待っているだろうし」彼女は好奇心を満たすのを先延ばしにする事を許さなかった。彼がほんの少しの間待っていれば、二人で一緒に帰宅できるはずだった。彼女は叔父の頼みで総督の見舞いをする予定になっていた。

 彼は待つ事にし、そして彼等はビショップ大佐の家まで馬を並べて共に帰った。二人は並足でゆっくりと馬を歩かせ、彼等が追い越した何人かの者達は、奴隷医師が自分の所有者の姪と如何にも親密そうな様子でいるのを見て驚愕した。その中には、大佐に告げ口をしようと考える者も何人かいたかもしれない。しかし馬上の二人は、この朝、お互い以外の存在を完全に忘れ去っていた。彼は自分の若く無鉄砲な日々を彼女に語り、その最後に自分の逮捕と裁判の顛末を細部まで話した。

 彼等が大佐の館の入口で止まった時に話は辛うじて終わり、鞍から降りたピーター・ブラッドは、大佐が在宅であるのを知らせた黒人従者の一人に馬を引き渡した。

 それでも尚、彼女が彼を引きとめた為に、しばし二人はその場に残った。

「残念だわ、ミスター・ブラッド。もっと前に知る事ができなくて」そう口にした彼女のハシバミ色の澄んだ瞳には、涙がにじんでいた。やむにやまれぬ思いを込めて、アラベラ嬢は彼に向かって手を伸ばした。

「何故です、それで何かが変えられる訳でもないでしょう?」彼は尋ねた。

「少しは違っていたかもって、思うの。貴方はずっと、運命から顧みられずにきたのね」

「ええ、今は……」ブラッドはひと呼吸おいた。彼の鋭いサファイアの瞳は、黒い眉の下からしばしの間、揺るぎなく彼女を見つめた。「せめてもの救いがある」意味ありげな様子で彼は言い、それが彼女の頬を染め、瞬きを激しくさせた。

 別れる前に、彼はアラベラ嬢の手に接吻する為に身を屈め、彼女もそれを拒まなかった。それからブラッドは身をひるがえして半マイル先にある砦柵に向かって大股で歩み去ったが、しかし頬を染め、突然ひどくはにかんだ彼女の面影は彼につきまとった。そのほんの一時の間、彼は自分が十年の刑期を課せられた囚人である事を忘れた。彼は自分が脱走を計画し、それが今夜実行されるはずだという事を忘れた。総督の痛風の結果として現在の彼が瀕している、計画が露見する危険さえも忘れた。

七 海賊

 ジェームズ・ナトールは、この暑さの中をブリッジタウンからビショップ大佐のプランテーションまで全力疾走したが、仮に熱帯気候の真っ只中を走る為に作られた人間が存在するとすれば、それは背が低く痩せた体とひょろ長い脚の持ち主である、ジェームズ・ナトール氏を置いて他にいないであろう。彼は極度に疲労困憊し、もはや体中の水分を絞り尽くされたかのようであったが、しかし彼の体内に未だ水分が残っていたのは、砦柵さいさくに到着した時に噴き出すような汗をかいていたのを見れば明らかだった。

 その入口で、彼は危うく、ヘラクレスの腕とブルドッグの顎を備えたずんぐりしたガニ股のけだもの、奴隷監督のケントに衝突しかけた。

「ブラッド先生はいますか」息つく間もなくナトールは尋ねた。

「何をそんなに慌ててるんだ」ケントがうなるように言った。「何の用だ?双子でも生まれるのか?」

「え?ああ!違います、違います。私は独り者で。従弟です」

「何があった?」

「あいつ、ひどく具合が悪くて」すかさずケントの言葉に便乗したナトールは出まかせを言った。「先生はここにおいでですか?」

「向こうに奴の小屋がある」ケントはぞんざいに指差した。「そこにいなけりゃ、他のどこかだ」そして彼は去っていった。この男は口より先に鞭でものを言う、常に不機嫌で無慈悲な野獣であった。

 ナトールはケントが納得した様子で去るのを見送りながら、彼の進行方向を忘れぬように心にとどめた。それから囲いの中に突進し、ブラッド医師が残念ながら不在であるのを確認した。目端の利いた男ならば、そこに座って待っているのが結局は最も早くて確実な方法だと判断するだろう。しかしナトールにはそのような判断能力の持ちあわせはなかった。彼は再び砦柵の外に飛び出し、どちらに行くべきかとしばしためらった末に、ケントが向かった道以外を手当たり次第に探す事にした。密生した茎が城壁のようにそびえ立ち、目がくらむような六月の日差しを浴びてほのかな金色に輝いているサトウキビ畑に向かい、彼はからからに乾いた大草原サバンナを横断して急いだ。本道は琥珀色のサトウキビが茂るいくつもの区画と交差していた。この区画の一つで、彼は遠くに何人かの奴隷が働く姿を見つけた。その大通りに入ったナトールは彼等に向かって進んだ。奴隷達は物憂げな目で横を通り過ぎていく彼を見た。ピットはその中にはおらず、そして彼にはピットについて尋ねてまわる度胸はなかった。一時間近く、彼は小道に降りたり上がったりを繰り返して捜索を続けた。一度、奴隷監督が彼を呼び止めて、何をしているのかと問いただした。彼はドクター・ブラッドを探しているのだと説明した。従弟が病気なのだと。監督は悪態を吐き、とっとと農園から出て行けと命じた。ブラッドはここにはいない。いるとしたら、砦柵の中にある自分の小屋だ。

 ナトールは出て行くと約束した上で、道を進んでいった。しかし彼が向かったのは別の方角だった。彼は砦柵から最も遠い側にある農園に向かい、そこを縁取る密林を目指して先へ進んだ。あの奴隷監督はこちらを軽んじていたし、恐らく、この真昼に近い苦しいほどの暑さでは、わざわざ行く先を変えさせるのも億劫に違いない。

 うろつき回った末に本道の終端まで行ったナトールは、その角を回った処で、一人きりで木製の鋤を振るい用水路で作業しているピットに出くわした。だぶだぶの木綿の股引ドロワースはみすぼらしく、膝までしかなかった。熱帯の太陽光線から伸ばし放題の金色の頭を保護する大きな麦わら帽子を除けば、上半身は裸だった。彼の姿を視界にとらえたナトールは、思わず造物主への感謝が口をついて出た。ピットが彼をまじまじと見つめると、船大工は惨めな調子で気の滅入る報せを滔々と語った。要約すると、彼は昼までにブラッドから10ポンドを受け取らねばならず、さもなければ全てが水の泡だという。そして彼の辛苦と大汗に対してジェレミー・ピットが返したのは、非難の言葉だった。

「馬鹿!」ピットは言った。「ブラッドを探してるんなら、何でこんな処でぐずぐずしてるんだ?」

「見つからないんだよ」ナトールは泣きごとを言った。彼はピットの反応に憤慨した。心配のあまりにろくに眠れぬ一夜を過ごし、絶望の夜明けを迎えた苛立ちからくるピットの険悪な状態を彼は失念していた。「だから、あんたの処に行こうと思って……」

「俺が鋤を放り出して、彼を探しにいけるとでも思ったのか?そう考えたっていうのか?俺達の命はこんなトンマにかかってるのか!こんな処でぐずぐずしてる間に、どんどん時間は経っていくんだぞ!お前と俺が話しているのを監督に見つかって、捕まえられたらどうする?なんて言い訳するつもりだ?」

 一瞬、ナトールは、このような恩知らずに対して返す言葉を失った。それから彼は爆発した。

「かなうもんなら、こんな話に関わり合わなかった事にして欲しいよ。そうともさ!かなうもんなら俺は…」

 他に何を願ったのか、彼に最後まで語る機会はなかった。何故ならば丁度その時、サトウキビ畑の区画を回り込んで、ビスケット色のタフタを着た大柄な男が、木綿の股引ドロワースをはき舶刀カットラスを帯びた二人の黒人奴隷を従えてやってきたからだ。10ヤードと離れていない先だったが、柔らかな泥灰土のせいで彼等の足音は聞こえなかったのだ。

 そちらを見て慌てふためいたナトールは、その瞬間、脱兎のごとく逃げ出すという、この状況下で彼が取り得る最も愚かで不審な行動に出た。ピットは一言罵ると、鋤に寄りかかって大人しく立っていた。

「おい!止まれ!」逃亡者の背中に向けてビショップ大佐がわめき、更に下品な言葉で飾り立てた恐ろしい脅し文句を加えた。

 だが逃亡者は全速力のまま、振り返りすらしなかった。ナトールに残された唯一の希望は、ビショップ大佐には顔を見られていないかもしれないという可能性だけであった。ビショップ大佐の権力と影響力をもってすれば、大佐が死を望みさえすれば、如何なる男であろうと吊るし首にできるのだ。

 逃げ去った者の姿が低木の茂みに消えるに至って、ビショップは憤慨と驚きから回復し、背後に従えている一対の猟犬のような黒人奴隷達の存在を思い出した。二年前、ある奴隷が彼を襲い、危うく絞め殺されそうになって以来、大佐は護衛を連れずにプランテーション内で行動する事は決してなかった。

「追え、黒豚ども!」彼は奴隷達に怒鳴り立てた。しかし、いざ彼等が追い始めると、大佐はそれを制止した。「待て!止まるんだ、くそっ!」

 あの輩を捕らえて罰をくれてやる為には、当人の後を追いかけて、忌々しい林の中で一日がかりで狩って回る必要などないのだと大佐は思い当たったのである。ここにピットがいるではないか。ピットに内気な友人の正体と、彼等が中断させられた内緒話の中身を白状させればいい。当然、ピットは拒むだろう。ピットにとっては更に不運な事に、創意工夫に富むビショップ大佐はそのような頑固な犬ころを躾ける1ダースの方法――そのうちのいくつかは、なかなか良い気晴らしになる――を知っているのだ。

 大佐は体の内と外からの熱により真っ赤に染まった顔と、残忍な知性を秘めた興奮に輝く両眼をピットに向けた。彼は軽い竹の杖を振りながら進み出た。

「あの逃げ出した男は、何者だね?」ぞっとするような猫撫で声で彼は尋ねた。鋤に寄りかかったまま、ジェレミー・ピットは少しうなだれて、落ち着かぬ様子で素足をあちこちと動かした。彼は心中でむなしく答を捜し求めたが、ジェームズ・ナトールの愚行を罵る以外に何もできなかった。

 大佐の竹杖は、刺すような一撃で若者のむきだしの肩に落ちた。

「答えろ、犬っころ!奴の名は?」

 ジェレミーは陰鬱さの消え失せた挑むような目で無骨な農場主を見た。

「知りません」彼はそう答えたが、その声には己の命を守る為に受けるがままにした一撃によって沸き上がった反抗心が、かすかに滲んでいた。彼の身体は攻撃に対して硬直していたが、しかし同じ時、その中にある精神は苦痛にのたうっていた。

「知らないだと?なら、これで物忘れが治るだろう」再び杖が振り下ろされた。「これで奴の名を思い出したか?」

「いいえ」

「頑固だな、あん?」一瞬、大佐は嘲るような目付きになった。それから彼は激情に支配された。「こいつめ!厚かましい犬っころめが!私を侮る気か?お前ごときが私を虚仮にできるとでも思っているのか?」

 ピットは肩をすくめて再び立ったまま横を向くと、頑固に沈黙を保った。それ以上の挑発的な態度は見せなかった。だがビショップ大佐の気質には多くの挑発など必要なかった。獣じみた激怒が、今や彼の内部に目覚めていた。彼は一打ごとに罰当たりな悪口雑言をわめき散らしながらピットの無防備な肩を猛烈に打ちすえたが、激痛が忍耐の限度を越えた時、ピットの中で未だくすぶっていた男の意地という残り火は煽られて炎となり、自分を鞭打つ者に飛びかかった。

 しかし彼が飛びかかった時、同時に黒人護衛達も飛びついてきた。たくましいブロンズ色の腕が虚弱な白い体を押し潰すように巻き付けられて、不運な奴隷は身動きのかなわぬ状態にされると、あっという間に手首を革紐で後ろ手に縛り上げられた。

 息を荒げ、顔をまだらにして、しばしビショップは彼について思いをめぐらせた。そして「そいつを連れいくぞ」と告げた。

 およそ8フィートにまで伸びたサトウキビが形成する金色の壁に挟まれた長い道を進み、畑で作業する同輩の奴隷達から怯えた目を向けられつつ、惨めなピットは黒人護衛に小突かれながら大佐の後ろを歩いた。彼は絶望と共に歩んだ。間近に自分を待ち受ける苦痛がどれほど酷いものかは理解していたが、それは彼にとってはどうでもいい事だった。彼の心を苦しめている真の原因は、この言語を絶する地獄からの入念な逃亡計画が、いざ実行しようとした瞬間に頓挫してしまったという思いにあった。

 彼等は緑の台地に出ると、砦柵さいさくと奴隷監督の白い家を目指して進んだ。ピットの視線はカーライル湾上を走った。この台地は、湾の端にある砦から、その反対の端にある埠頭の長い倉庫群までを、はっきりと見下ろす事が可能だった。埠頭に沿って何艘かの平底船が係留されており、ピットは我知らず、この中のどれがあのウェリーだろう、ほんの少し運が向いていれば、今頃は海の上だったのにと考えていた。彼の視線は海上を惨めに彷徨った。

 その岸にある停泊地に、カリブ海のサファイア色の水面にさざ波ひとつ立てずに吹く穏やかな微風の中を、英国の船旗エンザインをはためかせたフリゲート艦の堂々たる真紅の船体が入ってきた。

 ビショップ大佐はその船を眺める為に立ち止まり、肉厚な掌で目の上にひさしを作った。その船は微風に合わせて前檣帆フォアスルだけを広げていた。他の帆は全てたたまれ、そびえ立つ船尾楼スターンキャッスルから、眩しい日差しにきらめいている金箔をきせた激突艦首ビークヘッドまで、その船体の雄大な輪郭があらわになっていた。

 非常にゆったりとした前進は、この水域にあまり精通していない航海長マスターが慎重に進むようにと命じた為だった。このペースでは、この船が湾内の停泊地に着くまでに、恐らく一時間はかかるだろう。大佐がこの船を、恐らくはその優美さ故にうっとりと眺め入る間に、ピットは砦柵さいさくの中へと急き立てられて、仕置きの必要な奴隷の為に用意されている晒し台に叩き付けられた。

 間もなくビショップ大佐も体を揺すぶりながら、悠々とした足取りで彼の後を追った。

「主人に牙を剥く反抗的な駄犬は、背中に縞模様を刻んで躾をせねばならん」刑吏の仕事にとりかかる前に彼が発したのはそれだけだった。

 彼のような地位にある大抵の男ならば、自尊心から黒人従者に任せるであろう仕事、それを自らの手で行うという事実が、この男の獣性を物語っていた。彼が奴隷の頭や肩を鞭で打つのは、残忍で野蛮な本能を満足させる薬味のようなものであった。間もなく彼の杖は、自らの振るった暴力によっていくつもに割れ裂けた。一本のしなやかな竹杖に打たれる痛みならば、恐らく想像もつくだろう。しかしそれがナイフのように鋭いエッジがある数本の長い柔軟な刃に分かれた時、その殺人的な効果を余人に理解できるだろうか?

 ようやく疲れ切ったビショップ大佐が劣化して軸と紐とに化した杖を投げ捨てた時、惨めな奴隷の背中は首から腰部まで滅多打ちにされ、血を流していた。

 意識を保っている間、ジェレミー・ピットは声ひとつ上げなかった。だが痛みによって意識が遠のくにつれ、彼は晒し台に向かって前のめりに倒れ、身を縮めてうずくまり、弱々しくうめいた。

 ビショップ大佐は横木の上に足を置くと、自分が痛めつけた男に向かって屈み込み、粗野な顔一杯に残忍な笑いを浮かべた。

「これで貴様も本物の服従を覚えたろう」彼は言った。「さて、貴様の恥ずかしがり屋の友人についてだが、奴の名前と正体を素直に話すまで、飲まず食わずで――聞こえたか?飲まず食わずでだ――ここにいるんだ」彼は横木から足を外した。「ここにいるのに飽きたら、私に合図しろ。貴様の為に焼印を持ってきてやる」

 そう言い残すと彼は身を返し、黒人奴隷達を従えて砦柵さいさくの外に大股で歩み去った。

 ピットはそれを、夢の中で聴こえてくる言葉のように聞いていた。残虐な罰によって激しく消耗し、そして既に陥っていた絶望があまりにも深かったが為に、彼は自分が生きていようが死んでいようが、もはやどうでもよかった。

 しかし痛みによって朦朧としていた彼は、間もなく新たな痛みによって叩き起こされた。この台は熱帯の太陽の眩しい光に直に晒された戸外に立っており、その灼熱の光線は出血した背中が炎に焦がされているように感じるまで絶え間なく降り注いでいた。そして間もなく、更に忌々しい悩みの種が加わった。蝿である。アンティル諸島の凶暴な蝿が血の匂いに呼ばれて群れを成し、彼の側に飛んできたのだ。

 頑固な口を割らせる術を熟知している、創意に富んだビショップ大佐が、別種の拷問に頼る必要性を考慮しなかったのはさして不思議ではない。大佐の悪魔のごとき残虐性をもってしても、目下のピットが被っているような、自然によってもたらされた苦痛よりも更に残酷で耐え難い拷問を編み出すのは不可能だろう。

 ピットは晒し台の上で手足を引きちぎらんばかりに身悶えし、のたうち回り、苦しみに絶叫した。

 そのような状況にあった為、ピーター・ブラッドに発見された時、彼にはそれが、己の苦痛が生み出した妄想が突然現実化したかのように感じられた。ブラッドは大きな棕櫚パルメットの葉を運んできた。それでジェレミーの背中に集っていた蝿を掃ってから、これ以上の蝿による攻撃と日差しから保護する為に、細長いひげ根を使って若者の首から葉を吊った。次に彼の横に座ると、自分の肩で患者の頭を支え、錫小鍋パニキンの中に入った冷たい水で彼の顔を洗った。ピットは震え、うめくと、長く息を吸い込んだ。

「飲みなさい!」彼は息を荒げて言った。「飲むんだ、後生だから!」錫小鍋パニキンが彼の震える唇に押し当てられた。ピットは貪欲に、騒々しく、容器の中のものを一気に飲み干した。その一杯で落ち着きと生気を回復し、彼は座り直そうと試みた。

「背中が!」彼は絶叫した。

 ブラッドの目は常にない光を放ち、唇は固く結ばれた。しかし話をする為に口を開いた時、彼の声は冷静で落ち着いていた。

「楽にしなさい、さあ。慌てなくていい。背中は保護したから、さしあたりは大丈夫だ。何があったんだ。君が殺されて我々が危うく航海士ナビゲーターを失いそうになるまで、あの獣のビショップを怒らせるなんて、一体何を考えているんだ?」

 ピットは再び座り直し、そしてうめいた。しかし今度の彼の苦しみは、身体よりも心にあった。

「航海士は、もう必要ないと思うよ、ピーター」

「どういう事だ?」ブラッドは叫んだ。

 ピットは息を詰まらせ、あえぎながらも、極力手短かに状況を説明した。「俺の処に来た奴の正体と用件を大佐に話さなけりゃ、ここで朽ち果てるしかないんだ」

 ブラッドは喉の奥でうめくと、立ち上がった。「薄汚い奴隷商人め、地獄に堕ちろ!」彼は言った。「切り抜けてやるんだ、何があろうと。ナトールなぞ知った事か!奴が船の保証金を払おうが払うまいが、奴がそれを説明しようがしまいが、あの船はあそこにあるんだ。我々は海に出る。そして君も我々と共に行くんだ」

「ピーター、あんたは夢を見てるんだ」ピットは言った。「今回は無理だ。脅されたナトールが計画を吐いて、俺達全員の額に焼き印が押されるなんて事にならなかったとしても、少なくとも、保証金が支払われなきゃ、役人は船を没収しますよ」

 ブラッドは顔をそむけると、苦悩を込めた瞳で、すぐにでも自由の身に戻り旅に出られるのだと希望を描いていた、青い海原を見渡した。

 大きな赤い船は、既にかなり近くの岸まで入ってきていた。ゆっくりと、堂々と、その船は湾に入った。既に一、二艘のウェリーが、その船を岸に着けさせる為に埠頭を離れていた。ブラッドの立つ場所からは、曲線を描く激突艦首ビークヘッド上にある船首大砲の真鍮の輝きが見え、左舷ラーボード上部で水深を測ろうとするように身を乗り出している測鉛手そくえんしゅの姿をとらえる事ができた。

 怒声が彼を無念の思いから現実に引き戻した。

「貴様、ここで何をしている?」

 戻ってきたビショップ大佐は、相変わらず黒人奴隷達を引き連れて、砦柵さいさくの中に大股で歩み入ってきた。

 彼と対面する為に振り返ったブラッドの浅黒い顔――今やインディアンとの混血のような金茶色に焼けた顔――には、その内心を示す痕跡はどこにもなかった。

「何を?」穏やかに彼は応じた。「私の職務をです」

 大佐は猛然と大股で歩み出ると、二つの事実を見て取った。囚人の横に置かれた空の錫小鍋パニキンと、その背中を保護している棕櫚パルメットの葉。「承知の上でやったのか?」大佐の額の血管は縄のように浮き上がっていた。

「何か問題でも?」わずかに驚いた様子でブラッドは答えた。

「私が命じるまで、こいつを飲まず食わずのままにしておけと言ったのだ」

「無論、その御命令は存じませんでした」

「知らなかっただと?そもそも、貴様がここにいなかったから、命令を聞いていなかったんだろうが?」

「ですから、御命令を知りようがなかった私は、どうすればよかったと仰せなのです?」ブラッドは如何にも遺憾な調子で言った。「私の知る限りの事実は、貴方の奴隷の一人が太陽と蝿に殺されかけていたという事です。そして私は、かように考えたのです。これは大佐の奴隷の一人である、そして私は大佐の医者であり、大佐の財産の世話をしており、それが私の職務と自負している。故に私はその奴隷にひとすくいの水を与え、太陽光線から彼の背中を保護しました。何か間違った事でも?」

「間違った事?」大佐は絶句した。

「落ち着いてください、どうか、落ち着いて!」ブラッドは彼に哀願した。「そのように興奮しては脳卒中を起こしますよ」

 大佐は罵り文句を吐きながら彼を脇に押しやって進み出ると、ピットの背中の棕櫚パルメットの葉を引きちぎった。

「慈悲の名の下に、それは…」ブラッドは口を開いた。

 大佐は猛然と彼に向かって腕を振った。「とっとと行け!」彼は命じた。「私が呼ぶまで、二度とこいつの側に寄るな、こいつと同じ目に遭いたくないならな」

 彼の威嚇、彼の巨体、彼の力は凄まじいものだった。だがブラッドは全く怯まなかった。その黄褐色の顔の中で異様に目立つ、ライトブルーの目――銅にはめられた青白いサファイアのような――に見つめられた時、大佐は思った。この処、このならず者は増長している。矯正してやらねばならない。一方ブラッドは再び話し始めたが、その口調は静かで断固たるものだった。

「慈悲の名の下に」彼は繰り返した。「貴方は彼の苦しみを和らげる為に、私にできる限りの事をする許可をくださるはずだ。さもなくば、私は即座に己の医者としての義務を放棄すると宣言する。その場合、この健康に害のある島で私が治療を担当している別の患者が厄介な事になる」

 大佐は驚きのあまり、咄嗟に言葉が出なかった。そして――

「屑めが!」彼は怒鳴り立てた。「犬ころの分際で、そんな生意気な口をきくつもりか?私に向かって対等に話そうというつもりか?」

「そのつもりです」憶する事のない青い目が、堂々と大佐を見返した。そして、その瞳の奥には絶望から生まれた無謀という悪魔が顔をのぞかせていた。

 ビショップ大佐は長い間、無言で彼を見つめた。「お前を甘やかし過ぎたようだな」遂に彼はそう言った。「躾け直してやらねばならん」そして唇を引き結んだ。「貴様の薄汚い背中の皮が1インチもなくなるまで鞭打ってやる」

「そうなさると?その場合、スティード総督は如何なさるでしょう?」

「この島に、医者は貴様一人ではない」

 ブラッドは快活に笑った。「では総督閣下にそのように報告するおつもりか?自分の足で立つ事もできぬほど酷い痛風の閣下に。貴方もよく御承知のはずだ、閣下が別の医者で我慢するはずがない、知性ある人間として、自分の身体に何が最良かは御存知だ」

 だが完全に呼び覚まされた大佐の獣じみた激情は、そう易々とは揺るがされなかった。

「私の黒人奴隷どもが仕置きを終えた後でも息があれば、貴様も道理をわきまえるようになっているだろうよ」

 命令を伝える為に、彼は黒人奴隷達に向かって腕を振った。しかしその命令が実行される事はなかった。その瞬間、凄まじい雷音の轟きが彼の声を掻き消し、その場の空気を震わせた。

 ビショップ大佐は仰天し、黒人奴隷達も彼と共に飛び上がって驚き、そして常に動揺を表に出さないブラッドさえもが驚きを見せていた。それから四人は一斉に海の方向を凝視した。

 眼下の湾内には、今や要塞まで一鏈(約185m)内の距離へと迫った大型船が、船体を包む煙雲の上に中檣トップマストをのぞかせた姿が一望できた。崖から驚いて飛び立った海鳥の群れが青空を旋回し、警戒を鳴き交わす鳥達の中でも、悲しげなシギの鳴き声は殊更にけたたましく響いた。

 未だ何が起ったのかを把握できぬまま、一同がその場から凝視を続けると、大檣冠メイントラックから英国旗ブリティッシュ・ジャックが下がり、立ちのぼる雲煙の中に消えていった。間髪を容れず、英国旗に代わって雲の中から上昇し、ひるがえったのは、金と深紅のカスティリヤの旗だった。彼等は理解した。

海賊パイレーツめ!」大佐は怒号し、再び「海賊め!」と繰り返した。

 彼の声には恐れと信じ難い思いが入りまじっていた。日に焼けた彼の顔は粘土色になるまで青ざめ、小さく丸い目には憤怒が宿っていた。彼を見た黒人奴隷達は、眼と歯をむいて間の抜けた笑みを浮かべた。

八 スペイン人

 あの堂々とした風格ある船は、偽の国旗カラーを掲げてカーライル湾中に悠々と侵入してみせたスペインの私掠船1であり、「浜辺の同胞団2」に対する積年の恨みと、カディス行きの二隻の宝物ガレオン船がプライド・オブ・デヴォン号に敗北した先日の借りを返す為にやってきたのであった。軽微な損傷を受けて撤退したこのガレオン船は、ドン・ディエゴ・デ・エスピノーサ・イ・バルデスの指揮下に入っていた。ディエゴはスペインのドン・ミゲル・デ・エスピノーサ海軍提督の実弟であり、兄と同じく非常に短気で高慢、激しやすい紳士であった。

 敗北を深く怨嗟し、その敗北を招いたのが己の采配であるという事実を棚に上げた彼は、あのイングランド人どもに忘れられない痛い教訓を与えてやると誓っていた。彼はモーガン3やその海賊仲間達を手本にして、英国植民地のひとつに報復奇襲を仕掛けるつもりだった。彼自身にとっても他の多くの者達にとっても不幸な事に、この目的で彼がサン・フアンドゥ・プエルトリコでシンコ・ラガス号を艤装ぎそうした時、兄である海軍提督は彼を制止できるような近くにはいなかった。彼は標的として、その地勢の為に守備が疎かにされがちなバルバドス島を選んだ。その地が選ばれたもう一つの理由は、斥候の報告によってプライド・オブ・デヴォン号がこの島に錨を下ろしている事が判明しており、自分の復讐が因果応報の意味を帯びる事を望んだ為であった。そしてカーライル湾には戦艦が停泊していないと知った時、彼は瞬時に決断を下した。

 既に彼は意図を悟られず要塞に近接し、挨拶代わりに二十発の砲撃を加える事に成功していた。

 そして今、岬上の砦柵さいさくから呆然と見守る四人の眼前で、立ちのぼる煙雲の下から忍び寄る大型船は、大檣帆メインスル詰め開きクローズホールドにして、迎撃体制の整っていない要塞に左舷砲を向ける為に帆走していた。

 その二度目の砲撃の凄まじい轟音により、ビショップ大佐は麻痺状態から覚めて己の職務を思い出した。眼下の町では半狂乱でドラムが打ち鳴らされ、危険を報せるにはそれでも足りぬとばかりにトランペットが悲鳴を上げていた。バルバドス民兵隊の指揮官としてビショップ大佐が成すべきは、スペインの大砲によって打ち砕かれ瓦礫と化した要塞で彼の貧弱な部隊の指揮をとる事であった。

 それを思い出し、彼はその巨体と暑さにもかかわらず駆け足で去り、その後を黒人奴隷達が急ぎ足で追いかけた。

 ブラッドはジェレミー・ピットに向き直った。彼は人の悪い顔で笑った。「これだよ」彼は言った。「私が折よい横槍と呼んでいるものだ。ここからどういう展開になるかな」そして彼は付け足した。「悪魔のみぞ知る、だ」

 三度目の砲声が響き渡った時、彼は棕櫚パルメットの葉を拾い上げると、ピットの背中に再び慎重にあてがった。

 それから間もなく、息を切らし汗みずくになったケントが、農園で作業していた労働者の大部分である二十名ほどを従えて砦柵の中に入ってきた。労働者の一部は黒人奴隷であり、そして全ての労働者が恐慌状態だった。ケントが白い家の中に彼等を誘導すると、時を移さずに彼等はマスケット銃と弾薬帯で武装して再び外へ出た。

 この頃には、我が身の無防備と周囲のパニックに気づいた叛乱流刑囚達も、即座に作業を放棄して三々五々、帰ってきていた。

 急いで武装した護衛が走り出ると、ケントは奴隷達に指示を与える為に一旦、足を止めた。

「森に行け!」彼は命じた。「森に行くんだ。俺達があのスペインの豚どもの内臓を地べたにぶちまけて騒ぎを収めるまで、そこでじっとしていろ」

 そう言い残すと、彼は部下の後を追って急ぎ立ち去った。彼等はスペインの上陸部隊を迎え撃ち鎮圧するべく、町の男達と合流しに向かったのである。

 ブラッドの存在がなければ、奴隷達は即座にケントの命令に従っていただろう。

「この暑さの中で、何故そんなに急ぐ必要がある?」彼は問うた。囚人たちの目には、彼はおそろしく涼しい顔に見えた。「恐らく森に行く必要などないだろし、何にせよ、スペイン人達が町を制圧するまでには、かなりの時間がかかるだろう」

 そうするうちに遅れていた者達も加わって、二十名――叛逆流刑囚の全員――が揃ったが、彼等は自分達のいる高台から眼下で行われている激戦の趨勢を見物する為に、その場に留まった。

 敗者に対しては一切の情けが期待できぬ事を知る者の悲壮な決意の下、民兵隊と武器を扱える全ての島民は海賊達の上陸を迎え撃った。スペイン兵の無慈悲は悪名高く、カスティリャ紳士達の蛮行は、昔日のモーガンやロロネー4すら及ばぬほどであった。

 しかしこのスペインの指揮官は手馴れており、率直に言って、バルバドス民兵隊の上を行くものであった。奇襲攻撃の利により要塞を無力化した彼は、あっという間に自分がこの戦況の支配者である事を見せ付けた。スペインの大砲は、無能なビショップが部下達を整列させていた突堤後方の空き地に狙いを移して民兵隊を血まみれの小片に引き裂き、スペイン海賊という正体が露見する前にボートに乗り込み本船を離れて全速で岸に向かっていた上陸部隊を援護した。

 焼けつくような午後の間中、戦いは続き、マスケット銃の発射音が次第に町の奥深くから聞こえるようになった事から、防衛側が後退を強いられているのがうかがわれた。日没までに、二百五十名のスペイン人がブリッジタウンを制圧し、島民は武装解除され、そして総督邸ではビショップ大佐と数名の下士官に護られたスティード総督――彼は恐慌状態で痛風の痛みも忘れていた――が、ドン・ディエゴから慇懃無礼な態度で身代金の額を告げられていた。

 8レアル銀貨5十万枚と五十頭の牛、それらと引き換えに、ドン・ディエゴはこの地を塵灰と化すのを容赦するだろう。そして優雅にして礼儀正しいスペインの指揮官が、怒り狂うイングランドの総督と細目の交渉を行っていた頃、スペイン海賊達は忌まわしい破壊と略奪、野蛮な饗宴にふけり、戦禍は拡大していった。

 大胆にもブラッドは、夕暮れ時に危険を冒して町中に向かった。彼がそこで目撃したものは、後に彼がこの時の事を話したジェレミー・ピットによって記録されている――この物語の大部分は彼の筆になる大量の記録ログに基づいているのである。筆者はこの稿でそれを引用するつもりはない。それはあまりにも不快で吐き気を催すような記述ばかりであり、恥を知らぬ人間というものが、これほどまでの獣じみた残虐性と欲の深淵に身を落とせるとは、全く信じ難い事である。

 彼を急き立て、蒼ざめた顔を再び地獄に直面させたもの、それは狭い小路で彼のいる方向に突進してきた少女であった。彼女は必死な目をして振り乱した髪を背になびかせながら走っていた。彼女の後を、笑いまじりの悪態を吐きながら、頑丈なブーツをはいたスペイン人が追いかけてきた。その男はあわや彼女を捕まえる寸前だったが、その時、いきなりブラッドが割って入った。ブラッドは少し前に死者の側から剣を拾い上げ、いざという時に備えて武装していた。

 スペイン人が怒りと驚きで見返した時、男の目は夕闇の中で素早く抜かれたブラッドの剣の鉛色のきらめきをとらえた。

「ペロ・イングレス!(イングランドの犬め!)」男はそう叫ぶと己の死に向かって突進した。

「主の御前に参上する用意はできているか」ブラッドはそう言って男の体を貫いた。彼は剣術家と外科医の技能を併せ、手際よくそれをやってのけた。男はうめき声ひとつ上げずに崩れ落ち、おぞましい小山と化した。

 ブラッドが振り向くと、少女は息を切らし、すすり泣きながら壁に寄りかかっていた。彼は少女の手首をとらえた。

「来なさい!」彼は言った。

 しかし少女はためらい、彼に身を預ける事を拒んだ。「貴方、誰なの?」彼女は激しく問い詰めた。

「私の素性を気にしている場合か?」彼は鋭く言った。彼女がスペインの暴漢から逃げてきた角の先から、こちらに向かう足音が近づいていた。「来なさい」彼は再び強くうながした。そして今度は彼の明確な英語の発音に安心したのか、彼女はそれ以上の質問はしなかった。

 彼等はその路地を速足で直進し、更に別の道に入ったが、幸いにも郊外に向かって進む間、誰にも遭遇せずに済んだ。どうにか町外れに至ると、蒼白になり、ふらつきながらも、ブラッドはビショップ大佐の家を目指して、彼女を半ば引きずるようにして丘を駆け上った。彼は自分が誰で何者かを手短に説明し、それから後は白い邸宅に着くまでの間、二人は一切言葉を交わさなかった。完全な暗闇が、わずかばかりの安堵を与えてくれた。仮にスペイン人がここまできていたならば、灯りが点いているはずだ。彼はノックをしたが、答えが返ってくるまでに、もう一度、更にもう一度ノックしなければならなかった。返答は上階の窓からの声だった。

「そこに誰かいるの?」その声はビショップ嬢のものであり、やや震えてはいたが彼女自身である事に間違いはなかった。

 ブラッドは安堵のあまり眩暈がした。それまで彼は、考えたくもないものを脳裏に描いていた。自分が先刻通り抜けてきた地獄の中にいる彼女を想像していたのだ。彼女が叔父に従ってブリッジタウンに向かったか、あるいは何か他の軽率な行動をとったのではないかと考え、そして彼女の身に起きたかもしれない事を想像した彼は、それだけで頭の天辺から爪先まで震え上がる心地がしていた。

「私だ――ピーター・ブラッドだ」彼は息を切らしながら告げた。

「どうしたっていうの?」

 彼女がドアを開く為にやってくるかどうかは確かでない。この機に乗じて惨めな農園奴隷達が反乱を起こし、スペイン海賊に劣らぬ危険性を発揮するのは容易に予測できる事態なのだ。しかしブラッドが救った少女が、闇を通してアラベラの声が聞こえた方向を見上げた。

「アラベラ!」彼女が叫んだ。「私よ、メアリー・トレイルよ」

「メアリー!」その声は驚きで高くなり、彼女の頭は室内に引っ込んだ。ほとんど間を空けず、ドアは大きく開いた。ドアの向こうの広いホールにはアラベラ嬢が立っており、白い服をまといほっそりとした乙女らしい姿が、彼女の手にした蝋燭の薄光に照らし出されていた。

 ブラッドは、すっかり取り乱しているメアリー嬢に続いて大股で歩み入った。少女はアラベラの華奢な胸に飛び込んで泣きじゃくっていた。彼は時間を無駄にはしなかった。

「ここに貴女と一緒にいるのは誰です?どんな使用人が?」彼は急かすように問い詰めた。

 唯一の男手は、年老いた黒人従者のジェームズであった。

「彼でいい」ブラッドは言った。「彼に馬を出すよう命じなさい。スペーツタウンか、もっと遠い北でもいい、安全な場所まで一緒に行くんだ。ここにいては危険だ――命に関るほど危険なんだ」

 彼女は蒼ざめ、驚いた様子だった。「戦いは終わったと思ってたわ……」

「この通りだ。だが騒乱状態は始まったばかりだ。道すがらトレイル嬢が説明するだろう。頼むからマダム、私の言葉を信じて、言う通りにするんだ」

「こ……この人は私を助けてくれたの」トレイル嬢はすすり泣きながら言った。

「貴女を?」ビショップ嬢は驚いた。「何から助けてくれたんですって、メアリー?」

「後にするんだ」半ば怒りながらブラッドは厳しく言った。「奴等の手が届く場所から一刻も早く離れなきゃならない時に、君はぺちゃくちゃお喋りをして一晩明かすつもりか。さあジェームズを呼んで、私の言う通りにするんだ――今すぐ!」

「高飛車なんだから……」

「ああ、まったく!高飛車だとも!話しなさい、ミス・トレイル、私が高飛車になるだけの理由がある事を、彼女に説明してあげるんだ」

「は、はい」少女は震えながら叫んだ。「この人の言う通りにして――ああ、お願いよ、アラベラ」

 ビショップ嬢は、再びブラッドとトレイル嬢を残して立ち去った。

「わた……私、御恩は決して忘れませんわ」治まりつつある涙声で彼女は言った。彼女はもう、ちっぽけな小娘でも子供でもなかった。

「私はその時すべき事をしただけだ。それだけだよ」そう言ったブラッドの佇まいは、幾分そっけなく見えた。

 彼女は納得したふりをせず、疑問を隠そうともしなかった。

「貴方は……貴方はあの人を殺したの?」彼女は恐る恐る尋ねた。

 彼は揺らめく蝋燭の光で彼女を凝視した。「多分ね。その可能性は高いし、さして重要な事ではない」彼は言った。「重要なのは、ジェームズという男が馬を連れてくる事だ」そして彼が出発の準備を急かす為に、その場を離れて歩き出そうとした時、彼女の声が呼び止めた。

「置いて行かないで!私だけ独りにしないで!」彼女は恐怖で叫んだ。

 彼は立ち止まった。彼はゆっくりと振り返り、そして戻ってきた。彼女を見下ろすと、彼は微笑みかけた。

「大丈夫、ここにいなさい!怖がらなくていい。もう終わったんだよ。君は間もなく、ここを離れる――スペーツタウンに行けば安全だ」

 ようやく馬が連れてこられた――ビショップ嬢は案内役のジェームズだけでなく、メイド達も全員連れて行く事に決めた為、その馬のうち四頭は彼女等に使わせるものだった。

 ブラッドはメアリー・トレイルを軽々と持ち上げて彼女の馬に乗せると、既に騎乗しているビショップ嬢に別れを告げる為に振り返った。別離の言葉を告げたものの、彼には尚も付け加えるべき何かがあるような気がした。しかしその言葉が何であれ、それは声に出される事はなかった。ビショップ邸の扉の前に立つ彼を残して馬達は走り出し、サファイア色の星月夜に紛れていった。彼の耳に届いた最後のものは、震える声で何度も叫ぶメアリー・トレイルの子供っぽい言葉であった――

「貴方のしてくださった事、絶対忘れないわ、ブラッドさん。絶対よ、忘れないわ……!」

 しかしそれは、彼が本当に聞きたいと願っていた声ではなく、その約束の言葉がもたらした充足感はわずかなものであった。彼は石楠花ロードデンドロンの中を飛ぶ蛍を見つめ、蹄の音が消えてゆくまで暗闇の中に立ち尽くしていた。それから彼は溜息をつき、己を叱咤した。やるべき事は山ほどある。彼が町中に赴いたのは、勝ち誇るスペイン人達の様子を眺めて無意味な好奇心を満たす為ではなかった。それには全く別の目的があり、彼は一連の行動の間にも、既に求める情報を全て得ていた。彼の前にはおそろしく多忙な夜が待ち受けている。行かねばならない。

 彼は砦柵に向かって歩調を速めた。そこには彼の仲間の奴隷達が、深い不安とわずかな希望と共に彼を待っているのである。


  1. privateer 国家から戦時に敵国船の拿捕・略奪を許可されている民有の武装船。 

  2. Brethren of the Coast 17世紀から18世紀の大西洋、カリブ海、メキシコ湾で活動していた海賊達の緩い連合。慣習法に基づいて、獲得した財物の分配や個々の海賊の権利保護、揉め事の仲裁等が行われていた。但し、後世のフィクション内でしばしば描かれているような常任制の組織が存在した訳ではない。 

  3. ヘンリー・モーガン(1635年 1688年)
    ウェールズ出身の海賊。艦隊を率いて大規模な遠征を何度も敢行し、カリブ海で悪名と勇名を轟かせた。後にイングランド政府に懐柔されて海賊を引退し、英国領ジャマイカ島植民地代理総督の地位を与えられて海賊を取り締まる側にまわった。 

  4. フランソワ・ロロネー(1635年 1667年)
    フランス出身の海賊。捕虜や略奪地の住民に対する残虐行為で有名。パナマ沿岸で船が座礁し、上陸した処で原住民に捕らえられ、惨殺された。 

  5. メキシコで鋳造されていたスペイン銀貨。スペイン・レアル硬貨の8倍の価値があった為にpieces of eightと呼ばれた。16世紀後半から19世紀までは、事実上の世界通貨として流通していた。 

九 叛逆流刑囚

 熱帯地方の紫色をした宵闇がカリブ海を包んだ刻、シンコ・ラガス号の守備をする為に残された者は十人以下であり、スペイン人達は島の完全制圧を――相応の根拠あっての事だが――露ほども疑っていなかった。筆者は先に、守備する為の十人と記したが、これは彼等の任務というよりも、彼等が船に残った名目と言う方が的確であろう。実の処、スペイン人の大半が陸上で飲み食いし蛮行に興じる間、スペイン船の砲手ガンナー砲側員ガンクルー達――彼等は見事に役目を果たし、その日の大勝利は既に決まったも同然であった――は砲塔甲板ガンデッキ上で、岸から運び込んだワインと新鮮な肉を楽しんでいた。上方には、船首ステム船尾スターンに見張りが二名いるだけだった。彼等もまた同様に終始目を光らせていた訳ではなく、さもなければ、大型船の船尾に静かに接近する為にオール受けにしっかりと油を塗り、暗闇に紛れて埠頭から滑り出てきた二艘のウェリー(平底船)に気づいていた事だろう。

 ドン・ディエゴが陸に向かう際に使用した梯子ラダーは未だ船尾展望台に掛かっていた。この展望台付近にやってきた船尾担当の水夫は、突如この梯子上に現れた黒い人影と対峙した。

「そこに誰がいるのか?」そう尋ねたが、同僚の誰かと思い込んでいた彼は警戒してはいなかった。

「俺だよ」静かに答えた流暢なカスティリャ語の主は、ピーター・ブラッドであった。

「ペドロ、お前か?」スペイン人は更に一歩近づいた。

「私の名も聖ペトロからとられているが、生憎あいにく、お前の知っているペドロとは別人だ」

「何っ?」見張り番は聞きとがめた。

「こういう事だ」それがブラッドの返答だった。

 木製の船尾手摺タフレールは低く、スペイン人は完全に不意を打たれた。船尾突出部カウンターの下で待機している満員のボートの一艘をかすめるようにして彼が水面に叩きつけられた際に発した水飛沫の音を除けば、そのスペイン人が遭遇した災難を周囲に告げる物音は一切なかった胴鎧コルセレット腿鎧キュイッサルツヘッドピースで武装していた男は装備もろとも沈んでゆき、二度と浮かんではこなかった。

「静かに!」ブラッドは待機中の囚人仲間を制止した。「さあ、今だ、音を立てるな」

 彼等が進入を開始してから五分も経たぬうちに、狭い船尾展望台からあふれ出た総勢二十名は船尾甲板クォーターデッキ上に身を伏せていた。前方に灯りが見えた。大きな角灯ランタンの下、彼等は船首にいるもう一人の見張りが船首楼フォアキャッスルをゆっくりと歩く黒いシルエットを見た。下からは砲塔甲板ガンデッキの馬鹿騒ぎが聞こえた。朗々とした男声は、品のないバラッドを合唱していた。

「イ・エストス・ソン・ロス・ウソス・デ・カスティリャ・イ・デ・レオン!(そしてこいつがカスティリャ・レオンの流儀さ!)」

「今日、目にしたものからすれば、その流儀は確かに事実なのだろうな」ブラッドはそう言い、次いでささやいた。「行くぞ――私に続け」

 低く屈んで滑るように動き、影のように音もなく船尾甲板クォーターデッキの手摺に至ると、そこから忍び降りて中部甲板ウエストに潜入した。彼等の三分の二がマスケット銃で武装していたが、それらの銃は奴隷監督の家で発見したものか、逃亡計画に備えてブラッドが苦心の末にかき集め、秘匿していたものである。残りの者達はナイフや舶刀カットラスを装備していた。

 彼等はしばし中部甲板で待機し、その間にブラッド自ら、上の甲板には船首の厄介者以外に見張りはいないと確認した。彼等がまず注意すべきは、その見張りであった。ブラッドは二名の仲間と共に自ら忍び足で前進し、残りの者達は英国海軍での経験を考慮してナザニエル・ハグソープに指揮権をゆだねた。

 ブラッドの不在は短かった。彼が僚友の許に戻った時、スペイン人の見張りの姿は甲板上になかった。

 一方、下で飲み騒ぐ者達は、己の安全を疑う事なく油断し切って陽気に笑いさざめいていた。バルバドスの駐屯部隊は敗北し武装解除されており、そして彼等の仲間達は陸に上がって町を完全に掌握し、勝者の報酬としてたらふく飲み食いしていた。恐れるべきものなど一体どこにある?彼等の持ち場に乗り込まれ、そして自分達が二十人の荒々しく危険な、半裸の――彼等が白人であろうとは推察できはしたものの――野蛮人の大群としか見えない男達に囲まれているのに気づいた時でさえ、スペイン人達は自分の目を信じる事ができなかった。

 ひと握りの忘れられたプランテーション奴隷達が、あえて自らこのような大それた行動に出るなど、誰が想像できただろうか?

 半ば酔っていたスペイン人達は、突然笑いをやめ、歌を唇で凍りつかせて、自分達に照準が定められたマスケット銃を困惑しつつ呆然と見つめた。

 そして次に、彼等を取り囲んだ武骨な野蛮人の群れの中から、背が高く痩身、黄褐色の顔にライトブルーの目をした男が、その瞳に意地の悪いユーモアをきらめかせて進み出てきた。その男は訛りのない完璧なカスティリャ語で演説した。

「貴君等が率先して我々の囚人となり、率先して安全な場所に収まり大人しくしているならば、率先して苦痛と厄介に我が身をさらす事にはならないだろう」

「なんてこった!」砲手は毒づいたが、それは言葉にしようもないほどの驚きを表すには全く足りなかった。

「では、よろしいかな」とブラッドは尋ね、スペインの紳士達は一、二度マスケット銃で小突かれただけで、それ以上の抵抗もなく、直ちに昇降口から下の甲板へと降りる気になった。

 その後に、叛逆流刑囚はスペイン人達が食べていた佳肴を飲み食いした。何ヶ月もの間、塩漬けの魚とトウモロコシ団子だけしか口にしていなかった不幸な囚人達にとっては、キリスト教徒らしい食物を味わえるというだけで豪華な饗宴に等しかった。しかしそこに放縦はなかった。その為には断固とした態度が必要であったが、ブラッドは行き過ぎぬように気を配った。

 勝利の喜びに浮かれる前に、作戦は遅滞なく遂行されねばならない。この局面を突破する鍵の一つを手にしたとはいえ、所詮これは前哨戦に過ぎないのである。その鍵を使って最大の利を得るという仕事は、未だ片付いてはいなかった。その作戦計画にはこの重要な夜の大部分が費やされた。だが少なくとも、いささか驚くべき一日を照らす太陽がヒルベイ山の肩に顔をのぞかせる前には、彼等の準備はぬかりなく整っていた。

 肩にスペインのマスケット銃を担ぎ、スペインの胴鎧と兜を身に着けて船尾甲板クォーターデッキを往復していた叛逆流刑囚がボートの接近を報せてきたのは、日の出が間近い時刻だった。そのボートにはドン・ディエゴ・デ・エスピノーサ・イ・バルデスが、夜明けにスティード総督から届けられた身代金、計二万五千枚の銀貨を納めた四つの大きな宝箱と共に搭乗していた。彼は息子のドン・エステバンと六人の漕ぎ手を伴っていた。

 フリゲート艦上は、全て平常通りに静かで整然としていた。錨を下ろし、左舷を岸に向け、そして舷梯メインラダーは右舷側に。ドン・ディエゴと宝物箱を載せたボートは舷梯を目指して旋回した。ブラッドは作戦上の有効性を意図して配置を行っていた。彼がデ・ロイテル提督の下で学んだのは伊達ではなかった。回り込んでくるボートを待ち構えて、巻き上げ機ウインドラスには要員が配置されていた。下では――先に記したように――政治活動に熱中してモンマス公爵に従う前は英国海軍ロイヤル・ネイビー砲手ガンナーであったオーグルの指揮下で、一名の砲側員ガンクルーが待機していた。オーグルは頑丈で信頼に値する決然とした男であり、任された事は必ずやり遂げる能力があった。

 ドン・ディエゴは梯子を登り、そして単身、何の疑念も抱かず甲板に足を踏み入れた。この哀れな男に、一体何を疑う事があっただろう?

 周囲を見渡して、彼を迎えに出てきた護衛を観察するより前に、ハグソープが手にした車地棒キャプスタン・バーで手際良く加えた頭上からの軽打によって、余計な騒ぎを起こす間もなく彼は意識を失った。

 ドン・ディエゴは自分の船室キャビンに運び入れられ、その間に、ボートに残された男達の手によって宝箱が甲板に上げられていった。その作業が完了し、順々に梯子を上ってきたドン・エステバンとボートの残る乗員達は、同様に手際よく処理された。ピーター・ブラッドはこの手の策に関して天与の才があり、それは劇的な演出力を身に着けていると表現してもよいのではなかろうか。劇的ドラマティック、というより他にない光景が、この時、襲撃の生存者達の眼前で繰り広げられたものであった。

 ビショップ大佐と、その横で壁の残骸に座っている痛風のスティード総督を筆頭にした町の生存者達は、略奪、殺人、口にするもおぞましい暴虐の限りを尽くしていったスペインのごろつきどもを乗せた八艘のボートの出発を、陰鬱な面持ちで見送った。

 彼等は無慈悲な敵達が去って行く安堵と、この小さな植民地の繁栄と幸福を、一時的にであれ完膚なきまで破壊した猛威により陥った絶望との相半ばする思いで、それを傍観していた。

 笑い嘲るスペイン人達を載せたボートは岸を離れ、水面を走る間も、彼等は自らの蛮行から生き延びた者達に嘲弄を浴びせ続けた。ボートは埠頭と船の中間に至ったが、その時突然、空気が大砲の轟きによって震えた。

 鉄塊弾ラウンドショットが先頭のボートから一尋(183cm)の海面に着弾し、乗員達の頭上には、にわか雨が降り注いだ。彼等はオールを漕ぐ手を止めて、一瞬の間、驚きに静まり返った。それから彼等は爆発したように、口々に話し始めた。怒りのあまりの雄弁さで、彼等は母船の砲手ガンナーに向かってこの危険な不注意を罵った。お前は実弾を装填したまま礼砲を撃つほど愚かなのかと。一発目よりも正確に照準を定められ、ボートの一艘を木っ端微塵にして乗員を生死問わず水中に叩き込んだ二発目が発射された瞬間も、彼等は未だ砲手を呪っていた。

 だが、この一艘を沈黙させた代わりに、残る七艘の乗員達は一層怒り、激し、当惑して饒舌になった。彼等が興奮のあまり立ち上がり、金切り声で悪態を吐き、大砲を撃ち込んだ狂人を告発しようと天国と地獄に請い願う間、オールを漕ぐ手は止まり、ボートは水上でただ浮かんでいるだけだった。

 彼等の中央に三発目があやまたず撃ち込まれ、凄まじい威力で二艘目を破壊した。再び訪れた恐ろしい沈黙の一瞬の直後、スペイン人は皆が早口で話し始め、てんでんばらばらに慌てて漕ぎ始めたオールが水飛沫を上げた。何人かは、他の者達が真っ直ぐに母船に向かったのは誤りかもしれないと考えて、陸に上がる選択をした。船内で何か非常に重大な悶着が起っているのは疑いの余地がなく、彼等が論じ合い、腹を立て、呪いの言葉を吐く間にも、更に二発の弾が三艘目のボートを仕留める為に水上を飛来した。

 決然たるオーグルは卓越した実践によって砲術への精通を十全に証明して見せた。仰天したスペイン人達がボートを密集させてくれていたお陰で、彼の受け持つ作業は手間が省けた。

 第四打の後には、もはやスペイン人の間に意見の相違はなかった。それは全員一致で協定を結んだか、あるいは結ぼうとしたかのようであった。何故なら彼等が真に一丸となる前に、スペイン船のボートのうち更に二艘が沈められてしまったからである。

 水中でもがき苦しむ不運な仲間を捨て置いて、残る三艘のボートは全速力で埠頭を目指して引き返した。

 スペイン人達も事態を全く理解していなかったが、シンコ・ラガス号の大檣メインマストからスペイン旗が降ろされて、その代わりに英国旗がはためくのを目にするまでは、陸上の哀れな島民達の理解はスペイン人に輪を掛けておぼつかぬものだった。尚も若干の混乱は続き、この異常事態のはけ口として島民に残虐性を向けられはしまいかと、彼等はスペイン人の帰還を恐れを込めて凝視していた。

 しかしオーグルは、己の砲術知識が昨日今日身に着けたものではない証拠を示し続けた。逃げるスペイン人達の背後から砲撃が浴びせられた。最後のボートは埠頭にたどり着いたのとほぼ同時に木っ端微塵にされ、その残骸は崩れた石材の下に埋もれていった。

 これが、ほんの十分じっぷん前には、悪事の分け前として手に入れた銀貨を笑いながら数えていた海賊パイレーツ一味の最期だった。六十名近い生存者が懸命に上陸を試みた。そのスペイン人達が如何なる歓迎を受けたかについては、彼等の辿った運命を記した資料が残されていない為、ここで語る事はできない。記録の欠如は、それ自体が雄弁である。上陸した生存者が即座に縛り上げられた事は判っており、そして彼等の仕出かした蛮行を考慮すれば、彼等には命永らえたのを後悔する理由が山程あった事に疑いの余地はない。

 スペイン人に対する報復を行う為、そして島を守る代償に要求された銀貨十万枚という法外な身代金が奪い去られるのを防ぐ為に土壇場になって現れた救い手の正体は、依然として謎のままだった。今やシンコ・ラガス号がこちらの味方であるのは疑いの余地なく証明済みであった。しかしブリッジタウンの人々は互いに尋ね合った。あの船は何者の支配下にあるのだろう?一体、いつの間に制圧されたのだろう?唯一の現実的な仮定はかなり事実に近いものだった。勇敢な島民の一団が夜の間に忍び込み、船を奪ったに違いない。ならば、この謎の救済者達の正確な身元を確認して、大いに誉めてやらねばなるまい。

 この使いの為に、総督代理として――スティード総督の容態では自ら足を運ぶ事はできなかった――二人の士官を伴ったビショップ大佐が赴く事となった。

 梯子から帆船の中部甲板ウエストに踏み入った時、大佐は昇降口メインハッチの横に置かれた四つの宝箱に気づいた。そのうち一つの中身は、ほぼ全てを彼自身が単独で提供していた。それは実に喜ばしい光景であり、それを眺める彼の目は輝いていた。

 彼が横断する甲板デッキの両側には、胴には鎧、頭上には輝くスペインの軍用兜モリオンが顔に影を落とし、脇にはきちんとマスケット銃を携えた二十人の男達が、整然と二列に並んでいた。

 この背筋をぴしりと伸ばして輝く鎧を身に着けた、如何にも凛々しい立ち姿の正体が、つい昨日には彼のプランテーションで酷使されていた野晒しの案山子のような連中であるのを一目で見破れというのは、ビショップ大佐には無理な相談というものであった。そして彼を歓迎する為に進み出た礼儀正しい紳士――痩身の優雅な紳士であり、黒づくめに銀のレースをあしらったスペイン風の衣装のをまとい、金糸で刺繍をほどこされた幅広の剣帯バルドリックから金柄の剣を下げ、綺麗に櫛を入れ入念にカールされた漆黒の巻き毛の上に羽飾り付きのつば広帽をかぶっていた――が誰であるかを見分けろというのは、輪をかけて無理な相談であった。

「シンコ・ラガス号へようこそ、親愛なる大佐殿」どことなく聞き覚えのある声が大佐に呼びかけた。「御使者をお迎えする栄に預かり、我々はスペイン人達の衣装部屋で体裁を整えました。よもや閣下が直々にお越しくださるとまでは期待しておりませんでしたが。閣下の周りにいるのは、貴方の友人達――なつかしき旧友達ですよ、全員」大佐は麻痺したように凝視した。この、全身を華麗に――本来の嗜好を加味して――飾り立て、入念に髭を剃り、同じく入念に髪を整えたブラッドは、はるかに若返って見えた。実際は彼の実年齢である三十三歳相応に見えたというだけなのだが。

「ピーター・ブラッド!」大佐は驚きのあまり思わず叫んだ。そしてすぐに合点がいった。「では、これはお前の仕業だったのか……?」

「私ですよ――私と、ここにいる我が良き友、そして貴方の友でもある者達です」ブラッドは手首から精巧なレースをひるがえし、直立姿勢で待機している男達の列に向け片手を振って示した。

 大佐は更に目を凝らした。「なんてこった!」彼は間の抜けた歓喜の叫びを上げた。「スペイン人に一泡吹かせて、あの犬どもの勝ち目をひっくり返したのは、お前達か!一発逆転じゃないか!英雄的ヒロイックな活躍だ!」

英雄詩ヒロイック、ですか?おお、主よビダッド1、これは叙事詩エピックですよ!どうやら貴方も、我が非凡なる才の雄大と深遠なるを悟り始めたようですね」

 ビショップ大佐は倉口縁材ハッチコーミングの上に座り、つば広帽を脱ぐと、額の汚れを拭った。

「まったく驚いたぞ!」彼はあえぐように言った。「まったく、たまげたものだ!宝箱を取り戻した上に、この素晴らしい船を積荷ごと拿捕するとはな!これで我々が被った損失の帳尻合わせができるかもしれん。なんてこった、貴様、大手柄だぞ」

「お説、まったくごもっとも」

「くそっ!お前達みんな大手柄だ。なんて奴等だ、わかるか、この私が恩に着てるんだぞ」

「それはそうでしょうね」ブラッドは言った。「問題は、我々がどれほどの報酬に値するのか、そして我々はどこまで貴方に期待できるのかという事です」

 ビショップ大佐は彼を見つめた。彼の顔には驚きの影が差していた。

「よかろう――総督閣下はお前の功績について、陛下に宛てて書状を送るだろう、そうすれば、恐らくお前に下された判決のいくらかは赦免されるはずだ」

「ジェームズ陛下の御寛容は有名だからな」側に控えていたナザニエル・ハグソープが冷笑し、そして整列していた叛逆流刑囚の中にも笑いだす者がいた。

 ビショップ大佐はぎくりとした。軽い胸騒ぎが、今や全身に広がる不安となっていた。この場にいる者達は皆、見せかけほどには友好的ではないのでは、という認識が彼の心に浮かんだ。

「そして、もう一つ問題がある」ブラッドは再び口を開いた。「私に予定されている鞭打ちの件が。このような事柄について、閣下は有言実行を旨としておられるはずだ。そして確か、このようにおっしゃっていたはずだ、大佐が自ら――さもなくば、他の者の手を借りてでも――私の背中に一寸の皮膚も残らぬようにしてみせると」

 大佐はこの問題を切り捨てた。半ば腹を立てているようであった。

「ええい!この大手柄の後で私がそんな事をすると、お前は本気で思っているのか?」

「そのように感じていただけるとは望外の喜び。しかしながら、私にとってスペイン人の襲来が今日ではなく昨日であったのは並みならぬ幸運であり、それが今日の出来事であったなら、私はジェレミー・ピットと同じ窮状に陥っていたに違いないと考えている。そしてその場合、あの見下げ果てたスペイン人どもに目に物見せてやった天才は、さて、何処いずこに在り也?」

「何故、今、そんな話をする?」

 ブラッドは話を再開した。「御理解いただきたい、親愛なる大佐殿。長の年月、邪悪で無慈悲な行いに専念してきた貴方にとって、これが教訓に、二度と忘れられぬ教訓になればいいのだが。――我々の後に続くかもしれない人々の為にね。ジェレミーは随分と派手な色の背中になって、今は後部船室ラウンドハウスに運び込まれている。あの気の毒な若者は、一ヶ月は回復しないだろう。そしてスペイン人の来襲がなければ、恐らく今頃、彼は死んでいただろうし、私自身も彼と運命を共にしていたはずだ」

 ハグソープはゆっくりと前に進み出た。彼はかなり背が高く壮健な男であり、それだけで出自の良さがわかるような端正で魅力的な顔立ちをしていた。

「こんなハム用の去勢豚を相手に、何を言っても無駄なんじゃありませんか?」と、この元英国海軍ロイヤル・ネイビー士官は疑問を呈した。「船外に放り捨てて、終りにしてはどうです」

 大佐の目玉は飛び出しそうになった。「何を言っとるんだ?」彼は怒鳴った。

「貴方は実に幸運な人ですよ、大佐、貴方が御自分の幸運の理由を知る事はないでしょうが」

 そして更に、もう一人が口を挟んだ――屈強な隻眼のウォルヴァーストンは、もう一方の紳士的な囚人仲間ほどには慈悲深い性分ではなかった。

桁端ヤードアームから吊るしちまえ」そう叫んだ低い声は険悪で怒りを含んでおり、そして武器を構えて待機していた奴隷達のうち数名がその声に唱和した。

 ビショップ大佐は震え上がった。ブラッドは振り返った。彼は落ち着き払っていた。

「いいか、ウォルヴァーストン」彼は言った。「私は自分の流儀を通す。そういう約束だ。覚えておきたまえ」彼の視線は隊列の端から端へと動き、それがこの場にいる全員に向けた宣言である事を明確にした。「私はビショップ大佐を生かしたままでおく事を望む。理由の一つは人質として彼が必要であるからだ。もし諸君等が彼の首を吊る事をあくまでも要求するなら、諸君等は彼と一緒に私の首を吊るか、あるいは私が船から降りるかだ」

 彼はひと呼吸おいた。答えはなかった。しかし彼等はブラッドの前で、ばつの悪そうな、半ば反抗的な状態にあり、ハグソープのみが肩をすくめ、やれやれという調子で笑っていた。

 ブラッドは再び語りだした。「一隻の船に、一人の船長キャプテン。これを理解したまえ。そして」彼は驚愕している大佐に再び向き直った。「さて、私は貴方に生命の保障をするが、貴方には――お聞きの通り――この船に留まってもらう必要がある。我々が外海に出てしまうまでの間、スティード総督に、そして砦に未だ残っている兵達に、お行儀良くしていてもらう為の人質として」

「外海に……」戦慄のあまり、ビショップ大佐はその信じ難い宣告を最後まで繰り返す事はできなかった。

「如何にも左様」そう言うとピーター・ブラッドは、大佐に同伴していた士官達の方を向いた。「紳士諸君、君達をボートが待っている。私の話は聞いていたね。謹んで総督閣下にお伝えしてくれたまえ」

「しかし……」彼等の一人が反駁しようとした。

「紳士諸君、これ以上言うべき事はない。我が名はブラッド――キャプテン・ブラッド、船内に拘束中の我が捕虜、ドン・ディエゴ・デ・エスピノーサ・イ・バルデスより戦利品として接収した、このシンコ・ラガス号の船長キャプテンだ。私があのスペイン人達の更に上を行く逆転劇を演じたのは御理解いただけたと思う。梯子ラダーはあちらだ。舷側げんそくから落ちるよりも梯子を使った方が便利なのは一目瞭然だろう。ぐずぐずしていると、遠慮なく海に放り込むぞ」

 多少の押し合いはあったが、ビショップ大佐の怒声にもかかわらず、彼等は去っていった。大佐の激しい怒りは、このような連中、つまり彼等からは憎悪されてしかるべき理由があると自分でも承知している男達に、生殺与奪の権を握られてしまった恐怖に煽られたものであった。

 当面は身動きのとれないジェレミー・ピットとは別に、半ダースほどの乗組員が操船術に関する浅い知識を持っていた。ハグソープは元海軍士官であり、航法の訓練は受けていないものの操船に関する知識はあり、彼の指導の下で乗組員達は船を動かし始めた。

 要塞から干渉される事なく、彼等は錨を引き上げて、大檣帆メインスルを広げ、穏やかな微風をはらませた。

 彼等が湾の東にある岬の近くを航行し始めると、ピーター・ブラッドは監視下に置かれている大佐の許に戻った。狼狽した様子の彼は、再び昇降口メインハッチの縁に力なく座り込んでいた。

「貴方は泳げますか、大佐?」

 ビショップ大佐は顔を上げた。彼の大きな顔は血色が悪く、その瞬間はひどく弛緩しているようであり、小さく丸い目は一層ビーズのように見えた。

「貴方の主治医として、私は貴方の気質に起因する過度の発熱を冷ます為に、水泳をお勧めする」ブラッドは愛想良く説明を始め、大佐の返答を待たずに話し続けた。「私が仲間達の一部と同じように血を欲する本能に動かされてはいないのは、貴方にとって不幸中の幸いだ。彼等には復讐を思いとどまるよう説得しなければならなかったが、それはこの上ない難事業だった。貴方にその骨折りに値するだけの価値があるかどうかは、甚だ疑問だが」

 彼は嘘をついていた。彼は疑問など微塵も抱いていなかった。もしもブラッドが己の願望と欲動に従っていたならば、彼は確実に大佐をロープで吊るし、そしてそれを称賛に値する行為と思ったであろう。アラベラ・ビショップの考え、それが彼に慈悲の実践をうながし、彼に対して反乱を起こされる危機に直面しながらも、他の奴隷達の至極当然な復讐心に抗うように導いたのであった。大佐がアラベラの叔父であるという事実は、当人にしてみれば想像だにしないであろうが、彼がブラッドに情けをかけられた理由の全てなのであった。

「貴方に水泳の機会をさしあげよう」ピーター・ブラッドは続けた。「向こうの岬まで4分の1マイルもない。格別の幸運に恵まれずとも、たどり着けるだろう。大丈夫、それだけ脂肪がついていればよく浮くはずだ。さあ!ぐずぐずするな。それとも我々と長い航海を共にするつもりか。このままでいれば、貴方の身に何が起るかは明白だ。貴方は一片の情けもかけるに値しない存在なのだから」

 ビショップ大佐は我を抑えて立ち上がった。これまでの人生を自制とは無縁に過ごしてきた無慈悲な暴君は、皮肉な運命によって、彼の感情が最も暴力的に激していた、まさにその瞬間に自制を強いられていた。

 ピーター・ブラッドは指示を出した。板が舷縁ガンネルの上に渡され、固定された。

「では、大佐」そう言うと、彼は優雅な仰々しい身振りと共にうながした。

 大佐は彼を見たが、その視線には憎悪が込められていた。それから心を決めると表情を取り繕い、着替えを手伝う者が誰もいない為に、自分で靴とビスケット色のタフタ製の上等なコートを脱いで、板の上に登った。

 彼は一旦立ち止まり、段索ラットラインをきつく握って体を安定させると、約25フィートは下にある逆巻く緑の水を恐怖しつつ見下ろした。

「ちょいとした散歩ですよ、大佐ちゃん」背後から調子良く嘲るような声が聞こえた。

 板上で段索にすがったまま、ビショップ大佐はためらいつつ視線をめぐらせて、舷牆ブルワークにずらりと並んだ浅黒い顔を見た。――昨日ならば、彼の不機嫌に反応して蒼白になっていたであろうその顔が、今は皆が皆、底意地の悪いにやにや笑いを浮かべていた。

 一瞬、激怒が恐怖を凌駕した。彼は毒々しく支離滅裂な呪いの言葉を吐き散らすと、段索を掴んだ手を放して板の上に歩み出た。彼がバランスを失って緑色の深い淵に落ちるまで、三歩だった。

 ビショップ大佐が空気を求めてあえぎながら再び水面に浮上した時、シンコ・ラガス号は既に数ファーロング(1ファーロング=201.168m)風下に移動していた。しかし叛逆流刑囚達が別れを告げる嘲り声の響きは水面を渡って彼まで届き、成す術もない怒りの銛を更に心深くまで打ち込んだ。


  1. bedadはby Godに同じ。アイルランドで使われる言い回し。 

イソノ武威
作家:ラファエル・サバチニ
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