海賊ブラッド

三 裁判長閣下

 それからピーター・ブラッドが大逆罪の罪状で裁判にかけられるまで二ヶ月足らず――正確な日付を記せば、それは9月19日の事であった。この罪状について彼が無実であったのは今まで記してきた通りだが、しかし起訴された時点での彼が謀反を働きかねない状態であった事に疑いの余地はない。この二ヶ月間の非人間的で言語に絶する投獄生活は、既に彼の心をジェームズ王とその臣下達に対する冷たく激しい憎悪に変えていた。このような状況にあっても尚、彼が未だ完全に意志を保っていたという事実は、彼の持つ不屈の精神を示すものと言えるかもしれない。この完全に潔白な男にとっては悲惨以外の何ものでもない境遇ではあるのだが、彼には幸いとして勘定に入れるべき事が二つあった。一つ目は、彼が裁判にかけられたという事自体。二つ目は、彼の裁判がその前日ではなく、その日に行なわれた事である。彼を憤激させた、その一日の遅れの中にこそ――彼には知る由もないのだが――彼にとって絞首台をまぬがれる唯一のチャンスが存在していたのであった。

 運命の女神の好意がなければ、戦いの翌日に、満員になったブリッジウォーターの拘置所から囚人を半数に減らそうという意図により無作為に選び出され、血に飢えたカーク大佐によって市場で即座に首を吊られた者達の中に彼が加わっていた可能性は大であった。このタンジール連隊の大佐は同様のやり口で全ての囚人を処分しようとしており、そのような戦地臨時軍法会議に対してミューズ司教1が強硬な介入によって歯止めをかけていなければ、捕虜の大部分が虐殺されていたかもしれない。

 それでも尚、セッジムーアの戦いの一週後には、カークとフェバーシャムは全く裁判の体をなさない略式裁判の後に百人を超える捕虜を処刑しようと企んでいた。街道に設置された絞首台に囚人達を運ぶ為には、何台もの護送車が必要とされた。彼等は自分達が如何なるやり口でその囚人達を捕縛したのかも、自分達が如何に多くの罪なき生命を奪ったかも意に介してはいなかった。とどのつまり、うすのろどもの命なぞに何の意味があるというのか?死刑執行人はロープと斧と、死体に塗るタール2を煮る大鍋の扱いで大わらわだった。その吐気を催すような細部の描写は割愛しよう。我々の関心は結局の処、モンマスの叛徒達よりもピーター・ブラッドの運命にあるのだから。

 処刑をまぬがれた彼は囚人の陰鬱な集団に加えられ、二人一組で鎖につながれて、ブリッジウォーターからトーントンまでを行進させられた。歩いて進むにはあまりにも酷い傷を負った者達は、おそろしく混み合った荷車で運ばれたものの、彼等は包帯もされずに怪我が化膿するに任せられていた。多くの者は幸運にも途上で死亡した。この苦しみをいくらか和らげる為に医術を用いる権利をブラッドが迫った際、彼は煩いという理由により鞭で脅された。仮に今、彼に後悔する事があるとしたら、それは彼が実際にはモンマスに与していなかったという事であった。それは無論、非論理的であった。しかし彼のような境遇の男に論理性を期待するのは、無理な相談というものだ。

 その惨い行進におけるブラッドの鎖仲間は、現在彼が落とされている不幸の周旋人というべきジェレミー・ピットであった。この若い航海士は同時逮捕後に彼の囚人仲間となっていた。それ故に、偶然にも彼等はぎゅう詰めの刑務所内で鎖によってつながれ、暑さと悪臭で窒息しそうになりながら、七月、八月、九月と日々を共に過ごした。

 ニュースの断片は外界から拘置所の中にも漏れてきた。そのうちのいくつかは、慎重に真偽を検討しなければならぬ類のものであった。モンマス公の死に関する話がそれにあたる。それは公爵の為に、そして彼が支持者達に公言していた信仰上の主張の為に罰せられている人々の間に、最も甚だしい狼狽を引き起こした。多くの者が、そのニュースを信じる事を頭から拒絶した。モンマスに似た男が公爵の身代わりとなって自首をし、本物のモンマスはシオンの再興3をもたらさんとしてバビロンと戦う為に生き延びた、などという荒唐無稽な物語が既に広がり始めていた。

 ブラッドはモンマスの訃報を聞いた時と同様の無関心で、その物語を聞き流した。だが、これに関連して耳にした恥ずべき事柄については到底無関心ではおられず、その報は彼がジェームズ王に対して抱きつつあった軽蔑を助長するのに役立った。国王陛下はモンマスとの会見に同意していた。王にモンマスを許すつもりがなかったとすれば、これは思想信条に関わらず、実に酷い、そして忌まわしいものであった。何故ならその会見を行うについて他の目的があったとすれば、それは不運な甥が惨めに許しを請うのをはねつける事で得る、邪悪で狭量な満足より他にはないのだから。

 後日、彼等はモンマス公の後に――実際には、前に、であると思われるが――叛乱勢力のリーダーとなったグレイ男爵4の消息を聞いた。彼は既に四万ポンドで自身の恩赦を購っていた。ピーター・ブラッドにとって、これが最後の1ピースとなった。遂に彼はジェームズ国王に対する軽蔑をあらわにした。

「ほう、この国の王座に座っているのは随分と卑劣で汚い人物らしいな。もっと前から彼についてこれくらい詳しく知っていたら、私が今ここにいる理由も事実無根ではなかったかもしれないな」それから彼はふと思い出し「そう言えば、ギルドイ卿はどこにいると思う?」と尋ねた。

 話し掛けられたピット青年は、何ヶ月もの拘禁生活の間に船乗りらしい濃い日焼けがすっかり薄れた顔を彼に向けた。彼の灰色の目は丸くなり、もの問いたげであった。ブラッドは彼に答えた。

「無論、オグルソープの農場でのあの日から、一度も卿を見ていない。で、連行された他の貴人達はどこにいる?――この忌々しい叛乱の真の主導者達は。グレイの一件は彼等の不在の説明になる、私はそう思う。彼等は身代金を支払って己自身を釈放できるだけの富豪だ。ここで絞首刑を待っているのは、その貴人達に従った哀れな者達だけ、彼等を導いた功のある者達は自由放免だ。好奇心をそそられる上に、啓蒙的でもある常道の逆転だな。全くもって当てにならない世の中だ!」

 そう言って笑った後、彼は怒りを含んだ軽蔑という精神状態に落ち着き、そして裁判を受ける為にトーントン城の大広間に足を踏み入れた時、彼はその思いに浸り込んでいたのである。彼と共にピットと農場主ヨーマンのベインズが召喚された。彼等三人は一緒に裁かれる予定であり、そして彼等の事件は、その凄惨な日に行われる裁判の皮切りとなるはずであった。

 その広間では、傍聴席――その大部分が婦人で占められる野次馬により混雑していた――にまで緋色の布が掛けられていた。至極自然に、流血を求める自らの心を反映する色を選んだ首席判事の愉快な計らいの結果が、これであった。

 演壇の上端は、緋色のローブと分厚く黒いかつらを着けた、中央裁判所から派遣されてきた国王直属の裁判官5五名が占めており、その中央に座っているのが、ヴェム男爵ジェフリーズ6であった。

 囚人は監視の下で列をなして入ってきた。触れ役が、違反した者は投獄の罰に処すると言い渡した上で沈黙を要求し、そしてざわめきが次第に静まった時、ブラッドは興味をもって陪審を構成する十二人の善良なる男達を見つめた。彼等は善にも良にも見えなかった。彼等は怖れ、不安げであり、隣人のポケットに手を入れて捕えられた泥棒と変わらぬ惨めさであった。彼等は十二人の動揺した男であり、それぞれが皆、この処の首席判事が振るう血に飢えた裁きの剣と、己が良心の壁との間で板ばさみになっていた。

 ブラッドの落ち着いた慎重な視線は彼等の上を通り過ぎて裁判官達へと移り、別して裁判長を注視した。ジェフリーズ裁判長の悪名は、本人の到着に先んじてドーチェスターから届いていた。

 ブラッドは、繊細な美貌を備えた楕円形の顔をした、長身で痩せた四十手前の男を眺めた。眠たげな目の下には、その目の輝きと貴族的な物憂さを強調するような、病か不眠による黒いくまがあった。顔は非常に青白く、厚い唇と、やや高いが目立つほどではない頬骨上の紅潮がより色鮮やかに見えた。その顔の完璧さを幾分損なっていたのは、唇であった。その鼻孔の繊細さ、黒く涼やかな目の柔和さ、青白い額の気高い落ち着きと矛盾する、とらえ難いが否定し難い欠陥がそこに潜んでいた。

 医者としてのブラッドは裁判長閣下を格別の興味を持って考察し、彼が著しい苦しみの伴う病に蝕まれている事、にもかかわらず、驚くほどに乱れ、堕落した生活を送っている事――恐らくはそれが病の原因である事を洞察した。

「ピーター・ブラッド、挙手せよ!」

 出し抜けに、彼は罪状の認否を問う耳障りな声によって自分の立場に引き戻された。彼の服従は機械的なものであり、そして判事補佐はピーター・ブラッドを、最も輝かしく最も優れたる君主ジェームズ世、神の恩寵によりてイングランド、スコットランド、フランス及びアイルランドの王に定められた、最高位にして生まれながらの主君に対する不実なる叛逆者であると宣告する無闇に長い訴状を単調に読み上げ続けた。それによれば、彼の心には神に対する恐れはなく、代わりに悪魔の扇動に駆り立てられ誘惑され、愛と真実、そして主君たる国王に帰すべき当然至極の忠順を失い、王国の平和と平穏を乱して戦争を起こそうとし、主君たる国王をその地位、名誉、帝国の頂点たる称号から退ける為に謀反を起こしたのであり――そして同様の夥しい罪状が全て読み上げられると、その最後に彼は有罪ギルティ無罪ノットギルティかを申告するよう求められた。彼は尋ねられた以上の事を答えた。

「私は完全に潔白イノセントだ」

 彼の右手前でテーブルを前にしていた尖った顔の小男が跳び上がった。それは判事補佐のポレックスフェン氏7であった。

「被告人は有罪か無罪かギルティ・オア・ノットギルティ?」この短気な紳士は厳しい口調で問うた。「どちらかを言葉通りに答えよ」

「言葉通りに、ね?」ピーター・ブラッドは言った。「では――無罪ノットギルティ」次に彼は判事席に向かい、自ら演説した。「言葉通りであるかという問題について、畏れながら裁判長閣下に申し上げるが、先程読み上げられた私を評する言葉の中には私が犯したとして弁明せねばならぬようなギルティは一切ない。健康はおろか生命にすら甚大な危険を及ぼす悪臭を放つ拘置所に、二ヶ月以上の拘禁を強いられた程度の事を我慢できぬという忍耐の美徳を欠く罪を除けばの話だが」

 彼は更に論じようとしたが、しかしこの時点で裁判長閣下が穏やかに、幾分悲しげな声で異議を差し挟んだ。

「よいかな。我々は一般的かつ通常通りの裁判を執り行わねばならぬ故、被告人の言をさえぎらねばならぬ。恐らく被告人は裁判の形式について無知なのであろうな?」

「単に無知であるのみにとどまらず、閣下、これまで無知でいる事に大変満足していた。私は幸いにも、そのような知識とは無縁のままに過ごしてきたのだ」

 かすかな微笑が、ほんの一瞬、思いに沈んだ表情を照らした。

「信じよう。被告人答弁の段階で、被告人の主張は全て聞かれるであろう。しかし被告人の今の発言は形式に則っておらず、妥当ではない」

 その表面的な同情と思い遣りにうながされたブラッドは、それから後は要求された通りに、自分は神とその王国によって裁かれるであろうと答えた。判事補佐はそれに続けて、彼に良き救けをくださるようにと神に祈り、アンドリュー・ベインズに挙手して答弁を行うよう要求した。

 無罪を主張したベインズの次に、判事補佐はピットに確認を求めたが、大胆にもピットは己の有罪を認めた。裁判長はそれを受けて意気込んだ。

「うむ。よきかな」彼はそう言い、四人の緋色の同僚は頷いた。「もし皆がこの被告人の仲間である二名の謀反人と同様に頑固であったら、彼等の裁きはいつまでも終わらぬであろう」

 非人間的な冷たさで差し挾まれ、法廷中を震えあがらせたその不吉な言葉に続いて、ポレックスフェン氏は立ち上がった。おそろしく冗長に三人の男に共通の罪状を読み上げてから、彼は最初に起訴される予定となっているピーター・ブラッドのみに適用される罪状を述べた。

 国王側証人として召喚された唯一の目撃者は、ホバート大尉であった。彼は自分がギルドイ卿とこの三人の被告人を発見し捕縛した顛末をきびきびと証言した。連隊長の命令に従って即座にピットの首を吊るはずだったが、しかしピットが貴族階級であり配慮の必要な人物であると信じるように仕向けたブラッド被告の嘘により、抑止されたのだと。

 大尉が証言を終えた時、ジェフリーズ男爵は横目でピーター・ブラッドを見た。

「被告人ブラッドは、証人に質問があるか?」

「否、閣下。彼は何が起こったかを正確に話した」

「被告人のような輩の常である言い逃れをせず、自ら罪を認めるのは喜ばしい事だ。そして私は、かように告げよう。法廷において、言い逃れには何の益もない。何故ならば我々は常に、最終的には真実を手にするのであるから。必ずやだ」

 ベインズとピットが同じく大尉の証言の正確さを認めると、緋をまとった裁判長閣下は安堵の溜息を漏らした。

「これで我々は大いにはかどる。神の御名において、我々には成すべき事が数多くあるのだからな」彼の声音にはもはや、寛大さは跡形もなかった。情の感じられない、きしむような声であり、それを発する唇は蔑みに歪んでいた。「ミスター・ポレックスフェン、この三名の悪徒の邪なる叛逆の罪は――当人が公の場でその罪を認めた事により――立証され、これ以上の審議は不要である」

 ピーター・ブラッドの声は歯切れよく響きわたり、その声音には半ば笑いが含まれているように思われた。

「畏れながら裁判長閣下に申し上げる、しかしながら、審議するべき事は未だ残っている」

 彼に目を向けた裁判長閣下はその図太さにあっけにとられ、それから次第にうっすらと怒りの表情を浮かべた。緋色の唇が苦々しげになり、その無慈悲な線は表情全体を変貌させた。

「この期に及んで如何にするつもりだ、悪徒よ?無駄な言い逃れで我々の時間を浪費するつもりか?」

「私には閣下が先程お約束くださったように、陪審員諸君にお聞かせすべき被告人答弁における主張がある」

「ほう、では申すがよい、悪党め。申すがよい」裁判長閣下の声はやすりのようにざらついていた。話しながら彼は身をよじり、一瞬、その容貌が歪んだ。青い静脈が浮いた繊細な青白い手で、彼はハンカチーフを唇に、次に額に当てた。ピーター・ブラッドは医者の目で観察し、男爵を破壊しつつある病の痛みが彼を苛んでいると判断した。「では申すがよい。しかしあの自白の後に、一体何の被告人答弁が残されているというのだ?」

「御自身で審判なされよ、閣下」

「私がここに座っているのは、その為にだ」

「そして貴方達もそうするべきだ、紳士諸君」ブラッドは判事達から陪審員達へと視線をめぐらした。後者は彼の青い瞳の自信に満ちたひらめきを受けて落ち着かなげになった。ジェフリーズ男爵による嗜虐的な陪審員説示は、既に彼等の意気をくじいていた。彼等自身が叛逆罪で起訴された被告人だとすれば、男爵は既にこれ以上はないというほどの苛烈さで彼等を責め立てていたのである。

 ピーター・ブラッドは、不敵に、図太く、背筋を伸ばし、沈着に、そしてむっつりと立っていた。彼は綺麗に髭をそり、そしてカールは落ちていたものの慎重に梳いたかつらを着けていた。

「ホバート大尉は彼の知る処を――彼がウェストンでの戦闘後、月曜の朝にオグルソープの農場で私を発見した事を証言した。しかし彼は、私がそこで何をしていたかについては話さなかった」

 再び裁判長は口を挟んだ。「ほう、被告人は一体、謀反人一味と共に何をしていたというのだ、そのうちの二名――ギルドイ卿と、ここにいるもう一名――は既に自らの罪を認めているのだぞ?」

「それが、私が閣下に発言の許可を求めている事だ」

「何なりと申すがよかろう。そして主の御名において、願わくば手短に。やれやれ。被告人のような叛逆者の犬どもめの発言権の事で一々煩わされていたら、私は春期の巡回裁判までここに座り続けねばならぬだろうからな」

「裁判長閣下、私は私の職業である医者として、ギルドイ卿の傷を治療する為にそこにいたのだ」

「何だと?被告人は我々に、自分が医者であると主張しているのか?」

「ダブリンのトリニティー・カレッジの卒業生だ」

「これは驚いた!」ジェフリーズ男爵は突然声を高め、陪審席に視線を送りつつ叫んだ。「なんと厚かましい悪党もいたものだ!目撃者は数年前にタンジールで被告人を見知っており、被告人がフランス軍所属の士官であったと証言した。陪審員諸君は、この被告人が証人の発言は真実であると認めた言葉を既に聞いたであろう?」

「そう、彼はそう証言した。だがしかし、私が話しているのは同じく真実だ。それはこういう次第だ。数年の間、私は軍人であった。しかしそれ以前の私は医者であり、そして私は昨年の一月から再び医者に戻り、ブリッジウォーターで開業したのだ。それについては百人の目撃者を連れてきて証言させる事も可能だ」

「そのような事で我々の時間を浪費する必要はない。被告人は、その卑しい口によって自らに有罪を宜告した。私が被告人に尋ねるのは只一つ、ブリッジウォーターの町で平穏に医者として暮らしているはずの者が、一体どのような次第でモンマス公爵の軍と共にいたのだ?」

「私はモンマス軍とは無関係だったのだ。証人はその点を供述しなかったが、私は証人が言わぬであろう事をあえて宣誓証言する。私はあの謀反には一切与してはいない。私はあの暴挙を邪悪な狂気と見なしていた。私は閣下に尋ねたい」(彼のアイルランド訛りは一層強調された)「旧教徒パピストとして生まれ育った私が、新教徒プロテスタントの擁護者の軍で何をしていたというのか?」

「汝が旧教徒パピストであると?」裁判長は一瞬、表情を曇らせた。「むしろ女々しい長老教会派信徒ジャック・プレスビテル8のように見えるがな。よいか、私はな、長老教会派プレスビテリアンの臭いならば40マイル先からでもわかるのだ」

「では、閣下がその鋭い鼻をもってしても四歩先の旧教徒パピストの臭いを嗅ぎわけられぬとは、唯々驚愕するばかり」

 傍聴席に笑いのさざ波が起きたが、裁判長の凄まじいひとにらみと廷吏の声によって直ちに鎮められた。

 ジェフリーズ男爵は机上へ更に身を乗り出した。彼はハンカチーフをきつく握ったまま、レースの泡から生えたように繊細な白い手を上げた。

「差し当たり、汝の信仰については置くとしよう」彼は言った。「だが、心せよ」威嚇するような人差し指が彼の言葉の拍子をとった。「覚えておくがいい、偽りを述べる事が許されているなどと説く信仰はない。汝は貴重な不滅の魂を持ち、それと等しい価値を有するものはこの世の何処にもない。天地の主たる偉大なる神を思うのだ、汝と我々と全ての人々が最後の日にどなたに裁かれるのかを。汝は全ての偽りの報いを受けるであろう、そして永遠の炎の中で正義の一撃が汝を打ち、汝が全ての真実を包み隠さず話し、そして真実以外の何も話さぬと申し出ぬ限り、汝は地獄の業火の中に落とされるであろう。汝にその理由を告げよう、それは神は偽かれぬからだ9。その上で、私は被告人に正直に答えるように命じる。どのような次第で、この叛逆者達と行動を共にした?」

 ピーター・ブラッドは驚きのあまり、一瞬、呆然と彼を見つめた。この男は信じ難くも現実離れした、誇大妄想的な悪夢の裁判官だった。それから彼は返答の為に己を取り戻した。

「その朝、私はギルドイ卿を救護する目的で呼び出され、それに応じる事が己に課された職業上の義務であると考えた」

「それで、応じたと?」裁判長は、今や恐ろしい様相――その顔は白く、その歪んだ唇は彼が求めてやまぬ血のように赤かった――で、邪悪な嘲りを込めてブラッドをにらみつけた。それから自制をしたが、それにはいささかの努力を要した様子であった。彼は溜息をついた。裁判長は穏やかで物悲しい調子に立ち戻った。「主よ!何たる時間の浪費か。だが私は忍耐し、被告人に付き合おう。被告人を呼び出したのは何者か?」

「ピットだ、彼が証言するだろう」

「ほう!ピットが証言すると――自身が叛逆者であると自白したピットがな。その目撃者は?」

「同じく、ここにいるベインズが答えるだろう」

「善良なるベインズは、何よりもまず、自分自身の為に供述せねばならぬであろう。彼が己の首を絞首刑から救うのは大変な難事であろうが。いい加減にせよ。被告人の目撃者は彼等のみか?」

「あの朝、私がピットの馬の後ろに乗るのを見たブリッジウォーターの住民達を連れてくる事もできる」

 ジェフリーズ男爵は微笑した。「それは必要なかろう。よいか、私はこれ以上の時間を浪費するつもりはない。ただこの問いに答えよ。被告人があくまでも言い立てる通りにピットが被告人を呼ぶ為にやってきたとして、その時、ピットの自白によって確認されたように、彼がモンマスの支持者であった事を承知していたか?」

「私は承知していた」

「被告人は承知の上と!ほう!」ジェフリーズ男爵はすくみ上がっている陪審に目をやると、短い、突き刺すような笑いを発した。「それにもかかわらず、被告人は彼に同行したと?」

「負傷したひとりの人間を救護する為に、己の神聖なる義務としてだ」

「汝の神聖なる義務、そう申すか?」突如として再び彼の憤激が燃え上がった。「神よ!まむしすえ10のはびこる世である事よ!汝の神聖なる義務とはな、悪漢よ、それは汝の王と神に対するものだ。だがそれは置こう。被告人の救けを必要としている者が誰であるか、彼は明かしたか?」

「ギルドイ卿と――そう言った」

「そして被告人は、ギルドイ卿が負った傷は戦いによるものである事を、そして彼がどちらの側で戦ったかをも承知していたか?」

「知っていた」

「そして被告人は、自らが国王陛下の正真にして忠実なる臣民であるかのように主張するにもかかわらず、彼を救護する為に向かったのか?」

 ピーター・ブラッドは一瞬、自制を失った。「私の務めは、閣下、彼の政治信条に対してではなく、彼の傷に対するものだ」

 傍聴人席から、そして陪審席からも、彼に賛同するざわめきが起こった。それは恐ろしい裁判官を余計に激怒させたに過ぎなかった。

「イエスよ!この世に汝ほど恥を知らぬ悪党がいるであろうか?」彼は白い顔を勢いよくめぐらせて陪審席に向けた。「陪審の紳士諸君、願わくば、この叛逆者である悪徒の恐るべき態度を心に留め、そして同時に、この種の者達の精神が如何に邪悪にして非道なるものであるかを感得していただきたい。被告人は己の口から、十二回の絞首刑を宣告されるに値する証言を行った。その上に、尚も追求すべき事がある。答えよ。もう一人の叛逆者ピットの身分に関する嘘によってホバート大尉を欺いた時、被告人は一体、何の権利があって干渉したのか?」

「裁判なしで彼が首を吊られる恐れがあった為、それを防ごうとしたのだ」

「彼のような悪党が首を吊られたとて、被告人に何の関わりがあるというのだ?」

「正義は全ての忠実なる臣民の関心事だ。何故ならば、王の信任を受けた者によって犯された不正義は、王の威厳をいささかなりと汚すからだ」

 それは陪審に向けられた鋭く痛烈な一撃であり、そしてそれは、筆者が思うに、この男の知性の鋭敏さ、大いなる危険が迫り来る瞬間にあっても揺らぐ事なき冷静さを示すものであった。相手がどのような陪審であろうとも、全ての者が彼の意図した通りの印象を受けたはずだ。それは、この哀れで臆病な羊達に対してすら有効であったかもしれない。しかし恐怖の裁判官ドレッド・ジャッジの存在がそれを打ち消した。

 彼は大きくあえぎ、それから乱暴に身を乗り出した。

「天上の主よ!」彼は激発した。「これほどまでに偽善的で厚顔な悪党が未だかつて存在したであろうか?だが逃しはしない。私には見えるぞ、悪党め、私には汝の首に縄が巻かれた姿が見えるのだ」

 そう語ると邪悪にほくそ笑み、彼は再び椅子に背を預けて落ち着きを取り戻した。それはさながら幕が下りたかのようであった。全ての感情が彼の青白い顔から再び消え去った。穏やかな憂愁が再び彼を覆った。一瞬の間を置いて語りだした彼の声は柔らかく、穏やかとすら言えるものであったが、それでも彼の発する一言一句は静かな法廷に鋭く響いた。

「私個人の感情について言えば、そもそも私は人を苦しめる事を楽しんだり、ましてや、その者が地獄で永遠の罰を受けるのを歓喜するような性質ではない。私がこのように言葉を尽くしたのは、被告人に対する深い思い遣りが故だ――被告人が自らの不滅の魂について懸念するようにうながし、頑強にも偽りと言い逃れに固執する事によって天罰が下されるのを確かにしてはならぬと悟らせる為であった。しかし被告人に対するあらゆる骨折りは尽くされ、慈悲と慈愛は尽き果てた。それ故に、私にはもはや被告人にかける言葉はない」再び彼は物思わしげな美貌を陪審に向けた。「紳士諸君、私は法の名において、一個人としてではなく、陪審員としての諸君等に告げねばならない。もしある者が国王陛下に対する謀反に加わっているとすれば、もう一人の者――実際には謀反そのものに加わっていない者――がそれを承知の上で彼を受け入れ、匿い、慰め、あるいは援助を与えた場合、そのような者は実際に武器を携えた者と何ら変わりない叛逆者である。我々は、如何なる法が適用されるべきかを諸君等に示すにあたって、我々の宣誓と良心とに拘束されている。そして諸君等は、諸君等の評決を答申し、事実により証明された真実を述べるにあたって、諸君等の宣誓と良心とに拘束されている」

 そのように告げた上で彼は説示に進み、第一に謀反人を匿った事実によって、第二にその傷を治療し謀反人を助けた事実によって、ベインズとブラッドが両者共に叛逆の罪を犯しているという概要を述べた。彼はそれに、正統なる君主にして正当なる統治者、神に定められし国王陛下に対するへつらうような言辞と、非国教徒及び――彼自身の言葉によれば――嫡出が継承権において優先される我が王国において、最も卑劣なる主張を厚顔にも行ったモンマスに対する罵詈雑言を織り交ぜて演説した。「イエスよ!このようなまむしすえが我等の間にはびこる事を許すべきであろうか」彼は突然、大仰な疑問形を用いて熱狂し大声を発した。それから自分の発揮した狂暴性によって消耗したかのように椅子の背に沈んだ。一瞬、彼は動きを止め、再び唇を押さえた。それから不快な様子で身じろぎをした。またしても彼は痛みに顔を歪ませ、何度かうなり声を上げ、ほとんどしどろもどろな言葉によって評決を検討する為に陪審員を下がらせた。

 ピーター・ブラッドは、その抑制を欠いた冒涜的な、品位なき罵りに等しい長広舌を、後に振り返れば我ながら驚くような超然とした態度で聞いていた。彼はその男に、その男の心と身体の間で起きている反応に、そして陪審を脅しつけ抑圧して流血を強制するやり口に呆然とし、自分の命が危機に瀕している事すら失念していたのであった。

 その判断力を奪われた陪審員達の不在は短いものだった。評決は、三名の被告人全員が有罪。ピーター・ブラッドは緋色に飾られた法廷を見回した。束の間、白い顔の泡沫が眼前をうねるように感じた。それから我に返った彼は、大逆罪で有罪となり宜告された死刑を免れる為に何か申し開きがあるかと尋ねる声を知覚した。

 彼は笑った。そして彼の笑いは法廷の死のごとき静寂の中で奇妙に耳障りに響いた。何もかもが、あまりにグロテスクだった。このような正義のまがい物が、物思わしげな目をして緋衣をまとった道化ジャック・プディングによって、彼自身がまがい物――残忍で陰湿な執念深い王の腐敗した手先――であるような男によって執り行なわれているとは。彼の笑いは、その道化ジャック・プディングの厳粛を揺るがす衝撃を与えた。

「笑うのか、下郎めが。貴様は首にロープをかけて、突として赴く事になった常世の入口に立っているのだぞ?」

 ブラッドは報復した。

「疑いなく、私の置かれた境遇は閣下のそれより笑うにふさわしいものだからな。何故ならば、私には閣下が判決を下す前に告げておくべき事がある。閣下の御目には、私――その唯一の罪は慈善を行ったという事だけの潔白な男――が首の周りにロープを巻いた男に見えているようだ。閣下、貴方は裁判長として、私の身にこれから起こる事をお話しになられた。私は医者として、閣下の御身にこれから起こるであろう事をお話ししよう。そして私は自分の境遇と閣下のそれとを交換するのは御免こうむると申し上げる――閣下が私の首に巻きつけた縄と、閣下が御自分の御体の中に入れている石とを交換するのは御免こうむると。閣下が私に運命づけた死は、首席判事であらせられる閣下が自らに運命づけた死に比べれば、陽気な別れの辞のようなものだ」

 灰色の顔をし、唇をひきつらせて、裁判長閣下は硬直したように座していた。そしてピーター・ブラッドが話を終えた後、十数えるほどの間、その麻痺した法廷には物音ひとつしなかった。ジェフリーズ男爵を知る全ての者が、これを嵐の前の静けさと見なして激発に備え身を引き締めた。しかし何も起こらなかった。

 ゆっくりと、かすかに、その灰色の顔に血色が戻っていった。緋をまとった身体は剛性を失い、前傾した。裁判長閣下は話し始めた。抑えられた声で、そして手短かに――このような場合における彼の常よりもはるかに手短かに、そして唇が語る間にも思いは別の処にあるような、完全に機械的な調子で――ピーター・ブラッドの発言については一切触れず、彼は形式通りに死罪を宣告した。それを宣告すると、彼は疲れ切った背を椅子に沈めた。彼は半ば目を閉じ、その額には汗が光っていた。

 囚人達は列をなして退出した。

 ポレックスフェン氏――この裁判の進行を担当する法曹という立場にありながらも、心底ではホイッグである人物――は陪審員の一人が同輩の法曹に耳打ちするのを聞いた。

「たまげたね、あの浅黒いならず者は閣下を脅えさせた。ああいう男が首を吊られねばならんとは残念だな。ジェフリーズを震え上がらせる事ができるような男なら、さぞ大物になっただろうに」


  1. ピーター・ミューズ(1619年 1706年)
    神学者、聖職者。クロムウェル時代も王党派としてスチュアート王家の為に活動し、王政復古後はオックスフォード大学長や各地の高位聖職を歴任する。モンマスの乱当時はウィンチェスター大司教。 

  2. 当時の英国では重罪人は処刑後に見せしめの為に死体を街道にさらされたのだが、その際にはコールタールを塗って腐敗防止処理をしていた。 

  3. 旧約聖書にある、ユダヤ人(シオンの子ら)のバビロン捕囚からの開放と神殿再建の故事より。 

  4. フォード・グレイ(1655年 1701年)
    第三代ヴェルケ男爵。ライハウス陰謀事件に関与しロンドン塔に幽閉されたが、脱出。その後モンマスの乱の指導者の一人となるが、敗走後は同志達を国王側に売って生き延びた上に1686年6月には地位も回復した。モンマスの乱当時は男爵だったが、ウィリアム王の治世中には国家の重職に就き、初代グレンデール子爵及び初代タンカービル伯爵の位を得た。 

  5. 巡回裁判は中央の国王裁判所から派遣された裁判官による臨時裁判であり、「王座裁判所」「民訴裁判所」「財務裁判所」及び上級法廷弁護士から選ばれた裁判官が地方を巡回する。 

  6. ヴェム男爵ジョージ・ジェフリーズ(1645年 1689年)
    通称「首吊り判事」。1683年に高等法院首席判事(最高裁判所長官に相当)となり、ライハウス陰謀事件や、カトリック陰謀事件沈静化後に行われたタイタス・オーツの偽証罪に関する裁判を担当した。
    ジェームズ世の即位後、モンマスの乱の戦後処理において、主犯・従犯を問わず、裁判の体を成さない裁判で夥しい人民を死罪や南洋送りに処した苛烈な「Bloody Assizes(血の巡回裁判)」によって英国史に名を留めている。彼自身はカトリックではない。1685年に大法官の地位に就くが、名誉革命により失脚、暴徒からの保護を求めて自らロンドン塔への拘留を希望し、獄中で死亡。死因は腎臓病。 

  7. ヘンリー・ポレックスフェン(1632年 1691年)
    イングランドの上級法廷弁護士、インナー・テンプル(法曹院)幹部員。カトリック陰謀事件ではダンビー伯の弁護人を担当し、様々な政治的重要事件において法律顧問を務めた。ジェームズ世の逃亡後、イングランドに上陸したオレンジ公ウィリアムが王位宣言する際に法的な裏付けを与えて貢献し、ナイト爵に叙された。英国の根本法「権利の章典」作成にも関わっている。 

  8. プロテスタントの一派であり、カルヴァンの理想に従い、司祭を置かず信徒の長老と牧師によって教会を運営する長老制をとる。 

  9. 新約聖書パウロ書簡ガラテヤ人への書より。「自ら欺くな、神は侮るべき者にあらず、人の播く所は、その刈る所とならん。」 

  10. 新約聖書マタイによる福音書23章より。「蛇よ、蝮の裔よ、汝等いかでゲヘナの刑罰を避け得んや。」 

四 奴隷市

 ポレックスフェン氏は正しくもあり、同時に間違ってもいた――大抵の人間が思い描くよりも、はるかにありふれた状況である。

  偏りのない明確な思索の下では、彼は正しかった。すなわち、その物腰と言葉によってジェフリーズのような恐怖の権化を怯ませる事ができる男には、その天与の器量に任せ、己自身を材料として大いなる運命を築き上げるのを可能にすべきであろうという考えである。固定観念の下では、彼は――理には適っているのだが――間違っていた。すなわち、ピーター・ブラッドは絞首刑に処さねばならぬという前提である。

 既に記したが、オグルソープ農園への救難行の結果として彼に訪れた苦難には――未だ彼はそれを認知してはいなかったろうが――二つの幸運が含まれていた。一つは彼が裁判にかけられた事自体。もう一つは、彼の裁判が9月19日に行われたという事にあった。18日までに巡回国王裁判で下された判決は、文字通り、かつ迅速に執行されていた。しかし19日の朝、ジェフリーズ男爵宛の書状を携えた国務大臣サンダーランド伯1の急使がトーントンに到着し、その書状には、一千百人の叛徒を王の南海プランテーションがあるジャマイカ、バルバドス、もしくはリーウォード諸島のいずれかに労働力を供給する為に流刑にするべしという、畏れ多くも有難い陛下の御意が記されていた。

 この君命は無論、慈悲心に基づいて下されたものではない。チャーチル男爵2は、大理石像に負けず劣らず無情な国王陛下の思し召しを伝えたに過ぎない。一連の大規模な絞首刑の執行が、貴重な有価物の著しい浪費である事は既に認識されていた。プランテーションでは奴隷が緊急に必要とされており、健康で頑強な男には少なくとも10ポンドから15ポンドの価値があるはずだった。そして宮廷には、陛下への奉仕に対して何がしかの報奨を求める多くの紳士達がいた。ここに、そのような要求を片付ける為の元手のかからぬお手軽な方法があった。有罪判決を受けた謀反人の一部をその紳士達に下げ渡し、彼等がそれを売り払って利益とすればよいのだ。

 サンダーランド伯の書状は、人肉に関する国王の気前良さを詳細に記録している。千人の叛徒が約八人の廷臣達の間で分配されるように、更に追伸には、それとは別に百人以上を王妃の為に確保するよう求めた指示もあった。この囚人達は直ちに英国王のプランテーションに送られる予定となっており、速やかに現地への輸送が遂行され、各々が割り当てられた場所に無事入るのが確認されて後、十年間をその地で刑に服すよう定められていた。

 ジェフリーズ男爵の秘書が残した史料には、かの首席判事が酔いに任せた狂乱から、この夜、陛下が説き伏せられてしまった筋違いな温情処置に対して如何に激しく立腹したが記されている。王にその決定を再考させるべく、彼が書状によって説得を試みたのも後世に伝わっている。しかしジェームズ王は己の決定に固執した。これは如何にも彼にふさわしい、大きな価値――彼がそれから得る間接的利益を別として――のある温情処置だった。このような形での助命は、囚人達にとっては死が生き地獄に替えられたに過ぎない事を彼は知っていた。多くの者が西インド諸島で送る奴隷生活の悲惨な境遇の中で苦しみに斃れるであろうし、それすら生き残った仲間にとっては羨望の的となるだろう。

 かくしてピーター・ブラッド、ジェレミー・ピット、アンドリュー・ベインズは、判決文に記された通りに首を吊られて四肢を裂かれる代わりに、ブリストルに運ばれて約五十名の他の囚人達と共にジャマイカ商人の船に乗せられる事となった。船倉口ハッチの下での密集した監禁状態、そして栄養不良と汚れた水により病が発生し、十一名が死亡した。その中には、ただ慈悲に従って行動したという罪により、芳しい香りの林檎園に囲まれた静かな住まいから暴力によって無理やり引き離された、オグルソープの不運な農園主ヨーマンも含まれていた。

 囚人達の死亡率は、ピーター・ブラッドの存在がなければ更に高かったかもしれない。当初、このような扱いによって人々をいたずらに死なせている事に対するブラッドのいさめと、彼に薬箱を使わせ病人の世話をする時間を与えるようにという主張に対して、ジャマイカ商船の船長は罵りと脅しで応じた。だが商品である奴隷達のあまりにも多大な損失により、自分が責任を追及されるかもしれないと思い至ったキャプテン・ガードナーは、遅まきながらピーター・ブラッドの技能に頼る事にした。ブラッド医師は喜び勇んで仕事にとりかかり、その巧みな看護と囚人達の環境改善によって病気の蔓延を食い止めた。

 十二月の半ば近く、ジャマイカ商人はカーライル湾に錨を下ろして、四十二名の生き残った謀反人達を上陸させた。

 この不運な囚人達が、自分は未開の蛮地に送られるのであろうと想像していたのならば――彼等の大部分がそう思っていたであろうが――彼等が舷側で待機中のボートに慌ただしく押し込まれる前にちらりと見た光景だけで、その先入観を修正するには充分であった。彼等が目にしたのは、西洋の建築様式の家々で構成されているが、ヨーロッパの都市で当たり前に見られるような乱雑さのない、充分に立派な規模の町だった。教会の尖塔は赤い屋根の上に他を圧するようにそびえ、狭間から砲口を突き出した要塞が広い港の入口を護り、そしてこの町を見下ろすなだらかな丘上に建つ総督官邸が君臨するように広大な姿を表していた。この丘はイングランドの四月の丘のように鮮やかな緑であり、激しい雨季が終わったばかりのこの日は、イングランドの四月の日の様であった。

 海に面した石畳の広場には、自分達を引き取る為に整列している赤いコートを着た民兵の姿が見え、そして集まってきた――彼等の到着を見物しようと出てきた――群衆は、女性が少なめで多数の黒人が含まれている事を除けば、服装も物腰も自国の港の群集と大差ないのが見て取れた。

 防波堤に並ばされた彼等を検分する為にやってきたスティード総督は、短躯で恰幅の良い赤ら顔の紳士であり、夥しい金のレース飾りで重たくなった青いタフタの服を着こみ、少し足を引きずって、頑丈な黒檀の杖に寄りかかっていた。その後ろを、バルバドス民兵隊大佐の制服をまとった長身で肉付きの良い男が、体を揺すぶるようにして歩いていたが、総督より頭一つは高い位置にあるその男の大きな黄ばんだ顔には、むき出しの悪意が浮かんでいた。その側に、彼の粗野とは奇妙に対照的な肩肘を張らぬ若々しく優雅な身ごなしで、流行の乗馬服を着たほっそりとした若い婦人がやってきた。緋色の弧を描く駝鳥の羽飾りが付いた灰色の帽子の広いつばが卵形の顔に陰を落としていた。北回帰線の気候が影響を残していないその顔は、非常に繊細な白さであった。彼女の肩には赤茶色の巻き毛が掛かっていた。大きく見開かれたハシバミ色の瞳には率直さが表れており、常ならば彼女のみずみずしく若い口もとに宿っているはずの茶目っ気は、今は同情心によって抑圧されていた。

 ピーター・ブラッドは、 ある種の驚きと共に、このような場所にはひどく場違いに思える清々しい顔を我知らず凝視していた。そして自分が彼女に見つめ返されているのに気づいて居心地の悪い気分になった。彼は自分の惨めな姿を意識して、いたたまれなくなった。何日も洗っていない悪臭を放つもつれた髪と、見苦しい黒い顎鬚、もとは素晴らしかった黒いキャムレット織の上下は、虜囚となった今はぼろぼろで案山子も恥らう有様となり、彼はあのような優美な目に見つめられるにふさわしい状態ではなかった。にもかかわらず、その見開かれた目はほとんど子供のような驚きと哀れみで彼を見つめ続けた。その瞳の主が同伴者の緋色の袖に触れる為に手を伸べると、男は不機嫌そうにぶつくさ言いながら、大きな太鼓腹を揺すぶり彼女と向き合った。

 彼女は大佐を見上げて懸命に話しかけていたが、彼は明らかにその女性の話をろくに聞いてはいなかった。垂れ下がった肉付きの良い鼻を挟んだ両側に狭い間隔で並んでいる邪気を含んだ小さな両眼は、彼女の上を素通りしてブラッドの横に立つ頑丈な金髪のピット青年に視線を定めた。

 総督も同様に足を止め、その三人はしばし立ち話をしていた。彼女が声を低めた為に、ピーターにはその淑女レディの言葉が全く聞き取れなかった。彼の許まで届いた大佐のどら声は不明瞭であった。だが総督の方は、声を落とすような気遣いもなければ不明瞭さもなかった。自分が機知に富むと信じ込んでか、彼は持ち前のかん高い声を、その場の全員に聞こえるように響かせた。

「とはいえ、我が親愛なるビショップ大佐。まずは君が、この可憐な芳しい花束から好きなものを選んで値付けをするべきだな。その後に残りを競りに出そうではないか」

 ビショップ大佐は頷いた。彼は返答の為に声を張り上げた。「大変結構ですな、閣下。しかし残念ながら、こやつ等はひ弱そうで、プランテーションでは大した働きをしそうにない」底意地の悪い小さな両目が再び囚人達に視線を走らせると、彼等に対する蔑みにより大佐の顔に浮かぶ悪意は深まった。その表情は彼等がもっと良好な状態ではない事に苛立っているようであった。次に彼はジャマイカ商人の代表であるキャプテン・ガードナーにこちらに来るよう合図し、そしてしばしの間、彼の要請により作成されたリストを見ながらガードナーと立ち話をした。

 リストを払いのけた大佐はひとりで叛逆流刑囚達に歩み寄り、彼等を凝視して唇をすぼめていた。サマセットシャーの若い航海士の前で足を止めると、大佐は彼を品定めする間その場に留まった。それから彼は若者の腕の筋肉を指で触り、次に歯を点検する為に口を開くよう命じた。彼は再び粗野な唇をすぼめ、そして頷いた。

 彼は肩越しにキャプテン・ガードナーへ話しかけた。

「こいつを15ポンドで」

 船長キャプテンは狼狽の表情になった。「15ポンド!そりゃアタシがこいつに付けた値段の半分にもなりませんよ」

「それは私が支払うつもりでいた値段の倍だ」大佐は不興げに言った。

「しかしこいつは安くても30ポンドはするはずですよ、大佐」

「その値段ならば黒人奴隷を買える。こういう白豚は長生きしないものだ。こやつ等は重労働に耐えられんからな」

 ガードナーはピットの健康、若さと活力を言い立てた。彼が論じているのは人間についてではなかった。家畜についてであった。繊細な若者であるピットは無言のまま身じろぎひとつしなかった。ただ頬の紅潮だけが、自制を保つ為の内心の努力を示していた。

 ピーター・ブラッドは忌まわしい値切りの押し問答に吐き気を催した。

 その背後で、囚人達の列に沿ってゆっくりと歩きながら、あのレディが総督と何やら会話を交わしていた。総督は自慢たらしく得意げな笑みを浮かべ、片足を引きずりつつ彼女の横を歩いていた。彼女は大佐が行っている、不快極まりない取引を意識していないようだった。関心がないのだろうか?ブラッドはいぶかしんだ。

 ビショップ大佐は次に進む為にきびすを返した。

「20ポンドまでは支払う。それ以上は1ペニーたりとも出さんが、それでもお前がクラブストンからせしめられる金の倍になるはずだ」

 話を打ち切る意向を察したキャプテン・ガードナーは、溜息をついて屈服した。ビショップは既に列の先に進んでいた。ブラッドに対しては、その隣のひ弱な青年と同様に、蔑みを込めた一瞥いちべつしか与えなかった。しかし次の男、セッジムーアで片目を失ったウォルヴァーストンという名の中年の巨漢が大佐の興味を引き、再び値段交渉が始まった。

 ピーター・ブラッドは明るい陽射しの下に立ち、芳しい香りの空気を吸い込んだが、それは彼が今までに呼吸した事のある如何なる空気とも異なっていた。それはログウッドの花とピメント、アロマティックシダーの入りまじった奇妙な香気で満たされていた。彼はその風変わりな芳香に誘われた埒もない思索に我を忘れた。ブラッドは会話をする気分ではなく、その側に無言で立つピットもまた同じであった。ピットは、これまでの苦難の数ヶ月を共に助け合ってきた、既にその指導に心酔し、生命の維持を頼るまでになっていたこの男から、遂に引き離されようとしているのだと思い悩んでいた。全身に染み渡る孤独と苦痛の感覚は、それに比べれば今まで耐えてきた全てが取るに足らぬ事のようにすら思えた。ピットにとって、この別れは彼に課されたあらゆる苦難の痛烈なるクライマックスであった。

 他の買い手達がやってきて、囚人達を品定めしては通り過ぎていった。ブラッドは彼等に注意を払わなかった。買い手達は列の終端まで進んだ。ガードナーは、ビショップ大佐が奴隷を選び終えるまで待っていた大勢の買い手達に向けて売り込み口上をがなり立てていた。自分の番が終わった時、対面に目をやったブラッドは、あの少女がビショップと話しながら、手にした銀柄の鞭で列を指し示しているのに気づいた。ビショップは彼女が指す方向を見る為に手庇てびさしを作った。それからゆっくりと、巨体を揺すぶりながら、彼はガードナーを伴い、あのレディと総督を従えて再び歩み寄ってきた。

 一同は、大佐がブラッドの真横にくる位置まで進んだ。大佐はそのまま通り過ぎようとしたが、あのレディが鞭でその腕をつついた。

「私が言ったのは、この人の事よ」彼女は告げた。

「こいつか?」嘲るような口調だった。ピーター・ブラッドは、茹で団子ダンプリングの中に沈んだ干し葡萄のような、黄ばんだ肉付きの良い顔の中に食い込んだ一対のビーズに似た茶色い目を我知らず見入っていた。彼はその蔑みが込められた品定めの恥辱により、徐々に顔に血が上るのを感じた。「ふん!骨と皮じゃないか。何に使えるというんだ?」

 彼が背を向けようとした時、ガードナーが口を挟んできた。

「こいつは痩せてるかもしれませんが、タフですぜ。タフで健康だ。こいつ等の半分が病気になって、もう半分も病気になりかかってた時、この罪人はぴんしゃんしたまんまで仲間の治療をしたんですよ。こいつがいなけりゃ、もっと沢山がくたばってたはずでさぁ。15ポンドで如何ですかね、大佐。お買い得ですよ。こいつはタフですぜ、閣下――痩せちゃいますが、タフで強い。それに、この暑さにだって耐えられますよ。ここの気候くらいじゃ死にやしません」

 スティード総督はクスクス笑った。「聞いたかね、大佐。姪御さんを信用したまえ。女というのは、男の品定めの仕方をよく心得ているものだ」そして彼は自分の機知に満足して笑った。

 しかし笑ったのは彼ひとりだった。大佐の姪の顔には苛立ちの影がよぎり、大佐はといえば、総督のユーモアに注意を払うには、この取引の検討に熱中し過ぎていた。彼はやや唇を歪め、しばし顎を撫でていた。ジェレミー・ピットは、ほとんど息をするのも忘れていた。

「こいつに10ポンド支払おう」ようやく大佐が言った。

 ピーター・ブラッドは、この申し出が拒絶されるように祈った。理由を説明しようにも、自分がこの粗野なけだものの所有物に、そしてあのハシバミ色の目をした若い娘のある種の所有物になるのだという考えに、猛烈な嫌悪を感じたからとしか言えないのだが。しかし彼をその運命から救うには、嫌悪以上のものが必要だった。奴隷は奴隷であり、自分の運命を定める力を持ってはいない。ピーター・ブラッドは10ポンドという不名誉な金額で、ビショップ大佐――侮蔑的な買い手――に売り渡されたのである。


  1. 第二代サンダーランド伯ロバート・スペンサー(1641年 1702年)
    ジェームズ世統治時代の北部担当国務大臣兼枢密院議長。ウィリアム王時代にもホイッグ党の纏め役として内政改革に手腕を発揮した。 

  2. 初代マールバラ公ジョン・チャーチル(1650年 1722年)
    ヨーク公ジェームズ配下の軍人であり、ジェームズの即位後は男爵位を叙されてモンマスの乱鎮圧の任務にあたった。セッジムーアの戦いにおける国王軍の圧勝は主にチャーチルの功績と言われている。名誉革命の際にはジェームズ王を裏切りオレンジ公ウィリアムを擁立し、マールバラ伯爵に叙された上に新体制では枢密顧問官に任ぜられた。スペイン継承戦争においてイングランド陸軍最高司令官兼同盟軍最高総司令官として数々の軍功を立て、マールバラ公爵に陞爵しょうしゃくされた。

    第二代サンダーランド伯ロバート・スペンサーの孫チャールズと初代マールバラ公ジョン・チャーチルの娘アンの結婚により両家の血筋は結ばれた。この家系の末裔には英国首相ウィンストン・チャーチル(1874年 1965年)や元英国皇太子妃ダイアナ・スペンサー(1961年 1997年)がいる。 

五 アラベラ・ビショップ

 ジャマイカ商人達がブリッジタウンにやってきた日から一ヶ月ほど後、よく晴れた一月のある朝、アラベラ・ビショップ嬢は市の北西にある丘に建つ叔父の屋敷から馬に乗って走り出た。彼女は礼儀に則った距離をおいて後から速足で従う二人の黒人奴隷に付き添われ、最近まで病床にあった総督夫人を見舞う為に総督邸を目指していた。頂上近くのなだらかな草深い斜面で、彼女は反対方向に歩いて行く、背が高く痩身の、地味だが紳士らしい服装をした男に出会った。それは彼女が初めて見る人物であり、この島では新参者は非常に珍しかった。にもかかわらず、何故ともわからぬ理由によって、その男は見知らぬ者のようには思えなかった。

 アラベラ嬢は手綱を引き、景色を眺める風を装って小休止した。それは実際、足を止めるだけの価値がある眺めであった。しかしながらハシバミ色の目の隅で、彼女は次第に近づいてくる男を入念に見定めた。彼女は男の衣服に対する第一印象を改めた。それが地味なのは間違いないが、しかし紳士らしさとは程遠かった。コートと膝下丈ズボンブリーチズは簡素な粗い織物製であった。そして前者がこれほど彼の身に馴染んでいるのは、仕立ての為というよりも、彼の身についた優雅さに拠る処の方が大きいようだ。ストッキングは簡素な木綿製で、彼女に気づいた男が礼儀に則って脱いだつば広のカスター帽は、古びてベルトも羽飾りも付いていなかった。かつらと思っていたのは、近くから見れば、その男自身の光沢のある黒い巻き毛であるのがわかった。

 日に焼けた髭のない陰気な顔から、驚くほど青い二つの目が謹厳に彼女を見つめていた。男はそのまま通り過ぎようとしたが、しかし彼女は呼び止めた。

「貴方とは、お会いした事があるような気がするのですけど」彼女は言った。

 彼女の声はきびきびとして少年のようであり、その仕種にも幾分か少年めいた処があった――これほど可憐な淑女レディにそのような形容を当てはめるのが可能ならば、の話ではあるが。これは恐らく、女の手管とは無縁の心安さや率直さからくるものであり、それが彼女に誰とでも分け隔てない親しい付き合いを可能にさせていた。これこそが、アラベラ嬢が二十五歳になっても未婚であるというだけでなく、求婚された事自体がない理由かもしれない。彼女は全ての男性に姉か妹のように率直で媚のない態度で接していたが、それが男達が彼女に言い寄る事を難しくしていた。

 黒人奴隷達は後方で若干の距離を置いて止まり、彼女が先へ進む意向を示すまで、短い芝の上にしゃがんで待機していた。

 その見知らぬ男は、声をかけられるとすぐに立ち止まった。

「レディたるもの、御自分の所有する財産を把握しておくべきですね」彼は言った。

「私の財産?」

「少なくとも、貴女の叔父上の財物であるのは確かだ。自己紹介させていただきましょう。私の名はピーター・ブラッド、そして私の値段はきっかり10ポンド。それが貴女の叔父上が私に対して支払った金額だ。そのお陰で私は知る事ができたのですよ。全ての人間に、自分の値段を確かめる機会がある訳ではありませんからね」

 それで彼女は男が何者かを悟った。あの日、一か月前の突堤上で目にして以来、彼に会うのはこれが初めてであり、今の彼が奴隷とは程遠い外見に変貌していた点を考慮すれば、彼女がブラッドに対する興味をかき立てられていたにもかかわらず、再び彼を見た際にそれと気づけなかったのも驚くにはあたるまい。

「驚いた!」彼女は言った。「それに貴方、笑えたのね!」

「努力の末にね」と彼は認めた。「それに、最悪の不運手前でやっていけていますので」

「その事は聞いているわ」彼女は言った。

 彼女が聞かされたのは、この謀反人が医者であると判明した件であった。それが痛風に苦しむスティード総督の耳に入り、総督は買い手であるビショップ大佐から、彼を借り受けていた。技能によるものか幸運によるものかはともかく、ピーター・ブラッドは、ブリッジタウンで開業している二人の医者が両方とも匙を投げていた総督の苦痛を軽減した。そして総督夫人は、彼女の気鬱を治療する為に彼の付き添いを望んだ。ブラッドは既に、彼女の苦しみが癇癪――バルバドスにおける日々の倦怠が、社交生活を求める貴婦人に自然と引き起こした不機嫌の結果――に過ぎないと判断していた。しかし彼は夫人の為に処方を指示し、そして彼女はブラッドの処方のお陰で快方に向かっていると思い込んでいた。彼の名声がブリッジタウンに広まる頃には、ビショップ大佐は元々の購入目的であるプランテーションでの労働よりも、本職である医術を続けさせる方がこの新しい奴隷から得られる利益が大きい事に気づいていた。

「私の比較的安楽で清潔な状態は、貴女のお陰ですよ、マダム」ブラッドは告げた。「貴女に御礼を述べる機会を得られて光栄の極み」

 それは上辺だけの礼に過ぎず、彼の声音には感謝の色はなかった。この人は嘲っているんだわ。彼女は不思議に思い、そして余人ならば当惑するかもしれぬような、率直で探るような目を彼に向けた。彼はその視線に込められた問いを読み取り、それに答えた。

「仮に誰か他のプランテーション主が私を買っていたなら」と彼は説明した。「私の輝ける能力に光が当たる機会はなかったでしょうし、今この瞬間も、共に上陸した哀れな連中と同じく斧か鍬を振るっていたはずですから」

「それで、貴方は何故、その事で私に感謝するの?貴方を買ったのは私の叔父よ」

「しかし貴女が彼をせっついていなければ、買ってはいなかったはずですよ。私は貴女の関心に気づいていた。その時、私はそれに憤慨したのですよ」

「憤慨?」彼女の少年のような声には、挑むような調子があった。

「私は死と背中合わせの境遇を、これまで何度も経験してきた。しかし、売り飛ばされて買われるというのは初めての経験だ。それに私は、自分の買い手に尻尾を振るような気持ちにはなれなくてね」

「私が貴方の事で叔父をせっついたというのなら、それは私が貴方に同情したからよ」彼女の口調には、彼との会話中に感じ取った嘲りと軽薄さの混合をとがめるように、やや深刻さが含まれていた。

 彼女は続けて自分の行動について解き明かした。「私の叔父は、貴方からすれば非情な人に見えるでしょうね。それは事実よ。プランテーションの経営者というのは皆、非情な人達だもの。それが現実、と私は思っているわ。でも、ここにはもっとたちの悪い人達がいるの。たとえばスペーツタウンのクラブストン氏。あの人は叔父が選んだ後の残りが売りに出されるのを待ってあの突堤にいたけれど、もし貴方が彼の手に落ちていたらと思うと……。ぞっとするわ。それが理由よ」

 彼はいささか当惑した。

「その赤の他人に対する関心ですが……」と彼は言いかけた。それから探りを入れる方向を変えた。「他の囚人達だって、同情に値したでしょうに」

「貴方は他の人達とは全然違って見えたのよ」

「私は彼等とは違う」彼は言った。

「あら!」アラベラ嬢は彼をにらむと、つんと顎を上げた。「お高くとまってるのね」

「逆ですよ。他の者達は全員、立派な叛乱軍の闘士だ。私はそうじゃない。それが違いです。私はイングランドには浄化が必要だと判断するだけの知性を持ちあわせていなかった。私がブリッジウォーターで医術に専念する事に満足している間、見識ある人々は薄汚い専制君主と悪辣な腰巾着どもを追い払う為に血を流していたんですから」

「貴方!」と彼女が阻んだ。「謀反の事を言ってるのよね」

「曖昧な物言いは、しないように心がけています」彼は応じた。

「そんな話を聞きつけられたら、鞭で打たれるわよ」

「それは総督が許さないでしょう。彼は痛風にかかっているし、夫人は気鬱の病だ」

「それを盾にとるつもり?」彼女は軽蔑を隠さなかった。

「貴女は痛風にも、恐らくは気鬱の病にすらかかった事はないのでしょうね」彼は言った。

 彼女は少し苛立ったような仕草をすると、しばし彼から視線を外して海に目を向けた。突然に彼女は再び彼を見た。彼女は眉を寄せていた。

「でも、叛逆者でないのなら、何故ここにいるの?」

 彼女が理解したのを見て取ると、彼は笑った。「そう、話せば長い物語だ」彼は言った。

「そして多分、話すのは気が進まないような物語?」

 ごく簡潔に、彼は事情を話した。

「ああ!なんて卑劣な!」彼が語り終えた時、彼女は叫んだ。

「おお、それこそが我等がジェームズ陛下のしろしめす麗しき国、イングランド也!だから私を哀れむ必要はない。諸々を考え合わせれば、私はバルバドスの方が気に入っているんですよ。少なくともここでは、人は神の存在を信じる事ができる」

 話しながら彼は右方から左方に、ヒルベイ山の遠く霞む威容から、天空より吹く風によって波立つ広大な海原へと視線を動かした。すると、その雄大な眺望が、彼に己の存在の卑小さと、苦難の瑣末さを悟らせようとしているかに思えた。

「それは、他の土地ではそんなに難しい事なの?」そう尋ねる彼女は非常に厳粛であった。

「人間がそれを難しくしているんです」

「わかるわ」彼女は少し笑ったが、ブラッドにはそれが悲しげな調子に聞こえた。「私はバルバドスをこの世の天国だなんて思った事は一度もないわ」彼女は打ち明けた。「でも、貴方の方が、私より世の中を知っているのは確かね」彼女は小さな銀柄の鞭を馬にあてた。「貴方の不幸が少しでも和らいで、よかったわ」

 彼はお辞儀をし、そして彼女は馬を進めた。黒人奴隷達は慌てて立ち上がると彼女の後を速足で追いかけた。

 しばしの間、ピーター・ブラッドはその場に立ち尽くしていた。彼女が彼を残して行った場所は、眼下にカーライル湾がきらめき、カモメが騒がしく羽ばたく広い港で船積みが行われる様が一望できた。

 これは充分に雄大な眺望だ、と彼は思案した。しかしここは牢獄であり、そして彼はイングランドよりもこちらを好むと宣言する事によって、人が己の不運を矮小化して見せるような殊勝な姿勢に自己陶酔していたのだ。

 彼は振り返ると再び自分の目指す道を進み、泥と編み枝で作られた小屋の雑然とした密集――プランテーション奴隷達が居住している、そして彼自身も共に寝泊りしている、柵で囲われた小さな村――に向かって大股で歩み去った。

 彼は心の中でラブレス1の詩を諳んじた。

『石壁とて監獄を作るにあたわず、
鉄棒とて牢屋を作るにあたわざる也2

 けれども彼は、この一節に新たな意味を、作者が意図したのとは正反対の意味を与えた。監獄は監獄だ。彼は熟考した。壁も鉄格子もなくとも、どんなに広くとも、そこが監獄である事に変わりはない。そしてこの朝、それを悟って以降、時に加速度がついたかのように、彼の認識は益々強まっていった。毎日のように、彼は己の切り取られた翼について、己の世界からの排除について、そして僥倖として己に許された自由のあまりのささやかさについて考えるようになった。そしてまた、仲間である囚人達の不運と、比較的安楽な自分の境遇とを比較して満足しようとするのもやめた。むしろ、彼等の不幸について深く考える事により、彼の心には恨みがつのった。

 ジャマイカ商人によってブラッドと共にこの地に連れてこられた四十二名のうち、ビショップ大佐は少なくとも二十五名を購入していた。残りはより小規模なプランテーション経営者に買われ、スペーツタウンや更にその北へと連れて行かれた。後者の多くについては知る術はないが、ビショップの奴隷達については、大半が悲惨な状態にあるのを彼等の寝屋に自由に出入りできるが故に知っていた。彼等は日の出から日没まで砂糖農園で酷使され、もたつきでもしようものなら奴隷監督とその部下達の鞭が飛んだ。彼等はぼろを着ており、中には裸同然の者もいた。劣悪な場所で寝起きし、そして彼等の大半は塩漬け肉とトウモロコシ団子という食事のせいで栄養不足から体調を崩し、ビショップが自分の為に奉仕する間は奴隷の命にもいくらかの価値があるのを思い出して、病人が多少ましな手当てを受けられるようにしてくれというブラッドのとりなしを受け入れる前に、二名が病気で死亡していた。残忍な奴隷監督のケントに反抗した者の一人は、見せしめとして僚友の目前で黒人の使用人によって死ぬほど激しく打ちすえられ、そして森の中に逃げるという誤った選択をした別の者は、追跡され、連れ戻され、鞭打たれ、そして命ある限り逃亡した叛逆者(fugitive traitor)として世に知られるようにと、額に「F.T.」の焼き印を押された。当人にとっては幸いな事に、この哀れな者は鞭打ちの末に死亡した。

 そのような事件の後、残りの者達の間を精気のない、放心したような諦めが支配した。最も反抗的な者達は鎮圧され、そして己の理不尽な運命を悲痛な覚悟と共に受け入れたのであった。

 ピーター・ブラッドだけは、このような過酷な苦しみから免除されており、己の属する人類という種に対して日々深まりゆく憎悪と、人間がこれほどまでにおぞましいやり方で造物主の美しい御業みわざを汚している場所から逃れる事に対する日々深まりゆく憧れという内面の変化を除けば、一見変わりないままでいた。ここでは希望を見いだす事は許されなかった。しかし、にもかかわらず、彼は絶望に屈しなかった。彼は陰鬱を笑顔の仮面で隠して我が道を行き、ビショップ大佐の利益の為に病人を治療し、ブリッジタウンで開業している二人の別の医師達の領分を徐々に侵食していった。

 囚人仲間が受けている下劣な懲罰と窮乏を免除されていた彼には自尊心を保つ事が可能であり、彼が売りとばされた非情な農園主からさえ厳しい扱いはされなかった。その全ては痛風と気鬱の病に負うていた。既に彼はスティード総督からの尊重を獲得しており、そして――更に重要なのは――彼は臆面もなく、そして皮肉っぽく、追従ついしょうを口にして機嫌を取る事により、総督夫人からも重んじられるようになっていた。

 時折、ビショップ嬢の姿を目にする事もあり、二人が顔を会わせる機会は滅多になかったものの、彼女の方はブラッドに対する興味を示して、幾度か会話を交わす為に呼び止めようとした。彼の方は、決して長居しようとはしなかった。彼は彼女の繊細な外見に、彼女の若々しい魅力、彼女の明るさ、少年のような身ごなしと快活さ、少年のような声に騙されないようにと自分に言い聞かせた。今までの全人生――それも非常に様々な経験をした――において、彼は一度も彼女の叔父より酷いと思える男に出会った事はなく、そして彼にはあの男と彼女を分けて考える事ができなかった。彼女はあの男の姪であり、同じ血が流れており、そしてその悪徳のいくらかは、あの裕福な農園主の無慈悲な残虐性のいくらかはきっと、彼女の快活な体にも宿っているに違いない。彼は己にそう言い聞かせた。彼は非常にしばしば、異議を申し立てる本能に応酬して説得するかのように、このような論を内心で展開し、可能な限り彼女を避け、不可能な時にはそっけなく応対する際にも、このような論拠を己に用いた。

 彼の推論がまことしやかであったとしても、妥当なものに思えたとしても、しかしそれでも彼は、その推論と対立する直感をもう少し信じてみるべきだったのだ。ビショップ大佐と同じ血がその血管に流れているとはいえ、それでも彼女は叔父を損なっている悪徳にとらわれてはいなかった。何故ならば、そのような悪徳は血統に由来するものではなかったのだから。そのような資質は、大佐に関して言えば後天的に獲得されたものだった。彼女の父親トム・ビショップ――つまりビショップ大佐の実兄――は、親切で騎士道精神を備えた穏やかな心の持ち主であったが、まだ若い愛妻の早世に心引き裂かれた結果、住み慣れた世界を捨てて新世界で深い悲しみを癒そうとした。当時五歳の幼い娘を連れてアンティル諸島までやってきた彼は、農園主として第二の人生を送るつもりだった。成功を求めて汲々としない人間が時に大きな成功を収める事がままあるが、彼もその例に漏れず、当初から事業は上々に行った。事業は成功し、彼は故郷ではいささか乱暴者として噂されている軍人の弟について考えるようになった。彼は弟にバルバドスに来るように勧めた。別の時期であったなら鼻で笑われたかもしれない助言だが、それは丁度ウィリアム・ビショップの放縦な気質が環境の変化を欲していた折に届いたのであった。やってきたウィリアムは、寛大な兄によって、豊かなプランテーションの共同経営者として迎えられた。六年ばかりが過ぎて、アラベラが十五歳の時に父親は亡くなり、彼女は叔父の後見に託される事となった。恐らくこれはトム・ビショップの過ちであろう。しかし彼自身の人柄の良さ故に、彼は他者に対しても好意的な評価をしがちな傾向にあった。それに加えて、既に彼自身が娘の教育を行なっていたのであるが、恐らく彼としても度が過ぎたと考えるほどの独立心を娘に与えていた。このような背景により、叔父と姪の間に通い合う愛情は無きに等しいものであった。しかし彼女は叔父に逆らわず、そして彼も姪の前では慎重に振舞っていた。経験的にも、本能的にも、彼は兄について畏怖すべき価値ありと判断するだけの洞察力はあった。そして現在、兄に対する畏敬の幾許いくばくかはその子供に対して引き継がれたかのようであり、プランテーション経営に関する実務を執ってはいないものの、彼女はある意味で彼の共同経営者に等しい存在だった。

 ピーター・ブラッドは――人は皆、そのような判断をしがちなものだが――不充分な知識から彼女を判断したのである。

 間もなく彼は、その判断に修正を迫られるはずであった。五月も終わりに近いある日、暑さが厳しさを増しつつあった頃、カーライル湾に傷つき破損したイングランド船、プライド・オブ・デヴォン号がたどり着いた。乾舷フリーボードは傷つき壊れ、船体は大きく裂けて破損し、後檣ミズンマストは根元からへし折れて、ぎざぎざした丸太の断面だけがそこに何が立っていたのかを物語っていた。この船はマルチニーク沖で活動中に二隻のスペイン宝物船と行き合ったのだが、船長の証言によれば、何らの挑発行為もしていないにもかかわらず、突如スペイン船が彼の船を取り囲み、もはや交戦は避けられなかったのだという。スペイン船の片方は戦闘から離脱したが、プライド・オブ・デヴォン号はそれを追跡可能な状況ではなかった。もう片方は既に沈んだが、しかしそのスペイン船が運んでいた財宝の大半をイングランド船に積み替えるには間に合ったのだと。実際の処、これはセント・ジェームズ宮殿(英国王室)とエル・エスコリアル(スペイン王室)との絶え間ない揉め事の原因であり、双方が常に相手に苦情を申し立てている、珍しくもない海賊行為の一例であった。

 しかしながらスティードは大方の植民地総督の流儀として、イングランド船員の話を額面通りに受け止めるほど鈍い振りをするのを厭わず、その証言に反する如何なる証拠も無視した。彼もまた、バハマから本土までのあらゆる国の人々が共通して抱いている、傲慢で威圧的なスペインに対する憎悪に事欠かなかった。それ故に、彼はプライド・オブ・デヴォン号をバルバドスの港に庇護し、修理に必要なあらゆる便宜を図ったのである。

 しかしプライド・オブ・デヴォン号が到達するより前に、船体と同様に酷い攻撃を受けて負傷した十二名以上のイングランド船員達が船を離れてやってきた。そして彼等と共に、英国船に乗り込んだまま取り残されてしまった、スペインのガレオン船からの切り込み隊の生存者であり、同じく負傷した半ダースほどのスペイン人も連れてこられたのであった。この負傷者達は埠頭の倉庫に運ばれて、彼等の看護の為にブリッジタウンの医師が呼び寄せられた。ピーター・ブラッドもこの仕事に手を貸すように命じられたが、彼がカスティリャ語を話せる――彼は母国語同様、流暢にそれを話した――という理由と、奴隷という下等な境遇にあるという理由から、彼にはスペイン人の患者があてがわれた。

 現在のブラッドには、スペイン人に好意を持つ理由はなかった。彼が経験したスペインの刑務所での二年間と、その後のネーデルラントにおける対スペインの戦闘は、スペイン人の気質の全く褒められたものではない側面について嫌というほど思い知らせてくれた。にもかかわらず、彼は骨身を惜しまず医者としての職務を熱心に果たし、個々の患者に対しては、事務的なものではあるが表面上は愛想良く接していた。速やかに首を吊られる代わりに怪我の治療をされた驚きのあまりにか、彼等はスペイン人としては非常に異例といえる従順な態度をとった。しかしながら彼等は、慈善精神を発揮して傷ついた英国船員達の為に果物や花や食物の見舞いを携えて仮設病院に集まってきたブリッジタウンの住民達からは避けられていた。実の処、このような住民達の何割かの望みはスペイン人達が害獣のように処分される事であり、ピーター・ブラッドは初っ端からその実例を経験していた。

 助手として小屋に送られた黒人奴隷の手を借りて骨折患者の脚を固定していた時、ブラッドにしてみればこの世の人間の中でこれ以上嫌な声も他にない、野太いどら声が突然彼を詰問した。

「貴様、そこで何をしている?」

 ブラッドは自分の作業から顔を上げなかった。その必要はなかった。声の主はわかっていた。

「脚骨折の治療中です」彼は手を止めずに答えた。

「見ればわかる、馬鹿めが」ピーター・ブラッドと窓の間に巨体が割り込んだ。藁上に寝かされた半裸の男は、この侵入者を見上げる為におそるおそる土気色の顔から黒い目をぎょろりと動かした。敵がやってきたのだと理解する為に英語の知識は不要だった。その声の荒々しく威嚇的な響きが事態を充分に物語っていた。「馬鹿めが、そのごろつきが何者かも見ればわかるぞ。誰がお前にスペイン野郎の脚を治す為に暇をやった?」

「私は医者です、ビショップ大佐。この男は傷を負っている。私は患者のえり好みはしない。自分の職務に専念するだけです」

「何だと、ふざけるな!貴様が医者の職務に専念していたら、今頃こんな処にいるはずがないだろうが」

「それどころか、私がここにいるのは私がそれを実行したからです」

「ふん、でまかせを言いおって」大佐は冷笑した。そしてブラッドが意に介さず作業を続けているのに気づいて、彼は激怒した。「手を止めてこっちを見ろ!私が話しているんだぞ!」

 ピーター・ブラッドは中断したが、しかしほんの一瞬の事だった。「患者が痛がっていますので」彼は短く告げると施術を再開した。

「痛がっているだと、こいつがか?それは結構な事だ、忌々しい海賊の犬めが。こっちを見んか、反抗的な与太者め」

 自分に対する挑戦と受け取って激怒した大佐は怒声を上げたが、それに対しては平静なる黙殺という更なる挑戦的な態度で応じられた。彼の長い竹の杖が振り上げられた。ピーター・ブラッドの青い目はそのひらめきをとらえ、強打を阻止する為に彼は素速く説明した。

「反抗には該当しないはずです。私はスティード総督の特命に従って行動しているのです」

 大きな顔を紫色に染めて、大佐は腕を止めた。彼は口を開いた。

「スティード総督だと!」彼は鸚鵡返しに言った。それから杖を下げ、くるりと身を返すと、ブラッドにはそれ以上の言葉をかけずに小屋の奥に向かい、総督のいる場所に移動した。

 ピーター・ブラッドはくすりと笑った。しかし彼の勝利感は人道主義的な考えよりも、己の残忍な所有者のもくろみを妨げてやったという思いによる方が大きかった。

 スペイン人は、この医者が本来の帰属に逆らって自分を庇っているが故のいさかいなのだと察し、思い切って何が起きたのかを小声で訊ねてみた。しかし医者は黙って首を振ると治療を続行した。彼の耳は今、スティードとビショップの間で交わされている言葉を聞き取るべく集中していた。大佐の巨体は、しなびた体をゴテゴテと着飾ったちびの総督を見下ろして、猛り狂い怒鳴り散らしていた。だが、ちびの洒落者は脅しに屈しなかった。総督閣下は自分の背後には世論の支持があると自認していた。ビショップ大佐のように無慈悲な見解を持つ者は、皆無ではないが多くもなかった。総督は己の権限を主張した。ブラッドが負傷したスペイン人の看護にあたっているのは彼の命令によるものであり、彼の命令は実行されて当然なのである。これ以上は言うべき事はない。

 ビショップ大佐は意見を異にしていた。彼の見解では言うべき事は山ほどあった。仰々しく、やかましく、猛烈に、口汚く――怒りに駆られると口汚い言葉がいくらでも沸いて出るので――彼はそれをまくしたてた。

「まるでスペイン人のような物言いだな、大佐」と総督は言い、大佐の誇りに数週間は痛むであろう傷を付けた。思わず言葉を失い、返す言葉を見つけられなかったが故の憤慨により、彼は足を踏み鳴らして小屋から出て行った。

 それから二日後、ブリッジタウンの婦人達、つまりはプランテーション経営者や商人の細君や娘達が埠頭に最初の慈善訪問を行い、負傷した船乗り達への見舞いの品を運んできた。

 ピーター・ブラッドは依然としてそこで患者の世話をしており、誰からも顧みられない不運なスペイン人の間を動きまわっていた。全ての慈善、全ての見舞いの品は、プライド・オブ・デヴォン号の乗組員達に向けられたものであった。そしてピーター・ブラッドは、それを至極当然の事と考えていた。だがそれまで治療に没頭していた彼が、ふと患部から顔を上げると、驚いた事に、人だかりから離れた一人の淑女レディが、いくつかの食用バナナと一束のみずみずしいサトウキビを彼の患者のベッドカバー代わりに掛けてやっていたマントの上に置く姿が見えた。彼女はラベンダー色の絹で優雅に装い、バスケットをたずさえた半裸の黒人奴隷を後に従えていた。

 ピーター・ブラッドはコートを脱いで粗い織りのシャツを腕まくりし、血で汚れたぼろ布を手にして、しばし彼女を見つめたまま立っていた。彼に気づいて唇に微笑を浮かべながら振り返ったレディは、アラベラ・ビショップであった。

「その男はスペイン人ですよ」と、誤解を正すように彼は言ったが、その声には心中の嘲りめいた感情が露骨に滲んでいた。

 彼女のうれしそうな微笑は唇の上で消えていった。彼女は態度を硬化させながら、眉を寄せてしばし彼をにらんだ。

「ええ、わかっています。でも、その人も人間には違いないでしょう」彼女は言った。

 その答えと言外の非難は彼を驚かせた。

「貴女の叔父上の大佐殿は、別の意見をお持ちのようですよ」彼は気を取り直してそう言った。「大佐は彼等の事を、苦しみを長引かせる為に生き延びさせた害虫で、怪我が化膿してそのまま死ねばよいと思っておられるようだ」

 彼女は彼の声に込められた皮肉が、より明確になるのを感じ取った。彼女は彼を見つめ続けた。

「どうして私にそんな事を話すの?」

「貴女が大佐の不興を買うかもしれないと警告する為に。もし大佐が自分の流儀を通していたなら、私は決して彼等の傷を治療する事を許されなかったでしょうから」

「そして貴方は、当然、私が叔父と同じ考えに違いないと思ったのね?」彼女の言は歯切れよく、ハシバミ色の瞳は険悪で挑むようにきらめいていた。

「御婦人に対する失礼など、考える事すらしたくはないのだが」と彼は言った。「しかし貴女が彼等に見舞いの品を与えた事が叔父上の耳に入ったら……」彼は皆まで言わずに「つまり、まあ――そういう事です!」と締めくくった。

 しかしこのレディは全く納得していなかった。

「初めに貴方は私の事を不人情、次に臆病者って決めつけたのね。なんとまぁ!婦人に対する失礼は考える事すらしたくないという人にとって、それはちっとも失礼じゃないという訳なの」彼女は少年のような笑い声を響かせたが、しかし今回、それは耳障りに聞こえた。

 彼は今、初対面のような気持ちで彼女を見つめ、自分が如何に彼女を誤解していたのかを理解した。

「それは、だが、私に想像できると思いますか……あのビショップ大佐が、自分の姪に対してなら寛大な心を持てるだなんて?」無謀にも彼はそう言った。何故なら彼は、突然の後悔に駆られた人間が往々にしてそうなるように無謀になっていたので。

「貴方にはそんな想像なんて、できなくて当然なんでしょうね。貴方の推測がよく当たるだなんて考えちゃいけなかったんだわ」その言葉と目付きで彼を怯ませると、彼女は自分の黒人奴隷と彼が運んできたバスケットの方に向きを変えた。そこから一杯に詰め込まれていた果物と食物を取り出すと、アラベラ嬢は六名のスペイン人のベッドにそれらを積み上げ始め、最後の者に配り終えた時にはバスケットは空になり、彼女の同国人に振舞うものは残っていなかった。実際の処、彼等には彼女の見舞い品など必要なかった。何故なら英国船員達は――彼女がしっかりと観察したように――他の見舞い客達から有りあまるほどの品々を贈られていたのだから。

 そうしてバスケットを空にすると、彼女は黒人奴隷を呼び、ピーター・ブラッドには一言もかけず、一瞥すら与えずに、背筋をしゃんと伸ばし顎をつんと上げ、優雅に裾を引いてその場から退出した。

 ピーターは彼女の出発を見送った。そして彼は溜息をついた。

 自分が彼女を怒らせてしまったのを気に病んでいるという事実に思い当たり、彼は驚いた。これが昨日ならばどうとも思わなかっただろう。彼女の本質が明らかにされたからこそ、そう感じるようになったのだ。「不運バッドセス3に祟られてしまったな。私は人間性について何も理解していなかったような気がする。だが、ビショップ大佐のような悪魔を生み出した一族が、聖女を生み出す事もできるなんて、誰に想像できる?」


  1. リチャード・ラブレス(1617年 1657年)
    17世紀英国を代表する宮廷詩人。チャールズ世に忠実であった為に清教徒革命時には二度も投獄された。代表作"To Althea, from Prison,"、"To Lucasta, Going to the Warres."等。 

  2. ラブレスの"To Althea, from Prison (獄中より、アルテアに)"からの引用。1642年の清教徒革命勃発時にウェストミンスターのゲートハウス刑務所内で書かれた詩。拘禁生活の中での魂の自由を詠った。 

  3. bad cessはbad luckに同じ。アイルランドで使われる言い回し。 

六 脱走計画

 その後、アラベラ・ビショップは埠頭の小屋に毎日果物を届け、更に後日、スペインの虜囚達に金と衣類等も持ってきた。しかし彼女が慎重に訪問のタイミングを見計らっていた為に、ピーター・ブラッドがそこで彼女と顔を合わせる事は二度となかった。そしてまた、患者達が回復するにつれて、彼が診療する時間も以前より短くなっていた。ワッカーとブロンソン――他の二人の医師――の治療を受けていた負傷者のうち三分の一が、怪我がもとで死亡していった間に、ブラッドが治療にあたった患者は全員が着実に治癒して健康を取り戻していった事実は、この叛逆流刑囚のブリッジタウンにおける評判を高めるのに役立った。それは単に患者の武運の差に過ぎなかったのかもしれない。だが町の人々は、その点について然程の斟酌をしなかった。この件が自由市民である同業者達の仕事を減らし、ブラッドの仕事を増やし、ひいては彼の所有者に利益をもたらした。ワッカーとブロンソンは、この耐え難い状態を終わらせる名案を考え出す為に額を寄せ合い知恵を絞った。だがそれは予測された行動だったのである。

 ある日、偶然か意図的にか、いつもより三十分早く速足で埠頭へとやってきたピーター・ブラッドは、丁度小屋から出てきたビショップ嬢と鉢合わせした。彼は帽子を脱いで、彼女に道を譲る為に脇に寄った。きっと顔を上げ、彼の姿が視界に入るだけで不愉快と言わんばかりの目付きで、彼女はそのまま行こうとした。

「ミス・アラベラ」なだめるような、訴えるような調子で彼は声をかけた。

 彼女はたった今、ブラッドの存在に気づいた風を装い、小馬鹿にしたような険のある視線を向けた。

「あら!」彼女は言った。「これはこれは、繊細な心の持ち主の紳士さん!」

 ピーターはうめくように言った。「お尋ね申し上げます。私めに寛大なる御容赦をいただけないものでしょうか?」

「随分と殊勝な事ね!」

「私を苛めるとは、なんと残酷な」謙虚を装って彼は応じた。「所詮、私は奴隷に過ぎないのに。それに、貴女もそのうち病気になるかもしれないのだし」

「それが何なの?」

「貴女が私を目の敵にしていたら、私を頼るのは癪でしょうね」

「ブリッジタウンに医者は貴方だけじゃないのよ」

「しかし私は一番腕がいい」

 彼女は不意に、どうやら彼がまたもや自分をからかう気でいるらしく、自分も少々乗せられてしまったのに気づいた。アラベラ嬢は身を硬くして、再び彼をにらんだ。

「貴方、ちょっと遠慮がなさ過ぎるんじゃなくて?」彼女は非難した。

「医者の特権ですよ」

「私は貴方の患者ではありません。ちゃんと覚えておいてちょうだい」そして見るからに腹を立てながら彼女は立ち去った。

「はてさて、彼女が口やかましい牝狐ヴィクセンなのでしょうか、私が愚か者なのでしょうか、それとも両方なのでしょうか?」天の蒼穹に向かって問いを投げると、彼は小屋に入った。

 それが騒がしい朝の皮切りとなった。一時間ほど後、仕事を切り上げて帰ろうとしていた際に、他の二人の医者のうち、年若い方のワッカーが彼と帰路を共にした――このように擦り寄ってくる態度は異例であり、今までは彼等のどちらも、時折ぞんざいに「良い日を!」と挨拶する以上の言葉を彼にかけた事はなかったのだ。

「ビショップ大佐の許に帰るのなら、少し御一緒しませんか、ブラッド先生」と彼は言った。ワッカー医師は背が低く恰幅の良い四十五歳の男性であり、弛んだ頬と鋭く青い目をしていた。

 ピーター・ブラッドは驚いた。しかし彼はそれを押し隠した。

「私は総督邸に行くのですが」と彼は答えた。

「ああ!なるほどね!総督夫人か」そして彼は笑った。あるいは多分、冷笑した。ピーター・ブラッドにはどちらとも判断がつかなかった。「彼女は君にべったりだそうじゃないか。若くてハンサムなブラッド先生!若さと見目の良さ!我々の職業にとっても、計り知れない利点ですな――特に御婦人方に関しては」

 ピーターは彼を見つめた。「貴方の勘繰りをほのめかしたいのなら、スティード総督に直接おっしゃった方がよろしい。きっと総督も愉快に思われるでしょう」

「誤解ですよ」

「そう願いたいものですね」

「そうかっかしないで!」医者はピーターと腕を組んだ。「私は君と友人になりたいんですよ――君の力になりたいんです。まぁ、お聞きなさい」本能的に彼の声はより低くなった。「君が今ある奴隷の境遇は、君のように有能な人にとっては、実にうんざりするもののはず」

「察しのいい事ですな!」皮肉っぽくブラッドは叫んだ。しかし医者は額面通りに受け取った。

「私は馬鹿ではありませんぞ、我が親愛なるドクター。人を見る目には自信がありましてね、それに私はしばしば他人の心のうちを言い当てる事もできるのです」

「私の心の内を言い当てて御覧になれば、説得力もありましょうが」ブラッドは応じた。

 彼等が埠頭に沿って歩き出すと、ワッカー医師は更に傍に寄ってきた。彼はより一層、秘密めかした調子で声を低めた。彼の鋭く青い目は、自分より高い位置にある同行者の浅黒く皮肉っぽい顔を見上げた。

「私は一体何度、君が海に面した窓から外を見つめる姿を目にした事か。君の心はその二つの目に表れていた!君が何を考えていたのか、私にわからないとでも?もしも君が奴隷身分の地獄から逃れられたなら、自らの喜びと利益を追い求める自由な人間として、己の専門とする職に力を発揮し、誉れを得る事ができるだろうに。世界は広い。君の同胞達を暖かく迎え入れてくれるような、イングランド以外の国は数多くある。英国領以外にも、植民地なぞいくらでもあるんだ」声は更に、ささやきと変わらぬほど低くなった。とはいえ、声の届く範囲には他に誰もいなかった。「キュラソー島のネーデルラント入植地ならば、今の処は何も問題はない。この季節なら難易度の低い安全な航海計画が組めるかもしれない。そしてキュラソー島は単なる足がかりに過ぎないんだ、君が奴隷の身分から解放された瞬間に目の前に開かれる、広い世界に出る為のね」

 ワッカー医師は話を終えた。彼は蒼ざめ、わずかに息を切らしていた。しかし彼の鋭い目は依然として無表情な同行者に定められていた。

「で?」彼は再び言った。「どうだね?」

 それでも尚、ブラッドはすぐには答えなかった。彼は激しく動揺し、己の心に投げ込まれた、恐るべき騒動を引き起こす事が必至の問題を正確に見定める為に、気を静めようと努力していた。彼は別の側面から攻める事にした。

「私には金がない。そういう事には相当な金がいるでしょう」

「私は君の友人になりたいと言っただろう?」

「何故?」至近距離からピーター・ブラッドは尋ねた。

 しかし彼はその返答を真剣に聞いてはいなかった。ワッカー医師は奴隷待遇によって衰弱した同僚医師に心を痛めているのだと力説したものの、彼の弁舌の才は発言に説得力を与える事に失敗し、ピーター・ブラッドは明白な真相に鷹のごとく飛びかかった。ワッカーと彼の同僚は、自分達を脅かす商売敵を追い払いたかった。ブラッドには優柔不断という短所はなかった。彼は他者が這う処で跳ぶ男である。そして今さっきワッカー医師に植え付けられるまでは抱いていなかった逃走という考えは、瞬く間に大きく成長するようになっていた。

「わかった、わかりました」彼は同行者が尚も説明を続けるのをさえぎって、ワッカー医師の面目を立てる為にお人よしを演じた。「実に気高い方だ――医師仲間に対してこれほど親身になってくださるとは。私も同じ立場に置かれた時には、かくありたいものです」

 熱心に尋ねるあまりにワッカーの鋭い目はぎらつき、かすれ声は震えた。

「で、どうなんです?応じますか?」

「応じる?」ブラッドは笑った。「もし私が捕えられて連れ戻されたら、彼等は二度と飛べないように私の翼を切って、生涯消えない烙印を押すでしょうね」

「まさか、少しばかりの危険を冒す価値もないと?」そそのかそうとする声は、前にも増して震えていた。

「まさか」ブラッドは同じ言葉で返した。「しかし、この計画には勇気だけでは足りない。金が要ります。小型帆船スループは、恐らく20ポンドはするでしょう」

「それなら用立てよう。借りればいいんだよ、我々――私への返済は、君の都合の良い時でかまわない」

 うっかりと漏らされた「我々」という言葉から、ブラッドは即座に理解した。もう一人の医師も計画に加わっているのだと。

 彼等は波止場の居住区の近くまできていた。ブラッドは感謝する筋合いなどないのは百も承知の上で、手短かつ雄弁に感謝の意を表した。

「続きはまたにしましょう――明日にでも」彼はこう言って話を結んだ。「貴方は私の為に、希望の門を開けてくださいました」

 少なくともそれだけは掛け値なしの真実以外の何ものでもないのだという事を、彼は押し殺した笑いによって露骨に表した。それは実際、ここで一生を終えるのだと思い込んでいた暗い牢獄の扉が、突然、明るい外界に向かって開かれたようなものだった。

 彼は興奮を静め、何をするべきか筋道を立てて計画する為に、急いで一人になろうとした。誰かと相談する必要もある。その相手は既に思いついていた。航海には航海士ナビゲーターが必要だが、航海士ならば手の届く場所にいる。ジェレミー・ピットだ。まず初めに、この計画を実行に移す時には必ずや自分と行動を共にするであろう、あの若い航海士と相談する事だ。その日は終日、彼の心は新たな希望で混乱し、パートナーと定めた男とこの件を論じる為に、夜になるのを待ち焦がれて苛々と過ごした。最終的に、ブラッドはその夜、複数の奴隷小屋と監督の大きな白い屋敷をまとめて大きく柵で囲った地で、他の者には気づかれずにピットとわずかに言葉を交わす機会を見いだした。

「今晩、皆が眠った後で私の小屋に来てくれ。君に話したい事がある」

 ブラッドの含みのある口調によって、人間性を奪い尽くされる日々の末に陥っていた無気力から目覚めさせられた若者は、彼を凝視した。それから彼は頷いて理解と同意を示し、二人は離れた。

 バルバドスにおける六ヶ月のプランテーション生活は、若い船乗りに悲惨とも言うべき痕跡を刻みつけていた。かつての聡明な機敏さは、すっかり失われていた。顔には空虚が広がり、瞳はどんよりとして輝きに欠け、虐待された犬のように萎縮し、こそこそと行動した。栄養価の低い食事、照りつける太陽の下での過酷な砂糖きび農園の労働、手を休めた時に監督が振るう鞭、彼に運命づけられた死人のように単調な家畜生活の中で、ピットは命を保っていた。しかしそれでも未だ、更にどん底が控えていた。時折、彼の持ち場の近くで酷使されているのを見かける黒人奴隷達と同等の、家畜以下の待遇まで落とされる危険にさらされているのだ。しかしピットは未だ踏みとどまっており、完全に生気を失った訳ではなく、ただ深すぎる絶望によって活力を失っていたのである。ブラッドがその夜、彼に話した最初の単語によって、若者は即座にその無気力を振り払い、そして目覚めた――目覚めて、そして泣いた。

「逃亡?」彼はあえぎながら言った。「ああ、神よ!」彼は両手で顔を覆うと、子供のようにすすり泣いた。

「しっ! 落ち着け!落ち着くんだ!」泣きじゃくる若者を危惧してブラッドは小声で警告した。彼はピットの傍らに行き、なだめる為に若者の肩に片手を置いた。「後生だから、しゃんとするんだ。この話を聞きつけられたら二人とも鞭で打たれるぞ」

 ブラッドに許されている特別待遇には彼専用の小屋も含まれており、ここで彼等は二人きりだった。 とはいえ、その小屋は編み枝細工に薄く泥を塗った壁と竹製の扉で作られている為、物音は筒抜けだった。その晩、砦柵さいさくには錠が下ろされており、今は――真夜中過ぎの事である――皆が寝静まっていたが、それでも奴隷監督が表を歩いているかもしれず、声を聞きとがめられる可能性はあった。ピットはそれを悟り、感情の爆発をコントロールした。

 間近に座り、彼等はその後、小声で一時間かそこら話をしたが、その間に、なまくらにされていたピットの知性は希望という貴重な砥石によって鋭く研ぎ澄まされていった。この企てには仲間を募る必要がある。少なくとも半ダース、可能ならばそれ以上、しかし十人が上限。それには、ビショップ大佐が買い取ったモンマス軍の生存者二十名から選抜しなければならない。航海慣れした者が望ましかった。しかし、この条件に適う者は不運な囚人達の中には二人しかおらず、その上、彼等の知識は決して完全ではなかった。英国海軍ロイヤル・ネイビーに所属していたハグソープと、前国王の御世に下士官であったニコラス・ダイク、そしてもう一人、オーグルという名の砲手ガンナーがいた。

 彼等は別れる前に、ピットがこの三人を手始めにして、次に六人から八人の者に誘いをかける事で意見が一致していた。彼は細心の注意を払って行動するつもりであり、事を打ち明ける前には極力慎重にその者に打診をし、いよいよ打ち明ける段になっても、具体的な行動に移す以前に裏切りによって失敗する事態を警戒して、計画の全てを話すのは避けねばならなかった。彼等とはプランテーションで共に作業している為に、ピットは同輩の奴隷に問題を切り出す機会には事欠かなかった。

「あらゆる事を警戒するんだ」それが別れ際にブラッドの与えた最後の忠告であった。「イタリアのことわざにもあるだろう、『ゆっくり行く者は安全に遠くまで行ける』だ。君が迂闊な事をすれば全てがお終いになる。航海士は君しかいない、君なしでは、我々の逃亡計画は成り立たないんだ」

 ピットは再び確約すると、自分の小屋と藁の寝床に戻る為に忍び足で立ち去った。

 翌朝、埠頭にやってきたブラッドは、気前の良い心持のワッカー医師に出くわした。一晩置いてみると、彼は30ポンドまでならば、この囚人に前払い金を提供してやる心構えになっていた。それだけあれば、この植民地から離れる事を可能にする船を入手できるだろう。ブラッドは愛想良く感謝を表し、ワッカーが何故こうも気前良くなったのか、本当の理由に気づいている事はおくびにも出さなかった。

「私が必要としているのは、金ではありません」と彼は言った。「船です。一体、誰が私に船を売って、スティード総督の布告通りの罰を受けたがるでしょう?貴方がたも、あの布告は読まれたでしょう?」

 ワッカー医師の太った顔が曇った。思案しつつ、彼は顎をさすった。「私もあれは読んだ――うん。私も君に船を用意してやる事はできない。露見してしまうだろうからね。確実に。罰則は、投獄に加えて200ポンドの罰金。身の破滅だ。わかってくれるね?」

 ブラッドの心中の大きな期待はしぼみ始めた。そして絶望の影が彼の顔を曇らせた。

「しかしそれでは……」と彼は口ごもりながら言った。「どうしようもない」

「いやいや。事はそれほど深刻でもない」ワッカー医師は、固く結んだ唇にわずかに微笑を浮かべた。「それについては考えてある。船を買う男は、君と行を共にする集団の一員になるはずだ――当人がここにいないので詳しい話は後日になるが」

「しかし私の仲間達以外に、誰が私と同行するというんです?私に無理なら、その人でも無理でしょう」

「奴隷以外にも、この島には拘留された者達がいる。借金が返せずに島流しにされた者達にとっても、ここからの逃亡は望む処だろう。ナトールという男がいるのだが、そいつは船大工でね、たまたま小耳に挟んだ話からすると、彼は君に雇われるチャンスに飛びつくはずなんだ」

「だが破産した人間が、どうやって船を買う金を手に入れられるんです?それは訊かれるはずですよ」

「確かに疑問に思われるだろうね。だが抜かりなくやりおおせれば、問題が起きるより前に君達は全員ここからいなくなっているはずなのだ」

 ブラッドが理解を示して頷くと、彼の袖にワッカーが自分の手を置いて腹案を明かした。

「君は私から金を受け取る。受け取ったら、それを提供したのが私だという事を忘れるんだ。君にはイングランドに友人――恐らくは親類――がいる。その人物は、ブリッジタウンに住む君の患者の一人を介してその金を送った。その気高い人物を厄介事に巻き込まないように、君は決してその名を明かさないだろう。何を尋ねられたとしても、それは君が説明すべき問題だ」

 彼はブラッドを真剣に見つめ、ひと呼吸おいた。ブラッドは理解と同意を示して頷いた。ほっとした様子で、医者は話を続けた。

「しかし君が慎重に事を進めるなら、余計な質問をされたりはしまい。君はナトールと協力して事にあたるのだ。君は彼を仲間に加える、船大工というのは乗組員としては非常に有用だろう。君は売りに出されているスループ船を見つける為に彼を引き込むんだ。君の方で必用な準備は、船を買う前に全て済ましておく。避けられぬ質問がされる前に、船を手に入れてすぐに脱出できるようにね。どうだ、この案に乗るかい?」

 その案を採用したブラッドは、一時間も経たぬうちに首尾よくナトールと顔を合わせ、ワッカー医師の予測した通りにこの男が計画に乗り気であるとわかった。彼がこの船大工の許を立ち去った時には、ナトールが必要とされる船を探し、ブラッドはすぐに購入資金を用意する事で両者は合意していた。

 早速、出処を隠したワッカー医師の金を受け取ったブラッドにとって、船の探求は予想より長くかかった。しかし三週間が経とうとする頃、ナトール――今や毎日会うようになっていた――が、うってつけのウェリー(平底船)を見つけ出し、その所有者には22ポンドで売る意思があると知らせてきた。その夜、人目につかない遠い浜で、ピーター・ブラッドは新たなパートナーにその金額を渡し、翌日の遅くに購入を完了するようにと指示されたナトールは帰って行った。彼が埠頭に船を運び、ブラッドと仲間の囚人達が夜闇にまぎれて合流し、そして逃亡する手はずであった。

 全ての準備が完了していた。負傷者達が全員移動させられてからは無人になっていた例の小屋に、ナトールは既に必要な備品を隠していた。ハンドレッド・ウェイト(50)のパン、大量のチーズ、水樽と、かなりの本数のカナリア諸島産のサック酒カナリー羅針盤コンパス四分儀クアドラント、海図、砂時計、測程索ログライン、防水布、様々な大工道具、角灯ランタン蝋燭ろうそく。そして砦柵さいさく内でも同様に準備が整えられていた。既にハグソープ、ダイク、オーグルは、この危険を伴う冒険への参加に同意しており、そして他にも八名の者が慎重に誘いを受けていた。ピットの小屋は他の叛逆流刑囚五名と共有されていたが、その全員が自由を得る為の計画に参加しており、準備を重ねる夜の間にはひそかに梯子が設置されていた。彼等はこれを使って砦柵を越えて出入りしていたのである。彼等は物音を立てぬようにしていた為に、発見される危険を案じる必要はなかった。夜間には、全ての囚人を柵の内側に閉じ込めておく以上の予防措置はなかった。結局の処、逃亡を試みるほど愚かな者がいたとして、一体、この島のどこに身を隠せるというのだ?主たる危険は後に残される囚人達に気づかれる事の方にあった。彼等が用心深く静かに行動しなければならないのはその為であった。

 その日、バルバドスで彼等が過ごす最後となるはずの日は、逃亡計画に加わった十二名の仲間達にとっては希望と不安の一日であり、下の町にいるナトールにとっても、その点に変わりはなかった。

 日没に向かう頃、取引を済ませ次第その足で小型船を所定の停泊地に運ぶという役目の為に出発するナトールを見送ってから、ピーター・ブラッドが砦柵に向かってゆったりと歩いてゆくと、丁度畑から駆り立てられてきた奴隷達と行き会った。ブラッドは彼等に道を開けてやる為に入口で脇に寄ったが、その瞳に希望の輝きを込めてメッセージを送る以外には奴隷達と意思の伝達を図ろうとはしなかった。

 ブラッドが彼等の後から柵いの中に入り、各々の小屋に入る為に奴隷達が列を崩した時、彼はビショップ大佐と言葉を交わしている奴隷監督のケントの姿を見た。反抗的な奴隷に罰を加えるという目的で緑地の真ん中に据えられている晒し台の近くに、二人はいた。

 ブラッドが歩を進めると、ビショップは彼を見る為に振り返り、顔をしかめた。「今までどこにいた?」彼はそう怒鳴り、そして大佐の声が脅すような調子なのはいつもの事であるにもかかわらず、ブラッドは心臓が不安に締まるのを感じた。

「町で診察をしていました」彼は答えた。「パッチ夫人が熱を出し、デッカー氏が足首を捻挫しました」

「私はデッカーの許にお前を呼びに行かせたが、お前はあそこにはいなかったぞ。怠け癖が過ぎるな、貴様。無駄な時間潰しをやめんようなら、近いうちに自由時間を減らさにゃならん。自分が叛逆罪で刑に服している事を忘れたか?」

「それを忘れられるような機会など、私には一時たりとも与えられていない」言い返さずにはいられない性分のブラッドはそう言った。

「くそっ!反抗する気か?」
 
 大事なものを危険にさらしている事を思い出し、構内を取り巻いている小屋で皆が不安に耳をそばだてているのを突然に強く意識して、彼は直ちに常にない服従を示した。

「反抗ではありません。私……私を探す為に、お手間をとらせて申し訳ありませんでした……」

「まったくだ、だが貴様はもっと申し訳なく思うだろうよ。総督閣下が痛風のせいで負傷した馬のように悲鳴を上げているというのに、貴様はどこを探してもいないんだからな。とっとと行け、こいつめが――さっさと総督邸に行くんだ!言っただろう、総督がお待ちだ。一番早い馬をこいつに貸してやれ、ケント。さもないと、この田吾作は一晩かかってもたどり着けんぞ」

 彼等はブラッドを急き立て、彼は心理的抵抗を押し殺して振舞った為に息が詰まりそうになっていた。不本意とはいえ、結局の処は治療を済ませる以外になかった。逃亡は真夜中に予定されており、その時までには容易に戻れるはずだ。彼はケントが極力早く目的地に着けるようにと用意した馬に乗った。

「柵の中に戻る際には、どのようにして入ればよいのでしょうか?」彼は別れ際に尋ねた。

「入る必要はなかろう」ビショップが言った。「総督邸での役目が済んだら、閣下が朝までの間、犬小屋でもあてがってくださるだろうよ」

 ピーター・ブラッドの心は、水に投げ入れられた小石のように沈んだ。

「しかし…」と、彼は言いかけた。

「行けと言ったろう。日が暮れるまでそこに突っ立って、無駄話を続ける気か?閣下がお待ちだ」そしてビショップ大佐が容赦なく蹄側を杖で打った為に、牝馬は乗り手を振り落とさんばかりに前脚を跳ね上げた。

 ピーター・ブラッドは、絶望に近い心理状態で総督邸に向かった。絶望するに足る理由はあった。逃亡は少なくとも明晩まで延期しなければならず、そして延期はナトールの取引の露見と、糊塗するに困難な問題の発生を意味する。

 彼の頭にあったのは、総督邸での仕事を終えてすぐに夜道を歩いてこっそりと戻り、柵の外から合図してピットや仲間達に合流すれば、脱走計画はまだ実現可能だろうという考えだった。しかし彼は総督の事を計算に入れていなかった。スティード総督は痛風の重い症状に苛まれており、ブラッドの到着の遅れによる苛立ちが、そのまま彼に対する怒りに転じていたのである。

 ブラッドは真夜中過ぎのかなり遅い時刻まで引き止められ、ようやく瀉血によって患者を少し落ち着かせる事ができた。そこで彼は退出しようとした。しかしスティードは耳を貸さなかった。急にブラッドが必要になった場合に備えて、総督邸内に泊まるように求めたのである。さながら運命が彼をもてあそんでいるかのようであった。少なくとも、今夜は逃亡を断念せざるを得ないのは確実だった。

 特定の薬が必要であり、自ら薬局まで取りに行かねばならないという理由で一時的に外出するまでは、ピーター・ブラッドは早朝まで総督邸から抜け出せなかった。

 その口実を用いて目を覚ましつつある町を訪れると、彼は狼狽で怒り狂っているナトールの許へと直行した。ナトールは全てが露見し、自分も事件に関係したせいで破滅すると考えていた。ピーター・ブラッドは彼の不安を鎮めた。

「計画は、今晩に延期だ」彼は内心よりも自信に満ちた調子で告げた。「総督から死ぬまで血を抜き取ってやらねばならん。君は昨夜と同じ準備をしておいてくれ」

「けど、それまでに怪しまれたらどうするんだ?」ナトールが愚痴っぽく言った。彼は針金のように痩せた青白い小柄な男であり、今は不安げな目をしきりとしばたたかせていた。

「可能な限り誤魔化せばいい。機転をきかせるんだよ。私もそうそう長居はしていられない」そしてピーターは、前もって書付を送っておいた薬を受け取りに薬局へ向かった。

 彼が去ってから一時間も経たぬうちに、ナトールの惨めなあばら家に総督府の役人がやってきた。船の売り手は正規の手続き――流刑囚がやってきた事によって制定された法――に従って役所に売上を報告し、小型船の保有者全てに義務付けられている10ポンドの保証金の償還を受け取ろうとしていた。取引の確認が完了しないうちは、償還の支払いは先延ばしにされるのである。

「我々は、君がロバート・ファレル氏からウェリーを購入したという報告を受けている」担当者が言った。

「その通りです」これで一巻の終わりと思い、ナトールは答えた。

「総督府に報告にくるのに、随分と手間取っているようだな」役人は如何にも官僚らしい傲慢な態度だった。

 ナトールの気弱そうな目は一層せわしなく瞬きした。

「ほ……報告を?」

「それが法令だと知っているだろう」

「わ……私は、存じませんで。申し訳ありません」

「しかし、一月に公示された布告で施行されているぞ」

「わた、私は、字が読めないんです。私は、ぞ……存じませんで」

「ふん!」役人は侮蔑によって彼を萎縮させた。

「ともかく、今、お前は知らされた訳だ。正午になる前に、義務付けられている10ポンドの保証金と一緒に必ず役所にくるんだぞ」

 尊大な役人は去って行き、この朝の暑さにもかかわらず、ナトールは冷や汗をかいていた。彼は最も恐れていた質問、つまり多額の借金を抱えた彼のような者がどうやってウェリーを買う金を手に入れたのか、という質問を、あの役人がしなかった事でほっとしていた。だが、これが一時の猶予に過ぎないのはわかっていた。遠からず、この質問は確実にされ、目の前で地獄への扉が開くだろう。ピーター・ブラッドの脱出計画などに耳を貸してしまった自分の馬鹿さ加減を、彼は罵った。きっと全ての計画が発覚するだろう。恐らく自分も首を吊られるか、少なくとも焼印を押されて、愚かな気の迷いで結託してしまった忌まわしい謀反人達と同じように奴隷として売り飛ばされてしまうのだ。この忌々しい保証の為に10ポンドを用意できさえすれば、役人から不審に思われるきっかけを与えずに事務手続きが速やかに完了して、質問はずっと先になるかもしれない。あの役人の使いが、ナトールが債務者であるという事実を見落としたように、総督府の役人達も、少なくとも一日か二日は気づかずにいてくれるかもしれない。そして彼等がそれに気づいた時には、上手くいけば、自分は連中の質問の届かぬ場所にいるだろう。しかし、それまでの間に、この金をどう工面すればいい?しかも正午になる前にだ!

 ナトールは帽子をひったくると、ピーター・ブラッドを探しに表へ出た。だが、どこを探せば見つけられるだろう?凸凹とした舗装されていない道を無計画にうろつき回り、彼は思い切って一人、二人をつかまえて、今日の朝、ブラッド医師を見かけなかったかと尋ねてみた。ナトールは体調の悪いふりをしたのだが、実際、彼の様子は偽装に説得力を与えるようなものであった。しかしながら誰からも情報は得られなかった。この計画で果たすワッカー医師の役割をブラッドが一切話していなかった為に、不幸な無知のままに歩き回るナトールは、このバルバドスにおいて彼を窮地から救い得る唯一の人物が住む家の前を素通りしてしまった。

 最終的に、ナトールはビショップ大佐の農園に向かう事にした。恐らくブラッドの行先はそこだろう。彼が不在だったとしても、ピットを見つけて伝言を残せばいい。彼はピットと、この計画にピットが果たす役割を承知していた。ブラッドを探すに際しての口実は、自分が体調不良で医者の助けを必要としているという事でいいだろう。

 そしてナトールが心配のあまり焼けつくような暑さにも無感覚になりながら、町の北にある丘へと登ろうとしていたのと同じ頃、これまでの処は総督の痛みが和らいでいる為に退出を許されたブラッドは、ようやく総督邸を出たのであった。騎馬している彼は、予期せぬ遅れさえなければナトールよりも先に砦柵に着いていたはずであり、その場合には、いくつかの不幸な出来事は回避されていたかもしれない。その予期せぬ遅れとは、アラベラ・ビショップ嬢によって引き起こされたものであった。

 二人は総督邸の華麗な庭園の門で鉢合わせし、自身も騎馬していたビショップ嬢は、馬上のピーター・ブラッドをまじまじと見つめた。図らずも、彼はこの時、気勢の上がった状態であった。総督の病状が今の処は好転しているという事実、それはすなわち、ブラッドが行動の自由を取り戻したという事であり、これまでの十二時間以上を働きづめに過ごした鬱屈を払うに充分だった。鬱屈の反動で高揚した気分は、現在の状況に必要とされる程度を超えて高まっていた。彼は楽天的になっていた。昨夜失敗した事が、今晩また失敗したりはしないだろう。結局の処、一日くらい何だというのだ?役人は厄介かもしれないが、しかし少なくとも、この二十四時間に限ればそう深刻な厄介ではない。そしてその時までには、自分達ははるか彼方に去っているはずなのだ。

 この楽天的な思い込みが彼の最初の不運だった。次の不運はビショップ嬢もまた同様に機嫌が良く、そして彼女は根に持つ性分とは程遠いという点にあった。この二つの組み合わせは、結果的に恐ろしい遅延を招く結果となった。

「おはよう、素敵な朝ね」彼女は機嫌良く彼を歓迎した。「最後にお会いしてから、一ヶ月近いんじゃないかしら?」

「二十一日」彼は言った。「指折り数えていましたのでね」

「私、貴方が死んでしまったんじゃないかと思い始めていたところよ」

「花輪のお礼を言わねばならぬようですね」

「花輪?」

「私の墓を飾る為の」彼が説明した。

「貴方って、人をからかわずにいられないの?」最後に会った時、自分が彼のからかいに腹を立てて立ち去った事を思い出し、彼女は不思議そうに、そして生真面目に彼を見た。

「人間というものは、時々自分を笑いものにするか、それとも自分に腹を立てるかしなければやっていけないものなんですよ」彼は言った。「大抵の人間はそれがわからない。だから世の中には掃いて捨てるほど狂人がいるんだ」

「貴方が自分自身を笑いものにするのは、ご自由に。でも貴方、時々、私の事も笑いものにするじゃないの。それって随分失礼じゃなくって」

「信じてください、誤解ですよ。私が笑うのは滑稽な人間だけ、貴女には滑稽な処などどこにもない」

「じゃあ、私は何なの?」彼女は笑いながら尋ねた。

 一瞬、彼は彼女について思いめぐらせた。明るく溌剌とした美しさがあり、完全に乙女らしく、そして尚かつ、完全に率直で臆する事がない。

「貴女は」彼は言った。「私を奴隷として所有している男の姪御さんですよ」しかし彼の物言いは気楽なものだった。彼女が思わずむきになったほど、あまりにも軽い調子だった。

「駄目よ、誤魔化さないで。今朝は正直に答えてもらうわよ」

「正直に?まったく、貴女の質問に答えるのは大仕事だ。だが正直に答えましょう!あー、そうだな、貴女を友人に加えられる男は、幸せ者だとは言えるかも知れませんね」彼の心の内には言うべき事は多々あった。しかし彼はそこで言葉を切った。

「それは御丁寧に」彼女は言った。「社交辞令がお上手でいらっしゃること、ミスター・ブラッド。貴方のような立場の人なら…」

「やれやれ、他の連中がどんな事を言うのか見当がつかないとでも?我が同胞の男どもの事をまるでわかっていないとでも?」

「時々、貴方は本当にわかっていないんじゃないかって思うわ。それとも承知の上で、わざとやっているのかしら。どちらにせよ、貴方が自分の同胞の女の事をわかっていないのは確かね。あのスペインの人達の一件を思えば」

「その事は忘れてくれませんか?」

「絶対、いや」

間の悪さバッドセスのせいで、すっかり悪い印象を持たれてしまった。あれの埋め合わせになるような美点は、私には一つもないんですか?」

「そうね、いくつかあるかも」

「たとえば?」彼の態度は熱望に近いものだった。

「貴方はスペイン語がお上手よね」

「それだけ?」彼は呆然とした。

「どこで覚えたの?スペインで過ごした経験がおありなの?」

「確かに。スペインの刑務所で二年過ごしましたよ」

「刑務所にいたの?」彼女の声は不安げで、彼はそのままにはおけないと思った。

「戦争で捕虜にされてね」彼は説明した。「私はフランス側で戦ったんだ――フランスに仕官して」

「でも、貴方は医者でしょう!」彼女は叫んだ。

「あれは、ただの回り道だったような気がする。私の天職は軍人だった――少なくとも、私は十年間を軍人として務めた。万事順調だった訳ではないが、だがそれは、ご覧の通り、奴隷に落とされる原因になった医師稼業よりは、はるかに性に合っていた。人を殺す事の方が、人の命を救う事よりも主の御心にかなっていたらしい。どうやら、ね」

「でも、どうして軍人になって、フランスに仕官する事になったの?」

「私はアイルランド人ですよ、よろしいか?そして医学を学んだ。それ故に――我等は頑固な民であるが故に、……だが、長い話になってしまうな、大佐は私の帰りを待っているだろうし」彼女は好奇心を満たすのを先延ばしにする事を許さなかった。彼がほんの少しの間待っていれば、二人で一緒に帰宅できるはずだった。彼女は叔父の頼みで総督の見舞いをする予定になっていた。

 彼は待つ事にし、そして彼等はビショップ大佐の家まで馬を並べて共に帰った。二人は並足でゆっくりと馬を歩かせ、彼等が追い越した何人かの者達は、奴隷医師が自分の所有者の姪と如何にも親密そうな様子でいるのを見て驚愕した。その中には、大佐に告げ口をしようと考える者も何人かいたかもしれない。しかし馬上の二人は、この朝、お互い以外の存在を完全に忘れ去っていた。彼は自分の若く無鉄砲な日々を彼女に語り、その最後に自分の逮捕と裁判の顛末を細部まで話した。

 彼等が大佐の館の入口で止まった時に話は辛うじて終わり、鞍から降りたピーター・ブラッドは、大佐が在宅であるのを知らせた黒人従者の一人に馬を引き渡した。

 それでも尚、彼女が彼を引きとめた為に、しばし二人はその場に残った。

「残念だわ、ミスター・ブラッド。もっと前に知る事ができなくて」そう口にした彼女のハシバミ色の澄んだ瞳には、涙がにじんでいた。やむにやまれぬ思いを込めて、アラベラ嬢は彼に向かって手を伸ばした。

「何故です、それで何かが変えられる訳でもないでしょう?」彼は尋ねた。

「少しは違っていたかもって、思うの。貴方はずっと、運命から顧みられずにきたのね」

「ええ、今は……」ブラッドはひと呼吸おいた。彼の鋭いサファイアの瞳は、黒い眉の下からしばしの間、揺るぎなく彼女を見つめた。「せめてもの救いがある」意味ありげな様子で彼は言い、それが彼女の頬を染め、瞬きを激しくさせた。

 別れる前に、彼はアラベラ嬢の手に接吻する為に身を屈め、彼女もそれを拒まなかった。それからブラッドは身をひるがえして半マイル先にある砦柵に向かって大股で歩み去ったが、しかし頬を染め、突然ひどくはにかんだ彼女の面影は彼につきまとった。そのほんの一時の間、彼は自分が十年の刑期を課せられた囚人である事を忘れた。彼は自分が脱走を計画し、それが今夜実行されるはずだという事を忘れた。総督の痛風の結果として現在の彼が瀕している、計画が露見する危険さえも忘れた。

イソノ武威
作家:ラファエル・サバチニ
海賊ブラッド
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