海賊ブラッド

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十七 カモ

 悄然としたキャプテン・ブラッドは、眩しい朝の光の中、アラベラ号の船尾楼甲板プープデッキで緊急会議を召集した。後日になって彼が語った処によれば、それは彼の経歴の中でも最も厳しい局面の一つであったという。ブラッドは事実を受け入れざるを得なかった。彼は己が巧者と任じても異論の出ぬ技術を駆使して戦闘の指揮をとり、ドン・ミゲル・デ・エスピノーサが船も大砲も兵士も戦力において圧倒的に勝ると誇っても異論の出ぬ軍勢を打ち破ったが、しかしその存在を察知できなかった砲台から放たれた三発のまぐれ当りラッキーショットによって、勝利は水泡と化したのである。そして水路を守備する要塞を鎮圧せぬ限り、彼等の勝利は依然として水泡のままなのであった。

 当初、キャプテン・ブラッドは彼の船団を海に出して直ちに作戦を実行するつもりでいた。しかし他の者達が、常の彼らしくもない衝動的な行動を思いとどまらせた。往々にして、人は無念と屈辱という感情から合理的な判断力を狂わせるものである。冷静さを取り戻した彼は現状を再検討した。アラベラ号はもはや航行可能な状態ではなく、インファンタ号は辛うじて浮かんでいるのみ、そしてサン・フェリペ号もまた、降伏前にブラッド方から受けた攻撃によって、ほぼ同程度の損傷状態であった。

 遂には彼も認めざるを得なかった。航海の強行を試みるより先に、船を修理する為にマラカイボに戻る以外に採るべき道がないのは明白であると。

 かくしてマラカイボに、短くも熾烈な戦いにおける敗残の勝利者達が戻ってきた。この状況に加えて、更に彼等のリーダーを執拗に苛立たせ続けたものがあるとすれば、カユザックの遠慮会釈のない悲観論がそれだった。今朝の戦いで兵力に劣る自分達が快勝した事により目の眩むような高揚を感じた分だけ、今のカユザックはより深い絶望の溝に突き落とされていた。そして彼の気分は、少なくとも子飼いの部下の中でも主だった者達には伝染していた。

「一巻の終わりだ」彼はキャプテン・ブラッドに言った。「今回は俺達の負けだよ」

「言わせてもらうが、その台詞はもう聞いたよ」キャプテン・ブラッドは可能な限り忍耐強く答えた。「だが我々は明らかに戦力を増しているんだ。我々は船と大砲を手に入れて、出港した時よりも戦力が増強されて戻ってきた事は君も否定すまい。我々の船団を見るがいい」

「見てから言ってんだよ」カユザックは応じた。

「ふん!要するに、君は肝っ玉の小さい駄犬という訳だな」

「俺を臆病者呼ばわりしやがるのか?」

「言わせてもらうとね」

 ブルトン人は息を荒げて彼をにらんだ。しかし彼はその侮辱に対し実力行使によって名誉を回復しようとは思っていなかった。そのような挙に出ても、キャプテン・ブラッドに返り討ちにされる可能性が高い事はよく承知していた。彼はルバスールの末路を忘れてはいなかった。よって彼は口だけで済ませる事にした。

「そいつぁ、あんまりだ!いくらなんでも言い過ぎってもんだぜ!」彼は苦々しげに不平をならした。

「いいかカユザック。君の相手はもう、うんざりだ。事が尼僧院のテーブルのように滑らかにいかないと言っては、泣き言と不平を延々と並べ立てるのだからな。簡単で楽な仕事を望むなら、初めから海へなど乗り出すべきではないし、私と航海を共にするべきではなかったな。私と共に成す企てはどれも簡単でもなければ楽でもないものだ。今朝の君に言うべき事は、これが全てだ」

 カユザックは呪いの言葉を吐き捨てると、子分達の意見を聞く為に歩み去った。

 キャプテン・ブラッドは負傷者の治療で午後遅くまで忙殺された。それからようやく意を決した彼は、陸に上がると総督邸に戻った。そこでドン・ミゲルに宛てた、好戦的かつ造詣深い手紙をカスティリャ語でしたためる為にである。

『小生はこの朝、我が能力の一端を閣下の御覧に入れました。』と彼は書き出した。『小生は兵士、船、そして大砲の数において二対一以下の劣勢にありながらも、我々を撃破せんと遥々マラカイボまで閣下が率いて来られた艦隊の一部を撃沈し、あるいは拿捕致しました。かような次第により、ラグアイラから増援として派遣されて来るサン・ニノ号が到着したとて、閣下の威信を保つ事は最早不可能であるのは必定。これより先に生じる事態は、これまでに生じた事態を元に御判断下さいます様。かような書状により閣下を煩わせるのは本意ではございませんが、しかしながら小生は慈悲心に溢れ、流血を嫌悪する性分。従って、閣下が無敵と自負しておられた艦隊を既に攻略させて戴いたのと同じく、閣下が無敵と自負しておられるであろう要塞を攻略させて戴く前に、純粋なる人道的配慮により、この最後の申し出を通牒致します。8レアル銀貨五万枚相当及び牛百頭を身代金として支払い、その後、小生の船団が水路を通過するに際して邪魔立てなさらぬ事。この条件の下に、小生はこのマラカイボ市を容赦して直ちに撤退を命じ、四十名の捕虜を解放するでしょう。その多くが身分ある方々で占められている我が捕虜については、出発の後まで人質として留め置き、我々の安全が確認されて後にカヌーで御送り致す所存。万が一、閣下が無分別にもこれらの条件を拒絶し、それにより小生が若干の人命を犠牲にして閣下の要塞を制圧する必要に迫られた場合、我々に対して慈悲を期待なさらぬように、そしてまた、小生は手始めとして、この楽しきマラカイボ市を灰燼と化す所存である事も予め御忠告致します。』

 手紙を書き終えると、彼は囚人の中からジブラルタルで捕らえたマラカイボの副総督を連れてくるよう命じた。内容を明かした上で、ブラッドは副総督にその手紙を託してドン・ミゲルの許に急使として送った。

 使者の選択は的確だった。副総督は自分の都市が解放される事を切望する人々の筆頭格にあり、個人的な利益からの動機も上乗せされて、如何なる犠牲を払おうとキャプテン・ブラッドが恫喝した運命を回避するようにと、誰よりも熱烈に訴えかけるはずの人物なのだ。事はブラッドの計算通りに進んだ。副総督は手紙の提案に加えて、彼自身の熱のこもった嘆願を行ったのである。

 だが意志の固さではドン・ミゲルが上回った。確かに彼の艦隊は一部が破壊され、一部は捕らえられていた。だがしかし、と彼は論じた。あれは奇襲の結果だったのだ。再び同じ事が起こるはずはない。要塞を奇襲するのは不可能だ。キャプテン・ブラッドがマラカイボで奴の生涯最大の失策を犯したいと望むなら、好きにさせてやればいい。最終的に奴が行動に出る決断をした時――遅かれ早かれ、奴は決断に迫られるはずだ――その失策の手痛い清算がなされるだろう、と。副総督は恐慌をきたした。度を失った彼は提督に向けて、いささか剣呑な言葉を放った。だがそれは、提督が彼に告げた言葉に比べれば穏やかなものだった。

「あの呪われた海賊どもの侵入を阻止するという義務に関して、副総督閣下は国王陛下への忠節を全うされたのか。私がきゃつ等の脱出を阻止するという義務を果たさんとしているのと同じようにだ。閣下が己の職務を果たしてさえいれば、我々がこのような難局にいる事もなかったのだ。臆病風に吹かれた要らぬ忠告でこれ以上私を煩わせるな。キャプテン・ブラッドと馴れ合うつもりはない。私は陛下に対する己の義務を承知しているし、それを全うするつもりだ。同じく私は己自身に対する義務も承知している。あの大賊には個人的な借りがあるのでな、返さねばならんのだ。そのメッセージを持って戻られるがよい」

 かくして提督の返答を携えてマラカイボに引き返してきた副総督は、現在はキャプテン・ブラッドが滞在場所としている彼自身の美しい邸宅に戻った。そして逆境の最中さなかにある提督が見せた断固たる勇烈によって恥じ入らされていた為に、彼は提督自身がこの場にいればそのようにしていたであろう攻撃的な態度でそれを告げた。「それが答えですか?」静かに微笑みながらキャプテン・ブラッドはそう言ったが、しかし内心では恫喝の失敗に落胆していた。「うむ、まあ、提督の頑固が過ぎるのは残念な事です。そのせいで彼はあの艦隊を、彼自身の艦隊を失ったのですから。この陽気なマラカイボ市は彼のものではありません。自分の艦隊を失った事に比べれば、この市を失う事の方に憂いが薄いのは当然でしょうね。私も心苦しく思っているのですよ。私は流血と同じく、無益な破壊というのも大嫌いでしてね。だが、仕方ない!明朝、ここに焚き木を積み上げます。明日の夜になって提督が閃光を見た時には、きっと彼もピーター・ブラッドが有言実行の男であると理解するでしょう。ではお引取りを、ドン・フランシスコ」

 一時的な攻撃性が底をついた副総督は、見張り達に急き立てられ、足を引きずるようにして退出した。

 しかし彼が出て行くや否や、カユザックは跳ね上がった。提督の返事を受け取る為に召集されていた会議には彼も参加していたのである。カユザックの顔は蒼白であり、抗議の為に伸ばした両手は震えていた。

「チクショウ、今、なんて言った?」そう叫んだ彼の声はかすれていた。そして返答を待たずに更にわめき立てた。「わかってたんだよ、あの提督をビビらせるのは簡単じゃないのは。奴は俺達をキッチリ罠にハメたって承知してんのさ。それなのにアンタは、あの厚かましいメッセージで奴が降参するなんて寝言をいいやがるんだからな。あの馬鹿みてぇな手紙はな、俺達全員を破滅の運命に閉じ込めて封をしちまったんだよ」

「それでお終いかね?」ブルトン人が息継ぎの為に言葉を切った時、ブラッドは静かに尋ねた。

「いや、まだだ」

「では残りは省略しよう。どうせ繰り返しに過ぎないだろうし、我々の前にある問題を解決する助けにもならない」

「けどアンタはどうするつもりなんだ?説明してくれるんだろうな?」それは質問ではなく要求だった。

「私がどうするか、だと?私は君が、君自身の考えを多少なりとも持っている事を期待していたのだがな。とはいえ、そこまで必死に自分が生き延びる事だけを考えるなら、君や君と同じ考えの者達は離脱してもかまわない。あちらの提督閣下としては、遅まきながらも我々の頭数が減るというのは歓迎すべき話だろう。君達は餞別代りにスループ船を持っていくといい、それから後は要塞でドン・ミゲルと合流しても一向にかまわん、私の知った事ではない。いや、目下の状況からすると、そうしてくれた方が我々にとっては有り難いかもしれんな」

「子分達と相談してから決める」憤怒を飲み込んでカユザックはそう返答し、落ち着いた話し合いは残りの参加者に任せて、自分の部下達と相談する為に憤懣やるかたない様子で立ち去った。

 翌朝早く、彼は再びキャプテン・ブラッドを訪ねた。ブラッドは中庭パティオで独り、深くうなだれながら行ったり来たりを繰り返していた。カユザックは熟慮を落胆と見間違えた。人間というものは、常に自分自身を基準にして隣人を測るものなのである。

「俺達はアンタの言う通りにするよ、キャプテン」むっつりとしながらも反抗的に、彼はそう告げた。キャプテン・ブラッドは背を丸めて後ろで手を組んだまま足を止めると、何も言わず穏やかにカユザックを見つめた。カユザックは説明した。「昨夜、俺は手下の一人に手紙を持たせてスペインの提督の処にやった。もし俺達に恩典付きの通行許可をくれるなら降伏すると申し出た。今朝、返事が来た。俺達が略奪品を置いて行くなら通行権を許すそうだ。手下達はもうスループ船に乗ってる。俺達はすぐ海に出る」

「ボン・ヴォヤージュ(よい旅を)」キャプテン・ブラッドはそう言うと、頷きながら中断された行為を再開する為にきびすを返した。

「他に言う事ぁないのか?」カユザックが叫んだ。

「ある事はあるが」肩越しにブラッドは言った。「君はお気に召さないだろうからね」

「はッ!じゃあ、アデュー(永遠にさよなら)、キャプテン」意地悪く彼は付け加えた。「二度と会う事がないよう祈ってるぜ」

「私もそれを祈ろう」キャプテン・ブラッドは言った。

 カユザックは罵詈雑言を投げかけた。正午前に彼は手下達――イブレビルが引き止める為に手を尽くしたにもかかわらず、カユザックに説き伏せられて手ぶらで帰途につく事に同意した、約六十名の失意の男達――と共に出発した。提督は約束を守り、沖に出るまでの自由通行を許したが、それはキャプテン・ブラッドがスペイン人に関する自分の知識から予測していたよりも大幅に寛大な処置だった。

 一方、離脱組が錨を上げたのと前後して、キャプテン・ブラッドは副総督が再度の面会を求めているという知らせを受けた。やってきたドン・フランシスコを一目見れば、マラカイボ市を案じ、妥協を知らぬ提督の姿勢をなじって夜を徹したのがありありとうかがえた。

 キャプテン・ブラッドは上機嫌で彼を迎えた。

「おはよう、ドン・フランシスコ。焚き火は夕刻まで延期しました。その方が暗闇に映えるでしょうからね」

 痩せ型で神経質な年配の男性であり、家柄は高く活力は低いドン・フランシスコは、単刀直入に用件に入った。

「私は君に告げる為にここにきたのだ、ドン・ペドロ。もし君が三日間の猶予を許すならば、君が要求しドン・ミゲル・デ・エスピノーサが撥ねつけた身代金は、私が支払おう」

 キャプテン・ブラッドは彼と向かい合ったが、その明るい両目の上では黒い眉がしかめられていた。

「それをどこで調達するおつもりなのです?」わずかに内心の驚きをのぞかせながら彼は言った。

 ドン・フランシスコは首を振った。「それは私の個人的な問題としておかねばならん」彼はそう答え、「私はその在り処を知っているし、同胞からの寄与も頼まねばならん。私に三日間の仮釈放を許してくれれば、君が完全に満足する結果を出す。その間は我が息子を人質として君の許に留めよう」と更に嘆願を重ねた。しかしそれは鋭い声にさえぎられた。

「なんと!大胆な方だ、ドン・フランシスコ。このような話をする為に――自分達はどこへ行けば身代金を調達できるか知っているが、その場所を教えるのは拒否すると告げる為に――いらっしゃるとは。指の間をあぶられれば、もっと素直に話すお気持ちになるだろうか?」

 ドン・フランシスコは蒼白になりながらも、再び首を振った。

「それはモーガンやロロネーや他の海賊達の流儀だ。しかしそれはキャプテン・ブラッドの流儀ではなかろう。もし私がそのような危険を疑っていたならば、これほど多くを話したりはしない」

 キャプテン・ブラッドは笑った。「老獪な方だ」彼は言った。「私の虚栄心を利用するおつもりですね?」

「君の名誉をだ、キャプテン」

「海賊の名誉を?まったく、貴方はどうかしておられる!」

「キャプテン・ブラッドの名誉をだよ」ドン・フランシスコは強調した。「君は紳士のごとく戦うという評判だ」

 キャプテン・ブラッドは再び痛烈かつ冷笑的な笑い声を上げ、ドン・フランシスコは最悪の事態を思い不安になった。彼はブラッドが自嘲している事に気づいていなかった。

「それは単に、その方が最終的には自分の得になるからというだけの事です。ですから同じ理由に基づいて、貴方にお望み通り三日間の猶予を差し上げましょう。さて、それに関してですが、ドン・フランシスコ。ラバは必要とされる頭数を全て連れて行かれるといい。こちらで用意しましょう」

 ドン・フランシスコは彼の用件を果たす為にその場を辞し、後に残されたキャプテン・ブラッドは、海賊行為が評判になれば、その分だけ騎士道的振舞いの方も知れ渡るのだから、海賊稼業に精を出すのもまるきり無益という訳でもないらしい、という苦々しさと満足感の狭間で思いにふけった。

 期限通りの三日目に、要求された金額相当の黄金の延べ板と貨幣をラバの背一杯に積み、黒人奴隷に追わせてきた百頭の牛を連れて、副総督はマラカイボに戻った。

 これらの去勢牛は、通常はブカン・ハンターとして生活している者達に渡された。肉の貯蔵に熟練している彼等は、それから一週間の大半を、水辺で牛を解体して塩漬け肉にする作業に追われて過ごした。

 このような作業の間にも、海へ出る為に船の修理は進められ、キャプテン・ブラッドは己の命運のかかった問題を解決するべく熟考を続けていた。彼が雇ったインディアンの斥候によれば、スペイン兵達は干潮時にサルバドール号の大砲三十門を引き上げて、既に圧倒的な戦力に更なる砲列を加えたという。思案の末に現場で天啓を得る事を期待したキャプテン・ブラッドは、自ら偵察に乗り出す事にした。生命の危険は覚悟の上で、彼は友好的なインディアン二名を伴い、夕暮れに紛れてカヌーで島に渡ったのである。一行が上陸してきた側に密生している低木の茂みで己の身とカヌーを隠し、彼等は夜明けまでそこに伏せていた。それからブラッドは偵察を行う為に、細心の注意を払いつつ単身で前に進んだ。彼は既に抱いていた疑念を確認する為に前進し、そして絶対の安全圏を越えて、己の度胸が許す限りぎりぎりの距離まで要塞に近づいた。

 匍匐前進で1マイルほど離れた高台の頂点まで這い進み、そこから彼は要塞内部の配置を目視した。持参した望遠鏡を使って、彼は自分が疑い、そして期待していた通りに、要塞の砲列が全て海に面した側に配置されている事をしっかりと確認した。

 満足した彼はマラカイボに戻ると、作戦会議のメンバー六名――ピット、ハグソープ、イブレビル、ウォルヴァーストン、ダイク、オーグル――の前に、陸に面した側から要塞を襲撃するという案を提出した。夜陰に紛れ島に渡ってスペイン軍の不意を打ち、敵が猛反撃を行う為に大砲の向きを変える前に圧倒しようという試みである。

 捨て身の行動を愛する気性のウォルヴァーストンを除き、士官オフィサー達はその作戦案を冷ややかに受け止めた。ハグソープはきっぱりと反対を表明した。

「その作戦は無謀過ぎますよ、ピーター」彼は厳かにそう言うと、端正なかぶりを振った。「奇襲自体が可能だとしても、我々の方も大砲は使えないんですよ。我々は手持ちの銃器だけに頼らねばなりません。二倍以上の敵兵に気づかれずに、丸腰同然の三百人が(これはカユザックの離脱によって減少した数であった)どうやって要塞までたどり着けるんです?」

 他の者達――ダイク、オーグル、イブレビル、そしてブラッドへの忠誠心から異議を申し立てるのは気が進まなかったであろうピットすら――も、口々に彼に賛同した。彼等が一通り反対意見を言い終えると、ブラッドは「全て計算済みだ」と言った。「それについては熟慮の上、危険を最小限にする方策を検討した。この難局において…」

 彼は突然言葉を切った。ほんの少しの間、彼は考えに没頭し眉を寄せていた。それから彼の顔は天啓によって突然輝いた。彼は顎を引き、ゆっくりと頭をうつむけ、その場で座したまま熟考し、検討した。それから彼は「うん」、そして再び「うん」と低い声でつぶやき、頷いた。彼は部下達と対面する為に顔を上げた。「聞きたまえ」彼は声を張り上げた。「君達が正しいのかもしれない。危険性はあまりにも高いかもしれない。何にせよ、私はもっと良い策を考えた。先程まで本当の攻撃としていたものは、陽動とする。さあ、ではこれが私の作戦計画だ」

 彼は手短に、そして明確に語った。そして彼が一つ一つ説明を進めるにつれ、部下達の顔は意気により輝いていった。説明を終えた時、彼等は異口同音に自分達は救われたと叫んだ。

「まだ実証が済んでいないぞ」彼は言った。

 これまでの二十四時間全ては出発準備にあてられており、先延ばしにする理由はない為に、行動開始は翌朝と決定された。

 キャプテン・ブラッドの作戦成功に対する強い自信は、人質として留め置いていた捕虜と、この当時は一般に正当な略奪品と見なされていた黒人奴隷までをも即座に解放した点にも表れている。解放した捕虜に対する用心は、彼等に教会に入るよう命じて扉に鍵をかけた一事のみであり、捕虜たちは間もなく都市に入ってくるはずの者達による救出をそこで待った。

 それから船倉には財宝が積み込まれ、それぞれが後方に三艘のピラグアを牽引している三隻の船に全員が乗り込むと、海賊バッカニア達は錨を上げ砂州に向かって船出した。

 正午の太陽の下、堂々と前進する船団の帆が眩しい日差しを受けてほのかに白く光る様を眺めていた提督は、長く痩せた手を満足げにすりあわせ、歯を見せて笑った。

「遂に!」彼は叫んだ。「主は我が手中にきゃつをお与えくださった!」彼は背後で見守っている士官の一団を振り返った。「遅かれ早かれ、こうなるはずだったのだ」彼は言った。「今こそ宣言しよう、諸君、我が忍耐は報われたと。今日ここにおいて、かつてきゃつが自ら名乗ったドン・ペドロ・サングレの悪名の下にカトリック王の臣民が被った難事は終わりを告げるのだ」

 彼は部下達に命令を下し、要塞には蜂の巣のような活気が生じた。海賊バッカニアの船団がパロマスを目指して進む間にも、大砲には要員が配置され、砲手ガンナー達は導火索に火を点けして待ち構えたが、その間に海賊達がパロマスを目差しつつも進行方向を西寄りに変えるのが見えた。スペイン兵達はそれを観察して不審に思った。

 要塞から西に1マイル半、岸から半マイル以内――すなわち、最も浅底の船以外ではどちらの側からもパロマスへの接近を困難にしている浅瀬の端――で、そしてスペイン兵の視界の範囲内かつ彼等の最も強力な大砲の射程範囲外で、その四隻の船は錨を下ろした。

 提督は冷笑した。

「ハ!二の足を踏んでおるな、イングランドの犬め!ポル・ディオス(神かけて)、好きなだけぐずぐず先延ばしにするがいい」

「奴等は夜を待っているのでは」彼の傍らで興奮に震えている甥が示唆した。

 ドン・ミゲルは微笑みながら彼を見た。「この狭い水路で、我が砲口の鼻先で、夜陰に乗じる事が可能だと?案ずるな、エステバン。今夜、お前の父の仇をとってやる」

 提督は引き続き海賊の動向を観察する為に望遠鏡を上げた。それぞれの船に牽引されているピラグアが揃って方向を変えるのを目にした彼は、この作戦行動は何の予兆なのだろうかと軽い疑念を抱いた。しばらくの間、それらは船体の後ろに隠れていた。それから再び一艘づつ姿を現わして迅速な漕艇そうていで本船を離れてゆくピラグアには、それぞれに武装した男達が満載されているのが視認できた。彼等を乗せたピラグアは岸辺を目指し、水際に樹木が密集した地点に向かっていた。木々の葉によって彼の視界から隠されてしまうまで、提督の訝しげな視線はそれらを追い続けた。

 それから彼は望遠鏡を下げて士官達に目を向けた。

「どういう事だ?」彼は尋ねた。

 その問いに答える者は一人もおらず、全員が彼と同様に当惑していた。

 わずかの間を置いて、水辺を注視していたエステバンが伯父の袖を引いた。「奴等が舟を出します!」そう叫んで彼は指差した。

 確かにピラグアは本船に向けて戻って行った。しかし漕ぎ手を除けば、その中は今、空になっているのが見て取れた。武装した乗員達は陸上に残ったのだ。

 武装した男達を新たに積み直して再びパロマスに運ぶ為に、ピラグアは牽引されてきた本船に戻った。そして遂にスペイン士官の一人が思い切って解説した。

「奴等は陸路から我々を攻撃するつもりです――要塞を強襲する為に」

「無論だ」提督は微笑した。「それは想定済みだ。奴等め、どうやら自暴自棄になったようだな」

「突撃しますか?」興奮した様子でエステバンは力説した。

「突撃?低木の茂みを潜り抜けてか?奴等の思う壺だ。いや、いや、我々はここで迎え撃つ。その時は、奴等が完膚なきまで打ち砕かれる時だ。疑いの余地なくな」

 しかし提督の心の平静は、夜までには完全なものとは言い難くなっていた。その時までにピラグアは海賊達を乗せて半ダースの往復をしており、男達は――ドン・ミゲル自ら望遠鏡で見届けたように――少なくとも1ダース程度の大砲を陸揚げしていた。

 彼の顔からは既に微笑が消えていた。再び士官達を振り返った時、その顔はいささか怒気を含み、そしていささか不安げであった。

「奴等がわずか三百人の手勢しかいないと報告した馬鹿者は誰だ?少なくとも二倍の数が既に上陸しているではないか」

 彼は驚いたが、しかしもし真実を知れば、彼の驚きは更に深くなっていただろう。パロマスの陸上には一人の海賊も、一台の大砲もなかった事を。ぺてんは完璧だった。ドン・ミゲルには、ピラグアに乗った男達が常に同じ顔ぶれであったとは思いもよらなかった。岸へ向かう際には彼等は座っており、砦からよく見える場所で全身をさらした。そして本船に戻る際には舟底に横たわり、小舟を空に見せかけていたのである。

 海賊達の総動員――そしてそれは、あの邪悪なブラッド配下に想定していたものの二倍の戦力である――による、陸側からの夜襲という見通しに対するスペイン兵達の不安の高まりは、提督にも伝わり始めていた。

 陽の光が失われようとする頃にスペイン兵達がとった行動、それはキャプテン・ブラッドが確信を持って予測していたものと完全に同じであった――スペイン軍が攻撃に対処する際には具体的にどのような行動をとり、如何なる準備をするかは、徹底的に図上演習が行われていた。彼等は沖の狭い水路を見下ろしていた大砲の位置を変えるべく、懸命に作業したのである。

 うめき声を上げ大汗をかき、士官達の悪態と時折振るわれる鞭に駆り立てられて、兵士達は狼狽により急ぐあまりに半ば逆上しつつ、より多くの大砲を移動させて陸に面した側への砲撃力を強化するように据え直す作業を行った。これによって、半マイルも離れていない森からいつ何時なんどき襲われようとも、迎え撃てるだけの準備が整うのである。

 かくして夜のとばりが落ちる頃には、その蛮勇によりカリブ海のスペイン支配圏に悪名を轟かせた野蛮な悪魔達の猛攻に激しい不安を感じつつも、とにもかくにもスペイン兵達は、海賊どもの襲撃に耐え得る備えを整えていた。砲撃の準備を完了し、彼等は待った。

 そしてスペイン軍が待ち構えている間、暗闇の中、潮が引き始めた時刻に、キャプテン・ブラッドの船団は静かに錨を上げた。そして前回と同じく、斜桁スプリット以外の帆は広げずに四隻の――黒い塗装までほどこした――船の舵を操って、明りを点けず、沖へと続く狭い水路を測深しながら慎重に進んだ。

 エリザベス号とインファンタ号は並んで先頭を進み、その陰のような巨体は要塞とほぼ並行する位置にまできた。船首が水をかき分ける低い音に気づく瞬間まで、スペイン兵達の注意は反対側に集中していたのである。そして今や夜の大気中には、人々の困惑から生じた騒乱がバベルの塔で起きた混乱もかくやとばかりに響いていた。その混乱を助長してスペイン兵の間に無秩序状態を生み出す為に、エリザベス号は速い引き潮に乗って通り過ぎる際に要塞に向け左舷砲を撃ち込んだ。

 即座に自分が――どのようにしてかは未だわからないものの――欺かれ、獲物が今まさに逃げおおせようとしているのを悟った提督は半狂乱になり、散々な苦労の末に移動させた大砲を元の砲床に戻すように指示して、砲手ガンナー達には貧弱な砲台からの攻撃を命じた。絶大な火力を誇る彼の砲列は、今は大半が海峡に背を向けて無用の長物と化していたのである。このような混乱の為にいくつかの貴重なチャンスを失った挙句、要塞はようやく発砲した。

 それは今や巻き上げていた帆を全て降ろし、速度を上げて並行する位置まできていたアラベラ号の恐るべき片舷斉射による返礼を受けた。逆上し無意味に騒ぎ立てていたスペイン兵達が垣間見たのは赤い船体側面から噴出した炎の列だけであり、帆綱ハリヤードのきしむ音は一斉攻撃の轟音が掻き消した。その後にはもう、彼等にその船影をとらえる事はかなわなかった。スペイン軍が盲撃ちした小型の砲弾が暗闇の中に消えていったが、離脱しようとする海賊船は、彼等の位置を把握できずに困惑する敵の目印となるような発砲は二度と行わなかった。

 ブラッドの船団によって被った損害は軽微なものだった。しかしスペイン兵達が混乱から回復し、苛烈な攻撃命令を実行可能になった頃には、既に敵船団は南からの微風に助けられて狭い水路を通り沖に出ていた。

 かような次第により、ドン・ミゲル・デ・エスピノーサは失ったチャンスを苦々しく反芻するに任され、ピーター・ブラッドがまんまとマラカイボから逃がれ、銀貨二十五万と他の略奪品に加えて、スペインの財産である二十門搭載のフリゲート艦二隻までをも奪っていったという事実をカトリック王の枢機会議コンセホ1でどのように報告すべきかに頭を悩ませた。ましてやドン・ミゲルのガレオン船四隻と重武装の要塞が、一度はしっかりと海賊達を罠に閉じ込めておきながらの、この顛末を。

 重く、実に重く、ピーター・ブラッドに対する借りは増し、如何なる犠牲を払おうときゃつめに全ての借りを返してやると、ドン・ミゲルは熱烈に天に誓った。

 そしてまた、この件でスペイン王が被った損害は、先に記したものだけでは済まなかった。何故なら次の夜、ベネズエラ湾の入り口、オルバ海岸沖において、キャプテン・ブラッドの船団は、遅参してきたサン・ニノ号がマラカイボでドン・ミゲルと合流する為に帆に風をはらみ急行する処に遭遇したのである。

 当初このスペイン船は、自分達が遭遇したのは海賊を打ち破って帰還するドン・ミゲルの艦隊であると想定した。比較的狭い水域において、期待に反してセント・ジョージ・クロスのペノンがアラベラ号の檣頭マストヘッドに舞い上がった時、サン・ニノ号は賢明にも自艦の旗を降ろして降伏した。

 キャプテン・ブラッドはサン・ニノ号の乗組員に対してボートに乗るように命じると、オルバなり他のどこなり、好きな陸地で降りるようにと申し渡した。慈悲深くもブラッドは彼等を援助する為に、彼の船が未だ牽引していたピラグアを何艘か与えた。

「君達も早晩知る事になると思うが」とサン・ニノ号の艦長に彼は言った。「ドン・ミゲルは極めつけに不機嫌な状態だ。彼に私の事をとりなしておいてくれたまえよ。それと、彼の身に降りかかった全ての災難は彼自身に責任があるのだと悟ってもらう為に、あえて私は危険を冒したのだと伝えてくれ。彼がバルバドス島襲撃の為に弟を私的に送り出した際に解き放った凶運が、彼の許に跳ね返ってきたのだとね。もしも彼がまた英国植民地に魔を放つ気を起こしたら、その前にもう一度よく考えるようにと諫言するのだね」

 サン・ニノ号の艦長が舷を越えて姿を消すと、次にキャプテン・ブラッドは積荷の調査に取り掛かった。昇降口ハッチを開けると、船倉の中には人間が貨物として詰め込まれているのが明らかになった。

「奴隷か」ウォルヴァーストンがそう言って、スペイン人の極悪非道ぶりに対する悪罵を並べ立てていると、暗い船倉から這い出してきたカユザックが、突っ立ったままで日光に目をしばたたかせた。

 ブルトン人海賊の目をしばたたかせたものは、日光だけではなかった。そして彼の後から這い出てきた者達――彼の部下の生き残り――は口を極めてカユザックを罵った。彼の臆病のせいで、自分達は希望を失って見捨ててきた連中に助けられるという、不名誉な立場に追い込まれたのだと。

 彼等のスループ船は三日前にサン・ニノ号に遭遇し、撃沈され、そしてカユザックは桁端ヤードアームから吊られるのを辛くも免れて、時折、浜辺の同胞の間で嘲りの的にされるだけで済まされた。

 その為に、以後の数ヶ月間、彼はトルトゥーガ島で冷やかしの言葉をかけられ続ける事となるのであった。

「オマエさんは、どこでマラカイボでせしめてきた金を使うつもりなんだい?」


  1. Consejo Real y Supremo de las Indias 新大陸のスペイン植民地に関する諸問題を扱う国王諮問機関。軍事行動の決定権や司法権も持つ。 

十八 ミラグロッサ

 マラカイボの事件はキャプテン・ブラッドの海賊バッカニア活動における白眉と見なしてもよいだろう。彼の数多い活動の中では、海戦に関する天賦の才を示す例――そのような活躍はジェレミー・ピットによって格別詳細に記録されたものがある――としては不適当であろうが、しかしながらドン・ミゲル・デ・エスピノーサが彼を閉じ込めた罠から逆転勝利した、この二つの戦闘より輝かしい勝利も他にはそうあるまい。

 これ以前に彼が得ていた名声は既に大きなものであったが、この一件以降の名声に比べれば、取るに足らぬささやかなものに感じられる。それは、これほどの名声を得た海賊バッカニアは――かのモーガンを含めて――これまでも、これからも存在し得ぬであろう巨大なものだった。

 トルトゥーガ島では、彼を撃破せんと向かってきた艦隊から拿捕した三隻の船を修理する為に数ヶ月を費やしたのだが、その間に、気づけばブラッドは荒くれた浜辺の同胞達から半ば崇拝対象のごとくに見られるようになっており、皆が彼の配下に入る名誉を声高に求めてきた。そのお陰で選り好みが許される恵まれた立場となった彼は、規模が拡大した船団に加える乗組員クルーについては入念な選考を行った。次に海に出た時、彼は千名強の男達を乗せた堂々たる五隻の船で編成された船団を率いていた。かようにして彼は、単に有名なだけでなく、真に畏怖すべき存在となったのである。拿捕した三隻のスペイン船は一種の学究的なユーモアからクロト、ラケシス、アトロポス1と改名され、これよりのちに海上で遭遇する全てのスペイン船にとって、この三隻は運命を裁断する女神となるであろうという含意が恐ろしい冗談の形で世に示された。

 ヨーロッパでは、スペイン海軍提督のマラカイボにおける敗北に続くこの船団に関する報は、ちょっとしたセンセーションを巻き起こした。スペインとイングランドにおいては種々様々で不快な懸念が生じた。この件に関して交わされた外交文書を目にした者は、それが少なからぬ量であり、かつ常に友好的な文章とは言い難い事に気づくだろう。

 そして同時期のカリブ海において、スペインのドン・ミゲル・デ・エスピノーサ提督は――彼の時代にはまだ存在しなかった言葉を用いれば――精神錯乱アモック2、という表現がふさわしい状態にあった。キャプテン・ブラッドにより被った大惨事の結果としての不名誉が、提督をほとんど発狂寸前まで追い詰めていたのである。偏りのない目で見れば、誰もがドン・ミゲルに対してある種の同情を覚えずにはいられないだろう。今や憎悪はこの不運な男の日々の糧であり、復讐への希求は彼の脳内で強迫観念と化していた。ひとりの狂人として、彼は己の宿敵を探し求めてカリブ海のありとあらゆる海域を猛烈に航走し、そしてその間、貪欲な執念の前菜オードブル代わりに、水平線上に姿を見せたイングランドやフランスの船に手当たり次第に襲いかかった。

 事実上、このカスティリャの高名な船将にして偉大なる紳士は、既に理性を失い一介の海賊パイレートに成り下がったと言わざるを得ない。枢機会議コンセホは遠からず彼の行動について罪を問うかもしれない。だがしかし、既に破滅の淵まで追いやられた者にとって、刑罰に何の意味があろうか?むしろ、ふてぶてしくも忌々しいブラッドめに足枷をはめる為に死力を尽くせば、スペインが彼の現在の不正行為とそれ以前の失態について寛大な見方をする可能性は低くないはずなのだ。

 かくして、今やキャプテン・ブラッドが圧倒的な戦力を持つに至っているという現実にもかまわず、かのスペイン人はブラッドを探してしるべなき大海を彷徨っていた。彼を探し続けて丸一年の時がむなしく過ぎた。そして遂に彼等が遭遇した状況は、まことに数奇なものであった。

 小説や戯曲の中での偶然の使用を馬鹿にする浅薄な人々に対して、人間存在の現実についての知的観察は、人生とはそれ自体が偶然の連なり以上の何ものでもないという啓示を与えるだろう。過去の歴史をひもとけば、どのページにも偶然の配剤なくしては有り得なかった数々の出来事が見いだせるはずだ。まさしく偶然とは、運命の女神フェイトの手によって人間と国家の運命を形づくる為に使われた道具そのものと定義できるかもしれない。

 キャプテン・ブラッドの、そして他の幾人かの人々の身に起こった事件にそれがどのように働いたかについては、これから記す物語で確かめて欲しい。

 1688年――イングランドの年代記の中でも忘れ難い年――の9月15日、三隻の船がカリブ海上に浮かんでいたが、彼等がそこにやってきたのは、数名の人々の利害が絡み合った結果だった。

 まず一隻目は、小アンティル諸島沖からハリケーンによって海賊バッカニア船団から離れて流されてきたキャプテン・ブラッドの旗艦アラベラ号。北緯17度74分近辺を航海していた。はぐれた船の集合場所と定められているトルトゥーガ島に帰還すべく、息の詰まるような季節の断続的な南東の微風を受けて、アラベラ号はウィンドワード海峡を目指して急いでいた。

 次の船は、イスパニョーラ島南西の角から突き出す長い半島カイミートの北に潜んでいた巨大なスペインのガレオン船ミラグロッサ号であり、より小さなフリゲート艦ヒダルガ号を伴っていた。ミラグロッサ号は復讐に燃えるドン・ミゲルを乗せて航海していた。

 三隻目の、そして目下の関心の対象である最後の船はイングランドの武装帆船マン・オブ・ウォーであり、先に記した日には、イスパニョーラ島北西海岸に位置するフランス領のサン・ニコラで錨を下ろしていた。その船はプリマスからジャマイカに向かう途中であり、親族の長者である国務大臣サンダーランド伯の命を受けて、イングランド―スペイン間の煩わしい交渉から生じた重大かつ慎重を要する任務を帯びてやってきた賓客、ジュリアン・ウェイド卿を乗せていた。

 フランス政府もまた英国と同じく、海賊バッカニアの略奪行為には大いに悩まされ、スペインとの終わりない緊張関係を強いられており、海外植民地の総督達に最大級の厳格な対処を要求する事で海賊行為を鎮めようとするむなしい試みがなされた。しかし総督達は――トルトゥーガ島総督のように――不法戦士フィリバスター達との半ば公然とした協力によって共存共栄するか、あるいは――イスパニョーラ島フランス領総督のように――スペインの威勢と貪欲に対する牽制として海賊達を利用するべきであり、さもなければスペイン領以外にも被害が及ぶであろうと考えていた。実際の処、彼等は強硬な処置をとった場合、多くの海賊達を南海における新たな猟場を探すように追い込むに違いないと懸念していた。

 スペインとの緊張緩和を求めるジェームズ王の御意に従い、スペイン大使の絶え間ない悲痛な訴えに応える為に、国務大臣サンダーランド伯は既に強力な人材をジャマイカの総督代理職に任命していた。その実力者とはビショップ大佐、近年、バルバドスで最も影響力を持つプランテーション経営者であった。

 ビショップ大佐がその職を拝命し、莫大な財産を蓄えたプランテーションを後にしたのは、ピーター・ブラッドに対する個人的な恨みを晴らさんとする欲求に根差した意気込みの為であった。

 ジャマイカに派遣されて以来、ビショップ大佐は海賊どもに対して威を振るってきた。しかし大佐にとって特別な獲物である一人の海賊――かつては彼の奴隷であったピーター・ブラッド――は巧みに身をかわし、海上陸上を問わずスペインを執拗に悩ませる大勢力であり続け、ヨーロッパの平和が危うい均衡にあったこの時期においては、恒常的な緊張状態にあるイングランドとスペインが近年結んだ友好関係の維持にとっては、特に脅威となっていた。

 彼自身のつのる恨みだけでなく、ロンドンから届いた彼の失策を責める書状にも焚きつけられて、ビショップ大佐は自らの手で獲物を狩り出し、あの島で保護されている海賊どもを一掃する為に、トルトゥーガ島への遠征を検討した。彼にとって幸いな事に、かの地の自然の要害に阻まれたのみならず、少なくとも名目上はフランス植民地である以上、襲撃はフランスに対する深刻な敵対行為と見なされ非難されるであろうという意見にも阻まれて、あまりに無謀で馬鹿げた企ては断念せざるを得なかった。このような方策に手をつけようとした事からもビショップ大佐の困窮は容易にうかがえる。国務大臣サンダーランド伯爵に送った書状の中で、彼はその窮境について更に多くを吐露していた。

 この書状と現在判明している情勢により、サンダーランド伯は通常の手段を用いてこの煩わしい問題を解決する事を断念した。彼は特別処置を視野に入れ、チャールズ世の御世に往年の大海賊モーガンを国家に奉仕するようにさせた処遇について考慮した。同様の処遇がキャプテン・ブラッドに対して有効かもしれない、との考えが彼の頭に浮かんだ。伯爵は、ブラッドの現状である無法状態が、本意ではなく止むを得ぬ状況に強いられたものである可能性が高いという点を考慮に入れるのも忘れなかった。彼は流刑囚という境遇により現在の立場に追い込まれたのであり、そこから抜け出す機会を与えられれば歓迎するのではないか。

 この結論に基づいて行動を起こしたサンダーランド伯は、親族のジュリアン・ウェイド卿にいくつかの箇所が空欄とされた委任状を与えた上で送り出した。それは国務大臣サンダーランド伯の思惑を実現する為の指令でありながら、その為の手法については自由裁量を許す内容であった。複雑怪奇な陰謀の迷宮の主である奸智に長けたサンダーランドは、ブラッドが手に負えぬとわかった場合、もしくは他の理由によって彼が王の下に迎えるにふさわしくないと判断した場合についてもジュリアン卿に助言していた。その場合は勧誘の対象を配下の士官オフィサー達に変更し、彼等を引き抜く事によって、ビショップ大佐の艦隊の餌食となるまでブラッドを弱体化させるべしと。

 ロイヤル・メアリー号――才に恵まれて、なかなかに博雅な、そして少々自堕落で完璧に優雅なサンダーランド伯の公使を運ぶ船――は、目的地ジャマイカの一つ手前の寄港地であるサン・ニコラまで快適な航海を行った。ジュリアン卿は、まず下準備としてポートロイヤルで総督代理に面会し、そこから必要に応じてトルトゥーガ島に向かう事になるであろうと考えていた。その時たまたまサン・ニコラには、この季節のジャマイカの耐え難い猛暑から逃れて親族宅を訪問していた総督代理の姪が、数ヶ月前から滞在していた。帰宅が間近に迫った彼女の為にロイヤル・メアリー号への同乗が希望され、そして彼女の叔父の階級と地位から即座にそれは許可された。

 ジュリアン卿は喜んで彼女の到来を歓迎した。それは既に興趣に富むものであった航海を、更に完璧な体験にする為のスパイスであった。卿はいわゆる伊達男であり、婦人達の華やぎなくしては、多かれ少なかれ人生の精彩を欠く存在なのである。ミス・アラベラ・ビショップ――どちらかといえば少年めいた声で、少年のような溌剌とした仕草の痩せた小娘――は、イングランドで卿の眼識にかなった類の貴婦人とは異なっていた。彼の非常に洗練された入念な教養に基づく嗜好は、ふくよかで憂いを秘めた、たおやかな女らしい婦人達に向かっていた。ビショップ嬢の魅力は否定できぬものであった。しかしそれを正当に評価できるのは、相当に繊細な感性が必要な類の魅力であり、ジュリアン卿は粗野とは程遠いものの、それに必要とされるだけの鋭い感性は持ちあわせていなかった。筆者としては、この一事を彼に関する何らかの示唆とするつもりはないのであるが。

 とはいえ、ビショップ嬢は若い女性であり淑女であり、そしてジュリアン卿の好みの範囲からは外れるとしても、注目に値するだけの非凡な人物であった。そのジュリアン卿にしても、称号と地位、身についた優雅さや宮廷人としての魅力によって、彼が帰属している高貴な世界の雰囲気をまとっていた――それはアンティル諸島で人生の大部分を過ごしてきた彼女にとって、実際には触れる機会などないはずの世界であった。ロイヤル・メアリー号がもやい綱を外してサン・ニコラから出港するより前に、両者が引き付けられたのも不思議ではない。互いが相手の切望していた情報の多くを与える事が可能であった。ジュリアン卿にはセント・ジェームズ宮殿の話題――その多くで彼は自分自身を主人公に、あるいは少なくとも重要な役に割り当てて話した――で彼女の想像力に豊富な材料を提供する事ができ、ビショップ嬢は彼がやってきたこの新世界に関する情報によって、彼の知性を充実させる事ができたのである。

 サン・ニコラが視界から消え去るのを待たずして、彼等は既に良き友人同士となっており、そして卿はビショップ嬢に対する第一印象を修正し、全ての男性を兄弟のように扱う率直で屈託のない彼女との交友に魅力を感じ始めていた。課せられた任務によって彼の心が如何に悩まされていたかを考慮すれば、ジュリアン卿が彼女との会話でキャプテン・ブラッドについて触れたのも無理はないだろう。実際、直接的な関連性も存在したのである。

「ひょっとして」と、彼等が船尾を散歩していた際にジュリアン卿は言った。「貴女はそのブラッドという輩を見かけた事があるかもしれませんね、かつてはビショップ大佐のプランテーション奴隷であったのですから」

 ビショップ嬢は立ち止まった。彼女は船尾手摺タフレールにもたれて遠ざかりつつある陸地の方向を見つめたが、それは彼女がしっかりと落ち着いた声で答える前の、ほんの一瞬の事だった。

「私はよく彼を見かけましたわ。彼の事はよく知っておりました」

「なんですって!」卿は慎重に培ってきた平静な態度をいささか崩した。彼は二八歳かそこらの若者であり、中背よりやや大きい程度だが、痩せ型である為に実際よりも長身に見えた。彼は金色のかつらのカールに囲まれた、青白く、どちらかといえば人好きのする痩せて尖った顔に繊細な口、その容貌に微睡むような、あるいはむしろ憂愁を帯びた印象を加味しているペールブルーの瞳をしていた。それは油断なく観察力の鋭い瞳であったが、しかしこの時、彼の質問がもたらしたビショップ嬢の頬色のわずかな変化、あるいは彼女の返答の際の不自然なまでの過度の落ち着きはとらえ損ねていた。

「なんですって!」そう繰り返すと、卿は彼女の隣で手摺にもたれた。「それで、貴女から見て、彼はどのような人物でしたか?」

「あの頃、私は彼を不運な紳士として尊敬しておりました」

「貴女は彼の経歴を聞いたのですか?」

「彼は私にそれを話しました。私が彼を尊敬したのはその為です――彼の不運を支えた冷静な不屈の精神の為に。それから後の行いを考えると、彼が自分について話したのが本当の事だったのかどうか疑うようになりましたけれど」

「モンマス公に加担した叛逆者を裁いた巡回裁判によって、彼が不当な罰を負わされた件ならば、それが真実であろう事に疑いの余地はありません。彼がモンマス軍と行動を共にした事実はありませんでした。それは確かです。彼が用件を引き受けた時点では叛逆罪が適用されるとは知らなかったと思われる、法律の細目に基づいて有罪とされたのです。とはいえ間違いなく、既に彼は復讐を遂げました。曲がりなりにもね」

「それは」と彼女は小声で言った。「許される事ではありませんわ。それは彼を損ないました――その行い相応に」

「彼を損なったですって?」卿はわずかに笑った。「そんな風に考える者はいないでしょう。彼は裕福になったと聞いています。話によると、彼はスペインから奪った戦利品をフランスのきんに換えて、フランス領に蓄えているそうです。彼の未来の義父、ムッシュー・ドジェロンの取り計らいでね」

「未来の義父?」そう言って彼女は、唇を開いたまま目を丸くして彼を凝視した。それから付け加えた。「ムッシュー・ドジェロン?トルトゥーガ総督の?」

「その人ですよ。あの輩は総督に手厚く保護されているのです。私がサン・ニコラで集めた情報の一部です。それが歓迎すべき事実なのかどうか、私には確信が持てません。私の親族であり、私をこちらに派遣したサンダーランド伯から託された任務を容易にするものなのかどうか、確信が持てないのです。とはいえ、そういう事情なのですよ。御存知なかったのですか?」

 彼女は無言で首を振った。ビショップ嬢は顔をそむけており、穏やかに波打つ水をじっと見下ろしていた。わずかに間を置いてから再び口を開いた時、彼女の声は落ち着いて、完全に抑制がきいていた。

「でも、もしそれが本当なら、彼はとうに海賊を辞めているのではないかしら。もしも彼が……もしも彼が愛する女性と婚約して、今おっしゃったように充分な財産があるのなら、無鉄砲な生き方をやめて、そして……」

「ああ、それは私も疑問に思っていました」そう言って卿は話をさえぎった。「事情を説明されるまでですが。ドジェロンは自分自身の為にも我が子の為にも強欲なのです。そしてその娘ですが、随分とふしだらな女のようですよ、ブラッドのような男にお似合いの。呆れた事に、結婚もしていないのに、彼はその娘を連れ回してあちこちに航海しているのですよ。彼女にとってはそれも目新しい経験ではないのでしょう。それにしてもブラッドの堪え性のなさにも驚いたものです。彼はその娘を我がものにする為に人を殺したのですからね」

「その女性の為に人を殺した、ですって?」ビショップ嬢の声には恐怖があった。

「ええ――ルバスールという名前のフランス海賊を。彼はその娘の恋人で、稼業の上ではブラッドのパートナーでした。ブラッドがその娘を欲しがって、彼女を勝ち取る為にルバスールを殺したのです。いやぁ!なんとも嘆かわしい顛末です、私からすればね。しかしこの辺りでは、人々は我々の社会とは異なった道徳律に従って生きているのですね……」

 ビショップ嬢は既に彼と向き合う為に振り返っていた。ブラッドの行動に対する彼の弁護に割って入った時、彼女の唇は青白く、そのハシバミ色の瞳は燃え上がっていた。

「そうなのでしょうね、他の同盟者達が、その事件の後も彼を生かしておいたというのなら」

「おお、それについては決闘で決着がついたと聞いていますよ」

「どなたからお聞きになったの?」

「彼等と共に航海をした男、私がサン・ニコラの水辺居酒屋で見つけたカユザックというフランス人です。彼はルバスールの副長で、その島にもいたのだそうです。その事件が起きた場所に、そしてルバスールが殺された時に」

「その娘さんも?その人は、その娘さんがその場にいたと話したのですか?」

「ええ。彼女は決闘の目撃者でした。兄弟分の海賊を片付けてから、ブラッドは彼女を連れ去りました」

「それで、死んだ男の部下達はそれを許したのですか?」彼は彼女の声に不信の響きを聞き取ったが、その中に入りまじっていた憂虞の響きには気づかなかった。「ああ、そんなお話は信じられません。とても信じられないわ!」

「貴女は尊敬に値しますよ、ビショップ嬢。私などは、カユザックから詳しく説明されるまでは、人間とはこれほどまでに冷血になれるものなのかと、無理やり自分を納得させていましたからね」

「どういう事ですの?」アラベラ嬢は問いただした。それは説明のつかぬ無気力状態にある彼女をたかぶらせた猜疑であった。手摺をしっかりと握り、顔をめぐらせて正面から卿を見ると、彼女はその質問を投げた。後になって思い返した彼は、この時には見過ごした彼女の振る舞いをいささか奇異に感じるのだが。

「ブラッドは彼等の承諾と、その娘を連れ去る権利を買ったのです。彼は銀貨二万以上の価値がある真珠で支払ったのだそうです」卿はわずかに軽蔑を込めて再び笑った。「大層な値段だ!まったく、連中は皆――単なる盗賊、金銭ずくの極道者です。いや、実の処、これでも御婦人の耳に入れられる程度に和らげた話なのですよ」

 再び卿から目をそらした彼女は、自分の視界がぼやけているのに気づいた。しばしあってから彼女が尋ねた声は、先程までに比べてやや落ち着きを欠いていた。

「そのフランス人は、何故、貴方にそんな話をしたのかしら?その人はキャプテン・ブラッドに恨みでもあるのかしら?」

「他意があってという訳ではありませんよ」ゆっくりと卿は言った。「彼がそれを話したのは……ああ、単にありふれた話、海賊稼業の流儀の例として出したまでの事です」

「ありふれた話!」彼女は言った。「ああ神様!ありふれた話だなんて!」

「あえて言いますが、文明が我々の為に仕立てた外套の下では、我々は誰しも皆、野蛮人なのですよ」卿は言った。「とはいえ、このブラッドというのは、カユザックが語った処によれば結構な才覚のある男だそうです。元は医学士だったとか」

「私の知る限りでは、それは事実です」

「そして彼は多くの国の海軍と陸軍に仕官しました。カユザックが言うには――これについては俄かに信用しかねるのですが――デ・ロイテルの下で戦った事もあるのだとか」

「それも本当です」彼女は言った。そして苦しげに溜息をついた。「カユザックという人が話した事は、充分に正確だったようですわね。ああ!」

「大丈夫ですか?」

 ビショップ嬢は彼を見た。彼女がひどく蒼ざめている事に彼は気づいた。

「かつて尊敬していた人の死を悼むような気持ちです。かつて私は、不運ではあるけれど、立派な紳士として彼を見ていました。それが今は……」

 彼女は言葉を切り、そしてわずかに引きつった微笑を浮かべた。「そんな人の事は忘れてしまうのが一番ね」

 そう言って彼女はすぐに話題を変えた。誰とでも親しくなれるのが彼女の素晴らしい資質であり、旅の最後にあたる短い期間に、二人の間で友情は着実に成長していた。卿にとって、この船旅における最も楽しい段階となっていたはずものを台無しにする事件が起こるまでは。

 それに水を差したのは、ゴナイーヴ湾を横断する船旅の二日目に遭遇したスペインの狂犬提督だった。ロイヤル・メアリー号のキャプテンは、ドン・ミゲルが発砲してきた時ですら動じる事はなかった。水上に高々とそびえる山のごときスペイン外洋船を眺め、その華々しく誇示された旗を視認して、英国人キャプテンは蔑みの念を抱いた。カスティリャ旗をひるがえしたドンが戦いを望むならば、このロイヤル・メアリー号はお望み通り受けて立つだけだと。彼には己の武勇を恃むに充分な力があり、その日をもってドン・ミゲル・デ・エスピノーサの暴虐を終わらせていた可能性もあったが、しかしそれはミラグロッサ号からの砲弾が不運にもロイヤル・メアリー号の船首楼フォアキャッスルに置かれていたわずかな火薬に命中し、戦闘が始まるか始まらないかの段階で彼の船の半分が吹き飛んでいなければの話である。火薬が何故そのような処に置かれていたのかは不明であり、そして落命した勇敢なキャプテンにはそれを知る術は既になかった。

 ロイヤル・メアリー号の乗組員達が狼狽から我に返る前にキャプテンと船員の三分の一が死亡し、損傷した船は針路を反れて無力に漂うという状態の時、スペイン兵達が板を渡して乗り込んできた。

 ビショップ嬢が避難していた船尾後甲板下にあるキャプテンの船室で、彼女を慰め励まそうとしたジュリアン卿が、全ては上手く運ぶでしょうと言葉をかけたのと、ドン・ミゲルがこの船に乗り込んできたのとほぼ同時であった。ジュリアン卿自身は完全に平静とは言い難く、その顔は一目でそれと判るほど青ざめていた。彼が臆病者であったと言うつもりはない。しかし板子一枚下に千尋の海が待ち構える場に閉じ込められているという未経験の要素がある戦いは、陸上にあっては充分に勇敢な人物をも不安にさせていた。幸いにもビショップ嬢は、彼の慰めを必要とするような深刻な状態には見えなかった。確かに彼女も同じく青ざめており、ハシバミ色の目は常より多少は大きく見えたかもしれない。しかし彼女は巧みに自制を保っていた。半ば腰を下ろし、半ばキャプテンのテーブルに寄りかかりながら、彼女は恐怖のあまり足元に這いつくばる混血の侍女をなだめようと努めるだけの勇気を保っていた。

 そして船室の扉が勢いよく開くと、長身で日に焼けた、鷲のような顔のドン・ミゲルその人が大股で入ってきた。ジュリアン卿は彼に対面する為に体ごと振り返り、剣を抜こうとした。

 そのスペイン人はきびきびと、そして単刀直入に言った。

「愚かな振舞いはやめたまえ」彼は直々に「さもなくば貴君は愚か者として命を終えるだろう。この船は沈みつつある」と告げた。

 ドン・ミゲルの背後には三、四名の兵士が控えており、ジュリアン卿は己の置かれた立場を理解した。彼は柄から手を放し、2フィート近い刃は音もなく鞘に戻された。しかしドン・ミゲルは白い歯を見せて白髪まじりの顎鬚の後ろで微笑むと、手を伸ばした。

「よろしければ」彼は言った。

 ジュリアン卿はためらった。彼の視線はビショップ嬢の方に向けられた。「そうなさった方がよろしいわ」と、その落ち着いた若い淑女レディは言い、それを受けて卿は肩をすくめると要求通りの降伏をした。

「では――お二人共――我が艦に参られよ」ドン・ミゲルは彼等を招待すると、大股で歩み去った。

 彼等は当然ながら招きに従った。第一に、スペイン人達は彼等にそれを強制する武力を持っていた。もう一つの理由は、ドン・ミゲルが沈みつつあると告げた船に残る理由は既になかったからである。彼等はビショップ嬢が必要なだけの着替えをまとめ、卿が旅行カバンを持ってくる以上の長居はしなかった。

 おぞましい屠殺場と化したロイヤル・メアリー号の生存者達はスペイン人によって放逐され、その運命を彼等自身の才覚に任された。彼等にはボートが与えられ、乗り切れない者達は泳ぐか溺死するしかなかった。ジュリアン卿とビショップ嬢の命が保障されたのは、ドン・ミゲルが彼等に明白な価値を認めたが故であった。彼は麗々しく自分の船室に彼等を迎え入れた。礼儀正しく、彼は二人に御芳名を伺えましょうやと尋ねた。

 先刻目撃したばかりのおぞましい光景に胸がむかついていたジュリアン卿は、どうにか自制して己の名を告げた。それから彼は傲慢な調子で侵略者に向い、今度は貴君が名乗りたまえと要求した。彼の精神状態は最悪だった。運命が彼を押しやったこの異常かつ困難な立場において、明らかに不名誉な行動をとってはいないものの、名誉となるような行動もしておらぬのは確かであると自覚していた。これは瑣末な事かもしれないが、しかし彼の凡庸な舞台の観客は淑女レディなのである。可能ならば、これからは一層上手く振舞おうと彼は心に決めた。

「私はドン・ミゲル・デ・エスピノーサ」相手は問いに答えた。「カトリック王の海軍の提督である」

 ジュリアン卿は息を呑んだ。スペインがこの騒動を起こした理由がキャプテン・ブラッドのような流浪の冒険者による略奪行為への報復にとするならば、イングランドとしては、ここで応酬せずに済ませられるだろうか?

「ではお答えいただきたい。貴方は何故、忌まわしい海賊パイレートのように振舞っておられるのだろうか?」彼は尋ねた。そして更に言い添えた。「貴方は理解しておられるはずだ、これが如何なる結果に至るか、そして今日の行動によって御自身が厳しく責任を問われるであろう事も。貴方が残忍にも流した血によって、そしてこちらの淑女レディと私に対して行使した暴力によって」

「私はお二方に対して暴力を行使してなどおらん」生殺与奪の権を握る者だけが可能な微笑を浮かべ、提督は言った。「それどころか、私はお二方の生命を救ったのだ……」

「我々の生命を救っただと!」あまりの厚顔な台詞にジュリアン卿は一瞬、絶句した。「ならば貴方が無意味な虐殺によって奪った生命はどうなのだ?主の御名において、この途方もなく大きな犠牲の対価が貴方に支払えるのか」

 ドン・ミゲルの微笑は揺るがなかった。「可能だとも。すべての事をなし得るなり3。差し当たり、貴君の命の対価は貴君自身で支払う事になる訳だが。ビショップ大佐は金満家だ。そして貴君は、閣下ミロード、疑いなく同様に富者だ。貴君の値打ちに吊りあうだけの身代金の額を考えねばな」

「ならば貴様は、単なる忌まわしい殺人者の海賊パイレートに過ぎぬという訳か」卿は激昂した。「それでも貴様は厚顔にも、己をカトリック王の海軍提督と称するつもりか?カトリック王はそれを聞いてなんと言うかな」

 提督は微笑むのをやめた。彼は己の脳を浸食する激怒の一端を明らかにした。「貴様、わかっておらんようだな」彼は言った。「貴様のようなイングランドの異端者の犬に対する扱いはな、単に貴様のようなイングランドの異端者の犬どもめがこの海上でスペイン人を扱ったやり口に倣っているだけだ――地獄から這い出てきた強盗や盗賊の輩め!私には己の名においてそれを行うだけの誠実さがあるぞ――しかし貴様等のような背信の獣めは、貴様等のキャプテン・ブラッドを、貴様等のハグソープを、貴様等のモーガンを送り込んで我々にけしかけておきながら、奴等の行いに対する責任は認めない。ピラト4のように己の手を洗いおる」彼は凄烈に笑った。「スペインにもピラト役を演じさせようではないか。エスコリアルの枢機会議コンセホに英国大使がドン・ミゲル・デ・エスピノーサによる海賊行為について泣き言を並べ立てに行った際に、スペインが私に関する責任を否認してもかまわんだろう」

「キャプテン・ブラッドや貴様が名を挙げた者達は、イングランドの提督ではない!」ジュリアン卿は叫んだ。

「違うと言うのか?それが事実であると、私には如何にしてわかる?スペインには如何にしてわかる?貴様が虚言者ではないと如何にしてわかるのだ、イングランドの異端者よ?」

「提督!」ジュリアン卿の声は苛立ちでかすれ、その目は光った。彼は反射的に、常ならば剣が下げられている筈の場所に手をやった。それから肩をすくめて冷笑した。「なるほど」彼は言った。「常々聞かされていた誉れ高きスペインの流儀について、貴様が実例を示してくれたという訳だ。丸腰の虜囚を侮辱するとは、なんとも勇ましい事だな」

 提督の顔は緋に染まった。彼は殴りつけようと手を半ば上げた。そして恐らくは、侮辱を秘めたその切り返しの言葉そのものによって自制を強いられ、彼は突然にきびすを返し無言で船室を後にした。


  1. ギリシア神話のモイライ(運命の三女神)。 

  2. 原文run amok。マレーシアの文化依存症候群アモックが語源であり、この物語の時代から約100年後の1770年にキャプテン・クックの手記に記録されたのが英語圏での初出。強い屈辱を受けた男性が極度の暴力衝動にとらわれる症例。 

  3. マタイによる福音書19章、もしくはマルコによる福音書10章より。「人にはあたはねど、神はすべての事をなし得るなり。」 

  4. ローマ帝国のユダヤ総督ピラトが圧力に屈してキリストの処刑許可を出した際に、自分に責任がない事を主張するパフォーマンスとして群衆の前で手を洗って見せたという故事。 

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