武の歴史の誤りを糺す

江戸、幕末( 18 / 18 )

犯人捕縛の実際

 

犯人捕縛の実際

 

 

最近テレビがおもしろくない。というより下らない。特に地デジ放送は一体何なのだろう。

こんなのばかりみているとろくなことは無い。

特に、子供達には見せたくないものばかりである。

 

民放が下らないならNHKはどうか。公共放送だから幾分はましなのではないかと思われるむきもあろう。

しかし、これも歴史番組、特に大河ドラマには注意が必要だ。最近のものはその内容も時代考証も実にお粗末である。

これは、ちゃんとした原作もなしにろくな歴史の基礎知識も持たぬ脚本家が現代劇ののりで歴史ドラマを作るからである。

問題なのは、歴史のあるテーマを取り上げて、作家や学者、タレントなどに解説させる歴史検証番組である。

一般の視聴者はこれを真実と信じ込んで見ているようだが、実はこれさえも実にいい加減なものであることはこれまでさんざん言ってきたところである。

ということで、地上デジタル放送はほとんど見たいとも思わない。

 

しかし、もともとテレビで育った年代である。

何かないかと、BS放送を探して見た。こちらの方が遥かにましである。

但し、大ウソの韓流ドラマが今なお幅を利かせているのは気に食わないが、これは見なければよい。

 

BS放送は、過去のドラマの再放送が多いので、昔懐かしい俳優や女優の若かりし頃の姿が見られるのも楽しい。

 

私は時代劇はあまり見ない。

しかし、昔の時代劇の雰囲気は嫌いではない。年のせいもあるのであろう。

 

最近良く見ているものに池波正太郎原作の「鬼平犯科帳」がある。

 

主演は松本幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之介、中村吉右衛門などであるが、丹波哲郎や萬屋錦之介は少々個性が強すぎてうっとおしい。

 

主に見ているのは、初代の松本幸四郎と、その息子の中村吉右衛門である。

脇役も当時の実力派が固めていて結構楽しめる。

しかし、立ち回りや、こまかいところに不満な所もなくは無いが、以前、チャンバラについて詳しく述べたので、立ち回りについてはこれ以上は言わない。

本物の切り合いの描写は、今までの殺陣師で知っている者など誰もいないからだ。

まず、現段階ではあんなものであろう。

 

これは、この鬼平シリーズだけではなく、所謂、捕り物帳もの全般について言えることであるが、捕り物の様子が全く間違っている。

 

その最大の間違いは、捕物の服装である。

 

どのドラマも、同心はせいぜい鉢巻に襷がけ程度の身ごしらえで凶悪犯に立ち向かっている。

又、鬼平の場合は刀を使っている場面もあるが、その他の捕り物帳では十手一本で犯人を捕縛している。

こんな馬鹿なことはない。

巡回中のふいの切り合いならともかく、犯人捕縛に向かう場合はそれなりの準備をしてかかるのが当り前である。

これでは相手が刀や脇差で抵抗した場合、あるいは匕首で懸ってきたばあいでさえも、同心の方も手傷を負い、あるいは最悪の場合、死に至ることもあり得るのだ。

 

昔、何かの本で読んだ覚えがある。

それによると、実際に捕縛にあたる同心は、籠手、脛当てをつけ、鎖帷子を着こみ、額には鉢金をあてて敵の刃を防ぐ。

こうでなければならぬ筈だ。これなら、よほどの事でもない限り、同心が手傷を負うことは無い。

また、映画やドラマではやたらと峰打ちを使うが、これも事実に反する。

刀は峰打ちをするようには出来ていないし、使いにくいものである。

相手も必死である。これがために不覚をとるようなことがあってはならない筈だ。

そのため、同心は、刃引きの刀を使うのである。これなら、犯人を殺すこともなく、せいぜい骨折や打ち身ぐらいで捕えることができる。

 

かねてそう思っていたところ、それを裏付ける記述を見つけた。

 

東京大学史料編纂所教授の山本博文氏著、「江戸のお白州【資料が語る犯科帳の真実】」である。

 

その部分は以下の通り。

 

【 捕物出役の時、奉行は、与力には「検使に行け」と命じ、同心には「十分に働け」と命ずる。

『江戸町奉行事績問答』(佐久間長敬著・南和夫注、東洋書院、1967年)によれば、与力は、火事羽織・野袴・陣笠を着用し、緋房のついた指揮十手を持ち、侍一人・槍持一人・草履取り一人を従える。

一方同心は、鎖帷子・鎖鉢巻・籠手・臑当などを着用し、十手と長脇差を持つ。長脇差は、相手が激しく抵抗した時に使うもので、これで相手の刀を払い落したり、相手を打ったりする。ただし、致命傷を与えないよう、刃は挽いてある。】

 

なお、実際の切り合いでもっとも手傷を負い易いのは両手、両腕であるので、この部分を完全に防備すればかなりの防禦力がある。また、相手が槍や長刀を持ち出してきた場合は、臑を切られることが多いので臑当ても重要である。

 

この籠手、臑当ては、鉄板と鎖で構成された至極頑丈なもので、多くは具足(鎧)の籠手、臑当てを使用した。

 

この様に、鉢巻、襷がけだけの素肌(裸ではない。鎧や防具をつけない状態をいう)で犯人捕縛にあたることはなかったのである。

 

 

 

 

明治以降( 1 / 7 )

 

明治初期の武道界

 

明治になり、文明開化の世になると、武士の身分は廃止され、続いて廃刀令が施行された。武術の基盤であった武士がいなくなり、江戸以来の剣術、柔術などの古流武術はほとんど時代遅れの古臭いものとして顧みられることがなくなった。

その為。入門者が激減し、たちまちそれらの道場主達は生活に困窮していった。

また、剣術にしても、柔術にしても、主に形稽古をやる流派は、一度に多数の門弟を指導することができない。

これで益々生活が苦しくなり、整骨や内職などでかろうじて糊口をしのぐ有様であったという。

 

剣術では、北辰一刀流や鏡心明智流、神道無念流など、主に防具をつけて竹刀で打ち合う稽古法、打ちこみ稽古でであったのでまだましであった。

それでも、直新影流の榊原鍵吉などが中心となり、撃剣興業をやったのである。

これは、今でいう異種格闘技のようなもので、これには当時の錚々たる名人、達人達が名を連ねていた。

このことを見ても、そのころ、如何に武術が衰退し、当時の武術家たちが危機感を抱いていたかわかる。

この剣術の打ち込み稽古をやる流派は、一度に多数の門弟に稽古をつけることが出来る為、営業上非常に有利であったことは前に書いたとおりである。

この打ちこみ稽古は、今の剣道とほとんど変わらない近代的な稽古法であったので、明治になってもその命脈を保ちつづけ、大正になって、流派を超えて大同団結して剣道となるのである。

 

ところが柔術の多くの流派では、旧態依然とした形稽古であった為、弟子の数が減るとたちまち経営難に陥ってしまい、その道場主たちは、他に生活の糧を求めなければならなかった。

形稽古は、マンツーマンで教えるので、一度に多くの弟子をとることができないからである。

このときに登場したのが嘉納治五郎である。

彼は、天神真楊流と起倒流の二流派の柔術を納め、それに独自の工夫を加えて明治15年に講道館を開設し、従来の柔術という呼称をやめて柔道という名前を使った。

今日の柔道の始まりである。

明治以降( 2 / 7 )

近代武道の夜明け・・・柔道

 

近代武道の夜明け・・・柔道

 

 徳川幕府が倒れ、明治の世となり、武士階級が没落すると、それまで武士の表芸とされていた武術各流派は、たちまち衰退していった。

 

そこに登場したのが嘉納治五郎の柔道である。

 

柔道という言葉は昔から柔術各流派で使われていることもあったが、名称として使ったのは嘉納治五郎の講道館柔道が初めである。

 

この明治15年に始められた講道館柔道は、何もないところから突然嘉納が作りだしたものではない。

 

もととなったのは天神真揚流、起倒流などの古流柔術で、これにレスリングの業なども加えられているという説もある。

嘉納の修行時代は東大の学生であった。インテリ中のインテリ、エリート中のエリートである。当然、外国の文献なども読みこなし、遠い外国の技なども研究することができたとしても不思議はない。

 

講道館柔道の画期的なところは、何と言っても、従来の古流柔術の形稽古を廃し、乱取り稽古を採用したことである。

また、危険な当身、関節技、締め技の内、危険なものを除き、安全性の高いものだけを残した。

これにより自由に試合を行えるようになり、多くの他流試合で勝ちを制することができたのである。

また、最大の特長は、この技自体が極めて科学的かつ合理的であったことであろう。

これは、人に説明し門弟を勧誘する場合、実に有利であった。

修行者はこの一つ一つの技の理屈を頭で理解し、充分納得のうえ稽古することができたからである。

 

当時の古流柔術の稽古は、理屈や理論はどうでもよかった。ただ師匠に教えられたとおりに稽古する。つまり、体で覚えなければならなかったから、どうしても完全に習得するまでには時間がかかった。

また、神仏に対する祈祷、真言、手印、座禅などの宗教がかったことや、急所や漢方医学なども含まれていたので、当時の文明開化の世にはとかく胡散臭いもの、古臭いものとして敬遠されがちであった。

 

嘉納の賢明なところは、こういった古流柔術の神秘的なところや、古臭いと思われるところは一切排除し、あくまでも科学的、理論的に技を組み立てていったことである。

そして、マンツーマンでしか教えることができなかった古流の形稽古をやめ、一度に何人でも稽古できる乱取り稽古を採用した。

 

このことは兎角見過ごされ勝ちであるが、極めて重要なことなのである。

一度に大勢の門弟に稽古をつけることができれば、門弟数は飛躍的に伸ばすことができる。

つまり、道場経営だけで十分食べていけるということなのだ。

ということは、整骨や鍼灸、その他の内職に頼らなくても、充分道場経営が成り立つわけである。

 

片や古流の方はそうはいかない。多くの柔術家たちは生活の為に他に職業をもたなければならなかった。

当然、稽古時間も少なくなるし、旧態依然とした形稽古では門弟数も進歩の度合も制限されてくる。

これでは全てにおいて科学的、理論的かつ効率のよい近代的な柔道に敵うわけがない。

 

多くの柔術対講道館柔道の試合において、柔術が柔道に後れをとったのはこういったわけである。

また、古流は最大の武器である当身や締め、関節技などを封じられていたし、慣れない試合である。

それに対し、柔道は試合そのものの乱取り稽古を行っている。つまり、日頃の稽古の通りの試合をやればよかった。

このハンデは今、後世考える以上におおきかったのではなかろうか。

 

今に見るがごとく、設立以来急激に講道館柔道が発展し、現在はオリンピックの教義に選ばれるほど世界中に広まったのは何故か。

それは、その技術体系が極めて合理的、科学的で近代的で理に叶ったものであり、当時の世情にぴったりあったことと、優れた弟子に恵まれたことであろう。

 

姿三四郎のモデルである西郷四郎、小説「姿三四郎」を書いた富田常雄の父である富田常次郎、横山作次郎、山下義韶の四天王である。

 

柔道は明治19年の警視庁武術大会で西郷四郎が戸塚揚心流を破り、警視庁に採用された。

 

こうして嘉納治五郎の講道館柔道は以後順調に発展し、警察や軍隊で採用され、それまで何とか命脈を保ってきた柔術諸流にとって代わったのである。

 

なお、嘉納の習得した古流柔術の形は、古式の形として今に伝えられている。

 

 

 

 

明治以降( 3 / 7 )

 

嘉納治五郎の柔道 ・・・乱捕り稽古について。

 

 

嘉納治五郎の講道館柔道は瞬く間に、旧来の柔術諸流を抑えて警視庁に採用され、近代武道として大きく飛躍していった。

 

その成功の要因のひとつとして、乱捕り稽古をあげた。

しかし、古流の柔術諸流はどうであったのだろう。

 

実は、当時、乱捕り稽古は古流柔術でもかなり行われていた。

 

幕末には、剣術とともに柔術も盛んに行われていた。

最初のころの乱捕り稽古は、形稽古の欠点を補うものであったと思われる。

つまり、形ばかり覚えても、実際に使えるかどうかはわからない。

そこで、ある程度、形を覚えた段階で、それを実際に試合形式で試してみる。

これはかなりの流派で行われていたようだ。

 

ところが、そのころ、剣術は打ち込み稽古が主流となり、その為に流派の垣根が取り払われて盛んに他流試合が行われるようになっていた。

これは、おもに、鉄面、竹具足、竹刀の採用により、安全に試合ができるようになったことが最大の要因である。

 

柔術においても、その頃の剣術、撃剣の隆盛を見て、それに影響されたことは間違いない。

当然、柔術も撃剣の試合と同じように他流試合も行われるようになった。

 

しかし、撃剣は防具と竹刀の採用で、安全に試合をすることができた。

 

ところが、柔術では様子がちがう。

試合でとことんやれば、骨折、脱臼、肉離れ、当て身や締めによる失神は避けてとおれない。

事実、幕末から明治にかけての柔術の試合は、相当荒っぽいものであったようだ。

とにかく、投げ倒されるか締めおとされ、当て落とされるか降参するまで続けられた。

それ故、柔術には必ず活法が付随している。

弟子が試合で締め落とされるか当て身をくらった場合、師匠が出て行ってすかさず活を入れる。

骨折など日常茶飯事であり、時には死人がでることも珍しくなかった。

 

鬼横山と異名をとった講道館四天王の一人、横山作次郎の談話にも、試合に出かけるときには両親に今生の別れを告げて出かけたとある。

私も、昔、師匠から同様の話を聞いた記憶がある。

 

実は、嘉納が学んだ天神真揚流も起倒流も、この乱捕り稽古法を取り入れており、試合も盛んに行われていたようだ。

 

このように、嘉納の柔道の特色である乱捕り稽古は、何にもないところから彼が作りだしたものでも、創案でもなかった。柔道の基礎となった両古流の乱捕り稽古を整理改良し発展させたものであった。

 

実際問題として、古流の形稽古からは直接乱取り稽古や試合は発生しにくいものであった。

何故ならば、形稽古の形は、原則として、相手が仕掛けて来て始めて成立する技なのである。

つまり、敵が、襟や帯を掴んできたとき、突いて来た時、殴りかかってき、或いは首を絞めに来たとき、これに応じて技を掛けて、これを倒す、或いは締め、当て落とす。

このように、双方が相手がかかつてくるのを待っていたのではいつまでたっても試合が成立しない。

故に、乱捕り稽古を採用している流派では、旧来の形とは別に、乱捕り用の技が用意されていたようである。

例えば、天神真揚流では、本来の形稽古用の形の他に、十二種の乱捕業が存在していた。

 

このように、嘉納治五郎は天神真揚流と起倒流の乱捕業をもとに、研究を重ね、現在の柔道を作り出したのである。

 

 

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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