武の歴史の誤りを糺す

明治以降( 3 / 7 )

 

嘉納治五郎の柔道 ・・・乱捕り稽古について。

 

 

嘉納治五郎の講道館柔道は瞬く間に、旧来の柔術諸流を抑えて警視庁に採用され、近代武道として大きく飛躍していった。

 

その成功の要因のひとつとして、乱捕り稽古をあげた。

しかし、古流の柔術諸流はどうであったのだろう。

 

実は、当時、乱捕り稽古は古流柔術でもかなり行われていた。

 

幕末には、剣術とともに柔術も盛んに行われていた。

最初のころの乱捕り稽古は、形稽古の欠点を補うものであったと思われる。

つまり、形ばかり覚えても、実際に使えるかどうかはわからない。

そこで、ある程度、形を覚えた段階で、それを実際に試合形式で試してみる。

これはかなりの流派で行われていたようだ。

 

ところが、そのころ、剣術は打ち込み稽古が主流となり、その為に流派の垣根が取り払われて盛んに他流試合が行われるようになっていた。

これは、おもに、鉄面、竹具足、竹刀の採用により、安全に試合ができるようになったことが最大の要因である。

 

柔術においても、その頃の剣術、撃剣の隆盛を見て、それに影響されたことは間違いない。

当然、柔術も撃剣の試合と同じように他流試合も行われるようになった。

 

しかし、撃剣は防具と竹刀の採用で、安全に試合をすることができた。

 

ところが、柔術では様子がちがう。

試合でとことんやれば、骨折、脱臼、肉離れ、当て身や締めによる失神は避けてとおれない。

事実、幕末から明治にかけての柔術の試合は、相当荒っぽいものであったようだ。

とにかく、投げ倒されるか締めおとされ、当て落とされるか降参するまで続けられた。

それ故、柔術には必ず活法が付随している。

弟子が試合で締め落とされるか当て身をくらった場合、師匠が出て行ってすかさず活を入れる。

骨折など日常茶飯事であり、時には死人がでることも珍しくなかった。

 

鬼横山と異名をとった講道館四天王の一人、横山作次郎の談話にも、試合に出かけるときには両親に今生の別れを告げて出かけたとある。

私も、昔、師匠から同様の話を聞いた記憶がある。

 

実は、嘉納が学んだ天神真揚流も起倒流も、この乱捕り稽古法を取り入れており、試合も盛んに行われていたようだ。

 

このように、嘉納の柔道の特色である乱捕り稽古は、何にもないところから彼が作りだしたものでも、創案でもなかった。柔道の基礎となった両古流の乱捕り稽古を整理改良し発展させたものであった。

 

実際問題として、古流の形稽古からは直接乱取り稽古や試合は発生しにくいものであった。

何故ならば、形稽古の形は、原則として、相手が仕掛けて来て始めて成立する技なのである。

つまり、敵が、襟や帯を掴んできたとき、突いて来た時、殴りかかってき、或いは首を絞めに来たとき、これに応じて技を掛けて、これを倒す、或いは締め、当て落とす。

このように、双方が相手がかかつてくるのを待っていたのではいつまでたっても試合が成立しない。

故に、乱捕り稽古を採用している流派では、旧来の形とは別に、乱捕り用の技が用意されていたようである。

例えば、天神真揚流では、本来の形稽古用の形の他に、十二種の乱捕業が存在していた。

 

このように、嘉納治五郎は天神真揚流と起倒流の乱捕業をもとに、研究を重ね、現在の柔道を作り出したのである。

 

 

 

明治以降( 4 / 7 )

 

柔道の名前。嘉納治五郎の意図

 

 

柔道という名前を嘉納治五郎が使用したのは彼が初めてではない。

 

柔道の名称は江戸期において、ほぼ柔術と同意義で使われていたことがあったようだ。

 

柔術流派ではっきり柔道の名前が使われているのは、「直心流」である。

 

この流派は、陳元贇に教えを受けたとされる福野七郎右衛門の門人、寺田平左衛門より始まる。これを号して「直心流柔道」とした。

 

嘉納の学んだ起倒流は、この寺田平左衛門の弟子、寺田勘右衛門が起倒流と称したものであり、当然、嘉納も起倒流を学んだときに、この柔道の名前の由来を知っていたと思われる。

また、この柔道の名前は幕末のころにはすでに柔術の意で使われることがあったようである。

 

昔、私も、天神真楊流の文書にこの柔道の名が使われていたように記憶している。

 

実は、嘉納治五郎が自分の嘉納流柔術とも称すべきものを柔道としたのは、単に今まで柔術という名前の代わりに使われる事があった柔道という名前を採用したにすぎないのである。

 

嘉納は自分の習得した天神真楊流と起倒流に自分も工夫を加え、新しく作りだした技に、旧態依然とした柔術の名前を付けたくなかったのであろう。

 

そこで、起倒流や、その他の流派でも使われることがあった柔道という名を使ったと思われる。

この事は、嘉納自身が己が工夫した技法への絶対的な自信を表すとともに、古流柔術諸流との差別化を意図したものといえよう。

 

本来、柔術は、元は甲冑組打ちに始まり、徳川の太平期に様々な技に変化して多くの流派が生まれた。

そして、そのれらは徒手空拳にて敵が如何なる武器を持ってしても制圧できる技術を持っているが故、危険な技も多く、死傷者が絶えなかった。

 

そこで、嘉納は、それらの危険な技を排除し、試合に有利な技を工夫して残し、稽古法も従来の形稽古を改めて、主に乱捕り稽古を主体とした。

 

嘉納の頭の中では、そういった、相手を投げ殺し、締め、当て落とし、逆関節を決めるなどの荒々しく危険な技を持っていた古流柔術から脱皮して、競技スポーツとしての柔道を当時の明治の世にアピールしたかったのに違いない。

 

明治は、もはや武士の世ではなく、武士の教養科目である柔術はその意義を失っていた。

 

そして、世は文明開化の時代である。この時代に生きてゆくには、武術である柔術の代わりに、万人に受け入れられる新しい武道が必要とされた。

 

その時代の要求に応じて生み出されたのが講道館柔道である。

 

 

 

 

明治以降( 5 / 7 )

やわら

柔術・・・やわら

 

今、「やわら」といえば殆どの日本人が柔道の事と思っている。

 

しかし、「やわら」は本来、柔術のことであり、おおよその意は相手に従う、または柔らかであることにより勝利を得る術であると嘉納治五郎本人が言っている。

 

よく言われることに「柔よく剛を制す」ということがある。

これは読んで字のごとく、つよいあるいはこわいものを柔軟なものが制するという意味で

決して弱いものが強いものを制するということではない。

これは言葉の矛盾があり、強いものを制すればもはや弱い者ではあり得ないからである。

 

前にも書いたことであるが、「武芸小伝」の記述にある「相手に従うことにより勝利を得る術」は紛れも無く柔術のことである。

「柔術」は他にも、組討、捕手、捕縛、和術とも呼ばれ、「やわら」は、柔、和、俰、拳などの字にもあてられていた。

 

組討は戦国以前の鎧組討の技法から出たものであり、捕手、捕縛は、犯人を捕まえ捕縛する為の技術、和術は読んで字の如く相手の攻撃に逆らわず、和して勝つことを意味している。

柔術には様々な技法が含まれており、十手やなえし、または棒や杖などを使い、あるいは素手で犯罪人を捕まえ、縄をかけて捕縛する技は、当時の警察官の役であった奉行所の役人により使われた。

古流柔術には、これらの技法や縄の掛け方、縛り方なども含まれていたるのである。

 

又、柔、和の字は、柔らかく相手の攻撃に和して勝ちを制する意味である。

これは剛に対する柔であり、決して力には力を持って対処するのではない。

柔術つまりやわらの術なのである。

 

柔よく剛を制するということは、現代の格闘技や柔道を見なれた人にとっては一見不思議な技のように見える。

特に、オリンピック種目にもなった柔道は、体重によってその対戦相手が決められ、ほぼ同じような体格のもの同士が勝負を競う。

従って、小兵が大男を投げ飛ばすことはないし、今の試合を見ていると技というよりほとんど体力勝負のようなところがあり、柔道着を着てやるレスリングと言ってもよい。

 

技にしても力技であるので、体の大きさと体力で勝負が決まってしまう。

だから、体重により試合相手を分けているのである。

つまり、今の柔道は柔道にあらずして剛道とでも称すべきもので、選手はひたすら筋肉トレーニングに励み、力をつけようとする。

 

このような現代の柔道を見ていると、柔よく剛を制することなどまず不可能である。

この体力勝負の柔道しか知らない現代人にとって「柔よく剛を制す」などおよそ理解出来ることではないであろう。

おそらく、そんなことが出来るものかと誰もが考えるに違いない。

 

しかし、このこと、つまり「やわら」の柔よく剛を制すということは、つい明治のころまでは当り前のことであったのである。

柔道の黎明期、姿三四郎のモデルでもある西郷四郎が明治十九年二月、警視庁に於いて戸塚派揚心流の好地園太郎と試合をした時の様子が、西郷と同じ講道館四天王である山下義韶の手記に残されている。

西郷は身長五尺一寸、体重十四貫。これに対し好地は五尺七寸、体重二十三貫と言われていた。身長比18cm、体重差32kgこれでは勝負にならないと誰もが思ったことであろう。

しかし、この手記によると小兵の西郷が始終、大男の好地を圧倒して投げまくった様子が描かれている。

身びいきや後年の話の多少の脚色を差っ引いても、終始、西郷が好地を圧倒して勝ちを修めたことは間違いない。

これはほんの一例であるが、当時は小男が大男を投げ飛ばしたり、小柄な柔術家が大きな相撲取りを投げた話などそう珍しくはなかった。

 

何故なら、柔術とは本来そういうものであるからである。と、そう言ってしまえば身も蓋も無いが。

 

では、何故、ということになる。

 

本来、柔術は戦場の組み討ち技からきている。

戦場において、体の大きさや体重、力などが勝負を決する場合も多かったと思われるが、反面、力だけではどうにもならない場合もあった。

重量に於いても、鎧冑を付け、太刀を穿くと少なくとも20~30kgになる。

もし、体重が70kgとしても実際の重さは90~100kgになり、この重量を体重50kgの当時の平均的な武者が、力技だけで倒すことは至って困難である。

そこで、体格や力には関係なく、敵を組み討ちで倒す様々な技術が考案された。

極めて古い竹内流などにその技法は温存されている。

 

それに続く江戸の太平の世には、甲冑を着けない素肌のやわらとして、更にその技術は、より洗練され、高度なものとなったのである。

 

では、何故、力や体力に劣る小兵の人間が力も体格も勝る大男を制圧できるのか。

 

まず、至極単純なことであるが、敵の弱点を突くということである。

その第一には、鍛えられない場所、目とか金的である。眼つぶしを食らわせ、金的を蹴る。

その他の急所に当て身や蹴りを入れる。

この、当て身や蹴りは空手のように敵を壊すのが目的ではないから薪藁を突いて拳を鍛えることはない。

この場合、正確に急所に当て落とすには力はあまり関係ない。純粋に技術の問題であるから稽古を積めば女子供でもこれはできる。

この当て身や蹴りの稽古は、拳や足を鍛えることが目的ではなく、正確に急所をあて、敵を昏倒させるためのコツを習得するためにやるのである。

 

もうひとつの技は、敵の関節を決め、締め落とすことである。

どんな大男でも、関節は弱点となり、これの逆をとり、押さえつけ、或いは投げることは比較的多くの流派で行われていた。

小手返しや関節技を利用して投げる技を多用するのは、現代では合氣道があるが、おおよそこれに似たものと思って頂ければよろしい。

又、大男を倒すには締めも有効である。

古流柔術には様々な締め技があり、これもうまく決まれば一瞬で締め落とすことができる。

当て身や締めで落とした相手は、そのまま放置するわけにもいかないから活をいれて蘇生させなければいけない。その為に活法も学ぶのである。

 

最後に投げ技である。

これこそ、柔術の醍醐味、やわらの妙と言えるもので、敵の動きに逆らわず、相手の動きに合わせて(合気)、 柔らかく(やわら)制するのである。

例えば、敵がこちらの襟首を掴み押してきた場合、その押されるままに身を引きながら開いて、敵が体勢を崩したときを見計らって投げればどんな敵も投げることができる。

この時、こちらも力で対抗すれば、体力に勝る相手に敵う訳がない。

敵が押して来る力に合わせてこちらも柔軟に受け流し、相手の押して来る力を利用して投げる。

この時、あくまでも体を柔軟に、動きもやわらかなものでなければ、敵の押して来る調子に微妙にうまく合わせることが出来ない。

これが「やわら」の意味である。

 

このように、相手の力を利用して制圧する様々な技が柔術そのものなのであるが、これらの技は極めて高度な技術と熟練を要するので短期間に習得するのは難しい。

 

そして、完璧にこの技術を習得するには、形稽古を繰り返し繰り返し行い、無意識のうちにでもこの技を掛けられるようにならなければならない。

 

多くの柔術流派で共通することは、決して力に頼ってはいけないということである。

力に頼ればどうしてもこの高度な技術の習得が疎かになり、技の未熟さを力で誤魔化すこととなる。

そうすれば、いつまでたってもこのやわらの技術を習得することが出来ない為、「柔よく剛を制す」ことにはならないからである。

 

 

明治以降( 6 / 7 )

武士道について

新渡戸稲造 「武士道」

この著作は、武士道の崇高な倫理観と高い精神性や美質を余すところなく説明されており、西洋の騎士道にも対比できる確固とした武士の行動規範が、我が国にも存在したと主張している。

しかし、その様な武士道という確立した武士の行動規範が、実際に存在したのだろうか。

確かに幕末期、武家政治の黄昏期において、この著作に書かれているような事例は多く存在した。
今年(2013年)、NHKの大河ドラマの舞台になっている戊辰戦争の会津若松城下の戦闘に於いて、白虎隊の自決、中野竹子指揮する娘子隊の涙橋での奮戦、家老西郷頼母の家族の自刃など、この新渡戸稲造の「武士道」を彷彿とする事例は確かにあった。

また、江戸中期の赤穂浪士の吉良邸討ち入りも武士道が存在した証拠であるという人もいるであろう。

しかし、彼の言うように、その当時、武家階級全体を律する確立した武士道なるものが果たして存在したかといえばそうではないだろう。

江戸時代の我が国は、俗にいう三百諸侯による完全な地方分権の政治が行われており、徳川幕府による中央集権体制ではなかった。

それらの大名は個々に領地と領民を持ち、家来も様々であった。

つまり、三百諸侯の領国は様々であり、当然、それぞれの家風は違っていたのである。
また、幕府お膝もとの幕臣、旗本や御家人、およびそれらの家士では更に武士に対する考えが違っていた。

一万石そこそこの、城もなく陣屋しか持たない大名と、加賀の前田、広島の浅野などの大大名家では、その家風も家来の考えも違って当然と言える。
明治維新の立役者となった薩摩と長州でもその家臣の気風は月とすっぽん程違っていた。
薩摩の島津家は尚武の気風著しく、その家臣は俵剽悍無比。恐らく当時の諸侯の兵の内で最も戦闘能力が高く、その戦場における軍法も厳格を極めたものであった。

これに対して長州毛利家はそうではない。
毛利家は関ヶ原以前は九ケ国を領する広大な領国をもっていたが、以後は防長二国に減らされた。
毛利家臣団の多くはその際帰農し、限られた重臣のみが大幅に家録を減らして狭い萩城下について行った。
その為、毛利家臣は元は城の一つも預かろうかというような大身の領主出自の者が多く、その家風は尚武というより、教養人、知識人としての要素のほうが強かったのである。

このように、武より教養や思想の方が重要視されていたため、いち早く尊王攘夷思想に傾倒し、倒幕運動の中心となった。
長州兵が実戦では決して強くなかったことは、馬関戦争や禁門の変などでも、欧米艦隊や薩摩に惨敗を喫したことでもわかる。
戊辰戦争を戦い、官軍の中心となって戦功をあげたのは、毛利家家臣団ではなく、奇兵隊に代表される百姓町人からなる諸隊であった。

また、幕末京都の治安維持に功績をあげた新撰組は、局長の近藤勇をはじめその中核をなしたものは百姓町人、浪人であったのは一般大に良く知られているところである。

このように、後世、武士道と呼ばれた武士の行動規範は、各大名家まちまちであったし、むしろそれは、百姓、町人にまで及んでいたのである。
そしてその当時はこれが武士道であるいう日本全国に共通の確立した認識はなかったといえる。

元禄の赤穂浪士の場合、その前に良く似た浄瑠璃坂の仇討があり、この首謀者奥平源八は罪一等を減じられて伊豆大島に流罪となったが、六年後には恩赦で赦免され、彦根井伊家に召し抱えられた。
また、その他にも他の大名家に仕官が叶った者もいたことから、吉良を襲撃しても死罪にはならず、もしかすると他の大名家に召し抱えられるかも知れないと赤穂浪士達が考えたとしても不思議はない。
勿論、その中心は主君に対する忠義であるが、ただそれだけであれだけの大がかりな襲撃を行ったと考えるのは余りにも一方的な見方である。

また、会津松平家の場合は特別であろう。
この家は格別徳川将軍家に対する忠誠心が強く、また、松平容保が京都守護職として在京していた時、自国の兵や新撰組、京都見廻組などを使い、多くの勤皇志士達を弾圧して彼らの恨みを買っていた。
その為、会津若松を官軍に攻められたとき、復讐の念に燃える薩長の官軍とあくまでも戦う他に道はなかったのである。

もうひとつ。佐賀鍋島家の家士、山本常朝が語り、田代陣基が筆録した「葉隠」の「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」の一文があるが、これもこの部分だけを切り取って全体の意味を説明していない為に誤解されていることが多い。

これは、決して死ぬことを美化しているのでもなければ自決を勧めているわけでもない。
むしろ、「死ぐるい」、つまり死ぬつもりで全てのことを為せといっているのである。

これは、その理想像を鍋島藩祖、鍋島直茂であるとしていることから、家臣である武士に盲目的な忠義や、意味の無い自決をすすめているのではないことがわかる。

また、この「葉隠」そのものが、佐賀鍋島家では禁書扱いとなっており、鍋島家内に於いても認められていなかったのである。

そもそも、江戸の前、戦国期に於いては、今日云われているような、儒教的な武士道は存在しなかった。
この時代は、正に弱肉強食の時代である。
強いものが勝ち、弱きは滅ぶ。人を騙すも当り前、騙された者が悪い。どんな手を使っても勝てばよい。
人の命など鳥の羽根ほどの重さも無い。自分の得にならなければ幾度となく主を代えて当り前、何の恥じるところもない。
まさに毛利元就のいう「これほど下り果てたり世」であった。

ここには後世云うところの盲目的な忠誠心を重んじる儒教的武士の価値観など欠片もみられない。ただ己が生きる為の強さや狡猾さのみが求められたのである。
この様な強さや武勇偏重の武士の価値観は江戸時代初期まで続いた。

江戸時代になり、元和年間以降、朱子学によって武士の行動則を定義しようとする動きがあったが、これとて決して日本全体の武士の規範を表したものではない。
この山鹿素行らの主張は、前述の山本常朝も葉隠のなかで批判しており、けっして全国の武家に受け入れられてはいなかった。

各大名家や幕臣諸家では、それぞれが家訓として自分の家の家士を律しており、その中に儒教の道徳を取り入れていたものもあったという程度である。

この山鹿素行のいう儒教的な武士の道徳律が、決して武士道として全国の武士に認知されていなかったことは、幕末、山岡鉄舟が、「中古よりあった仏教と神道、儒教を合わせた武士の行動律を武士道と名付ける」といい、自分が初めて武士道と名付けたといっていることからも推測される。

このように、実際に武士が存在した江戸時代には、山岡鉄舟の言うように、全国的に認知された武士道なるものはなかったのである。
ただ、それぞれの儒学者や武士自身が、それぞれの考えや価値観によって武士の行うべき様々な価値観や道徳を武士道と言っていたにすぎない。

それを、何故、新渡戸稲造は、武士階級が消滅した後の明治32年になってこの著書を書いたのか。

そのきっかけは、ベルギーの法学大家、ド・ラヴレー氏に「あなたのお国の学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と聞かれたことによる。

このとき、新渡戸が「ありません」と答えると、「宗教なし! どうして道徳教育を授けるのですか」との問いに答えることができなかった。
その後、彼は思索を重ね、この問いの答えが武士道であるとの結論に達したのである。
そして、この著作の直接の端緒は、彼の妻がかくかくの思想もしくは風習が日本にあまねく行われているのはいかなる理由であるかと、しばしば質問したことなのである。
このド・ラヴレー氏、ならびに彼の妻に満足なる答えを与えようと試みた結果がこの著作であるという。

この著作は、新渡戸が病気療養中、アメリカ滞在中に書いたもので、全文英文で書かれ、アメリカで出版された。
翌年の明治33年に日本でも出版されたが、英文で書かれていたために余り多くの日本人の読むところとはならなかったと思われる。

この日本語訳は明治41年に桜井鷗村によりなされたが、このとき初めて我が国民に武士道なる言葉が認知せられ、従来、この言葉は使われてもその意味するところはさまざまであり、その価値観もいろいろと混乱していたものがはっきり定義されたのである。

この武士道という言葉の影響は以外に大きく、明治後期に発足した大日本武徳会は、その所属する武術、すなわち柔術、剣術、弓術などを、大正初年に柔道、剣道、弓道としたことは、以前にも述べたとおりである。
この術から道に代えた際、この武士道に書かれているような精神性まで持ち込んだために、この道という字が付けば、あたかも精神的、道徳的にも高い境地に至ることができるとの錯覚を国民大衆に与える結果となった。

もともと、新渡戸が、この著作「武士道」を書いたきっかけは、外国人の学者に、日本の学校には宗教教育がなくて、どのようにして子供達に道徳を教えるのかと聞かれたことであったはずだ。

新渡戸は、この回答は武士道であると言っているのであるが、ほんとうにそうであろうか。

既に失われた武士階級の道徳、規範である武士道をひっぱりだすまでもなく、明治の我が国には、学童、学生の守るべき道徳があった。

それは、明治天皇の教育勅語である。
日本国民はかくあるべきという道徳は、はっきりとこの教育勅語に書かれているし、当時の子供達はこれを暗唱していたはずである。
また、天皇陛下は最高位の神官であることから、これは宗教教育であるともいえる。

学校での教育勅語の他に、親からは厳しい躾を受け、旦那寺の僧侶や神社の神主からは、儒教、仏教、神道による道徳を教えられていたはずで、それらは今現在我々が考える以上に日々の生活に密着したものであった。
その点では、欧米諸国よりむしろ日本のほうが進んでいたともいえるのではなかろうか。
これがド・ラヴレェー氏の質問に対する答えである。

では、なぜ、新渡戸はこのことを言わず、武士道を引っ張り出してきたのであろうか。
これは、明らかに、ド・ラヴレー氏の問いの答えになっていない。

ここで注意しなければいけないことは、この新渡戸稲造はキリスト教の信者であったということである。
彼にとって、異教である仏教、儒教、および神道などはとうてい受け入れられないものであった。
キリスト教信者である新渡戸にとって、異教であるこれらの日本の伝統宗教は邪教以外のなにものでもなく、神道の最高位にある天皇陛下の教育勅語も触れたくないものであったことは容易に想像できる。

そこで、宗教色のない「武士道」という概念にたどり着いたというわけであろう。

ところが、彼の生まれた幕末以来、この日本全国に普遍的に存在する「武士道」という観念はなかった。
そこで、江戸期に全国的に存在した様々な武士の思想、価値観、風習などを寄せ集めて、これが武士道であると主張したのである。

この著作を著しているとき、彼の頭の中にはなにがあったのか。
それは、西洋の騎士道であった。
彼の頭には常に騎士道というものがあり、それとの比較のうえで武士道を説明している。

新渡戸の言いたかったことは、日本にも、西洋の騎士道に比すべき精神的、道徳的に極めて高い境地にある武士道が存在し、それは死さえも超越するほどの崇高なものであったということである。

この著作は、英文で書かれ、アメリカで出版されたことから、その目的は、アメリカ人に、我が日本には騎士道にも比すべき素晴らしい武士道が存在するということを知らしめることだった。
つまり、この本は、武士道をアメリカ人に宣伝する為に書かれたものなのである。
その為に、決して嘘ではないものの、極端な誇張や粉飾が見られる。

この大げさな表現はこの武士道の宣伝とういう観点から見ると、決して非難されることではなく、むしろ、この程度の誇張は止むを得ないことであろう。

この本が発行された明治32年は日清戦争の4年後である。
極東の小国日本が眠れる獅子と言われた清に大勝した。
欧米人は、何か特別な理由があるに違いないと考えた。
そこにこの本が出版されたのである。

さらにその後、当時最強と言われたロシアにも日本が勝ったことにより、欧米人に、日本に武士道があったからこそはるかに強力な清、ロシア両国にも勝てたのだということを納得させたのである。

当時、欧米人は日本に対して殆ど知識がなかった。そこに、我が国の武士道という騎士道にもひけを取らぬ武人文化が存在することを世界に向けて宣伝した功績は極めて大きいといわねばならない。

このように、この著作は、一種のプロパガンダであるともいえる。
この本が、外国で読まれ、武士道に対する理解が深まることは大いに結構なことである。

しかし、明治41年に和訳されたことにより、この新渡戸の「武士道」は逆輸入されることになった。

日本人のおかしなところは、外国で評判となり人気がでると、それを無条件で称賛し、無批判で受け入れることであろう。

この国民性は今も明治の世も変わらないが、この著作が逆輸入されることにより、ろくに内容を検証することなしに盲目的に受け入れてしまった。

かくして新渡戸稲造の「武士道」は、今現在も、多くの学者や知識人にその正否の検証すらされず信奉されている。
前に述べた如く、新渡戸のいう完成された武士道は、江戸時代にはまだ存在しなかったということをいう人間はあまりいない。

誤解無きように言っておくが、私は、決して新渡戸を批判しているわけでも、武士道を誤りだというつもりはない。
彼が英文で書き、アメリカで出版して武士道を欧米人の間に広く認知せしめたことは大いに是とするところである。
この点では新渡戸稲造の功績は極めて大きい。

問題は日本語訳が出版された後の国内での扱われかたであろう。
本来、外国人向けに、誇張して書かれたものを、何の検証もなくそのまま受け入れてしまった。

その結果、後世の人達に、新渡戸の書いた武士道そのままが、武家階級全体に、普遍的に存在したかのような間違った認識を与えることとなった。

このことは、あくまでも後世の人達の責任であり、新渡戸の預かり知らぬところである。

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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