武の歴史の誤りを糺す

平安、鎌倉時代( 1 / 6 )

日本の甲冑

日本の鎧について。

 

人のブログを読んでいたら、今の人たちは、我が国の鎧について大きな誤解があることに気がついた。

何処で読みかじったのか知らないが、日本の鎧は、皮でできているので弱いと思いこんでいる人が多いことに気がついた。また、皮だから容易に日本刀で切れるとも。

しかし、実は、日本の鎧は極めて堅牢にできていた。
確かに、平安時代の大鎧はの構成要素である札は牛の皮で出来ていたが、これは皮だけでできているということではなく、鉄の札と交互に犬の皮で横に連結して、横に長い板を作り、これを上下に糸や皮で威して構成されていた。
この最小の単位を小札と呼んだ。
この小札は長さ5センチ、幅は古くは3センチもあった。これは、時代が下るに従って細くなる。

恐らく、この小札が皮でできていた(鉄小札もあったのは説明したとおりである。)のを何かの本でよんで、皮だから弱いと思いこんでいた人もいたことであろう。

しかし、実は、この煉皮の小札は、他所の国の鎧のように、ただ一枚の牛皮を裁断して作ったものではない。一枚の牛皮をそのまま使ったものの数倍の強度と防御力を持つ。

簡単に説明すると、膠を溶かした水に皮を浸し、芯まで膠水が浸通ると、堅木の板の上に置いて鉄の槌で打ち、薄く延ばす。これを数枚重ねて打てば、着いて一枚の板ができる。これに石灰をまぶして乾かせばたやすく矢も通すことのない堅牢無比の甲板ができあがる。
これを上記の大きさに裁断して小札を作るのである。

こうして作った煉皮の小札と鉄小札を横に交互に重ねて一続きの細長い板をつくり、これに黒漆で塗り固め、さらに堅牢なものとなる。

煉皮の小札だけで作られた鎧が如何に信頼されていたかを物語るものに、源氏の家宝の八領の鎧がある。

その内に膝丸という鎧があった。

これは、牛皮のうち、最も堅牢であると言われた膝の皮を牛千頭から取って作ったとされている。

源平合戦の頃、日本弓の威力は他の国の短弓の数倍の威力があった。その強弓を十分防ぐほどの防御力がこの煉皮の小札の鎧にあったということなのである。

これは後世の胴丸や腹巻、腹当にまで用いられ、革製の兜もあった。これを煉鉢の兜という。

源平合戦の時代から戦国動乱の時代まで、我が国の鎧は世界でも第一級の防御力を誇っていたのである。

 


 

平安、鎌倉時代( 2 / 6 )

初期の鎧

初期の鎧

 

大鎧が日本独特のものとして登場したのは平安中期頃である。
それ以前は、古墳時代以来の桂甲、短甲、と奈良時代に大量に作られた綿襖甲がある。

桂甲は細長い札を横綴じとした細長い札板を数段上から下へ威し下げて構成されている。
これが体を一周巡り、前面で引き合わせる。
また、これを前後に打ち掛け、肩の部分で連結した物を裲襠式桂甲という。

短甲は、長方形、あるいは三角形の甲板を紐で連結したり、鋲で留めたりして構成されている。

綿襖甲は、製作が簡単であるため、奈良時代に大量に製作され、諸国の兵器庫に収められた。
綿は刀槍に対する防御性も高く、防寒性もあることから、外套状に作り、内側か外側に甲板を綴じ付けてある。最近の韓流歴史ドラマで、朝鮮の武将が来ているあれである。
また、「蒙古襲来絵詞」で高麗軍の着ているものがこの綿襖甲である。

大鎧、又は式正の鎧、きせながと呼ばれる日本固有の鎧は、上記の桂甲の発達したものと言われている。この鎧は騎射戦を目的としている為に、外国の鎧にはない特徴を備えている。

まず、騎射の為に楯は持たない。その楯の代わりに大袖が付き、これで前方から来る矢を防ぐことができる。
胴は前から左脇を巡り後ろまでを防御するが、右脇が空いている。この部分に草摺の着いた脇楯(わいだて)を付けて右脇を防御するのである。

草摺は前後左右、四つに別れ、裾広がりになっている。
これは、馬に乗った時、腰から膝までを、丁度箱状になって覆う形となる。

兜は、数枚の鉄板を鋲で留めて半球状に成形した鉢を主体部分とする。
この鋲の頭を大きくして装飾と補強を兼ねたものを星といい、この星の大きなものを厳星の兜といった。

この兜の鉢の前面に眉庇(まびさし)を付けて補強し、両横と後ろは四、5段に小札板を威し下げ、その両端をひねり返して、吹返(ふきかえし)とした。

兜の鉢の天辺には、大きな穴が空いていた。これを天辺の穴という。
これは、揉烏帽子を被ったままで兜を被り、この穴から烏帽子の先と髻を出すための穴である。

当時の兜は、受け張りがなく、直接頭に鉢の部分が当たったので、烏帽子を被った上から兜を被ったのである。

この様に、大鎧は、騎射を想定とした鎧であり、上級武士の為のものであった。

しかし、当時から、騎馬武者だけて戦争したわけではない。これには、家の子、郎党もつき従った。

その中に、当然歩卒もいたわけで、彼らの為には、足捌きがよいように、草摺が多数分割された簡便な鎧、胴丸や腹巻が作られた。

この、胴丸、腹巻きは通常、兜は被らず、大袖は付けない。

平治物語絵巻に、兜を被った胴丸姿の随兵が描かれているが、これは、主人の兜を被っているのであって、この随兵のものではない。

また、源平合戦の頃から、鎧の小札を横に縫って連結した物を、漆で固めるようになり、より堅牢さが増した。
それ以前の、小札を犬の皮糸で横縫いをしただけのものは、小札と小札の間が動いたため、揺るぎ札と呼ばれた。

この平安末期から鎌倉初期にかけての戦は、主に弓矢の戦いであったので、その弓箭を防ぐ為に特化した鎧が作られたのである。

平安、鎌倉時代( 3 / 6 )

鎧と弓矢

鎧と弓矢

 

平安後期に大鎧の形式が確立したことと、弓矢の威力が格段に進歩したことは、お互い無縁ではない。

矛盾の逸話にもあるとおり、この二者は相反する性格をもつ。

鎧の防御力が高くなれば、弓の方もさらに工夫を加えて威力を増そうとする。

弓矢の貫徹力が向上すれば、それを防ぐために鎧の方もさらに改良を重ねる。

実は、この平安後期に、弓の威力が増大している。

それまでは、単に、弾性の強い樹木を皮を剥いで造った木弓であった。一本の木から造る弓は、その威力を増すために勢い長大なものとならざるを得ない。日本の弓が、二メートル以上もの長さがあるのはその為である。中世では七尺五寸(2m27.3cm)が標準であった。

十二世紀頃に成立したのは、従来の木弓の外側に竹を膠で貼り付け、その上から糸でぎっちり巻き締めて上から漆をかける。さらに、その上に籐などを巻く。これを伏竹弓といい、軍記ものによく出てくる重籐の弓などはこの一種である。

このような木と竹の合成弓を合せ弓という。

又、当時の弓の強さを著すものに「二人張」「三人張」といった何人張りという言葉がある。

これは、何人かかってこの弓に弦を掛けるかということで、「三人張」は二人でこの弓を押し撓め、残りの一人が弦をかけるのである。

弦を掛けていない状態では、弓は外側に大きく湾曲している。それを二人がかりで反対方向に撓めて弦を張るのだからこれは相当な力がいる作業である。

このように、弓の威力が増したことにより、より防御力の強い鎧が求められたわけで、これが大鎧の防御力向上の大きな動機付けとなっている。

一般の鎧の小札は二目札が普通であるが、なかには三目札のものもあり、これだと、小札が三重に重なることになり、防御力は5割方増すことになる。

こうして、弓矢と鎧は、平安後期、源平争覇期に完成をみることとなる。

 


 

平安、鎌倉時代( 4 / 6 )

日本の武士が楯を持って戦わなかった理由

何故、日本の武士は楯を持って戦わなかったか。

 

世界では、戦闘に際し、楯を左手に持って敵の剣や槍を防ぎながら、こちらは剣や槍で相手を攻撃するのが大勢を占めていた。

その最も威力を発揮したものが古代ギリシャの重装歩兵(ホプライト)であろう。
彼らは、直径1mの円形の楯を持ち、横一列に並んで密集方陣を組んで戦った。武器は直径2~3cm、長さ2~3mの木の柄の両端に金属製の穂先が付いたものだった。
これは、投げるのではなく、敵を突き刺すもので、これを右手だけで操作した。左手はホプロンと呼ばれる丸楯を左肩と共に支えていた。
身につける鎧は、青銅製のクレストというたてがみ状の飾りの付いた兜、釣り鐘状の胸当て、臑当てという重装備であった。
この重装備のおかげでペルシャの大軍を撃退し、ギリシャ文化の黄金時代を迎えることとなる。
この場合、この重さ10kg近くある大きな楯は、敵の殆どの攻撃を跳ね返すことができた。

また、日本の武士とよく比較される西洋の騎士も、楯を左手に持って、敵の攻撃を防いでいる。
騎士の戦法は、左手に楯を持ち、長大な鍔の付いた槍を小脇に抱え、馬を疾駆させながらその勢いで相手を槍で突き倒すのである。この場合も、楯は相手の槍を跳ね返すために極めて重要な役割をになっている。

ハリウッド製の歴史活劇を見てわかるとおり、西洋や中東では、殆どの兵士は、楯と剣あるいは槍を持って戦っている。これが世界の趨勢であった。

ところが、我が国では、平安時代以降、殆ど手楯は使用されなかった。

これは何故なのか。

それは、武器は何を使ったかによって決まってくる。

西洋は、殆どが剣や槍を右手で操作して戦った。そのため左手で楯を持つことができた。

中世初期において、西洋の騎士も中東の兵士も、鎧は主に鎖鎧である。

鎖を編んだ鎧は、剣の斬撃には強いが、矢や槍の刺突にはからっきし弱かった。鋭い穂先が鎖の編み目を簡単に突き破るからである。

 それを防ぐ為に硬く詰め物をした胴着を来ていたが、それでも十分な防御とはいえなかった。唯一、有効な防御が可能なのは楯であったのである。

では、日本ではどうであったのか。

日本の武士は、本質は騎馬弓兵である。全てが矢戦の為に作られた。

弓を射るには、両手が必要である。楯を持つことはできない。馬上ではなおさらである。

木製の楯はあったが、とても大きくて手に持って戦うことなどできなかった。

その故、敵の矢を防ぐ為に大鎧では大袖が発達した。つまり、左手に楯を持ち、敵の矢を防ぐ代わりに、肩に袖を付け、それで敵の矢を防いだのである。

そして、矢戦の為には、鎧も鎖鎧ではなく、矢に強い小札鎧が発達したのである。

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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