武の歴史の誤りを糺す

古墳時代( 4 / 4 )

眉庇付冑・大陸様式の冑

 

 

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構造は、衝角付冑とは比較にならぬほど複雑であり、製作には高度の技術と手間がかかるものである。

また、実用一点張りの衝角付冑と違い、極めて装飾性の強いもので、実戦用というよりむしろ権威を示す為のもののようである。

 

中には、金銅製の部品を多用した非常に煌びやかなものもあり、これは防禦の面では、全て鉄製のものより大幅に劣る。

半円形の大きな眉庇は様々な模様の透かし模様があり、金銅製の物もあった。

 

この眉庇付冑は、本来は桂甲に付随するものであった。

先に述べたように、この桂甲は、倭の軍隊が朝鮮半島に進出を頻繁に繰り返すようになってから出現したもので、その結果、眉庇付冑も、桂甲とともに出現したと考えられる。

 

桂甲は主に騎馬戦に向いた鎧であるので、当然それに付随する眉庇付冑も騎馬の戦闘を想定して作られている。

 

桂甲と眉庇付冑の出現する前、およそ4世紀末から5世紀初めには、倭の軍勢は朝鮮半島に攻め込み、百済と新羅を従え、高句麗と戦っている(好太王碑)。

 

このとき、好太王碑文には、倭を大敗させたとあるが、その真偽はともかくとして、倭の軍隊が帯方地方にまで侵入したことは確かであろう。

 

高句麗は騎馬戦を得意とし、その鎧も騎馬戦に適した小札鎧を纏っていた。

また、乗馬を敵の矢や刃から守る為に馬に鉄面を着け、馬鎧で胴体を保護していたことは、当時の古墳の壁画から知ることができる。

 

では、高句麗の軍勢全体がこの様な完全武装の重装騎馬軍団であったのだろうか。

おそらくそうではあるまい。小札鎧はその製作に手間暇がかかり、極めて高価なものである。

この様な高価な鎧で自分自身と乗馬の身を包むということは、よほどの権力と財力を持った高位の人物でなければ到底無理である。

この壁画に描かれている騎馬武人は、この古墳の主のような高句麗の特別な地位にあった人物なのであろう。恐らく、この様な重装騎兵はその地方の豪族の一族ぐらいで、その他はもっと軽武装の軽騎兵であった筈である。

 

好太王の率いた軍勢は、少数の重装騎馬兵とその他の軽武装の軽騎兵、そして大部分は簡単な武装の歩兵であった。これは、何所の軍隊にも共通した編成である。

 

我国の軍隊はこの様な敵と戦った。そのとき、勝ったか負けたかはわからない。

 

好太王碑は好太王の戦功を顕彰したものである。従って戦争には勝ったとしか書かない。

まさか負けたのを勝ったとは書くまいが、勝敗が五分五分であっても大勝として記録に残すものである。

そこから推察できることは、倭と高句麗は激しい戦闘を交えたことぐらいであろう。

 

その時、倭の軍勢の心に深く刻み込まれたことは、この少数の重装騎兵の突撃であったはずである。

体全体を包み込む小札鎧、馬にまで鉄面を被せ、馬鎧で矢や矛の攻撃を防ぐ。これには主に歩兵戦で戦っていた倭の歩兵には歯がたたなかったのではないか。

 

古代の戦闘は、後世の騎兵の突撃とは違う。同じ重装甲の大勢の重騎兵が集団で突撃することはしない。

指揮官ほか少数の重装備の騎兵が大勢の軽装の騎兵を率いて突撃する。

 

矢や敵の刃のたたない重装甲の重騎兵がまず敵陣に衝撃を与え、敵の第一陣を突破して蹂躙し、その後に軽騎兵が戦果を拡大する。

つまり、当時の重騎兵は現代の戦車の役割を果たしていたのである。

 

その時の衝撃が歩兵主体の倭の軍兵にとって如何に大きかったか。その結果が桂甲と眉庇付冑の登場となるのではないか。

 

多くの学者は、この桂甲と眉庇付冑は朝鮮半島からのものという。これが定説となっている。

しかし、これは形が似ていることと、小札鎧であることから安易に結論づけられたもので、各部分の構成について詳細に比較検討した結果ではない。

 

過去、朝鮮半島から全ての高度な文化がもたらされたということが定説となっている。

中国の高い文化が朝鮮半島を経由して我が国にもたらされたということが何の疑問も無く受け入れられていた。

朝鮮半島は当時、未開の野蛮人であった我が国より遥かに高い文明を持ち、後世の日本の文化は全て朝鮮半島から来たものであるとの思いこみが我が国の学者にあった。

 

確かに地勢学的に見ても、中国から半島伝いに文化が日本に伝わったということは誰もが考えることであろう。

しかし、最近、多くの考古学的発見により、この考えは否定されてきている。

 

では、桂甲と眉庇付冑はどうか。

 

確かに、きっかけは高句麗の重装騎馬兵の着けていた小札鎧や兜であろう。

 

しかし、その構造は、朝鮮半島のものとは根本的に異なる。

 

桂甲もその製作手法は短甲からのものであるし、眉庇付冑も衝角付冑の製作手法を踏襲している。

 

つまり、桂甲は、小札をを使った鎧ではあるが、前で引き合わせる短甲の形式を継承しているし、眉庇付冑も、衝角付冑の伏板の頂面の丸い部分だけを残し、前の杓子の柄の形の部分を無くしたもので、腰巻と胴巻と伏板の間にいろいろな形の地板を革紐や鋲で留めた構造は衝角付冑と同じである。

 

特に、その初期に於いて、この地板の部分は短甲や衝角付冑と同じ三角板を革で綴ったものも存在するし、この部分を多くの細長い短冊型の鉄片で腰巻と胴巻、胴巻と伏板を別々に鋲止めして半球状の鉢を形成しているものもある。

これは、数枚の鉄板を打ち出して半球状の冑鉢を形成する朝鮮半島の冑とは根本的に違う我が国の冑の特徴である。

 

また、眉庇付冑の野球帽のような形は、一見、大陸の冑と同じようにみえるが、こうして詳細に比べてみると、全くこの両者は別物であることがわかる。

 

さらに、その特徴である眉庇は極めて大型で、そこには金鍍金や金銅で細かい透かし模様や点描が施された実に美麗なものもある。

また、腰巻や胴巻にも金鍍金や金銅で飾られ、点描の模様の施されたものもあることから、これは単に実戦の為だけに用いられたものではないようである。

 

我が国では、戦闘の主体はあくまでも歩兵である。騎馬兵はごく少数の極めて位の高い人達に限られていた。

 

この五世紀は、倭国は急速に力を伸ばし、朝鮮半島にまで力を伸ばしていたのであるが、高句麗のような本格的な重装騎兵は存在しなかった。

 

そしてその戦闘法も騎兵の集団戦などではなく、あくまでも個人の武勇に頼る個人戦が主体であり、このような桂甲で全身をよろい、眉庇付冑を被った重装甲の騎馬の武人は、実際に戦闘に加わるのではなく、軍団を指揮する高位の将軍であったと考えられる。

それ故、美麗な甲冑に身を固め、その権威と存在を誇示したのではないか。

 

そう考えると、何故、わざわざ防禦力に劣る金銅を、重要な冑鉢や眉庇に用いたのかということも理解できるし、或いは、この眉庇付冑は、儀仗用に作られた可能性もある。

 

この様な豪華な甲冑は、その地方の首長クラスの古墳から出土している。

このことは何を意味するかというと、その地方の首長クラス、古墳を造営できるほどの地位と財力がなければ、これほど高価で手間のかかる甲冑を持つことは不可能であったということなのである。

そして、副葬品として墳墓に大切に埋葬されたということは、この鎧が如何にこの古墳の主にとって大切なものであったかを雄弁に物語っている。

この華麗な眉庇付冑は、五世紀中葉に姿を現し、六世紀初めには姿を消す。

それ以降は、桂甲に衝角付冑が付随して古墳から出土するようになる。

 

この古墳に副葬された甲冑は、その墓の主の愛用したものであるから、その製作年代は、この古墳の埋葬年代から数十年遡ることになる。

ということはこの眉庇付冑は、五世紀にはいって間もなく作られ初め、五世紀後半にはその製作は中止されたのであろう。

 

では眉庇付冑は、何故、このたかだか五十年余りの期間しか製作されなかったのであろうか。

それは確たる証拠が存在しないのでわからない。

 

しかし、その期間は盛んに朝鮮半島に出兵し、新羅と頻繁に交戦している。

 

この時期と眉庇付冑の製作期間が一致する。つまり、この華麗な冑は、新羅への侵攻が止んだ六世紀には姿を消しているのである。

そして、国外への遠征が止んだと同時に、華美な眉庇付冑は、実用的な衝角付冑にとって代わられることになった。

ということは、この冑は、倭兵を率いて新羅討伐に遠征した各地方の有力豪族のものであったのではなかろうか。

 

こう考えるとこの眉庇付冑が何のために製作され、使用されたのかということがうまく説明できるのではあるまいか。

 

 

 

平安、鎌倉時代( 1 / 6 )

日本の甲冑

日本の鎧について。

 

人のブログを読んでいたら、今の人たちは、我が国の鎧について大きな誤解があることに気がついた。

何処で読みかじったのか知らないが、日本の鎧は、皮でできているので弱いと思いこんでいる人が多いことに気がついた。また、皮だから容易に日本刀で切れるとも。

しかし、実は、日本の鎧は極めて堅牢にできていた。
確かに、平安時代の大鎧はの構成要素である札は牛の皮で出来ていたが、これは皮だけでできているということではなく、鉄の札と交互に犬の皮で横に連結して、横に長い板を作り、これを上下に糸や皮で威して構成されていた。
この最小の単位を小札と呼んだ。
この小札は長さ5センチ、幅は古くは3センチもあった。これは、時代が下るに従って細くなる。

恐らく、この小札が皮でできていた(鉄小札もあったのは説明したとおりである。)のを何かの本でよんで、皮だから弱いと思いこんでいた人もいたことであろう。

しかし、実は、この煉皮の小札は、他所の国の鎧のように、ただ一枚の牛皮を裁断して作ったものではない。一枚の牛皮をそのまま使ったものの数倍の強度と防御力を持つ。

簡単に説明すると、膠を溶かした水に皮を浸し、芯まで膠水が浸通ると、堅木の板の上に置いて鉄の槌で打ち、薄く延ばす。これを数枚重ねて打てば、着いて一枚の板ができる。これに石灰をまぶして乾かせばたやすく矢も通すことのない堅牢無比の甲板ができあがる。
これを上記の大きさに裁断して小札を作るのである。

こうして作った煉皮の小札と鉄小札を横に交互に重ねて一続きの細長い板をつくり、これに黒漆で塗り固め、さらに堅牢なものとなる。

煉皮の小札だけで作られた鎧が如何に信頼されていたかを物語るものに、源氏の家宝の八領の鎧がある。

その内に膝丸という鎧があった。

これは、牛皮のうち、最も堅牢であると言われた膝の皮を牛千頭から取って作ったとされている。

源平合戦の頃、日本弓の威力は他の国の短弓の数倍の威力があった。その強弓を十分防ぐほどの防御力がこの煉皮の小札の鎧にあったということなのである。

これは後世の胴丸や腹巻、腹当にまで用いられ、革製の兜もあった。これを煉鉢の兜という。

源平合戦の時代から戦国動乱の時代まで、我が国の鎧は世界でも第一級の防御力を誇っていたのである。

 


 

平安、鎌倉時代( 2 / 6 )

初期の鎧

初期の鎧

 

大鎧が日本独特のものとして登場したのは平安中期頃である。
それ以前は、古墳時代以来の桂甲、短甲、と奈良時代に大量に作られた綿襖甲がある。

桂甲は細長い札を横綴じとした細長い札板を数段上から下へ威し下げて構成されている。
これが体を一周巡り、前面で引き合わせる。
また、これを前後に打ち掛け、肩の部分で連結した物を裲襠式桂甲という。

短甲は、長方形、あるいは三角形の甲板を紐で連結したり、鋲で留めたりして構成されている。

綿襖甲は、製作が簡単であるため、奈良時代に大量に製作され、諸国の兵器庫に収められた。
綿は刀槍に対する防御性も高く、防寒性もあることから、外套状に作り、内側か外側に甲板を綴じ付けてある。最近の韓流歴史ドラマで、朝鮮の武将が来ているあれである。
また、「蒙古襲来絵詞」で高麗軍の着ているものがこの綿襖甲である。

大鎧、又は式正の鎧、きせながと呼ばれる日本固有の鎧は、上記の桂甲の発達したものと言われている。この鎧は騎射戦を目的としている為に、外国の鎧にはない特徴を備えている。

まず、騎射の為に楯は持たない。その楯の代わりに大袖が付き、これで前方から来る矢を防ぐことができる。
胴は前から左脇を巡り後ろまでを防御するが、右脇が空いている。この部分に草摺の着いた脇楯(わいだて)を付けて右脇を防御するのである。

草摺は前後左右、四つに別れ、裾広がりになっている。
これは、馬に乗った時、腰から膝までを、丁度箱状になって覆う形となる。

兜は、数枚の鉄板を鋲で留めて半球状に成形した鉢を主体部分とする。
この鋲の頭を大きくして装飾と補強を兼ねたものを星といい、この星の大きなものを厳星の兜といった。

この兜の鉢の前面に眉庇(まびさし)を付けて補強し、両横と後ろは四、5段に小札板を威し下げ、その両端をひねり返して、吹返(ふきかえし)とした。

兜の鉢の天辺には、大きな穴が空いていた。これを天辺の穴という。
これは、揉烏帽子を被ったままで兜を被り、この穴から烏帽子の先と髻を出すための穴である。

当時の兜は、受け張りがなく、直接頭に鉢の部分が当たったので、烏帽子を被った上から兜を被ったのである。

この様に、大鎧は、騎射を想定とした鎧であり、上級武士の為のものであった。

しかし、当時から、騎馬武者だけて戦争したわけではない。これには、家の子、郎党もつき従った。

その中に、当然歩卒もいたわけで、彼らの為には、足捌きがよいように、草摺が多数分割された簡便な鎧、胴丸や腹巻が作られた。

この、胴丸、腹巻きは通常、兜は被らず、大袖は付けない。

平治物語絵巻に、兜を被った胴丸姿の随兵が描かれているが、これは、主人の兜を被っているのであって、この随兵のものではない。

また、源平合戦の頃から、鎧の小札を横に縫って連結した物を、漆で固めるようになり、より堅牢さが増した。
それ以前の、小札を犬の皮糸で横縫いをしただけのものは、小札と小札の間が動いたため、揺るぎ札と呼ばれた。

この平安末期から鎌倉初期にかけての戦は、主に弓矢の戦いであったので、その弓箭を防ぐ為に特化した鎧が作られたのである。

平安、鎌倉時代( 3 / 6 )

鎧と弓矢

鎧と弓矢

 

平安後期に大鎧の形式が確立したことと、弓矢の威力が格段に進歩したことは、お互い無縁ではない。

矛盾の逸話にもあるとおり、この二者は相反する性格をもつ。

鎧の防御力が高くなれば、弓の方もさらに工夫を加えて威力を増そうとする。

弓矢の貫徹力が向上すれば、それを防ぐために鎧の方もさらに改良を重ねる。

実は、この平安後期に、弓の威力が増大している。

それまでは、単に、弾性の強い樹木を皮を剥いで造った木弓であった。一本の木から造る弓は、その威力を増すために勢い長大なものとならざるを得ない。日本の弓が、二メートル以上もの長さがあるのはその為である。中世では七尺五寸(2m27.3cm)が標準であった。

十二世紀頃に成立したのは、従来の木弓の外側に竹を膠で貼り付け、その上から糸でぎっちり巻き締めて上から漆をかける。さらに、その上に籐などを巻く。これを伏竹弓といい、軍記ものによく出てくる重籐の弓などはこの一種である。

このような木と竹の合成弓を合せ弓という。

又、当時の弓の強さを著すものに「二人張」「三人張」といった何人張りという言葉がある。

これは、何人かかってこの弓に弦を掛けるかということで、「三人張」は二人でこの弓を押し撓め、残りの一人が弦をかけるのである。

弦を掛けていない状態では、弓は外側に大きく湾曲している。それを二人がかりで反対方向に撓めて弦を張るのだからこれは相当な力がいる作業である。

このように、弓の威力が増したことにより、より防御力の強い鎧が求められたわけで、これが大鎧の防御力向上の大きな動機付けとなっている。

一般の鎧の小札は二目札が普通であるが、なかには三目札のものもあり、これだと、小札が三重に重なることになり、防御力は5割方増すことになる。

こうして、弓矢と鎧は、平安後期、源平争覇期に完成をみることとなる。

 


 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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