武の歴史の誤りを糺す

平安、鎌倉時代( 2 / 6 )

初期の鎧

初期の鎧

 

大鎧が日本独特のものとして登場したのは平安中期頃である。
それ以前は、古墳時代以来の桂甲、短甲、と奈良時代に大量に作られた綿襖甲がある。

桂甲は細長い札を横綴じとした細長い札板を数段上から下へ威し下げて構成されている。
これが体を一周巡り、前面で引き合わせる。
また、これを前後に打ち掛け、肩の部分で連結した物を裲襠式桂甲という。

短甲は、長方形、あるいは三角形の甲板を紐で連結したり、鋲で留めたりして構成されている。

綿襖甲は、製作が簡単であるため、奈良時代に大量に製作され、諸国の兵器庫に収められた。
綿は刀槍に対する防御性も高く、防寒性もあることから、外套状に作り、内側か外側に甲板を綴じ付けてある。最近の韓流歴史ドラマで、朝鮮の武将が来ているあれである。
また、「蒙古襲来絵詞」で高麗軍の着ているものがこの綿襖甲である。

大鎧、又は式正の鎧、きせながと呼ばれる日本固有の鎧は、上記の桂甲の発達したものと言われている。この鎧は騎射戦を目的としている為に、外国の鎧にはない特徴を備えている。

まず、騎射の為に楯は持たない。その楯の代わりに大袖が付き、これで前方から来る矢を防ぐことができる。
胴は前から左脇を巡り後ろまでを防御するが、右脇が空いている。この部分に草摺の着いた脇楯(わいだて)を付けて右脇を防御するのである。

草摺は前後左右、四つに別れ、裾広がりになっている。
これは、馬に乗った時、腰から膝までを、丁度箱状になって覆う形となる。

兜は、数枚の鉄板を鋲で留めて半球状に成形した鉢を主体部分とする。
この鋲の頭を大きくして装飾と補強を兼ねたものを星といい、この星の大きなものを厳星の兜といった。

この兜の鉢の前面に眉庇(まびさし)を付けて補強し、両横と後ろは四、5段に小札板を威し下げ、その両端をひねり返して、吹返(ふきかえし)とした。

兜の鉢の天辺には、大きな穴が空いていた。これを天辺の穴という。
これは、揉烏帽子を被ったままで兜を被り、この穴から烏帽子の先と髻を出すための穴である。

当時の兜は、受け張りがなく、直接頭に鉢の部分が当たったので、烏帽子を被った上から兜を被ったのである。

この様に、大鎧は、騎射を想定とした鎧であり、上級武士の為のものであった。

しかし、当時から、騎馬武者だけて戦争したわけではない。これには、家の子、郎党もつき従った。

その中に、当然歩卒もいたわけで、彼らの為には、足捌きがよいように、草摺が多数分割された簡便な鎧、胴丸や腹巻が作られた。

この、胴丸、腹巻きは通常、兜は被らず、大袖は付けない。

平治物語絵巻に、兜を被った胴丸姿の随兵が描かれているが、これは、主人の兜を被っているのであって、この随兵のものではない。

また、源平合戦の頃から、鎧の小札を横に縫って連結した物を、漆で固めるようになり、より堅牢さが増した。
それ以前の、小札を犬の皮糸で横縫いをしただけのものは、小札と小札の間が動いたため、揺るぎ札と呼ばれた。

この平安末期から鎌倉初期にかけての戦は、主に弓矢の戦いであったので、その弓箭を防ぐ為に特化した鎧が作られたのである。

平安、鎌倉時代( 3 / 6 )

鎧と弓矢

鎧と弓矢

 

平安後期に大鎧の形式が確立したことと、弓矢の威力が格段に進歩したことは、お互い無縁ではない。

矛盾の逸話にもあるとおり、この二者は相反する性格をもつ。

鎧の防御力が高くなれば、弓の方もさらに工夫を加えて威力を増そうとする。

弓矢の貫徹力が向上すれば、それを防ぐために鎧の方もさらに改良を重ねる。

実は、この平安後期に、弓の威力が増大している。

それまでは、単に、弾性の強い樹木を皮を剥いで造った木弓であった。一本の木から造る弓は、その威力を増すために勢い長大なものとならざるを得ない。日本の弓が、二メートル以上もの長さがあるのはその為である。中世では七尺五寸(2m27.3cm)が標準であった。

十二世紀頃に成立したのは、従来の木弓の外側に竹を膠で貼り付け、その上から糸でぎっちり巻き締めて上から漆をかける。さらに、その上に籐などを巻く。これを伏竹弓といい、軍記ものによく出てくる重籐の弓などはこの一種である。

このような木と竹の合成弓を合せ弓という。

又、当時の弓の強さを著すものに「二人張」「三人張」といった何人張りという言葉がある。

これは、何人かかってこの弓に弦を掛けるかということで、「三人張」は二人でこの弓を押し撓め、残りの一人が弦をかけるのである。

弦を掛けていない状態では、弓は外側に大きく湾曲している。それを二人がかりで反対方向に撓めて弦を張るのだからこれは相当な力がいる作業である。

このように、弓の威力が増したことにより、より防御力の強い鎧が求められたわけで、これが大鎧の防御力向上の大きな動機付けとなっている。

一般の鎧の小札は二目札が普通であるが、なかには三目札のものもあり、これだと、小札が三重に重なることになり、防御力は5割方増すことになる。

こうして、弓矢と鎧は、平安後期、源平争覇期に完成をみることとなる。

 


 

平安、鎌倉時代( 4 / 6 )

日本の武士が楯を持って戦わなかった理由

何故、日本の武士は楯を持って戦わなかったか。

 

世界では、戦闘に際し、楯を左手に持って敵の剣や槍を防ぎながら、こちらは剣や槍で相手を攻撃するのが大勢を占めていた。

その最も威力を発揮したものが古代ギリシャの重装歩兵(ホプライト)であろう。
彼らは、直径1mの円形の楯を持ち、横一列に並んで密集方陣を組んで戦った。武器は直径2~3cm、長さ2~3mの木の柄の両端に金属製の穂先が付いたものだった。
これは、投げるのではなく、敵を突き刺すもので、これを右手だけで操作した。左手はホプロンと呼ばれる丸楯を左肩と共に支えていた。
身につける鎧は、青銅製のクレストというたてがみ状の飾りの付いた兜、釣り鐘状の胸当て、臑当てという重装備であった。
この重装備のおかげでペルシャの大軍を撃退し、ギリシャ文化の黄金時代を迎えることとなる。
この場合、この重さ10kg近くある大きな楯は、敵の殆どの攻撃を跳ね返すことができた。

また、日本の武士とよく比較される西洋の騎士も、楯を左手に持って、敵の攻撃を防いでいる。
騎士の戦法は、左手に楯を持ち、長大な鍔の付いた槍を小脇に抱え、馬を疾駆させながらその勢いで相手を槍で突き倒すのである。この場合も、楯は相手の槍を跳ね返すために極めて重要な役割をになっている。

ハリウッド製の歴史活劇を見てわかるとおり、西洋や中東では、殆どの兵士は、楯と剣あるいは槍を持って戦っている。これが世界の趨勢であった。

ところが、我が国では、平安時代以降、殆ど手楯は使用されなかった。

これは何故なのか。

それは、武器は何を使ったかによって決まってくる。

西洋は、殆どが剣や槍を右手で操作して戦った。そのため左手で楯を持つことができた。

中世初期において、西洋の騎士も中東の兵士も、鎧は主に鎖鎧である。

鎖を編んだ鎧は、剣の斬撃には強いが、矢や槍の刺突にはからっきし弱かった。鋭い穂先が鎖の編み目を簡単に突き破るからである。

 それを防ぐ為に硬く詰め物をした胴着を来ていたが、それでも十分な防御とはいえなかった。唯一、有効な防御が可能なのは楯であったのである。

では、日本ではどうであったのか。

日本の武士は、本質は騎馬弓兵である。全てが矢戦の為に作られた。

弓を射るには、両手が必要である。楯を持つことはできない。馬上ではなおさらである。

木製の楯はあったが、とても大きくて手に持って戦うことなどできなかった。

その故、敵の矢を防ぐ為に大鎧では大袖が発達した。つまり、左手に楯を持ち、敵の矢を防ぐ代わりに、肩に袖を付け、それで敵の矢を防いだのである。

そして、矢戦の為には、鎧も鎖鎧ではなく、矢に強い小札鎧が発達したのである。

平安、鎌倉時代( 5 / 6 )

初期の日本刀

初期の日本刀の使い方

 

日本刀が完成される前、およそ平安期中期、毛抜型大刀というものがある。形状や作りはその後の大刀と変わらないが、大きく違う所は、柄が刀身と同じ共鉄で作られ、その形状が毛抜きの形に似ているから、この名がある。
形は柄の部分から湾曲し、この頃から湾刀化がはじまる。この大刀は中央の衞府官の大刀として採用されている。

その後、今で言う日本刀としての形が完成する。刀身は付け根の部分から湾曲し中程から先端にかけてはほぼ直線で、切っ先は細く鋭利である。
また、作りは鎬造りであるところは前の毛抜型大刀と同じであるが、最大の相違は、茎を木製の柄に差し込み、目釘で固定するようになっている点であろう。

この初期の太刀は、その形からして、どの様な使い方がされたかわかる。
まず、注目すべきは、その柄の長さと形状である。

この頃の太刀は、あまり柄の部分は長くない。しかもそりがある。

これは、何を意味するかというと、この太刀は片手で打つようにできている。勿論、両手に持って戦うこともできるが、柄自体に反りがあるということから、本来、片手で持って打つために作られていたということである。

このことを何より雄弁に物語るのは、切っ先が細かったという点である。
切っ先を細くすれば、それだけ片手で振ったとき遠心力が小さくなり、扱いが楽なものとなる。

そして、この太刀は、当時完成をみた大鎧を着た騎馬武者の腰に佩かれた事を考えると、当然、馬上からの斬撃に使われたものであろう。

馬上からの片手打ちに湾刀が向いていることは、騎馬民族の刀が、ほぼ例外なく湾刀であることを見てもわかる。

ただ、重い湾刀を片手で打ち下ろすということは、後世の戦国期のように、打刀を両手で持って、精妙無比な刀法などできるはずもなかった。

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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