日本の鎧は小札で構成されていることは以前説明したとおりである。
特に大鎧(きせながともいう)は、本来、矢に対する防禦を目的として作られている為、弓箭に対する防禦力は他国の鎧の比ではない。
日本の矢は長くて重い。それを2mを超す長大な弓で飛ばすのである。
破壊力は他国の弓矢を大きく凌駕している。
その強い貫徹力を持った矢を防ぐのである。
平安期の鎧は鉄札もあったが大部分は牛皮で出来ていた。
普通に考えると、牛皮で矢が防げるのだろうかという疑問が湧くであろう。
勿論、牛皮を裁断して小札を作り、漆を塗っただけではこの強靭さは得られない。
ユーチューブの動画で、牛皮で小札を作り、それに漆を塗っただけで矢を防ぐことが出来るという誤った説明をしていた。
確かに牛皮にはある程度矢を防ぐ能力はあるし、それに漆を塗ることでさらにその防禦力は増すであろう。
しかし、それだけでは当時の和弓から射込まれる矢を防ぐことはできない。
何故なら、ただなめしただけの何ら手を加えない牛皮では、漆を塗ったぐらいでは鋭い鏃に簡単に突き破られてしまう。
これには肝心なもの、皮を堅くする工程が抜けているのである。
その肝心なものとは一体何か。
それは膠(ニカワ)なのである。
膠で皮を堅くする工程が不可欠であり、これなくしてはまともな皮小札は存在し得ない。
以前説明したが、牛皮を膠の溶液に浸けて中まで膠が浸み透ったところで取り出し、鉄の槌で打ち延ばす。これを数枚重ねて打てば着いて一枚の板が出来上がる。
これを裁断して小札を作る。
このように、膠をしみ込ませた牛皮を槌で打つ事により皮の繊維をより緻密なものとし、それを膠で固めて数枚を接着する。
つまり、この工程が無ければ、唯の牛皮に漆を塗っただけでは鎧としての防禦力は得られない。
ただの牛の皮に漆を塗っただけの小札で作った鎧など、平安、鎌倉期の武者ならいとも容易く射抜いたはずだ。
つまり、日本の鎧をかくも堅牢無比なものと成し得たものは、実は膠の力なのである。
今年(2014年)2月にある民放で放映されたものに興味深い実験があった。
アメリカのウイスコンシン大学の教授が古代ギリシャの麻の鎧、リネンキュラッサと呼ばれるものの防禦力の実験である。
もともと、古代ギリシャの鎧は青銅製の極めて重量のあるものであった。
これに、青銅製の冑を被り、青銅の臑当てをつけ、直径1メートルもある丸楯を持ち、密集陣を組んで戦った。
あの有名なマラトンの戦いでペルシャの大軍を破ったのは、この堅牢無比の青銅の鎧の防禦力のおかげである。
しかし、この青銅の鎧は如何にいっても重い。
この重い鎧を着て、10kgもある楯を持って徒歩で突進するのである。
如何に体力があろうともこれは耐えがたい苦痛であったはずだ。
そこで、この最も重い胴鎧の軽量化が図られた。
胴体は大きな丸楯で守られているので、この部分は多少防禦力を犠牲にしても軽いほうがよい。
そうして工夫されたのが麻(リネン)で作られた鎧、リネンキュラッサである。
従来、この鎧は、着ないよりはましという程度にしか評価されていなかった。
しかし、鎧である以上、ある程度の効果はあるのではないか。
敵の武器が防げなければ鎧として役にたたない。
果たして、「着ないよりまし」といった程度の、形だけの鎧など、生死を分ける戦場に着てゆくものだろうか。
大いに疑問に思っていた。
そう思っていたところ、この放送を見てやはりそうかと合点がいった次第である。
説明によると、麻の布を兎の皮からとった接着剤で十二枚ほどはり重ねて鎧をつくる。
これを弓で射ると、鏃は裏まで突き抜けてはいない。
これでリネンキュラッサの鎧としての能力が証明されたことになる。
もとより、単に麻布を12枚重ねただけでは駄目である。
秘密はこの「兎の皮からとった接着材」である。
これは西洋で一般的に使われている兎膠。つまりまぎれもなく膠なのである。
日本の鎧は牛皮を膠で堅固に固めたもの。リネンキュラッサは麻の繊維を膠で固めたもの。
動物性と植物性の違いはあるが何れも緻密な繊維を二カワで強固に接着したものである。
つまり、日本の鎧、古代ギリシャのリネンキュラッサ、何れも膠の存在無しにはその優れた防禦力を得ることはできなかったのである。
このように、膠なくして我が国の甲冑は存在し得なかったことが御理解頂けたと思う。
現在、マスコミやネット上でも余りにいい加減な情報が氾濫している。
それをいちいち目くじらをたてて訂正するつもりはないが、この様な大切なことは気がついたそばから検証し、間違いがあれば訂正を加えてゆくつもりである。
七人の侍
黒沢明監督の時代劇映画作品は、映画作品として素晴らしいものであることは万人の認めるところであろう。特に、海外の映画関係者に与えた影響ははかりしれない。
黒沢作品は、作品自体があまりにも迫力があり、現実感があるため、視聴者は完全にスクリーンの中に入りこみ、感情移入して、あたかも実在の出来事の様に感じることだろう。
実は、それこそ、黒沢監督の余人には真似の出来ない真骨頂なのだが。
しかし、これが歴史の事実を忠実に再現しているかと言えば、実はそうではない。
黒沢監督の一連の時代劇作品は、壮大な虚構世界であり、実に巨大なスケールの創作ドラマなのだ。
例えば、かの名作、「七人の侍」である。
これは、山間の小さな貧しい農村が、たびたび野武士に襲撃される為、困り果てた挙げ句に、腕の立つ侍を雇うことになった。
そして、その探してきた侍達は村人を訓練して、村を要塞化し、襲ってきた野武士を撃退する。
この前提は、戦国時代の農民は、極めて弱い存在であり、自分では何の自衛力も持たず、いざ山賊に襲われると、一方的になすがままという状態であったということである。
この基となった戦国時代の農村についての歴史観は、この映画の製作当時は至極当然とされてきた、支配者と被支配者という図式、所謂階級闘争的史観が元になっている。
つまり、武士、領主階級が一方的に隷属民である農民を搾取し、農民は、何ら抵抗力を持たない哀れな存在であるというものである。
しかし、これは、どう考えてもおかしな話である。
人間は、当然のことながら自衞本能をもっている。これは、武士であろうが、農民であろうが何ら変わるものではない。
誰も死にたくはなく、命の糧である食料や衣類をとられ、家を焼かれれば当然抵抗するに違いない。
略奪者や殺人者に対して、必死で抵抗することは現代も変わらない。
百姓といえど、自分を守るべき武器を持ち、その扱いにも習熟していたと考える方が自然であろう。
また、当時の農村は、必ず、領主が居た筈だ。
その領主達が、我が領民が野武士に略奪されるのをみすみす指をくわえて見ているとは思えない。
そう思いながらこの映画を見ていた。
そして、最近の研究では、やはりその通りであったことがはっきりしてきたのである。
当時の農村は、必ず土豪がいて相当な武力を有していた。そして、その土豪達は、地方の有力者たる国人領主の被官となり、庇護下にあった。
その見返りとして、当然の義務として税を納め、軍役を請け負い、いざ合戦ともなれば家の子郎党を引き連れ、配下の百姓から人を選って軍夫として戦場に出かけていったのである。
つまり、「七人の侍」は、外から呼ばれるまでもなく村内に存在し、村人の中には合戦の経験の豊かな男達が大勢いたということなのだ。
当時は、隣の村や、所領の境界の村では、水や土地、牧草地を巡って諍いが頻発していた。
その騒動が起こる度に村人が徒党を組み、村同志の合戦をやっていた。
また、飢饉などで食料が乏しくなると、他所の村に進入して略奪行為に及ぶこともあったという。
ここから見えてくることは、「七人の侍」で描かれた軟弱な百姓や村人は誤りであり、他所の村に略奪に出かける程の力を持った、逞しい百姓の実像が浮かび上がってくる。
つまり、この映画の敵役、略奪者たる野武士の姿も、当時の農民のもう片方の一面であった。
もう一つ。
これは未だに映画や歴史ドラマの戦闘シーンにある最大の間違いについてである。
どの戦国ドラマも、刀で鎧武者を切り倒すシーンばかりである。
こんな馬鹿なことはない。
刀で鎧が切れるなら、なにも二十キロもある思い鎧兜を着けて戦うことはない。
当時の鎧は実に堅牢に出来ていた。
鎧を通すことが出来るものは、一点に力を集中できる鋭い切っ先を持った槍や弓矢に限られていた。
平安、鎌倉期までは主に弓、室町戦国期に槍が武士の表芸とされたのはそういった理由による。
だから、刀で鎧武者と渡り合う場合は、まともに鎧で覆われた部分を打つことはしない。
鎧の外れや隙間、裏小手などを切る。又は、無防備な首筋に切っ先をすり込む。
この様に、極めて精緻な刀使いをしなければ、現在の剣道のように胴を抜いたり、面を打ったりでは敵に致命傷は与えられない。
ただ、よく使われていた方法は、まず、敵の兜を打ち落として無防備になった頭を次の太刀で打ち割るということも行われていたようだ。
この場合、刀の刃はぼろぼろになり下手をすると折れたり曲がったりする。
軍記物に、曲がった刀を足で踏んで直しながら戦ったという記述もある。
鎧武者に対して、最も効果があったのは前述の通り槍であった。
余り知られていないが、槍は、突き刺して抜くとき、ただまっすぐに抜くのではない。これでは槍の穂先の幅の分しか敵に傷を与えられない。
これは、極めて古い槍の流派に伝わる素突きの方法であるが、槍を突きこんで抜く時、切っ先をピンと跳ね上げる。
こうすると、敵は、内蔵を大きくえぐられ、致命傷を受ける。
こういった事実は、現在、殆ど言われることがない。
歴史ドラマや時代劇を見るときは、以上の事実を知った上で、黒沢作品やその他の歴史ドラマは壮大な虚構、エンターテイメントであると割り切ったうえで大いに楽しんでいただきたい。
影武者
戦国時代の解釈は、時代と共に、変わってきている。また、新しい史料や遺跡の発掘などで、今までの固定概念がひっくり返ってしまうことも少なくない。
黒沢作品の「影武者」は、武田信玄の影武者という虚構を、壮大なスケールで描いた大作である。
映像的には文句の付けようがない。そして、様式美に徹した騎馬武者のシーンも、当時の実態とは大きくかけ離れて居るとはいえ、さすがと思わせるものがある。
また、時代考証も、相当凝っていて、登場人物の来ている甲冑などよく研究されているし、登場人物の姿や顔立ちも、当時の肖像画に実によく似ている。
本田平八郎など、あまりにも後世残る肖像画に似ているので思わず笑ってしまった。
この映画が公開されたのが昭和55年のことである。
当時、武田信玄麾下の武士団の特徴は騎馬隊であり、織田信長は鉄砲隊だとされていた。
そして長篠の合戦は、武田騎馬隊が馬防柵と織田の鉄砲三千丁の三段打ちに負けた新旧交代劇の典型として誰も疑うものはいなかった。
しかし、これはどう考えてもおかしい。例えば、鉄砲の発射速度は決まっている。鉄砲三千丁を三段に分けて、千丁ずつ撃っても単位時間あたりの発射彈数は変わらない。つまり、敵に浴びせる鉄砲玉は同じ、倒す敵の数は変わらないということなのだ。
こんな簡単な、誰が考えてもわかることが、何故、多くの専門家たちが気がつかなかったのだろう。
これが先入観の恐ろしさではないか。
また、武田の騎馬隊そのものが納得いかなかった。
当時の軍制は、前に書いたとおり、中心は、各郷村部に蟠踞していた土豪たちであり、彼らが家の子郎党を引き連れて国人領主のもとに集まり、それを戦国大名が率いて戦ったのだ。
だから、騎馬の上級武士だけを集めて騎馬隊を編成することなど当時の常識にはないことであった。武田の騎馬隊など、だれが言い出したのかしらないが、おおよそ昔の講談か講釈師がでっちあげたものだろうと思っていた。
ところが、近年、今まで正しいとされてきたことが間違いであることがはっきりしてきた。
特に、鈴木眞哉氏などが力説していることだが、実は、信長の鉄砲は三千丁もなかった。整然と鉄砲を三段に撃ち分けることは不可能であるし、危険ですらあると言うこと。
私が疑問を持っていた武田騎馬隊の存在も否定されている。
長篠の合戦の実態は馬防柵や鉄砲の三段打ちによる武田騎馬軍団の殲滅などという単純なものではなく、長篠城を含むスケールの大きな付城や陣城による攻城戦の色彩のつよいものであった。
そして、実際に勝負を決めたものは、単なる人数の寡多によるものであった。
これが長篠の合戦の真相である。
以上、のことを念頭に置いた上で、黒沢明の壮大な虚構の世界を楽しんでいただきたい。
乱
「影武者」の次に黒沢明が世に出した戦国絵巻が「乱」である。
この映画は、前作と違い、戦国時代を舞台にしているが、その中身はシェークスピアの「リア王」である。
イギリスの戯曲をそのまま当てはめたのだから、その設定のは相当無理があり、前作とは違って舞台演劇をそのまま映画でやったような不自然さが残る。
黒沢明という監督はよほど騎馬隊に思い入れがあるようで、この映画でも騎馬武者が駆け回るシーンばかりが目についた。
まえに書いたように、我が国の戦国時代には騎馬隊なるものは存在しなかった。
鈴木眞哉氏によると、当時の日本馬の平均は130cm前後、中世ヨーロッパの馬が155cmあったのに対し、一回りも二回りも小さかった。分類ではポニーに分けられるらしいが、当時の武者達はこの小さな馬に乗って戦っていた。
鈴木氏によると、この小さな馬では、重装備の鎧武者達を乗せて戦場を疾駆し、敵に突撃することは到底無理だと言っている。
ただ、鈴木氏のいう様に、全く鎧武者を乗せて突撃しなかったかといえばそうともいいきれまい。
なぜなら、平安、鎌倉期では、戦国期より遙に重い鎧を着け、馬で疾駆しながら弓を打ち合っていた。これを馳せ組みという。
柄は小さくとも、当時の日本馬は、重い鎧を着た武者を乗せて馳せ違い弓矢で打ち合うだけの強靱さをもっていた筈だ。
また、小さかったのは馬だけではない。それに乗る人間も小さかった。
戦国時代の甲冑を見ると、子供が着たのかと思うほど小さい。当時の平均身長は155cmを少し越える程度である。
問題はその身の丈もさることながら、体型は長胴短足である。
現代の競馬では、大きなサラブレッドに小さな騎手が蠅が止まったようにして走る。これは唯走るためだけなので何の問題もない。
しかし、戦闘は全く違う。鞍壺に立ち上がり、組み討ちや弓を射る。この短い足でしっかり下半身を安定させなければならない。
それには、サラブレッドのような大きな馬は向かない。
日本人の小さな体にあった小型の馬のほうが使い勝手がよい。
当時の日本馬が小さくとも強靱な体力を持ち、気性が荒い。これは我が馬を敵の馬に体当たりさせるのに適している。
この馬当てということも源平合戦以来、よく行われていたらしい。
以上から考えるに、騎馬武者が騎馬隊を組んで突撃することは無かったが、個別に、薙刀や槍を得物として騎乗して戦うこともあったのではないか。
この場合、家の子郎党等、徒武者が周りを固め、主人を守り、共に戦ったことは鎌倉の頃と変わらない。
いずれにせよ「影武者」「乱」のような、騎馬隊が駆け回るようなシーンは無かった。