武の歴史の誤りを糺す

戦国時代( 3 / 11 )

合戦の実像。黒沢映画について。

 

「影武者」の次に黒沢明が世に出した戦国絵巻が「乱」である。

この映画は、前作と違い、戦国時代を舞台にしているが、その中身はシェークスピアの「リア王」である。
イギリスの戯曲をそのまま当てはめたのだから、その設定のは相当無理があり、前作とは違って舞台演劇をそのまま映画でやったような不自然さが残る。

黒沢明という監督はよほど騎馬隊に思い入れがあるようで、この映画でも騎馬武者が駆け回るシーンばかりが目についた。

まえに書いたように、我が国の戦国時代には騎馬隊なるものは存在しなかった。

鈴木眞哉氏によると、当時の日本馬の平均は130cm前後、中世ヨーロッパの馬が155cmあったのに対し、一回りも二回りも小さかった。分類ではポニーに分けられるらしいが、当時の武者達はこの小さな馬に乗って戦っていた。

鈴木氏によると、この小さな馬では、重装備の鎧武者達を乗せて戦場を疾駆し、敵に突撃することは到底無理だと言っている。

ただ、鈴木氏のいう様に、全く鎧武者を乗せて突撃しなかったかといえばそうともいいきれまい。

なぜなら、平安、鎌倉期では、戦国期より遙に重い鎧を着け、馬で疾駆しながら弓を打ち合っていた。これを馳せ組みという。
柄は小さくとも、当時の日本馬は、重い鎧を着た武者を乗せて馳せ違い弓矢で打ち合うだけの強靱さをもっていた筈だ。

また、小さかったのは馬だけではない。それに乗る人間も小さかった。
戦国時代の甲冑を見ると、子供が着たのかと思うほど小さい。当時の平均身長は155cmを少し越える程度である。
問題はその身の丈もさることながら、体型は長胴短足である。

現代の競馬では、大きなサラブレッドに小さな騎手が蠅が止まったようにして走る。これは唯走るためだけなので何の問題もない。
しかし、戦闘は全く違う。鞍壺に立ち上がり、組み討ちや弓を射る。この短い足でしっかり下半身を安定させなければならない。
それには、サラブレッドのような大きな馬は向かない。
日本人の小さな体にあった小型の馬のほうが使い勝手がよい。
当時の日本馬が小さくとも強靱な体力を持ち、気性が荒い。これは我が馬を敵の馬に体当たりさせるのに適している。
この馬当てということも源平合戦以来、よく行われていたらしい。

以上から考えるに、騎馬武者が騎馬隊を組んで突撃することは無かったが、個別に、薙刀や槍を得物として騎乗して戦うこともあったのではないか。
この場合、家の子郎党等、徒武者が周りを固め、主人を守り、共に戦ったことは鎌倉の頃と変わらない。

いずれにせよ「影武者」「乱」のような、騎馬隊が駆け回るようなシーンは無かった。

 

 

 

戦国時代( 4 / 11 )

戦国時代の剣法

戦国時代の剣法

 

戦国時代、戦場では、専ら、甲冑の隙間を狙う、所謂、介者剣法を使った。

これは、現在の剣道とは全く別物であった。

殆どの日本人が信じている、「宮本武蔵や柳生十兵衛が剣道を使っていた」ということは全くの誤りである。

身構え、足の運び、刀の使い方、全てが違う。

確かに、系統的に無関係とはいえない。

その大元となった新陰流、一刀流、新當流、念流、などの大本となった流派が無数に枝分かれし、それぞれが単独に時代に合わせて素肌剣法に変化した。

ところが、防具が発明されることにより、状況は大きく変わってくる。

試合形式の稽古が次第に盛んとなり、ついには幕末動乱期には主流を占めるにいたる。

当時、これは、「撃剣」と呼ばれていた。正にこの名が示すとおり、この言葉の意味は、剣を激しく打つということを示している。

この撃剣こそ今の剣道の大本であり、その本質は殆ど変わらない。

これは、大本となる古流派から、新しくスポーツとして派生したもので、次第にこちらの撃剣の方が主流となっていった。

つまり、今の剣道の源流は、幕末のころの「撃剣」であり、使う竹刀も、面、小手、胴などの防具はほとんど現在のものとかわらない。

明治になると、急速に、各流派の武道は時代錯誤のものとして顧みられなくなったが、それに危機感を抱いた直新影流の榊原鍵吉などが撃剣興業を行い、今の異種試合のようなことをやった。

この撃剣が、後世、警察や軍に採用され、学校教育にも取り入れられるにおよび、各古流派から独立して剣道として整備されたのである。

 

戦国時代( 5 / 11 )

介者剣法

介者剣法

 

戦国時代の合戦についていろいろ述べてきた。

過去、戦国時代にその起源をもつ流派はかなり現存している。

しかし、250年の太平の世を経、明治、大正、昭和と、時代の大きな変革のなかで、それらの諸流の古武道は、かなりその内容が変わってきている。
当時のメジャーな流派である柳生新陰流、小野派一刀流など、殆ど初期の形態は変化して、いまでは当時の姿を窺い知ることはできない。

その中で、比較的、当時の技法やコンセプトをよく残していると思われるものに天真正伝香取神道流がある。

介者剣法の特徴をよく残しているので、当時の剣法の雰囲気を感じ取る事ができると思う。

他の流派の様に大上段に振りかぶることはしない。

八相か左右の巻打ちを多用する。これは兜の立物が邪魔になって大上段には振りかぶれないからと、鎖や鉄板で防御されていない腕の内側を敵に曝さないようにするためである。

ご覧になればおわかりになると思うが実に様々な刀の使い方をしているし、その技法は精妙を極めている。
勿論、これらの形が、戦国時代そのものであるとは言わない。時代と共に変化した箇所も多いと思う。

しかし、当時の介者剣法を最も色濃く残している流派である。

このように古い流派には、この甲冑剣法を伝えるものがある。

もうひとつの例として、仙台藩に伝わった柳生心眼流という流派がある。
大別して二つの系統に分かれるが、以下に紹介するのは、仙台伊達家の足軽層を中心に広まったものである。

こういった形稽古をやる古い流派は、主たるものの他に外の物として、さまざまな技術が付随する。
当時の、武士の教養科目として様々な武器を扱えるようにしていたのである。

この仙台に伝わった柳生心眼流は、竹永隼人という人が、柳生宗矩に師事して、柳生心眼流を創始したと言われている。

ただ、この流派の主体は柔術である。珍しい振り拳による当て身や蹴りを中心とした独特の技術体系を持つ。
この技のなかで、甲冑組み討ちを彷彿とさせるものにむくりというものがある。
相手の腰からからだを回転させ、後ろに投げるものだが、これは明らかに甲冑捕りを想定しているもので、この流派の基本技である。

この、柳生心眼流は、柔術を主体とし、剣、槍、居合い、薙刀など、あらゆる武器を使う技術を温存している。
この平成の代で、当時の甲冑組み討ちや甲冑剣法の実態を知る上で極めて貴重な流派であるといえよう。

勿論、ここに伝えられた刀法が、戦国時代そのままのものであるとは言えない。
何しろ400年以上も昔のことだ。当時の技法そのままがそっくり残っていると考えるほうが無理がある。代を重ね、時代の変化とともに少しずつ変化したことは間違いがない。

しかし、その大本となる技法は温存されているし、この変化の度合いも、他の流派に比べて遙に小さなものであったことは、確かである。

戦国時代の剣法はどの様なものであったかを知る上で、極めて貴重な流派である。

戦国時代( 6 / 11 )

馬上太刀打ち戦について

馬上太刀打ち戦はなかったか

 

最近、多くの著書を出版されている、あるアマチュア歴史家がいる。
多くの本を出されているので、もはやアマチュアとは言えないだろう。

この人の本は実に説得力があり、私も愛読者の一人である。

理論的にも納得させられるものがあり、今までNHKの歴史番組に登場する御用学者や小説家のいい加減な言動に憤激を禁じえなかったが、このS氏の持論は実に論理的であり、読んでいていちいち胃の腑にすっきり収まるものがあった。

この人は、文献をとてもよく精緻に読み込まれていて、そのうえで過去の様々な固定概念を論破しておられる。ある意味で、戦国史の革命児といっても差し支えないと思う。

この様に、すばらしい著作を多く出されているS氏であるが、あまりに資料に拘泥するあまり、残されている遺物に対する思索が十分ではないと思う。

これは、氏に対する非難ではなく、助言であると思っていただきたい。

前にも書いたが、創生期の日本刀は、その形状からして、馬上から片手打ちに斬撃するするのに最適なように作られている。

その特徴は、柄の部分から湾曲がはじまり、切っ先から刀身の根本付近にかけてほぼまっすぐで反りはない。

これは、突くということも重視した造りではないか。

また、柄の部分が短く湾曲している事の意味は、この太刀の使い方について、あることを示唆するものである。

短く、湾曲した柄は、両手に持って振り回すことには適していない。これは明らかに片手打ちを想定して作られたものだ。

太刀を両手に持って正確な繰法を行うには、柄はまっすぐでなければならないし、ある程度の長さが必要である。

初期の太刀はこの部分が短い。つまり両手に持って使う場合には、前の右手と後ろの左手が触れあうほどに接近して持たなければならない。

これは、今の野球のバットやゴルフのクラブを持つような持ち方しかできないということだ。

野球のバットやゴルフクラブを振るのは、その先端の重さを利用して遠心力や重力を利用してふりまわす。

現在の剣道も、居合道もみなこの様な物理力を利用して剣を振っている。

ところが、刀の重量が増すと、この重力や遠心力を使って太刀を振るということができなくなる。

詳しい説明は別項に詳しく説明するが、後の南北朝によく使用された大太刀は、この柄の部分が極めて長く作られている。

これは、バットのようにして持ったのでは、振ることはおろか持ち上げ、構えることもできない。
大太刀は長い柄を利用して両手の間隔を広く持ち、腕だけで振るのではなく体を使って振らなければ到底うまく扱えるものいではない。

以上の理由により、創生期の日本刀は片手で扱えるものでなければならず、太刀を持つ右手の負担を減らす為に、先端を細くして軽量化を図ったことが想像できる。

また、馬上で使ったことが想定される根拠は、その形状にある。

徒武者が使ったものなら、その反りは不利となる。この時期の刀は柄の所から刀身の付け根にかけて大きく湾曲している。

後世の無反りの打刀と比べて見ればよくわかると思うが、同じように振ったばあい、無反りの刀が相手に届くとき、反りがあればまだ敵の体に届くには数センチの余裕がある。

つまり、無反りの刀ではすでに相手に届いて切り倒していても、この根本から大きく反りのある太刀ではまだ相手の体になんら損傷を与えていないことになる。

これは、徒立ちで戦う場合、決定的な弱点となる。

ところが、馬上で大きく振りかぶり、片手打ちの場合は、この様なデリケートな問題は存在しない。
むしろ、この湾曲した刀身のほうが片手で振り回すには振りやすいのである。

S氏は、専ら遠戦指向で、馬上太刀打ちは殆ど行われなかったと主張しておられるが、これは、文献資料の限界と思われる。

当時の武器、甲冑などの遺物をみれば、当然わかることであろう。惜しむらくは、刀剣、武器の専門家の意見を聞いていれば、もう少し違った結論に達したものであろう。

この点は残念でならない。

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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