武の歴史の誤りを糺す

戦国時代( 2 / 11 )

合戦の実像。黒沢映画について。

影武者

 

戦国時代の解釈は、時代と共に、変わってきている。また、新しい史料や遺跡の発掘などで、今までの固定概念がひっくり返ってしまうことも少なくない。

黒沢作品の「影武者」は、武田信玄の影武者という虚構を、壮大なスケールで描いた大作である。

映像的には文句の付けようがない。そして、様式美に徹した騎馬武者のシーンも、当時の実態とは大きくかけ離れて居るとはいえ、さすがと思わせるものがある。
また、時代考証も、相当凝っていて、登場人物の来ている甲冑などよく研究されているし、登場人物の姿や顔立ちも、当時の肖像画に実によく似ている。
本田平八郎など、あまりにも後世残る肖像画に似ているので思わず笑ってしまった。

この映画が公開されたのが昭和55年のことである。
当時、武田信玄麾下の武士団の特徴は騎馬隊であり、織田信長は鉄砲隊だとされていた。
そして長篠の合戦は、武田騎馬隊が馬防柵と織田の鉄砲三千丁の三段打ちに負けた新旧交代劇の典型として誰も疑うものはいなかった。

しかし、これはどう考えてもおかしい。例えば、鉄砲の発射速度は決まっている。鉄砲三千丁を三段に分けて、千丁ずつ撃っても単位時間あたりの発射彈数は変わらない。つまり、敵に浴びせる鉄砲玉は同じ、倒す敵の数は変わらないということなのだ。
こんな簡単な、誰が考えてもわかることが、何故、多くの専門家たちが気がつかなかったのだろう。
これが先入観の恐ろしさではないか。

また、武田の騎馬隊そのものが納得いかなかった。

当時の軍制は、前に書いたとおり、中心は、各郷村部に蟠踞していた土豪たちであり、彼らが家の子郎党を引き連れて国人領主のもとに集まり、それを戦国大名が率いて戦ったのだ。
だから、騎馬の上級武士だけを集めて騎馬隊を編成することなど当時の常識にはないことであった。武田の騎馬隊など、だれが言い出したのかしらないが、おおよそ昔の講談か講釈師がでっちあげたものだろうと思っていた。

ところが、近年、今まで正しいとされてきたことが間違いであることがはっきりしてきた。

特に、鈴木眞哉氏などが力説していることだが、実は、信長の鉄砲は三千丁もなかった。整然と鉄砲を三段に撃ち分けることは不可能であるし、危険ですらあると言うこと。
私が疑問を持っていた武田騎馬隊の存在も否定されている。

長篠の合戦の実態は馬防柵や鉄砲の三段打ちによる武田騎馬軍団の殲滅などという単純なものではなく、長篠城を含むスケールの大きな付城や陣城による攻城戦の色彩のつよいものであった。

そして、実際に勝負を決めたものは、単なる人数の寡多によるものであった。

これが長篠の合戦の真相である。

以上、のことを念頭に置いた上で、黒沢明の壮大な虚構の世界を楽しんでいただきたい。

戦国時代( 3 / 11 )

合戦の実像。黒沢映画について。

 

「影武者」の次に黒沢明が世に出した戦国絵巻が「乱」である。

この映画は、前作と違い、戦国時代を舞台にしているが、その中身はシェークスピアの「リア王」である。
イギリスの戯曲をそのまま当てはめたのだから、その設定のは相当無理があり、前作とは違って舞台演劇をそのまま映画でやったような不自然さが残る。

黒沢明という監督はよほど騎馬隊に思い入れがあるようで、この映画でも騎馬武者が駆け回るシーンばかりが目についた。

まえに書いたように、我が国の戦国時代には騎馬隊なるものは存在しなかった。

鈴木眞哉氏によると、当時の日本馬の平均は130cm前後、中世ヨーロッパの馬が155cmあったのに対し、一回りも二回りも小さかった。分類ではポニーに分けられるらしいが、当時の武者達はこの小さな馬に乗って戦っていた。

鈴木氏によると、この小さな馬では、重装備の鎧武者達を乗せて戦場を疾駆し、敵に突撃することは到底無理だと言っている。

ただ、鈴木氏のいう様に、全く鎧武者を乗せて突撃しなかったかといえばそうともいいきれまい。

なぜなら、平安、鎌倉期では、戦国期より遙に重い鎧を着け、馬で疾駆しながら弓を打ち合っていた。これを馳せ組みという。
柄は小さくとも、当時の日本馬は、重い鎧を着た武者を乗せて馳せ違い弓矢で打ち合うだけの強靱さをもっていた筈だ。

また、小さかったのは馬だけではない。それに乗る人間も小さかった。
戦国時代の甲冑を見ると、子供が着たのかと思うほど小さい。当時の平均身長は155cmを少し越える程度である。
問題はその身の丈もさることながら、体型は長胴短足である。

現代の競馬では、大きなサラブレッドに小さな騎手が蠅が止まったようにして走る。これは唯走るためだけなので何の問題もない。
しかし、戦闘は全く違う。鞍壺に立ち上がり、組み討ちや弓を射る。この短い足でしっかり下半身を安定させなければならない。
それには、サラブレッドのような大きな馬は向かない。
日本人の小さな体にあった小型の馬のほうが使い勝手がよい。
当時の日本馬が小さくとも強靱な体力を持ち、気性が荒い。これは我が馬を敵の馬に体当たりさせるのに適している。
この馬当てということも源平合戦以来、よく行われていたらしい。

以上から考えるに、騎馬武者が騎馬隊を組んで突撃することは無かったが、個別に、薙刀や槍を得物として騎乗して戦うこともあったのではないか。
この場合、家の子郎党等、徒武者が周りを固め、主人を守り、共に戦ったことは鎌倉の頃と変わらない。

いずれにせよ「影武者」「乱」のような、騎馬隊が駆け回るようなシーンは無かった。

 

 

 

戦国時代( 4 / 11 )

戦国時代の剣法

戦国時代の剣法

 

戦国時代、戦場では、専ら、甲冑の隙間を狙う、所謂、介者剣法を使った。

これは、現在の剣道とは全く別物であった。

殆どの日本人が信じている、「宮本武蔵や柳生十兵衛が剣道を使っていた」ということは全くの誤りである。

身構え、足の運び、刀の使い方、全てが違う。

確かに、系統的に無関係とはいえない。

その大元となった新陰流、一刀流、新當流、念流、などの大本となった流派が無数に枝分かれし、それぞれが単独に時代に合わせて素肌剣法に変化した。

ところが、防具が発明されることにより、状況は大きく変わってくる。

試合形式の稽古が次第に盛んとなり、ついには幕末動乱期には主流を占めるにいたる。

当時、これは、「撃剣」と呼ばれていた。正にこの名が示すとおり、この言葉の意味は、剣を激しく打つということを示している。

この撃剣こそ今の剣道の大本であり、その本質は殆ど変わらない。

これは、大本となる古流派から、新しくスポーツとして派生したもので、次第にこちらの撃剣の方が主流となっていった。

つまり、今の剣道の源流は、幕末のころの「撃剣」であり、使う竹刀も、面、小手、胴などの防具はほとんど現在のものとかわらない。

明治になると、急速に、各流派の武道は時代錯誤のものとして顧みられなくなったが、それに危機感を抱いた直新影流の榊原鍵吉などが撃剣興業を行い、今の異種試合のようなことをやった。

この撃剣が、後世、警察や軍に採用され、学校教育にも取り入れられるにおよび、各古流派から独立して剣道として整備されたのである。

 

戦国時代( 5 / 11 )

介者剣法

介者剣法

 

戦国時代の合戦についていろいろ述べてきた。

過去、戦国時代にその起源をもつ流派はかなり現存している。

しかし、250年の太平の世を経、明治、大正、昭和と、時代の大きな変革のなかで、それらの諸流の古武道は、かなりその内容が変わってきている。
当時のメジャーな流派である柳生新陰流、小野派一刀流など、殆ど初期の形態は変化して、いまでは当時の姿を窺い知ることはできない。

その中で、比較的、当時の技法やコンセプトをよく残していると思われるものに天真正伝香取神道流がある。

介者剣法の特徴をよく残しているので、当時の剣法の雰囲気を感じ取る事ができると思う。

他の流派の様に大上段に振りかぶることはしない。

八相か左右の巻打ちを多用する。これは兜の立物が邪魔になって大上段には振りかぶれないからと、鎖や鉄板で防御されていない腕の内側を敵に曝さないようにするためである。

ご覧になればおわかりになると思うが実に様々な刀の使い方をしているし、その技法は精妙を極めている。
勿論、これらの形が、戦国時代そのものであるとは言わない。時代と共に変化した箇所も多いと思う。

しかし、当時の介者剣法を最も色濃く残している流派である。

このように古い流派には、この甲冑剣法を伝えるものがある。

もうひとつの例として、仙台藩に伝わった柳生心眼流という流派がある。
大別して二つの系統に分かれるが、以下に紹介するのは、仙台伊達家の足軽層を中心に広まったものである。

こういった形稽古をやる古い流派は、主たるものの他に外の物として、さまざまな技術が付随する。
当時の、武士の教養科目として様々な武器を扱えるようにしていたのである。

この仙台に伝わった柳生心眼流は、竹永隼人という人が、柳生宗矩に師事して、柳生心眼流を創始したと言われている。

ただ、この流派の主体は柔術である。珍しい振り拳による当て身や蹴りを中心とした独特の技術体系を持つ。
この技のなかで、甲冑組み討ちを彷彿とさせるものにむくりというものがある。
相手の腰からからだを回転させ、後ろに投げるものだが、これは明らかに甲冑捕りを想定しているもので、この流派の基本技である。

この、柳生心眼流は、柔術を主体とし、剣、槍、居合い、薙刀など、あらゆる武器を使う技術を温存している。
この平成の代で、当時の甲冑組み討ちや甲冑剣法の実態を知る上で極めて貴重な流派であるといえよう。

勿論、ここに伝えられた刀法が、戦国時代そのままのものであるとは言えない。
何しろ400年以上も昔のことだ。当時の技法そのままがそっくり残っていると考えるほうが無理がある。代を重ね、時代の変化とともに少しずつ変化したことは間違いがない。

しかし、その大本となる技法は温存されているし、この変化の度合いも、他の流派に比べて遙に小さなものであったことは、確かである。

戦国時代の剣法はどの様なものであったかを知る上で、極めて貴重な流派である。

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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