武の歴史の誤りを糺す

平安、鎌倉時代( 3 / 6 )

鎧と弓矢

鎧と弓矢

 

平安後期に大鎧の形式が確立したことと、弓矢の威力が格段に進歩したことは、お互い無縁ではない。

矛盾の逸話にもあるとおり、この二者は相反する性格をもつ。

鎧の防御力が高くなれば、弓の方もさらに工夫を加えて威力を増そうとする。

弓矢の貫徹力が向上すれば、それを防ぐために鎧の方もさらに改良を重ねる。

実は、この平安後期に、弓の威力が増大している。

それまでは、単に、弾性の強い樹木を皮を剥いで造った木弓であった。一本の木から造る弓は、その威力を増すために勢い長大なものとならざるを得ない。日本の弓が、二メートル以上もの長さがあるのはその為である。中世では七尺五寸(2m27.3cm)が標準であった。

十二世紀頃に成立したのは、従来の木弓の外側に竹を膠で貼り付け、その上から糸でぎっちり巻き締めて上から漆をかける。さらに、その上に籐などを巻く。これを伏竹弓といい、軍記ものによく出てくる重籐の弓などはこの一種である。

このような木と竹の合成弓を合せ弓という。

又、当時の弓の強さを著すものに「二人張」「三人張」といった何人張りという言葉がある。

これは、何人かかってこの弓に弦を掛けるかということで、「三人張」は二人でこの弓を押し撓め、残りの一人が弦をかけるのである。

弦を掛けていない状態では、弓は外側に大きく湾曲している。それを二人がかりで反対方向に撓めて弦を張るのだからこれは相当な力がいる作業である。

このように、弓の威力が増したことにより、より防御力の強い鎧が求められたわけで、これが大鎧の防御力向上の大きな動機付けとなっている。

一般の鎧の小札は二目札が普通であるが、なかには三目札のものもあり、これだと、小札が三重に重なることになり、防御力は5割方増すことになる。

こうして、弓矢と鎧は、平安後期、源平争覇期に完成をみることとなる。

 


 

平安、鎌倉時代( 4 / 6 )

日本の武士が楯を持って戦わなかった理由

何故、日本の武士は楯を持って戦わなかったか。

 

世界では、戦闘に際し、楯を左手に持って敵の剣や槍を防ぎながら、こちらは剣や槍で相手を攻撃するのが大勢を占めていた。

その最も威力を発揮したものが古代ギリシャの重装歩兵(ホプライト)であろう。
彼らは、直径1mの円形の楯を持ち、横一列に並んで密集方陣を組んで戦った。武器は直径2~3cm、長さ2~3mの木の柄の両端に金属製の穂先が付いたものだった。
これは、投げるのではなく、敵を突き刺すもので、これを右手だけで操作した。左手はホプロンと呼ばれる丸楯を左肩と共に支えていた。
身につける鎧は、青銅製のクレストというたてがみ状の飾りの付いた兜、釣り鐘状の胸当て、臑当てという重装備であった。
この重装備のおかげでペルシャの大軍を撃退し、ギリシャ文化の黄金時代を迎えることとなる。
この場合、この重さ10kg近くある大きな楯は、敵の殆どの攻撃を跳ね返すことができた。

また、日本の武士とよく比較される西洋の騎士も、楯を左手に持って、敵の攻撃を防いでいる。
騎士の戦法は、左手に楯を持ち、長大な鍔の付いた槍を小脇に抱え、馬を疾駆させながらその勢いで相手を槍で突き倒すのである。この場合も、楯は相手の槍を跳ね返すために極めて重要な役割をになっている。

ハリウッド製の歴史活劇を見てわかるとおり、西洋や中東では、殆どの兵士は、楯と剣あるいは槍を持って戦っている。これが世界の趨勢であった。

ところが、我が国では、平安時代以降、殆ど手楯は使用されなかった。

これは何故なのか。

それは、武器は何を使ったかによって決まってくる。

西洋は、殆どが剣や槍を右手で操作して戦った。そのため左手で楯を持つことができた。

中世初期において、西洋の騎士も中東の兵士も、鎧は主に鎖鎧である。

鎖を編んだ鎧は、剣の斬撃には強いが、矢や槍の刺突にはからっきし弱かった。鋭い穂先が鎖の編み目を簡単に突き破るからである。

 それを防ぐ為に硬く詰め物をした胴着を来ていたが、それでも十分な防御とはいえなかった。唯一、有効な防御が可能なのは楯であったのである。

では、日本ではどうであったのか。

日本の武士は、本質は騎馬弓兵である。全てが矢戦の為に作られた。

弓を射るには、両手が必要である。楯を持つことはできない。馬上ではなおさらである。

木製の楯はあったが、とても大きくて手に持って戦うことなどできなかった。

その故、敵の矢を防ぐ為に大鎧では大袖が発達した。つまり、左手に楯を持ち、敵の矢を防ぐ代わりに、肩に袖を付け、それで敵の矢を防いだのである。

そして、矢戦の為には、鎧も鎖鎧ではなく、矢に強い小札鎧が発達したのである。

平安、鎌倉時代( 5 / 6 )

初期の日本刀

初期の日本刀の使い方

 

日本刀が完成される前、およそ平安期中期、毛抜型大刀というものがある。形状や作りはその後の大刀と変わらないが、大きく違う所は、柄が刀身と同じ共鉄で作られ、その形状が毛抜きの形に似ているから、この名がある。
形は柄の部分から湾曲し、この頃から湾刀化がはじまる。この大刀は中央の衞府官の大刀として採用されている。

その後、今で言う日本刀としての形が完成する。刀身は付け根の部分から湾曲し中程から先端にかけてはほぼ直線で、切っ先は細く鋭利である。
また、作りは鎬造りであるところは前の毛抜型大刀と同じであるが、最大の相違は、茎を木製の柄に差し込み、目釘で固定するようになっている点であろう。

この初期の太刀は、その形からして、どの様な使い方がされたかわかる。
まず、注目すべきは、その柄の長さと形状である。

この頃の太刀は、あまり柄の部分は長くない。しかもそりがある。

これは、何を意味するかというと、この太刀は片手で打つようにできている。勿論、両手に持って戦うこともできるが、柄自体に反りがあるということから、本来、片手で持って打つために作られていたということである。

このことを何より雄弁に物語るのは、切っ先が細かったという点である。
切っ先を細くすれば、それだけ片手で振ったとき遠心力が小さくなり、扱いが楽なものとなる。

そして、この太刀は、当時完成をみた大鎧を着た騎馬武者の腰に佩かれた事を考えると、当然、馬上からの斬撃に使われたものであろう。

馬上からの片手打ちに湾刀が向いていることは、騎馬民族の刀が、ほぼ例外なく湾刀であることを見てもわかる。

ただ、重い湾刀を片手で打ち下ろすということは、後世の戦国期のように、打刀を両手で持って、精妙無比な刀法などできるはずもなかった。

平安、鎌倉時代( 6 / 6 )

日本の鎧・その強靭さの秘密

 

 

日本の鎧は小札で構成されていることは以前説明したとおりである。

特に大鎧(きせながともいう)は、本来、矢に対する防禦を目的として作られている為、弓箭に対する防禦力は他国の鎧の比ではない。

日本の矢は長くて重い。それを2mを超す長大な弓で飛ばすのである。

破壊力は他国の弓矢を大きく凌駕している。

 

その強い貫徹力を持った矢を防ぐのである。

 

平安期の鎧は鉄札もあったが大部分は牛皮で出来ていた。

普通に考えると、牛皮で矢が防げるのだろうかという疑問が湧くであろう。

 

勿論、牛皮を裁断して小札を作り、漆を塗っただけではこの強靭さは得られない。

ユーチューブの動画で、牛皮で小札を作り、それに漆を塗っただけで矢を防ぐことが出来るという誤った説明をしていた。

 

確かに牛皮にはある程度矢を防ぐ能力はあるし、それに漆を塗ることでさらにその防禦力は増すであろう。

しかし、それだけでは当時の和弓から射込まれる矢を防ぐことはできない。

何故なら、ただなめしただけの何ら手を加えない牛皮では、漆を塗ったぐらいでは鋭い鏃に簡単に突き破られてしまう。

 

これには肝心なもの、皮を堅くする工程が抜けているのである。

その肝心なものとは一体何か。

それは膠(ニカワ)なのである。

膠で皮を堅くする工程が不可欠であり、これなくしてはまともな皮小札は存在し得ない。

 

以前説明したが、牛皮を膠の溶液に浸けて中まで膠が浸み透ったところで取り出し、鉄の槌で打ち延ばす。これを数枚重ねて打てば着いて一枚の板が出来上がる。

これを裁断して小札を作る。

 

このように、膠をしみ込ませた牛皮を槌で打つ事により皮の繊維をより緻密なものとし、それを膠で固めて数枚を接着する。

つまり、この工程が無ければ、唯の牛皮に漆を塗っただけでは鎧としての防禦力は得られない。

ただの牛の皮に漆を塗っただけの小札で作った鎧など、平安、鎌倉期の武者ならいとも容易く射抜いたはずだ。

 

つまり、日本の鎧をかくも堅牢無比なものと成し得たものは、実は膠の力なのである。

 

今年(2014年)2月にある民放で放映されたものに興味深い実験があった。

アメリカのウイスコンシン大学の教授が古代ギリシャの麻の鎧、リネンキュラッサと呼ばれるものの防禦力の実験である。

 

もともと、古代ギリシャの鎧は青銅製の極めて重量のあるものであった。

これに、青銅製の冑を被り、青銅の臑当てをつけ、直径1メートルもある丸楯を持ち、密集陣を組んで戦った。

あの有名なマラトンの戦いでペルシャの大軍を破ったのは、この堅牢無比の青銅の鎧の防禦力のおかげである。

 

しかし、この青銅の鎧は如何にいっても重い。

この重い鎧を着て、10kgもある楯を持って徒歩で突進するのである。

如何に体力があろうともこれは耐えがたい苦痛であったはずだ。

 

そこで、この最も重い胴鎧の軽量化が図られた。

胴体は大きな丸楯で守られているので、この部分は多少防禦力を犠牲にしても軽いほうがよい。

そうして工夫されたのが麻(リネン)で作られた鎧、リネンキュラッサである。

 

従来、この鎧は、着ないよりはましという程度にしか評価されていなかった。

しかし、鎧である以上、ある程度の効果はあるのではないか。

敵の武器が防げなければ鎧として役にたたない。

果たして、「着ないよりまし」といった程度の、形だけの鎧など、生死を分ける戦場に着てゆくものだろうか。

大いに疑問に思っていた。

そう思っていたところ、この放送を見てやはりそうかと合点がいった次第である。

 

説明によると、麻の布を兎の皮からとった接着剤で十二枚ほどはり重ねて鎧をつくる。

これを弓で射ると、鏃は裏まで突き抜けてはいない。

これでリネンキュラッサの鎧としての能力が証明されたことになる。

 

もとより、単に麻布を12枚重ねただけでは駄目である。

 

秘密はこの「兎の皮からとった接着材」である。

これは西洋で一般的に使われている兎膠。つまりまぎれもなく膠なのである。

日本の鎧は牛皮を膠で堅固に固めたもの。リネンキュラッサは麻の繊維を膠で固めたもの。

動物性と植物性の違いはあるが何れも緻密な繊維を二カワで強固に接着したものである。

 

つまり、日本の鎧、古代ギリシャのリネンキュラッサ、何れも膠の存在無しにはその優れた防禦力を得ることはできなかったのである。

 

このように、膠なくして我が国の甲冑は存在し得なかったことが御理解頂けたと思う。

 

現在、マスコミやネット上でも余りにいい加減な情報が氾濫している。

それをいちいち目くじらをたてて訂正するつもりはないが、この様な大切なことは気がついたそばから検証し、間違いがあれば訂正を加えてゆくつもりである。

 

 

 

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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