武の歴史の誤りを糺す

明治以降( 2 / 7 )

近代武道の夜明け・・・柔道

 

近代武道の夜明け・・・柔道

 

 徳川幕府が倒れ、明治の世となり、武士階級が没落すると、それまで武士の表芸とされていた武術各流派は、たちまち衰退していった。

 

そこに登場したのが嘉納治五郎の柔道である。

 

柔道という言葉は昔から柔術各流派で使われていることもあったが、名称として使ったのは嘉納治五郎の講道館柔道が初めである。

 

この明治15年に始められた講道館柔道は、何もないところから突然嘉納が作りだしたものではない。

 

もととなったのは天神真揚流、起倒流などの古流柔術で、これにレスリングの業なども加えられているという説もある。

嘉納の修行時代は東大の学生であった。インテリ中のインテリ、エリート中のエリートである。当然、外国の文献なども読みこなし、遠い外国の技なども研究することができたとしても不思議はない。

 

講道館柔道の画期的なところは、何と言っても、従来の古流柔術の形稽古を廃し、乱取り稽古を採用したことである。

また、危険な当身、関節技、締め技の内、危険なものを除き、安全性の高いものだけを残した。

これにより自由に試合を行えるようになり、多くの他流試合で勝ちを制することができたのである。

また、最大の特長は、この技自体が極めて科学的かつ合理的であったことであろう。

これは、人に説明し門弟を勧誘する場合、実に有利であった。

修行者はこの一つ一つの技の理屈を頭で理解し、充分納得のうえ稽古することができたからである。

 

当時の古流柔術の稽古は、理屈や理論はどうでもよかった。ただ師匠に教えられたとおりに稽古する。つまり、体で覚えなければならなかったから、どうしても完全に習得するまでには時間がかかった。

また、神仏に対する祈祷、真言、手印、座禅などの宗教がかったことや、急所や漢方医学なども含まれていたので、当時の文明開化の世にはとかく胡散臭いもの、古臭いものとして敬遠されがちであった。

 

嘉納の賢明なところは、こういった古流柔術の神秘的なところや、古臭いと思われるところは一切排除し、あくまでも科学的、理論的に技を組み立てていったことである。

そして、マンツーマンでしか教えることができなかった古流の形稽古をやめ、一度に何人でも稽古できる乱取り稽古を採用した。

 

このことは兎角見過ごされ勝ちであるが、極めて重要なことなのである。

一度に大勢の門弟に稽古をつけることができれば、門弟数は飛躍的に伸ばすことができる。

つまり、道場経営だけで十分食べていけるということなのだ。

ということは、整骨や鍼灸、その他の内職に頼らなくても、充分道場経営が成り立つわけである。

 

片や古流の方はそうはいかない。多くの柔術家たちは生活の為に他に職業をもたなければならなかった。

当然、稽古時間も少なくなるし、旧態依然とした形稽古では門弟数も進歩の度合も制限されてくる。

これでは全てにおいて科学的、理論的かつ効率のよい近代的な柔道に敵うわけがない。

 

多くの柔術対講道館柔道の試合において、柔術が柔道に後れをとったのはこういったわけである。

また、古流は最大の武器である当身や締め、関節技などを封じられていたし、慣れない試合である。

それに対し、柔道は試合そのものの乱取り稽古を行っている。つまり、日頃の稽古の通りの試合をやればよかった。

このハンデは今、後世考える以上におおきかったのではなかろうか。

 

今に見るがごとく、設立以来急激に講道館柔道が発展し、現在はオリンピックの教義に選ばれるほど世界中に広まったのは何故か。

それは、その技術体系が極めて合理的、科学的で近代的で理に叶ったものであり、当時の世情にぴったりあったことと、優れた弟子に恵まれたことであろう。

 

姿三四郎のモデルである西郷四郎、小説「姿三四郎」を書いた富田常雄の父である富田常次郎、横山作次郎、山下義韶の四天王である。

 

柔道は明治19年の警視庁武術大会で西郷四郎が戸塚揚心流を破り、警視庁に採用された。

 

こうして嘉納治五郎の講道館柔道は以後順調に発展し、警察や軍隊で採用され、それまで何とか命脈を保ってきた柔術諸流にとって代わったのである。

 

なお、嘉納の習得した古流柔術の形は、古式の形として今に伝えられている。

 

 

 

 

明治以降( 3 / 7 )

 

嘉納治五郎の柔道 ・・・乱捕り稽古について。

 

 

嘉納治五郎の講道館柔道は瞬く間に、旧来の柔術諸流を抑えて警視庁に採用され、近代武道として大きく飛躍していった。

 

その成功の要因のひとつとして、乱捕り稽古をあげた。

しかし、古流の柔術諸流はどうであったのだろう。

 

実は、当時、乱捕り稽古は古流柔術でもかなり行われていた。

 

幕末には、剣術とともに柔術も盛んに行われていた。

最初のころの乱捕り稽古は、形稽古の欠点を補うものであったと思われる。

つまり、形ばかり覚えても、実際に使えるかどうかはわからない。

そこで、ある程度、形を覚えた段階で、それを実際に試合形式で試してみる。

これはかなりの流派で行われていたようだ。

 

ところが、そのころ、剣術は打ち込み稽古が主流となり、その為に流派の垣根が取り払われて盛んに他流試合が行われるようになっていた。

これは、おもに、鉄面、竹具足、竹刀の採用により、安全に試合ができるようになったことが最大の要因である。

 

柔術においても、その頃の剣術、撃剣の隆盛を見て、それに影響されたことは間違いない。

当然、柔術も撃剣の試合と同じように他流試合も行われるようになった。

 

しかし、撃剣は防具と竹刀の採用で、安全に試合をすることができた。

 

ところが、柔術では様子がちがう。

試合でとことんやれば、骨折、脱臼、肉離れ、当て身や締めによる失神は避けてとおれない。

事実、幕末から明治にかけての柔術の試合は、相当荒っぽいものであったようだ。

とにかく、投げ倒されるか締めおとされ、当て落とされるか降参するまで続けられた。

それ故、柔術には必ず活法が付随している。

弟子が試合で締め落とされるか当て身をくらった場合、師匠が出て行ってすかさず活を入れる。

骨折など日常茶飯事であり、時には死人がでることも珍しくなかった。

 

鬼横山と異名をとった講道館四天王の一人、横山作次郎の談話にも、試合に出かけるときには両親に今生の別れを告げて出かけたとある。

私も、昔、師匠から同様の話を聞いた記憶がある。

 

実は、嘉納が学んだ天神真揚流も起倒流も、この乱捕り稽古法を取り入れており、試合も盛んに行われていたようだ。

 

このように、嘉納の柔道の特色である乱捕り稽古は、何にもないところから彼が作りだしたものでも、創案でもなかった。柔道の基礎となった両古流の乱捕り稽古を整理改良し発展させたものであった。

 

実際問題として、古流の形稽古からは直接乱取り稽古や試合は発生しにくいものであった。

何故ならば、形稽古の形は、原則として、相手が仕掛けて来て始めて成立する技なのである。

つまり、敵が、襟や帯を掴んできたとき、突いて来た時、殴りかかってき、或いは首を絞めに来たとき、これに応じて技を掛けて、これを倒す、或いは締め、当て落とす。

このように、双方が相手がかかつてくるのを待っていたのではいつまでたっても試合が成立しない。

故に、乱捕り稽古を採用している流派では、旧来の形とは別に、乱捕り用の技が用意されていたようである。

例えば、天神真揚流では、本来の形稽古用の形の他に、十二種の乱捕業が存在していた。

 

このように、嘉納治五郎は天神真揚流と起倒流の乱捕業をもとに、研究を重ね、現在の柔道を作り出したのである。

 

 

 

明治以降( 4 / 7 )

 

柔道の名前。嘉納治五郎の意図

 

 

柔道という名前を嘉納治五郎が使用したのは彼が初めてではない。

 

柔道の名称は江戸期において、ほぼ柔術と同意義で使われていたことがあったようだ。

 

柔術流派ではっきり柔道の名前が使われているのは、「直心流」である。

 

この流派は、陳元贇に教えを受けたとされる福野七郎右衛門の門人、寺田平左衛門より始まる。これを号して「直心流柔道」とした。

 

嘉納の学んだ起倒流は、この寺田平左衛門の弟子、寺田勘右衛門が起倒流と称したものであり、当然、嘉納も起倒流を学んだときに、この柔道の名前の由来を知っていたと思われる。

また、この柔道の名前は幕末のころにはすでに柔術の意で使われることがあったようである。

 

昔、私も、天神真楊流の文書にこの柔道の名が使われていたように記憶している。

 

実は、嘉納治五郎が自分の嘉納流柔術とも称すべきものを柔道としたのは、単に今まで柔術という名前の代わりに使われる事があった柔道という名前を採用したにすぎないのである。

 

嘉納は自分の習得した天神真楊流と起倒流に自分も工夫を加え、新しく作りだした技に、旧態依然とした柔術の名前を付けたくなかったのであろう。

 

そこで、起倒流や、その他の流派でも使われることがあった柔道という名を使ったと思われる。

この事は、嘉納自身が己が工夫した技法への絶対的な自信を表すとともに、古流柔術諸流との差別化を意図したものといえよう。

 

本来、柔術は、元は甲冑組打ちに始まり、徳川の太平期に様々な技に変化して多くの流派が生まれた。

そして、そのれらは徒手空拳にて敵が如何なる武器を持ってしても制圧できる技術を持っているが故、危険な技も多く、死傷者が絶えなかった。

 

そこで、嘉納は、それらの危険な技を排除し、試合に有利な技を工夫して残し、稽古法も従来の形稽古を改めて、主に乱捕り稽古を主体とした。

 

嘉納の頭の中では、そういった、相手を投げ殺し、締め、当て落とし、逆関節を決めるなどの荒々しく危険な技を持っていた古流柔術から脱皮して、競技スポーツとしての柔道を当時の明治の世にアピールしたかったのに違いない。

 

明治は、もはや武士の世ではなく、武士の教養科目である柔術はその意義を失っていた。

 

そして、世は文明開化の時代である。この時代に生きてゆくには、武術である柔術の代わりに、万人に受け入れられる新しい武道が必要とされた。

 

その時代の要求に応じて生み出されたのが講道館柔道である。

 

 

 

 

明治以降( 5 / 7 )

やわら

柔術・・・やわら

 

今、「やわら」といえば殆どの日本人が柔道の事と思っている。

 

しかし、「やわら」は本来、柔術のことであり、おおよその意は相手に従う、または柔らかであることにより勝利を得る術であると嘉納治五郎本人が言っている。

 

よく言われることに「柔よく剛を制す」ということがある。

これは読んで字のごとく、つよいあるいはこわいものを柔軟なものが制するという意味で

決して弱いものが強いものを制するということではない。

これは言葉の矛盾があり、強いものを制すればもはや弱い者ではあり得ないからである。

 

前にも書いたことであるが、「武芸小伝」の記述にある「相手に従うことにより勝利を得る術」は紛れも無く柔術のことである。

「柔術」は他にも、組討、捕手、捕縛、和術とも呼ばれ、「やわら」は、柔、和、俰、拳などの字にもあてられていた。

 

組討は戦国以前の鎧組討の技法から出たものであり、捕手、捕縛は、犯人を捕まえ捕縛する為の技術、和術は読んで字の如く相手の攻撃に逆らわず、和して勝つことを意味している。

柔術には様々な技法が含まれており、十手やなえし、または棒や杖などを使い、あるいは素手で犯罪人を捕まえ、縄をかけて捕縛する技は、当時の警察官の役であった奉行所の役人により使われた。

古流柔術には、これらの技法や縄の掛け方、縛り方なども含まれていたるのである。

 

又、柔、和の字は、柔らかく相手の攻撃に和して勝ちを制する意味である。

これは剛に対する柔であり、決して力には力を持って対処するのではない。

柔術つまりやわらの術なのである。

 

柔よく剛を制するということは、現代の格闘技や柔道を見なれた人にとっては一見不思議な技のように見える。

特に、オリンピック種目にもなった柔道は、体重によってその対戦相手が決められ、ほぼ同じような体格のもの同士が勝負を競う。

従って、小兵が大男を投げ飛ばすことはないし、今の試合を見ていると技というよりほとんど体力勝負のようなところがあり、柔道着を着てやるレスリングと言ってもよい。

 

技にしても力技であるので、体の大きさと体力で勝負が決まってしまう。

だから、体重により試合相手を分けているのである。

つまり、今の柔道は柔道にあらずして剛道とでも称すべきもので、選手はひたすら筋肉トレーニングに励み、力をつけようとする。

 

このような現代の柔道を見ていると、柔よく剛を制することなどまず不可能である。

この体力勝負の柔道しか知らない現代人にとって「柔よく剛を制す」などおよそ理解出来ることではないであろう。

おそらく、そんなことが出来るものかと誰もが考えるに違いない。

 

しかし、このこと、つまり「やわら」の柔よく剛を制すということは、つい明治のころまでは当り前のことであったのである。

柔道の黎明期、姿三四郎のモデルでもある西郷四郎が明治十九年二月、警視庁に於いて戸塚派揚心流の好地園太郎と試合をした時の様子が、西郷と同じ講道館四天王である山下義韶の手記に残されている。

西郷は身長五尺一寸、体重十四貫。これに対し好地は五尺七寸、体重二十三貫と言われていた。身長比18cm、体重差32kgこれでは勝負にならないと誰もが思ったことであろう。

しかし、この手記によると小兵の西郷が始終、大男の好地を圧倒して投げまくった様子が描かれている。

身びいきや後年の話の多少の脚色を差っ引いても、終始、西郷が好地を圧倒して勝ちを修めたことは間違いない。

これはほんの一例であるが、当時は小男が大男を投げ飛ばしたり、小柄な柔術家が大きな相撲取りを投げた話などそう珍しくはなかった。

 

何故なら、柔術とは本来そういうものであるからである。と、そう言ってしまえば身も蓋も無いが。

 

では、何故、ということになる。

 

本来、柔術は戦場の組み討ち技からきている。

戦場において、体の大きさや体重、力などが勝負を決する場合も多かったと思われるが、反面、力だけではどうにもならない場合もあった。

重量に於いても、鎧冑を付け、太刀を穿くと少なくとも20~30kgになる。

もし、体重が70kgとしても実際の重さは90~100kgになり、この重量を体重50kgの当時の平均的な武者が、力技だけで倒すことは至って困難である。

そこで、体格や力には関係なく、敵を組み討ちで倒す様々な技術が考案された。

極めて古い竹内流などにその技法は温存されている。

 

それに続く江戸の太平の世には、甲冑を着けない素肌のやわらとして、更にその技術は、より洗練され、高度なものとなったのである。

 

では、何故、力や体力に劣る小兵の人間が力も体格も勝る大男を制圧できるのか。

 

まず、至極単純なことであるが、敵の弱点を突くということである。

その第一には、鍛えられない場所、目とか金的である。眼つぶしを食らわせ、金的を蹴る。

その他の急所に当て身や蹴りを入れる。

この、当て身や蹴りは空手のように敵を壊すのが目的ではないから薪藁を突いて拳を鍛えることはない。

この場合、正確に急所に当て落とすには力はあまり関係ない。純粋に技術の問題であるから稽古を積めば女子供でもこれはできる。

この当て身や蹴りの稽古は、拳や足を鍛えることが目的ではなく、正確に急所をあて、敵を昏倒させるためのコツを習得するためにやるのである。

 

もうひとつの技は、敵の関節を決め、締め落とすことである。

どんな大男でも、関節は弱点となり、これの逆をとり、押さえつけ、或いは投げることは比較的多くの流派で行われていた。

小手返しや関節技を利用して投げる技を多用するのは、現代では合氣道があるが、おおよそこれに似たものと思って頂ければよろしい。

又、大男を倒すには締めも有効である。

古流柔術には様々な締め技があり、これもうまく決まれば一瞬で締め落とすことができる。

当て身や締めで落とした相手は、そのまま放置するわけにもいかないから活をいれて蘇生させなければいけない。その為に活法も学ぶのである。

 

最後に投げ技である。

これこそ、柔術の醍醐味、やわらの妙と言えるもので、敵の動きに逆らわず、相手の動きに合わせて(合気)、 柔らかく(やわら)制するのである。

例えば、敵がこちらの襟首を掴み押してきた場合、その押されるままに身を引きながら開いて、敵が体勢を崩したときを見計らって投げればどんな敵も投げることができる。

この時、こちらも力で対抗すれば、体力に勝る相手に敵う訳がない。

敵が押して来る力に合わせてこちらも柔軟に受け流し、相手の押して来る力を利用して投げる。

この時、あくまでも体を柔軟に、動きもやわらかなものでなければ、敵の押して来る調子に微妙にうまく合わせることが出来ない。

これが「やわら」の意味である。

 

このように、相手の力を利用して制圧する様々な技が柔術そのものなのであるが、これらの技は極めて高度な技術と熟練を要するので短期間に習得するのは難しい。

 

そして、完璧にこの技術を習得するには、形稽古を繰り返し繰り返し行い、無意識のうちにでもこの技を掛けられるようにならなければならない。

 

多くの柔術流派で共通することは、決して力に頼ってはいけないということである。

力に頼ればどうしてもこの高度な技術の習得が疎かになり、技の未熟さを力で誤魔化すこととなる。

そうすれば、いつまでたってもこのやわらの技術を習得することが出来ない為、「柔よく剛を制す」ことにはならないからである。

 

 

甲斐 喜三郎
作家:甲斐喜三郎
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